07/02/05 01:26:12
戊辰戦争において要領がいいのは美徳以外の何物でもないだろう。
御家を戦に巻き込み、領土を焦土にし、領民を苦しめるのよりよっぽどいい。
到底そうは思えんがな。だから自分は日和見マンセーだ。
自分達にとっての利益を追求するというのは別に悪いことでも何でもない。
301:日本@名無史さん
07/02/05 21:52:27
「河井継之助伝」にはこんな記述がある。
『山県老公に御逢いした当時は、某重大事件(大正十年の宮中某重大事件)の為、老公は快々として楽しまず、
余程機嫌が悪かったところが、彼。の蒼龍窟の絶筆(梛野嘉兵衛に宛てし書簡)をお見せしたに、非常に喜ばれ、
戊辰戦争当時を追懐して、
「之は実に珍しい、貴重の品を拝見した」
といわれ、
「私は河井という人には小千谷では逢わなかった。今から考えて見れば実に残念なことをしたと思う。
あの当時の状況は、譬えてみれば長岡藩の立場は、丁度今の(欧州大戦争〈第一次世界大戦〉の始まりし当時なり)
ベルギー国のような具合で、中立地帯であるというのを、之を突破して進むというのであった。
我々の意見は、兎に角河井をひっくくってしまえば後は大丈夫だろう、河井をひっくくらうというものであった」・・・・・
そうそう、この手紙にある「分捕り品山の如し・・・・・」とあるが、之に就いて思い出した。おもしろい話がある。
分捕られた品は皆薩摩の方の物で、彼等はすっかり分捕られてしまった、実に閉口して居った。
我々は(長州人)は何遍もからかってやったものだ。どうだ大急ぎで薩摩へ帰って、もう一度用意しなおして出て来るんだね。
-といってやったものだよ」
云々。
参考文献 河井継之助伝 今泉鐸次郎著 目黒書店 昭和6年 762ページ
302:日本@名無史さん
07/02/05 21:53:47
「河井継之助伝」にはこんな記述がある。
『山県老公に御逢いした当時は、某重大事件(大正十年の宮中某重大事件)の為、老公は快々として楽しまず、
余程機嫌が悪かったところが、彼。の蒼龍窟の絶筆(梛野嘉兵衛に宛てし書簡)をお見せしたに、非常に喜ばれ、
戊辰戦争当時を追懐して、
「之は実に珍しい、貴重の品を拝見した」
といわれ、
「私は河井という人には小千谷では逢わなかった。今から考えて見れば実に残念なことをしたと思う。
あの当時の状況は、譬えてみれば長岡藩の立場は、丁度今の(欧州大戦争〈第一次世界大戦〉の始まりし当時なり)
ベルギー国のような具合で、中立地帯であるというのを、之を突破して進むというのであった。
我々の意見は、兎に角河井をひっくくってしまえば後は大丈夫だろう、河井をひっくくらうというものであった」・・・・・
そうそう、この手紙にある「分捕り品山の如し・・・・・」とあるが、之に就いて思い出した。おもしろい話がある。
分捕られた品は皆薩摩の方の物で、彼等はすっかり分捕られてしまった、実に閉口して居った。
我々は(長州人)は何遍もからかってやったものだ。どうだ大急ぎで薩摩へ帰って、もう一度用意しなおして出て来るんだね。
-といってやったものだよ」
云々。
参考文献 河井継之助伝 今泉鐸次郎著 目黒書店 昭和6年 762ページ
303:日本@名無史さん
07/02/05 21:56:08
すまん、おなじやつ2度いれた。
304:日本@名無史さん
07/02/05 22:36:54
>>300
井上勲氏の「王政復古-慶応3年12月9日の政変」の273~276ページに理由付けがあるよ。
あなたがこれに納得するかどうかはわかりません。
275~276ページに結論が書いてあるから、そこだけ引用するね。
「天皇の決断と突然の公示とその想像を絶した内容と、発動のための軍事発動と、これらの複合は、たしかに人身を戦慄に陥れるだろう。
その何れもが予想と理解を超えたことだからである。天皇の決断とその内容が予想の内にあり、軍事発動の目的が理解できるならば、まだしも対応の方法がある。
だが、そうではない。いずれも予想と理解を超えている。
ここから戦慄が生じる。戦慄は畏怖に変化する。決断を下し軍事力を発動させた主体、つまり、天皇睦仁への畏怖へと変化する。政治君主としての天皇の権威は、
一挙に高揚するわけである。
そして、天皇への服従が始まる。服従を強いられたものは、戦慄に所由する畏怖である。
まずは、強いられた服従である。けれども、他から強いられてはじまった服従は、しばしば、自己の判断にはじまった服従よりも、その程度において強く、また強くなりうる。
何がしかの判断に基づいて、服従がはじまったとする。ここでは、その契機をなした判断の根拠の強弱は、そのまま服従の程度に比例する。その根拠が消滅した場合、
服従の関係が解除される可能性もなくはない。
これに対して、強いられた理由なき服従は、次のような経過をたどって内面化するからである。
戦慄に発生する畏怖に強いられて、服従が始まった。当面は、理由なく服従すること自体が行為の確立である。だが、強いられた服従をそのまま放置することはできない。
強いられた者には、服従の行為を理由づけて、これを正当化しようとする心理がはたらく。外から強いられてはじまった服従は、内から正当化されていく。
この作業の結果が、天皇への忠誠である」
服従するさいの理由付けが、民の為、お国の為、御家の為といっておけば、誰もが反対はしないからね。
更にいえば、これに箔をつけるための小道具が錦旗だったのでは・・・・・
参考文献 「王政復古-慶応3年12月9日の政変」 井上 勲 中公新書 平成3年
305:日本@名無史さん
07/02/10 13:47:55
議論も出尽した。潔くスレを閉じよう。
【完】
306:日本@名無史さん
07/02/18 20:27:28
>300 天皇の命令だからといって服従しなければならにいのは
愚民化政策ではないか。
307:日本@名無史さん
07/02/22 12:52:34
スレ違いも増えてきた。
レスもない。
つまり議論は出尽した。
潔くスレを閉じよう。
【完】
308:日本@名無史さん
07/02/22 20:25:12
このスレの結論は、これだ↓
「せっかく買ったガトリング砲、使わねえと勿体無えもんな!」
309:日本@名無史さん
07/02/22 20:30:38
>>308
実際、継サ、そう思ってたと思うw
310:日本@名無史さん
07/02/22 21:22:47
>>309
長岡牧野家出身で、慶応義塾を卒業後、社会主義の研究者になった城泉太郎の伝記には、ガトリング砲は横浜で購入された時点では、箱の中に部品が梱包されていて、
長岡にて、藤野某が英語で書かれている説明書とにらみ合いながら組み立てたとあるけどね。
>>308
スレの結論、
「痩せ我慢、負けるな継さ、ここにあり!」
で、いいんじゃねぇ?
311:日本@名無史さん
07/03/04 09:20:10
>>299
それは、エドワード・スネルから牧野忠訓宛の手紙の一説に書かれていることだね。
たしか「河井継之助伝」の669ページから672ページにかけて載っているやつだね。
あの当時、ルドルフ・リンダウやポンペ・ファン・メーテルフォールト、ヤング・ブラックなど横浜などに住んでいた日本通の外国人は総じて反薩長派だったんだよね。
アーネスト・メイスン・サトウの「一外交官の見た明治維新」でも、イギリス以外の外交官たちは、奥羽越列藩同盟が勝つことを願っていたけど、
会津松平家が降参したので、皆落胆したと書き記しているね。
ルドルフ・リンダウの「スイス領事の見た明治維新」を読むと、黒船がやってくるまでの日本人はつつしまやかで謙虚で、
謙譲の美徳にあふれていた青い鳥だったのに、イギリス人やアメリカ人と付き合いだすと、下品で、好戦的で金銭や土地に貪欲になるカラスのような人々になったと嘆いているね。
ルドルフ・リンダウやエドワード・スネルはそういうことを世界標準だといって、日本人に押し付けるイギリスが嫌いで、奥羽越列藩同盟を支援していたからね。
手紙の中でも、河井に投じた金銭は失ってもぜんぜん惜しくもなんともない。
むしろ、今回負けたからといっても、落胆することなく、海外貿易で金を稼いで、稼いだ金を教育に投資して、人材を作ればいいんだ、という提案までしている。
まぁ、小林虎三郎よりは前向きなことを考えていたよね。多分。
312:日本@名無史さん
07/03/04 20:56:10
「スイス人はイギリス人が嫌い」まで読んだ。
313:あゆぼん1世
07/03/05 00:11:41
>>236
なるほど、ドラマの関係で読売系列がその後もフォローしている様ですね。
URLリンク(www.ntv.co.jp)
,/レ‐-ァ_
7::::::::::::::::ヾ
n !::::::::::::::::::ミ
( j レr ' ⌒ ヽ
Y^ヽ、/ ̄ ̄ ̄/
‐┬〈 〈
ただ―放映当時の政界の事情と過去の歴史を照らし合わせてみると
URLリンク(www.aki7.com)
この話―“統一がらみ※¹※² ”の陰謀の一端である可能性も高そうですよ。
URLリンク(www.chojin.com) ※¹
URLリンク(www.aki7.com) ※²
314:あゆぼん1世
07/03/05 00:13:04
>>313 つづき
、 _v-::ニ:‐-ェ__
ゝ::::::::::::::::::::::::::Z__
_/::::ヽ::::::\::::ヽ::::::Z
//::/┰\┰ヽ:::',::::ヽ
/i::/. ゛゛ ゛゛ ヾ:::::ヾ
!ハヽ _-n‐_ノリ!W `
/ニ)
おそらくこの『河井継之助 ~駆け抜けた蒼龍~』はその当時、
核武装論者で時期総理候補だった安倍晋三官房長官を
フォローすべく企画・制作された『隠密』的時代劇だったのでしょう。
従って、このドラマには―
“ 国交を回復したお父上から継承した中国との太いパイプを持ち、
911以降、日米ネオコンの無謀と横暴に対しては常に批判的な
態度を崩さない田中真紀子さんの選挙区の1つ長岡周辺の人達に
「力なき平和主義者が辿った末路」という地域的な悲劇を想起させ、
同時に
『平和を愛する人』ほど『核兵器』の様な『強力な兵器』に盲目的に
縋り付きたくなるような潜在的なメッセージが暗に込められていた ”
と推測するのは、政界と関係が深く、資本的にはユダヤ系投資家の
思うがままのスポンサーやその取りまとめの広告代理店等の言いなり
になり易いマスコミ関係者を疑い過ぎでしょうか(笑)?
【ターゲットは平和主義者!?死の商人は時代劇さえ利用する!!】
315:日本@名無史さん
07/03/05 09:38:42
田中真紀子を引き合いに出すのは、選挙区住民の民度の低さをアピールするのとイコールだぞ。
316:あゆぼん1世
07/03/06 01:57:19
>>315
(*^-^)ノああ、この物語の舞台が長岡※¹と聞いたので
(´-`).。oO(ひょっとして…)と思って調べてみたら
案の定、>>74 あたりから >>76,>>256と「叩き」が
入ったので「シナリオ通り」!?( ̄ー ̄)と思ったまでです。
が、いささか大がかりに思われる“統一”側の『仕掛けと目論見
(>>313-314)』も、今回はどうやら不発に終わった様ですね(笑)。
※¹
長岡近辺はこの作品の前年にあたる2004年の
『7.13水害』のあと、10月23日『新潟県中越地震』
を経験しています。
【HAARP※²】の存在とその恐るべき可能性を知っていて、
※² URLリンク(www.google.co.jp)
11月20日から公開された『ハウルの動く城』に隠された
暗号(暗示、あるいは呪いや魔法)に気付くことが出来た人
には怖い話だと思いますよ。
当時のネタ → URLリンク(www.aki7.com)
317:日本@名無史さん
07/03/18 03:27:08
あたまもる砦のかかり影ふけて 夏も身にしむ越の山風
うちいたす筒のけふりのかきくもり たまはあられの心地のみして
山県 狂介
318:日本@名無史さん
07/03/18 04:32:46
薩摩長州俎板に乗せて 大根切るようにチョキチョキと
~長岡牧野家家臣
319:日本@名無史さん
07/03/18 08:57:00
男子死して、身肢衣服共に清潔ならざるは、一生の恥である
~時山 直八
320:日本@名無史さん
07/03/21 10:24:14
継之助の甥に根岸練次郎という人物がいる。戊辰戦争を回想した一文を記した文がある。
その冒頭はこう有る。
『慶応戊辰五月三日夜八時、叔父・河井継之助秋義、我家に来り、
書院に於いて余の父母と談話を交え居られたり。
余は当時十三歳の幼弱にして、世上人事は固より之を了得するの智能を具えざりしも、
父母の背後に侍して、叔父の父母に語られる事柄を聴きたり。
叔父継之助は、余が生まれて以来、嘗て我家に来訪せられたるを見たることなく、
此夜、叔父が始めて来たり、何事か要談せらるるを知り、私かに奇異の思いを懐き、
叔父の顔色を覗い、其の談話を傾聴せり。
本来、叔父は、当時厳粛の容貌を保ち、言語明晰、超凡の人たるは聞知し居たるが、
此時、叔父の言語動作は、一層慎重を加えたる事と思われたり。
正に然もあるべき、此日、小千谷に於いて、官軍の軍監・岩村精一郎に会見して、長岡藩主、
牧野駿河守侯を代表し、嘆願書を提出したるも、岩村精一郎は之を一蹴して受領せず、事茲に至っては、
如何共之に処するの途なく、巳むを得ずして一旦長岡に帰り、後図を策する考なりしと見えたり。
叔父は両親と以上の顛末を語り了りて其の宅に向うの際、
「我が心事、天知る地知ると」
明確に大声を発せられたるを聞きたること、
爾来七十有余年、余の脳裏に深く刻して消滅せるを覚えたることなし。(略) 』
321:日本@名無史さん
07/03/29 10:28:24
URLリンク(www1.ntv.co.jp)
もちろん継さに投票したべ?
322:日本@名無史さん
07/04/01 07:13:45
>>321
票はいれた。
けど、私から見て、河井継之助という人は、上杉景勝における直江兼続ともうしますか、
劉玄徳における諸葛孔明というべき役割を果たした人でよろしいのでしょうか?
323:日本@名無史さん
07/04/13 23:44:31
もしも、三方替えが成立していたらどうなっていたのだろうか?
河井は川越で武装中立を行っていたのだろうか?
庄内藩も抵抗していたのだろうか?
324:日本@名無史さん
07/04/15 03:36:27
そろそろ、この人物を司馬遼太郎の「峠」のイメージで評価するのはやめるべきだ。
自分にとってこの人物は、幕末の石原莞爾というイメージしかない。
当時、日本が欧米の植民地にならなくて済んだのは、明治維新という革命を
無血で行えたからだ。かの蒋介石はこの点は高く評価している。
だが、この人物は長岡を「満州国」にしようと企て、武力による反抗も已む得ない
という姿勢で明治政府と対峙し、諸藩を巻き添えにしようとした。
幸いなことに東北諸藩が同調せず内乱状態にならず済んだが、もし東北での
戦闘が長引けば、今日の日本はなかったかもしれない。
結果、今日のようにドラマのヒーローとして登場できるのも、日本が平和だからだ。
325:日本@名無史さん
07/04/15 17:44:48
仮定の話は意味がない
326:日本@名無史さん
07/04/17 12:28:53
明治維新は無血だったのか?
大政奉還は無血だったけどな。
327:日本@名無史さん
07/04/17 16:27:50
結局河井継之助の購入したガトロング砲は新政府軍のアームストロング砲には敵わなかったのか?
328:日本@名無史さん
07/04/17 20:29:45
↑
質問も、もう少し予習してからせねばいけません。
329:日本@名無史さん
07/04/25 22:16:02
峠以外にオススメの河井さんの本ある?
あと東洋文庫の塵壺が少し気になってるけど、
読んだことある人面白かった?
330:日本@名無史さん
07/04/27 20:41:46
>>329
塵壺は継之助の旅日記だから
峠みたく読んで面白いってのとは違うような気がする
でも、山田方谷との出会いも含めた中国・九州遊学の細かい道のりなんかも判るし
日記だけあって各地の継之助のちょっとした感想なんかも載ってて
ある程度の好きならばそれなりに興味を持って読めると思う。
継之助唯一の著書だし、手書きのメモとか絵もちょこちょこ載ってるしね。
ただ、もともと他人に読ませる気が無く書いてるから
多少読みやすく手は入ってるけど文章はかなり読み難いのでその覚悟は必要だと思う。
それに絶版になってるし、なかなか無いんじゃないかな
まぁ、最近は電子書籍なんてもんで出てるみたいだけどさ
331:日本@名無史さん
07/05/01 02:15:49
神保町で塵壺800円でみかけた。
日記って確かに通常人に読ませるために書いたもんじゃないよな…
峠の河井さんは好きだからまた神保町で見かけたら購入してみようかな。
332:日本@名無史さん
07/06/21 01:06:53
>>329 童門冬ニであった。タイトル忘れた。友達に貸して戻ってこない。
333:日本@名無史さん
07/06/26 15:40:41
もし展開がかわって
山県有朋が会談にたってたらどうなってたろうね
まぁ・・多分結局は破談になってたと思うが
黒田はともかく山県有朋じゃあなぁ・・・
仮に成功したとしても会津藩を説得できたろうか?
334:日本@名無史さん
07/06/27 13:39:44
無理だろうな。。
継サの描いた中立は結局絵に描いた餅
理想と現実は違うんだもん。
335:日本@名無史さん
07/06/28 04:37:35
司馬の書く主人公の中じゃ
島倉伊之助並みに好きだわ継之助
336:日本@名無史さん
07/06/28 04:41:56
>>334
だろうね、日本を統一した国!と目指してた官軍が
そんな独立国家を作るような案認めるはずがないし、認めてほしくもない
河井はそのへん理解してたのかね?
自分が描いた理想は根本的に間違ってることに
337:日本@名無史さん
07/06/30 05:02:24
>>336
>>262がこのような意見をだしていたよん。
けど、割拠策自体は、慶応元年に薩摩島津家の大久保利通、長州毛利家の高杉晋作なども
一会桑政権に対する対抗策として、手紙の中で発案してました。
薩摩島津家は1867年に行われたパリの万国博覧会で、琉球薩摩国と名乗って参加したから。
河井の割拠策はその三番煎じ的なものなのでは。
338:日本@名無史さん
07/07/16 10:16:18
>>333
どうなんでしょ?
太政官も、会津松平家も互いに疑心暗鬼、憎悪に凝り固まっていたからね。
互いの陣営も、威勢のいい主戦論が幅を利かせて、引くに引けない状況を作っていたから。
無理なんじゃない。
徳富蘇峰ですら、何か落としどころが一つでもあればいいんじゃない?
と醒めていたから。
339:日本@名無史さん
07/07/24 13:04:24
本当は戊辰戦争のとき山県有朋、黒田清隆に面会を求めたのに
岩村高俊みたいな小物に相手にされて北越戦争に踏み切った。
340:日本@名無史さん
07/07/24 13:07:33
継之介が吉原細見に○とか×の印を付けてたって話は本当なんですか?
司馬が創作したデマですか
341:日本@名無史さん
07/07/25 00:37:26
独立国作ろうとしてたのか?
俺は山岡荘八の徳川慶喜六巻みてこの人知ったんだが、そこでは、三月一日、長岡へ引き上げるとき
「この際、会津、桑名の諸藩を扶けて王師に抵抗するというのは大義名分に反する。さりとて、薩・長に応じて徳川氏を討つは、君臣の義として忍び得ぬところであれば、もっかのところは局外中立を堅持する。
故に、わが長岡藩は、独立独行、まず封内を鎮撫して、時局の定まるのを待とうと思う。しかし、官軍が、もし、局外中立を容れず、無道の処置をするならば、わが藩も断然これを防がなければならぬ。
諸君よ、わが意向をくれぐれも疑わぬように願いたい」
と伝え、四月二十六日、本陣を城から一里離れた摂田屋に置き、要所要所に兵を配ってから、小千谷まで迫ってきていた官軍の陣営に、その局外中立を許されたい旨の嘆願書を捧げて、軍監の岩村精一郎を訪ねた。
そして、そこで嘆願書も見ずに突っぱねられ、説明しようとしても聞く耳もたなかったので、憤怒した、となってるんだが。
342:日本@名無史さん
07/07/25 12:44:36
>>341
継之助のようなエリートとチンピラ上がりの岩村が、
まともに議論出来るはずもないのにね。
松陰の親友だった白井も結構DQNだったようだし、
官軍も中堅クラスはろくな人材がいなかったんだな。
343:日本@名無史さん
07/07/25 13:53:09
>>342
河井側に都合良く解釈すればそうなるな。
ただ「新潟港を会津の貿易港とし、 官軍に対する各藩の支援を中立を名目に遮断させた上
官軍が会津へ進軍しようとしたら背後から官軍を討つ」
なんてこと河井が以前に宣言している上に
敗走した会津兵を領内に入れている地点で、中立なんぞ政府軍としては呑めるわけが無かろう。
ともかく長岡を平穏に保ちたいなら、自領内に入ろうとする会津兵を殺す気概で無いと駄目よ
344:日本@名無史さん
07/07/25 21:20:24
>>341
独立国なんて考え方は当時の日本人には無理だろ
薩長と奥羽同盟のどちらかが勝つかわからないから
とりあえず中立を守ってようと考えてたんだろ
345:日本@名無史さん
07/07/28 13:13:32
>>343
河井のやっていることは、高杉晋作の二番煎じ。
慶応元年(1865)3月下旬、伊藤俊輔とともに長崎に赴き、英国長崎領事ガワーを尋ねた高杉は、
「赤間関(下関)も、我断然国体を愧じしめざるやう開港すべし。五大洲へ防長の腹を推出して大細工を仕出さねば、
大割拠は成就致さざるならむ」
と下関開港の壮図を述べた。
「大割拠」は一朝有事の日に備えて、藩内にたてこもり、その富強化を図る。
それには、こちらから下関を開港し世界中へ防長二州の腹を押し出して、大仕事をしなければならぬ、というものである。
それは結局、下関を開港して、藩の産物を輸出して、外国の優れた武器を輸入して、富強化をはかるということである。
これと同じことを河井はやった訳だ。
下関が新潟、防長二州が長岡と文字を変えただけで・・・・・
河井の場合、長州の村田清風が始めたところから始めなければならないため時間がかかった訳だが。
346:名無しさん@そうだ選挙に行こう
07/07/29 11:41:17
>>345
河井の割拠策は、塵壺の中に
「諸葛孔明の天下三分の計、興味これあり」
とあるように、三国志的な発想があったのでは・・・
万延元年(1860)と元治元年(1864)にそれぞれ梛野嘉兵衛に宛てた書簡の中で、財力を蓄え
富国強兵策を実施し、一朝有事に備えなけばなりません。
と繰り返しているくらいだから。
さらに云えば、元治元年の書簡は、長州征伐は必ず失敗し、日本中麻のごとく乱れるであろうと、
予想していたからね。
同じ意見を慶応元年(1865)に大久保利通も石崎次郎太宛の書簡で書き記していた。
ただ、大久保や高杉と比較すると、>>345が主張するように調所広郷や村田清風が始めたところから始めなきゃいけない。
それを補うための手引きとして、山田方谷という人物が必要だった、というところでしょうか。
347:日本@名無史さん
07/08/07 23:17:45
八幡和郎は河井継之助をさんざんこき下ろしているが
当の河井継之助の先祖が八幡のお膝元である近江膳所藩の
出身であることが皮肉に感じる。
348:日本@名無史さん
07/08/08 12:48:44
八幡和郎って河井を批判してる官僚上がりの薩長ヲタだよね
如何にも岩村みたいな奴だな
こんな奴が大津市長になったら大津市は終わりだな
349:日本@名無史さん
07/08/08 13:30:51
八幡を批判したければ、経済産業省なりどこなり中央官庁にキャリアで入って、
フランスのENAに留学して、むこうで副知事見習いやってからにしろや。
350:日本@名無史さん
07/08/08 23:43:18
>>349
八幡おつかれ
351:日本@名無史さん
07/08/08 23:45:05
キャリアだと八幡を批判する権利があるんだ・・・
馬鹿じゃネ
352:日本@名無史さん
07/08/09 08:55:26
八幡=士大夫
2chねらー=土民
353:日本@名無史さん
07/08/09 11:50:38
長岡では河井と稲垣メンバーとではどっちが人気あるの?
354:日本@名無史さん
07/08/09 12:23:21
山本五十六が一番人気
355:日本@名無史さん
07/08/09 13:03:15
>>354
いそろくは戦争反対論者だったから、ネットウヨには嫌われてるぽ。
356:日本@名無史さん
07/08/09 15:20:59
山本五十六より石原莞爾の方が好き
357:日本@名無史さん
07/08/09 15:22:58
>>355
もともと河井自体戦争反対者ではなかったか?
358:日本@名無史さん
07/08/09 15:27:32
長岡藩
山本帯刀
359:日本@名無史さん
07/08/10 22:05:03
稲垣メンバーは勝手に恭順した卑怯者
360:日本@名無史さん
07/08/16 01:15:36
黙祷
361:日本@名無史さん
07/08/16 06:04:32
今日は命日でした。
362:日本@名無史さん
07/08/16 17:54:36
ご冥福をお祈りいたします
363:日本@名無史さん
07/08/19 08:36:53
>>361
河井先生の命日は旧暦の8月16日。
したがって、グレゴリオ暦に直すと、10月1日になるのでは?
364:日本@名無史さん
07/09/29 13:27:40
そういえば、ちょっと前に長岡の銀行の金庫から、河井継之助の書簡30通が出てきたという
記事を読んだ。
小山良運とのやり取りを記したものらしいけど、その後の話が出てこないんだけど、誰か聞いたことあります?
365:日本@名無史さん
07/10/01 20:46:05
では、今日が命日ですか。
「火を熾んにせよ」と命じて、
ちょうど今ごろ瞑目されたんでしょうな…
河井先生、
つ吉原の風俗店ガイドです
366:日本@名無史さん
07/10/07 11:37:52
今日は旧暦で8月22日。会津若松城下において、会津松平家主催で、河井先生の葬儀が行われた日です。
翌日に若松城下に太政官の軍隊が城下に侵攻してくる日です。
結果論で語れば、明日敵が来るのに河井先生の葬儀をやる会津松平家というのは・・・・・
律儀というか、のんきというか、間が抜けているというか・・・・・
367:日本@名無史さん
07/10/11 17:33:25
会津出身の俺は律儀だと信じている
368:日本@名無史さん
07/10/13 11:24:13
大河ドラマ、篤姫の後が直江兼続だそうで。
けど、直江と河井と何が違うの?
お互いに主君の信任が厚く、民政が上手で、負けん気が強くて、次期権力者候補に勝負を挑んで、
負け戦の結果、領地を大幅に減らしたというのは共通しているけど。
しかも、2人とも歴史好き意外興味を持たない気味の風雲児。
はて、一方が大河の主人公というのは如何に?
369:日本@名無史さん
07/10/15 11:05:16
ええやんけ
370:日本@名無史さん
07/10/20 16:40:33
おす。
>>260
なるほど、福沢諭吉は口だけだったけど、河井先生は本当に実行したわけですね。
痩せ我慢の説を。
ってことは、痩せ我慢の説のモデルは河井先生になるわけですか?
371:日本@名無史さん
07/11/03 14:04:08
今日は旧暦で明治元年9月19日。
仙台あたりで、降伏か、蝦夷地行きかについて牧野家主従が額をあわせて話し合っている最中です。
フランスへの亡命話は資金難から消滅してしまったので、困っている最中でしょうか?
それとも徳川脱走家臣団と共に、蝦夷地に行きたいけど、人数制限を食らってしまい、
行きたければ新選組に入れといわれ、悩んでいる最中でしょうか。
372:日本@名無史さん
07/11/11 08:53:56
本日は旧暦で明治元年9月27日。
牧野家は太政官に降伏を申し出て、戊辰戦争が終わりました。
主従は焼け野原になった長岡を思い出して、復興の困難さに心を痛めていることでしょう。
373:日本@名無史さん
07/11/18 06:42:37
おす
374:日本@名無史さん
07/11/18 22:29:09
三島億二郎ってどっから養子にきたの?
県外?
詳しくわかる方教えてちょ
375:日本@名無史さん
07/11/24 14:02:55
>>374
川島億次郎 文政8年(1825)~明治25年(1892)
文政8年(1825)長岡藩士伊丹市左衛門の二男として生まれる。 継之助より2歳年上である。
幼少期は、桶党(継之助、小林虎三郎、鵜殿団次郎、実兄の伊丹政二郎ら)と呼ばれる俊英集団の中にいて将来を嘱望される。
弘化2年(1845)20歳で37石の川島家の養子となる。
嘉永3年(1850)頃江戸に出て佐久間象山に入門し、門下生となる。同門に吉田松陰、虎三郎らがいる。
嘉永6年(1853)黒船の来航では藩主兼老中を勤める牧野忠雅から調査を命ぜられている。後に継之助・虎三郎・団次郎らと共に藩政改革の建白書を提出する。
が、虎三郎と億次郎の建白書は幕府の政治批判が含まれていたため、佐久間塾での勉学を差し止められ、長岡への帰藩を余儀なくされる。
このころ門閥批判を行い職を辞めて長岡に帰ってきた継之助と奥州各地を遊歴している。
性格は温厚かつ沈着であり、華々しく表面にはでることはなかった。
必ずしも継之助と性格や考え方が一致したわけではないが、実務に長け数字に強く、人望が有り、それゆえに継之助に信頼される。
慶応4年(1868)5月3日、慈眼寺の会談が決裂の後、継之助は億次郎に開戦の止むなきを伝えた。
継之助は自らの首と3万両で戦いを避けようとしたが、非戦派だった億次郎が生死を共にすることを誓い、長く苦しい戦いに突入する。
戊辰戦争中、億次郎は軍事掛に就任し、時に前線指揮官、時に作戦参謀として、力を発揮した。
明治2年(1869)、3人の大参事のうちの1人に抜擢され(残りは小林虎三郎と牧野頼母)、戊辰戦争後の長岡の復興に力を注ぐ。
この頃名前を三島億次郎と改め、産業振興、教育環境の整備、病院や銀行の設立など長岡の基礎造りのために、懸命に捧げた人生である。
さらには北海道の開拓と移民などに尽力した。
それは継之助を含め自ら選択した戦争という選択により、負けた挙句壊滅的な打撃をこうむり、藩士や領民の生活を崩壊させた事に対する贖罪ではなかっただろうか?
米百俵で学校が設立されたというが、百俵の代金では学校は建てらず、本や教材費でほとんどなくなる。億次郎は苦しい財政の中から、 3千両の大金を学校建設資金として最優先に割り当てた。
明治25年(1892)68歳の人生を閉じる。
376:日本@名無史さん
07/11/24 19:40:18
37石っていったら下級藩士だな。
養子ってことは川島家と血つながりはないんだね。
伊丹市左衛門って聞いたことないけどどこの人?
377:日本@名無史さん
07/11/25 07:27:06
>>376
伊丹家は確か、100~120石前後の中堅どころ。小林家や河井家と同じ家柄。
ただし、伊丹家や小林家は三河以来の家柄に対して、河井家は近江国膳所の本多家から姫様の付人の家臣として編入した。
要するに、家柄は伊丹家や小林家の方が上ということ。
億次郎は次男なので、この時代の常として世に出るためにはどこかの家の養子にならなければ、
伊丹家の厄介者として過ごさなければならない。
そのため、家柄の低い川島家への養子でも受けなければならなかったのでしょう。
378:日本@名無史さん
07/11/25 16:37:21
小林家・伊丹家・河井家・川島家って今でも存続してるのかな。
379:日本@名無史さん
07/11/25 17:57:15
三河以来ってことは長岡藩に移封されるずっと前から牧野家に使えてたのか小林家とか伊丹家って。
380:日本@名無史さん
07/11/28 22:22:40
そういうことでいいんでないの。
譜代大名の家臣には、三河以来の家臣に加えて、武田旧家臣団、北条旧家臣団などを加えているから。
そのほかに姫君のお輿入れの際に付き人として家臣が編入する場合があるから(河井家はこの例)。
あとは全国各地の浪人に募集をかけて採用したりとかね。
勝手な推測でいいなら、伊丹という性から想像して畿内の土豪なり豪族が勢力争いに敗れて、諸国を流浪してしたら、
何かのきっかけで牧野家に採用されて、そのまま越後までついて来たとかね。
381:日本@名無史さん
07/11/28 22:39:06
>>375です。
入れ忘れましたが、諱は心億といいます。
そう、河井の後を引き継いで戦った山本帯刀も元は安田家400石の三男坊。
出来が良かったので、山本家に養子に入ったといわれています。。
逆に億次郎の青年期はあまりいい養子の口がなかったのかもしれません。
382:日本@名無史さん
07/11/28 23:19:02
けどさ、会津と官軍の間で変な事したら、瞬殺されない。
天童藩の様に官軍の味方したけど、庄内藩に秒殺されて、官軍に見捨てられ領内焼け野原。
領民の間から官軍につくことを提言した吉田大八という中老の首を差し出せと声が上がり、庄内藩に降伏して、大八の首を差し出す。
久保田藩のように官軍に味方しても、官軍の都合で継之助が見殺しになる可能性もあるのだから、官軍についたも、そういうことが可能性としてあるわけだね。
継之助の決断を強いられた時期は、どっちが勝ってもおかしくない時期なので、おれはなんともいえない。
強いて言うなら、勝つために手段は選ぶな。手段選んで勝つほど余裕ないだろうおまいらって感じ。
383:日本@名無史さん
07/11/30 02:57:19
>武田旧家臣団
誰が来てるの?あんまきいたことないけど
いまちょっと調べたら伊丹ってのは摂津の豪族が信長に滅ぼされてるね。
これが1574年、家康の転封が1590年だから、可能性あるね。
元城主の直系は黒田藩家老になっているらしいが。
傍流はたくさんあっただろうに全国に散らばってるだろう。
384:日本@名無史さん
07/11/30 22:47:55
>>383
家老職の山本家がそうなっている。
一応山本勘助の弟の末裔ということで話が始まっている。
仙台の伊達家にも真田信繁の末裔で真田喜平太というのが幕末に存在した。
385:日本@名無史さん
07/12/03 06:19:10
なにこの良スレw
386:日本@名無史さん
07/12/07 00:54:44
河井さんの子孫っているんですか?
387:日本@名無史さん
07/12/07 04:59:45
>>382
河井の「武装中立」を否定したのが佐々木克さんだな。
「既に江戸で会津庄内長岡の盟約が持たれていた。
河井の中立は時間稼ぎの偽装中立。
長岡藩が睨みをきかせている限り越後諸藩は動きが取れないし、
なおかつ新政府としても迂闊に手を出せない」
確かに河井は藩侯が譜代佐幕だからそりゃ新政府寄りじゃないでしょうが、
既に小千谷会談の段階では会津軍が飛び地領に入って圧迫を加えていたし、
「旗幟を鮮明にしない限り手を出せない」のは会津藩だって同じ。
藩内では恭順論と同盟参加論が激突している状況では、
河井が迂闊に態度表明は出来ない。早くに態度表明したら藩が分裂する可能性もある。
自分は偽装中立で時間を稼いだと言うより、これを河井が最も恐れたんじゃないかと思う。
「藩論統一」を最優先として、官軍と大っぴらに接触する機会を待っていたように思えるがな。
単身、実情を訴えて仮に官軍への恭順が認められればそのまま官軍を領内に引き入れ、
会津を威圧する選択肢も必ずしも排除しなかったんではと。
まあ恐らく難しいと思ってだろうが、官軍に恭順が蹴られたら蹴られたで、
それはそれで藩論は纏めやすくなる。
藩論統一、それが恭順か抗戦か以前に重大関心事だったんでしょう。
388:日本@名無史さん
07/12/08 03:29:26
山本や小林って新潟ではよく聞くけど、河井や伊丹ってあんまり聞かない苗字だよね。
389:日本@名無史さん
07/12/15 13:12:51
>>387
ただ、桑名松平家の抗戦派に越後柏崎に行くように勧めたのは、江戸徳川家の若年寄大久保一翁なんですね。
佐々木氏の著述では、河井が保障するような感じで越後に行く記述なのですが、桑名松平家の家臣で岡本武雄が記録を残していて、
其れによると、大久保一翁が長岡牧野家や荘内酒井家や会津松平家が近くにいる越後柏崎の方が安全を保障する出来る確率が高いので柏崎行きを決めたとある。
ただ、大久保一翁は新選組の甲府行きを容認した人物なので、対薩長抗戦派の桑名松平家の元当主が江戸にいると具合が悪いので厄介払いをした、ということでしょうか。
390:日本@名無史さん
07/12/18 05:55:46
>>388
三間氏や稲垣氏、安田氏が上野の豪族の流れを汲む一族で、全国各地から集まりますから。
かつて、歴史家の松浦怜氏が言っていましたが、譜代大名と領民というのは、
植民地とその統治者という関係になるそうです。
鉢植えの鉢のように転封する事が多いため、年貢や御用金を多く集め、次の転封に備えて貯金や借金の返済に終始するそうです。
欧米の教会と医者とキリスト教に比例して、寺社と医者と儒学なり武士道、心学などで、領民に範を示す事になるそうです。
391:日本@名無史さん
07/12/22 11:35:46
>>382
前当主の忠恭が老中を務めていた頃に手がけた仕事が、長州毛利家の攘夷戦争の尻拭いだからね。
京都所司代時代も、長州毛利家や土佐山内家の京都手入れで治安が悪化した頃にやって来て何もなすことなくだからね。
そのことを考えれば、長岡牧野家が簡単に太政官になびくとは考えにくいしね。
長岡市史によると、河井が横浜から海路帰ってくるまでの牧野家は混乱の一言。
恭順派は集団で押しかけて忠恭親子を吊るし上げ、降伏文書を書かせて太政官に提出させようとし、
抗戦派はその話を聞いて、三間市之進が使者を追いかけて、追いつき、使者から文書を巻き上げて破棄したとありますね。
帰ってきてその話を聞かされた河井が、恭順派を藩校にひとまとめに集めて軟禁し、兵隊の監視をつけたとありますね。
392:日本@名無史さん
07/12/22 11:36:49
すまん、>>387だった。
393:日本@名無史さん
07/12/23 21:01:44
このスレの最初のほうでとっくに議論されてるんですね。
いま2月~閏4月頃までの年表を暇つぶしに書いてみたけど、
閏4月の奥羽諸藩の動向は、河井が恭順に傾くような要素は皆無ですね。
総督らがお尻引っぱたいて会庄攻撃に持ち込んだ4月ですら、
仙台・米沢・秋田らは全然やる気がないし。
閏4月19日には高田の政府軍が進発している一方、
会庄攻口の解兵が宣言され、
22日には白石盟約書が調印されてる。
じゃ何のために2ヶ月、藩境まで押し寄せてくるまで待ったのか。
自身、拘束の危険性に気づいていながら小千谷の談判って、
何のために行ったんでしょうかね…
394:日本@名無史さん
08/01/02 00:03:51
継サ、明けましておめでとうございます
395:日本@名無史さん
08/01/02 01:43:59
伊丹は後北條家臣から牧野家じゃないの?
396:日本@名無史さん
08/01/02 13:43:47
それでもどちらにしろ三河以来じゃね?
北条征伐直後に仕えたと考えればギリギリ
397:日本@名無史さん
08/01/02 15:32:35
越後長岡藩って棒禄は蔵米制?
398:日本@名無史さん
08/01/05 02:32:49
そういや長岡には旧上杉家臣で帰農した伊丹家もあるね
399:日本@名無史さん
08/01/05 02:52:33
あれ?それは魚沼だっけ?よくわかんね
400:日本@名無史さん
08/01/05 09:02:20
おつ。
400げっと。
401:日本@名無史さん
08/01/08 01:18:08
河井記念館ってなんで福島?にもあるの?
402:日本@名無史さん
08/01/09 20:39:50
福島県で亡くなったから。
403:日本@名無史さん
08/01/16 04:52:06
長岡藩士の家紋とかってどこでわかるかなー
河井家はわかったけど川島家・小林家・伊丹家・山本家とかちょっと調べただけじゃわからなかった
誰かわかる人いる?
404:日本@名無史さん
08/01/27 09:17:54
殿様は長州の足軽に土下座させられたそうな
405:日本@名無史さん
08/01/31 20:56:14
牧野が?
406:日本@名無史さん
08/02/02 07:31:43
3月5日の「そのとき歴史が動いた」で継之助が取り上げられます。
『自立への戦い・河井継之助~もう一つの戊辰戦争~』だったかな?
URLリンク(www.nhk.or.jp)
まぁ、戊辰戦争から140年が経ったのです。
5~10年周期で取り上げられる、毀誉褒貶の激しいこの人。
さて今回はどんな読み方をされるのでしょう。
407:日本@名無史さん
08/02/10 09:00:44
>>406
北越銀行から河井継之助記念館に寄贈された38通の手紙のうち、何通かの撮影が許されたそうですね。
いつもと違う切り口を望みたいのですが・・・
戊辰戦争の敗者を研究する大学教授って言うと、最近だと家近良樹氏ぐらいか。
けど、長岡藩や庄内藩は詳しくなさそうだし・・・・・
408:日本@名無史さん
08/02/11 01:32:54
まずアカデミック研究者は出ないと思う。なぜなら
研究者でやってる人はいないから。列藩同盟ならいるがね。
長岡藩や河井となると・・・強いてあげれば一橋の
小山和也氏か。『歴史読本』でも一度書いてた。
でもとっくに離れてるようだし。
で、半藤一利、童門冬二、松本健一のいずれかかと。
番組の常連だし河井については時々書いているし。
いい加減アカデミックでも取り扱ってほしいな。
409:日本@名無史さん
08/02/12 21:09:47
河井継之助
たいしたことないだろ。
410:日本@名無史さん
08/02/16 10:32:56
うん、タイトルが変更になっていましたね。
今現在の予定では
「北越の蒼龍“明治”に屈せず~河井継之助 地方自立への闘い~」
URLリンク(www.nhk.or.jp)
となっていました。
かつて、中里介山は作品「大菩薩峠」の中で、小栗忠順を幕末の石田三成と評したそうです。
この流れに沿っていくと、幕末の直江兼続、諸葛孔明というところかな。
(さしずめ山県有朋が司馬仲達といったところかな。)
411:日本@名無史さん
08/02/19 13:25:57
>>403
伊丹家は、丸に鷹の羽違い。
412:日本@名無史さん
08/02/23 06:31:44
何もしていないのに新潟県の有名人
良姦と並んで、何もしてないのに新潟県の有名人
新潟不思議だ
413:日本@名無史さん
08/02/23 08:06:12
>>412
戦国武将でも、真田信繁や山中幸盛のように、何もしないのに有名な人はいますよ。
まぁ、伊達政宗や黒田如水のように関が原の頃に火事場泥棒的に領土拡張しているわけでもなし、
いいんじゃないの。
大目に見るということで。
414:日本@名無史さん
08/02/28 00:35:36
ゲストの答えは、勝田政治氏でした。
・・・なぜ?
415:日本@名無史さん
08/02/28 05:00:49
>>414
どうなんでしょうね。
国士舘大学というと、河井研究の第一人者といわれた故安藤英男氏が
1980年代に教授として在籍していたところですよね。
勝田氏も国士舘大学の教授ということで、その教え子なのか、関係者なのか・・・・・
それ以外でも、大久保利通などの研究で名前を聞いた事はありますが・・・・・
416:日本@名無史さん
08/02/28 12:00:37
そうだな。勝田氏は主に民権運動とか維新政権とか
大久保とかで、直接河井や長岡藩には繋がらないよな。
それに氏は早大出身だから同僚の関係?といっても
可能性としては氏の非常勤時代だが。
そういえば安藤氏が国士舘の教授だったか。具体的に
何の教授かは知らないが。民間からの転身で
日本史の教授にはなれるようなもんじゃないとは思うが・・・
安藤氏タイプの「研究者」は正直扱いが難しい。著書も
研究書と言うべきか研究書に近いものと言うべきか。
そこが私大と国公立大の違いかもしれないが。
ま、とりあえずゲストが小説家でなくて純粋な研究者で
良かった。
417:日本@名無史さん
08/02/28 19:51:12
桶党って史料的にはどうなん?
具体的にどんな史料に出てくるん?
418:日本@名無史さん
08/02/28 23:15:33
勝田氏は新潟出身なんですね。まさかとは思うが新潟繋がりでは…。
419:日本@名無史さん
08/02/29 15:47:36
あ、本当だ。大学の教員紹介見たけど
出身地なんて書いてあったのを見逃していた。
・・・それだ!!
ってことは専門分野より出身地つながりを重視か?
420:日本@名無史さん
08/03/01 00:39:48
それもあるのだろうけど、勝田氏はかつて、新潟県史の編纂に携わっていた事がある。
ある意味、幕末の越後は専門分野であり、出身地新潟を語る上では、適任といえば、適任といえるのかも・・・・・
421:日本@名無史さん
08/03/04 23:27:12
いよいよ明日になりました。
どのような切り口になるのでしょうか?
楽しみです。
422:日本@名無史さん
08/03/05 12:06:53
『その時歴史が動いた』第317回
北越の蒼龍 ”明治”に屈せず ~河井継之助 地方自立への闘い~
放送日 平成20年3月5日(水)22:00~22:43 総合
スタジオゲスト 勝田政治(かつたまさはる)さん(国士舘大学教授)
URLリンク(www.nhk.or.jp)
423:日本@名無史さん
08/03/05 14:49:10
長岡共和国
424:日本@名無史さん
08/03/05 22:45:23
ええ話だったと思います。
随所随所に原文を織り込んで、それなりに分かりやすいと思います。
時間の制約があるので、内容は省略されても、仕方ないのかな。
425:日本@名無史さん
08/03/06 03:12:15
当時日本にあったガトリング砲三つのうち二つ持ってたの知らなかった。
残りのもう一つは官軍の甲鉄艦に搭載してたやつ?
426:日本@名無史さん
08/03/06 03:14:57
勝田曰く、新潟では「つぎのすけ」で統一されてます。
427:日本@名無史さん
08/03/06 03:27:06
>>425
熊本じゃね
428:テレビは怖い
08/03/06 05:01:51
あくまで薩長は正義なんだね。さすがNHKのテレビ番組
徳川家に力がなくなったから長岡藩は江戸藩邸を引き払ったとか・・・
当時は薩長の軍勢が江戸侵略の進軍を進めていたので、各藩は
江戸を引き払った、退去したと言うのが真実だろうに
429:日本@名無史さん
08/03/09 09:54:12
違いますよ。NHKの解釈なんて、その時の都合でいくらでも変わりますから。
今年の大河が島津家がらみだから、下手に叩くと、大河を自己否定するから。
大河を批判しない程度に、地方の時代とマスコミが持ち上げているから、
それに合わせて番組を作っただけですよ。
430:捏造
08/03/21 19:56:23
山本勘助の生誕地を捏造した卑しい豊橋市。北越軍談に本国三州賀茂郡に帰り、豊田市寺部の鈴木日向守重辰が叔父で、剣術修行したとあるのを、
その後に、牛窪密談記という軍記を捏造して、この賀茂は豊橋市の八名郡賀茂郷のことだと言い出した。そして、NHK大河ドラマに怒って、NHKを襲撃して、ドラマを改ざんした。
恥ずかしくないのでしょうか?こんなことをして。
431:日本@名無史さん
08/03/21 20:29:13
それは河井継之助関連ではありません。
しかし、愛知県周辺は、「武功夜話」(「墨俣一夜城」「伝説と「蜂須賀工人衆」の捏造)など、
嘘話を歴史に仕立てる自称歴史ファンが多い地域です。
432:日本@名無史さん
08/04/21 21:34:05
【ガトリング家老】河井継之助の大河なじらね?
スレリンク(nhkdrama板)
433:日本@名無史さん
08/05/12 21:48:47
>>432
大河になるの?
434:日本@名無史さん
08/05/12 22:32:09
関原
435:日本@名無史さん
08/05/24 09:23:20
ほす。
436:日本@名無史さん
08/05/24 18:17:07
URLリンク(www2.hokurikutei.or.jp)
桜飯って見た目がみかんご飯みたいだな。
437:日本@名無史さん
08/06/08 05:53:26
河井のこと調べてたら高田に着陣したときの黒田が鵜殿団次郎に向けて、戦争の回避を促す手紙を送ったって載ってた
経済誌の記事だから信憑性に欠ける部分もあるけど、小千谷会談にもし黒田が出席してたら中立路線は成功していたのかも分からんね
438:日本@名無史さん
08/06/28 13:45:57
継サ の読みは
つぎさ?つぐさ?
439:日本@名無史さん
08/06/29 08:31:12
>>438
どちらでも可。
440:日本@名無史さん
08/06/29 14:40:47
良運さんあたりはつぐサって言ってたのかな。
441:日本レンタカー
08/07/09 13:03:10
河井継之助についておしえてください(^-^)//
442:日本@名無史さん
08/08/16 13:49:49
今日は命日(現在の暦では10月1日だが)
黙祷
443:私も河井です
08/09/17 00:46:57
三河の河井家の子孫です。親からは河井継之助の血縁って教えられたけど、
Wikipediaでは、全く関係なく、おまけに気が狂ってお家断絶って書いてあったけど、
家の文献には1600年から続いている証拠がありました。真偽のほどは
誰か教えてください。
444:日本@名無史さん
08/09/21 17:06:18
>>368
遅レスだけど、
以前、八幡と同じような言いっぷりで兼続を扱き下ろしてた奴がいたのを覚えてる。
確か物書き。誰だったかな。「負け戦に引きずり込んだからダメ」なんだってさ。
445:日本@名無史さん
08/09/21 20:02:45
>>443
河井継之助の先祖は近江国膳所藩本多家の家臣です
446:日本@名無史さん
08/10/07 15:54:33
本多家って三河以来の家柄なんで河井家も三河以来家臣かもしれないですね
447:日本@名無史さん
08/10/08 23:43:06
>>444
田中芳樹氏です。
「中国武将列伝」のあとがきで述べています。
448:日本@名無史さん
08/10/13 05:27:14
継サが火を盛んにせよと命じてからちょうど140年
もし継サが現代に生きてたら
反対する米下院を一喝して公的資金を即座に注入してたはず
449:日本@名無史さん
08/12/07 19:41:08
ほす。
450:日本@名無史さん
08/12/08 21:22:37
河井さんと小栗さんと橋本さんには生き延びて欲しかった。
451:日本@名無史さん
08/12/17 20:10:28
河井さんのご子孫は活躍されているのでしょうね
452:日本@名無史さん
08/12/18 08:17:18
子供居ません…
453:日本@名無史さん
08/12/18 12:43:04
こういう自負心も能力もある人物に全てをまかせたらダメになる見本だよ。
日本は協調性がないと。
どう考えてもやる気まんまんじゃん
454:日本@名無史さん
09/02/13 23:16:41
さて、NHKの「その時歴史が動いた」も今年の3月で終わるのです。
結局、継之助は一度取り上げられたわけです。
さて、4月からの新企画で継之助は日の目を見る事が出来るのでしょうか。
まぁ、個人的な見解では、4~5年に一度の周期で企画される人なので、
多分ないと思いますが。
URLリンク(www.nhk.or.jp)
455:日本@名無史さん
09/02/23 00:32:59
456:日本@名無史さん
09/03/04 10:06:32
>>454
もっと取り上げるべきだったな・・・
457:日本@名無史さん
09/03/14 01:42:00
>>454
え?
その時ではやってなかったのか。。。
堂々日本史ではあったような気がするが。
458:日本@名無史さん
09/03/15 08:58:05
>>457
2008年3月5日に放送されましたよ。
堂々日本史では、一度放送されましたよ。
ゲストの解説が半藤一利氏。
番組は10年ぐらい前だったような気がする。
459:日本@名無史さん
09/03/28 07:10:25
さて、次にNHKで放送されるのは「歴史秘話ヒストリア」という番組です。
なんとなく、番組のタイトルとその構成上、継之助が取り上げられる確率は?
というか、望みが薄い気がするのです。
URLリンク(www.nhk.or.jp)
460:日本@名無史さん
09/05/05 18:47:15
そうやね
461:日本@名無史さん
09/07/11 01:45:35
長岡藩って総兵力1000人足らずだったんだって
それを抜けない官軍ってのもそうとう弱いね
もっともやる気あるのは薩長だけだろうけど
でも列藩のほう会津だけだから
似たようなものだな
それにつけても会津の弱さよ
ところで会津万歳の早乙女貢さん亡くなったんだってね、合掌。
462:日本@名無史さん
09/07/22 14:47:33
ガトリングガン
463:日本@名無史さん
09/09/14 06:56:44
峠はおもしろいよな
464:日本@名無史さん
09/09/19 16:43:02
生き残ったら、榎本くらい出世したかな?
465:日本@名無史さん
09/09/29 03:18:05
案外、適当な官僚どまりかも。
福地や栗本みたいに新聞のほうにいったりとか。
466:日本@名無史さん
09/09/29 03:36:21
かわいかわいと今朝まで思い
今は愛想も虎三郎
467:日本@名無史さん
09/09/30 04:48:17
いや横浜の生糸相場や松方デフレで投機やって帰りに大好きな吉原で遊ぶだろ
損しても遊ぶかも知れないけどw
どう考えても参事→事業、地方銀行とかに行くタイプ
468:日本@名無史さん
09/10/02 22:42:42
今回の文藝春秋の特集の中に「司馬遼太郎が愛した日本人」というのがあります。
URLリンク(www.bunshun.co.jp)
その中の悲運の侍という欄の中に継之助、小栗忠順、正岡子規の三人の名が有ります。
松本健一は運が巡れば、「英雄」、そうでなければ、「風雲児」という司馬の言葉を残している。
あのコラムの中では、語られていないけど、庄内酒井家だって、継之助と同じ見通しで大暴れして、
薩摩島津家とうまく折り合いをつけて、明治10年頃まで士族勢力を温存したからね。
そこから行けば、継之助は運が無かった、ともいえる。
>>467
案外、同じ越後出身の大倉喜八郎のように世間の誤解を受けても、財閥を作り、学校を作り人を残すか、
勝海舟や会津松平家出身の山川浩、米沢上杉家出身の宮嶋誠一郎のように、官職に就いてそのコネで、
旧家臣団を養っていく立場を引き受けていくか・・・・・
469:日本@名無史さん
09/11/07 01:18:59
八幡和郎ってキモい
470:日本@名無史さん
09/11/07 07:49:09
八幡、河合酷評してたね
471:470
09/11/07 09:08:31
河井の間違いだったスマン
472:日本@名無史さん
09/11/08 06:50:55
「還暦以後」の後書きで松浦怜が30~40代に書いた文章を60代になって読んでみると、
気持ちや文章に余裕が無く、せっかちに結果ばかりを求めていた。
とあります。
八幡の文章にもそれを感じるけど。八幡も60代まで生きていたら、わかるでしょ。
松浦氏は正確に文献を当たるけど、八幡は適当なうえに文献を提示しないし、
批評も的外れであることがかなり多い。
徳川日本が鎖国をしてけしからんというのであれば、同じ頃に小さい領土で貿易国家として存続しながら、
ヴェネチア共和国のように、環境破壊や伝染病から来る国力の疲弊、戦争の連続から来る大衆の厭戦気分、
外交努力に応じてくれない近隣諸国などで結果ナポレオン1世の頃に滅亡した国家を持ってきて、小さい
領土の国は鎖国をしても、国を開いて戦い続けても、疲れるだけですよ。
というようなことを述べれば、良かったのだけど。
明治維新を絶対視するけど、タイの王政復古やイタリアの祖国復興運動、オーストリア=ハンガリーの
同君二重帝国、プロイセンのドイツ統一戦争など、答えは幾重にもあるのに、明治維新という答えだけ
を押し付けるのが余裕の無い証拠だね。
八幡が留学していたフランスにしたって、1950年代~65年ごろにかけてアフリカの植民地で何をしていたか、
(特にアルジェリア)だよ。
日本国内でそこまで言うのなら、八幡の宗主国ともいうべき、フランスの植民地の歴史についてもぜひ論評
してもらいたい。
善政を行っていたのか、本国の国民と同じように植民地の住民にも選挙権を与えていたのか、政府が反対勢力
を虐殺していないかとか。
473:日本@名無史さん
09/11/13 21:41:24
>>472
まぁ、宗主国から分離独立したいということが、悪政の裏返しだね。
フランスにしても、ベトナムやアルジェリアで大失敗をしたからね。
八幡君はその大失敗をした国に留学をして、何を学んだのかな。
日本の出来損ないエリート崩れが、大失敗した国の行政院のエリート教育を受けて、
キャリア競争に敗れて、官職を辞し、反論の無さそうな、あるいは影響力の無い末裔のいる、
歴史上の人物を叩いていい気になっている訳だ。
歴史研究家の大久保利兼氏と比較すると、新雪と下水の汚泥位の差があるね。
474:日本@名無史さん
09/11/27 05:48:56
あいつのブログ、相変わらず上から目線だな。昔、拉致問題で読者から脅迫めいたメールだかブログだか来たから告訴したと、この2ちゃんでも祭りになったらしいな。
エリート気どりは良いが、関西人の役人のおちこぼれ特有の、東京コンプレックス丸出しの東京批判はやめてほしいよな。
江戸幕府嫌いで物議をかもしてるが、要は関東が感情的に嫌いなだけでしょ。
あれで地元の首長になろうとするんだから有権者を馬鹿にしてるぜ。橋下なんて下らねえ奴を推してるし。
475:日本@名無史さん
09/12/23 04:46:24
12/16発売のSapio1/4号には日本史上最強の戦争指揮官は誰だ!という特集があります。
URLリンク(skygarden.shogakukan.co.jp)
個人的には継之助は好きですけど、最終的には敗軍の将なので入らないのは分かっています。
一応、柴五郎や立見尚文がベスト10に入っているのでいいのです。
まぁ、立見やその兄町田武須計は継之助を高く評価していましたが。
余計な事を言えば、北条義時や板垣退助が入っていないのは不思議かな?と、感じました。
476:日本@名無史さん
10/01/01 07:05:40
あけまして、おめでとうございます。
477:日本@名無史さん
10/01/09 18:05:02
さて、今年の大河は坂本竜馬。
継之助と直接関係はありませんが、海援隊に参加した人物に鵜殿団次郎の弟、
白峰駿馬がいます。
彼は果たして出番はあるのでしょうか。
478:スネル兄弟
10/01/16 04:00:17
_______
./_______\
ゞ;ゝゞヾ .|;;;;;;::::: | |
ゝゞヾヽゝゞゝゞ∠⌒\ ∠⌒\ |#.|
ヾゞ/;ヾ ゝ;ヾ _(*゚∀゚):: (*゚∀゚) | |ババババババ
ゞゞ;ヾゝ# |;;| ̄_|つ∈[](((===@゙´゙,:
//ゞゝ,,,,,,,,,,,|;;;;;;;|::: ̄|/`\ :::;;| |゙`゙
゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙
479:日本@名無史さん
10/01/16 04:44:04
シュネル兄弟の兄の方は、アメリカで
日本人(会津人)と結婚してたのか?
子供は日系一世だな
480:日本@名無史さん
10/01/24 09:02:55
外国人のお友達紹介(笑)
ジェームス・ファブル・ブラント 1841年(天保11年)9月23日~1923年(大正12年)8月7日
スイス人。貿易(横浜外国人商人、時計輸入)。
1841年(天保11年)9月23日、スイスのルロックルで生まれる。
1862年(文久2年)、日本との修好条約締結の為、時計組合総裁・元参議院議員A・アンベールを団長としたスイス特派使節団の一行16名の一員として来日した。
1864年(元治1年)、条約は日本スイス両国間で締結されたが彼はそのまま日本に留まり、横浜居留地52番で時計宝石商を開業した。
1866年(慶応2年)、横浜大火の際この店は焼失したが、彼は居留地175番に新規の営業所を開設し、スイス時計の輸入商として日本各地にスイス時計の販売促進を行った。
1874年(明治7年)、横浜に出来た町会所に時計台を設置し、また横浜の名所でもあった高島町岩亀楼の建築は彼の工夫によるもので、何れも幕末・明治初期の横浜名所として浮世絵などに描かれた。
1923年(大正12年)8月7日、避暑先の長野県軽井沢の別荘で心臓発作の為死去。享年82歳。遺体は横浜山手の外人墓地に埋葬された。
なお、彼は戊辰戦争の際には、薩摩島津家、長岡牧野家などに武器・弾薬等を供給したほどの商売上手であった。
481:日本@名無史さん
10/02/13 07:23:40
昨日は平成8年(1996)2月12日に亡くなられた司馬遼太郎先生の命日です。
玄人好みの継之助を世に出してくれた、大功労者なのです。
それまであまり騒がれなかった継之助が注目されるようになったのです。
賛否両論有りましょうが、司馬先生に感謝しましょう。
482:日本@名無史さん
10/02/19 21:14:25
最近、龍馬=幕末ブームなのでこのような本が出ています。
『オフサイド・ブックス55
幕末明治の「戦争」全部解説します!』
中村一郎著、成田毅著 彩流社
URLリンク(www.hanmoto.com)
著者はあまり聞かないけど、個人的には、いい本だなぁと思っています。
483:日本@名無史さん
10/02/20 10:41:26
『藤沢周平が書ききれなかった歴史』-『義民が駆ける』を読む‐
青木美智男著 柏書房
URLリンク(www.kashiwashobo.co.jp)
庄内酒井家、長岡牧野家、川越松平家の三家を巻き込んだ天保11年(1840)の三方領地替え。
庄内農民の義挙といわれる、この騒動。本当のところはどこにあったのか。
実は、長岡牧野家が新潟港で行われている薩摩島津家の密貿易を見逃すばかりか、
その上前を撥ねていることを調べ上げた徳川幕府が長岡牧野家に対する懲罰として、
川越に転封しようというのが話の始まりであるという。
川越松平家は、財政難でどこか良い転封先はないかと、幕府に掛け合った結果、
当時の老中水野忠邦が個人的に折り合いの悪い庄内酒井家を長岡に転封させ、
川越に牧野家を、松平家を庄内に転封させようとした、というのである。
さらに付け加えると、新潟港と酒田港を直轄地にしたうえである。
19世紀中盤の東アジア情勢と絡めて説明しています。
三方領地替えが挫折した後、牧野家は新潟港を越後国内の別の土地と交換されます。
事実上の召し上げですね。
これでいったら、三方領地替えを挫折させたのは庄内農民ですが、
きっかけを提供したのは、長岡牧野家なのですね。
484:日本@名無史さん
10/02/20 11:25:23
この三方領地替え騒動時、継之助は少年期だよね。
どういう受け止め方をしたのだろうか。
485:日本@名無史さん
10/03/03 00:51:52
峠をドラマ化してほしい
486:日本@名無史さん
10/03/03 02:38:57
主役は誰が良い?
487:日本@名無史さん
10/03/03 02:59:50
>483川越の大和守が大御所にねだったのが発端じゃないの?
>486中村雅俊か原田大二郎がよい。肖像画に似ている。
488:日本@名無史さん
10/03/04 03:12:47
>>486
織田さんで
489:日本@名無史さん
10/03/13 11:54:31
2009年12月の出来事です。
新潟
5分の1「ガトリング砲」が完成
長岡の製造業者有志、継之助記念館に寄贈
戊辰戦争時に長岡藩家老、河井継之助が撃ったとされる手動機関銃「ガトリング砲」の5分の1サイズの模型を、
長岡市の製造業者有志が作った。
「長岡の歴史を広く伝えたい」との思いで、27日に同市のホテルで開かれる河井継之助記念館の開館3周年記念講演会で、同館に寄贈する。
ガトリング砲は、1862年に米国で発明され、継之助が日本で最初に使ったといわれている。
模型を作ったのは、同市南陽2の精密産業機械メーカー「旭精機」など同市の製造業3社。
同社は、同館に展示されている原寸大模型の製作に協力しており、その際に使った図面を活用して、縮小版を作った。
模型は鉄製で長さ約40センチ、幅約20センチ、高さ約30センチ。1カ月掛けて製作した。
6本の銃身を回転させるハンドルや、銃身の角度を調節するダイヤルなど、実物と同様に動かせるよう精密に作った。
同社の中村康夫専務(55)は「小さいと組み立て作業が細かく、逆に作るのが大変だった」というが「出来はかなりいい」と自信をみせる。
模型は5台製作しており、寄贈する1台以外は希望があれば15万円で販売する。
中村専務は「ガトリング砲は長岡のシンボルだと思う。継之助や幕末に興味のある人に広めたい」と話した。
490:日本@名無史さん
10/03/15 15:32:58
>>489
これ何処のニュース?
全国ニュース?
491:日本@名無史さん
10/03/20 07:28:40
3月18日付けの産経新聞、文化・学術のコラムに継之助が掲載されています。
東京大学教授、山内昌之氏の連載記事で表題は『幕末から見た現在(いま)』
54回目の連載で取り上げられることになりました。
過去には、維新三傑、徳川慶喜、から山川兄弟、立見尚文まで多彩な人物が掲載。
興味のある方はどうぞ。
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
492:日本@名無史さん
10/03/20 07:40:22
>>490
2009年12月18日付け新潟日報の記事です。
興味のある方はどうぞ。
URLリンク(74.125.153.132)
html+2009%E5%B9%B412%E6%9C%88+%E9%95%B7%E5%B2%A1+%E6%B2%B3%E4%BA%95%E7%B6%99%E4%B9%8B%E5%
8A%A9+%E3%82%AC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E7%A0%B2&cd=3&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
493:日本@名無史さん
10/03/28 21:14:25
ほほー
494:日本@名無史さん
10/04/05 02:49:47
>>492
へー、新潟日報か
ありがと
495:日本@名無史さん
10/04/10 15:09:44
【元気のでる歴史人物講座】(46)山田方谷 経済と人心の再建は両輪
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
興味のある方はどうぞ。
496:日本@名無史さん
10/04/11 01:52:43
新吉原稲本楼のお職花魁 小稲大夫
497:日本@名無史さん
10/04/12 06:17:42
戦闘指揮官の河井が、ガトリング砲なんか使うなよな。
そんな威力のある砲なら、敵も狙撃するだろ。
防御板が付いてないなら欠陥商品じゃないのか、しかし西部劇なんかでも
付いてなかった気がする。
498:日本@名無史さん
10/04/13 06:56:01
会津の佐川官兵衛と何回か接触してるが、それぞれの人物評は残ってないの
だろうか?
英雄同士のエピを期待したいのだが、両者ともよい印象を持たなかったのかな。
499:日本@名無史さん
10/04/16 17:36:59
河井と佐川なら間違いなく対立してるでしょ。
まあ、佐川は軍議では対立しても、それ以外では評価してたかも知れないが
500:日本@名無史さん
10/04/18 04:41:04
長岡藩程度の戦力で、あの局面での中立は無理だろう、官軍側の交渉相手が
岩村よりましな一線級であっても交渉が成立できたと思えない。
ただ河井が負傷せずに、戦闘が長岡藩有利な状況で和解して官軍に参加、列藩
同盟への交渉役などで影響力を発揮し、新政府でのいいポスト獲得ならあり
えたかもな。
501:日本@名無史さん
10/04/19 13:41:31
無理と思うのは後世の発想が多分にあって、当事者は事態を自分に都合よく解釈しがち
米沢藩の宮島への広沢真臣の忠告が示すように、
事前情勢的には新政府側が折れる可能性に望みを託しても不思議ではない
502:日本@名無史さん
10/04/19 14:42:58
>>500-501
勉強になりました。
503:日本@名無史さん
10/04/24 14:35:33
河井に「もし戦国に生まれていれば、素手で百万石くらいとれるかもしれない」
と言わしめたのが安田鉚蔵、ところが安田は強硬な恭順派で河井に蟄居させられる。
自分は河井にシビレルが、長岡の人たちにとっては安田ら恭順派の方がよかった
だろな。
504:日本@名無史さん
10/04/24 17:23:13
稲垣さんたちの体制ならそれで良かったかも知れないけど、山本家も含めたら、
藩政改革を行った牧野忠恭の下では抗戦派が実務の中枢だったんじゃない?
505:日本@名無史さん
10/04/24 19:01:55
河井と勝海舟に共通点を感じるが、表舞台に出るのが遅かったから、勝に比べて
使える手駒が少なくてちょっと気の毒。
506:日本@名無史さん
10/04/25 11:29:10
直参の勝は島津斉彬とも親しかったから、西郷も初対面から一目おいていた。
河井とは背景がかなり違う、むしろ己を誇り過ぎるきらいのあった佐久間象山
の方が近いとおもう。
ガトリング砲を自分で操作したのは、郷土の英雄の謙信の司令長官なのに
前線で戦う姿を重ねて藩士たちに印象づけたかったのかも、官軍との交渉も
腹心をやって成立しなければ腹を切らせて、それを政治利用するくらいの事
をやれよ。
みんな自分でやりすぎる。
戦後の長岡の人は、河井を戦争犯罪人としその遺族を居ずらくして石もて追い
恭順派の安田らには逆に不忠の腰抜け武士と罵っているな。
507:日本@名無史さん
10/05/02 17:31:58
>>498
佐川官兵衛は長岡で一緒に戦ったでしょ
河井が居る本陣隣の農家に泊まってた記録もある
皆それぞれ分宿なのでこれは相当に良い扱い
>>506
長岡市内じゃそうかもな焼け野原になって維新後に県都も奪われた訳だから
ただ長岡は長岡藩の領地より天領地の方が広かったので領民は
徳川に江戸時代通じてずっと豊かに暮せた恩もあったので
意地を通した河井はそれなりに尊敬されたろう
508:日本@名無史さん
10/05/03 20:28:47
安田鉚蔵もサムライなら河井に蟄居させられてても、開戦したら戦闘指揮官と
して参戦すべきだろう、関ヶ原の大谷刑部みたいな死に方の方選べよな。
官軍に投降なんて腰抜けめ。
509:日本@名無史さん
10/05/08 14:01:51
遅れましたが、5月1日の産経新聞、学術・文化コラム「名作まち歩き」にて、
司馬遼太郎の「峠」が取り上げられました。
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
興味のある方はどうぞ。
>>508
庄内酒井家の名将と謳われた、「鬼玄蕃」こと酒井了恒。
彼の父親は慶応3年に起きた「丁卯の大獄」の際、主犯として蟄居・謹慎させられ、
家禄も1500石から700石に減知。
それでも、父の政敵であった松平親懐、菅実秀とは敵対せず、彼らの下で戦っている。
安田が頑固者なのか、酒井が変わり者なのか?
510:日本@名無史さん
10/05/10 09:29:32
関ヶ原の大谷刑部もいいが、西南の役の貴島清もカッコいい。
死に方が武士らしい、それにつけても安田の腰抜けめ、河井の人物眼もあてに
ならんわい。
511:日本@名無史さん
10/05/14 13:11:27
河井は戦友である会津、米沢は警戒してたが、庄内は信用してたらしいね。
512:日本@名無史さん
10/05/15 10:19:34
越後長岡・米百俵塾 入門編を開塾します
人材育成の重要性を説く「米百俵の精神」を、長岡の歴史や文化を通じて学びます。
今回の入門編では、『ノモンハンの夏』、『昭和史』、『幕末史』等で有名な作家の半藤一利氏、
河井継之助記念館館長 稲川明雄氏、長岡郷土史研究会の今井雄介氏が講師・ガイドを務め、
「米百俵の精神」と長岡の歴史について、わかりやすく解説します。
初めての方にも配慮した内容となっておりますので、
「米百俵」や長岡の歴史に興味をお持ちの方はぜひご参加ください。
実施日 平成22年6月15日(火)、16日(水)
対 象 18歳以上で、原則として2日間参加できる方
受講料 10,000円(宿泊料、15日夕食、16日朝食、16日昼食、講師料、教材費含む)
※宿泊、食事が不要の場合は1,500円となります。
※上記金額には現地までの往復交通費は含まれていません。
受付期間 4月26(月)~5月25日(火)
申込方法 所定の申込書に必要事項を記入のうえ、
郵送、FAXまたはメールでお申し込みください。電話での受付も可能です。
お問い合わせ
申込先 〒940-8501 新潟県長岡市幸町2-1-1
越後長岡・米百俵塾実行委員会 事務局(地域振興戦略部)
電話:0258-39-2260 FAX:0258-39-2254
E-Mail:gnagaoka@city.nagaoka.lg.jp
長岡市ホームページはこちら
URLリンク(www.city.nagaoka.niigata.jp)
>>511
単純に庄内酒井家が強いということと、領地が海に面しているということ。
会津松平家・米沢上杉家とも、領地が内陸部で海に面していない。
庄内酒井家は酒田港という東日本随一の港を有しており、
そこから船で海外亡命という選択肢を実行する事も可能。
実際、牧野家家臣団は仙台でスネル兄弟に海外亡命の可能性を打診したが、
お金が足りないとの理由で、亡命を断念した話が残っている。
513:日本@名無史さん
10/05/15 11:14:59
大村が長岡に来れば、3日で河合を倒せるでしょ。
514:日本@名無史さん
10/05/15 13:36:19
>>513
薩摩版大村益次郎とも言うべき、中原猶介の記事です。
歴史作家桐野作人さんのブログに詳細が記されています。
URLリンク(dangodazo.blog83.fc2.com)
薩摩軍団の軍制改革を実務面で引っ張ってきた人です。
伊地知正治と共に、薩摩の双璧というべき存在です。
伊地知と比べると扱いが地味なのは、戊辰戦争で戦傷死されているからです。
515:日本@名無史さん
10/05/20 11:28:19
大村が長岡に来ても、
酒の肴の豆腐を隠しておけば発狂するから3日で江戸に帰っちゃうよ。
516:日本@名無史さん
10/05/22 13:35:20
われこそは、継之助信者という方はいかかですか?
書道吟の夕べ ~河井継之助を偲ぶ 漢詩の心を感じて~ 開催のお知らせ
詩吟の流れに合わせ、 詩の内容を書き表していく書道吟。
視覚と聴覚の両方で詩の世界を味わうことができます。
今回は、越後長岡藩幕末の三傑、河井継之助、小林虎三郎、三島億二郎にまつわる漢詩を吟じます。
詳しい詳細は、こちらへ。
URLリンク(tsuginosuke.net)
河井継之助記念館ガイドボランティアの会について
河井継之助記念館ガイドボランティアの会は、来館者と記念館の架け橋となるよう願って設立されたものです。
主に、土・日・祝日を中心にガイド活動をしています。
来館してくださる方へ「おもてなしの心」で対応していますので、ぜひご利用ください。
また、会員も随時募集中です!「河井継之助や長岡の歴史について興味がある」
「歴史はよく分からないけれど、生涯学習のつもりで勉強したい」という方は、
ぜひご入会ください。年会費は1,000円です。
詳しい詳細は、こちらへ
URLリンク(www.city.nagaoka.niigata.jp)
517:日本@名無史さん
10/05/22 18:44:41
>>513
大村って、山縣が援軍の要請をしても無視していて、
木戸や岩倉や西郷や大久保が越後に大軍の派遣を決定すると嫌な顔をしたとあるね。
大村的には、仙台や米沢を倒してから、会津を倒せば、世の中丸く収まると考えていたから、
越後は眼中になかったのでは。
むしろ、久保田を離反させて戦力を分断して、共食いによって、
越後や会津に戦力が来ないようにしていたのでは。
518:日本@名無史さん
10/05/23 11:20:24
>>498
ちなみに、会津軍は略奪放火等の乱暴が多く、
佐川官兵衛がその指揮官であったことから、
河井継之助が彼によい印象を持っていたとは思えない。
519:日本@名無史さん
10/06/16 22:56:36
「鉄と麦と赤レンガ~河井継之助と外山脩造 志のリレー」
維新の動乱期にあって最も激しい戦いが繰り広げられたとされる北越戦争。
官軍に立ち向かった長岡藩・軍事総督 河井継之助が最期に伝えた「志」とは?
ラストサムライの遺言を実直に、そして見事に成就させたのが弟子の外山脩造だった・・・。
外山脩造(1842~1916 長岡市出身)
北越戦争で一敗地にまみれるも、師と仰ぐ河井継之助の言葉をよりどころとして立志。
逆境をバネとして大蔵省、日銀大阪支店長等を経て、アサヒビール、阪神電鉄、商業興信所(日本初の信用調査会社)等の創業に関わる。関西財界の礎を築いたといわれるほど功績は大きく、経世済民、常に庶民の立場に身を置き利己を排した志の人。
越後・維新の物語
URLリンク(uxtv.jp)
河井継之助と外山修造の特別番組やるらしいぞ!