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ソース1
明治新政府は会津戦争における戦死者の埋葬をなかなか許可せず、
長期間に渡って戦死者の死体を放置させるといった冷酷な弾圧が
続いた。西南戦争では、多くの旧会津藩士が新政府軍に参加した。
薩摩への敵愾心がぬきんでて強かったために他地域出身者より使いや
すかったのだという。
長州藩兵、薩摩藩兵が会津若松城下で略奪や虐殺行為を行った。
会津藩兵の死体から陰部を切り取って口に含ませ放置したり、
薩摩藩兵が食人行為を行ったという記録まである。その凄惨さは、
新政府軍側の土佐藩兵や従軍僧侶が日記に批判的に書き記すほどで
あった。これらの非人道的行為に対する民衆の恨みは後世まで引き
継がれ、さらに、山県有朋を筆頭に、長州閥が明治期を通じて会津
出身者を『朝敵風情が』と見下し、学問や官僚の世界に進んだ会津藩
出身者の登用について、ことごとく妨害工作を行った。
こうしたこともあって、未だに会津の人々には山口県人、鹿児島県
人に対するわだかまりの念があるという。会津若松市内の旅館では
、山口県人や鹿児島県人の観光客に対して宿泊拒否をするところが
最近まであったという。会津の人が山口県人や鹿児島県人と結婚すること
に反対する風潮は現在でもあるという。1986年には長州藩のお膝元で
ある山口県萩市が会津若松市に対して、会津戦争の和解と友好都市
締結を申し入れたが、会津若松市側はこれを断った。2006年現在で
も、市民にとって単に『戦争』と言えば太平洋戦争ではなく会津戦争
を指すことが多く、特に高年層ほどその傾向は高い。