田沼意次について語るスレat HISTORY
田沼意次について語るスレ - 暇つぶし2ch850:日本@名無史さん
07/05/15 07:39:31
>>842
>「中央集権」・・・この概念は近代統一国家の概念です。
これも、違う。
律令制も基本的には「中央集権」。江戸幕府は、幕府だから中央集権ではない
というのではなく、「幕藩体制」になってしまったから、そうでない形態になった。
あんたは織田信長=中央集権を肯定するなら、はからずも近代統一国家概念で
はないと書いているようなものだが、織田信長=近代なのか?

ただし、江戸幕府は前半は織田信長的な観点から、その後は朱子学を幕府の
統治理念にしたことにより、「中央集権」指向が強まったことになったと思われる。
寛文期になるまで(或いは慶安事件以前)は、徳川の方針は、大名改易路線。
これが進めば、すべての外様大名が改易されたところで、幕府による中央集
権が完成する。
綱吉が将軍になった当初(天和期)も、この路線がある意味(というのは外
様ではないから純粋な当初の路線ではない)復活するが、次第に朱子学による
覇権概念に修正されていく。
朱子学路線で行くと、徳川将軍≒中国皇帝となる為、おのずと中央集権を目指
すことになる。ただ、基本的にもう戦争は出来ない。だが吉宗のような考え方
が現実に進めば、軍事力による覇権を目指すことは十分可能だった。
清朝の第六代皇帝乾隆帝の例もあり、天下泰平下での覇権を指向する可能性は
なくもない(ちなみに乾隆帝の治世は少しだが吉宗在位時期と重なる位同時期
で、乾隆帝が後だからこれを参考にはしていないだろうが)。
それ以降、吉宗後半から田沼意次は、武断でもない文治でもない経済で苦闘す
ることになる。それは新たな敵(商人)に対する為で、外様大名どころではな
くなった。


851:日本@名無史さん
07/05/15 21:38:14
外様幕閣
京極備中守高久(若年寄。丹後峰山・一万五千石)
脇坂淡路守安董(奏者番・寺社奉行。播磨龍野・五万一千石)

852:日本@名無史さん
07/05/15 22:44:11
>>845>>850
たいへん示唆に富んだレスですね。
「寛文期になるまで(或いは慶安事件以前)」という幕府の大名政策の区切り方も、
よく観察されていると思います。
であるからなおさら、誤解は避けたいので付け加えますと、

私は「中央集権」が近代統一国家の概念だと疑いませんが、
その概念を使って歴史を顧みたとき、律令制は本来公地公民制を前提としていましたから、
めざした形が「中央集権的」だったとは言えます。その点に異論はありません。
ただ封建制は中央集権とは両立しません。
幕藩体制は、むしろ従来の封建制に比べれば幕府権力の強化が特徴的です。
それでも中央集権化とは制度的に自己矛盾があって、「国家」を(そして中央集権を)強く意識すれば
するほど、反徳川や尊王でなくても、「倒幕」を志向せざるを得なかったと考えます。

「信長=近代」という見方はしていません。彼は幕府=封建制を突き破る体制を考えていた可能性があります。
その程度の意味です。
傍証はあっても確定する材料を知らないので、そんな大胆な仮説も持ちあわせていません。


853:日本@名無史さん
07/05/15 22:45:23
朱子学路線を進めても、「徳川将軍≒中国皇帝」とはならないでしょう。
朱子学はよく言われるように尊王敬幕を説いていました。
これは、政治の二重構造の容認を前提とする「幕府」という政体選択をした限界に由来するものでしょう。
案の定、やがて両者のバランスが崩れ、闇斎のように尊王賎覇と華夷内外の思想部分が突出して、
幕府にとっては結果的に両刃の剣になってしまいました。

話題が「田沼意次」からだいぶ逸れてしまいましたが、
私は「商人」が勝った「武士」が負けたではなく、商人でも武士でも「資本の論理」と「武士の論理」を融合できた者・・・
それが結果的に勝者になれたと考えます。
石田梅岩の思想やあなたのいう「商貌士魂」もキーワードになると思いますが、
そうしたものを受け容れるかどうか?
本商人(ほんあきんど)と彼らの云う袖長商人との対立、その後主流となった本商人と在郷商人との18C後半からの相克・・・
利害の対立だけでない思想の相違もあって、「商人」となかなか一言に概括できないでしょう。
商人の間でも、意次と定信に似た対立があったのです。
その意味で、意次は「資本の論理」に目覚めながら、その時代の拘束性からは抜けきれず、
限界にぶちあたったと見ています。


854:日本@名無史さん
07/05/16 01:57:59
>>853
あの、朱子学路線を進めても、「徳川将軍≒中国皇帝」となるのか、どうかだが。
それは、ここで俺とあなたが争う以前に、既に当時、江戸時代に論争がある。
山崎闇斎を引き合いに出してくれたから、おそらくご存知のはずだが、その弟子
の佐藤直方と浅見絅斎だ。
つまり、ここでそのテの論争しても、直方と絅斎との論争の繰り返しになるはず。
かつ俺はその一方を擁護したり否定したりしようとするのではない。
ごくごく簡単に言えば、直方は「徳川将軍=王者」という発想。対して絅斎は
「徳川将軍=覇者、王者=天皇」という発想。
尤も直方は後に立場が揺らぐ。「徳川将軍=王者」という発想は、新井白石の方
がより鮮明だ。
しかし、こういった論争の是非や真偽を検証しているのではない、というのが俺
の考え。
純粋な学問上の概念でいえば、実はどちらも間違い。本来の朱子学は、「王者=皇帝」
で、これは朱子学(新儒教)以前の儒教、特に孟子の頃からある発想だ。更に
ややこしくなるが、厳密にいえば皇帝すら、王朝を開いた頃は「覇者」、文治主義に
なって「王者」となっていく、というのがより正しいだろう。
いってみれば、朱子学上の「尊王」の対象の「王者」とは、実は曖昧なもの、相対的
なものともいえる。




855:日本@名無史さん
07/05/16 02:00:21
では、江戸時代における徳川将軍はどうなのか? 天皇は別にいる。しかし
江戸幕府が儒教、そして朱子学を統治理念として採用した経緯は、決して
皇室を尊ぶのが目的ではなかった。「忠孝」の概念の「忠」の対象は徳川
将軍である。これは、正しいのかどうかが重要なのではなく、当時の幕府は
そう考えていた、ということなんだ。
その論法で行けば、徳川将軍≒王者=中国皇帝となる。繰り返すが、これが
概念として妥当かではない。そのように位置づけて江戸幕府は朱子学の普及
・浸透を図ったということだ。
しかし、当然研究が進めば、その辺りで疑問が出てくる。それが直方と絅斎
との論争などに現れてくる。しかし、朱子学の本場中国には、征夷大将軍を
頂点とする「幕府」なるものがそもそも存在しない為、突き詰めれば突き詰
めるほど、つまり理論を語れば語るほど、そうじゃないのではないか、とい
う話になってしまうんだ。これは「歴史上の経緯」の話。

長くなったがそういう意味だ。そして結局それが幕末の尊王思想になっていく。
幕府にとっては朱子学を推奨したのが完全に裏目。そしてより過激な「水戸学」
が尊王思想を過激なものにしていく。

田沼に死命を制したのが門閥とその統治論の朱子学だから、田沼が出てこないが
この話は重要。



856:日本@名無史さん
07/05/16 02:15:56
そして結論。
「幕府」という政体選択をしたにも関わらず、幕府は統治手法として「朱子学」
を採用し、徳川将軍≒皇帝=王者に位置づけることで、統治しようとした。
この発想を「信じる」限り、江戸幕府はそれによる覇権を指向することになる。
幕府が開かれても、当然実態としては覇権になっていない。>>760の書いた通り。

しかし、幕府は覇権を目指した。いろいろ手法は異なるが田沼意次の政治目的
もその範囲内のものだった。しかし朱子学は結果的に尊王思想を育んでしまい、
それが衰退に拍車をかけ、最後は大政奉還となって滅亡した。
そういう流れだろうな。

商人の類型については、別途考察しよう。


857:日本@名無史さん
07/05/17 01:47:50
次に、
>「商人」が勝った「武士」が負けたではなく、商人でも武士でも「資本の論理」と「武士の論理」
>を融合できた者・・・ それが結果的に勝者になれたと考えます。

これはその通りだ。まったく異存はない。そして、それで行けば、幕府権力側にいた方の負けなのは
明らか。従って田沼は「敗者」であることも明らかなんだ。
政治に関わったから、ではない。例えば幕末の「亀山社中」のような考えで行けば、商売と交易、そ
して資本の論理と政治は容易に結びつくし、坂本龍馬は明らかに政治に首を突っ込んできている。
それが土佐藩公認となって海援隊となる。龍馬は薩長や幕府に首を突っ込みすぎて殺されたが、海援隊
の中から後の三菱を立ち上げる岩崎弥太郎が出ているから、このことは龍馬に先見性があったと見て良
いだろう。何故なら、当初の発想は、しっかり後に継承されたからだ。彼らはかつて経済政策や海外交
易まで念頭に置いた(かも知れないとされる)田沼意次の精神を念頭には置いていない。
従って田沼は「結果的に」先見性は持っていなかったことになる。

先見性というのは、後の評価だ。当時では絶対に評価できない。「先見性の可能性」までだ。
後に先見性があったと評価される為には、後の世が、一旦断絶したとしてもその精神を受け継ぎ、
その主旨を理解してそれを実現したかで決まる。
後の世は、経済中心となり、一見似たようなものになったが、実は田沼の精神を受け継いで近代
日本の経済に寄与しようとした人間はいない。別の動機、別の影響によるもの。

何が違うかは、もう明らかで、田沼意次の「動機」が幕府権力や幕府財政の建て直しだったから、
ということに尽きる。手法が同じか、似たようなものでも、動機は実は松平定信や、極論すれば
井伊直弼とも大差ない。明治以降に引き継がれなかったのは当然。
幕府側の人間だから、ではない。例えば岩崎の好敵手、渋沢栄一などを考えれば、それは明らか
だろう。
多分、コンサルタント氏が出てきても、似たようなことを書くのではないだろうか。
株を完全に奪ってしまったがなw



858:日本@名無史さん
07/05/17 10:04:07
>>851
外様に対する「譜代」の概念だけど、江戸幕府はかなり拡大解釈をしているね。
本来、譜代とは、父祖代々その主君に仕えている者。
ところが、豊臣秀吉にはそれはなく、当代で仕えても、そのような扱いにする「恩顧」という言葉が出てきた。
豊臣恩顧の大名、とか太閤恩顧の・・・というのがそれ。
徳川家康の場合、従来の「三河譜代」および、秀吉でいう「恩顧」の両方を「譜代および譜代格」として扱ったようだ。
それと外様の境界線はどこか、といえば、一応関ヶ原の戦い以前に従っていたか、それ以降(関ヶ原の戦い時も含む)かということになっている。
だが一律にそうかというと微妙なところ。
そのルールだけで行けば、加藤清正とか福島正則は外様大名。そして彼らまたはその子孫は改易によって葬られた。
おそらく、それ以降改易路線でなくなってきたところで、ある条件を満たせば譜代扱い(幕閣参入)という風に条件が緩和されていったと思う。
条件は、推測だが、
1.関ヶ原前後で徳川方についた者
2.大大名ではない者
3.当代も幕府に忠誠心のある者
4.養子縁組により、譜代や徳川縁者の係累が入った
京極は関ヶ原の後、石田三成の佐和山城攻めの後、家康に城を供出している。それ以前からも東軍に与している。
脇坂は、関ヶ原では西軍についたが、小早川の裏切りに呼応して東軍に寝返った。
それプラス上記の条件を満たした。
あと、挙げるなら老中に抜擢された真田幸貫を挙げないと。
彼は松平定信の次男で、松代藩主の養子に入っている。

859:日本@名無史さん
07/05/17 22:48:27
>>857
すごい論争になっていますね。
別にお株なんて拘っていません。むしろ近い考えを持っている人がいてくれて何よりです。
しかし、ちょっと違います。
私が言ったのは、「政治が経済に屈した」という事です。
武士とか商人とは、「身分」であり、身分間の階級闘争みたいに捉えていません。
武士対商人なら、明治以降はありませんし、また武士から商人になった者も、農民から名字帯刀を許されて武士になって、更に商人になった(渋沢栄一)例もあります。
問題は、田沼意次の経済政策と言ったものを考えた時、その歴史的位置付けでしょう。
今までに出てきたものを挙げてみましょう。

1.田沼意次の経済政策は、(1)現代の経済社会の到来をも見越した先見性のあるものであり、それは、門閥の排斥に遭って頓挫した。
  (2)排斥さえなければ、田沼意次の経済政策は日本の経済の進展に大きく寄与し、場合によっては有意義に評価できる日本独自の経済政策が育まれた可能性がある。
2.田沼意次の経済政策は、(1)現代の経済社会とは直接関係はない。
  (2)門閥の排斥がなくてもそれは発展を遂げる可能性は低かった。

大体こうでしょうか。目的については、私や>>857さんが「幕府権力を強化、または立て直す為」という主旨であり、>>853さんは特にコメントはありません。
まだ、論点の相違は不明ですが、実はこれが決定的なんです。
そしてそれは、江戸幕府の本質的な存在意義、覇権を目指したとかというのがその背景として語られています。
これも、その対立軸は見当たりませんね。

860:日本@名無史さん
07/05/17 22:49:52
ですから、ひとつ言えるのは、田沼意次の経済政策を、現代にまで通じるような「画期的」で「先見性」のあるものだったという「論証」はまだ提示されておらず、比較検証する段階にもまだ至っていないということでしょう。
例えば、申し訳ないのですが、>>847さんは、
「似たような理念をその当時持ち得た・・・そこに先見性を認めるのです。」
と書いていますが、似たような「理念」とは何でしょうか。近代・現代の経済社会と理念が似ていると考えておられるらしいという推測は出来ます。
では、>>847さんの考える「近代・現代の経済理念」とは何でしょうか? そして、田沼の経済理念とどこが似ているのでしょう。
これが皆無なので、果たして反論かどうかも特定できないのです。似ていても
私や>>857さんは、近代社会の経済理念と、田沼意次のそれとは似ているかどうか以前に「別物」と考えています。
それは、目下常識であり(だから正しいとは言っていない)、常識は覆されること自体は良いのですが、それは常識を信じる人間を論証により説得しなければ覆りません。

例えば、最初の征夷大将軍は誰でしょうか? 坂上田村麻呂か、大伴弟麻呂か等諸説あるようですが、それは「幕府政権=武家政治」を念頭に置いたものなのか? というのに近いものだと思われます。
坂上田村麻呂は、武家政治に対して先見性を持っていたのか? というのと現段階では同じです。そうでない「論証」が欲しいところですね。


861:日本@名無史さん
07/05/17 23:15:53
それで、>>843についてですが。

私は理系の出身なので、触れておきますが、
>その時代に迎えられず、否定されても、のちに真理と実証された例
はあります。しかし、それは情実的な評価とは無関係です。

>政治や経済も同様、むしろ先見性とは「当時は否定されたが」という
>前置きが付くとき、いっそう輝くものでしょう。
これでは、「ドラマ」ですよ。そんな主観的な評価は、自然科学の中ではあり得ません。

客観性とはまったく無縁で、自然科学を引き合いに出してもらったら、自然科学の「客観性」を否定してしまうことになります。
どのような経緯であれ、合理的な説明が出来れば「真」とする、というのが自然科学の在り方です。
そしてそれは程度問題で、より合理性の高い説明が別の説でなされた場合、より高いレベルで「真」が取って代わるというだけで、唱えた人間がどのような扱いを受けたかどうかは関係ありません。


862:日本@名無史さん
07/05/18 00:57:46
またコンサルタントかw

863:日本@名無史さん
07/05/18 01:02:40
と、何も意見できないのに、見に来るだけ見に来る乙かw

864:日本@名無史さん
07/05/18 01:24:40
コンサルタント氏は明らかに途中から立ち位置が変わったなw
最初は専門外だから遠慮していたか、迎合気味だったが・・・

最近、田沼意次に限らず、追いやられた歴史上の人物が掘り起こされている。
それ自体は研究だから良いのだが、ややもすると勝者の歴史が歪んでいて、
敗者の中にこそ史実があるというような錯覚が横行するきらいがある。
勝者が勝ったのは紛れもない事実。それは動かしようがなく、そうでなけれ
ば、を考えるのは、IFを考えているに過ぎない。
IFを考えるなという訳じゃないが、IFはIFだ。むしろ、敗因を考えた
方が史実を正確に見ることになるんじゃないのか?

田沼意次が排斥されたのは、門閥の為。では、田沼意次は、それだけ評価が
高いとするなら、何で門閥ごときに負けたのか、だろ? それだけだったら、
大した政治家ではないではないか。
経済政策でもうまく行かなかったから、だ。そして幕府は重商主義政策を進
めれば、自己矛盾に陥って自らの首を絞めるにもかかわらず、それを強引に
進めたからだ。
俺はコンサルタント氏の1.、2.という分類は正確でないと思っている。
1.の(1)は良い。だが(2)は2.の(2)の方が近いが、その可能性は、田沼の
発想では不可能で、田沼とは違う考え方を持った人物が現れない限り無理だ
ろう、という考えなんだ。何故なら田沼は幕府肯定&重商主義を取ったから
でこれは矛盾以外の何者でもない。
重商主義を進めるには、朱子学秩序を否定し、士農工商秩序を否定しなけれ
ばならない。門閥は生かしても殺しても良いが、門閥は封建制以外の手段で
食わせる必要がある。
これを進めたら明治維新になってしまうのだが、田沼意次にも井伊直弼にも
小栗忠順にも無理だろう。実はこいつらこそ、最も重商主義にとって不要な
立場の人間で、田沼意次は始めから自己矛盾の立場だったことになる。


865:日本@名無史さん
07/05/18 01:42:58
田沼意次は立場上無理、なんていうなら、それだけの話。
開国も視野に入れていた、なんて仮定の話をしてもしようがない。
実際に開国したのは、阿部正弘だし、通商条約を締結したのは井伊直弼。
そちらの方が、田沼意次より結果評価は上だろう。現実を考えれば。

薩摩も長州も土佐も実は同じだ。でも奴らは明治維新後、富国強兵・
殖産興業(≒重商主義)と引き換えに「武士」をなくすという政策を
思い切ってやってのけた。田沼意次など、比較にならないし、誰も
参考にもしていない。



866:日本@名無史さん
07/05/18 01:51:42
白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼恋しき・・・か。

五七五七七でこれだもの、スゲーよな。




867:日本@名無史さん
07/05/18 02:06:52
だからといって、それが田沼待望論ではなかった。
白河と田沼、ただの地名と苗字を引っ掛けただけ。
まぁ、言ってるだけだから、特に何ということはない。

868:日本@名無史さん
07/05/18 02:16:13
>>866
それを「詠んだ」のが誰か、というのが肝心でしょうね。
大田南畝ですが、これが門閥や政治家の立場から詠んだものではなく、庶民の立場から幕府を揶揄して詠んだのは間違いないでしょう。

ちょっと荒っぽい言い方をすれば、
松平定信は融通が利かない権力の権化だ。それに対して田沼は融通無碍でまだマシだった。

この場合の「融通無碍」という考え方が「有能で優れた政治家」という評価では、ない、というところがミソでしょうね。
むしろ田沼時代は好き勝手にやれたのに、寛政の改革期はそうはいかなくなった、という揶揄でしょう。
好き勝手にやりたい者が好き勝手にやれるような社会が、現代です。
だから「政治が経済に屈した」ということです。これが良いとばかり言っている訳ではありません。


869:日本@名無史さん
07/05/18 02:24:33
清濁併せ持つ政治家が優れた政治家。
清いだけでも濁ってばかりも、どっちもダメだよw

870:日本@名無史さん
07/05/18 02:29:17
>>866
ウケてるな、なかなかw みんな食いついてきたじゃないか。
まあ、デキが良い狂歌というのは認めるが・・・

871:日本@名無史さん
07/05/18 22:29:42
>>864-865
遂に田沼意次の正体が明らかになった、というか、日本における重商主義の本質がはっきりしましたね。
結局、重商主義にとって、もっとも邪魔だったのは「武士」そのもので、武家政権を運営しようとしてもその中では重商主義は成立しない、という結論で良いでしょうか。
明治維新の功労者の大半が武士だったにも関わらず、彼らは武士そのものを国家の近代化と経済の発展の為には葬らねばならないと決意したのでしょう。

私もほぼ同意です。もっと言えば、「門閥」は実は場合により「セーフ」です。
何故なら彼らは「資産」を持っているからです。すなわち「スポンサー・資本家・投資家」になり得る訳です。
商人もそうだし、また働いているという意味では、商家の人間も重商主義の社会で生きていけることでしょう。
雇われていく庶民もです。
一番不要なのは、資産もなく、働きもせず、僅かな俸禄だけで生きていた大半の武士でしょう。
こういう立場にコストをかけるようでは、産業社会は立ち往きません。
唯一の取り柄は「兵力・戦力」だったはずですが、それはすっかり旧式化し、徴兵の方が勝るということが奇兵隊や西南戦争で証明されてしまいました。
ここまでに、武士は新たな生きる道を選択し直す必要があった訳です。

田沼意次は、立身出世した経緯が幕府権力の中でしたから、限界があったし、そもそも一個人の能力が如何に優れていても無理だったことでしょう。
彼が、幕府転覆を図るほどの覚悟をしていたということなら、分かりませんが。


872:日本@名無史さん
07/05/18 23:02:10
幕府天ぷら

873:日本@名無史さん
07/05/19 00:22:04
しかし田沼が南鐐二朱銀を発行したせいで
後に天保一分銀が発行されることとなり
天保一分銀と米ドルの交換レートがおかしくなったことがインフレを招いた。

URLリンク(www1.u-netsurf.ne.jp)

一定額の金貨と交換できることを幕府が補償した
「銀でできた金貨」なんて概念は
DQN奉行には到底理解できっこない。

田沼一人があがいたところで
どうせ幕府の運命は大してかわってないってこった。

874:日本@名無史さん
07/05/19 02:32:31
>>871
というよりは、田沼流重商主義というのが初めから「主義」と言えるようなものではなく
幕府存続のための手段でしかなかった、と見るのが自然だろう。

幕府存続のためにあえて経済の論理にある程度膝を屈する姿勢を見せつつ取り込みを図る、
それ以上でもそれ以下でもないと見たほうがすっきりする。

現代で田沼の対応物を探すなら日米の新自由主義より中共の改革・開放路線(中共政権
維持のための市場原理の容認)のほうが近いように思える。

875:日本@名無史さん
07/05/19 02:58:02
そりゃ何処の国の重商主義だってはじめは体制側に都合のよい発想からスタートしただろうさ。
だから主義をつけられないだなんてそんなバカな話があるか?

あたりまえのことをもったいつけて書いてるんだお前は?

876:日本@名無史さん
07/05/19 03:55:14
>>871
>一番不要なのは、資産もなく、働きもせず、僅かな俸禄だけで生きていた大半の武士でしょう。
>こういう立場にコストをかけるようでは、産業社会は立ち往きません。
同意してもらって何よりだが、これを読んでると、むしろ現代がヤバそうだなw
資産もなく、働きもせず、僅かな年金と生活保護だけ受けている大半のナントカはどうなる?
そして、それで社会が立ち行かなくなったら?
おお、こわw

>>875
スタートはそういうのがありだが、うまくいくとは限らないさ。
明治維新がうまく行ったのは、体制側が自分の身内も同然の立場を斬る勇気があったから。
田沼意次がうまく行かなかったのは、門閥とも、商人とも迎合し、かつかつての自分と同じ立場(一般の武士)を切れなかったから。



877:日本@名無史さん
07/05/19 13:13:54
>>874
>現代で田沼の対応物を探すなら日米の新自由主義より中共の改革・開放路線(中共政権
>維持のための市場原理の容認)のほうが近いように思える。

そうだろうな。政治と経済がアンバランスであるという点では対応物たり得るだろう。
しかし中国は一筋縄ではいかない。
強大な軍事力を保有している。田沼にはそれはなかった。いや、本来江戸幕府が政権
を取ったのは強大な軍事力があった為のはずなんだが、脆弱化していた。吉宗はそれ
を何とかしたかったようだが、家康の頃に匹敵するようなところまでは到底行かなか
った。日本人は泰平の世を迎えると途端に怠惰になるからな。
中国の現在の状況は、当然対米を念頭においているが、先に挙げた清朝の乾隆帝の例
もある通り、世の中が皇帝の代数(乾隆帝は第六代)を経て落ち着いた頃(乾隆帝の
在位期間は吉宗から田沼時代が重複する、すなわち田沼と同時期)であっても、軍事
力による周辺制覇に乗り出している。江戸幕府も「武家政権」の本質を貫くなら、む
しろそういった政策の方が「らしい」路線だったはずだ。
おそらく、日本人は本質的に「和」の民族で、戦争なんてものは出来るだけやりたく
ないのだろう。でも判断として常に適切かは別問題。
それでも薩長は戦争をも辞さず、それで幕府を倒し、翻って藩をも廃止し、武士もな
くし、経済政策を路線に乗せた。田沼意次とは覚悟の程が違いすぎるなw


878:日本@名無史さん
07/05/20 12:12:55
田沼意次の「南鐐二朱銀」の発行について、ですが。
確かに金銀の二種類の本位貨幣があるような江戸時代で、かつ銀(西日本)については計数ではなく秤量貨幣だったのを改革して行こうとした「意思」は読み取れますね。

問題点は、
1.金と銀の二種類の本位貨幣がある問題(従って変動相場が成立)
  (プラス補助貨幣銅銭による「三貨制」)
2.(1)金については計数貨幣、(2)銀については秤量貨幣という問題

これを整理しないと行けない訳です。
南鐐二朱銀に先行して、「明和五匁銀」が出ています。これは純粋に2.(2)を解決するための発行でした。
しかし、市場においてはほぼ、無視です。これは計数貨幣という形にだけ拘った為、金銀の実勢相場とかけ離れていたからでした。

「南鐐二朱銀」は、金2朱(8分の1両)を明記することで、金銀の変動相場を否定し、銀貨も金貨の補助貨幣に事実上してしまったところが最大の特徴でしょう。
これは、上記1.2.の両方に対応するものだったので、意義はあると考えています。

私が田沼意次に対する評価が変わる、という指摘が度々出ていますが「功罪」を論じる際、「功」について肯定的に評価し、「罪」について否定的に評価しているだけなのですが、「功」または「罪」しか評価しない人にとっては、そう見えるのでしょうか?
「あなた自身の田沼評が変っていくので」という指摘が田沼意次全体を肯定的に評価している人から出ていて、
「途中から立ち位置が変わったな」という指摘が同じく全体を否定的に評価している人から出ています。

私の評価は、田沼意次は、
当時の(1)経済政策通としては評価する部分があるが、(2)全体として、および(3)政治家としては評価できない。
というものです。そして、経済政策についても、その「目的=幕府権力の立て直し」には敵わなかった(上記(2)の部分です)ので、そこまでの評価に留まる、ということでした。
私がこのスレで試みたのは、全体像としての田沼意次の評価でした。それは当然「功罪」両方ある訳です。
最後に残ったのは、「画期的」かどうかでしたが、これは、そうではなかった、という結論です。




879:日本@名無史さん
07/05/20 16:08:24
印旛沼運河が出来ていれば・・・。
利根川~印旛沼~東京湾の水運が確立され
東京湾から銚子方面までは野島岬を通らずに
印旛・利根川経由で行けた。

880:日本@名無史さん
07/05/20 20:19:27
四国の江戸後期の史料(庄屋文書)をいくつか読んだことあるんだけど。
全部銀は秤量貨幣として使われてるんだよね。
銀貨の計数化は全国的には広まってないのかな?

881:日本@名無史さん
07/05/20 23:33:11
そこが江戸幕府の限界なんだね。
四国のどこか知らないけれど、幕府の政策の及ばない範囲か。

計数銀貨とかは、やはり上方商人を意識しての話だと思う。


882:日本@名無史さん
07/05/21 01:05:30
>>877
話がそれるが十全老人、清朝第六代皇帝乾隆帝は60年も在位したってね。
50年の史上最強将軍徳川家斉も吹っ飛ぶなw

まあ、在位だけでは昭和天皇が史上最強だがw

883:日本@名無史さん
07/05/21 10:40:17
っ太陽王ルイ14世

884:日本@名無史さん
07/05/21 18:42:32
魚の棲む城読んだが風雲児たちの田沼老人の方が魅力的に見えるな

885:日本@名無史さん
07/05/22 00:27:22
ふー
コンサルタントや田沼マンセー氏の論議も一段落したみたいだ。
かつ、1000まで残り少ないし、後はマターリと好きなように田沼意次を語れ。
田沼意次以外の同時期の政治家については別スレ立ってるみたいだぞ。

886:蟹江慶三
07/05/22 04:24:10
俺もそう思う。いちいち現代に結びつけたり、~~主義だとかレッテルを張るのはつまらない。

で、上にでた印旛沼開削だが、当時、利根川を銚子まで出て房総半島迂回して江戸入りするのは遭難の危険性が高い
で、防ぐには印旛沼から直接江戸へというルートが考案された

887:日本@名無史さん
07/05/22 10:11:51
田沼意次って、開国まで考えていたのか?

888:日本@名無史さん
07/05/22 15:34:57
田沼はその時代の与えられた条件の中で最大限尽くしたことは間違いない。開国がどうのこうのを討議する場では無い

889:日本@名無史さん
07/05/22 20:35:39
あっそ・・・
じゃ、「マンセー、意次!!」で良いの?

890:日本@名無史さん
07/05/22 20:41:34
役人の子はにぎにぎをよく覚え

やっぱ汚職政治家だな

891:日本@名無史さん
07/05/22 21:19:03
誹謗中傷は止めろ!にちゃんねる運営委員会に報告するぞ!

892:日本@名無史さん
07/05/22 22:15:20
バカ麦価・・・

たかが田沼意次で

893:日本@名無史さん
07/05/22 22:32:13
水野忠篤って田沼意次とよく比較されるけどどうなの?

894:日本@名無史さん
07/05/23 00:30:38
>>893
殆ど比較などされない。約一名だろう。
そいつは別スレに去った。比較したければそこでやれ。
>>600を参照。

895:日本@名無史さん
07/05/23 00:35:57
>>888
そうだろうな。従ってまぁ普通の政治家。特別注目に値する存在ではない。

896:日本@名無史さん
07/05/23 01:58:05
じゃあお前はなんでこのスレを見てるんだ?

897:日本@名無史さん
07/05/23 03:32:54
>>896 うるせー!自称コンサルタントはすっこんでろ!

898:日本@名無史さん
07/05/23 08:32:44
ちょっと前静岡へ出かけたので、ちょっと相良へ寄って見た。
月曜日で史料館は閉まっていたが、さすが地元だ、意次が町起しになっていた。
意次は以前は賄賂の権化みたいに言われていたが、謂われるほどひどくはない
が、反動で実はすごい人というほどでもない印象。
(幕末天狗党の処罰に意尊がかかわっていたのの扱いを知りたかったのだが
 それは果たせなかった。)

ついでに、森町の石松の墓というのにお参りした。
石松もそこそこの人気者?扱いの感じがした。
第2東名が通ると森町は便利になりそうだった。

899:日本@名無史さん
07/05/23 09:22:34
>>898 だからどうした?

900:日本@名無史さん
07/05/23 09:55:48
どんなヒールであれ、地元ではそれなりに持ち上げる。
吉良上野介も同様。
ただし、2つの要素はあると思われ。
ひとつは、ただ有名だから。功名であっても、悪名であっても。だから町興しに
つなげよう、というもの。

もうひとつは、中央と地元では違う顔を持っていて、地元では評価に値する
というもの。吉良についてはそのような評価らしいが、田沼意次はどうなのか。
相良に行ったなら、そういう部分が分かれば良かったのだが。


901:898
07/05/23 11:32:04
>>900
相良には偉人が結構出ているので、意次はその一人でマ基盤を作ったみたいな印象。

吉良は、お墓があるお寺さんにお参りしたことがあるが、ちょっと寂しかった。
尾崎なにがしという作家も出ているが、そっちの方が表に出ている感じ。

やっぱすごいのは、赤穂。大石内蔵助はお宮もある。よく金を出す人がいたもんだ
と思う。(芝居や映画の関係者がお参りするってのもあるらしいが、金をはずむん
かな)
吉田松陰もお宮があるが、明治に出世した人がお金を出したんだろうから、あれ位
はできるだろうと想像するが、そうでない状況だと大変だったろうと思う。

主題からずれた。ゴメン。

902:日本@名無史さん
07/05/27 00:41:56
>>900
吉良については、「地元の顔」なんて史実ではないよ。
もっぱらもう一つの要素、町興しに利用しただけ。
国許に帰ったのも一度だけ。領民を潤したと言う塩田開発もその事実はないし。
田沼についても、老中でずっと江戸にいたわけだからなあ・・・・


903:日本@名無史さん
07/05/27 11:58:39
「町興し」かどうかだが。

これは地方自治や地方活性の時代のお話なので、該当の人間の評価がそれ以降かどうかが判断基準だろう。
例えば江戸時代からそのような評価があった、というのだったら、少なくとも「町興し」とは別の範疇の話。

吉良の場合、
・新田開発
・塩田開発
・黄金堤
が地元での業績とされる。それが事実かどうかだな。
「赤い馬」と題された資料は、地元の出版社が出したもの。

904:日本@名無史さん
07/05/28 23:14:31
もうエンドロール?

905:日本@名無史さん
07/06/02 13:02:35
意次の母はどういう人?そして意次の死因は?

906:日本@名無史さん
07/06/03 16:37:27
知りません

907:エンドロール
07/06/10 19:45:50
出演
田沼意次…中井貴一
田沼意行…津川雅彦
田沼意知…堤真一/田沼意尊…長門裕之
田沼意致…上川隆也/水野忠友…小林稔侍/水野忠成…いしいすぐる
松平武元…山本圭/松平輝高…黒沢年男/松平康福…秋野太作/井伊直幸…鈴木瑞穂
松平定信…中村梅雀

稲葉正明…阪本浩之/横田準松…藤田宗久/本郷泰秋…可知靖之/
松本秀持…すまけい/赤井昌…佐藤慶/川井久敬…小林宏史/佐野政言…北村総一郎
佐野政親…神山寛/一橋治済…岡村喬生/徳川家斉…小林翼
徳川家治…勝野洋/徳川宗睦…久米明/徳川治貞…石濱朗/徳川治保…池部良

908:日本@名無史さん
07/06/14 01:25:05
照明・・・田招意訳

音声・・・羽柴秀三

録音・・・徳永由旨

編集・・・根猿単徒



909:日本@名無史さん
07/06/15 02:16:28
エンドロールあげ

910:日本@名無史さん
07/06/15 03:24:42
家治はどの程度、意次を庇護してたの?
将棋に没頭した人生みたいだけど…

911:日本@名無史さん
07/06/15 23:44:09
ウィキペディアで、意誠が意次の兄になってる。

912:日本@名無史さん
07/06/16 01:25:17
語り…江守徹
家重…中村
脚本…田向正健

協力…相良町、白河市、千代田区、東京都

演出…大原誠

913:日本@名無史さん
07/06/16 09:10:42
>>912
中村梅雀なら、>>907の松平定信と二役になってしまうがw
ここは大河の熱演? を買って、

徳川家重・・・中村梅雀
松平定信・・・松平健

でどうだろう?


914:日本@名無史さん
07/06/16 16:10:39
家重は新人で。
重度の脳性麻痺者の中から全国規模でオーディション。
乙武氏みたいに身体障害者スターを誕生させよう!

915:日本@名無史さん
07/06/16 22:27:13
田沼子爵家は大正年間まで存続した。屋敷は俺んちの数軒隣り。

916:日本@名無史さん
07/06/17 09:04:00
意次はなんで領地を没収されたんだ?没収しても意味がないと思うんだが。

917:日本@名無史さん
07/06/17 11:27:07
懲罰的な没収だろう。幕府財政の足しになるかどうかで意味を求めても仕方ない。
懲罰に意味があるかどうかは、また別の論議。

918:日本@名無史さん
07/06/17 13:14:54
定信がうさはらしですよ。領地没収のうえ、和泉岸和田岡部美濃守長備の4500人の大部隊をして城を徹底的に破壊し尽くすんですから

919:日本@名無史さん
07/06/17 16:13:30
岸和田の岡部家って5万石だろ。数千人を動員できたのか?

920:日本@名無史さん
07/06/17 17:28:16
>>919 への答えではないが、

岡部氏への幕府からの沙汰書には、2万5千石の格式で行けということ
があったと↓にあり、即ち2,500人の陣立てと訳している。
単純換算なら、5万石=5000人とも言えるが、実の数はどういうこと
やら。しかし以前の意次への加増が岡部氏の旧領からだったので、岡部氏の
恨みつらみは相当のものだったようだ。
h URLリンク(onihei.cocolog-nifty.com)

921:日本@名無史さん
07/06/17 17:32:50
普通、動員数は1万石あたり250人程度じゃないの?

922:日本@名無史さん
07/06/17 22:01:00
h URLリンク(wwwi.netwave.or.jp)
では、200人と言っている。慶安の軍役令だが。

923:日本@名無史さん
07/06/17 23:30:49
まあ、民部卿治済にとってはどうでも良かったことなんだがw

924:日本@名無史さん
07/06/22 09:28:19
治済は死んだ後のことなのでどうでもいいことだったろうが、一橋家って4代以降
子がいないってのは、舞台暗転みたいな感じだな。

925:日本@名無史さん
07/06/23 10:47:33
一橋家の血脈は、あちこちに継承されたからいいんじゃね?
尾張も紀伊も将軍家も田安家も一橋の血だ。

田安の末裔である徳川宗英さんのエッセイ本を読んだ事があるが、一橋はわが
田安を乗っ取った酷い家だと書きながら、あっ、自分はその末裔だった・・・
なんて書いていて、面白かったw


926:日本@名無史さん
07/06/26 13:45:38
松平定信が名君として語られてるのはむかつくよなぁ

自分の領地にさえ寂れさせてるのに

927:日本@名無史さん
07/06/26 18:57:52
>>925
わろたw

928:日本@名無史さん
07/06/26 18:58:43
>>926
少なくとも国政上で名君とはされてないと思うが。

929:日本@名無史さん
07/06/26 22:54:39
民主党の元の代表を、平成の松平定信って言っていたことがあった。

>>926 に同感なんだが、彼は一杯書き残しているから、得をしている
ように思う。儒学を勉強したせいだろう。翻って意次は自身は書いて
ないんじゃない?

後世の評価が気になる人は書き残すべきだな。
ときの為政者が都合が悪いと焼き捨てるかも知れないが。

930:日本@名無史さん
07/07/01 12:49:40
>>925
これか

URLリンク(www.amazon.co.jp)


931:日本@名無史さん
07/07/01 17:34:17
はじめまして。興味深く読ませていただきました。
元田沼町民で現在佐野市民ですが、こちらでは相良と違って、やはり田沼意次はワイロ政治の悪名のためか町おこしに使われるでもなく、近年評価が良くなるまではほとんど無視されてたようです。
(観光等でメインで持ち上げられてるのはやはり藤原秀郷。佐野の場合はそれプラス明治期の田中正造)
まぁ田沼一族ゆかりの地というだけで、意次本人に関する史跡とかは特にないようなのでこんなものかもしれませんね。

932:日本@名無史さん
07/07/01 20:52:19
田沼御殿の七不思議

933:日本@名無史さん
07/07/02 06:57:03
>>931
駅の近くに縁のあるお寺があるよね。近所に行ったとき寄って見た。たまたま住職が
居られたので、聞いたら系図なんか当てにならないと笑っていた。
裏手の墓場で関係の墓を探したが、見つからず。その先の道端にまた違う墓があった。

余談だが、佐野も天明とか犬伏とかみたいと思っているが、果たせない。
近くの岩舟の大慈寺(円仁さんが小さいとき勉強したところ)は本堂が焼けて再建と
か言っていたが、出来たんかな。

934:日本@名無史さん
07/07/02 22:44:56
「経済」という視点を堺屋太一が持ち込んで、日本史の評価の仕方に大きな革命が起きたそうだ。
田沼意次はその好例。
でも、最近はそろそろ、それが行き過ぎてきてないか。
経済ばかりを重視し過ぎて、逆に当時の人間を理解できなくなっている弊害が出始めてないか?

935:水野出羽守忠成
07/07/04 22:43:52
新評価を持ち込んだのは大石慎三郎じゃないのか?

936:日本@名無史さん
07/07/05 18:36:47
松平定信が大御所問題で将軍家斉、一橋治済と対立して老中を免職されたとはいえ、定信派の三州吉良藩主松平信明が続いて老中首座に進み、定信派の松平乗寛、青山忠良、牧野忠精らも残留していた。
従って信明が死去する1817年までは寛政の改革は続いたとみるのが妥当であろう
信明死後、水野忠成、阿部正精が老中になる

937:日本@名無史さん
07/07/05 23:13:37
全部、というか後半を特に興味深く読んだけれど、田沼意次の高い評価というのは、
学者の研究ネタの域を出ていないなという気がした。

なぜなら、もし田沼意次の政策の評価が現代社会において高いものであったとする
ならば、当然それを手本にしたり、或いは尊敬する人物として挙げたり、理想の政
治家として挙げられるだろうから。

織田信長とか源頼朝は、それよりずっと昔の人物であるにも関わらず、今でもその
政治が理想であったり、尊敬する政治家として、現代の政治家すら引き合いに出す。
また、大久保利通のようにもっと後世の人物も同様。

今の政治家が(例え単なるパフォーマンスにしても)田沼意次を引き合いに出すこ
となど、ない。もし仮に引き合いに出すような政治家がいたとしたら、それ以外の
我々の多くは一体どう思うだろうか?

それが、本当の現代における田沼意次に対する評価であるような気がする。


938:日本@名無史さん
07/07/06 01:29:31
織田信長はあれだけ大虐殺した人なんだから尊敬するなんていったらやばい気がする。にもかかわらず田中角栄や細川護煕、小泉純一郎らは織田。
田沼は今日に於いて評価がまだ確定していないからなぁ

939:日本@名無史さん
07/07/06 06:06:48
一般庶民はミーハーだから。信長の人気は映画化された時の中村錦之助の人気が発端だろ。

940:日本@名無史さん
07/07/06 10:48:16
田沼の子孫って奴ならうちの学校に居たな
まあ頭の悪そうなDQNだったが

941:日本@名無史さん
07/07/07 01:02:10
田沼意次って誰?

942:日本@名無史さん
07/07/07 09:42:03
そこへ来るかw

ググれ

943:日本@名無史さん
07/07/07 21:44:22
田沼意尊って幕末の天狗党の連中にひどいことしたらしいね。
全裸にして異臭を放つニシン蔵の中に監禁。便所も無く…挙句に、寺の境内に大きな穴を掘り、次々に斬首されていった。処刑は5日間にも及び、斬首された者は352人。行軍中、戦闘に加わったものは全員斬首という非常に厳しい死罪。
明治以後、水戸藩出身で活躍した人材がほとんど出なかったのは、このときの大量処刑が原因といわれる。

944:日本@名無史さん
07/07/07 22:02:14
豚一の徳川よしのぶが守りきれなかったんだからしょうがない。

945:日本@名無史さん
07/07/07 23:10:59
>>943
あ、何かそのシチュエーション、TVで観た事があるw
天狗党の処刑のシーン。TVだからどこまでちゃんと考証しているか分からんが、背後に沢山の天狗党の人間を座らせて、順番に目の前で大穴の前で斬首して行った。
田沼意尊だったのかw TVでも、それは酷い処刑の意味で描いていたと思うが。


946:美濃部筑前守茂育
07/07/08 03:38:40
田沼意次は御三家と一橋治済の強押しで失脚したわけだから子孫が水戸藩を怨むのももっともじゃ

947:日本@名無史さん
07/07/08 15:00:18
>>937
> なぜなら、もし田沼意次の政策の評価が現代社会において高いものであったとする
> ならば、当然それを手本にしたり、或いは尊敬する人物として挙げたり、理想の政
> 治家として挙げられるだろうから。

そりゃ、定信公のありがたい著作作業のおかげで世間一般にはマイナスイメージがべったりだからな。
「田沼を尊敬してます」なんて言ったら脊髄反射で「ワイロスキーかよ!」と思われるに決まってる。
水戸黄門も何かって言うと「柳沢吉保の悪巧み」になってるので、地元では保明を郷土を拓いた偉人として教えている埼玉
県入間郡三芳町では地元の資料館で反駁するような本を売ってるぞ。
そうなると、甲府や大和郡山ではどうなんだろう。

948:日本@名無史さん
07/07/08 18:50:57
甲府では城下町の整備と、特産品の水晶、りんご、もも、ぶどうの生産と販路拡大をした。単なる年貢一辺倒の大名ではないことを伺わせる


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