河井継之助at HISTORY
河井継之助 - 暇つぶし2ch499:日本@名無史さん
10/04/16 17:36:59
河井と佐川なら間違いなく対立してるでしょ。
まあ、佐川は軍議では対立しても、それ以外では評価してたかも知れないが

500:日本@名無史さん
10/04/18 04:41:04
長岡藩程度の戦力で、あの局面での中立は無理だろう、官軍側の交渉相手が
岩村よりましな一線級であっても交渉が成立できたと思えない。
ただ河井が負傷せずに、戦闘が長岡藩有利な状況で和解して官軍に参加、列藩
同盟への交渉役などで影響力を発揮し、新政府でのいいポスト獲得ならあり
えたかもな。



501:日本@名無史さん
10/04/19 13:41:31
無理と思うのは後世の発想が多分にあって、当事者は事態を自分に都合よく解釈しがち

米沢藩の宮島への広沢真臣の忠告が示すように、
事前情勢的には新政府側が折れる可能性に望みを託しても不思議ではない

502:日本@名無史さん
10/04/19 14:42:58
>>500-501
勉強になりました。

503:日本@名無史さん
10/04/24 14:35:33
河井に「もし戦国に生まれていれば、素手で百万石くらいとれるかもしれない」
と言わしめたのが安田鉚蔵、ところが安田は強硬な恭順派で河井に蟄居させられる。

自分は河井にシビレルが、長岡の人たちにとっては安田ら恭順派の方がよかった
だろな。

504:日本@名無史さん
10/04/24 17:23:13
稲垣さんたちの体制ならそれで良かったかも知れないけど、山本家も含めたら、
藩政改革を行った牧野忠恭の下では抗戦派が実務の中枢だったんじゃない?

505:日本@名無史さん
10/04/24 19:01:55
河井と勝海舟に共通点を感じるが、表舞台に出るのが遅かったから、勝に比べて
使える手駒が少なくてちょっと気の毒。

506:日本@名無史さん
10/04/25 11:29:10
直参の勝は島津斉彬とも親しかったから、西郷も初対面から一目おいていた。
河井とは背景がかなり違う、むしろ己を誇り過ぎるきらいのあった佐久間象山
の方が近いとおもう。
ガトリング砲を自分で操作したのは、郷土の英雄の謙信の司令長官なのに
前線で戦う姿を重ねて藩士たちに印象づけたかったのかも、官軍との交渉も
腹心をやって成立しなければ腹を切らせて、それを政治利用するくらいの事
をやれよ。
みんな自分でやりすぎる。
戦後の長岡の人は、河井を戦争犯罪人としその遺族を居ずらくして石もて追い
恭順派の安田らには逆に不忠の腰抜け武士と罵っているな。

507:日本@名無史さん
10/05/02 17:31:58
>>498
佐川官兵衛は長岡で一緒に戦ったでしょ
河井が居る本陣隣の農家に泊まってた記録もある
皆それぞれ分宿なのでこれは相当に良い扱い
>>506
長岡市内じゃそうかもな焼け野原になって維新後に県都も奪われた訳だから
ただ長岡は長岡藩の領地より天領地の方が広かったので領民は
徳川に江戸時代通じてずっと豊かに暮せた恩もあったので
意地を通した河井はそれなりに尊敬されたろう

508:日本@名無史さん
10/05/03 20:28:47
安田鉚蔵もサムライなら河井に蟄居させられてても、開戦したら戦闘指揮官と
して参戦すべきだろう、関ヶ原の大谷刑部みたいな死に方の方選べよな。
官軍に投降なんて腰抜けめ。

509:日本@名無史さん
10/05/08 14:01:51
遅れましたが、5月1日の産経新聞、学術・文化コラム「名作まち歩き」にて、
司馬遼太郎の「峠」が取り上げられました。
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
興味のある方はどうぞ。
>>508
庄内酒井家の名将と謳われた、「鬼玄蕃」こと酒井了恒。
彼の父親は慶応3年に起きた「丁卯の大獄」の際、主犯として蟄居・謹慎させられ、
家禄も1500石から700石に減知。
それでも、父の政敵であった松平親懐、菅実秀とは敵対せず、彼らの下で戦っている。
安田が頑固者なのか、酒井が変わり者なのか?

510:日本@名無史さん
10/05/10 09:29:32
関ヶ原の大谷刑部もいいが、西南の役の貴島清もカッコいい。
死に方が武士らしい、それにつけても安田の腰抜けめ、河井の人物眼もあてに
ならんわい。

511:日本@名無史さん
10/05/14 13:11:27
河井は戦友である会津、米沢は警戒してたが、庄内は信用してたらしいね。

512:日本@名無史さん
10/05/15 10:19:34
越後長岡・米百俵塾 入門編を開塾します
人材育成の重要性を説く「米百俵の精神」を、長岡の歴史や文化を通じて学びます。
今回の入門編では、『ノモンハンの夏』、『昭和史』、『幕末史』等で有名な作家の半藤一利氏、
河井継之助記念館館長 稲川明雄氏、長岡郷土史研究会の今井雄介氏が講師・ガイドを務め、
「米百俵の精神」と長岡の歴史について、わかりやすく解説します。
初めての方にも配慮した内容となっておりますので、
「米百俵」や長岡の歴史に興味をお持ちの方はぜひご参加ください。
実施日 平成22年6月15日(火)、16日(水)
対 象 18歳以上で、原則として2日間参加できる方
受講料 10,000円(宿泊料、15日夕食、16日朝食、16日昼食、講師料、教材費含む)
※宿泊、食事が不要の場合は1,500円となります。
※上記金額には現地までの往復交通費は含まれていません。
受付期間 4月26(月)~5月25日(火)
申込方法 所定の申込書に必要事項を記入のうえ、
郵送、FAXまたはメールでお申し込みください。電話での受付も可能です。
お問い合わせ
申込先 〒940-8501 新潟県長岡市幸町2-1-1
越後長岡・米百俵塾実行委員会 事務局(地域振興戦略部)
 電話:0258-39-2260 FAX:0258-39-2254  
 E-Mail:gnagaoka@city.nagaoka.lg.jp
長岡市ホームページはこちら
URLリンク(www.city.nagaoka.niigata.jp)
>>511
単純に庄内酒井家が強いということと、領地が海に面しているということ。
会津松平家・米沢上杉家とも、領地が内陸部で海に面していない。
庄内酒井家は酒田港という東日本随一の港を有しており、
そこから船で海外亡命という選択肢を実行する事も可能。
実際、牧野家家臣団は仙台でスネル兄弟に海外亡命の可能性を打診したが、
お金が足りないとの理由で、亡命を断念した話が残っている。



513:日本@名無史さん
10/05/15 11:14:59
大村が長岡に来れば、3日で河合を倒せるでしょ。

514:日本@名無史さん
10/05/15 13:36:19
>>513
薩摩版大村益次郎とも言うべき、中原猶介の記事です。
歴史作家桐野作人さんのブログに詳細が記されています。
URLリンク(dangodazo.blog83.fc2.com)
薩摩軍団の軍制改革を実務面で引っ張ってきた人です。
伊地知正治と共に、薩摩の双璧というべき存在です。
伊地知と比べると扱いが地味なのは、戊辰戦争で戦傷死されているからです。


515:日本@名無史さん
10/05/20 11:28:19
大村が長岡に来ても、
酒の肴の豆腐を隠しておけば発狂するから3日で江戸に帰っちゃうよ。

516:日本@名無史さん
10/05/22 13:35:20
われこそは、継之助信者という方はいかかですか?
書道吟の夕べ ~河井継之助を偲ぶ 漢詩の心を感じて~ 開催のお知らせ
詩吟の流れに合わせ、 詩の内容を書き表していく書道吟。
視覚と聴覚の両方で詩の世界を味わうことができます。
今回は、越後長岡藩幕末の三傑、河井継之助、小林虎三郎、三島億二郎にまつわる漢詩を吟じます。
詳しい詳細は、こちらへ。
URLリンク(tsuginosuke.net)

河井継之助記念館ガイドボランティアの会について
河井継之助記念館ガイドボランティアの会は、来館者と記念館の架け橋となるよう願って設立されたものです。
主に、土・日・祝日を中心にガイド活動をしています。
来館してくださる方へ「おもてなしの心」で対応していますので、ぜひご利用ください。
また、会員も随時募集中です!「河井継之助や長岡の歴史について興味がある」
「歴史はよく分からないけれど、生涯学習のつもりで勉強したい」という方は、
ぜひご入会ください。年会費は1,000円です。
詳しい詳細は、こちらへ
URLリンク(www.city.nagaoka.niigata.jp)

517:日本@名無史さん
10/05/22 18:44:41
>>513
大村って、山縣が援軍の要請をしても無視していて、
木戸や岩倉や西郷や大久保が越後に大軍の派遣を決定すると嫌な顔をしたとあるね。
大村的には、仙台や米沢を倒してから、会津を倒せば、世の中丸く収まると考えていたから、
越後は眼中になかったのでは。
むしろ、久保田を離反させて戦力を分断して、共食いによって、
越後や会津に戦力が来ないようにしていたのでは。



518:日本@名無史さん
10/05/23 11:20:24
>>498
ちなみに、会津軍は略奪放火等の乱暴が多く、
佐川官兵衛がその指揮官であったことから、
河井継之助が彼によい印象を持っていたとは思えない。

519:日本@名無史さん
10/06/16 22:56:36
「鉄と麦と赤レンガ~河井継之助と外山脩造 志のリレー」
維新の動乱期にあって最も激しい戦いが繰り広げられたとされる北越戦争。
官軍に立ち向かった長岡藩・軍事総督 河井継之助が最期に伝えた「志」とは?
ラストサムライの遺言を実直に、そして見事に成就させたのが弟子の外山脩造だった・・・。

外山脩造(1842~1916 長岡市出身)
北越戦争で一敗地にまみれるも、師と仰ぐ河井継之助の言葉をよりどころとして立志。
逆境をバネとして大蔵省、日銀大阪支店長等を経て、アサヒビール、阪神電鉄、商業興信所(日本初の信用調査会社)等の創業に関わる。関西財界の礎を築いたといわれるほど功績は大きく、経世済民、常に庶民の立場に身を置き利己を排した志の人。

越後・維新の物語
URLリンク(uxtv.jp)

河井継之助と外山修造の特別番組やるらしいぞ!


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