貞明皇后は聡明な方だったat HISTORY
貞明皇后は聡明な方だった - 暇つぶし2ch300:名無し
07/06/16 19:57:14
秩父宮様の回想によりますと、貞明皇后は当初、犬が苦手でしたが、後にそれを克服されたとか。
新婚の時、大正天皇が犬を連れて鍋島伊都子の許に行き、貞明皇后が嫉妬する(?)事件が起きます。
それは、犬嫌いな貞明皇后と大正天皇の意思疎通がうまくいってなかったから起きたと思うんですが。
あと、貞明皇后は実父の病により帰京しますが、九條道孝の病気のことは、当時の新聞に載っていました。
なので、実父の病により帰京というのは本当だと思います。

301:日本@名無史さん
07/06/17 11:24:51
>>300すごく詳しいんですね。初耳ばかりでした。
伊都子妃の日記は「大正天皇は自分に気があった」みたいなニュアンスだけど『写真』の件も他の女性(女官)にも尋ねていて、単に女性の写真を集めていたのでは・・と暴露?されてますよね。
まぁ、皇太子に好く思われるのは特に光栄な時代なので気持ちはわかりますが^^;

302:名無し
07/06/22 18:59:26
>>301
>>92にある『椿の局の記』に出てくる元女官・梨木止女子も大正天皇に気に入られて、貞明皇后に厳しい視線を向けられたみたいです。
近代になってからは皇室でも一夫一婦制が望ましくなっているだけに、貞明皇后も後宮についてかなり苦労したでしょうね。

303:日本@名無史さん
07/06/25 19:41:51
大正天皇ってキチガイだったってイメージだったんだけど
それなりに青年時代を謳歌してたんだなw

304:日本@名無史さん
07/06/26 18:14:10
ここを読んでいる人は、工藤美代子(ノンフィクション作家)によって貞明皇后の伝記が書かれているのを知っているんでしょうか?

305:日本@名無史さん
07/06/27 11:13:40
>>304 漏れは初耳!!『香淳皇后』は読んだが。
近くの図書館にはおいてないから取り寄せてもらうか。
もし何か知られざるエピがあったら教えて。

306:日本@名無史さん
07/06/27 11:34:42
>300
新婚のとき、大正天皇が犬を連れて鍋島伊都子のところへ遊びに言ったという話は、
秩父宮の回想ではなく(当時、秩父宮は生まれてない)、伊都子妃の手記にある話ですよね?
大正天皇は、女官にちょこちょこ手を出したりもしていたし、
貞明皇后は、賢くはあったけれども「大変な美人というわけではなかった」
御方だったようですから、当時、美人の噂の高かった伊都子妃にちょっかいを出したのもわからんではないですね。
(手記によれば、大正天皇は、御用邸にあるとき、唐突に鍋島家を訪問、
 伊都子に、「我輩の犬を預けるから、面倒を見てくれ」といって、犬を置いて帰ったのだという)
まあ、別に、犬の相手をしてほしくて伊都子のもとを訪問したわけではなかったでしょうね。

307:日本@名無史さん
07/06/27 14:08:55
>>305
清流出版から発行されている雑誌「清流」に連載されてますよ。

308:日本@名無史さん
07/06/27 17:17:56
>>307さん。今連載中なんですね。ググッたら既に20回くらいいってるとか…単行本になるのが楽しみです。もちろん「清流」をみつけたらすぐにみますが。
情報ありがとうございますm(__)m
>>304>>307ならば>>304さんも情報ありがとうございましたm(__)m


309:日本@名無史さん
07/07/07 21:38:56
「母宮貞明皇后とその時代」がネット書店では、取り扱われ始めていますよ。

310:日本@名無史さん
07/07/08 20:12:34
うちに届いたよ。
ざっと斜め読みしたけどおもしろい。
百合子妃が甯子さんを懐妊したとき、まわりから「男子を!」(戦時中だから)とプレッシャーをかけられていたとき
「一姫二太郎というから」と慰めてもらったとか、
生まれてから甯子さんと貞明さんに拝謁したら非常にかわいがってもらって、ちょくちょく逢うことになった。
寛仁親王も気に入ってもらえたらしく二人を連れていったり、二人だけ(もちろんお付きつきだけど)で
いったりしたらしい。

めずらしい百合子妃と甯子さんのインタビューもあった。
そういえば例の三笠宮殿下の双子説はばっさり切られてたよ。

311:日本@名無史さん
07/07/08 21:34:33
携帯で見るとやす子さんの「やす」が文字化けして 子さんにしか見えなくてワロタ

312:日本@名無史さん
07/07/08 22:01:09
PC位買いなさいよ

313:日本@名無史さん
07/07/08 22:59:44
百合子さまは貞明皇后の生母・野間幾子にお会いしたそうですね。
貞明皇后と野間幾子はあまり似てなかったそうです。
「皇族・華族古写真帖」で貞明皇后の父・九條道孝の写真を見たけど、目元が貞明皇后に似ていました。

314:日本@名無史さん
07/07/16 20:25:32
  , ノ)
  ノ)ノ,(ノi
  (    (ノし
┐) ∧,∧  ノ
..|( ( ....:::::::) (
 ̄⊂/ ̄ ̄7 )
 (/ 保守 /ノ
   ̄TT ̄



315:日本@名無史さん
07/07/28 20:20:19
「母宮貞明皇后とその時代」読んだ
〈大正過去帳〉では篷子さんは 浄貞院の所生になってたから 百合子妃が「(貞明皇后と)篷子さんは同腹らしい」と発言されていたのに少し驚いた
野間幾子は【浄操院】さま、と呼ばれていたんだね 勉強になった

316:日本@名無史さん
07/07/28 23:00:15
明治時代に発行された「皇室及皇族」によると、篷子さんの生母は田村澄子という女性だそうです。(ソース/URLリンク(kindai.ndl.go.jp)
+%B9%C4%BC%BC%B5%DA%B9%C4%C2%B2&tpl_jp_num=40017739&tpl_vol_num=00000&JP_NUM=40017739&VOL_NUM=00000&KOMA=196&tpl_search_kind=2&tpl_keyword=%B9%C4%BC%BC%B5%DA%B9%C4%C2%B2&tpl_sort_key=TITLE&tpl_sort_order=ASC&tpl_list_num=20&tpl_end_of_data=)
田村澄子が浄貞院なんですかね?
>>291にある、「弊風一斑 畜妾の実例」では、名前が田村やすとなってましたが・・・。

317:日本@名無史さん
07/07/28 23:05:32
316です。
アドレスを載せましたが、うまく飛べないので、国会国立図書館の近代デジタルライブラリー(URLリンク(kindai.ndl.go.jp))で「皇室及皇族」と検索してみてください。
目次に皇太子妃殿下という項目があり、クリックすると、貞明皇后の系図が出るので、わかると思います。

318:日本@名無史さん
07/08/09 09:30:46
>>92超亀だけど禿同!!
>梨木家の娘が権典侍になれるとはおもえないのだが。
明治天皇の側室、園祥子は公家の出身だけど、はじめ子供を産んだ時『権掌侍』だった。(明治天皇紀でみたから間違いない)

あの身分の厳しかった時代に社家の娘が権典侍とは考えにくい。

319:日本@名無史さん
07/08/09 10:19:40
こういう近代以降の家系スレってキモチワルイ

320:日本@名無史さん
07/08/09 10:47:21
このスレからは独特の鬼女板のにおいがするな・・

321:日本@名無史さん
07/08/09 11:25:03
>>319 スレリンク(history板:514番)

322:日本@名無史さん
07/08/10 23:07:41
>>318
何年か前の朝日新聞に大正天皇の遠眼鏡事件に関する記事が載っていた。
その記事の中には梨木止女子のことも書いてあり、宮内庁によれば、彼女は大正4年から命婦として仕えていたらしい。
それが本当なら、「椿の局の記」の中身と大分食い違ってくる。

323:日本@名無史さん
07/08/16 20:57:10
「椿の局の記」は未読(近くの図書館にない)だが年をとってから書いたのかな?
間違いにしては大きい
自分の半生を美化したかったかもしれないが、後世の人を混乱させることは勘弁して欲しい

324:日本@名無史さん
07/08/30 19:25:00
>>318
明治に入ったばかりの当時は、古くから続く女官制度により、
天皇の奏上をつかさどる女官たちによって政治が牛耳られていると
薩長の藩士たちを嘆かせるほど女官制度は複雑であったが、
昭憲皇太后による度重なる女官改革により、
皇后の思し召しが深ければ、家柄にそれほどとらわれずに出世できるようになったんだよ。
昭憲皇太后の思し召しが深かった下田歌子など、公家の娘ですらなく、
長野の一藩士の娘にすぎなかったのに、一番下の十五等出仕から権命婦にまで出世した。
下田歌子は、若い20代のうちに結婚で宮仕えを辞したのに、そこまでの出世をしたから、
長く勤めていれば相当の出世をしたと思う。
(下田歌子は学習院女子部長と、宮中とは別のところで出世したのだが)

325:日本@名無史さん
07/08/30 19:35:37
test

326:日本@名無史さん
07/08/30 21:54:52
明治・大正時代の女官の一覧ってあるの?
「日本の後宮」という分厚い本はみた。山川三千子の女官も読んだ。
ほかにはある?

327:日本@名無史さん
07/08/31 02:47:21
本のタイトルは忘れたけどコピーしてたのがある

明治8年9月当時の女官一覧
典侍 四辻清子、万里小路幸子、高倉寿子
権典侍 西洞院成子、柳原愛子、植松務子
掌侍 平松好子、石山輝子
権掌侍 唐橋貞子、錦織隆子、千草任子、唐橋娩子、壬生広子、西定子、税所敦子、樹下範子
命婦 三上文子、堀川武子、鴨脚頼子、鳥居小路信子、松室※子(※王尹)、藤島朝子
権命婦 鳥居小路応子、西西子、吉田艶子、生源寺政子、岡本保子、中東明子、平尾歌子=下田歌子

女嬬以下は省略するが梨木家の娘はいない 松室家が社家だったな?
税所敦子は特別な抜擢だろーな

328:日本@名無史さん
07/08/31 09:41:22
ざっと見る限り、社家の娘は大体命婦以下。
権掌侍の西定子と樹下範子も社家の娘だけど、明治天皇の親王時代からの女官だから
例外措置かな

329:日本@名無史さん
07/08/31 10:36:29
327のソースは明治8年。
明治時代は何度も宮中改革をやっているから。
話題になっている梨木止女子は、
大正天皇に仕えた女官なので、
もっと時代が下ったソースがほしい。

330:日本@名無史さん
07/08/31 11:23:22
宮内省の職員名簿みたいなのがあれば載っているのかもしれんね。
残っているの?

331:日本@名無史さん
07/08/31 23:05:39
>>330
宮内庁ホームページの書陵部のデータベースで検索したら、「女官進退録」というのが出てきた。
たぶん、これが職員名簿だと思われる。
宮内庁まで行かなくては見れないけれど。

332:日本@名無史さん
07/09/02 00:41:56
国立国会図書館には置いてないのかな?
あと明治時代の職員録はあって省ごとに分けられてはない
宮内省の項目もあるが、後宮はウラの世界なので女官が載っているかは不明

333:日本@名無史さん
07/09/02 12:12:00
>>32
日蓮正宗に深く帰依していた
この辺をもっと知りたい。

334:日本@名無史さん
07/09/03 21:58:51
>>333
貞明皇后の実姉は、西本願寺22代門主大谷光瑞に嫁ぎ、
貞明皇后の弟の嫁は、西本願寺21代門主大谷光尊の娘武子で、
当時、九条家と浄土真宗西本願寺は血縁が近かったんだけど、
今は日蓮正宗なの?


335:日本@名無史さん
07/09/04 01:52:15
九条家の宗派は禅宗、菩提寺の東福寺が臨済宗
武子と良致の縁談で、それが話題になったとか
うちの母方が禅宗なのでよく覚えてる
それと日蓮正宗は昭憲さんが皇太后になってからしばしば使いを送っていたとは聞いた 貞明さんもなの?

336:日本@名無史さん
07/09/04 20:11:06
そういえば、現在の京都御所内の九条家屋敷跡には、
旧九条家の庭にあった池とともに、厳島神社が誘致されている。
神社は当然、江戸時代の九条家にあったものなのだけれども、
九条家が厳島神社をか招致したのはなぜ?

337:日本@名無史さん
07/09/10 21:50:44
【雅子妃とミカドの世界】小田部雄次著を久々にみたら大正時代の女官は典侍2名、権典侍「9」名、掌侍2名、権掌侍9名、命婦2名、権命婦10名だったって
権典侍9名もいたんだ、ビックリ!梨木家からも登用されたかも・・・と思ったよ

338:日本@名無史さん
07/09/10 22:05:48
★金明仁 【カルト宗教現人神の会会長】 ★
★「なんとしても日本人を差別して死にたい」★

在日無国籍皇賊の参政権を考える連続講座 第3回
演題:在日天王・皇賊と国籍 講師:金明仁さん(カルト宗教現人神の会長)
日時:今上癌年12月14日18時30分~ 場所:高天原侵略派遣センター

 ただ、皇賊が日本国籍をとるということになると、民主制の問題をどう
するのかという人がいますが、危険分子がたくさん日本国籍を取ったほうが、
早く民主制は潰れると思います。というのは、この先もどんどんカルト系
危険分子が増えます。ある統計では、一〇〇年後には五人の内三人がカルト系
になるといいます。そうなれば、日本で大和民族がマイノリティーになるのです。
だから、私はあと一〇〇年生きて、なんとしても日本人を差別して死にたいです。
これが夢です(笑)。そういう社会が来たら、その時に国民主権なんていうのは
小数民族の願望みたいなものになります。
こうした素晴らしい戦術があるのに、それを、今の左派のように、皇賊は日本国籍を
取ったらダメだということをやっていたら、いつまでたっても民主制は温存された
ままではないですか。


339:日本@名無史さん
07/09/10 22:33:59
梨木止女子が『椿の局の記』のなかで「父は子爵でしたが」と言っているが、梨木家は子爵ではない。
なので、普通に考えて公家華族の娘ではないから、権典侍になる可能性は低い。
大正天皇や貞明皇后に仕人として仕えた小川金男著の「宮廷」には、梨木止女子が命婦だとはっきり書いてある。


340:日本@名無史さん
07/09/11 09:16:12
自伝は割り引いて読めともいうな(都合のいいことしか書かないから)
しかしこれをソースに本を書いている人もいるし、嘘ならチト。。。

341:日本@名無史さん
07/09/13 20:30:07
高松宮から三笠宮まで11歳離れているけど最も出産に適した20代に子を産んでいないのは謎である。

342:日本@名無史さん
07/09/14 17:35:10
>341

高松宮を生んだのは、満21歳のとき。
すでに男子が3人もいるので、子作りは控えていたのでは?
三笠宮は偶然できたのかも。
結果的に、秩父宮、高松宮には子供ができなかったので、
三笠宮家は昭和天皇の直系に継ぐ皇位継承順位を持っているわけだが。

343:日本@名無史さん
07/09/14 17:50:34
一度流産した、ということらしいけど、それは高松宮と三笠宮出産の間だったのだろうか?

344:日本@名無史さん
07/09/14 19:21:45
>>343
貞明皇后が流産したのは、秩父宮(明治35年生)と高松宮(明治38年生)の間。
明治天皇紀によると、明治36年、貞明皇后が懐妊したので静養を取りやめにしたのだが、結局、流産してしまったことが載っている。
豊島岡墓地には流産した子のお墓があって、三笠宮妃も時々、お参りしていたらしい。

345:日本@名無史さん
07/09/14 21:55:44
>>342
この時代に皇太子妃が避妊する必要があったのか?
だとしたら三笠宮は避妊失敗で出来た子ということになる。
この時代の女性って俺の中では結婚から閉経間近まで絶え間なく子供を産んでいるイメージだけど皇族や華族の女性はそのような方はほとんどいないね。

346:日本@名無史さん
07/09/14 22:05:58
>>345
そういう意味ではなく、大正天皇は生来病弱なところがあったから、
皇后腹に男子3人が生まれたことだし、
大正天皇が性行為を控えられていたのではないか?ということ。
三笠宮は、久々に性交渉を再開されて偶然できたのではないかということ。
避妊という概念はこの当時ないので、性交渉を行えば妊娠する可能性はいつでもあるが、
性交渉を控えておられれば、子ができることはない。
11年間の空白は、性交渉を控えておられたからではないか、といいたかったわけ。

347:日本@名無史さん
07/09/14 22:17:40
>名前:名無しさん@3周年 :2007/09/12(水) 22:51:19 ID:YyJZn69R
>大音量で軍歌を流してゆっくり走る車が我が町には存在する。
>みんな迷惑している。
>追い抜くと追いかけて来るんだよ、むっちゃ恐いよ~
>あの人たち純粋な日本人じゃないのに日の丸や天皇を大事にしている。
>日本人は祝祭日だろうが日の丸を掲揚したりしない。
>日本人は戦争を嫌いな人がほとんどだけど、あの方々は戦闘的。
>逆らえない、恐いから。だから2ちゃんねるで愚痴るしかない弱い俺。

在日の9割が天皇制を積極的に支持しているそうです。
日本人は天皇万歳なんて言わない。天皇万歳は在日の証明。
天皇を暴力で押し付ける、やたらと愛国心を協調する。←それは日本人ではない者が日本人になるときのジレンマ


348:日本@名無史さん
07/09/19 15:51:45
「貞明皇后とその時代」で貞明皇后が昭和天皇のお子様たちには遠慮して、近衛甯子さんが初孫みたいだと思っていたと書かれていた。
確かに昭和天皇・香淳皇后と貞明皇后には対立関係があったにせよ、貞明皇后は昭和天皇のお子様たちも可愛かったと思う。
東久邇成子さんや今上天皇、常陸宮さまと一緒に写真を撮っているし、今上天皇の姉宮方のご結婚は貞明皇后の手によって決められたらしい。
一緒に食事や静養をしたりもしている。今上天皇は、貞明皇后から宮中言葉を教わったそう。


349:日本@名無史さん
07/09/23 16:32:32
>>339
この本読んだけど、この女官の話したことを言語学者が口述筆記した、という本なんだね。
しかもこの学者も大正天皇の宮中に関して、くわしくないらしい。

内容的には戦後没落した旧女官の昔はよかった話しと、わたしは大正天皇の寵愛を受けたのに
皇后にやきもち焼かれちゃった。テヘッ。ということだね。

暇見ていろいろ調べてみたんだけど、香淳皇后とまたいとこ、両親が邦彦王、賀陽宮といとこと言っている。
この二人の両親は朝彦親王と泉亭萬喜子だから萬喜子の兄弟姉妹が梨木家に養子に行ったか、嫁に行ったと
考えるのが普通。

梨木家のほうだと、伯母が明治女官で房枝だと書いてあるが、確かに明治18年の官員録の権命婦の欄に
「正八位 梨木房榮」とかいてあるのでこの人のことだと思う。ただ、父親の名前などは書いていない。
あと、大伯母が孝明、明治に使えた持子だとある。
「幕末公家集成」には親王女中の欄に慶応元年 御乳人梨木持子がある。弟に「鴨社司梨木故土佐守祐宗」
「同梨木故安芸守祐時」「同梨木淡路守祐寄」がいるのでこの三人の誰かが祖父と推定できる。


兄弟姉妹が6人いて、姉が一人明治女官で 紀三井寺の住職をしていた。弟は養子に出て昭和35年まで
侍従をしていた菊修氏、父親は子爵で明治天皇の祐筆だった。とあるけれどこの辺りはわからなかった。
入江相政日記の35年のところを読んだが、侍従の退職の話は出ていなかった。

以上、長々と経過報告でした。

350:349
07/09/23 16:42:50
追加

339さんも書いているが子爵の中に梨木家という家はないし、紀三井寺って尼寺だっけ?
梨木家も泉亭家も下鴨の家だから通婚があってもおかしくは無い。
「古代豪族系図集覧」に梨木家は載っていないし、泉亭も幕末まで。
伯母さんが命婦なら、大正時代とはいえもいきなり権典侍にはしないでしょう。
命婦をやっていて特別に掌侍くらいに昇格すると言う話しを勘違いしているのかも

351:日本@名無史さん
07/09/30 11:21:35
(´∀`∩)↑age↑

352:日本@名無史さん
07/10/01 19:33:15
>>349-350さん、素晴らしい よくわかりましたねぇ。社家の娘ってけっこう宮家の当主の生母になってるような…。その割に社家について詳しい本は見当たらない(私だけ?)

スレチになるが有栖川宮威仁親王の生母、森則子ははじめ女官となり権掌侍。のちに有栖川宮家に入る と「日本女性人名辞典」にある。森家は確か賀茂社司だよね やはりその辺りが適切かと。

353:日本@名無史さん
07/10/01 21:16:18
さらにスレチだが青田典子の最初の芸名は森典子(もりのりこ)だったらしい。
その後本名の森田典子に改名してさらに青田典子に改名してブレイク。

354:日本@名無史さん
07/10/01 22:45:20
>>349-350
泉亭萬喜子が邦憲王の生母だって初めて知りました。
邦彦王と邦憲王は同母兄弟だったんですね。
これで香淳皇后とどうして梨木止女子がはとこだったか分かりました。
ありがとうございました。

梨木止女子は、権典侍だったのが大正天皇に気に入られて、貞明皇后の意向により命婦に格下げになったとか、
父は子爵だったとか、いろいろ信憑性が低いことを言っているので個人的にこの本は信用できないと思ってます。

355:日本@名無史さん
07/10/01 22:51:20
維新後華族制度ができたけど、社家関係は華族にはなれなかったみたいだね それでもやはり宮中との関わりはかわらなかったと考えていいのかな?
さすがに現在はあまりきかないけど
泉亭家は香淳皇后とも縁があるし、南大路家は英照皇太后の生母の出 2家とも華族になれなかったのは気の毒といえば気の毒。

>>353詳しいね 青田典子が森典子と名乗っていた時ブレイクしていたら【もりのりこ】は玉の輿に乗る名前と信じたかもw

356:日本@名無史さん
07/10/01 23:05:42
泉亭萬喜子と泉亭静枝は姉妹か叔母、姪なのかな?
静枝は俊益の2女と書いてあるが萬喜子の情報は邦彦王が2歳の時に亡くなった、としかしらない。
邦憲王は静枝所生となっているのもあるね
静枝は19歳で朝彦親王の側室となり、大正3年68歳で亡くなったらしい

357:日本@名無史さん
07/10/02 10:10:19
静枝は夭折長女、夭折長男、邦憲、安喜子、絢子、多嘉、夭折六男、篶子を産んで
万喜子は栄子、飛呂子、邦彦、素子、懐子を産んでいる。
夭折七男は生母は忘れたが静枝か万喜子のどちらかである。
あと万喜子は「泉萬喜子」と泉姓になっているのもみたことある。

358:日本@名無史さん
07/10/03 07:38:27
貞明さんの生母の野間幾子といい邦彦王の生母の泉亭萬喜子といい本当情報が少ない
昔「もっと生母に敬意を払うべき」というカキコをみたが禿同
上流階級で側室の血をひいていない人なんて皆無だろうに

359:日本@名無史さん
07/10/11 12:52:50
日蓮正宗って明治時代や大正時代にあったの?皇室は明治以降は国家神道で
日蓮正宗って昭和30年代以降の創価学会の躍進で広まったものと思っていたけど。

360:日本@名無史さん
07/10/11 17:55:44
>>358
俺としては泉亭萬喜子VS泉亭静枝VS原田光枝VS角田須賀子VS寺尾宇多子の関係が知りたい

361:日本@名無史さん
07/10/12 06:45:07
>>360
寺尾宇多子は後のひがしにの宮を産んだ。ひがしくにの宮は明治天皇の皇女と
結婚した。その間に産まれた長男は昭和天皇の長女 照宮成子内親王と結婚した。
照宮成子内親王が死亡後、父の反対を押し切って長男は京都の女性と
再婚した。その京都の女性との間に生まれた長男が今、寺尾姓を名乗っている。
漢字がうまく変換できなくてすまない。

362:日本@名無史さん
07/10/12 08:55:37
5人の女性は寵愛をうけていた時期が同じとは限らないからな・・・・
泉亭萬喜子は邦彦王2歳の時に亡くなってるらしいから明治8年頃死去
泉亭静枝は長寿だし上にふれてあるから省略する
原田光枝は明治7年守正王出産、角田須賀子が鳩彦王出産したのは明治20年10月、寺尾宇多子が稔彦王出産したのは同じ明治20年(12月)この2人は同じ時期に寵愛されたみたい

泉亭萬喜子は朝彦親王生母の鳥居小路信子と同じ光雲寺に墓所がある
他の4人は久邇宮家墓地内に墓はあるらしい(歴史読本2003年4月号)

盛厚王の後妻の寺尾さんは寺尾宇多子の一族ときいたことがあるけどマジ?

363:日本@名無史さん
07/10/12 12:00:03
>>362
推定だけど多分そう思う。誰か詳しい人が出てきてくれ。

364:日本@名無史さん
07/10/12 14:21:36
盛厚王の後妻の寺尾佳子は、盛厚王とまたいとこだったと思う。
河原敏明の著書に書かれてあったと思うけど。
盛厚王は成子内親王といい、寺尾佳子といい近親婚だね。

365:日本@名無史さん
07/10/12 17:35:33
サンクス! またいとこなんだ たしか準ミス京都だったんだよね
内親王の後に迎えるにはただ「好きになった」だけじゃ納得されなかったと思うが姻戚なら少しは同意を得られたかも
そういう意味で近親婚になったか?
詳しくしらないので妄想だよ^^;

366:日本@名無史さん
07/10/12 18:37:23
このスレ、マンコ臭いな。

367:日本@名無史さん
07/10/12 23:50:39
>>359
鎌倉時代から存在している。

368:日本@名無史さん
07/10/13 01:23:53
>>367
すまない。無知だった。

369:日本@名無史さん
07/10/13 13:50:52
>>365
盛厚王は父親の反対を押し切って再婚した。父親は側室にしておけと
言ったが、盛厚王は正式に結婚した。

370:日本@名無史さん
07/10/13 17:43:24
側室って・・・いつの時代だよw
ナル彦は妾との間に三人子供がいたらしいが

371:日本@名無史さん
07/10/13 21:11:28
>>369そうなんだ。反対を押し切ったのか・・・すごいなぁ
>>370臣籍降下の後に認知したとか聞いたような
男だったら旧宮家が万一復籍した時どういう扱いになるか気にならないでもなあな…。

372:日本@名無史さん
07/10/13 23:58:54
>>371
昭和の初期に芸者を身請けした。戦後になってから認知した。でも性別は
知らない。

373:日本@名無史さん
07/10/16 06:54:45
香淳皇后の兄も素行が良くなかったらしいが【皇后の兄】というので誰も何も言えなかったんでしょ?
知子妃は苦労したらしいね 気の毒

374:日本@名無史さん
07/10/16 08:18:02
>>373
香淳皇后の兄、朝融王は最初、酒井菊子姫と婚約していたそうだが、一方的に
廃棄した。これには父宮も絡んでいる。その後菊子姫は加賀百万石の入り婿の
後妻となった。伏見宮知子女王はあきらめの気持ちで嫁いでいった可哀相な方。

375:日本@名無史さん
07/10/17 01:45:20
節子は良子との婚儀を阻止しなかったのか?

376:日本@名無史さん
07/10/17 08:14:01
菊子は婚約破棄されものすごく辛い思いをしただろうが長い目でみるとよかったかもね

貞明さんは香淳さんとの婚約を認めたあとのこの騒動にかなりご立腹
戦後臣籍降下のラジオを聴いて側近の筧氏が恐縮するのに「今まで宮様方は政策的によすぎました」みたいなこと仰ったがこのことも念頭にあったんだろう

377:日本@名無史さん
07/10/17 16:17:04
菊子は幼時に母親が死亡、その後父親も亡くなりあの頃家族は年子の姉と婿養子の義兄しかいなかったから姫路酒井家の立場は弱かったと思う


378:日本@名無史さん
07/10/18 01:41:12
節子は良子イビったんだろうね。

379:日本@名無史さん
07/10/18 07:05:11
>>378
いじめてはいない。貞明皇后は宮中の決まりを教えたが、香淳皇后がついていけなかっただけ。

380:日本@名無史さん
07/10/18 08:23:58
良子皇后は生母の俔子妃から敬語で話され育ったお嬢様だからね
里親に預けられ苦労もした貞明皇后からすると苛立つこともあっただろう
良子皇后は実家でもうけたことがない対応にとまどったはず

要するに価値観がずれていたのをいじめととるかとらないか

美智子様のケースは完全に〈いじめ〉といえるけどこの2人は普通の嫁・姑の範囲内と思う

381:日本@名無史さん
07/10/19 00:21:01
一条朝子を皇太子妃にして欲しかった。

382:日本@名無史さん
07/10/19 00:52:28
貞明は生母が卑しい出自だから健康だけが取り柄のような女でしかなかったゼッ!

383:日本@名無史さん
07/10/19 01:10:17
節子は聡明だった。
しかし、姉はなんで本願寺の裏方に?

384:日本@名無史さん
07/10/19 08:16:24
>>382
最有力候補は伏見宮禎子女王だった。しかし、健康が問題点だった。
のち山内侯爵夫人となる。子供はいない。

385:日本@名無史さん
07/10/19 09:08:15
>>378
大正天皇が危篤となったときに、皇太子時代の昭和天皇と良子女王夫妻が見舞いに来た。
貞明皇后が手ずから大正天皇の看病をしているのに
嫁の良子女王が何もせずに突っ立っているだけなので、
貞明皇后が大正天皇の額にのせる為のタオルを冷水で絞るように指示すると、
良子女王は洋装の白手袋をつけたままタオルを冷水につけ、
貞明皇后に「不器用なことだね」と言われたらしい。
いびるとまでは言えないんじゃないかな。
昭和天皇の嫁選びは貞明皇后自身が行ったけれども、良家の出の皇太子妃には
いらだつ事が多かったらしく、昭和天皇の弟の妃たちにいつも愚痴をいっていたらしい。

386:日本@名無史さん
07/10/19 11:46:05
貞明皇后は保守的で昭和天皇の宮中改革にも反対して対立してたし
新時代の東宮家とは合わなかったのだろう。
>昭和天皇の弟の妃たちにいつも愚痴をいっていたらしい
これ聞くと、意外と小物だな。貞明皇后。
男勝りの聡明な皇后のイメージがあったが、この辺は庶民の姑と変わらない。
昭憲皇太后も宮妃に貞明皇后の至らなさを愚痴ったりしたのだろうか?
そんなことなさそうだが。

387:日本@名無史さん
07/10/19 12:04:18
>>386
昭憲皇太后の場合、大正天皇の実母ではなかったために、
大正天皇との接点自体あまりなかったようだが・・・
貞明皇后は、昭憲皇太后の勧めた蚕事業などを継承するために、
懸命に努力したようだけれどもね。
貞明皇后は、息子の妃たちにものを与えたりすることに寛容で、
よく邸に呼んだりしていたようだが、
雲居の上のような生活をしていた昭憲皇太后にはそんなイメージはない。
昭憲皇太后もまた、母親は妾で、あまり恵まれた幼少時代は
送られていなかったのだけれども。

388:日本@名無史さん
07/10/19 13:13:26
>>385 不器用じゃなくて実際は「不細工だね」って言った節子様であった。

389:日本@名無史さん
07/10/22 04:25:22
山口智子に似てる。

390:名無しさん@お腹いっぱい。
07/10/22 18:59:09
>>389
誰が似ているんですか?

391:日本@名無史さん
07/10/22 21:12:59
>>383
姉は元から本願寺に嫁ぐことになっていたけど貞明皇后が予想外に大正天皇に嫁ぐことになっただけ?

392:日本@名無史さん
07/10/23 02:20:06
姉も候補だろ。

393:日本@名無史さん
07/10/23 02:50:43
つーか伏見宮禎子女王が一旦は内定して父の貞愛親王にもそのことは告げられていた
内定とはいえ破棄はかなりショックと思う
だから久邇宮の騒動の時本家でもある伏見宮貞愛親王が説得にあたったんだよ

貞明皇后については昭憲皇太后は「なんておてんばな方」といったとか
女官の高倉寿子と万里小路幸子は「本当に禎子女王のことは惜しいことをした」と残念がったらしい
それでも万里小路幸子は貞明皇后に厳しく作法などを教えた
後にそのことがありがたかったと貞明皇后は感謝し万里小路家から侍従や女官を多く登用している

一説によると禎子女王がだめになったあと下田歌子が貞明皇后を推したとか
そのため貞明皇后は下田を重用し、後に問題になったとか

394:日本@名無史さん
07/10/23 11:23:06
明治天皇もサチコ女王がよかったみたいだね。

395:日本@名無史さん
07/10/23 19:32:40
>>394
今までも書かれてある通り、当初、皇太子妃には才色兼備だった伏見宮禎子女王が内定していた。
明治天皇と昭憲皇太后はもちろん、皇太子妃選定に当たった佐々木高行、女官までが婚約履行を望んだが、
禎子女王が腺病質だったため、縁談は破談した。
代わりの皇太子妃候補として九條節子、一條経子(昭憲皇太后の姪の娘)、徳川国子(徳川慶喜の娘)、久
邇宮純子女王(香淳皇后の叔母)などが候補に挙がり、最終的に節子と国子に絞られ、健康体ということで
節子が選ばれた。
だが、性格は禎子女王の方がよかったらしく、>>393にもあるように節子はお転婆に見られていたらしい。


396:395
07/10/23 19:46:02
節子が皇后になって、皇太子裕仁親王が良子女王と結婚した頃の話。
節子皇后から良子女王の教育係を依頼されていた東伏見宮妃周子は度々、東宮御所を訪れていた。
東伏見宮妃が来訪されるのは困るであろうとある人物から母・久邇宮妃に手紙を書いて母宮妃から
周子妃に来訪を止めるよう言ってもらいなさいと助言され、良子女王が母への手紙を書いているの
を知った東宮女官長は慌てて止めたらしい。
助言した人物は、竹田宮恒久王妃昌子内親王。
昌子内親王は、節子皇后を「臣下から上がった方」と内心思っていたみたい。
林真理子の「ミカドの淑女」では節子皇后と昌子内親王は仲良く勉強したことみたいになっている
が、お妃に内定していた禎子女王の方が一緒に勉強していた期間が長い分、昌子内親王の中にもあ
る種のわだかまりがあったのだろうか。


397:日本@名無史さん
07/10/23 20:48:13
皇族の勢力争いだね
>昌子内親王は、節子皇后を「臣下から上がった方」と内心思っていたみたい。
昔は昌子内親王>(身分が上)九条節子、が皇太子妃になった時から節子妃>昌子内親王、になってしまった
「臣下から上がった方」とは言っていたらしいね 内親王のプライドの高さを感じた
昌子内親王が戦前に亡くなったのは彼女には幸いだろう

398:日本@名無史さん
07/10/24 00:47:56
徳川国子より経子のほうが候補になるだろ(その後を考えても)
明治天皇・皇后は候補になった女王に会いに伏見宮邸に御幸してるくらい。
天皇は女王のほうがルックス的にもよかったんだろうねー。


399:日本@名無史さん
07/10/24 03:07:12
サチ子女王を宮家に嫁がせるのを小松宮が反対した。

400:日本@名無史さん
07/10/24 07:05:25
子供の数やその子供の容姿を考えると徳川経子のほうが良かったかも
しかし経子の子供は早死が多い

401:日本@名無史さん
07/10/24 13:32:38
徳川経子は14歳で華頂宮博恭王と結婚している。(この時、九條節子12歳)
その時点で皇太子妃候補から外れている。
徳川国子は最終候補にまで残ったが、子爵大河内輝耕夫人となった。
ただ大河内子爵と国子の夫婦仲はしっくりいってなかったらしく、
国子は別の男性と付き合い、大河内夫婦は子供には恵まれなかった

402:日本@名無史さん
07/10/24 13:36:24
一条経子や久邇宮純子は?

403:日本@名無史さん
07/10/24 14:22:39
>>402
一條経子は、昭憲皇太后の兄・実良の娘である良子と入り婿の夫・実輝の娘。
経子は二女だったが、姉が早世したため、事実上の一人娘で跡取り。
九條節子に万が一のことがあった場合の予備候補だった。
節子の弟・良致と結婚予定だったが、経子が良致を嫌がったため、縁談は取り消しに。
久邇宮純子女王も予備候補だったが、経子よりも下位にみられていた様子。
明治天皇は皇太子妃を第一に皇族、第二に旧摂家、第三にその他の公侯爵家に求めたそうな。
しかし、純子女王の場合は必ずしも適用されなかったらしい。
父・朝彦親王のことを考えてのことかも。
でも、昭和天皇の時の皇太子妃選びは、そういうことを抜きにして、純子女王の姪・良子女王
が選ばれたわけだが。



404:日本@名無史さん
07/10/24 15:07:55
貞明皇后の弟良致の妻は本願寺大谷家から嫁いだ九条武子だね
武子の兄大谷光瑞は貞明皇后の姉と結婚
貞明皇后の姉は大谷家へ嫁ぎ、弟嫁は大谷家の出身という濃い縁組
当時の大谷家は、京都市と同じ予算がつくぐらいの大富豪だったらしい
そのため九条家は目をつけたのか(逆?)
武子は大谷家の娘としては初めて僧侶以外に嫁いだ
大正三大美人のひとりといわれた武子は京都女子大創設者で子はなかった
貞明皇后の実家の話

405:日本@名無史さん
07/10/24 15:21:21
九条節子の東宮妃内定には、
節子の叔母である英照皇太后の意見は入ってないの?
英照皇太后は大正天皇の結婚の3年前になくなっているけれども、
この頃からお妃選定は進んでいただろうし。


406:日本@名無史さん
07/10/24 16:31:18
貞明皇后の弟の評判がよくなかったと聞いたがどうなんだろう。
上に出ている良致と武子の結婚は兄嫁の籌子(皇后の姉)の主導で決まったが
武子は乗り気ではなかったらしい。
もう一人の弟は梨本宮妃の妹と結婚するも離婚している。

407:日本@名無史さん
07/10/24 17:46:30
貞明皇后の弟と鍋島茂子には子供はいたのか?

408:日本@名無史さん
07/10/24 17:52:31
東本願寺は、昔から宮家の女王の嫁ぎ先になっている。
良子皇后の妹智子女王も裏方になって華頂短大作ったよね。

で、九条節子の弟だけど、評判よくないね。節子が入内したから
仕方なく男爵にさせた(わき腹の子だけど)ってなんかに書いてあった。

徳川経子より国子が皇太子妃候補は聞いたことない。経子の方が美人で才能あるじゃん。

409:日本@名無史さん
07/10/24 20:43:31
しかも貞明皇后と弟は生母が違う


410:日本@名無史さん
07/10/24 21:09:11
>九条節子の弟だけど、評判よくないね。
kwsk

411:日本@名無史さん
07/10/24 22:14:00
鍋島の娘とは1年くらいで離婚している。なんかあったのか?

412:日本@名無史さん
07/10/25 09:14:40
貞明皇后の弟九条良致ははじめ一条実輝の養子だった
実輝の娘一条経子と結婚して婿養子となり一条家を継ぐ予定であったが
故あって一条家から九条家へ帰されている
一条家ではこの後大炊御門家から実孝を養子にとり一条経子と結婚させている



413:日本@名無史さん
07/10/25 12:34:28
聡子内親王はかわいそうな人生だったな・・。

414:日本@名無史さん
07/10/25 20:00:56
相手が悪かった。他にいなかったのか?

415:日本@名無史さん
07/10/25 20:29:57
>>414
五摂家なら近衛文麿や鷹司信輔が年齢つりあうが

416:日本@名無史さん
07/10/25 21:19:32
皇族ではいないのかよ。

417:日本@名無史さん
07/10/25 22:57:16
>>416 そう。内親王は皇族と結婚するのが明治時代の不文律だった
五摂家でもOKなら聡子内親王ももっといいお相手がいたかもしれない

418:日本@名無史さん
07/10/25 23:21:17
伏見宮邦芳王や有栖川宮栽仁王が健康だったら、明治天皇の皇女の嫁ぎ先も変わっていたかも。

419:日本@名無史さん
07/10/26 07:56:34
栽仁は允子内親王と婚約していた

420:日本@名無史さん
07/10/26 10:05:05
亡くなったとき号泣した内親王であった。

421:日本@名無史さん
07/10/26 10:06:50
一条経子の娘は美智子皇后の大叔父と結婚している

422:日本@名無史さん
07/10/26 17:30:47
逆に昌子~聡子が親王で秩父宮~三笠宮が内親王だったらどのような人と結婚してたか気になる

423:日本@名無史さん
07/10/26 23:33:07
>徳川経子より国子が皇太子妃候補
上野秀治が書いてるよ。皇后宮大夫だった香川敬三の研究をしてる人。

424:日本@名無史さん
07/10/27 00:51:34
>>423
徳川慶喜の晩年について書いた本には、徳川国子が皇太子妃候補だったと
書かれているのが何冊かある。
上野秀治氏の論文も引用されている。
でも、禎子女王の後の第一候補は貞明皇后だったみたいだけどね。


425:日本@名無史さん
07/10/27 00:53:17
>>423
上野秀治って上野正雄(能久庶子)の息子正泰の養子で経子国子の妹英子の孫?

426:日本@名無史さん
07/10/27 01:26:44
国子ってその割には子爵に嫁ぐってうまくいかないわな。

427:日本@名無史さん
07/10/27 16:57:42
純子女王よりはましじゃね?

428:日本@名無史さん
07/10/28 21:27:04
純子ってどうなったのか?

429:日本@名無史さん
07/10/28 22:07:34
>>428
結婚後四人子供を産んだが夫は早死。あとを継いだ長男も早死でついには自身も27歳で死亡。

430:日本@名無史さん
07/10/29 19:19:59
誰と結婚したのですか?

431:日本@名無史さん
07/10/29 19:33:08
>純子女王の夫
大和柳本藩主織田信及の子、子爵織田秀実(享年33歳)。
純子女王との間に4男1女。
長男信一は満6歳で死去。


432:日本@名無史さん
07/10/29 19:45:51
>>431
4男1女ではなく3男1女のはずだが?
そもそもたった5年半の結婚生活で4人も子供を産んだのは驚異的

433:日本@名無史さん
07/10/29 20:54:55
織田家は次男(名は知らない)が継いだの?

434:日本@名無史さん
07/10/29 21:17:08
>>433
次男が継ぎさらに三男が継いだ

435:日本@名無史さん
07/10/29 21:19:30
>>434
ありがとう。
なぜそんなに早く亡くなったの?流行り病か何か?

436:日本@名無史さん
07/10/29 21:33:44
純子女王の姉安喜子女王も長男の池田禎政と女中部屋で変死していたともきく 恐いなぁ・・・・・

437:日本@名無史さん
07/10/29 23:17:16
安喜子女王と禎政は流行性感冒(つまりインフルエンザ?)で死んだことになっているけどこれは偽装?

438:日本@名無史さん
07/10/30 01:42:45
どれが本当かわからないけど1日違いで亡くなった、と届けられてるらしいのでそういう噂もあったらしい 後を継いだのが3男の宣政だけど養子にでていた2男ともめたとか
2男の夫人が「遠いうた」作者の徳川元子さんの実姉だったはず

439:日本@名無史さん
07/10/30 07:00:47
池田政(金辰)と戸田愛子はともに再婚で政(金辰)の先妻は篶子女王の娘だったはず

440:日本@名無史さん
07/10/30 07:18:54
みんな朝彦親王の娘がからんでる!! すごすぎ! 香淳皇后は孫だし

441:日本@名無史さん
07/10/30 08:15:49
毒殺は宮中の伝統だから。
戦後にもやられたって言われてる人居るよ。
朝彦親王の孫の九條日浄門跡。

442:日本@名無史さん
07/10/30 08:26:39
>>441
素子女王の長女だね
素子女王の三女の三女は池坊保子

443:追記
07/10/30 08:30:59
門跡の母は素子女王(仙台政敬夫人)。
池田家の人とかはこの辺り、全部知ってるんだろうな。

444:日本@名無史さん
07/10/30 08:34:06
って、これも朝彦親王か。
久邇宮の女系は殺して良い事になってるのか?

445:443訂正
07/10/30 08:46:39
仙台→仙石

446:日本@名無史さん
07/10/30 09:25:04
仙台ワロタ

447:日本@名無史さん
07/10/30 10:16:03
良子女王の父久邇宮邦彦王は、
皇太子夫妻のもとへ頻繁に出入りして金の無心をし、
貞明皇后に怒られたそうだけれども、
良子女王の実家は相当金に困っていたの?
宮家のプライドだけは高いけれども、
父親が浪費家だったとか?

448:日本@名無史さん
07/10/30 10:32:30
奔放なのは久邇宮の家風。
当時は莫大な株式も保有してるはずだし、ただ単にせびったんだろう。
稔彦さんが目立つけど、一番天皇家に近くて、一番やりたい放題なのが
久邇宮。暗殺話が多いのはそういうのを牽制されてたからだろ。
旗から見りゃでたらめなだけの家だけど、堅苦しいではすまない
皇族のプレッシャーの中で、当人達は闘ってたのかもしれない。

449:日本@名無史さん
07/10/30 11:45:41
>>447
良子女王の本によれば、久邇宮家は宮家の中でも
有数な貧乏宮家だったようだ。
良子女王が生まれる前後まではちか子妃が子供と同室で寝ており
洋服もちか子が手作りしていたようだ。
あの、聖心女子大に残ってる豪邸も良子女王の結婚が決まってから
財閥からの援助で建てられたと言われている。
皇族は何かと物入りが多いし、ましてや娘が皇太子妃になったら
付き合いやなんやでお金に困っても不思議ではない。
妹の智子女王の婚約が決まったときに、大富豪の大谷家と金のために
縁組したと噂されたそうだが、あながち嘘ではないかもしれん。

450:日本@名無史さん
07/10/30 14:41:15
>>441

九条日浄門跡のこと詳しく教えて

451:日本@名無史さん
07/10/30 14:47:41
ただ、島津だって結構な金持ちだから御輿入れのときに結構な持参金は持ってきてるんじゃない?
だから、あながち貧乏とはいえないと思う

452:日本@名無史さん
07/10/30 16:42:09
>>450
戦時中に一般人とランデブー、京都市内で蟄居幽閉に近い状態で約20年後に心臓麻痺で遷化(一説には毒殺)。
堀川に有った瑞龍寺(村雲御所)は遷化の同年、現在の八幡山に移転。
スキャンダル前には村雲日浄の名で著書有り。


453:日本@名無史さん
07/10/30 17:38:16
>>449
俔子妃が子供と同室で寝ていたのはむしろ普通のことだと思うが・・・
幼いならなおさら

454:日本@名無史さん
07/10/30 17:56:43
良子女王にも乳母がいたよ たしか‘もん’とかいう名の
あと島津家では姉妹でも別々の部屋でお付きのものと生活していたとか 半端でない金持ちだった
十五銀行がつぶれた時解雇した使用人が200人とかいわれている
俔子妃の姉常子のお姫さまぶりは嫁の元子が書いているが戦後は大変だったそうだ

455:日本@名無史さん
07/10/30 20:08:26
>>454
徳川元子の姑は、四女・島津知子(徳川達孝夫人、元子の夫・徳川達成の母)では?
三女・常子は、貞明皇后の姉・範子の夫である山階宮菊麿王の後妻になったはず。


456:454
07/10/30 20:39:06
>>455スマソ その通り。

457:日本@名無史さん
07/10/30 22:47:51
息子の嫁には占いで選んでたらしいね。

458:日本@名無史さん
07/10/30 22:57:40
>>457まじ?和子内親王と鷹司平通氏は占わせたと何かで読んだ(それなのに不幸な結果になった)
息子は政治的な配慮で妃を選んだと思っていた
三笠宮さまは政治的な感じはしないけど

459:日本@名無史さん
07/10/30 23:44:18
>>459
>三笠宮さまは政治的な感じはしないけど
藤樫準二著「千代田城」によれば、貞明皇后の崩御後、貞明皇后のお文庫の中を
整理していたら、若い娘さんの写真が何枚か出てきて、写真の裏には書き込みがあったそうで。
写真の女性たちは氏名と年齢からいえば、三笠宮のお妃候補だったらしい。
そういうことから考えると多分、政治的な配慮では選んでないと思う。
高木百合子は側近の入江為守の孫娘だし。
高松宮妃は有栖川宮家の断絶により、宣仁親王に高松宮を興させて有栖川宮家の祭祀と財産を継承させることによって、
自然と宣仁親王妃には有栖川宮家の血を引く娘をということで、それに該当する徳川喜久子が内定していただけ。
だから、ここにも政治的な配慮はあまりないと思われる。
それに貞明皇后は威仁親王妃慰子には恩義があり、徳川実枝子とも仲が良かった。
秩父宮妃はかつての朝敵の会津松平家出身で平民の松平勢津子がなった。
ここには政治的な配慮の感じはするものの、勢津子の母の松平信子は貞明皇后の腹心の御用掛であり、お気に入りだった
ことも影響しているのでは。
貞明皇后は昭和天皇のお妃選びで香淳皇后を気に入ったものの、父の邦彦王の宮中某重大事件での態度にご立腹。
それ以来、香淳皇后や久邇宮家には手厳しくなったようだ。
邦彦王に懲りて秩父宮妃、高松宮妃、三笠宮妃は自分の身内?(側近)の中から選んでいる。
政治的な配慮云々と言い出したのは、高松宮妃じゃないのかな?
たまたま4兄弟の妃たちが朝敵とみなされた人々の子孫だっただけで。
貞明皇后は賢かったから、政治的な配慮というか、歴史の清算をしたという人もいるけれど、
個人的にはこういう見方も出来るんじゃないかと思います。



460:日本@名無史さん
07/10/31 00:59:32
なるほど そういう見方もあるんだ
結果論になるが自分は秩父宮妃を逆賊とされた会津松平家から迎えたのは貞明皇后の素晴らしい判断と思う 勢津子妃の時かは知らないが反対された時は「私は皇子の生母です」とおしきったと聞いた

461:459
07/10/31 01:42:01
>>460
確かに貞明皇后が朝敵・会津松平家から民間(当時は平民)から勢津子妃を選んだのは素晴らしいですね。
会津の人々は嬉しかったでしょうし、天皇陛下のすぐ下の弟の直宮筆頭のお妃になったことで会津藩の汚名が返上された
わけですから。
でも、昭和天皇と香淳皇后と対立を深め、その代わりに秩父宮、高松宮、三笠宮に対しては愛情を深めていったのが、個人的には悲しい。
秩父・高松・三笠の三宮妃が貞明皇后を尊敬しているのに対し、香淳皇后にはちょっと距離感がありますね。
戦後は大分齟齬もなくなり、仲良くなられたようですが。

462:459
07/10/31 01:46:35
>朝敵・会津松平家から民間(当時は平民)から勢津子妃
朝敵・会津松平家から民間(当時は平民)の勢津子妃に訂正。
すみません。

463:日本@名無史さん
07/10/31 06:50:02
秩父宮妃勢津子妃殿下は松平節。入内してから勢津子と名前を改めた。

464:日本@名無史さん
07/10/31 07:27:28
九条家が幕府よりの公家だったからでしょ。

465:日本@名無史さん
07/10/31 12:36:10
節子って父親に似てるね。

466:日本@名無史さん
07/10/31 14:28:00
>>463
>秩父宮妃勢津子妃殿下は松平節。入内してから勢津子と名前を改めた。
そうでした。便宜上、「勢津子」と書いた方が分かりやすいかなと思ったもので。

小山いと子が昭和34年5月号「婦人公論」の中で、貞明皇后は香淳皇后の母・久邇宮俔子妃に対する態度と
秩父宮勢津子妃の母・松平信子に対する態度が違い過ぎると書いてるんですね。
松平信子にはすごく親しみがあり、俔子妃に対してはよそよそしいというか。
香淳皇后の成婚時、久邇宮邦彦王と俔子妃が度々、東宮御所に行くのが皇室の外戚としてはみっともない
ということで貞明皇后は気に食わなかったみたいです。それで久邇宮家が外戚として振る舞うことを恐れた
貞明皇后は久邇宮家を牽制したそうで。そういうところは、皇后としては立派だと思います。
でも、勢津子妃の父の松平恒雄は宮内大臣となり、母の信子は常盤会会長などをして宮中での影響力を高めたのは、
いかがなものかと思いますが。

467:日本@名無史さん
07/10/31 15:55:19
「節子」ではなく「節」だったの?
妹は正子だから普通に節子だと思っていた

468:日本@名無史さん
07/10/31 18:56:11
正子はどこに嫁にいったの?

469:日本@名無史さん
07/10/31 18:57:41
久邇宮邦彦王は、ろくでなしだよね。

470:日本@名無史さん
07/10/31 19:43:26
>>468
勢津子妃の妹さんである松平正子は、尾張徳川侯爵家の徳川義親嗣子・義知に嫁いだ。
勢津子妃の兄の松平一郎は、徳川宗家公爵家の徳川家正の娘の豊子を夫人とし、次男・恒孝が、
徳川宗家の当主となった。
秩父宮と勢津子妃の結婚のおかげで、その兄妹たちは華族と結婚したようだね。

471:日本@名無史さん
07/10/31 20:18:53
正子ってキキキリンに似てる。

472:日本@名無史さん
07/10/31 20:20:12
正子は1男2女を産んだが長男が夭折したわけではないのに長女が婿養子を迎えた。何故!?

473:日本@名無史さん
07/10/31 20:21:51
>>470 兄、弟がいたのか?それって信子の子?

474:日本@名無史さん
07/10/31 22:08:37
>>473
勢津子妃は兄の一郎、妹の正子、弟の次郎の4人兄弟。
みんな母親は松平恒雄夫人信子。
末っ子の弟さんは、貞明皇后の初孫の成子内親王の同級生である酒井美意子の写真集に載ってた。
両親や兄姉よりも早く戦前に亡くなられたのは、残念だったと思う。


475:日本@名無史さん
07/10/31 22:59:18
歴史読本2006年11月号「天皇家と宮家」の秩父宮家には勢津子妃の元の名前は“節子”であったが貞明皇后の“節子(さだこ)”と同じ文字では畏れ多いため、松平家は宮内当局に諒解をえて、勢津子に改めた(川田敬一)とある

476:日本@名無史さん
07/11/01 01:18:40
久邇宮家は朝融王の婚約破棄で大正天皇の顔をつぶしたからな 良子女王は皇太子妃にごりおしして・・・
松平恒雄は子爵の兄弟だが本人は爵位がない 信子夫人も侯爵家の出だが当時は民間扱い
久邇宮家の横暴を押さえるためにも松平家を贔屓?したと思う
喜久子妃の父は入内前に亡くなっているし母も若くして他界してるしね

貞明皇后が崩御した後勢津子妃、喜久子妃、百合子妃は遺徳を偲んで貞明皇后の和歌の本を出そうとしたらしいが良子皇后が「まだ早い」と反対したのもなぁ

477:日本@名無史さん
07/11/01 04:23:41
何気に松平信子高齢出産
でも何で松平次郎は酒井美意子の写真集に載っているんだ?
美意子や美意子の夫と学年が違うのに

478:日本@名無史さん
07/11/01 07:16:45
>>472スレリンク(history2板:32-34番)

479:日本@名無史さん
07/11/01 08:32:43
高松宮喜久子妃の姪真佐子は衆議院議員平沼赳夫の妻
ホームページにでかでかと妻が徳川慶光の娘であることを載せてる
平沼、馬鹿w
お前の政治活動と関係ないじゃんw
そんなんだから自民党を追い出される

480:日本@名無史さん
07/11/01 08:35:02
正子が撫すだから?

481:日本@名無史さん
07/11/01 19:45:17
>>476
久邇宮家の振る舞いは確かにすごくひどい。
宮中某重大事件の時、いくら病身でも敬うべき夫の大正天皇を無視して、貞明皇后に対話を申し込んだ邦彦王は、
朝融王の婚約破棄事件ではすでに内輪だが勅許が出ていたのにも関わらず、無理やり破棄した。
挙句の果てには、>>447さんも書いてある通り、金の無心まで。(←ウィキペディアの邦彦王の項にあった)
こうしてみると、貞明皇后が信頼の置ける人々の中から直宮のお妃を選んだのも頷けます。


482:日本@名無史さん
07/11/01 20:26:30
私だったら直宮の相手に一条朝子か直子は入れた。

483:日本@名無史さん
07/11/01 20:33:11
>>481 あの内容からいくと、まだ大正天皇のお妃を選ぶときに
伏見宮女王が外された理由のほうが、良子の問題になった理由よりマシだろ。
伏見宮の方がクニ宮より常識的だったってことだろ。

484:日本@名無史さん
07/11/01 21:17:24
良子女王は妃の子供だけど禎子は側室の子供だからあまり熱心じゃなかったと思う
しかし皇族妃は長女が多いな
長女じゃなくても姉が早死で実質長女の祥子妃や喜久子妃等、姉が婿養子と結婚して嫁いだ娘では一番年上の百合子妃や朝子妃、
かと思ったら大勢姉がいて末娘の華子妃や千賀子妃(千賀子妃は弟がいるが)、
皇族以外の他家に嫁いだ姉も妹もいるのは意外と少ない

485:日本@名無史さん
07/11/01 21:43:50
貞明皇后の姉の籌子も皇太子妃候補だったけど、西本願寺の大谷光瑞伯爵に早々と嫁いでしまった。
禎子女王を候補から外した後、貞明皇后が第一候補になった時、侍医のベルツは妾の娘を皇太子妃にするのはいかがなものかと言い出し、
側室の野間幾子を正妻にしたらどうだという議論になったらしい。
でも、禎子女王の時は側室生まれというのは議論にならなかったのだろうか。

486:日本@名無史さん
07/11/01 21:59:23
>>485そんなことがあったの
禎子女王どころか当時の皇后美子も明治天皇も側室の子なのに もち大正天皇も
まれに野間幾子が〈九条幾子〉となっているのをみる 俔子妃生母山崎寿満子を訃報記事では島津寿満子と表記しているような感じかな

487:日本@名無史さん
07/11/01 22:24:27
伏見宮は、宮家の筆頭で天皇家の次とされていた。
歴史の浅い、クニ宮の正室よりも伏見のサチコ女王が上です。

488:日本@名無史さん
07/11/01 22:45:56
サチコ>>ナガコ です。

489:日本@名無史さん
07/11/02 07:45:59
昭和天皇妃有力候補だったのは良子女王、梨本宮方子女王、一条朝子の3人
うち方子女王が李垠に嫁ぐことになったのはなぜか方子女王には“子供ができない”と判断されていたから だから長男晋が誕生した時「その関係者は処分されたそうだ」と方子女王の自伝に書いてあった

昭和天皇妃に選ばれなかったのもそういう理由ぽい
一条朝子の理由は知らないが両親は「せめて直宮妃に」と願ったらしいが伏見宮妃に
母の悦子が松平信子に嫌味を言ったそうな

490:日本@名無史さん
07/11/02 08:12:33
悦子は双子の娘を産んでいる
そのせいかそれ以降は子供を産んでいない

491:日本@名無史さん
07/11/02 08:15:34
あと伊都子は二人の娘しか産んでいなくて息子を産んでいない
それもあったのでは?

492:日本@名無史さん
07/11/02 08:43:20
良子女王は、貞明皇后自ら学習院へ乗り込み、
妃候補たちが登下校する姿を見て自ら決めたと読んだけど。
良子女王は常に白いリボンをつけ、
お雛さまのような古風な顔立ちだった。
数々あがった妃候補のうち、最期は容姿で決めたらしい。

493:日本@名無史さん
07/11/02 10:44:55
>>481
>いくら病身でも敬うべき夫の大正天皇を無視して、貞明皇后に対話を申し込んだ
誰が脳炎でウワウワ言ってる人を考えに入れるんだよ。
その時期、大正天皇に面談を申し入れた人間なんているのか?

494:日本@名無史さん
07/11/02 11:16:15
まあ、邦彦王は、色盲遺伝子が原因で婚約破棄などされたら
良子女王も妹も一生独身を通さざるを得ないとばかりに
婚約破棄なら良子を刺して自分も死ぬとわめいたらしいからね。
その割りに、自分の長男の結婚は婚約者が不貞を働いた噂があるとしてあっさり破棄。
邦彦王と俔子夫妻は、新婚の良子女王と皇太子(昭和天皇)が療養している
御用邸にまでやってきて、俔子は良子女王に「妊娠はまだか」と催促したらしい
好き勝手やりたい放題の夫婦という感じはするが

495:日本@名無史さん
07/11/02 13:00:38
妊娠はまだかって俔子妃自身は4年連続で出産したぐらいだからね・・・

496:日本@名無史さん
07/11/02 13:22:38
しかし俔子はキツネなのに曾孫はタヌキだ

497:日本@名無史さん
07/11/02 13:42:01
香淳皇后の兄の孫娘久邇晃子は
現在の皇太子妃の最有力候補だった

498:日本@名無史さん
07/11/02 14:22:16
俔子は「笑わない妃殿下」と有名 さすがに今上御誕生の時は満面笑みで現われた写真が残っている
邦彦王の子供は17名と書いてある本も 俔子の子は6名だからあとは(ry
お金の無心も子供の多さも関係あるかも

499:日本@名無史さん
07/11/02 15:12:28
>>498
17人というのは邦彦の本人を除いた兄弟の数じゃ・・・?

500:日本@名無史さん
07/11/02 18:53:40
>>486
貞明皇后の生母の野間幾子は、敗戦直後まで健在で玄孫の誕生を見届けているが、
俔子妃の生母の山崎寿満子はいつまで元気だったんだろうか。

501:日本@名無史さん
07/11/02 20:35:05
寿満子は昭和2年2月17日に77歳で亡くなった。
さすがに玄孫はいなかったらようだ。

502:日本@名無史さん
07/11/02 20:37:54
>>500島津寿満子、昭和2年2月17日、東京市芝白金三光町の自邸で死去75歳 とあったが実は77歳だったらしい
薩摩島津家スレに詳しい

503:日本@名無史さん
07/11/02 22:31:47
>>501-502
ご回答ありがとうございます。
当時としては野間幾子も山崎寿満子も長生きですね。
ご生母関連で大正天皇の生母の柳原愛子、皇女方の生母の園祥子も長生き。
野間幾子、柳原愛子は孫の昭和天皇の即位、山崎寿満子は孫娘の皇后冊立を見届けて苦労が多いながらも幸せだったでしょうね。
貞明皇后も野間幾子と同じくらい長生きするとは思われていながら、68歳で狭心症で崩御したのは残念。
昭和26年に行われるはずだった今上陛下の立太子礼、成年式を見届けたかったことでしょう。

504:日本@名無史さん
07/11/03 02:51:00
クニ宮は、皇室離脱後悲惨。

505:日本@名無史さん
07/11/03 14:39:48
>>438-439
お姉さんの初婚の相手は誰なんだろう?

506:日本@名無史さん
07/11/03 15:34:51
貞明皇后って、昭和16年に日蓮正宗に帰依したって言うよね。
この年は太平洋戦争が始まる年だけど、神道の総元締めである天皇の奥さんが、仏教とはいえ、特定の宗派に帰依した事情を知りたいな。
事情を知ってるはずの誰に聞いても言葉を濁すし。なんかタブー扱いで誰も教えてくれないんだよね。

507:日本@名無史さん
07/11/03 19:38:32
占い師の影響

508:日本@名無史さん
07/11/03 21:47:07
さだあきてるきみ

509:日本@名無史さん
07/11/04 08:02:45
>>506 知らなかった 昔法皇とかいたから仏教と皇室がつながってもおかしくないかもしれないが
関係者がことばを濁すというほうが気になる

510:日本@名無史さん
07/11/04 11:20:57
>>506 あれだけ元気だったのに、GHQの占領下に突然死。
しかも、マッカーサーからリッジウェイに変わってほぼ1か月後。
偶然かもしれないけど、ちょっと引っかかるよな。

511:日本@名無史さん
07/11/04 12:53:32
貞明皇后が崩御して御舟入り(納棺)のとき半紙を短冊状にして宮様方や女官たちが
空いている時間に墨で「南無妙法蓮華経」「南無阿弥陀仏」と書いて納めたんだって。
高松宮のときもそうしたらしいよ

512:日本@名無史さん
07/11/04 13:59:32
>>511
大正天皇の崩御の際も貞明皇后に頼まれて、侍医の入沢達吉が短冊の半紙に「南無妙法蓮華経」と書いたらしい。

513:日本@名無史さん
07/11/04 17:39:52
>>511 神道、仏教だったらなんでも良し、ということなんですかね。
日蓮やらなかったら、もっともっと長生きした、ということはないですか?
なんか皇祖神の怒りを買ったように思えますが。思いこみが過ぎますか。

514:日本@名無史さん
07/11/04 18:15:03
これで皇祖神が怒るならば歴代の法皇は天罰が下って崩御したことになる。
天皇家が神道onlyになったのは近代になってからだよ。

515:日本@名無史さん
07/11/04 19:21:53
皇祖神はともかく、まわりにウザがられたということは
ないかな。近代だからこそ、実はあってはならないこと
ではなかったのでしょうか。

516:日本@名無史さん
07/11/04 19:35:52
秩父宮を一番かわいがったみたいね。

517:日本@名無史さん
07/11/04 21:55:36
>>516孫はやすこさん 同じ誕生日、同じ干支というのが

518:日本@名無史さん
07/11/04 22:15:58
>>516
秩父宮も皇太后の薦めで日蓮正宗に入ったという未確認情報があります。
もしかして、国家神道を見限って、終戦後、正宗の力によって弟宮に譲位させようと考えていたかも。
皇統を残すために皇太后によるクーデター未遂というのがあったのかも知れません。


519:日本@名無史さん
07/11/04 22:38:05
>>517
文庫版「昭和天皇の妹君」を読んでいたら、巻末にこんなことが書かれてあった。
高松宮日記第3巻の昭和15年11月19日の項に
「15:30円照寺着。お墓に参ってお寺で『やすこ』、山本静山と名をかへてゐた。25になって大人になった。16:30ホテルにかへる。」
という記述があるらしい。
高松宮日記は同性愛を感じさせる記述が多いため、編者たちは削除しようとしたが、喜久子妃がありのままを出版させたため、
かなり赤裸々な筆致のままの本となっている。
双子説の信憑性とかはともかく(三笠宮ご夫妻は否定されている)、近衞甯子さんが可愛がられたのは、同じ干支に生まれた三
笠宮さまの娘だから、山本静山門跡の面影を重ねていたのかも。甯子さんの名前も『やすこ』だし。




520:日本@名無史さん
07/11/05 04:51:07
貞明皇后があと10年ぐらい生きていたら今の皇后陛下は誰になっていたん
だろうと想像してしまった。美智子さまはすばらしいお嬢さまだったけど
認められなかっただろう。昭和天皇、今上ともに彼女の猛反対まで押し切れ
なかっただろうと思う。

521:日本@名無史さん
07/11/05 06:03:57
肇子女王じゃね?
ところで肇子女王は何人子供がいる?

522:日本@名無史さん
07/11/05 07:55:55
>>521確か1男1女

523:日本@名無史さん
07/11/05 13:39:10
クニ宮のみち子女王だろ近親婚だけど。
でも、みち子女王は貧乏でもイケメンな夫と再婚し幸せそうだった。

524:日本@名無史さん
07/11/05 16:39:45
なんで読んだかは忘れたが朝融王(当時は久邇朝融)が『皇后さま(香淳)にお会いしたとき陛下(昭和天皇)が「血筋の近いのは避けよう」と仰っていたからうちはないよ』と皇太子妃について言っていたらしい。
生物学者らしい昭和天皇のお考えと思った。

>>523氏の後半部分、禿同

525:日本@名無史さん
07/11/06 07:56:48
通子女王は結構美人

526:日本@名無史さん
07/11/06 09:52:43
現在の天皇陛下の妃候補の一人にあのオノ・ヨーコがいたそうですね
オノ・ヨーコ(本名;小野洋子)、母方の曽祖父は安田財閥の安田善次郎、
父方の祖父は日本興業銀行総裁小野英次郎、父は東京銀行常務で
本人も学習院大学中退と何気にお嬢様w

527:日本@名無史さん
07/11/06 19:55:45
ヨーコ・オノは候補じゃない。
5人いた候補の一人がアメリカで息子と共謀して夫を殺害する事件を起こしてる。

528:日本@名無史さん
07/11/06 20:23:46
>>527ヒェ~そんな女性が皇太子妃候補だったなんて…。恐いよ いい家柄の出なんでしょうが。

529:日本@名無史さん
07/11/06 22:03:00
その夫を殺害した方は一体どの家の出身でしょうか?
また残りの四人も誰なのかお願いします。

530:日本@名無史さん
07/11/06 23:41:23
どこの出身かわからないが、ダンナの仕事で米国に住んでいた。
一人息子が父を殺害したのを隠蔽したか、一緒に殺したか。
ダンナには非がなく、母子の自分勝手な殺害だった。
息子が18才ごろだったはず、30年位前の事件かも。
5人の候補者の一人って言われてた。

531:日本@名無史さん
07/11/07 01:54:31
>>529当時の名を出すのは憚られるのでだいたいわかる程度に書くと今上のお妃候補だったのは既に名が出ている旧北白川宮出身の肇子、旧久邇宮出身の通子
あとはやはり旧F宮家出身の女性、島津家令嬢、尾張徳川家令嬢、田安徳川家令嬢、松平家令嬢(どこかはわからない)、もう一人は新華族?イニシャルF.Hさんの8人が載っていた
この中に>527に該当する人がいるかは不明

532:日本@名無史さん
07/11/07 07:15:20
一条朝子─伏見章子─その娘は三代連続皇太子妃候補だった

533:日本@名無史さん
07/11/07 11:13:38
徳川元子はあわや皇后の母になるところだったのか

534:日本@名無史さん
07/11/07 16:23:47
オノヨーコは学習院大学時代の義宮さま、現在の常陸宮さまが好きだった人。
話を蒸し返して悪いが三笠宮さまはやはり双子だったと思う。
三笠宮百合子妃殿下が山村御流の華道がよいから長女のやすこさまに結婚前
習わさせたと言うのが、とってつけたような気がする。まして他の宮妃や
当時皇太子妃だった皇后様まで奈良の小さな華道を習っていたと言うのもその理由。


535:日本@名無史さん
07/11/07 16:33:10
>>534
貞明皇后とはちょっと話がずれるのですが、
皇室で双子がタブーになったのって、いつの時代からなんでしょう?
古い時代ですと、平安時代の嵯峨天皇と壇林皇后の子、
仁明天皇と正子内親王(淳和天皇皇后)が双子だったというのがあります。
江戸時代の後水尾天皇の皇女でも、帥局(水無瀬氏)の皇女が
同年生まれで双子だったといわれています。
記録に残らないところでいつしかタブーが生まれ、
こっそりどこかへ預けられたということなのでしょうか?

536:日本@名無史さん
07/11/07 17:00:46
>>535
明治時代に五摂家だったか、皇族だったか忘れたが女の子の双子が生まれたはず。
ただ男女の双子は畜生腹と卑しめられた風習があったはず。後は詳しい人頼む。


537:日本@名無史さん
07/11/07 17:12:19
詳しくないけど
男女の双子は心中の生まれ変わりってことで忌まれたのは
心中物浄瑠璃とかが流行った江戸中期以降じゃないかな。

多胎児は畜生腹だというのは聞くけどいつからか知らん。

538:日本@名無史さん
07/11/07 17:27:53
伏見宮博泰王の娘敦子女王と知子女王、一条実輝公爵の娘、圭子と生子が双子
自分も三笠宮双子説は正しいと思っているよ
皇室でも宮家と天皇家では考え方や世間体などのとらえ方も違うしね

539:日本@名無史さん
07/11/07 20:05:22
圭子と生子の母一条(旧姓細川)悦子はそれ以降子供を産んでいない。

540:日本@名無史さん
07/11/08 06:27:59
>539 悦子は双子を産んだのが恥ずかしかった?

541:日本@名無史さん
07/11/08 20:26:59
徳川関連は双子多いよね。家康や、家康次男も双生児説あるね。

542:日本@名無史さん
07/11/08 22:15:33
双子を産んだ経子妃も徳川家出身

543:日本@名無史さん
07/11/09 07:36:37
変な迷信にとらわれた昔の人は気の毒(今でも残っているかもしれないが)
そーいや皇太子が生まれた年は閏年でもし29日に誕生したら将来の天皇誕生日はどうする?とか宮内庁関係者は気をもんだってね
大正天皇は2ヵ月ずらした(暑いから天皇の体調考慮して)けど新憲法のもと、勝手にできない
23日誕生でホッとしただろう

544:日本@名無史さん
07/11/09 20:39:41
>>505気になったから調べてきた
戸田愛子の初婚の相手は 大久保(小田原)忠言子爵

545:日本@名無史さん
07/11/09 21:56:30
>>544
ヴヱリー㌧くす。徳川元子の本だと元子が先に婚約が決まって焦ったのか愛子は急いで婚約を決めて愛子も氏秀(元子父)も乗り気だったけど
極子は何かを予感してたのかこの婚約に乗り気ではなく結婚してすぐ愛子は離婚したいと言い出して元子の結婚後離婚したとしか書いていなかった。
極子は次女で元子たちの母米子が死んでいたので元子と愛子の婿選びに神経を使っていたらしい
それと大久保忠言は九条敏子妃の妹敝子の夫と同一人物?

546:日本@名無史さん
07/11/10 04:36:35
>>545戸田家で調べたからよくわからないが「日本の名家・名門人物系譜総覧」の九条家をみると九条敝子(大久保忠言夫人)となっているのでそうだと思う
子爵という身分なら九条家の姫でも考えられる

547:日本@名無史さん
07/11/10 17:01:22
公爵の娘は子爵以下に嫁ぐ事も多いけど、子爵以下の娘は公爵夫人になることはかなり少ないな
そして良いところに嫁ぐのは大抵長女や次女で三女以下が良いところに嫁ぐことは少ないな

548:日本@名無史さん
07/11/10 18:58:47
どうして鍋島茂子は離婚したの?

549:日本@名無史さん
07/11/10 18:58:52
近代以降の子孫ネタで娘の話とかしてるヤツってキモイ。
どうせ鬼女板の皇室スレに巣食ってるようなオバサンどもだろうな。

550:日本@名無史さん
07/11/10 20:11:21
節子はいつ流産したん?

551:日本@名無史さん
07/11/10 20:29:54
秩父宮と高松宮の間としかわからない
満州国皇帝溥儀と親しかったのはそのお子さまと年が近かったからでは、といわれてる
皇帝溥儀は1906年2月生まれ 無事に誕生してるならその頃だったのかな

552:日本@名無史さん
07/11/10 20:37:22
女の子だったらよかったのに

553:日本@名無史さん
07/11/11 16:16:39
>>548
鍋島茂子が貞明皇后の兄の九條良政男爵と離婚する直前、長女の千代子(麻布照海夫人)が誕生している。
ただ、茂子の離婚は千代子誕生の1ヶ月後であり、仮に千代子が茂子の娘だったとして乳飲み子を置いて離婚するなんて有り得るんだろうか。
以上のような経緯から個人的には千代子は茂子の子ではなく、側室の子と思う。

554:553訂正
07/11/11 16:29:18
良政と茂子の離婚は、千代子誕生の一ヶ月後かどうか確信が持てないので訂正します。
ただ、二人の離婚が千代子誕生の前後に起きたのは確かです。
千代子は複雑な環境で育ちましたが、叔母の貞明皇后にはさつまいもを献上したりするなど交流があり、可愛がられていたようです。

555:日本@名無史さん
07/11/11 20:58:20
逆に出産を待って離婚ということも考えられる。

556:日本@名無史さん
07/11/13 02:41:27
側室の子供だろ。

557:日本@名無史さん
07/11/13 07:16:00
茂子は牧野さんとの間に子供はいるの?

558:日本@名無史さん
07/11/13 12:14:52
良政には4人の娘がいる
前妻の茂子が千代子の生母かは知らないが側室が子供を産んだから離婚という時代でもない 何らかの問題があり子供を残して離縁というのも考えられる
後妻の庭田重文の娘、ヨシ子が3人の娘の生母かも不詳

>>557茂子の子供について(いなかった場合も含め)ヒントになるかわからないが彼女は大正9年1月、36歳で亡くなっている

559:日本@名無史さん
07/11/13 20:38:56
>>558
回答大変ありがとうございます。しかしながら茂子が30代で死んだのは既に知っていて・・・

560:日本@名無史さん
07/11/14 18:36:29
良政の家は次女の息子がついでいるから
次女以下→後妻の子
長女→先妻(茂子)の子という解釈が出来る
しかし四女以外は皆微妙な嫁ぎ先だなw
四女夫(毛利公爵家出身小早川家養子)は血筋は素晴らしいが家格的には微妙w

561:日本@名無史さん
07/11/14 19:23:47
もはや大名でも領主でもなくなった、私人の家族構成や家庭環境を詮索しているキモヲタの集まるスレ

562:日本@名無史さん
07/11/14 20:28:19
節子の兄弟ってどうなの?弟はDQNだよね。

563:日本@名無史さん
07/11/14 21:09:57
兄は道実だけじゃ?良政も兄なの?
「大正過去帳」では良政、良致、良叙、篷子、*子(*糸+壬)の5人は浄貞院の所生になっていたから弟と思っていた
あまり道実の話は聞かないな

564:日本@名無史さん
07/11/14 22:31:51
道実の嫁恵子は東本願寺の出身
ところで恵子は正室腹だけど他は誰が正室腹なの?

565:日本@名無史さん
07/11/14 23:06:44
弟の良敍は、何が原因だったかは忘れたけれど、九条家追放の憂き目に遭って、
芸者上がりの妻と生活していた時期があり、兄の道実の葬式で一人ぽつねんと
座っていたら、爪弾き者扱いされているのに貞明皇后は親しく声を掛けたとい
うエピソードがある。
あと、良敍は貞明皇后が皇太子妃に内定したら、兄弟とはいえ、同じ屋根の下
にいても、容易に会うことは出来なくなったとも語っている。

566:日本@名無史さん
07/11/15 01:31:46
>>564 大谷光※(※火火の下に宝)は伏見宮和子女王の実子なので九条家との縁もそこからきていると思う

正室恒子の子は2男光演、3男※誠、5男※亮、9男※韶、11男※潤、2女恵子、6女嶺子、7女綾子(正親町公和夫人)
光※には少なくとも3人は側室がいたみたいだ

和子女王のもう一人の子供は岩倉家に嫁いだオサ子

567:日本@名無史さん
07/11/15 01:33:10
鬼女臭がプンプンするな

568:日本@名無史さん
07/11/15 01:38:51
良叙ってほとんど記録に残ってないね 何があったんだろう? 芸者と住んでたの?
それで九条家からシカトされたのか?

569:日本@名無史さん
07/11/15 20:11:30
クニ宮家の貧乏度はどんくらいだったの?

570:日本@名無史さん
07/11/16 09:33:42
>569宮家は対面保つのが大変でそのためにお金がかかったんじゃ
前田家から有栖川宮家に嫁いだ慰子は実家にお金の援助を頼んであまりの額に兄利嗣が「二度と宮家には嫁がせまい」と決めたらしい

571:日本@名無史さん
07/11/16 19:08:18
>>570
有栖川宮家も前田家から経済的に援助されていたんですね。
梨本宮家も守正王妃伊都子の実家の鍋島家から経済的援助を受けていたから、
久邇宮家も邦彦王妃俔子の実家である資産家の大名華族の島津家から経済的援助を受けていた可能性は高い。

572:日本@名無史さん
07/11/16 19:48:29
南部家は郁子妃が華頂宮に嫁いだためかなりの出費があったらしい
小松宮頼子妃の有馬家も結構な出費をしているはず

573:日本@名無史さん
07/11/16 20:41:34
ある宮妃の実家が公家で貧乏なので、宮妃の母の実家が援助したのは誰のこと?

574:日本@名無しさん
07/11/17 04:14:40
宮家の姫の嫁ぎ先っていうのは妻の実家(宮家)に援助したりしたのかな。
例えば久邇宮智子女王が嫁いだ本願寺の大谷家とか。姉が皇太子妃になった
ことでずいぶん実家はお金がかかったはずだけど。

575:日本@名無史さん
07/11/17 05:37:45
>>573
朝子妃直子妃(母細川家出身)か敏子妃(母東本願寺出身)じゃね?

576:日本@名無史さん
07/11/17 05:56:48
>>573 百合子様です。

577:日本@名無しさん
07/11/17 15:40:50
百合子さまって実家は高槻藩じゃなかったっけ?まあ元々あまり裕福では
なさそうだけど。戦後財政難からお父様が非業の最期を遂げられたん
だよね。

578:日本@名無史さん
07/11/17 15:55:47
百合子さまの実家は大名華族の高木子爵家。
百合子さまのお母様の実家は公家の入江子爵家。
>>573さんの言ってることと多少の矛盾が生じるが、三笠宮家は直宮とはいえ、経済的にはあまり豊かじゃなかったんですよね。
兄君の高松宮殿下は有栖川宮家の莫大な遺産を相続して宮家一経済的には恵まれてらしゃったのとは、同じ直宮でもすごい違いですね。

579:日本@名無史さん
07/11/17 17:13:03
>>577
百合子妃の実家は丹南藩。

580:日本@名無史さん
07/11/18 08:37:05
故高円宮殿下が言ってたらしいが宮家はあまり経済的に恵まれていないらしい
財団での殿下の給料も宮内庁から「○万円で」と指定されてそのとおりにしたら殿下はあまりの安さに驚いた それで宮内庁からの話を伝えると「宮内庁はわかっていないんだ」みたいな事を言って苦笑した
※確か8万円じゃなかったかな? 記憶あやふやスマソ

それで徐々にあげていき最終的に普通の職員と同じ扱いになったって

三笠宮ご夫妻にきていただいた時の話として泊まるのは体面もあるのでそこそこのお部屋になるがそれは三笠宮家負担
お礼?があっても赤字になる 公務するほど赤字になるのはおかしいと元同僚の人が書いていた

一宮家は東宮家と雲泥の差なんだね 宮家で恵まれているのは東宮家だけみたい

581:日本@名無史さん
07/11/18 09:56:15
百合子様が嫁の役割を一番やってるね。性格もやさしいし。

582:日本@名無史さん
07/11/18 09:58:56
秩父宮家は勢津子の母親、松平信子(鍋島侯爵家出、母は継室栄子)の
援助を受けていたらしい。

583:日本@名無史さん
07/11/18 10:26:32
>>580
髭の殿下と高円宮の妃の実家は資産家だから、援助が期待できるが
妃の実家が貧乏な秋篠宮家は大変だろうね。子供も多いし。
内親王の婚家も出費に大変らしいな。

584:日本@名無史さん
07/11/18 10:30:01
鍋島は金持ち、秩父宮は結核になったし。

585:日本@名無史さん
07/11/18 10:44:51
>>583
そういえば久子妃の母の実家の友田家は曽我子爵家(貞明皇后のいとこの嫁ぎ先)から嫁を迎えるくらいだか一体何をやっているんだ?

586:日本@名無史さん
07/11/18 11:58:36
曽我なんて、維新の功労者かなんかの柳川藩士あがりの新華族にすぎない。

587:日本@名無史さん
07/11/18 20:24:25
小和田家は雅子妃に援助してるの?

588:日本@名無史さん
07/11/19 03:17:24
>>583
池田と島津は大名で裏千家は家元だからお金には困らないだろうけど東久邇は大変だったらしい・・・
近衛と鷹司は家自体は貧乏だが後ろに細川と徳川宗家がいるから昔は援助受けていたかも

589:日本@名無史さん
07/11/19 07:46:16
>>587
妹とか雅子様にくっついて贅沢してるじゃない

590:日本@名無史さん
07/11/19 11:35:22
池田はあまりかねなかった。
林原グループに貴重品、土地を売ってる。

591:日本@名無史さん
07/11/19 14:06:47
週刊文春 1993年1月28日号

一方、小和田家は、母方の祖父がチッソの元会長であるといっても、銀行から出向した“雇われ社長”。また父の恒氏も外務事務次官という高級官僚であるとはいえ、
やはり公務員である。
  (  中     略  )
 つまりは、
「小和田家が正田家とすべて同じようにしようというのは到底無理なことなのです」(宮内庁関係者)
  (  中     略  )
 実際、周辺からは、こうした経済的負担をどうするのか、心配する声が聞こえるのである。
「雅子さんがお妃に内定したと聞いたときから、記者の間ではお金はどうするのだろうということが話題になっていました。これまで小和田さんの名が出る度に、チッソの問題と並んで小和田家の資産が否定要因として上がりましたからね」(宮内庁担当記者)
「次官は『お金がないのはご存知でしょう』とサバサバした感じですが、心配になってしまうのは確かですね。下の娘さん二人のご結婚もこれからですし、やはりお金については皇室からのバックアップが必要と思います」(外務省関係者)

592:日本@名無史さん
07/11/19 14:07:27
週刊文春 1993年1月28日号
雅子さん支度金「三億円」は誰が出すのか

 つまるところ、雅子さんのお嫁入り費用「三億円」の多くは天皇家側が負担するしかないのだが、これはこれで大変なことは後述する。
 一方、実際に小和田家が用意しなくてはならない金額は、というと、
「ご婚約内定までに天皇家あるいは宮内庁側から、小和田家に大きな経済的負担をかけないと、雅子さんを安心させるような話がでているでしょう。雅子さんがお妃とな
ることを受けた最終的な決め手はそこにあると思います。とすれば、多くても総額の一割程度でしょう」(宮内庁担当記者)
 一割といっても三千万円、小和田家にとって大きな負担となるには違いない。
では、天皇家側の事情はどうか。天皇家側が用意する雅子さんの支度金は、天皇家の生計費である内廷費、公的な諸費用に充てられる宮廷費から支出されることになる。

593:日本@名無史さん
07/11/19 21:50:05
クニ宮DQNすぎる。

594:日本@名無史さん
07/11/20 10:38:44
素晴らしいスレですね。

595:日本@名無史さん
07/11/20 11:09:29
総連、同盟を守る男 平松市長

**大阪市立大学大学院創造都市研究科**安泰おめでとー。

596:日本@名無史さん
07/11/20 14:24:38
「枢密院議長の日記」という本に貞明皇后のことがいくつか出ている。
貞明皇后が昭和天皇に祭祀を熱心にしなさいと注意したとか、
宮中某重大事件以前、香淳皇后が貞明皇后に拝謁した際、貞明皇后が昭憲皇太后から
賜った腕輪を香淳皇后に与え、貞明皇后が傍にいた澄宮に香淳皇后のことを「あなた
のお姉さんになる人よ」と紹介したとか、興味深いエピソードがいっぱい載っている。

597:日本@名無史さん
07/11/20 14:55:14
>>595
何で平松氏の話題がこのスレに?

598:日本@名無史さん
07/11/20 17:01:48
クニ宮DQNを許すべきじゃなかった。

599:日本@名無史さん
07/11/20 20:08:41
age

600:日本@名無史さん
07/11/21 02:53:06
良子をもっとシメろよ!

601:日本@名無史さん
07/11/21 13:36:25
皇太子妃時代の良子をシメまくればよかったんじゃ!

602:日本@名無史さん
07/11/21 18:07:28
age

603:日本@名無史さん
07/11/21 19:30:26
香淳皇后は、貞明皇后との関係に相当悩んだはず。
女王時代の香淳皇后は細身だったにもかかわらず、周囲の人間から色盲以外にも細すぎて体質が母の俔子妃ともども悪いと噂され、
傷ついたのでは。
昭和天皇と婚約中に香淳皇后が貞明皇后に拝謁した時、体重について尋ねられて、ちょっとしたバトル(?)があったらしい。
だから、香淳皇后が歳を重ねるごとにふくよかになったのは、出産だけではないのだなあと思った。
すぐに男子が産まれなかったのはしょうがないけれども、香淳皇后が7人も産んだのはすごいと思う。
そう考えると、ぼんぼん皇位継承者を4人も産んだ貞明皇后の方がはるかにすごいのだが。

604:日本@名無史さん
07/11/21 20:19:30
sage


605:日本@名無史さん
07/11/21 20:38:25
貞明皇后はただラッキーなだけだったと思う
もしこれが全員女だったら・・・

606:日本@名無史さん
07/11/21 21:59:23
良子は晩年見る影なくデブなんだが。

607:日本@名無史さん
07/11/22 10:17:18
>>606
若い頃は太れない体質だったから、がんがって食べてた。
その食生活が癖になり、基礎代謝が落ちた中年以降は太ってしまった、とか。
あくまで推測。

608:日本@名無史さん
07/11/22 10:17:59
age

609:日本@名無史さん
07/11/22 14:06:10
甘いもの好きでデブって骨折、認知症悪化が真実。
朝子にしとけよ!

610:日本@名無史さん
07/11/22 16:42:32
sage

611:日本@名無史さん
07/11/22 23:26:51
朝子がよかった・・・

612:日本@名無史さん
07/11/22 23:45:55
聡明じゃないだろ

書を見ればわかるだろ

613:日本@名無史さん
07/11/23 01:29:22
頭のいい女性だったよ。

しかし、朝子・・おしい・

614:日本@名無史さん
07/11/23 05:08:41
香淳皇后は第一皇女の照宮成子内親王を産んだ段階でもうふくよかな体型と
なっている。香淳皇后は昭和天皇の良妻だった。しかし、賢母でもなく良母でも
ない。照宮成子内親王が危ないとき、怪しげな民間療法を取り入れている。
第三皇女の鷹司和子さんの夫、平通氏が前田美智子さんのマンションで死亡したときも
放置。結局引き取ったのは今の皇后。第四皇女の池田厚子さんが病気のとき
岡山まで行っている。子供たちに対してえこひいきがすごい。
ちなみに妹の智子裏方も四人の男子を産んだが四男を偏愛し、東本願寺騒動を起こしている。
それからもう一つ、昭和天皇が顔面のチックに悩まされているとき姪の正子に
勧められて大真協会という新興宗教に影響されている。

615:日本@名無史さん
07/11/23 09:05:12
正子って見るからに気が強そう。
離婚するわな。

616:日本@名無史さん
07/11/23 10:14:58
>>614
>怪しげな民間療法
可愛い娘が危篤のときに藁にもすがる思いで手を出したのであろう。
>引き取ったのは今の皇后
ソースは?虐められてたわりに随分と自分勝手にできたんですね?皇后さま。
昭和天皇も皇后も皇太子も放置したのに当時皇太子妃だった皇后が引き取れるなんて
美智子さまは権力があったのですね?意外です。
>厚子さん
成子のときにもお見舞いに行ってますよ。遠くに住む娘が病気になったら
心配するのは当然。えこひいきでもなんでもない。

617:日本@名無史さん
07/11/23 10:49:29
朝子がよかった

618:日本@名無史さん
07/11/23 14:38:52
>>616
昭和41年に鷹司和子さんが未亡人になったとき、御所からお見舞いの使者を出しただけ。
和子さんは昭和天皇になついていた。
現皇后が和子さんを引き取ったとき、すでに香淳皇后は痴呆が進んでいた。

619:日本@名無史さん
07/11/23 15:02:00
和子さんが赤坂御用地に移られたのは、強盗に入られた後の昭和40年代半ば。
香淳皇后の痴呆が進んでいたかどうかは知らないが、
皇太子妃という身分でありながら、天皇、皇太子を押しのけて美智子妃が引き取るとは
美智子妃は世間で言われているような、耐え忍ぶイメージとは随分違いますね。
虐められて可愛そうな美智子妃のマスコミ操作に騙されていたのかしら?

620:日本@名無史さん
07/11/23 15:06:44
>>619
赤坂御用地に引き取られたのが昭和45年ごろとは知らなかった。間違い。
謝罪する。

621:日本@名無史さん
07/11/23 15:38:43
>>614
同じ言い方を貞明皇后に当てはめると更に酷い人だっていう事になると思うんだけど。

622:日本@名無史さん
07/11/23 16:08:34
>>614
香淳皇后は入内前からふくよか。
現在の天皇、小さいときに両親のそばにいれなくて寂しかったと言っているが
昭和天皇、香淳皇后夫妻とその子供たちが一緒に写る家族写真は多数残り、
大正天皇と貞明皇后が確立した一夫一妻制の効果を見ることが出来る
大正天皇もまた、貞明皇后との間の自分の子供たちとよく一緒に写真を撮った。
大勢の側室たちに産ませた子供たちと生まれたときから別々に暮らし、
子供の顔すら覚えていなかった明治天皇の時代より余程ましだった。
(明治天皇は結婚のためのお暇請いをしにきた娘の昌子内親王を見て
 お付の女官にあの婦人は誰か、と質問)


623:日本@名無史さん
07/11/23 16:50:05
S45には、良子はすでに痴呆が始まっていたよ。
池田さんは、もらってもらったっていう気持ちと
**な子ほどかわいい!つーのがあるんじゃない?
池田は愛人の子供が後をとってるし、デパートでみる
天皇姉は、いきなりみんなの前でファンデーション塗り始めたり
(20年位前に何度か天満屋でみた)ちょっと・・・・・・
イジメとかする人では絶対ありませんよ>厚子さま

624:日本@名無史さん
07/11/23 16:51:51
鷹司氏の心中あいて「美智子さん」ですよね。

625:日本@名無史さん
07/11/23 17:13:32
>>614
貞明皇后も次男の秩父宮を偏愛したといわれていますね。
佐佐木高行の日記「かざしの桜」に、第2子出産直前の皇太子妃節子は、夜に突然泣き出して落ち込むことがあったらしく、
睦仁天皇と美子皇后が心配する事態となり、下田歌子が節子妃を慰めにいったという出来事があったと書かれてます。
侍医のベルツも日記に精神的に落ち込んでいたというようなことを書いてます。
不安定な精神の中で、自分の誕生日に次男を出産した節子妃が、次男に特別な縁を感じるのも無理はないのかもしれない。
長男は2か月余りで手元を離れ、次男は4か月は一緒に暮らした違いもあって、情が次男に移っていったことも考えられる。
皇孫御殿が新築された時、節子妃は次男と三男とは手を繋いだけれど、長男は繋ぐことができず、泣き出してしまったという
エピソードもある。
でも、昭和天皇には天皇として立派になってほしいから厳しく接して、天皇にはならない秩父宮には母らしく接していたのが、
周囲には秩父宮をえこ贔屓していると見られていたのかもしれないです。

626:日本@名無史さん
07/11/23 17:52:22
ただでさえ、同性の年子のきょうだいは、ま逆のタイプに
育つというのに、節子が自分に似ている秩父を偏愛したのは
事実でしょ。

627:日本@名無史さん
07/11/23 18:42:14
>池田は愛人の子供が後をとってるし
ソースは?

628:日本@名無史さん
07/11/23 18:53:52
>>627 岡山じゃ有名。最初から天皇姉は子供作れないと考えられてたみたいだし、
ソースあるわけないじゃん。愛人(側室)も天皇家公認。

数年前、天皇・皇后が岡山来た時、空港に迎えに来た天皇姉の頭には、100円ショップで
売ってるような、よくある黒ピンが不自然に1本刺さっていた・・・・

629:日本@名無史さん
07/11/23 18:55:12
昭和天皇が、学業成績の悪い厚子さんを叱ったらしいが
怠慢とかの問題じゃないよ。かわいそうに>厚子内親王

630:日本@名無史さん
07/11/23 20:40:07
>>628つーことは側室つきで厚子さんもらったの?それとも池田さんが選んで事後承諾?
どちらにしろそれなりの家柄の女性?

631:日本@名無史さん
07/11/23 22:08:20
厚子さんは「ぽわ‘~‘‘‘ん」とした人。
実質的妻は現当主の母でしょう。
天皇姉は美智子様を苛めた人はいなかっただろう。
ぶっとんでるオスタちゃんあどうだか?

632:日本@名無史さん
07/11/24 07:52:07
>>630 地元の人を選んだんでしょ。

633:日本@名無史さん
07/11/24 09:01:47
節子は朝子に変更すべきだった

634:日本@名無史さん
07/11/24 09:27:51
こうして昭和天皇の皇女を見ていくと不幸な女性が多いな。
第一皇女 照宮成子内親王は母の従兄と結婚し5人の子供を残し癌で他界。
第二皇女 久宮祐子内親王は乳児のうちに他界。
第三皇女 鷹司和子さんは夫は事故死か心中。
(宮内省は隠そうとしたが読売新聞がスクープしたので世間にわかってしまった)
第四皇女 厚子さんは 上のスレが正しいとして女性として不幸。
第五皇女 貴子さんは香淳皇后の親戚と結婚し、男子をひとり(禎久)産んだがそのこは
数年前白人と結婚したはず。(ソース 週刊誌)


635:日本@名無史さん
07/11/24 09:44:03
厚子さんは和子さんみたく妊娠もしたことが無いのか?

636:日本@名無史さん
07/11/24 10:19:46
訂正
照宮成子内親王の結婚相手は香淳皇后の叔父の息子。貴子内親王の結婚相手は
香淳皇后のいとこの子だったと思う。

637:日本@名無史さん
07/11/24 10:22:29
厚子さんは、石女みたい。でも、ファンタジー脳内だから幸せじゃない?
貴子さん長男はカメラマンでしょ。
天皇の姉妹は最初と最後が才能あるね。

638:日本@名無史さん
07/11/24 10:57:33
母から聞いた話では
厚子さんはアレレの噂があり、結婚相手がみつからなかったらしい。
それで、池田さんに愛人を持っていいという条件で降嫁させたらしい。
皇后の妹の大谷智子さんも和子さん、貴子さんと長男の縁組を天皇家に
お願いしたけど、厚子さんとの話はなかったらしい。
裏方がつとまるような能力がないと判断されたのかも。

639:日本@名無史さん
07/11/24 11:35:38
和子さんもおとなしすぎて無理とされた。
貴子さんくらいなら裏方できるね。

640:日本@名無史さん
07/11/24 13:30:23
>>636
島津貴子さんの夫久永氏は貴子さんの祖母俔子妃の異母弟の息子
つまり香淳皇后の従弟(たぶん島津忠義の孫の中では最も若い)

641:日本@名無史さん
07/11/24 15:21:33
> こうして昭和天皇の皇女を見ていくと不幸な女性が多いな。

俺の爺さん婆さんの世代だが、ちょうど戦争から終戦後の激動の時代の姫君だから、
まあこんなもんだろ。特に不幸とも思えん。
俺の婆さんは鷹司和子さんと同じ歳だけど、8人兄妹で生きてるのが2人だけ。
単純に日本人の平均寿命で考えると5~6人は生きてなきゃいけないんだが、
夭折2人、戦死2人、病死・事故死が1人ずつ。

642:日本@名無史さん
07/11/24 17:02:39
>>638
智子女王の長男はかなり晩婚で39歳のとき連枝の寺から
父親:光暢の又従兄弟(母親が光暢の親の従妹)、母親:九条武子の次兄と醍醐好子妃の兄(甥に殺害された人)の娘との間の娘
という人と結婚した。
さらにその間の息子はアメリカ系韓国人と結婚した。


643:日本@名無史さん
07/11/24 17:13:34
>>641
俺の祖父も和子さんと同じ歳だが
長男→戦死
長女→出産で母子ともに脂肪
次男→夭折
次女→戦争未亡人→再婚→生存
三男→夭折
三女→生存
四男→生存(しかし会ったことが無い)
五男→他家の養子に→生存
六男(祖父)→生存
七男→癌で脂肪
八男→生存

まあこんなもんだろう

しかし今更ながら曽祖母(故人)が八人も息子を産んでいたとは驚き
一度お会いしたかった

644:日本@名無史さん
07/11/24 21:13:15
明治天皇の内親王はどうだっただろう。


645:日本@名無しさん
07/11/25 05:37:11
北白川宮に嫁いだ房子内親王はパリで夫とともに自動車事故に遭い、
夫は死亡(37歳)本人は重傷だって。一人息子も31歳で亡くなってる。

646:645
07/11/25 05:52:34
ちょっと調べてみたら昌子内親王(竹田宮家)の夫も38歳で亡くなっている。
けれど下の二人充子内親王(朝香宮家)の夫は94歳、聡子内親王(東久邇宮
家)は109歳とすごい長寿だ。でも聡子内親王は次男を関東大震災で亡くして
いる。関東大震災って他の宮家でも犠牲が出たよね。どこだったっけ?


647:645
07/11/25 05:55:17
連投ごめんなさい。109歳は聡子内親王の夫でした。

648:日本@名無史さん
07/11/25 06:21:34
>>646
山階宮佐紀子女王、賀陽宮邦憲王の王女。山階宮武彦王はそのあと精神に疾患を生じ
療養していた。ところが昭和10年代にお世話をしていた
看護婦に手を出し、妊娠させたが当時の宮内省の意向で中絶させられた。
その時代、日本には堕胎罪があり、同時期堕胎をした女性は入獄させられた。
しかし、その看護婦は罪に問われていない。



649:日本@名無史さん
07/11/25 07:46:39
東久邇宮稔彦王に3人の隠し子がいたんだから(それも妃は内親王)山階宮も皇族扱いしない方針でちゃんと出産させてあげればよかったのに
臣籍降下して昭和62年8月に89歳で亡くなるまで1人だったみたいだから子供がいたら後半生もぜんぜんちがったものになったろう

東久邇成子さんも生前、宮内省は自分達の地位をまもることしか考えてなかったみたいな批判をしてたとか

650:日本@名無史さん
07/11/25 08:12:46
>>647
稔彦は享年102歳だよ
>>646
あと閑院宮の第4王女(名前失念・17歳)も関東大震災で死んでいる

651:日本@名無史さん
07/11/25 08:15:20
東久邇宮稔彦王は、節子の子供は父が全部違うとかいったり
パリに愛人作って帰らなかったり、仲のよくない夫婦なのに
4人も子供ができるなんて。
聡子内親王はかなり苦労したらしい。

652:日本@名無史さん
07/11/25 08:35:29
俊彦王どうして外国いった?

653:日本@名無史さん
07/11/25 10:02:47
>>651
普通の夫婦関係だったら聡子妃15人ぐらい子供を産んだりして

654:日本@名無史さん
07/11/25 10:47:29
大体、次男が震災で亡くなっても戻ってこず、兄(天皇)危篤でも
電報いれても無視。よく、昭和4年に俊彦王ができたもんだ。

655:日本@名無史さん
07/11/25 11:46:23
>>650 102歳でしたか。ありがとう。

稔彦王ってもともとかなり問題児だったみたいだね。皇族の地位に
不満を持ったり、明治天皇の陪食を体調不良を理由に断ったことも
あるらしい。皇女との結婚も押し付けられたって感じだったんだろう
ね。ここの息子も成子内親王との結婚をそれほど喜んでなかったみた
いだね、子供だけは5人も作ったけど。

656:日本@名無史さん
07/11/25 12:01:13
成子内親王苦労しただろうな・・

657:日本@名無史さん
07/11/25 13:18:30
そもそも昭和天皇は長女の婿にどうして問題児の息子をえらんだんだろうか。
明治天皇の皇女のときとは違って、皇族も多いんだし候補はよりどりみどりな気がするんだが

658:日本@名無史さん
07/11/25 16:28:18
明治天皇の4皇女は年上の皇族と結婚したし、当時の皇族妃も夫よりも年下が多かったから、年上の皇族との結婚を想定していたと思う。
成子内親王より年上の皇族は、

東久邇宮盛厚王(稔彦王長男)
東久邇宮彰常王(稔彦王三男)
久邇宮家彦王(多嘉王次男)
久邇宮徳彦王(多嘉王三男)
賀陽宮邦壽王(恒憲王長男)

の5人。

先例の明治天皇の皇女の結婚から考えれば、宮家の次期当主となる嗣子(長男)が望ましい。
別の男子と結婚して新しい宮家を興す手もあるが、この時にはたくさんの皇族男子が臣籍降下していて、
釣り合う皇族男子もいるのだから、この方法は用いられなかった。
そこから考えると、盛厚王と邦壽王の2人に絞られるわけだが、成子内親王の妹・和子内親王の降嫁先も
確保しなきゃいけないから、年齢の近い邦壽王はパス。
結局、成子内親王は9歳年上の盛厚王と早々と婚約し、結婚してしまった。
昭和天皇は近新婚だと言って難色を示したけれど、宮内省の方針で渋々了承。貞明皇后もこの結婚は承知していたらしい。
余談だが、戦後、賀陽邦壽氏に和子内親王との婚姻を打診したが、断られたのは有名な話。


659:658訂正
07/11/25 16:33:16
近新婚→近親婚
ごめんなさい。

660:日本@名無史さん
07/11/25 17:07:52

賀陽宮は、舞妓と熱愛で第3皇女の降嫁を断ってるよ。

661:日本@名無史さん
07/11/25 20:05:49
彰常→平民と結婚
家彦→鷹司家の三女(平通氏の妹)と結婚
徳彦→久邇宮の長女と結婚→離婚

662:日本@名無史さん
07/11/25 20:08:43
貞明皇后の妹は濃厚な顔立ち

663:日本@名無史さん
07/11/25 23:01:13

賀陽宮妃殿下(九条出)は、節子に似てるかも。
でも、子沢山だが子供不細工ばっか・・

664:日本@名無史さん
07/11/25 23:34:58
>>662
その方は渋谷篷子さん?それとも大谷紝子さん?
山階宮範子妃と大谷籌子さんの写真は見たことあるけれど、2人とも貞明皇后より美人。


665:日本@名無史さん
07/11/26 00:50:39
節子は、入内前から金平会長並に目の下にクマがあったからな。

666:日本@名無史さん
07/11/26 01:03:27
貞明皇后は美人ではないが、ブスでもない。
現代的な感覚からいえば、普通の平均的な顔だと思う。

667:日本@名無史さん
07/11/26 02:47:15
性格きつい顔だね。
いいときは、唐沢利明妻に似てるが。


668:日本@名無史さん
07/11/26 05:09:17
範子妃殿下のお顔みたいです。
何の本に載ってますか?

669:日本@名無史さん
07/11/26 06:08:30
>>655
稔彦王の三男、粟田彰常は陸軍大尉から東京農大に進み、卒業後は上野動物園に
就職し、定年のときは多摩動物園の飼育係長。
四男、俊彦は昭和26年慶応大学を卒業と同時にブラジルに旅立った。まだ、占領下だったので
移民も海外旅行も許されない時代だったが、ブラジルの農園主多羅間家と
養子縁組の形で出国した。妻、勝子は沖縄県から移住した日系二世。 

670:日本@名無史さん
07/11/26 06:39:58
>>664
(糸壬)子のほう。皇族・華族・古写真帖にのってた。
ある勲功華族令嬢の友人として出ていたからわかりずらかった。

あと、範子の写真ってどこで見たの?

671:日本@名無史さん
07/11/26 06:54:21
>>663
敏子妃はスタイルは良い

672:日本@名無史さん
07/11/26 08:54:30
敏子=顔は・・・

スタイル
直子>>>敏子

673:日本@名無史さん
07/11/26 12:46:54
>>668
>>670
「女子学習院五十年史」に範子妃の写真があった。
あと、朝彦親王の娘たち、有栖川宮実枝子女王や伏見宮禎子女王の幼少時の写真も載ってる。

674:日本@名無史さん
07/11/26 13:20:53
「女子学習院五十年史」&「女官」みたい!
どこで見れる?

675:日本@名無史さん
07/11/26 15:50:56
>>673 ありがとうございます!
すっごい見たい
図書館ならあるかなぁ…

676:日本@名無史さん
07/11/26 18:57:40
範子妃の写真があることを次男の芳麿王が私の履歴書で書いてた。
本家(山階宮家)は断絶したので、山階芳麿家で保管していると思う。
常子妃の写真は沢山出ているが、範子妃の写真は皆無に等しいので、いくつか出してほしい。
九條家は京風の洋間は一つもない和室ばっかりの完全なるお公家さんの家風だと聞いたことがあるけれど、
範子妃はバイオリン、貞明皇后はピアノ、2人ともダンスを嗜むなど結構ハイカラで、西洋文化に親しんでいる。

677:日本@名無史さん
07/11/26 19:30:00
どんなにググっても範子妃の情報って少なすぎ
貞明さまに似てらっしゃいますか?

678:日本@名無史さん
07/11/26 19:38:24
範子妃は安子女王の出産で死んだが現在範子妃の子孫は安子女王の子孫しかいない

679:日本@名無史さん
07/11/26 20:32:29
安子女王って浅野にお嫁に行ったよね。
良子皇后が第3皇女を浅野へと思ったけど
姑が怖いので断念したって聞いた。

680:日本@名無史さん
07/11/26 22:18:22
俊彦王、DQN父から離れたかったんだな。


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