06/11/15 15:54:39
>>160
家光側室の宝樹院お楽の方は、子の家綱と共に、大奥→二の丸→西の丸→大奥と移ったようだね。
綱吉以前は制度が整っていなくて、又将軍個人の恣意がまかり通ったので、云わば例外じゃないかな。
家斉側室の香琳院お楽の方は、御中臈上座→御年寄上座→御内証の御方(お万の方)同格と出世。
お楽が子の家慶と共に西の丸居住というのは、『幕府祚胤伝』のお楽の死亡記事からかな?
難文だけど、お楽は家斉に仕えて大奥居住・療養所で没・西の丸に遺骸移動、だと自分は思うな。
この時点で既に元服妻帯している、家慶が喪主に立つために、西の丸で通夜を執行したのだろう。