家康を再認識するスレ【やっぱりすごいかも】at HISTORY
家康を再認識するスレ【やっぱりすごいかも】 - 暇つぶし2ch359:日本@名無史さん
06/10/21 12:52:27
>>355
秀長はともかく
隆景は三成に加担する義理も無いから内通して御家安泰を企む可能性が高い
中国大返しの隆景と関ヶ原の広家は末路が違うだけでやってることは同じ
利家は牽制役には使えるが家康を打倒できるほどではないし
現に利家在命中にもためらいなく天下取りの下準備をしていた
さっさと病死したから見苦しいところを見せずに評価を落とさなかっただけだろう

360:日本@名無史さん
06/10/21 22:33:54
>>357
実際その「待つ」過程も決して楽なもんじゃなかったしな。
織田との同盟時は主従の関係に近い犬馬の労を厭わず、
睨まれたときは息子の首すら差し出してるし。
秀吉に臣従した際も、実力で手に入れた遠駿三の領地から
江戸の田舎への国替えを受け入れてる。
結果生き延びたものの、実際その時その時まさに「死地」
だったろうな。


361:日本@名無史さん
06/10/21 23:58:18
うーむ、すごい人生だ。
ある意味信長より身内の血で血塗られた天下人ではあるな。

362:日本@名無史さん
06/10/22 03:48:25
>>359
しかし、利家のほうが家康より長命なら天下は取れなかった。
秀吉亡き後、何回か家康を抹殺する機会がありながら出来なかったのは
病で気力が衰えていたからだろう(秀頼の後見役なので立場は家康より優位)。

もし隆景が存命なら関ヶ原のような事態さえ発生せず、
いわゆる集団指導体制が続き徳川の天下はなかっただろう。
輝元+吉川広家では家康の専横を抑えられないが、隆景なら重みが違う。
それでも関ヶ原のような事態が発生したら、大阪城で秀頼を手中にし、
しかも、家康に対抗できる声望があるので西軍につく武将も多く、
天下が狙えたかもしれない。(もちろん金吾の裏切りもない)


363:日本@名無史さん
06/10/22 09:14:36
まあ、そのじいさん達が死んだら近い内に豊臣は分裂を始めたろうね。
バブルはいつまでも続かないもんさ。見た目は強大でも構成はボロボロ。

毛利だってもともと豊臣の家臣では無いが家康に対抗するために担ぎ出されただけ
だろうし、命をかける義理はないからあんな感じだったんだよ。

364:日本@名無史さん
06/10/22 12:50:08
秀吉に頼れる一門衆や譜代がしっかりと居ればまた話は別だったろうけどねえ…

365:日本@名無史さん
06/10/24 22:21:28
家康がすごくないとしたら、同時代の誰がすごいんだ?


366:日本@名無史さん
06/10/24 23:01:06
今川氏真の蹴鞠がすごい

367:日本@名無史さん
06/10/26 15:51:45
当代記という史料によると、三方ヶ原戦では実は家康は信玄を見逃して持久戦することを決意してたらしい
ところが信玄軍を監視させていた物見が敵に石を投げて挑発しているうちになし崩しに戦闘になり、慌てて出て行ったら大負けしたと……
負けを承知で飛び出していった、という「武士らしい」話は家康を英雄に仕立てるための作り話?

368:日本@名無史さん
06/10/26 23:04:22
武士らしいかもしれんが、大将としては最悪だな。

369:日本@名無史さん
06/10/27 00:18:04
「あの」信玄に立ち向かったと言うんで武将としての評価は高まったようだが

370:日本@名無史さん
06/10/27 01:02:17
まあ、最初から勝ち目のある戦ではないからな。
あの今川ですら信玄には情報が筒抜けだったらしいし、織田を潰せば家康は
屈すると考えたんだろ。

371:日本@名無史さん
06/10/27 01:10:18
>>365
秀吉しかいないよな。
徒手空拳で天下人になったというのは空前絶後だ。
明智(11日間天下人)や家康は当時は落ちぶれていたとはいえ
領主層に属していたが、秀吉はまったく違う。

372:日本@名無史さん
06/10/27 02:19:56
50才頃に14才を側室にしたロリ変態親父なんでしょ

373:日本@名無史さん
06/10/27 03:43:00
>>372
ねね様だって結婚当時それくらいの歳じゃなかったっけ?
うらやま(゚η゚)

374:日本@名無史さん
06/10/27 10:19:32
秀吉って肖像画を見ると白人みたいな顔してるよな。ロシアのプーチン大統領を日本に閉じ込めて30年くらいしたらあんな顔になるのでわ?

375:日本@名無史さん
06/10/27 10:38:41
逆にぶくぶく太りそうだぞw

376:日本@名無史さん
06/10/27 11:26:58
権力者に側室を上げるのは名誉って時代だからなんとも…
秀次事件みたいに酷いとばっちりの原因になることがあるからなぁ
そう言う意味では権門からの側室迎えるのをほとんどしなかった家康は変わってるかも

377:日本@名無史さん
06/10/27 12:00:38
信長の側室は三人だけだっけ?
信長にもっとも愛されていたとされ、嫡子を産んだこともあり正室並の扱いを受けていた生駒氏
近江土豪の娘の鍋氏
あと坂氏(身分の低い女性だったとされる)
秀吉はもとより、家康にも負けて(?)るな

378:日本@名無史さん
06/10/27 16:57:41
>>377
お蘭がおるよ

379:日本@名無史さん
06/10/27 22:36:16
>>371
つーか家康の場合むしろなまじ属していただけにヤバかった
ともいえる。
なんも持ってないやつの命をあえて取ろうとする奴はいないって
意味では、あの時代の弱小領主ほどやりにくいものはない。
特に家康の場合、今川の人質→織田との同盟→秀吉への従属と
人生の大部分を「自分以外の人間の胸先三寸で首が飛ぶ」
ところで生きてるわけで。
確かに家康が秀吉の立場では上手く行かなかっただろうが、
逆もまた然りだろうな。


380:日本@名無史さん
06/10/27 22:50:32
実際自分の息子の首が飛んだわけだしな
家臣とかもつまらん理由で殺されているし何時裏切られるかもわからない。
戦場に出さる時は最前線。 ・・・いやいや大変だ。

381:日本@名無史さん
06/10/29 02:43:25
腐った正室、築山御前。

382:日本@名無史さん
06/11/04 11:26:42
ずっとNo.2だった家康が、秀吉が死んでNo.1になれそうだった時、
あえて秀吉の遺命に背いて諸将の反応を試した時期がある。

No.2時代の経験をNo.1になってからも活かせるのはすごいと思う。
秀吉はNo.1になってから判断ミスだらけ。

383:日本@名無史さん
06/11/07 21:36:22
>>381
つ旭姫

384:日本@名無史さん
06/11/07 22:02:34
三河武士ってどうよ?

385:日本@名無史さん
06/11/09 14:25:42
譜代の三河武士は忠誠心が厚い。つか厚すぎる
宗教絡み以外では家康を裏切ったのって石川数正ぐらいでしょ
天下を取っても家康の子などは何十万石の大封なのに、自分達は最功臣でもせいぜい10万石程度
そんな冷遇でも満足するんだから

386:日本@名無史さん
06/11/09 14:42:03
思い込みとは妄想の世界

387:日本@名無史さん
06/11/09 15:36:26
>>385
三河武士が忠誠心篤いという説は、家康家臣からきている部分大だろう
家康自身のキャラが妙に説得力あったということ
普通に言えば人格者だった

388:日本@名無史さん
06/11/09 15:44:34
>>382
試したって?

389:日本@名無史さん
06/11/09 16:21:22
三河武士は犬、と揶揄されるような連中だからな
でも結果的に家康を守り立てたのは正解だったわけで

390:日本@名無史さん
06/11/09 21:25:33
三河武士の家族的団結が強すぎて、天下人になってから
身分の違いが認識できない彦左衛門みたいなのに手を焼いた

391:日本@名無史さん
06/11/10 00:24:27
>>388
家康の専横に対して追従する奴、黙認する奴、拒絶する奴

それで関ヶ原のような事態になったとき、どう行動するかが見当つく

392:日本@名無史さん
06/11/10 02:04:38
織田→エンジントラブルでリタイア
豊臣→ピットでミス
徳川→後続押さえとけば優勝



393:日本@名無史さん
06/11/10 04:49:06
>>389-390
たまに狂犬(水野勝成)とか牛(井伊直政・直孝)も混ざってたけどな。
でも、忠犬とか呼ばれる奴等よりも、はるかにそいつらのほうがその後の三百年を上手く世渡りしてるけどな。

酒井・本多・榊原は転封されまくったというのに…。

394:日本@名無史さん
06/11/10 10:03:22
井伊は三河武士ではありませんが。

395:日本@名無史さん
06/11/10 18:51:52
姻戚の水野勝成を同列に入れるのはいかがなものか

396:日本@名無史さん
06/11/10 20:43:59
良く家康はケチ、といわれるが本当にそうだろうか。秀吉の譜代格大名の
筆頭は蜂須賀氏だが、阿波一国。その他の子飼いも多くて10から20万石の
間で落ち着いている。家康の家臣団も大体10万石前後。

秀吉の場合、家康に関東を与えたり、有力大名の家老に大封を与えたり
しているから気前が良く見えるのかもしれないが、これらは外様の弱体化
や政権運営のための手であり、別に本人の好悪によるものではない。

397:OPS
06/11/10 21:39:21
三河武士というのがわからない方は岡崎城に行ってみたほうがいいと思います。

398:日本@名無史さん
06/11/10 21:59:02
>>396
加藤清正や福島正則とか浅野は蜂須賀より多いだろう
彼らは譜代というより親藩かもしれないが

399:日本@名無史さん
06/11/11 22:41:51
服部半蔵正成は三河武士に入れていいんだよね?

400:OPS
06/11/11 22:56:56
>>399
出身が三河もしくわ伊賀ということになっています。

401:日本@名無史さん
06/11/24 23:20:04
>>393
四天王の酒井は庄内藩から動きませんでしたが。
遅レスで保守だ。

402:日本@名無史さん
06/11/26 23:10:55
【大阪】「格差社会は家康が悪い」…世間の好ましからざる出来事をすべて徳川家康(東京)のせいにして論じる座談会、20年ぶり復活
スレリンク(newsplus板)l50

403:日本@名無史さん
06/11/27 05:01:45
>>401
四天王とは別格の雅樂頭系酒井家も本家が前橋→姫路、分家(忠利系)が川越→小浜と結構引越しとは縁が薄いみ
たいですね。

404:日本@名無史さん
06/11/28 23:57:45
>>401
藤沢周平サマサマ

405:↑
06/11/29 12:49:28
禿バカ

406:日本@名無史さん
06/12/11 13:27:13
60才過ぎて4人の子女に恵まれ、早世したのは女の子1人。
残りの男子3人はそれぞれ御三家の祖となったのだからすげえよ。
信長や秀吉とはこういう面でも違っている。
一番最初に死んだ義直ですら52才だもんな。

407:日本@名無史さん
06/12/16 00:09:32
秀吉はともかく、信長は割りと一門に恵まれてたし、御家争い対策も
してたと思うけど。本人と跡継ぎが同時に死亡とかいう不測の事態が
起こったから混乱しただけで。

408:日本@名無史さん
06/12/16 09:41:50
こんなスレあったんすか。

勝海舟が、「家康は万一徳川が潰れる時には一気に潰れるように、
わざと天領を全国に分散させておいたのだ。
もし内戦状態が何十年も続き、幕府が外国から借金まみれになって潰れたら
日本は西洋人の植民地になっていただろう。
明治の日本があるのは家康のおかげだ」
って言っていたな。
まあホラ吹きじじいの言うことだからあまりあてにはならんが、
確かに幕府が簡単に潰れてくれたおかげで、(清国とかとは違い)
飛躍的な近代化をなし遂げた、というのは事実。

409:日本@名無史さん
06/12/16 10:56:04
>>408
>家康は万一徳川が潰れる時には一気に潰れるように、
>わざと天領を全国に分散させておいたのだ。

分散してたら一気に潰せないだろ。本当に海舟が言っていたのか?
どう考えても分散は各地で反乱があった時のための押さえだろ。
意味不明な分析だな。

410:日本@名無史さん
06/12/16 11:29:46
天領を分散させたのは徳川の威光を全国津々浦々に浸透させるためだったんだろうが
確かに一箇所にまとまっているよりは潰れやすそうだな

411:日本@名無史さん
06/12/17 23:35:38
>>409
天領自体は多いのだが、分散させることによって、
反乱時に地方から江戸へのの交通が遮断されると
一気に手足をもぎとられる。

まあこの見方に賛成するか否かは自由だが、
いずれにせよ確か氷川清話の中で、勝海舟はそう言っている。

412:日本@名無史さん
06/12/18 15:14:06
天領は江戸や大坂の周辺にまとめれば便利だったろうにな。
農作物の不作を分散させる意味もあったかもしれない。

413:日本@名無史さん
06/12/18 15:38:21
家康で見逃してはならない点は、戦国時代の武将にしては
意外に学があったということ、あるいは学問好き、古典などから
学ぶ力があったということ、これは今川の人質時代に基礎学問を
習っていたせいだろう 無学な武将も多かった時代に知識人としての
側面も持ち合わせていたのだろう だから天海などの話を理解する
能力があった ある面、学びの天才といえるかもしれない

414:日本@名無史さん
06/12/19 20:55:23
>>412
後年になってそれやろうとした水野忠邦は失敗して失脚したしな

415:日本@名無史さん
06/12/20 08:48:13
確かに明治維新が長引いて、
太平天国みたいな泥沼状態になっていたら
日本は清と同様(というかそれ以上に)
列強に侵略されまくっていただろうな・・・

416:日本@名無史さん
06/12/23 07:06:41
>>413
>戦国時代の武将にしては 意外に学があった
>無学な武将も多かった時代
何か戦国時代に対する大きな誤解を抱いているようだな。

417:日本@名無史さん
06/12/24 00:29:31
武田信玄みたいな名門の出にはインテリもいただろうが
まあ確かに、無学な武将も多かったことだろう。

しかし無学DQNの代表であるT臣H吉でさえ、
茶道を愛好する風流な面を持つ(と自称していた)ところをみると
やはり基本的には、
戦国武将は高い教養を持つべきものと考えられていたはず。

418:日本@名無史さん
06/12/24 00:38:53
戦国武将中の一番のインテリはやはり細川幽齋だろうね。
これは武将という域ではなく、この時代きっての知識人。

それに次いで信玄とか安国寺恵瓊とか荒木村重とか、
インテリはたくさんいる。

419:日本@名無史さん
06/12/24 01:00:01
新正口號(武田信玄)

淑氣未融春尚遲
霜辛雪苦豈言詩
此情愧被東風咲
吟斷江南梅一枝

淑気未だ融せず春尚遅し
霜辛雪苦豈詩を言わんや
此の情愧ず東風に咲われんことを
吟断す江南の梅一枝


九月十三夜陣中作(上杉謙信)

霜滿軍營秋氣清
數行過雁月三更
越山併得能州景
遮莫家郷憶遠征

霜は軍営に満ちて秋気清し
数行の過雁月三更
越山併せ得たり能州の景
遮莫家郷遠征を憶ふ

420:日本@名無史さん
06/12/24 11:06:13
太原雪斎がセンセイなら、当時としたらかなりの教育水準だろ。

岡崎にずっといたら、それだけの教育をいけられていたかどうか

421:日本@名無史さん
06/12/25 16:43:24
寄らば大樹の陰と言うが、やはり織田、今川はすごいよ。
後の家康に必要な修行がほとんど行えたはずだ。
もっとも父祖が残した人材もすごかったが。

422:日本@名無史さん
06/12/27 08:34:05
戦に強く有能な政治家でもある。しかも長命。
まさに最強。

423:日本@名無史さん
06/12/27 08:48:59
そうそう。
長く安定する政権を作り出したという点では、
日本史上、天智・天武両帝と並ぶ。
信長だの秀吉だのといった一発屋とは比較できない。

424:日本@名無史さん
06/12/27 14:43:36
火事場泥棒が達者だったから良かった
信長の遺産をちょっとだけ、秀吉の遺産をほぼ丸ごと横取りした手腕は素晴らしい

425:日本@名無史さん
06/12/27 20:13:04
戦の強さ(勝った・負けた)で言えば

徳川家康≧豊臣秀吉>明智光秀>織田信長

となるな。

426:日本@名無史さん
06/12/27 23:53:07
山岡荘八の家康読んで再認識した。

もし家康がいなかったら泥沼の戦国時代が
長く続いていただろう。

427:日本@名無史さん
06/12/28 00:24:32
武田信玄>徳川家康≧豊臣秀吉>明智光秀>織田信長

428:日本@名無史さん
06/12/28 00:59:21
His judgement cometh and that right soon

男性諸君、結婚すると不幸になる。女の外面は綺麗で清潔で良い人、内面はずるくて汚いため、口も悪い+嘘つき+女同士も上辺仲良し裏では悪口三昧
女の成分はA(性悪陰湿残忍+損得自己中感情)+B(良い女演技+体形+整形化粧+ファッション)
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それでも結婚する君へ究極護身法→[夫婦財産契約登記]
夫婦財産契約により、自分の稼いだ財産はすべて自分の物
離婚時に財産の半分を配偶者に取られない

弱い者いじめは最低と言いつつ、赤ちゃんを殺す母親(そして無罪判決(笑
狙撃は女子のほうが強い。男は、ノイローゼになってやめてしまうが
女は何人殺してもノイローゼにならない。そして、骨盤が安定しているため

ナチスの拷問で、女の拷問の残虐非道さを見て、拷問をしていた男達もひいたという
拷問しながら楽しそうに笑みをうかべていたそうだ。罪悪感や引け目が無い

・有史以前が女尊男卑の時代だったことを指摘したのは、スイスの学者バッハオーフィン
アマゾン女族の女王は、法律を定め、男達には卑しい奴隷の仕事を課した
男児が生まれたら、生き埋めにするか、脚と腕を不自由にして、戦えなくし奴隷とした
・王位継承権が女性にだけあった古代エジプトでは女性権力が非常に大きかった
・日本でも卑弥呼が女王
URLリンク(kr.img.dc.yahoo.com) ←女集団が、女一人をリンチしている動画(執拗に蹴り続けながら皆楽しんでる

女は虐げられてきた?父系社会など人類の歴史から見ればほんのわずかな期間に過ぎない。むしろ・・

429:日本@名無史さん
06/12/28 06:10:44
医学に造詣が深かったが、その知識を自分にだけ使った吝嗇家。
また運動の重要性を認識しており、馬、鉄砲撃ち、水泳、鷹狩で
健康を保ち、75歳まで生きて、豊家を滅ぼした。

430:日本@名無史さん
06/12/28 13:15:16
でも家康って何か凄い戦術で勝ったことあった?
信長の桶狭間や稲生原合戦みたいな逆転劇ってないでしょ
小牧長久手で秀吉軍別働隊を奇襲したぐらいでは
まともに合戦したら信長に及ぶとは戦歴を見ると思えないが

431:日本@名無史さん
06/12/28 15:14:51
小牧長久手は負けなければいい戦だったわけだし、関が原は書状攻め
で寝返らせる戦術を使った。派手である必要なんかない。
結果が全てよ。
信長の火縄銃三段攻めを信じてるわけではないんだろ?

432:日本@名無史さん
06/12/28 15:31:19
だから戦術なら、という話ではないの?

433:日本@名無史さん
06/12/28 18:21:27
だから戦術として、
戦の前に既に勝敗を決して、万全の体制で臨んだ、ということだろう。
忍者とか使いまくってたみたいだし。
見えないところでかなり暗躍しないと、ああ着実に天下を取り
それを何百年も持続させることはできないとオモ

ってかその割には、武田信玄と真田昌幸にはボロ負けしてるがwww

434:日本@名無史さん
06/12/28 18:55:55
会津に向かうと見せ三成を挙兵させ、大垣に籠もろうとするのを関ヶ原におびき出し
豊臣子飼いの将を懐柔し、敵の総大将の親族を裏切らせ結果自分は無罪放免。
終戦協定で堀を埋め敵の城を無力化してしまう。

いったいどう計算すればこんな戦略が思いつくんだ!?

435:日本@名無史さん
06/12/28 19:23:08
武田信玄に負けたのは仕方ないんちゃう? 格が違いすぎたでしょ。
対真田昌幸戦には家康は出陣してないし。

436:日本@名無史さん
06/12/28 21:23:01
>>434
その前に三成を自分の屋敷にかくまったこともすごい計算だよ。


437:日本@名無史さん
06/12/28 23:52:50
掛川城攻防戦

438:日本@名無史さん
06/12/29 00:22:11
>>434
あまり凄いと思わせず淡々とこなしてる風なのが凄いかも

439:日本@名無史さん
06/12/29 02:12:05
うつむいて、家康は爪を噛んでいる。
「意見を述べろ。ただし手短に言え。長談義に時を移しては、佐竹に怪しまれる」
「殺すべきです」
と井伊直政がいう
待たれい、井伊どの、待たれい、本多正信は
「それがしは治部少輔を失うこと不承知でござる」
「わけを言え」

440:日本@名無史さん
06/12/29 02:48:03
家康の弟・内藤信成に興味がある。
三方ヶ原でもしんがりを務めたぐらいなのに、最後の所領が近江長浜4万石。
国1つ与えても良かったのに。。


441:日本@名無史さん
06/12/29 11:55:59
家康嫌いな厨って大抵
「信長は武田に代表される旧体制を打破し、
新たな世界の幕を開いた。秀吉がそれを継いだ」
とか思ってるよね。

実際には信玄を師とし、仏教に深く帰依し、
日本の過去の歴史を丹念に読んでそこから教訓を得、
足利氏や吉良氏等過去の名族を積極的に保護した家康が
新しい時代を築いたわけだが。

442:日本@名無史さん
06/12/29 14:52:36
仏教に深く帰衣していた?
そこだけは違うだろ

443:日本@名無史さん
06/12/29 14:58:08
>>442
山岡の家康を読むと、仏教にはまっていたようらしい。

444:日本@名無史さん
06/12/29 15:34:37
信玄を師って小説家の創作でしょ
三方ヶ原の負け姿を絵に書かせたことから膨らませて
本人は遺言で「三河以来の法は変えるな」と遺言するほど父祖伝来を大事にしていた
中世豪族体制を代表した信玄を師としていたのなら、近世化の流れを受け継いだりしない
第一、高家として保護した家にはそれこそ新興だった織田家も含まれてるし……

445:日本@名無史さん
06/12/29 15:57:34
三河一国と遠江分国程度の時代の家康に2倍以上の兵力で勝ったお陰で後世過大評価される信玄は幸運な武将だが
そのお零れで過大評価のおすそ分けに与る謙信はもっと幸運

446:日本@名無史さん
06/12/29 17:27:12
家康は戦の前日には仏寺に参拝し、住職と問答したりしたらしいが、
信仰のためというよりは戦の覚悟を決めるためだったらしい

信玄を尊敬していたのは本当だろう
後に信長・秀吉のことはあまり言わなかったが、
信玄のことはよく例に出した

447:日本@名無史さん
06/12/29 20:37:40
家康は毎日日課として念仏だか写経だか熱心にしてたはずだよ。
ただ、禅の修行には熱心でなかったようなのが、
代々の足利将軍や信玄との違い。(そのせいで、以後白隠が出るまで臨済禅は停滞期に入った)


あと信玄を恐ろしく尊敬していた、という話は方々に出てくる気がする。
まあ旧武田家臣を取り入れるための方便、というのも一部はあるだろうが、
全くそれだけではないだろう。
そういう流れは部下にも伝わっていたらしく
井伊の赤備えは旧武田配下のを引き継いでいるわけだし。

448:日本@名無史さん
06/12/29 20:55:49
徳川は浄土宗だから、禅はやらんな。ナム阿弥陀仏だな

449:日本@名無史さん
06/12/29 22:38:37
天台宗じゃないの?

450:日本@名無史さん
06/12/29 22:42:13
>家康は毎日日課として念仏だか写経だか熱心にしてたはずだよ。

それは晩年に贖罪のため

451:日本@名無史さん
06/12/29 22:47:05
家康は鎖国論者じゃなかったってほんと?

452:日本@名無史さん
06/12/30 03:07:58
もともと松平家の菩提寺は浄土宗じゃね?
桶狭間の合戦で今川義元が討ち取られてしまい19才の青年家康は何時敵に攻め殺されるかと絶望し
自決するべく祖先の眠る大樹寺へ籠もった。

大樹寺の登誉上人はそんな家康青年に仏道を語り『南無阿弥陀仏』を唱え書かせ
心を落ちつかさせたと言う。
家康が今川から独立し岡崎城に入城するのはその三日後の事。
以来家康の陣には『厭離穢土・欣求浄土』の旗が掲げられる。

453:日本@名無史さん
06/12/30 13:45:29
>>451
家康自身は海外貿易に積極的だったが、
家康の政策理念を究極的に推し進めると「鎖国」になると思う

454:日本@名無史さん
06/12/30 13:45:39
徳川家の菩提寺の寛永寺は天台宗。
増上寺は浄土宗。
わけわかめ。

455:日本@名無史さん
06/12/30 13:51:07
>>454
家康が晩年に重用した天海が、比叡山の天台座主で天台宗だから。


456:日本@名無史さん
06/12/30 16:33:16
家康時代の寛永寺は菩提寺ではなく祈祷所だろ。
つーか寛永寺が建ったのは家光の代だし。
家康自身の墓所は東照宮だったか?

457:日本@名無史さん
06/12/30 17:49:34
宗派ごとに門徒を固定したのは江戸幕府の政策だから、
家康の時にはそれほど宗派で固定はしてなかったとオモ

快川和尚を招いて臨済禅に打ち込んでいた信玄も、比叡山から僧位を受けたりしている。
家康自身は念仏者だが、崇伝や沢庵は臨済僧だったわけで、
他宗派にも一定の理解はあったはずだ。

っていうか、むやみに他宗を否定したがるのは、
それこそ形骸化した教団の盲信的信者だけだよ。
日蓮宗みたいにもともと排他的な宗派もあるが、それはむしろ例外的だと思う。

458:日本@名無史さん
06/12/30 21:09:40
複数の菩提寺があって、かつ宗派が違うってアリか?
蛇足ながら我が家は代々真宗本願寺派なんだが。



459:日本@名無史さん
06/12/30 23:10:28
そうヘンでもない。同じ宗派で婚姻ってわけでもなかったので家と個人が違うことも。
名目上は家の宗派だが。
家康も源氏の長者的に天台にしてるが、じつは浄土系がホント。

460:日本@名無史さん
06/12/30 23:27:34
大名なんかは領国と江戸に複数の菩提寺が有ったらしいな。
将軍家では他に浄土宗伝通院が菩提寺だな。於大の方や千姫とか奥方や子供が主か。
伝通院も家康による開基だったな。

461:日本@名無史さん
06/12/31 00:18:12
諸宗派に八方美人的に処遇をしたのは、宗教統制のあらわれ。
本願寺には兄弟双方に寺領を与えて、結果的に分断統治に成功した。
浄土真宗には若い頃さんざんやられたからね

462:日本@名無史さん
06/12/31 01:18:49
タフネスいえやす
60にんの子供、ヤるね!

463:日本@名無史さん
07/01/06 03:40:14
家康は何かの決まりきった特許モデルのあるビジネスを核にして
中小企業から始まり大企業の下のほうまで一代で作り上げて
その過程では他の人の技術や特許盗んだり乗っ取りもした
それを跡取りの2代目に相続させる
みたいなモデルケースで最高に優秀な人なんだと思う
言わばオーナー創業者が跡取りがどう会社潰さずに残すかの見本になる人
国家レベルでそれやっちゃうと問題あるかな
みたいな感じ

464:日本@名無史さん
07/01/06 16:51:27
それは家康だけでなく他の天下人もやってるとオモ

465:日本@名無史さん
07/01/07 05:15:08
>>464
自分の一族をずっと「天下人」にしとくための体制つくりの意味じゃないかと
自分の「領地」をずっと一族に継がせるでなく
「領地」(企業)でやること「天下」(国家)でやるのは弊害が多い

466:日本@名無史さん
07/01/13 19:20:56
鈴木眞哉なるこの板でも有名な歴史研究家の御大の説

・家康が天下を取れたのなんて運がよかっただけ。
・人間的スケールは三成のほうが大きい。
・小牧長久手は家康の負け。
・その後も秀吉はいつでも家康を潰そうと思えば潰せたけど、
 西国、そして中国攻めに関心があったからほっておいただけ。
・秀吉が家康に人質を差し出したのは考え方が色々あるだろう。
 けれど秀吉が家康を恐れたなんて徳川御用史観に冒されただけ。


個人的に小牧長久手の戦いだけに限定すれば、
講和に持ち込めた秀吉の勝利と思うが、
家康を降伏させられなかった事、そしてその後の家康への外交策を見る限り、
やっぱ秀吉は家康に対しては気兼ねをしていた、と観るのが正しいと思うのだが。
少なくとも家康を潰せなかった事は、結果論ではあるが秀吉の最大の失策。

あと家康は運だけ、というが、
その運が巡ってきた時に、運を生かすだけの資格を有していたのと、
努力を払った事は大きいのではないか、と。

運を生かすだけの資格、と言うと、
三河統一時以降旗本衆を強化して、
その当時の戦国大名にありがちだった「領主連合」から、
一歩専制体制に近い組織を作り、自身の権力の基盤を固めていた事。
運を生かすだけの努力と言うと、
関ヶ原の戦い以降に見られるような用心深い行動の数々。

全てがいいように傾いたからそれは運だ、といえばそれまでのことだが、
そうなるように努力したことは評価されるべきだと思う。

467:日本@名無史さん
07/01/13 19:37:56
あと家康で評価するべきことは「天下を取った」ことよりも、
その後その体制を維持させた事だと思うんだけど。

江戸幕府の機構は家康一代ではなく、三代家光の辺りで完成するわけだけど、
家康は秀吉やそのほか先人達の例を参考にして、その基盤作りには成功してる。

それは武家諸法度の発布による大名の統制であり、
禁中並公家諸法度で朝廷、ひいては天皇までも法度で縛り、
事実上幕府の監視下に置くことに成功したことなど。

こういう基盤作りをしっかりさせたことは評価があっていいと思う。

少なくともこういう基盤作りがあったために、
鈴木眞哉がいう「天下人史観」も生まれることになるのだから。
そうじゃなかったら、今日まで「天下人史観」は残るはずがない。

468:日本@名無史さん
07/01/13 19:38:06
確かに家康以上に才能があった人なのに、
運がなく散っていってしまった人もいるだろう。

しかしそれだからと言って、
「家康は家臣団の意見や先人達の例を参考にするばかりで、
独創性は全くない、運だけの無能人」
というのは極論過ぎる気がする。

先に書いたように、
「領主連合」の色合いが強かった大名家の家臣団の統率に苦労をした当時にあって、
家康は専制体制に近い組織を作っているわけだし、
また「他の人を模倣し応用する」ことこそが家康の才能だったといえなくもない。

鈴木達が「家康は無能」と評価する部分こそが実は、
家康の才能の最たる部分だったのでは?


と思うのだけど…
これって家康を過大評価しすぎてますか?

469:日本@名無史さん
07/01/15 18:40:24
過大評価でもない、むしろ陳腐すぎてレスもつかない

三方ヶ原のウンコで運がついたんだろ、家康

470:日本@名無史さん
07/01/15 18:44:21
アンチが幼稚園児レベルだなw

471:日本@名無史さん
07/01/15 19:25:09
陳腐というが鈴木のような考え方が極論すぎるだけだろ
まあ彼は通説批判の名のもと自説をごり押ししたいのだろうが
けど最近は「天下人史観」について語らなくなったね。専門の合戦分析に戻った感じ

472:日本@名無史さん
07/01/15 20:21:30
>>471
> 専門の合戦分析に戻った感じ

武光誠さんにもそうしていただきたいものだが。

473:日本@名無史さん
07/01/15 21:36:07
鈴木の場合、合戦分析については冷静に資料集めて持論を展開してるからまだ説得力があるが、
家康論は嫌悪感むき出しの論理を展開して、冷静さにかけるから説得力がない。
自分でもそのことを薄々自覚してるから、
なんとか正当性を主張しようと、
自説に対立する意見には異様に攻撃的になるんだろう。 つか上にあるとおり家康が磐石の体制を築いたからこそ、
鈴木の言う天下人史観が生まれたのであって、
彼がこれに噛み付けば噛み付くほど、
個人的にはいまなお歴史に影響を与えるほどの権力を手にした家康すげーと思っちゃうのな。
陳腐な考えかもしれんがw

474:日本@名無史さん
07/01/15 21:40:33
合戦において信長・秀吉のように苦境ながらも独力で実力の拮抗した相手を
年数かけて打ち破ったというのある?三河一向一揆、負けはしたが三方ヶ原、
これも援軍あるけど、家康は共同戦線多いよな。秀吉も信長配下の時は
各地で独力で戦線支えてるけど。まぁ家康にあれだけ信長から救援ようせいされて
さらに武田北条相手にどこまでやれというのか、という感じか。

475:日本@名無史さん
07/01/15 21:55:48
豊臣つぶし
秀吉が死んでから15年以上かけて、天下人の家を滅ぼした

476:日本@名無史さん
07/01/15 22:10:14
今川とか豊臣とか

477:日本@名無史さん
07/01/15 22:14:08
今川はともかく豊臣が拮抗してたのは金銀の脅威じゃないか

478:日本@名無史さん
07/01/15 22:19:49
>>477
金銀も何も豊臣は時の天下人じゃん
家康は秀吉からの懇願もあって最初はこれに臣従してたけども、
秀吉死後、諸勢力をまとめながら天下の実権を奪い、
江戸幕府を築き、最終的に脅威の芽となるであろう豊臣を強引に滅ぼした。

秀吉逝去から幕府開府のあたりまでの家康が行っていた政治的駆け引きは、
運とかいうような言葉で簡単に説明のつくようなものじゃないよ。
下手すりゃ自らの身を滅ぼしかねない危険な勝負だった。

479:日本@名無史さん
07/01/15 22:34:39
そうだな、関ヶ原から15年と限定したのかと勝手に勘違いしてた
別に石田三成を極度に過小評価したわけじゃなかったすまない。

480:日本@名無史さん
07/01/15 23:24:07
考えてみりゃ、
信長死後、家康と秀吉とは微妙な政治駆け引きの連続だよな

時には合戦を行い、
またある時には互いに人質を送り、
そして主従関係を結ぶけれども、互いに何処か遠慮があって

秀吉死後一気に情勢が流動化するけれども、
豊臣家家臣の石田三成は毛利輝元を旗頭に対抗勢力を総結集させて、
家康を潰そうとしてくるし、
関ヶ原勝利後も豊臣家、全国諸大名、そして朝廷との微妙な関係は続いたわけで

このスレでは叩かれるかも知れんが、
「家康は取るべくして天下をとった」
という事に異論を唱える鈴木真哉には同意。

実際はそんなに生易しい状況ではなく、
いつ破滅してもおかしくない状況だった。

そんな修羅場を権某術数を駆使して勝ち抜き、
260年の天下を築いたところに家康の魅力があるのだろう。

481:日本@名無史さん
07/01/16 02:49:44
>>471
>けど最近は「天下人史観」について語らなくなったね。専門の合戦分析に戻った感じ
それらについて書いた本は既に絶版だし、
鈴木に批判的な意見も少なくなかったからな
だから方向性をチェンジしたんじゃないの?


482:日本@名無史さん
07/01/16 03:05:37
源氏でもない家康はよく将軍になれたな。


483:日本@名無史さん
07/01/16 08:29:13
武士のとりわけ旗本とかの2男3男は
ニートといっても差し支えないよな

484:日本@名無史さん
07/01/16 14:36:35
家康のことを色々知りたいと思うのですが、
皆さんはどういう書籍を通じて家康のことを知られましたか?

485:日本@名無史さん
07/01/16 20:17:28
抽象的すぎてどう答えたらいいかわからん
入門程度なら歴史群像のムックとかでいいだろうが、
専門性を求めるなら北島正元や藤野保、煎本増夫らの専門書、
あと「徳川家康文書の研究」は外せないだろうな

486:日本@名無史さん
07/01/16 23:19:48
>>484
きっかけは小学館だったかが出していた「マンガ日本の歴史」
あおむら純?とかいう人が作家のやつ
あのマンガ内でのド狸ぶりの家康を見て、
「ああ、天下をとるってのはこういうものなのか」と思ったな

487:日本@名無史さん
07/01/17 00:44:34
俺は25年ぐらい前に日本TVでやってた
アニメの歴史物で家康に興味もった。

488:日本@名無史さん
07/01/17 02:20:48
んでもさ、やっぱ鈴木はスゲーよ。あれが通説になれば世の中変わるぜ?大河ドラマ見れなくなる

489:日本@名無史さん
07/01/17 03:26:10
合戦分析は評価すべきと思うけど、
鈴木の言う「天下人史観批判」についてはねえ…

こんなこと言っちゃ元も子もないけど、
歴史なんてのは所詮史料をもとに独自の推論を立てるしかないわけで、
鈴木の見解もその推論の一つに過ぎないわけじゃない?

で、鈴木の「天下人史観批判」についていえば、
鈴木の好き嫌いが激しすぎて極論ぶちまけすぎの嫌いが否めないな
まあ鈴木にすれば家康なんかは「歴史を歪めた悪の権化」だから手厳しくなるのだろうけどw

鈴木の欠点だと思うけど、自説に凝り固まりすぎて、
通説や他説を必要以上に貶めすぎるんだよな
で、その悪い部分が「天下人史観批判」では露骨過ぎるかな
というか「天下人云々」は鈴木の専門外だと思うから、
合戦分析に比べて魅力がないのは仕方がないのかもしれないけど

そういう批判があったのかどうか知らないけど、
最近はこの方面についての活動はやめちゃったようだけどね
「天下人史観批判」の2冊ほど出してた本もいずれも絶版になってて、
本来の合戦分析の方向に戻ってる

鈴木は専門の合戦分析で頑張ればそれでいいと思うよ

490:日本@名無史さん
07/01/17 18:08:00
>>489
鈴木自身が「天下人史観」の本のあとがきで、
「精一杯やったが自信がない」ようなこと書いてるしな

鈴木の家康論の場合欠点を上げれば、

・幸運に恵まれただけと強調するが、
 幸運に恵まれた際家康が具体的にどう動いたかその検証もなく、
 またその行動についての評価もない

・小牧長久手の合戦のあと、家康に対し有利であったはずの秀吉が、
 なぜ自分の身内を家康に人質に差し出したのか、
 「唐攻めしたかったから」というだけで、
 秀吉が家康をどう認識していたかについての説明がない
(ただし秀吉は家康が自分の後釜を狙えるほどの実力を持っていたであろう、
と認識していた事は認めている)

・甫庵信長記を、
 「甫庵は江戸時代の人間で、脚色も多く信憑性がない」
 とあれほど批判しているにもかかわらず、
 家康のエピソードを描く際には同じ作者の甫庵太閤記を参考史料にしている

といったところか

けど手厳しく家康批判をする割には、
「江戸時代は暗黒時代ではなく、またその時代が築かれたのは家康の存在を無視できない」
と評価をしていたりもするんだよなw

491:日本@名無史さん
07/01/17 19:34:06
しかしまあある意味日本史上唯一のシナ型の英雄。
シナとは人文地理環境が違うからあんな風になったが、
シナ型英雄にありがちなある種の人間としての品のなさ、陰湿さ、
人が寄ってくる鷹揚さ、田舎っぽさ、質素さなどを兼ね備えた人物。
こういうアンビバレンスを一人格で統一してるケースは日本人には少ない。
曹操は中国人離れした人物だが、逆にこの手の型は後の日本でしばしば出ている。

492:日本@名無史さん
07/01/17 20:52:41
中国の英雄って、漢の高祖のように実務的能力は果てしなくゼロに近いが
カリスマ性だけは恐ろしく高い人間だろ?

家康は全然違うと思うが。

493:日本@名無史さん
07/01/17 20:52:55
信長のほうが(ry

494:日本@名無史さん
07/01/17 21:02:50
日本は朝廷という大義が揺るがない点、中国や欧州のように権力者が
全部塗り替えるということがないから、時代が変化するときは民意みたいな
世の流れみたいなものが外国の関与等と関係しつつ後押しして世の中が変わる
そういう意味で家康って日本っぽいと思うけど。
頼朝、尊氏も一度は敗者になっても世の中が作った権力者として復活。
誰か権力者が一から組みたてるというより、朝廷を守りつつ現状を考えつつ臨機応変という形。
ただ西欧列強が進出を受けた戦国と明治維新は例外に変革されたけど、大航海時代をうけても
もう一回幕府を開く家康は日本らしさを保全したと思う。

495:日本@名無史さん
07/01/17 21:40:25
たぶんシナ型英雄の概念が司馬ライズされてるんじゃない?
ヒキ算で毛沢東からイデオロギー性を控除すると、
資料の数で最も多いシナ型英雄が顔をのぞかせる。
周恩来のように都会っ子でもないし、公共的でもない。
案外家康みたいな人物だよ。

496:日本@名無史さん
07/01/28 11:17:24
>>491
秀吉がほとんど当てはまると思うが

497:日本@名無史さん
07/01/28 11:49:39
まあ「シナ」なんて言ってるレイシストの言うことなど、何の説得力もないがw

普通に中国って書けよ、ウヨ坊。

498:日本@名無史さん
07/01/28 12:10:51
家康の凄さは寿命だ。
これに尽きる。

499:日本@名無史さん
07/01/28 12:35:28
>>498
都合の良い時に都合の良い人が死ぬ、という運もある

500:日本@名無史さん
07/01/28 12:37:07
>>491は確かに、家康よりも秀吉の方がずっとあてはまるな

(500ゲトかな?)

501:日本@名無史さん
07/02/15 20:53:23
ヒストリーチャンネルの「徳川家康と徳川幕府」はしょぼい(特に画像がw)。

502:ぴーす ◆u0zbHIV8zs
07/02/15 21:23:51
あれこっそり黄門様が映ってたぞ

503:日本@名無史さん
07/02/17 19:27:38
凄いのはあの時代にあの家に生まれたことだ。

504:日本@名無史さん
07/02/17 20:54:28
>>1
徳川三百年といっても家康一人の功績は最初の50年程度分だろ
後は後継の徳川家臣団代々の功績
まあ泰平といっても儒教で縛って進歩的なものを悉く弾圧し、
ひたすら忠君のみに徹し骨抜きした武士道によって飼い慣らし、
公務員化した武士リーマンの上に安住した、シナ朝鮮と似たような政治体制だったから別に功績とはいえない。
もうちょっとで危うくシナ同様列強に食い荒らされるところだった。

505:日本@名無史さん
07/02/17 20:58:03

前田家はなんで外様なの?
利長は関が原で家康側についてたのに。
利政が三成側についたからかな?


506:日本@名無史さん
07/02/17 23:07:11
>>505
外様=西軍じゃないぞ

507:日本@名無史さん
07/02/18 12:27:51
東軍の主力はほとんど豊臣系なんだが。


508:日本@名無史さん
07/02/18 13:29:00
地方の有力大名は、徳川への貢献度を問わずみんな外様扱いだよ

大領を与える代わりに、一切幕府中枢の政治にタッチさせなかった
その代わり、後に、松平姓を与えたり、婚を通じたりして懐柔もしているが

509:日本@名無史さん
07/02/18 19:15:07
>>504
その代わり別の「文明」築いたからね
幕末の西洋人の観察記見てると、こちらが恐縮するくらい
植民地にならなかったのは意外に、そんな影響も大きかったのかも

510:日本@名無史さん
07/02/19 00:51:47
日本の行政中枢機構である江戸幕府は軍事政権であり、
政権トップは、連邦軍総司令官で、政権を構成する公務員たちは軍人だったわけだ。
江戸への参勤は、各地方領主たちが、総司令官への忠誠を示すための軍事的賦役。

幕末には、欧米の最新技術から取り残されたり、官僚主義が行き過ぎて、やや形骸化していたとはいえ、
常に自国(藩)の防衛が念頭にある軍人官僚たちが、政治権力を握っていたことも、
日本が独立維持出来たことに関連していると思う。文治主義の多い東アジアの中でも異色。


511:日本@名無史さん
07/02/19 21:25:10
軍人といっても幕末時の旗本八万騎の体たらくをみれば、張りぼてにも程がある
農民徴兵の奇兵隊に手もなくやられる程度の弱体ぶりでは列強の侵略を防げるものではない
武士とはいえ、その内実は今の文官と何ら変わらない
軍事訓練を行うわけでもなく、単に二本差してるだけであれを軍人とはとてもいえない

戦国時代には日本の軍事力はヨーロッパにさほど劣らなかった
仮に織田、或いは豊臣の天下が続いていれば、或いは泰平ではなかったかもしれないが、
鎖国などという政策を取ったはずもなく、世界から取り残され植民地化の危機に晒されることもなかったかもしれない。
江戸文化というものは鎖国が作り上げた一個の興味深い文化ではあるかもしれないが、
それは密閉された温室で不自然に培養され作り上げられた、壊れやすい人工的な変種に過ぎない
その証拠に開国後、周りの環境に適応出来ず瞬く間に滅んでしまった。

この政策の滑稽なところは、出島からちゃっかりと外の世界の情報を十分得ていながら、
それでも鎖国を維持し続けていたという茶番性にある。いきなり黒船が来て、開国してみてはじめて西洋文明の凄さにびっくりした、
というのではなく、もともとわかっててやってたという確信犯だから呆れる。

512:日本@名無史さん
07/02/19 22:58:50
家康が鎖国したわけじゃないと何度言ったら・・・

513:日本@名無史さん
07/02/19 23:01:56
家康が鎖国したとは一言も書いていないが

514:日本@名無史さん
07/02/19 23:28:05
ここ家康スレじゃないのか?

515:日本@名無史さん
07/02/19 23:57:36
スレの流れを読め

516:日本@名無史さん
07/02/21 01:01:43
>>511
「張りぼてにも程がある」まで読んだ


517:日本@名無史さん
07/02/23 10:19:02
世界的にみても類をみない平和な時間を謳歌し
文化・環境も非常に成熟した。という良い点は完全無視?


518:日本@名無史さん
07/02/25 20:31:33
>軍人といっても幕末時の旗本八万騎の体たらくをみれば、張りぼてにも程がある

んー でも徳川の防衛システムは幕末まで意外と機能しているよ。
甲州鎮撫隊1つ取っても八王子千人同心の近藤や、長吏浅草弾右衛門のような存在が
幕府草創期の計算通りに動いている事の方が驚きだ。

計算違いだったのは、まさか朝廷の権威があれほど高くなってしまうとは思わなかった
のだろう。

519:日本@名無史さん
07/02/25 20:33:21
三河人って偉大だよな~
日本に三河がなければ朝鮮みたいなもんだし
三河人は日本の神だよ

520:日本@名無史さん
07/02/25 20:57:27
甲州鎮撫隊や新撰組だって成員は旗本ではなく郷士とか農民でしょ
長年録食んできた旗本なのにいざという時本当使えない
意地見せたのは彰義隊くらいでしょ
それもたった半日で壊滅
会津藩一藩の方が百倍活躍した

521:↑
07/02/25 21:16:01
バカですか?


522:日本@名無史さん
07/02/26 03:04:48
バカだろうな

523:日本@名無史さん
07/02/27 00:32:40
三皮人は日本人を骨抜きにして朝鮮化寸前にまでした極悪。
徳川250年の停滞で日本は亡国寸前のところまでいった。
忠君忠孝を説く似非武士道で洗脳しようとしたが、殆ど会津以外全てに裏切られ、
全く効果なしだった。250年タダ飯食らっていざというときに何の役にも立たなかった
旗本八万騎w
所詮いつになっても三皮の田舎もんだったということだ

524:日本@名無史さん
07/03/04 19:37:11
大御所時代に駿府に現われた肉人ってなんだったんだろ?          家康を見にきた未来人か?

525:日本@名無史さん
07/03/09 00:43:22
いつだったかヒストリーchかディスカバリーで徳川家康やってた。
権力者の帝国ってシリーズだったかな?
めちゃくちゃ手抜きなつまらん番組だった。

526:日本@名無史さん
07/03/29 12:48:30
どうも、歴史を知らん奴ほど秀吉マンセーで家康をけなすな。

まず金ケ崎、秀吉ばかりが脚光を浴びるが、実はあれは
家康が助けにいかなかったらやばかった。
後々まで秀吉はそのことで家康に恩があり、義理堅く信頼に
値する男として遇した。



527:日本@名無史さん
07/03/29 12:52:56
つぎ、姉川。
数の多い朝倉を左翼で家康が対峙し、
少ない浅井に織田勢が対峙したが、
開戦後織田は一方的に浅井に押されまくって
かなりやばかった。その頃朝倉の軍勢を
破って右翼に回り込み織田を救った。



528:日本@名無史さん
07/03/29 12:59:15
次、長篠。布陣をみると、家康は敵陣主力から
数百メートルのもっとも激しい攻撃のところで
戦っている。信長は遥か後方。
まぁ家康の援軍という形でもっとも働かないと
いけないということで、この位置を自ら志願した
ということだが、ほとんど捨て駒の扱いだ。
しかし、敵を壊滅させたといっても、織田徳川も
6000のかなりの損害率だ。おそらく家康の
損害がもっとも大きかったに違いないが、
ここでも最大の働きをしている。



529:日本@名無史さん
07/03/29 13:06:50
小牧・長久手はいうまでもなく、
もっとも、スゴイのは、関が原。

東軍が勝ったため、東軍が有利に推移したとおもわれているが、
実は戦略・戦術的にかなりの綱渡りをしている。

戦略的に長期戦はのぞめない状況と、怨恨を残す泥沼の
長期戦を避けるため、あるいは、鮮やかな勝利で覇者として
印象付けるためかわからないが、わざと戦術的に不利な状況に
追い込み決戦を誘った。

これは、武田の三方が原を応用したみたいなところがある。

推移を細かく調べればわかるが、戦術的な展開とタイミングが、
針の穴を通すような、大胆かつ精緻なもの。
秀忠の主力3万がおらず、兵力及び配置及び時間的余裕ともに、
すべて不利であったにもかかわらず、会戦に踏み切った判断は
さすがだ。


530:日本@名無史さん
07/03/29 13:12:11
織田の主要な歴史的な合戦のすべてで決定的な仕事をし、
更に東国の最強の上杉・北条・武田・今川を織田の防波堤として
防ぎ続けた。そして最終的に240年の太平の世に導いた。
戦国時代の本当の主人公はやはり家康だよ。


531:日本@名無史さん
07/03/30 02:10:14
少し褒めすぎの気もするがw 家康の戦上手については同意。
古今最高位の戦略家だったとは思う。

532:日本@名無史さん
07/03/30 07:42:15
>526
家康もすごいが秀吉もすごいよ。
戦略面だけ見ればこの二人は甲乙つけ難い。

533:日本@名無史さん
07/03/30 23:59:22
・質実剛健、職業軍人肌の家康
・合理性、効率重視の天才肌の秀吉

こんな感じ?

534:日本@名無史さん
07/03/31 05:14:16
秀吉の本質は軍略家。政治と軍事の境界部分で本領を発揮。
つまり戦争する前にだいたい勝負を決めるタイプ。

戦略面をいうと、秀吉がやっぱり圧倒すると思う。
そこは家康もわかっていたようだ。

そもそも秀吉のした戦争で、やばかったのは
金ヶ崎ぐらいで、あとは秀吉自身が危ない状況におち
いったことすらないんじゃね?
小牧・長久手も局地的に負けても全体として勝つし。

こういう人は、諸将をまとめる総大将にもっともむいているな。
アイゼンハワー、マッカーサーあるいは、ニミッツみたいな。


535:日本@名無史さん
07/03/31 05:24:15
家康はっていうと、そこまでの頭がないのか、
彼らのスタイルなのか、どうしてかいつも最後は戦場にいるんだな。
多分ね東国武士の自負というか意識があるんだとおもうよ。

三河武士とトヨタには愚直なひたむきさで通じるものがあるね。


536:日本@名無史さん
07/04/01 00:04:27
家康にとって小牧・長久手は最終決戦では無かった希ガス。 長い戦略の一段階。
家康に頭が無かったら城の内堀は埋められないだろう。

537:日本@名無史さん
07/04/02 12:39:54
いくらんんでも、そこまで先を見通せる人間は
この世に存在しないだろうよ。

家康という男は、戦争ではあれだけ果断なのに、
政治的に強い相手に対しては異常なほど慎重で
相手が強い場合には石橋を叩いても渡らない。
(ところが、相手より強いときは卑怯なぐらい強くでる。)

戦略でなくて単に強い相手には様子をみるという
習性だと思う。しかも、相手が強い限りにおい
ては虚心なく本心から従うので相手も信用してしまう。



538:日本@名無史さん
07/04/02 12:41:09
これは彼の生い立ちや、それまでの経緯で染み
込んだスタイルで、運良く彼はこの方法でステップ
アップしてきた。

秀吉の誤算は、朝鮮戦争で家康以外の豊臣
恩顧の大名が軒並み疲弊し相対的に家康が
強くなる事を見逃した事。
おそらく秀吉が死ぬのを待っていたという事
ではなく、死んでしばらくして、皆が自分を
頼るようになってから野心が芽生え、同時に
豊臣政権のやり方では、再び内乱になることを
予感するに及び、決心したのではなかろうか。

家康とはそういう男のような気がする。


539:日本@名無史さん
07/04/03 03:11:48
とんでもない。 やはり先は読んでたと思うよ。
でなければ関ヶ原であれだけの根回しはできない。
秀吉子飼いの武将を味方にして邪魔者は全て排除してしまう。
これが計算でなくて何だというのだ。

540:日本@名無史さん
07/04/03 12:23:20
もし、先をよんで何10年も前から工作していたとするなら、
前田利家は暗殺ということになるな。


541:日本@名無史さん
07/04/03 12:40:25
言葉足らずだったが、いまでこそ家康が天下をとったので
関が原前も家康有利にかんじているかもしれないが、

利家存命のとき、家康はそこまで有利であったという
とむしろ逆。

もしあのタイミングで殺せなかったらかなり不利な関が原を
強いられただろう。

ていうか、現実の関が原でも戦略状況的には、
負けていたので利家が諸家をまとめていたら多分
勝ち目はない。

それとも、秀吉の遺言を破る前にすでに利家渦中に
暗殺要因を忍ばせていたというなら話は別だが。


542:日本@名無史さん
07/04/03 13:08:22
あと秀次もいたから、そんなに前から計算てのはできない。


543:日本@名無史さん
07/04/05 01:13:01
計算と言うより時期を見計らっていたと言うべきか。
大坂城は落とせると踏んでの出兵だろう。

大坂方の不安材料の多さを見れば攻略はたやすいと読んで関ヶ原に踏み切ったと言える。
じっさい吉川、小早川のような超重要ポストが裏切る事を見越せる段階で勝負はついた。

544:日本@名無史さん
07/04/06 09:07:35
んー、そう楽観できるほど、戦略状況も戦術的な状況もよくないんだがな。
政治的状況はよかったといえるが、家康の関が原の前の数日間は、
かなりの綱渡りだった。この辺がわかれるようになるには
結構背景をいろいろ調べてイメージしないといけないが、
正直自分も、若い頃はわからなかった。


545:日本@名無史さん
07/04/07 00:47:48
そうでもない。ほとんど素通りで関ヶ原まで直行している。
これは各大名、土豪、豊臣家への根回しと情報収集のレベルが高かった証拠。
家康は若い頃から今川義元、武田信玄が街道中途で挫折するのを見てきている、なのに軍行を
強行できたのは自信が有ったからと見るべき。

ちょっかいを出さない限り素通りできるほど圧倒的存在だったとも言える。

546:日本@名無史さん
07/04/07 09:02:37
豊臣政権内での争いだからな

547:日本@名無史さん
07/04/07 13:31:42
>>545
その頃には家康派とアンチ家康派にはっきり分かれていたということだろ
アンチを叩けば家康が天下を取れる下地はできていたということ

548:日本@名無史さん
07/04/07 13:37:43
家康は 戦だけでは ない!内政がほかの大名に比べてよかった。下る者にひ 下る。

549:日本@名無史さん
07/04/07 13:38:02
【都知事選】浅野史郎氏、志同じならと民団に支援を要請
スレリンク(news4plus板)%374623990/

東京都の人は、ぜひ読んでみてください。
現在、朝鮮総連や民団その他の反日団体が、総がかりで浅野を応援しています。
浅野が知事になれば、たぶん東京は終了します。

550:日本@名無史さん
07/04/09 14:45:48
その巣通りこそが綱渡りでしょ。
脆弱な補給線をさらさんといけない。

長期戦で旗色が悪くなったら、東海道で野心が
芽生える大名がいないともかぎらん。
また、昌幸とか、勘兵衛みたいなのがでない
とも限らん。

絶対に避けねばならない。
その圧倒的存在であったのではなく、
そうみせる必要があった。そんなことしてみろよと。

だから、西軍をあわてさせるぐらい、どんどん
進出して”会戦”を誘発したんだよ。



551:日本@名無史さん
07/04/09 18:41:19
素通りなんかしてないぜ。
美濃の小大名の砦は結構落としてるぞ。

552:日本@名無史さん
07/04/09 23:05:34
要所要所の重要大名や土豪への根回しは済んでたと言う事だね。
上杉も佐竹も追いかけてこれなかったし来る気も無かった。
秀吉亡き豊臣に各大名は期待はしていなかったというのが実情だろう。

メッケルスではないが関ヶ原の布陣を見て「徳川が勝つ」と言う軍人は居ないだろう。一見無謀な綱渡りに見える。
だがこの段階で大和の旧筒井家臣は家康を出迎えているし西軍の大将、幹部クラスにすら内通している。
ある意味デキレース。この段階で石田に勝ち目は無い。

553:日本@名無史さん
07/04/10 01:28:03
内応をあてにするほど、家康はおろかではないよ。
そもそも内応ってのは状況を補強する役にしかたたないし。
そう簡単ではなかったよ。


554:日本@名無史さん
07/04/10 14:04:06
でも内応をある程度見込んでいなければ関ヶ原であの布陣はできないんじゃないの?
とはいえ約束はあくまで約束であって戦況によってどう転ぶかわからなかったのも事実
で、慎重居士の家康がよくあんな賭けに出たものだと思うよ。
実際小早川が日和見してたわけだし、家康の最大の凄みはあの時点で秀秋の性格、
与える効果、諸々を瞬時に判断して威嚇射撃を命じた決断力だな。

ただ小早川の威嚇射撃による裏切りって、どうもできすぎた話のようにも思えるんだけどな。
複数の史料にある話なら事実なんだろうけど。

555:日本@名無史さん
07/04/10 15:45:20
>>554
威嚇射撃より、送り込んでいた軍監の働きが大きかったんじゃないか?
西軍はこれをしていないから

556:日本@名無史さん
07/04/11 12:18:59
指揮下にない軍隊に軍監の意味があるのかねぇ。
それとも小早川に監視役でも送っていたというのなら
話は別だが、それならはじめから東軍という事になる。


557:日本@名無史さん
07/04/11 12:22:29
それとも小早川秀秋という意味でなくて、西軍全体を監視する役が
いなかったからという意味でならナットク。
でも、西軍方にそれに適切な人はちと思いつかない。


558:日本@名無史さん
07/04/11 23:09:12
>>556
伏見攻めの後このことを家康に詫びるし、
黒田と人質交換するわ、家康と黒田の軍監を受け入れるわ、
あげく松尾山の西軍の将を追い出して居座るなど、
関ヶ原前から小早川は明らかに東軍という行動をとってる

軍監が送り込まれているということは、
秀秋への監視役の意味もあったろうし、
仮に彼が去就に迷った時は東軍に加担するよう改めて、
説得を行う事ができるわな

559:日本@名無史さん
07/04/12 03:22:59
伏見攻め自体家康は最初から想定して仕掛けた事だからな。お互いわかりきっての旗揚げだし。
当時の武将達は「あーあやっちまった」ていどの感覚だったんじゃなかろうか。

小早川に吉川は毛利両川だったか。
ホントは毛利も腹の底では家康の天下もやむなしと思ってたんじゃないかと思う。
秀吉亡き後、生え抜きの軍人達が女子供を頭にして、家康相手に本気で一戦交えるつもりが
有ったかどうかすら疑わしい。

560:日本@名無史さん
07/04/12 04:19:41
そもそも関ヶ原って政権内抗争という体裁だからな

561:日本@名無史さん
07/04/15 22:35:09
結局小牧・長久手で秀吉が完全に家康を屈服させられなかったのが後々関ヶ原まで
響いたということかなあ。

もしあそこで家康が敗北していたらどうだったろう? 長曽我部や島津の例から考えると
三河一国、よくて駿・遠・三の三国に領土は削減、関東250万石への転封も無かったろう
から後年の家康の声望・威望も無かった。転封はあってももっと僻地だったかも知れない。

562:日本@名無史さん
07/04/15 23:28:12
小牧・長久手で家康は秀吉に自分の力をちょこっと見せつければ良いだけだから
ポイントを押さえて行くだけで大敗するほど突っ込んだ総力戦をする気も無かったのでは?
まあ、織田家が投げ出しちゃったら退くしかないね。

563:日本@名無史さん
07/04/22 02:25:05
>>561

長曽我部や島津の例は秀吉の決断じゃないよ。
それに西国の外様と東国武士の代表たらんと
する家康とでは比較できないと思う。

あと、秀吉臣下の礼を取るやつには面倒見がいいし、
ほとんど戦闘をせずに相手を調略するのがうまいが、
戦闘でまけた相手には、キッチリケジメをつけるだろう。
そうであって、調略は初めて効果を発揮する。

>>562
大敗するほど突っ込んだ総力戦しないっていうけど、
結果論じゃない?秀吉の兵力をみても本気なんだから、
家康が手加減して勝てる相手じゃないでそ。

つまり戦闘にまけたら、家康も終わってたって事。
あの時代はそういうもんでないかな。
だから、裏切りもするし、調略も効果がある。


564:日本@名無史さん
07/04/23 02:22:01
ありゃー織田家vs秀吉の戦争だろ。
それに要所要所は家康に先手をうたれてるから秀吉もあれ以上攻められない。
野戦では格が違う。

565:日本@名無史さん
07/05/12 19:53:12
浜松城についてお訊きします。
城の西に行くに従って標高が高くなるというのは、電網で調べました。
ところで城全体は、三方原台地の南端にあると考えて良いのでしょうか?
それとも三方原台地の下の平野面に存在するのでしょうか?
浜松に詳しいかた御教授いただけたら幸いです。
よろしくお願いいたします。

566:日本@名無史さん
07/05/19 11:26:58

上田合戦は痛いぞ 家康

567:日本@名無史さん
07/05/20 00:16:10
秀忠軍は、いなくても無問題ですよ。

568:日本@名無史さん
07/05/20 10:46:55
そのおかげで外様にいっぱい領地をあげなくちゃならなくなったわけだが

569:日本@名無史さん
07/05/21 16:51:32
そんなこたぁない

570:日本@名無史さん
07/05/22 00:59:30
いっぱい領地を削られた外様もいるからな・・・

571:前田家
07/06/01 00:02:21
前田家119万5000石の内訳を教えてください。
太閤検地では越中38、能登21、加賀36で計95。
加賀の一部は金吾中納言領等とすれば、90くらい?
太閤時代は82?これが加賀2郡?加えてなぜ38増えた?

572:日本@名無史さん
07/06/04 02:54:12
新田開発くらいはやっただろうし、海に面しているんだから、貿易もしたんじゃないの?

573:日本@名無史さん
07/06/15 02:44:29
504同意、別に徳川家康が3百年幕府を統治したわけじゃないんだが
あと豊臣が天下とったけど日本を平和に導く力がなかったから徳川が「こいつじゃ駄目だ」って思ったと思う
 豊臣の晩年の暗君化を見ても明らかだし豊臣には到底徳川さんの真似事なんてできるわけない
秀吉自体小田原征伐
を終えた時点で国内統治に徹しておけばよかったんだけど
徳川さんに天下の豊臣家譲ったほうがいい国できたと思うよ
まああくまで天下取ったのは秀吉だけどね
何故徳川さん秀吉のこと嫌ってたんだろうね?
大体秀吉には支配者としての資質が不十分だったと思うんだ
徳川は一応一国一城の主の息子だし親が統治者だから
どう言う政策で国を治めればいいか十分見てきたと思うんだ
大体天下統一した時点で朝鮮侵略する事自体馬鹿だろ!
元々足軽の息子なんかが日本を支配するなんて無理だよ
もちろん小田原征伐までは評価するけど 秀吉


574:ぴーす ◆u0zbHIV8zs
07/06/21 18:46:14
【時代劇】英BBCが全編日本で時代劇制作 家康の策略描いた『SHOGUN』

URLリンク(www.tokyo-np.co.jp)
スレリンク(mnewsplus板)

どんな出来になるかな。


575:日本@名無史さん
07/06/21 19:06:33
大名の石高は恣意的な部分もあるんじゃないか。

576:日本@名無史さん
07/07/10 09:35:01
石川数正の松本城に是の字の瓦があったぞ。是ってのは、清康が夢の中で不思議な老人から掌に書いてもらったもので占い師に占わせると松平家から天下人が現れる、と占われてそれ以来、松平家の縁起物になったらしい。それと墓も岡崎の大宗寺の側に見つかってる。
だから数正と家康はぐるらしい。発見者は中島次太郎。山岡荘八の「日本人の味」にあったんだがだれかくわしいひといない? てか山岡荘八の資料ってどうなったんだろうか。

「水戸宰相頼房を副将軍と免許賜うべく候そのいわれは、将軍国政上よこしまなるときは、将軍老中諸役人評定せられ、水戸より指図を以って、尾州,紀州両家を見立て、相続を奉文すべく、万一両家にその任に応ぜざるときは、
なんれの諸侯の内、天下を治鎮いたすべき品量を奉聞候は、水戸家に限るべし」(公家法度第十四目)
これって家康の朝廷に対する態度、「天下は天下~」の言葉、大日本史編纂とかの説明になる気がする。

577:日本@名無史さん
07/07/13 10:57:19
けっこう家康の経済政策なんかは信長(厳密には六角)の影響を受けている所が
あるんだよなぁ

578:日本@名無史さん
07/07/15 08:03:33
>>574
『SHOGUN』か…フジヤマ、ゲイシャ、サムライ、ハラキリから一歩も出てない前作の焼き直しになるんじゃないか。BBCは、さりげなく巧妙な反日だし。


579:日本@名無史さん
07/07/15 23:28:18
葵徳川三代の前半を放映すればいいのに
台湾でも放送してたぞ、葵。

580:日本@名無史さん
07/07/17 00:18:57
>>576
公家諸法度ってそんなことまで書いてあるんだ?
よく朝廷を抑圧し、バカにしまくったものだってことを
右も左も言うけれど、そんな単純なもんじゃないな。

581:日本@名無史さん
07/07/17 12:20:07
>578
イギリス人は嫌いだから、弁護というわけではないが、
反日というか、奴らは自分らも含めてなんでも
コケにするのが好きな国民性だからな

582:日本@名無史さん
07/07/17 16:49:39
>>580
「三種の神器(皇位)は、世界萬民撫育のためにあり」
「淳和奨学院別当職、関東将軍へ任ぜられし上は、上は三親王揺家をはじめ、公家並びに諸侯と雖も、
悉く支配致し候。国益一切知らせべく、政道奏聞に及ぼす候。四海の鎮め致し難きときはその罪将軍にあるべし」
みたいなのもある。
一々指図しなければならなかったのは、戦国時代都落ちした公卿どものみだれぶりにある。
土地だって戦国時代の朝廷の意味のなさや、織田信長の三千石からは増えている。
そもそも土地が足りない。それは秀吉時代から変わらない。


583:日本@名無史さん
07/07/17 19:16:37
>>582
なるほど。山岡荘八の造形した家康像には、
こういったしっかりした根拠があるわけだ。
少なくとも司馬遼太郎以降の小説家が描くような、
「腹黒くて冷酷で陰気な権謀家」という
矮小な家康像とはほど遠いな。

584:日本@名無史さん
07/07/18 05:57:51
>>583
でも、「徳川の天下に邪魔になるものを掃除するために、そいつらを率いて挙兵する石田三成」ってのはありえないなぁ。

585:日本@名無史さん
07/07/18 16:33:48
>>584
まあ本人も随想で、我々は歴史と小説という矛盾を組み合わせたものを書いている、みたいなことや、一巻あとがきにこれは理想小説である、みたいなことかいているからな。
研究書ってわけじゃないし。

>>584
結構根拠はあるよ。あの人は調べまくる人だから。知りたかったら山岡荘八の随想徳川家康を読んでみるのもいいと思う。司馬は論外に近い、かな。

家康は大坂夏の陣で陰険的なイメージがあるが、人生五十年の時代に関が原後十五年間、なにも画策しなかったのは結構慈悲深いと思う。
戦国武将だから確かに冷徹さはあっただろうが、信長や秀吉ほどではない。

586:日本@名無史さん
07/07/18 16:52:59
>>584
> 結構根拠はあるよ。あの人は調べまくる人だから。

三成が、豊臣家を差し置いてそんなに家康に献身的だったの?
そんな描写してる人って歴史家はもちろん小説家まで捜索範囲を広げても他に見たことがないんだけど。

587:日本@名無史さん
07/07/18 20:57:43
>>586
その根拠はないと思う。そもそも家康に献身的なら、わざわざ秀頼利用していちいち歯向かうはずがない。
そこら辺は小説的な演出だと俺は思う。本当のところはわからんが、山岡荘八は三成の成長を表したかったんじゃないだろうか。
三成の心境を「戦はもちろん勝つつもりでやる、が、万が一負けたとしても、太平の礎になってやろう」、的なニュアンスで俺は読んでたと思う。最後に読んだのが二、三年前で曖昧だが。

588:日本@名無史さん
07/07/19 13:01:10
>>586
スマン、ミスった。
584×
583〇

589:ぴーす ◆u0zbHIV8zs
07/07/23 12:44:37
堺から帰国途中に京都近郊の城に昼飯食いにきたって説話が残ってる
んだけど遠回してまで明智のうようよ居る山城に立ち寄った真意はなんだろ。

590:日本@名無史さん
07/07/23 20:15:17
>>589
そっちは影武者

591:日本@名無史さん
07/07/23 20:16:24
>>589
何か打ち合わせに来たんでしょう。
光秀は後年の天海だからw

592:日本@名無史さん
07/07/27 05:21:32
家康って天下統一過程であまり重要な仕事してないよね

593:日本@名無史さん
07/07/27 05:26:48
信長の死後秀吉が破竹の勢いでテリトリー伸ばしている最中
北条残党だの甲府平定だのあまりに地味な活動しかしていない

594:日本@名無史さん
07/07/27 20:28:46
あのときに勢力伸ばしたからこその政権ナンバー2だけどな。
織田家の財産ほとんど相続した秀吉と、中小大名の自力の差だろう。

595:日本@名無史さん
07/07/27 21:08:39
まあ、考えようによっては北条や甲州こそ関東防衛の要だからな。
幕末にも江川伊豆代官や甲府を押さえられたら関東は西からの進軍には無防備。
だから小栗は箱根で分断を注進し、近藤は甲府へ向かった。
近藤の八王子同心も武田残党か?ある意味幕末まで機能していた事が脅威ですらある。

596:日本@名無史さん
07/07/28 08:59:32
朝鮮引き上げは評価していいんじゃないか?

597:ぴーす ◆u0zbHIV8zs
07/07/29 19:25:30
信雄が講和してなかったら畿内進行してたかなぁ~と思う。

598:日本@名無史さん
07/07/29 21:16:03
さすがにそれは無理っぽい。
だが濃尾以東は徳川配下となり天下統一は遅れたか?

599:日本@名無史さん
07/07/30 07:56:36
家康は地味
人任せなやり方がww

600:日本@名無史さん
07/07/30 08:07:40
利用できるものは利用して天下取るみたいなやり方じゃんね
家康 信長 秀吉よりそう言うところは卑怯だ

601:日本@名無史さん
07/07/30 08:36:48
秀吉ととことんやってたら、天下統一できたかは微妙だな。すくなくともかなり遅れたはず。

豊臣政権の補佐や尻拭いは結構してたんだがな。なんで律儀な内府なんて言われてたんだか。

602:日本@名無史さん
07/07/30 11:33:10
家康って謙虚だよな

603:日本@名無史さん
07/08/05 13:44:44
司馬が家康を才がない模倣者みたいに書いていたが、勤勉家とはとれなかったのだろうか。
てか、秀吉もそんなに独特な政策を出してるようには思えないんだが。あの人は素晴らしい実行者な気がする。

604:日本@名無史さん
07/08/05 14:16:33
>>603
勤勉家だね。しかも同じ失敗を二度としない。
勉強する習慣が人質時代に身についたんだろう。雪斎がいたから。
信長も信玄も秀吉もみんな家康の師匠だろう。
天下餅を食えたのは、それだけ学んだからだと思うが。

605:日本@名無史さん
07/08/05 19:31:36
>>604
たしかにそうだ。あと家康は健康であった。

606:日本@名無史さん
07/08/05 19:39:05
家康って、山ほど失敗しているが、それを後にちゃんと生かしているところが凄いね。
三方ヶ原の戦いの信玄と家康の陣形、関ヶ原の戦いの家康と三成の陣形、酷似していないか?
しかも浜松城から誘い出される形になった家康と大垣城から誘い出される形になった三成。

失敗を二度としないだけではなく、自己の失敗を逆に利用する辺りなんぞ凄すぎる。


607:日本@名無史さん
07/08/05 19:42:06
おねは家康に好意的で三成を嫌っていた、淀殿は家康を嫌っていて三成に好意的だった
物語だとだいたいこういう捉え方が多いんだけど、どうも違うみたいだね。


608:日本@名無史さん
07/08/05 19:48:42
>>607
前者は知ってるけど、
>淀殿は家康を嫌っていて三成に好意的だった

>どうも違うみたいだね。
の理由またはソースを教えてくれないか。

609:日本@名無史さん
07/08/05 20:53:46
負け戦の直後に絵師を呼んでウン漏らしの画を描かせるだけでも
常人じゃなあないね。

610:日本@名無史さん
07/08/05 21:11:46
俺も山岡荘八の随想徳川家康買ったぞ。なかなかおもしろいな、これ。
これに書いてあったが武士に厳しく農民に篤い点が謙虚だよな。直訴の許可に百姓の切り捨て禁止。内大臣でありながら百姓の年貢を自分の手でしたためている(開墾地の保証的な意味で)。祐筆もいただろうに。
無論農民が豊かに暮らせていたかとなると簡単に頷けないが、時代の段階的なものもあったし、当時の士農工商も秩序を築くものだったからな。

611:日本@名無史さん
07/08/05 22:41:25
>>610
天野三郎兵衛康景とかは、ある意味犠牲者だね。ただ、天野も三河武士でなかったら謀反でも起こしたかもしれない。
天野も「どちへんなし」と言われた公平無私の人間。

612:日本@名無史さん
07/08/06 00:14:24
>>610
すると「百姓は生かさず殺さず」って言ったのは誰なんだろう?
取るにたらん俗説かな?

613:日本@名無史さん
07/08/06 00:20:22
>>603
> 司馬が家康を才がない模倣者みたいに書いていたが、勤勉家とはとれなかったのだろうか。

司馬は頭の切れる才子&破壊者タイプが大好きだからしょうがない。
実際には、謙虚さが無く自分をいっぱしの才人だとうぬぼれた奴のほうがよっぽど道を誤りやすいんだが。

614:日本@名無史さん
07/08/06 00:30:29
>>612
「百姓は生きぬよう死なぬように」と言ったのなら、本多正信だと思う。
 

615:大えええええ氏 ◆rfC8aZVkRQ
07/08/06 00:38:02
>>562
お前らさ、よく考えてみろよ。
長久手の戦いでは、弱冠23歳の「井伊の赤鬼」こと井伊直政に
森長可が討ち取られ、家康勢に池田恒興・池田元助を討ち取られて
唯一生き残った池田輝政は小便ちびりながら逃げ帰って、
猛撃に恐れをなして関ヶ原の戦いの際には父の仇に与してるんだぞ。
織田信雄隊はゴミクズだから何もしてないので実質兵差は3000人であり
本多忠勝・榊原康政・酒井忠次も参戦していない。
しかも「井伊の赤備え」には武田の無敵騎馬隊の遺臣が多数配属されており
石川数正が寝返った為、兵制も武田家仕様にしてある。

もし秀吉が苦戦の末、三河平定に成功したとして
家康が大幅減封を受けたとしても秀吉軍にも多数の犠牲者が出る上
同盟国の北条とも敵対することになるので、北条討伐に東北兵や九州兵を当てることが出来ず
すぐさま戦闘になり、残存勢力の上杉・毛利・北条・長宗我部と対抗するのにさえ苦難する。
それに東北では伊達政宗が頭角を現すので関東平定後も強大化した
伊達政宗に真っ向から当たらねばならず、秀吉生前中に天下が平定できるかさえ危ぶまれてくるよ。

616:日本@名無史さん
07/08/06 00:52:03
>>612
落穂集か本佐録じゃないか。
山岡荘八は、徳川家康の駿府領での年貢が三公七民、四公六民と為政者として上々、直訴の許可(時に藩主は我が家も首も吹き飛ぶ)や百姓の切り捨て禁止、
荒地を開墾したものには七年無税、八年目からは自分の手で受け取りを書く、口を開けば「百姓は何を食べていると思うぞ」と側近の奢りをいましめ、
自分の子供たちにも「百姓に慕われる領主でなければならんぞ」と口癖のように訓戒している、などから百姓を大事にした点で並ぶものなど珍しく、百姓をいじめたなどと決め付けるのはで軽率である。
当時は色々なものが不足で、義務負担の平等が必要であり、規則で一番武士を縛り、商人も奢侈禁止令で抑制すると、厳しかったのは農民にだけでない。
もしかしたら、一部の大名や領主から非難の声があったのかもしれず、「百姓も生かさず殺さず」といったのが誤られたのではないだろうか。
と、書いているな。

617:616
07/08/06 01:11:13
訂正:一行目、本佐録、のあとに挿入
、昇平夜話あたりで「百姓は生かさぬ様殺さぬ様」と家康が本多正信に言ったことば。

追記:本佐録は確か「財の余らぬ様……」の方

618:日本@名無史さん
07/08/06 02:28:33
健康オタクで野戦の上手い武将



619:日本@名無史さん
07/08/06 03:43:40
>>616
家康は為政者の鏡だね。覇道ではなく王道政治。
なのに司馬の家康主人公の小説の題は「覇王の家」‥‥


620:日本@名無史さん
07/08/06 07:47:18
>>615
確かにね。
秀吉は「位攻め」の典型例だが、秀吉の天下統一レベルの位攻めは、優先度を良く考えたものだと思う。


621:日本@名無史さん
07/08/06 11:14:45
>>616
あれは百姓を外様大名並みに油断のならん相手だという風に捉えていると思うのだが。
この手の話では大抵は「弱者の大衆」という具合にとられるが、実際は何か不満があると
直ぐに他国への逃散や一揆を起こす存在という風に権力者は捉えている。

つまり、反乱起こされぬ様に、然りながら租税も取れる様に直接、目をかけなければならない
ということかと

622:日本@名無史さん
07/08/06 12:10:20
今の民主主義をみれば、いかさず殺さずが
どういうことかすぐわかるだろうに。

生かすばかりやってると、
要求はどんどん高くなる。



623:日本@名無史さん
07/08/06 12:54:20
正確には覚えてないが、

百姓から年貢を取ることは鷹に肉を与えるようなもの。
多すぎてもいけないし、少なすぎてもいけない。
多すぎれば困窮するし、少なすぎればわがままの元。
百姓どもは生かさぬように殺さぬように。

という話だったと思う。

搾り取れるだけ搾り取れという発想でないだけまだましだと思うし、
実際は他の大名より年貢は軽めだったようだ。

624:日本@名無史さん
07/08/06 13:14:44
>>621
まあ言いたいことはわかる。そんな面もある。
更に言えば戦国時代の百姓なんか武装していて、戦の後には略奪、強盗などして治安撹乱するほどだからな。秀吉が刀狩をしたのはそんな背景がなくもない。
だけど、支配者は権力を握っているわけである程度の横暴が通ってしまうこともあるわけだ。その支配者に公許として直訴の轡をかませたのは立派だろ。
繰り返しになるが、家康の年貢も二公一民(確か秀吉時代)があった時代に三公七民は百姓寄り。逆に武士には儒学でがんがらじめにしようと厳しい。
そこら辺は相互関係なんじゃないか。たとえば、家康が自分やお家のためを全く考えなかった、もしくは、平和のため、日本のためを全く考えなかったって二元論いったら嘘になるだろう。
それに時代には段階があるわけであった戦国上がりの当時、四民平等なんて理想いっても下剋上推奨するようなものだ。
家康は傲慢でもない代わりに甘ちゃんでもないってことじゃないだろうか。

625:日本@名無史さん
07/08/06 14:36:49
<儒教というか朱子学(武士道も含む)の利点>
中世では、弟は兄に無条件に従うものだとか、上の者には絶対服従、下の
者には無条件な命令とか「軍隊統制法まるだし」で、インドのカースト制の
「徳」の思想とかも混ざってたが、社会の秩序維持にそれなりに役立った。

<儒教というか朱子学(武士道も含む)の欠点>
しかし、近代日本にぺリーが来た時、立場関係が上か下かだけで絶対服従か
拒否しかなくて、例え自分の立場が弱くても、どこどこまでの範囲の契約だと
か、外交の条件を柔軟に部分交渉を行なうとかいう発想がないという欠点も
露呈した。これら欠点は、その後に続く昭和期の日本人の外交下手の原因と
して、また現在も労働者のサービス残業の遠因として根強く残ってしまった。

結論---明治でちょんまげ捨てた時に、儒教(武士道)も捨ててれば良かった

626:日本@名無史さん
07/08/06 14:59:42
>>625
無法な戦国時代に生きた奴ら対策だから、時代が進めばあわない部分もでるわな。だけど武士道を捨てるってよりは昇華してほしいかな。
上にたつものに権力と金をもって好きかって暴れ回られるよりは、清廉潔癖であってほしい。一般民として。

627:日本@名無史さん
07/08/06 21:05:57
>>625
で、きみは武士道捨てて、その代わりに何をバックボーンに持つべきだと言うのかな?


628:日本@名無史さん
07/08/06 22:13:26
>>627
飛び道具は卑怯なり、とかいう軍事的にアレな江戸時代の武士道よりも
騎士道のがよかった・・・。

事実として、明治維新で自らちょんまげや刀、武士階級も捨てちゃった
けれども、洋服やサーベルに身をつつんだ元サムライ達は、日清日露
戦争などに勝利した。だから本当は騎士道というかヨーロッパ軍制の
輸入だけで充分だったように思う。

629:日本@名無史さん
07/08/07 00:00:33
そこまでやる気なら仏教、神道もやめてキリスト教にしないと

630:日本@名無史さん
07/08/07 00:30:00
でもバテレンの背後には侵略軍が控えてますからな。
儒教、朱子学も陽明学を生んでるし。まあ、それほど悪いものでもない。

631:日本@名無史さん
07/08/07 00:45:36
>>628
その日露の例はそんなよくないだろ。明治がよかったのはトップに武士の士風が残っていたからで、昭和の乱れは洋化の堕落にもとがあるとか言われたらどう答えんのさ。
まず、そういう類のものは簡単にとってかえられるものではない。慣れるのに時が必要になる。簡単に捨てるのは、しがみ付くのと同じくらいの危うさをはらむ。時にはただの破壊になりかねない。
武士は清貧に甘んずべきもの。江戸時代、武士が借金を返済できなかった場合には「お笑いくだされ」というのがあったらしい。武士には金を返さなくてすむより、笑われる方が嫌だったのだ。
また、上の立場に立てば、下のものより、学問も武芸も励まなければならなかった。これは騎士道とは違った味だろ。無論一部にはそうでない武士もいたが、それを取り上げて評するのは悪貨は良貨を駆逐するの例になりかねない。
明治に和魂洋才って考えがあった。ここら辺応用きかせてんじゃないか? あの新戸渡稲造が日本が世界に誇りうるのは武士道って言ってたりするし。

あと、江戸初期の観点からいうと、下剋上あがりの荒武者どもに、身分をはっきり統制させて、責任を負わせたのはかなり有効な策だろ。今では馬鹿らしい長幼の序も、当時それが明らかでなければ、家中二分ってなりかねないからな。
序列が引っ繰り返るごとに一々騒動が起きる。そこらは自由と秩序の調和の問題だな。

てか、飛び道具は卑怯ってまた別じゃないか。

632:日本@名無史さん
07/08/07 08:18:54
>>631
> 飛び道具は卑怯ってまた別じゃないか。

そうそう。外様大名が鉄砲を多数保有することを抑制するためのへりくつ。
幕府は大量の鉄砲を持っていた。

633:日本@名無史さん
07/08/07 12:42:58
>>632
でも、見方によっては平和思考ともとれるぞ。徳川家の御家流は活人剣の新陰流。家康は無刀どりの達人柳生石舟斎に師事してる。息子の宗矩は滅多に刀を抜かなかったし、大坂の役で八人切り捨て秀忠を危急から救ってるが大した恩賞も受けず、自慢もしてない。
実力はあっても抜くをよしとしない。
試合にも作法があってただ勝てばよいというわけではない、ということなんじないだろうか。
まあ、土俵が違えばあれなんだがな。

ところで、ここまでいっといて聞くのもなんだが、実際飛び道具は卑怯ってどれくらい浸透してたんだ?
家康自体は鉄砲、なかなかの腕なわけだし。幕末の兵備の近代化で、飛び道具は卑怯だ、とかいう反対ってあったの?

634:日本@名無史さん
07/08/07 18:48:24
>>633
>飛び道具は卑怯だ、とかいう反対ってあったの?

無いでしょ、そんな馬鹿な意見。

そういえば時代劇かなんかで、1対1での尋常の果たし合いのはずなのに、悪者側が木の陰から鉄砲なんかで狙い撃ちにして、
「うわっ!!‥‥飛び道具とは、ひ、卑怯なりっ!ううう‥‥」
って場面あるじゃん。
多分、誰かさんはこういう台詞を真に受けてるんでしょ。


635:日本@名無史さん
07/08/07 19:03:08
飛び道具は卑怯とは、まあ負けたやつのはらいせのことばだろう。
弓馬は最高の武芸だし、鉄砲は大名もよく稽古していた。慶喜は手裏剣が得意だな。
逆に投石、印字は最下層の芸だな。

柳生親子は関ヶ原の旧筒井家家臣の取りまとめで活躍しているな。
もともと家康は奥山神影流(後の直心影流)だし柳生には親近感も有ったのかもしれない。

636:日本@名無史さん
07/08/07 19:43:39
もし武士の反乱とか内乱が起きても、相手が飛び道具を使わずに刀だけ
にこだわってくれれば、幕府は鎮圧するには刀 vs 刀の方が数の力で抑え
やすいからそういう方向で教えていた・・・とか本当かどうかは知らん。

でも、実際の官軍は洋式軍隊なので飛び道具を容赦なく使った・・・、と。


637:日本@名無史さん
07/08/07 21:43:45
 「飛び道具は卑怯」は林羅山ほかのプロパカ゜ンダ。
URLリンク(www.d4.dion.ne.jp)

638:日本@名無史さん
07/08/08 08:00:26
>>634
いや、あなたの書き方が、既にデフォでそうなっているんですよ。
「尋常の果たし合い」という表現が、既に尋常でないものとの対比で書かれている。
それは飛び道具の使用を「尋常でないもの」という前提になっている。
飛び道具が卑怯だ、という考えがないのなら、尋常も尋常でないもない。

>>637も書いているが、「卑怯」というのは、発想的に朱子学が武士の教養として入ってきたから次第にそうなっていった、ということだろう。
これは「平和」だからそうなる。「剣術」や「軍学・兵学」が泰平の世だから流行ったのと同様。
戦いが通常の社会では、戦い方に卑怯も何もない。基本は勝てば良い。
戦いが礼式化した社会だと、礼に反する戦闘方法が卑怯になる。

・・・家康と関係なくなってきた・・・

639:日本@名無史さん
07/08/08 08:03:59
戦いの礼式化が悪いと言っている訳ではないので念の為。
その究極が「スポーツ」でしょう。

640:日本@名無史さん
07/08/08 08:54:42
>>638
横からすまんが、
>>634が「尋常の果たし合い」と書いてるのは
「そういう表現が時代劇なんかには見られる」ということであって
>>634さん自身が、そういう言語的枠組の中で話をしている、ということではないと思うよ。

641:日本@名無史さん
07/08/08 09:16:01
>>639
もし「剣術」や「軍学・兵学」が本当に「礼式化した戦い」に過ないのなら、
それは悪いに決ってるだろう。それは既に何の武術でもない、のだから。

実際、江戸時代には既に
「近頃の剣術は生死をかけたものではなく、ただの試合になってしまっている」
と嘆く声が出始めるわけで。
それを嘆くということは、逆に
当時目指された「剣術」とはそのようなものではない、
真に生死をかけたものであった、ということになる。
その意味で、現代の「スポーツ」としての剣道とは異なるね。
(現代の人が、「剣道は生死をかけたものではない」ことを嘆く、
ということはあり得ない。)

まあこういう議論以前に、あなたは
現代のスポーツなんて下らん、とは思ってない人のようだから、
そもそも歴史というものに対する見方自体が違うんだろうが。

642:日本@名無史さん
07/08/08 09:55:14
俺も635みたいだと思ってた。

>>641
うーん、時代によるんじゃないか。戦国時代は切り取り強盗が武士の習いなわけで、秀吉にしたって土地が足りないなら朝鮮から切り取れ、って考えをもっている。
武人があまってしかたなかった豊臣時代から江戸時代初期、そいつらを官僚にしたてなきゃいけなかったし、下剋上の考えも改めさせて太平のルール遵守という概念をたたき込まなければならなかった。剣道もその一端。
剣道には、剣禅一致という考えがあるわけで、道場は精神を鍛える場所という意味もある。ただ武芸をならうのは稽古場。
そんな転換期だから、いろんな声もあるだろうよ。たしか、柳生流は棒振り剣法なんてよばれてたな。それでも強かったみたいだが。
ということで俺も439同様平和的と考える。
そして、権現様は太平を希求した偉大な御方と無理に締めを結んでみる。

643:642
07/08/08 09:57:05
439×
639〇

なんというミス……

644:日本@名無史さん
07/08/08 21:23:39
>>638
> 「尋常の果たし合い」という表現が、既に尋常でないものとの対比で書かれている。

ちょっと待った。武器は何を使ってもいい、人数も好きなだけ伏せてもいい、じゃそれはもう「果たし合い」じゃなくて戦争でしょ。
しかも、それは武士道がどうのという問題か?
西洋にも果たし合い(まあ決闘といっているが)というものはあるし、
それにもちゃんとルールはある。ルール違反が卑怯だという感覚もあるよ。

645:日本@名無史さん
07/08/09 07:56:51
ゴルゴ13は卑怯だ

646:日本@名無史さん
07/08/09 09:00:32
明治前までは 家康は神君といわれ崇められていた
明治に入ってからは 狸や裏切りとか叩かれた

まあ薩長 シネだな

647:日本@名無史さん
07/08/09 09:04:11
東照大権現様ですから

648:日本@名無史さん
07/08/09 09:10:21
>>644
現在進行形で互いにルールについてあれこれ言えるのが決闘で、終わった後に勝者が敗者のルール違反をあげつらうのが
戦争ってことなんだろう。
戦争で勝者の側がルール破りについて謝罪するなんてことはあり得ない。

649:日本@名無史さん
07/08/09 09:36:11
福沢諭吉は古今東西比類無し、みたいな最大級の賛辞送ってたな。
まあ、幕府を倒した薩長にしたら、幕府の創始者が勤王家で偉大な王者ってのは、かなりやりにくかったんだろう。あいつら、逆賊とまで言い切ってたからな。
それとも、関ケ原の負け側として、実際に狸家康を信じてたのかもな。

650:日本@名無史さん
07/08/09 18:15:49
じっさい水戸も尾張も勤皇だったわな。慶喜も錦旗には絶対に逆らわなかった。

651:日本@名無史さん
07/08/10 00:23:15
南北朝時代から勤皇の志厚かった井伊家に、京都のすぐ近くで徳川譜代としては破格の近江三十万石を与えたってのも水戸と同じく家康の勤皇の一つのあらわれな気がするな。
まあ、直弼は水戸が京都の志士たちを操ってる、と憎みすぎて脱線しちまったがな。

652:日本@名無史さん
07/08/10 10:48:35
山岡荘八の「伊達政宗」に家康が政宗に政治には慈悲が必要、若いときにはそれを見落としがちである、って語る場面があるんだが、最近では案外家康にはそんな面がある気がしてきた。
例えばとり潰した大久保も水野をつかって再興の機会を与えてるし、大坂の役でも豊臣氏存続の可能性を残している。
大名の妻子にしたって扱いが悪かったわけじゃないし(少なくとも戦国の人質とは違う)、才能がない君主でも家臣がしっかりしてればよいという考えは安心を生み、なかなかに味わい深い。
さらには盗人なども古着売りとして体制下に組み入れる。
現実を見つめる人だが、どこかに生かす道を作っている。
といっても、実際俺にはあんま知識がないんで贔屓のひき倒しっぽいが、家康が完璧な聖人でないとは言え、そんな片鱗はあった気がする。

653:日本@名無史さん
07/08/10 16:33:30
孔子とか老子の語る聖人のイメージに近いものがあるかもね
聖人や孔子、老子にまだ意味があるとしてだが

「己を修めて民衆を安らかにすることは、堯や舜でさえ苦しんだ」
「民衆はその徳を称揚することさえできない」(孔子)
「民衆がその存在を知るだけの君主」(老子)

654:日本@名無史さん
07/08/11 07:12:17
>>652
「完璧な聖人」にはそもそも政治なんか出来ないと思うが‥‥

655:日本@名無史さん
07/08/11 08:40:35
仏教と儒教の聖人はちょっと違うよ。
仏教は出家者の法だから家も社会も捨ててなんぼの聖人。
それに対して道家は徳をもって社会を治めてなんぼの聖人。
つまり徳治政治だな。

聖人恒無心、以百姓之心為心
(聖人はいつも私心を持つことがなく、国民全体の心を心として、衆知を集めて政治の決断を下す)
(老子・乙本第四十九章)

656:日本@名無史さん
07/08/12 15:40:39
_| ̄|(、ン、)

657:日本@名無史さん
07/08/14 00:50:35
>>565

三方ヶ原のどの辺りで戦いがあったかは分かってなかったと思いますが、
三方ヶ原の南端に浜松城があるであってますよ。
あと、犀ヶ崖の位置は現在でもしっかり分かっていて、
そこに、犀ヶ崖資料館がありますよ。

658:日本@名無史さん
07/08/14 01:27:44
家康の学問好きは並みではないから、実際聖人めざしてたかもな。
六万遍の日課念仏も普通じゃないが、実際に天を恐れていたんじゃないだろうか。

659:日本@名無史さん
07/08/14 01:32:37
259 :人間七七四年:2007/03/02(金) 21:22:22 ID:7SuLxbl3
戦後の日本という国、マスコミやら教育者からすれば、
戦前、戦後を区別しなければ現体制の前の体制である徳川家康を評価できない。
戦後の敗戦からの平和志向からは朝鮮出兵した豊臣秀吉も評価しにくいだろう。
戦後は新しいものが求められ今までの権威を打破するという価値観の中で織田信長は高評価を得たんじゃないかな。
あとは司馬遼太郎という昭和を代表するような大衆作家が信長好きの家康嫌いだったのも大きいかと思う。
楠木正成の例でもその時代によって人気が出たり、下がったりがあるし、
マスメディアがそうゆう操作をすることもあるんじゃないかな。

660:日本@名無史さん
07/08/14 07:02:05
企業経営者の中では家康は評価高いが。

661:日本@名無史さん
07/08/14 07:12:07
天智、頼朝、家康
賢いしすごいんだろうけど詰まらん三英傑

662:日本@名無史さん
07/08/14 11:06:34
詰まらんとしか感じないようではまだまだ社会勉強が足りないと思う
おれも社会勉強なんぞまったくできてないけどな
なんせ、山岡荘八で知った程度だから


663:日本@名無史さん
07/08/14 12:37:00
>>660
山岡荘八の徳川家康がサラリーマンのバイブルと呼ばれてたっけ。あの時はすごいブームを巻き起こしたらしいな。
ただ、資料根拠をはっきりさせてない小説だからなあ。そこが残念だ。
せっかく長い年月かけて、多くの資料にあたってるのに。随想によれば確か岡崎に取材に行くたびに有志が三十人、五十人集まってくれるぐらいらしい。
そういえば、徳川家康の資料って今どうなってんだろ。

664:日本@名無史さん
07/08/14 22:47:00
>>661
何故尊氏がないの?

665:日本@名無史さん
07/08/16 03:17:25
>>664
他と違って兄弟間抗争で泥沼になったからでは?
天智天皇は死んだ後の話だし、
頼朝は討伐しちまったし、
家康にはいない。

666:日本@名無史さん
07/08/16 07:14:50
>>661
まあ、玄人ウケするタイプ。老若男女が憧れるヒーローではないね。
昭和50年代、強いけど人気がなかったのが横綱北の海(現日本相撲協会理事長)と阪急ブレーブス(現オリックス)


667:日本@名無史さん
07/08/16 07:20:01
>>663
どちらかといえば、経営者層にまずウケて、それからサラリーマン層へと。
しかも、どちらかというと、経営者から薦められてという形で、新橋や新宿で飲んだくれるサラリーマンではなく、日経新聞を好んで読む層に浸透した。
「成功者」としての鑑だったんだろうね。

80年代、保守本流の時代。


668:日本@名無史さん
07/08/16 07:33:55
あちゃ、まとめて書けばよいのに連投スマソ。
>>663
山岡荘八は筋金入りの歴史小説家だね。史料にキチンと当たりながらも、それをこれ見よがしに作中に出したりしない。
司馬遼太郎とは大違い。
作風としては、ロシアの小説家、トルストイとかドストエフスキーみたいな感じを受けた。
読んだりして影響を受けているのかな。彼らは劇作の影響を受けているが、山岡は劇作家ではないからね。
余計な作者自身の解説を最小限にして、あくまで登場人物の所作と台詞でストーリーを進行させて行くやり方。
これは、まず自分で対象を完全に把握した上で、気力と丁寧さ、根気が必要な執筆になるはず。
どうしても大作になるしね。


669:日本@名無史さん
07/08/16 12:53:52
>>668
経営者から一番受けた質問は、部下に薄いのに部下はなんでそれに満足してついていったか、だって。
当時はストライキとかあったからなあ。
そういえば、ある社長の信長や秀吉はいいが家康は独創性がなくて参考にならんという新聞の投稿に、
信長は破産覚悟の革命家、秀吉は放漫政治の失敗者、そんなもん学んでどうするんだみたいなことをもらしてた。
まあでもよく調べているとはいえ小説家ということは念頭に入れておく必要はやっぱあるかな。資料の断片を繋げるのには空想が必要になっちゃうし、話を盛り上げたりもしなきゃいけないから。本人もそれは自覚しているみたいだし。
家康はかなり調べたが少し誇張気味かもしれず公に苦笑されるかもしれない、信長はエンターテイメントに撤したと書いてたかな。

670:日本@名無史さん
07/08/16 18:15:21
絶対的な勝利と、成長路線が支えていたと思う。
なんだかんだと言っても、松平→徳川家は、三河一国から、遠江、駿河、甲斐、信濃。そして関八州と領土は常に拡張しているから。
いくら吝嗇でも、絶対量が増えている。家康配下の者共、当初から考えれば待遇は向上しているはず。

例えば、室町から戦国時代は兄弟争いが社会的に絶えないが、毛利はうまく行っている。
それも版図の絶対量が増えているから。毛利本家の家督でなくても、もともと安芸国吉田荘しかなかった一家が中国地方の大半を手に入れた訳だから、満足だろう。

不平不満は言い出せばキリがない。徳川家でも「三河物語」なんてあるし。


671:日本@名無史さん
07/08/17 15:06:58
>>668
> 山岡荘八は筋金入りの歴史小説家だね。史料にキチンと当たりながらも、それをこれ見よがしに作中に出したりしない。

山岡が描こうとしたのは歴史的な史実ではなく
(もちろんそれは踏まえているが)歴史上の人物の「心」だろうな。
極力その人物の立場になって考えようとしている。
だから、メチャクチャくだらない悪人とかあんまり出て来ない。

> 史料にキチンと当たりながらも、それをこれ見よがしに作中に出したりしない。 司馬遼太郎とは大違い。

そうだね。まぁ司馬が描きたかったのは結局は劇画チックな冒険活劇。
歴史上の人物のキャラを借りながら現代人を描いたわけで。
だから人気が出たとも言える。
くだらない人間とかしょうもない悪人とかいっぱい出て来るしね。
まぁそれでも小説中に延々と史料を丸々と引用する津本陽よりは
マシかな。似たようなもんだけど。

672:日本@名無史さん
07/08/17 22:50:55
646
家康だって薩長の母体である毛利島津をかなり虐めてるけど
なにか
?文句ある?

673:日本@名無史さん
07/08/18 03:11:44
>>671
うーむ、俺はそういう評価は良く分かるし、それはそうだと思うんだが、反面、登場人物がみんな「慧眼」になってしまうという部分がどうかなと思ってしまう。
ここは家康のスレだから、山岡論を延々とぶってもどうかと思うが、それでも書くなら、家康や信長、秀吉辺りは、相応の慧眼があったかも知れないが、他はどうかな?

後の時代から見て書くから、あそこまで将来を見通せる訳で。
明日の世など、誰も確固たるものがない中で、時に思惑が外れたり、逆に結果オーライになったりするのが人間の常なんじゃないかな。
余りにも、慧眼ぞろいになってしまうのが、不満といえば不満ですね。
まあ、良く書けているし、あれだけの大作にドタバタの要素まで取り入れたら、読者が話についていけなくなりそうな感じはするけれどね。


674:日本@名無史さん
07/08/22 23:56:11
スレ枯らし

675:日本@名無史さん
07/08/23 23:36:39
座りしままに、食うは徳川。

立って食わんだろ、普通w

676:日本@名無史さん
07/08/25 00:27:16
「座して・・・」は楽してとか何もせずにという意味だが、
一番苦労してるな、家康。
優雅に水の上を漂っているように見える白鳥が、
水面下で必死に水を掻いているというたとえ。
イメージ的には白鳥とは言い難いがw

677:日本@名無史さん
07/08/25 02:03:54
縁の下の力持ちが、建物が炎上し、住人もどこかに行ってしまって仕方なしに自分で家を建てて主人になった、って感じかな。


678:日本@名無史さん
07/08/25 10:44:35
長生きしなきゃ天下は取れない。
取ったとしても子孫が天下人であり続ける体制を構築することはできない。

679:日本@名無史さん
07/08/25 10:55:59
まあ、幼時から人質生活を転々とし自分の家族を泣く泣く手にかけ
老臣達に死を命じ、戦では何度も死にかけ・・・

なんと壮絶な人生か。

680:日本@名無史さん
07/08/25 13:55:21
信玄と今川領折半したときも、取り決めた境界を越えてどんどん占領されて、
それに文句を言うと、
「あれは部下が勝手にやった事、サーセンw返すねwww」とごまかされ、
その下の根も乾かないうちにまた領内を荒らされる。
 
…アレ?どこかで見たような話だな。


681:日本@名無史さん
07/08/26 23:07:33
「信長は本当に天才だったのか」を主題とする本が出てたが、
また信長が信康を殺させたなどと書かれてた。
一体いつまで御用学者のついた嘘に騙され続けるのか。
通説論者がいたら、信長が命令したということで
この事件を詳述してみてくれ。
それをやろうとすると疑問・矛盾だらけでさっぱり
首尾一貫しないものになること間違いなしだが。
例えば徳川家史料でいう信長は築山殿を殺せとは
一言も言っていない。なのに家康は信康に先立って
築山殿を殺害している。
この一事だけを見ても2人を殺したのは家康の意思
であることは明らかだ。

682:日本@名無史さん
07/08/30 10:17:04
朝青龍の処分にしても、理事長は当初そこまで大事にするつもりはなかったが、こけにされた巡業部の突き上げに
よって、2場所連続出場停止という厳しい処分にした。

これを巡業部の命令ととるか、理事長自らの意思ととるか。

683:日本@名無史さん
07/09/04 02:09:07
681どんな親だって子供を殺したい親がいるか?
  このときの家康は弱虫だったんだよ。信長と戦って死ぬ勇気が
  なかったんだよ。


684:日本@名無史さん
07/09/04 02:58:36
>>681
中公新書の徳川家康には
築山殿を殺せとは言ったが
「女の事だからやりようもあったはずだ
  それも考えず打ってかっかたのか」
みたいな記述が確かあったよ

685:日本@名無史さん
07/09/04 11:07:37
信長が信康の殺害を命じたという話は今では否定されている。
最近では浜松派と岡崎派が対立し、家康自身も岡崎衆を制御できなくなったため、
岡崎衆の粛清を行ったというのが定説。
また、家康が武田信虎のように追放される可能性もあったようだ。


686:日本@名無史さん
07/09/04 12:24:29
浜松派が信長に讒言して信康と築山を殺す命令を出させるようにしむけた。

殺してもいいですね?
仕方あるまい、よきように。

実際、こういう会話だったのが、
家康の耳には信長からの粛清命令として届いた。


687:日本@名無史さん
07/09/04 13:15:21
じゃあ、晩年酒井忠次が息子の処遇について文句を言ったとき、
家康がお前でも倅がかわいいのか?と小言を言った、
というのは創作なのかい?

688:日本@名無史さん
07/09/04 13:33:18
>>687
そういう伝説はあるらしいね。

689:日本@名無史さん
07/09/04 13:57:14
まあ創作だわな

690:日本@名無史さん
07/09/04 14:48:05
>>683
家康は30代後半で、まだまだ若い側室との間に
子供を作る予定だったろうし、子供の夭折も多かった昔は、
それほど一人の子供に執着していたとは思えんがな。
子供が死んでも、また作ればいいか、みたいな。
戦国大名が多くの子供を作るのも、
息子は戦へ行って死ぬために、娘は同盟国へ嫁という名の人質に出すために、
子供は親が権力を握るための人身御供みたいなもんだったし。


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