10/04/09 20:33:29
「聖賢にも立派な功績をあげたいという意気込みがないわけではない。
ただ、それらは天理に合致したものであり、
そのかぎりにおいてはそのまま道であるから、
功績のための意気込みという言い方はあたらない」王陽明
789:日本@名無史さん
10/04/10 16:02:35
心が病むのは知と行が二つになってしまうからだろう
知行合一の教えを大切にしたい
790:日本@名無史さん
10/04/10 19:25:06
「動中に静あり 静中に動あり」 周濂渓
791:日本@名無史さん
10/04/10 19:36:15
だからこそ油断大敵
792:日本@名無史さん
10/04/10 19:52:48
そうしてこそ、
「動にも定まり 静にも定まる」 程明道
793:日本@名無史さん
10/04/10 19:58:49
「定なるものが心の本体であり、つまり天理であり、
道や静は、その定なるものが時々に応じてあらわす変化の局面である。」 王陽明
794:日本@名無史さん
10/04/11 11:38:31
>>793
訂正
×道や静
動や静
795:日本@名無史さん
10/04/14 11:20:54
なぜ心は惑わされるのか
好悪の感情が内と外でバラバラになるからだろう
心の内と外を一つにしようと思う
796:日本@名無史さん
10/04/16 13:45:56
正直心も虚偽心もいらぬ
良知ひとつがあればいい
797:日本@名無史さん
10/04/17 07:43:42
自らを戒め、身を慎むことが基本
功夫(日々重ねる修業)の基本は静にある
しかし、動を嫌い静に執着してしまうと、
事が起きたときにオロオロして対処どころではなくなってしまう
もちろん動の局面を重視して戒め慎むことを忘れ、
むやみやたらと慎重さに欠ける行動発言の類をするのも執着だ
だから、とってつけたような善心も悪心もいらないと思う
やむにやまれずは二分されない本当の正直心。
798:日本@名無史さん
10/05/04 07:55:44
「未発の中がとりもなおさず良知であり、それは前後内外なく渾然一体としたものです。」王陽明
799:日本@名無史さん
10/05/16 11:05:23
『のちの人はまちがって、陽明学を頓悟超脱の教えのように思います。
頓悟は頓か(にわか)に悟るので、禅宗の本性を見とどけて仏になるのはそれであります。
超脱は修行努力などは飛びこえて進むことであります。
陽明学は、頓悟超脱とはこと変わって、克己格物の学で、現在の力量分限の及ぶところに随い、息づまるような奮闘を続けるのであります。
しかし、支那でも日本でも、時には「四句教」の第四、第三、第二を飛びこえて、
まっしぐらに第一句に飛びこみ、心の本尊様になりきった心地で勝手な行動をするものがある。
これを似而非なる慢心者というのであります。』陽明学講和(山田準 明徳出版社)からの引用
心の本体は無善無悪(第一句)無善無悪是心之体
意が動いたとき善悪が生じる(第二句)有善有悪是意之動
善を(先天的に)知り悪を(先天的に)知るのが良知(第三句)知善知悪是良知
善を行い悪を去るのが(心の)ことを正す修行(第四句)為善去悪是格物
本当にまっしぐらに第一句に飛びこめる天才ならば、山田準の批判は当たらないのだろう。
それは天泉橋の問答での王陽明の意見を見てもそうだし、
中央公論新社板の伝習録(上中下巻を一冊の収録)での下巻115での溝口雄三の解説を読んでもそう思う。
しかし王陽明が言うように、顔回、程明道のような天才たちですら第一句に飛びこむよなことはせずに、
着実に修行に努めたのだから、陽明学を学ぶにあたっては山田準の姿勢もまた正しいだろう