田沼意次について語るスレat HISTORY
田沼意次について語るスレ - 暇つぶし2ch750:日本@名無史さん
07/05/06 18:48:43
う~ん、どうなんだろ。あなたも自己紹介してみれば。
名を名乗れっていう訳じゃない。歴史を専攻しているとか、なんでも。

751:日本@名無史さん
07/05/06 19:00:10
もうよしましょうよ。それよりせっかく新御用金令というハードボイルドなる話が出ているんですからそれについてを。「新」とついているがどの点が新しいの?

752:日本@名無史さん
07/05/06 21:12:38
>>751
御用金とは、今でいう国債発行(返済=幕府の債務が発生)。新御用金とは課税なので、新旧関係というよりまったく異なる概念でしょう。
どうなんでしょうね。私は実はそれほど刮目はしていませんが。
画期的だと思われる方は、意見を書いてください。

実はこれを、現在の所得税などの国民皆税みたいなものとは理解しません。
何故なら、税金をすべての人が払うから、それに見合う政策を・・・というのは「民主主義」の考え方であり、上意下達の政策では本来ないからです。
それは「新御用金令」という名称が、図らずも示しています。
つまり、返済を伴わない御用金という発想ですから。

何か田沼の政策というと、ここではall agreeという雰囲気も感じなくはないのですが、これはむしろ、窮余の一策であり、現在の税制とは似て非なるもの、これが田沼批判の原因となっても当然だと考えます。

・・・と、多少挑発しておきましょうか。冗談ですが、反対は意見の形でお願いします。


753:日本@名無史さん
07/05/06 21:13:55
>>743
意次というより吉宗にその萌芽が見られる、とは言えませんか?
私は意次と定信の政策は、吉宗が産み落とした双生児に見受けられるんですが。

754:日本@名無史さん
07/05/06 21:21:03
ちょっと誤解を受ける表現かな、と思うので追加しておきます。
>>752の前2行は、おそらく新御用金令を画期的と考える場合の想定される「概念」という意味で、私は「それほど」評価はしないという事です。
途中飛んでしまいました。敷衍しておきます。

755:日本@名無史さん
07/05/06 21:29:35
>>753
私も実はそう考えています。ある意味で、意次と定信は正反対のように言われていますが、確かに政治的・組織論的にはそうでしょう。
門閥対実力派という観点でもそうです。

しかし、政策としては、どちらも享保の改革から派生した問題を、どうするかという考え方で共通しています。

手法が反対だろ? という考え方もあると存じますが、>>741の最後2行で書いた通り、これらの政策は、「局面見合い」の同次元の政策手法だと考えます。
現在でも、公定歩合を上げるか下げるかは正反対の判断です。しかし、利率を操作して経済を制御するという意味で同一次元ですね。
債務の処理手段を厳しくするか、状況で緩和するかという観点となります。


756:日本@名無史さん
07/05/06 23:21:22
>>755
742、753ですが、レス有難うございます。
別の話題ではすれ違いもありましたが、おおむね同意見です。



757:日本@名無史さん
07/05/07 23:17:22
>>756
どうも。GWも明けたので、書き込みは一段落のようですね。
いろいろ書きましたが、ただし、という言い方をするなら、形として「中央集権」みたいな形式へ、意図したかどうかは別として推移している感はあります。
しかし、やり方が如何にもセコイ。と言えばまた挑発っぽいですが、それが、一官僚である限界、または江戸幕府を肯定せざるを得ない弱さでしょうかね。

支配者は「覇権」を目論むような観点で、統治的観点から集権を目論むことはありえます。
しかし、官僚は、「仕切る」ことでしか指向できません。石田三成もそうでしょう。徳川家康のような存在には太刀打ちできないでしょう。

吉宗は、支配者たり得ましたが、着手からすべてをやり果せることは出来ませんでした。
吉宗が、家斉みたいに長期在位したから出来たようなものでもないでしょうが。

幕末の小栗忠順(このスレの前の方に出ていますが)位に、周りの環境が乱世の趣を醸し出してきた頃なら、「第二の関ヶ原(による徳川中央集権体制)」みたいな過激論も出てくるようですから、天下泰平が一要因であるともいえますが。
時代の制約、立場の制約、環境の制約は認めても良いと思います。


758:日本@名無史さん
07/05/08 00:51:51
おい、歴史通たちよ、完全に押しまくられてるぞw

田沼意次や松平定信の政策は、経済政策だから、現代の経済通には敵わないってか。
それじゃあんまりだろ。ちゃんと中身で対抗しろよ。

さすがに小栗上野はそこまで過激だった訳ではないんじゃないか?
確かにフランス軍制による軍事力の拡充、海軍力の増強は、軍事力で主に西国大名を制圧するという発想も出来る。
ナポレオン3世の寵臣ロッシュから、ナポレオン1世のヨーロッパ征服の話なども聞いたようだが。
でも慶喜相手に、それは無理だろ。

田沼意次にはいろいろとコメントしたい気もあるが、経済については俺は勝てん。
誰か、頑張れー♪

759:日本@名無史さん
07/05/08 01:18:45
私は小栗豊後守は余り期待はできぬと思いますよ。

760:日本@名無史さん
07/05/08 01:46:54
でも「中央集権」は確かに大局的に見た場合、重要な観点かなって思う。
田沼意次にとっては「見果てぬ夢」だったかも知れない。
はっきり言って、江戸幕府って覇権になっていなかったというのが、結論ではないだろうか?
関ヶ原の戦いで勝っても、豊臣が残っていたことが、原因のような希ガス。
結局元和偃武の翌年に家康が死んでしまい、日本は連邦国家(幕藩体制)のような形で進んでしまった。
全国的な政策を行うというのが、力任せにしかできない。
だから、田沼意次のような「頭脳派」は苦労しただろう。いくら思慮深い政策を考えても、その施行にはどうしても「権力任せ」「力任せ」の要素が入ってくる。
随分誤解を受ける事になったと思う。
それと、年貢、税、債権債務という分析は、後世なら簡単だろうが、当時は経済学なんてないから、余程でないと無理。
冥加金と賄賂はどこが違うんだという話にもなりかねない。「御用金」の解釈も、そんなに分析性をもって考えるだけの体系はなかっただろう。

吉宗って、さかんに「尚武」を進めたが、それが充実していたら、真の統一でもやるつもりだったのかな?
田沼意次は官僚(老中にまでなっているが)、定信は朱子学徒だから、そんな発想はないだろうが。


761:日本@名無史さん
07/05/08 01:58:44
田沼意次は「ビスマルク」にはなれなかった、ということでOK?

762:日本@名無史さん
07/05/08 02:24:11
幕府は開幕当初ミスを犯した。全国から徴税する権能を作んなかった

763:日本@名無史さん
07/05/08 02:40:34
明治政府ですら「地租」という固定資産税か所得税か、律令の「租」なのかよく分からん税制からスタートしているし、無理もないよ。


764:日本@名無史さん
07/05/08 02:45:46
ま、開幕ダッシュに失敗したら、ペナントレースを制するのは難しい・・・

765:日本@名無史さん
07/05/08 02:48:36
>>763
よく分からんのは、自分の頭のせいだとは思わないのかw

766:日本@名無史さん
07/05/08 02:58:43
>>761
ビスマルクは、プロイセン王ヴィルヘルム1世(のちドイツ皇帝)の全幅の信頼があっただけでなく、モルトケ元帥など周りの有能な軍人やスタッフに恵まれていたし、また理解と協力が得られていた。
それに対して、田沼意次の周りは、協力者も多かったが、足を引っ張る奴も沢山いた。
特に格上が沢山足を引っ張った。

さぞかし、田沼意次の足は長くなったことだろうなw
スマソ

767:アジアシステム開発
07/05/08 03:52:14
いずれにせよ田沼氏は御三家や溜間詰格ら名門から足を引っ張られていたことは明瞭で有ります

768:日本@名無史さん
07/05/08 21:18:55
>>760
力任せ、または妥協でしょうか。理によって政策を実現できない。

769:日本@名無史さん
07/05/08 21:52:53
>>757
釣りなんでしょうが、「同意」の前言を翻し、あえて挑発に乗ります。
あなたの意見は、当初とやや変化して意次と彼の政治を矮小化しすぎだと思います。
つまりその時代における画期性を後世の高見から「それほどでも」って評価しているだけのように感じます。
「コロンブスの卵」ですよ。

第一、意次は「官僚」じゃなく、「政治家」です。
石谷清昌、河井久敬、松本秀持、赤井忠晶ら財務スタッフこそが「官僚」と呼べるでしょう。
意次の経済政策を「国立銀行」「国民皆税」「統一通貨」という近代国家を前提にして初めて
成立する政策と直線的に結びつけるのは「革命的」に捉えすぎると思いますし、
政策の真価はその運用を見て定まるものでしょう。
ですから「貸金会所」にしても、その真意も実効性もはっきりしないまま潰され、
「南鐐二朱銀」にしても、物価安定には寄与しましたが、秤量貨幣の廃止まで意図したものなのか?
見届けることなく廃止されましたから、結果論では何とでも言えますが、
その発想は、従来にない独創的なものだったんじゃないですか。

また、あなたも認めているとおり、政治家は政略に長けていなければ政策実現能力に欠けるという点で、
有能とは言えないでしょうから、そういう面でも彼の家重時代からの政略は目を瞠るものだった
と思います。

770:日本@名無史さん
07/05/09 00:14:08
ビスマルクはユンカーという一種の貴族出身。
ドイツ統一前からプロイセンはすでに近代国家。
田沼とは条件が違いすぎて、比較するのはナンセンス。

771:日本@名無史さん
07/05/09 00:44:54
全くもってその通り。誰だよ、唐突にビスマルクを出してきたは

772:日本@名無史さん
07/05/09 00:55:31
>>769
どうも有難うございます。ちゃんと説明すると長くなりそうですが・・・。
田沼意次を矮小化はしていません。私が言っているのは「新御用金令」ですね。
しかも、時代の制約、立場の制約、環境の制約は認めても良いと思っています。言葉を変えて言えば、現代経済政策よりはハンディをつけるか、或いはレベルについては現代を比較対象としないかです。

その上で、何故>>757のような評価になるのかといえば、「説得力」の問題だと思います。
レベルに関係のない次元で、現代と比較してみましょう。
例えば、現代。政府の財源が必要で、何とかしたいと考えたとします。
その手法として「国債」を大量に発行するとします。しかし、これでは財政赤字が増えるだけです。
そこで、増税ではなく、「国債」を発行するが、それは償還なし、なんて言ったらどうなるでしょうか。
つまり、一方的に出せ、ということです。政府は債務を負わないのです。
おそらく、非難轟々でしょう。そしてその「非難」は、政府がカネを集めるという意味よりも、もっと違った意味の非難が強いはずです。
「それは、形を変えた『増税』だ。しかも税を増やすと言うのならまだしも、形だけ国債という形式を取るなんて、やり方が『セコイ』。」
こうなるはずです。増税なら、そういう話にはならず、増税そのものが、財政や国民生活のバランス上問題であるか否かという「本来」の次元の話になります。


773:日本@名無史さん
07/05/09 00:56:19
(つづき)
課税対象範囲を拡大し、また米穀依存ではない課税形式という方法と「方針」を明確に打ち出せたなら、田沼の政策は当時としては卓越して優れた発想となります。
しかし、「御用金」の延長で、幕府の債務逃れというような形だから、当時ですら「説得力」に欠けるのではと思うのです。
不思議なことに、武家政権というものは、すぐに債務を踏み倒すという性質を持っているようですね。
鎌倉幕府や室町幕府の徳政令もそうですし、また江戸期の薩摩や長州の財政改革も通じるところがあります。
すなわち、その発想の範囲内であれば、それは「武家政権の本質」から脱出できていない、という事です。
武家政権にそれが可能なのは、「武力」や「権力」、すなわち「力」の論理です。意次は意識していなかったかも知れないですが、本質的にそれを持ってしまっているのです。

債務逃れ、ではなく、「課税」という発想なら、これは現代にも通じるくらいの画期的な発想だったはずです。
しかし、それは無理でしょう。意次が悪い訳ではないのですが、それは、TAX payerから生ずる民主主義の本質的発想だからです。
田沼意次に、民の為のみに税を集め、民の為のみに政治をするという発想はないはずです。民の為を突き詰めると、「民の、民による」が絶対に出てくるからです。
門閥でなかったとしても、それは田沼自体の存在をも否定するものとなります。

なお、政治家か官僚か、ですが、官僚出身の政治家(現在でもいますが)でしょうね。そこは、訂正させてください。



774:日本@名無史さん
07/05/09 01:26:43
といいつつ、まだ拘っている部分を書いておきます。連投ごめんなさい。
官僚か、政治家か、というのが現代的な尺度でした。
「君臣」の「臣」にあたる、と訂正します。吉宗は「君」、田沼意次は「臣」です。

775:日本@名無史さん
07/05/09 01:49:04
>>773
まず意次は「党人政治家」とは言えても、「官僚政治家」とは言えないでしょう。
もっとも現代の党人派、官僚派の区別とは厳密には違いますが。
なぜなら彼の経歴は小姓から小納戸を経て側御用取次、側用人、老中というもので、
実務官僚(勘定組頭、勘定吟味役、勘定奉行、あるいは代官・郡代や遠国奉行でもいいですが)
の経歴の持ち主ではありません。
荻原重秀や神尾春央が老中になったのなら、そう言えるのかもしれませんが、
老中クラスは従来もその後も門閥で占められていましたから、小身の身でその殻を打ち破れるとしたら、
政策のプロではなく、やはり将軍の側近以外無理だったでしょう。
その伝でいけば、大久保長安あたりが官僚政治家と言えるのかもしれませんが。

まあ、長くなりましたが、これは本題ではありません。
まず貸金会所に集められる金は、御用金ではないと理解しています。
年利7朱で出資者に配当するものなのでは?
運上金・冥加金は一種の間接税なのでしょうが、これには株札という大きな反対給付がありました。
しかも貸金会所にしても南鐐二朱銀にしても、それ以前の政策との脈絡の中で案出されたもので、
結構体系的だと思いますよ。
税に対する意識にしても、年貢を直接税と見立てるのは制度上のことで、納税者の権利を前提とする現代の徴税とは、
徴収される側も使う側も全然異なりますから、現代と当時を平板的に比べるのは難があると思います。


776:日本@名無史さん
07/05/09 03:07:14
「新御用金令」についても田沼失脚の直前に第一歩を踏み出していたんですよ。大坂で。田沼が大坂に送り込んだ大坂城代阿部能登守正敏が大坂の商人から金を集め終えていた。
金を取られるのは誰しも望むところではなかったが、税額がすっきりしていてわかりいいというのは田沼の政治に一貫している。

777:日本@名無史さん
07/05/09 11:10:02
つまり、秘書が大臣になって、そのまま仕切っていたという訳だ。
まあ、そういう場合は、ろくな結果にはならないよ。

現代との比較で画期的だ、みたいな評価をしている人、
政策を陳列しているだけでなく、経済との関連で論証すべきではないか?
公定歩合とか出ていたけれど、同じ種類の政策であっても、現状と判断が逆なら、政策としてはダメダメだ。
それに田沼の政策には、「つもり」があっても「答え」がない。どちみち破綻したことだろう。
門閥が引き摺り下ろしたのは、当時のキャスティングがそうだったから。現代に田沼がいたら、現代の仕組の中で葬られたことだろう。


778:日本@名無史さん
07/05/09 23:09:38
田沼の政策って、では何の為にやったのか? を考えてみてください。
民の為に「のみ」ではないことは明らかです。民主主義ではないですから。
ないとは言いませんが。
その「目的」を求めたところで、その意義と、状況に対する実効性と、結果を考えてください。
そうすれば、田沼に対する客観的に近い評価が得られるのではないでしょうか?

・目的・意義(当時)
・状況(当時)に対する実効性(妥当性)
・結果
です。


779:日本@名無史さん
07/05/09 23:15:59
>>777
>同じ種類の政策であっても、現状と判断が逆なら、政策としてはダメダメだ。
私もそう思います。斬新な内容で妥当でない政策より、古い伝統的な手法でも妥当な政策の方が間違いなく良い政策ですから。
政策の斬新性=評価できる政策ではありません。長期的な展望に立つ斬新性なら、現代の政策手法が当時よりも優れているという前提で、現代との「連続性」があるか、というのが評価の基準です。
私は田沼の中に斬新さを認めても良いですが、連続性は希薄だという考えです。

織田信長の経済政策の方が、連続性をまだ感じます。それは「インフラ」という意味において。
聞きたいという人がいたら説明しますが、このスレ話題ではないので、一応留めておきますが。


780:日本@名無史さん
07/05/09 23:26:03
>>778その問題設定自体がおかしい

781:日本@名無史さん
07/05/09 23:45:25
>>780
では、自分で違う設定をしてみて考えてみればよいでしょう。
どんな分析が出来るのか、私は知りませんが。

782:日本@名無史さん
07/05/10 01:06:06
↑歴史、いい加減にしろ

783:日本@名無史さん
07/05/10 01:09:19
田沼意次が、現在に残したものってなんでしょうか?

ただ悲劇の人間ドラマの主人公なら、政策は何も残ってないと?
西洋から来たものが現代なら、田沼はたまたま似たようなことをやろうとしたかも知れないというだけ?


784:日本@名無史さん
07/05/10 01:40:09
>>782
意味不明。日本語は使えるか?

あのさ、実際は江戸幕府はペリーなどの外国船の来航で開国し、尊皇攘夷と薩長の台頭で滅んでいくわけだが、江戸幕府自体が継続したとして、どうしたかったんだろう。
江戸幕府の当事者にとって、むざむざ滅びるようなプランを構想するわけがないから。
吉宗から田沼意次、松平定信、徳川家斉とその周辺(含む:一橋治済)。そして水野忠邦。
忠邦はもう、幕末に片足突っ込んでいるから、それ以外で考えると、政策や謀略はいろいろあって全部違うが、やっぱり共通項は
「中央集権を目指した」
かな。
吉宗は家康路線への回帰を目指し、できるなら覇権を確立したかった。
そしたら、敵は残存外様大名などではなく、商人であり経済ということになった。
田沼意次は、それに傾注して経済的手法で幕府覇権を目論んだが、限界があった。
松平定信は、経済政策は引き継がざるを得なかったが、朱子学路線が吉宗、引いては家康路線だと信じた。
(家康の林羅山=朱子学路線は、結果であって、家康の主政策ではないと思うが、途中綱吉や新井白石が出たから結構マイナー色は払拭)
徳川家斉&周辺は、係累増殖政策が家康路線の延長で、やはり徳川絶対覇権を目論んだ。

江戸幕府は結局、すべてを支配しようとしてあの手この手でずっと続けて来たが、タイムアップでならなかった。
そして、中央集権路線は、朱子学の延長である尊皇攘夷思想にバトンタッチ。



785:日本@名無史さん
07/05/10 01:59:07
それと、結局残存外様大名雄藩と天皇に。

786:日本@名無史さん
07/05/10 02:58:10
そして内務省という中央集権のばけものを作りだし、その生き残りが片山虎之助である

787:日本@名無史さん
07/05/10 09:13:50
中央集権の結果は、天皇中心の明治維新で結実した。
その結果日本は、欧米列強の植民地支配を免れたのかもしれないが、逆に戦争、帝国主義の趨勢に加担。
挙句の果てにWWⅡで多大な国民・他国民の犠牲を出し、破滅した。

788:日本@名無史さん
07/05/10 10:40:24
しかし、このスレ3年以上も続いてるんだ。

789:日本@名無史さん
07/05/10 22:38:28
そろそろ田沼意次はネタ切れかも分からんね。

790:日本@名無史さん
07/05/10 23:15:53
>>777に経済との関連で論証せよと迫られた>>775の反論が聞きたい。
それと>>775の説が正しいなら、御用金と事実誤認して、自説を展開した経済通の>>773の反論もな。

791:日本@名無史さん
07/05/11 00:03:11
わざわざ現代との対比でする必要はあまりない

792:日本@名無史さん
07/05/11 00:45:20
>>775
「結構体系的」という評価が、困るんですね。
体系的なのは、朱子学だって体系的だし、江戸幕府の組織だって体系的。
体系的=画期的ではないのです。
>>790さんは、「御用金と事実誤認」と書いていますが、御用金は従来からあるもの。かつ幕府だけでなく、例えば尾張宗春とか大名でも商人に御用金を課しています。
「新御用金」でしょう。話になっているのは。実は何度も繰り返していますが、私は余りそこには興味がないし、刮目していないんですよ。
工夫をしているのを否定はしないけれど、だから何なの? なんです。
田沼意次の政策=すべて画期的と考える人は、では何の「どういう点が」画期的なのか? という展開がなく「何が」を延々と羅列しているだけなんですよ。
それは、単に歴史的な知識を披瀝しているに過ぎなくて、画期的であるという論証ではないのですよ。厳しい言い方になってしまってますし、また厳しい指摘が本意ではないのですが。
新御用金は、国債なのか、株式なのか、税なのか、の論議を措いたとしても、ではそういった政策が当時のいかなる経済状況に、如何なる効果を齎したものなのか、がまず肝心。

次に、それが「画期的」なのは何故なのか、です。自分がそう思うというだけではそれは主観ですからどう思っても結構です。
でもわざわざ書くということは、他に対してもそうではないかと提示している訳で、客観性が必要です。
「画期的」というのは、それがなされたことにより、それ以降のものごと(この場合はその後の政策、またはその後の歴史)の流れを変える契機となったことを示していなければなりません。

793:日本@名無史さん
07/05/11 00:46:02
もし「画期的と思っている訳ではない」のなら、そう意思表明して欲しいです。私は「画期的だと思われる方は、意見を書いてください。」と書いて、それにより前言を翻しての反論だと思ったものですから。

で、私自身は、田沼意次の「目的」が何かが問題だと思っていて、それはそれまでの政治を否定または変えようとしたものではなく、>>784さんも言う通りで「幕府権力の強化」に過ぎなかったという考えです。
そして、>>784さんの話と違う部分について言えば、結局幕府権力は強化されず、実は明治維新後の中央集権すらも挫折し、「政治(政治家)は経済(商人・ビジネス)に屈した」のが現代ではないかと考えています。
今の政治は、夜警国家的な部分以外では、経済調整を後追いで認めることしか出来ていません。
「良くも悪くも田沼意次・松平定信」レベルというのはそういう意味です。

結局勝利したのは、徳川でも田沼でも、薩長でも天皇でもなく、江戸時代以来の「商人」です。
田沼の重商主義政策は、幕府権力を強めるどころか、商人の勝利を助長するものだった、ということになるでしょう。
しかもそれがきっかけではなく、商人たちの力は、それ以前から既に台頭して来ていました。
すなわち「画期」ではなかったということです。


794:日本@名無史さん
07/05/11 00:54:42
ちょっと補遺ですが、私は今書いた内容は我ながら厳しすぎる見解だと思っています。
でも歴史を俯瞰して、その延長線上にある現代にまで帰ってくると、現代社会の問題点に帰結してしまいます。
田沼はそれに対して何をなしえたか、という点では、仮に門閥の排斥がなかったとしても、思い切り高いレベルで酷ですが、厳しい見解になってしまいました。


795:日本@名無史さん
07/05/11 02:03:47
以上が経営コンサルタントのかたの見解だから次は歴史専門家もちゃんと見解言明しろよ

796:日本@名無史さん
07/05/11 02:56:28
おやや。

俺は、この時期の黒幕であり実力者は一橋治済かと思っていたが、実は『あきんど』だったか。
みーんなあきんどにしてやられたのね。

三○とか○友とか、今だに健在。戦争とかがあって、負けて財閥が解体されてもビクともしない。
ゴキブリ的生命力とは、実はあきんどのことかも知れない。


797:日本@名無史さん
07/05/11 12:52:55
政治だけでなく、学問も経済に屈したのか?

朱子学だけでなく、現代史学も。

798:日本@名無史さん
07/05/11 13:53:33
高度成長期も現在も、財界が「カネ作る道具になるガッコと兵隊
作らせんかいわりゃあ」と政府を脅して、大学にしろ義務教育に
しろ「改革」され続けてるもんなあ。

しかもそれでかえって国際競争力を落として、実際に世界に通用
しているのは、そういう財界の要請と全然縁のない世界で好き勝手に
育ったジャンルの人材ばかりという現実。ダメだねこりゃ。

799:日本@名無史さん
07/05/12 15:03:43
お、おまいら、そう簡単に迎合すんな!

800:日本@名無史さん
07/05/12 15:57:58
商品経済の進展が幕藩体制と相容れない、これは田沼時代でも同じこと。
徳川体制の基本は米を中心とする経済、幕府を宗主国とする(擬似的な)連邦国家、
この理念は田沼政権下でも放棄されてはいないだろう。

その理念の下に、商品経済の進展を前にして、それをコントロールして幕藩体制を守る、
この点も定信他の政権と共通している。

まあ理念にこだわるか清濁併せ呑む道を選ぶか、抑圧のための統制か共存のための統制か、
そこが違いといえば違い、という程度だわな。

801:日本@名無史さん
07/05/12 19:53:17
学問?
そんなものは、就職する為の予備課程だろうが。
どうやって生きていくかがまず肝心。

政治?
それはみんなが生きていくための調整役だよ、もとから。
政治家の自分たちの為の政治なんて、理念だろうが経済だろうが軍事だろうがみんな間違い。
てめぇたちの為に調整している奴なんて、迷惑なだけの話だ。

802:日本@名無史さん
07/05/13 00:05:26
私が「前言を翻した」のは意次の評価ではなく、あなたへの「同意」の部分です。
あなた自身の田沼評が変っていくので、当然でしょう。
画期性についてですが、視座の違いが根本的にありますね。
現代の高見から裁断するような見方を私は取りません。
「時代的拘束性」という政治史にせよ経済史にせよ、
その時代人には突き破れない限界を常に念頭に置くべきです。
それは理屈ではわかっているとレスから察しますが、評価を下す段になると途端に忘れてしまっている、
そんな感じを受けます。
なお、私は「体系的=画期的」などとは一言も言っていません。
>>760の「御用金の解釈も、そんなに分析性をもって考えるだけの体系はなかっただろ」
という指摘に疑問を呈したまでです。
前置きが長くなりましたが、本題に入ります。



803:日本@名無史さん
07/05/13 00:12:33
まず「新御用金」などと紛らわしい言葉で語られる「貸金会所」の原資について。
あなたは、>>752で返済を伴わない課税だする事実誤認からはじまって、>>760>>772>>773へと持論を展開していくわけですが、
いくら経済との関連で語ろうが、後世への影響の有無を語ろうが、前提となる事実を見誤っていては虚構の論、何の意味もないでしょう。
そしてあなたが田沼の経済政策について具体的に語っているのは、実はこの前提の間違った御用金、新御用金の部分だけなのです。
>>778式に語るなら、
貸金会所の目的は、年貢米に依存しすぎて窮乏化した武士を救済することし、そのための原資を富農、商人、寺社の遊金、余剰資金に求めて、
資本の流動化をはかることにあったと考えますが、薩摩藩の調所広郷など重商主義の藩政改革の多くが、強権発動による「踏み倒し」を常套手段とする中で、
公的機関の金融支援という形を取ることで借り手に圧力をかけ、返済不能に陥れば、徴収すべき年貢を充当させるという貸し倒れ予防策をしっかり講じている。
この場合「踏み倒される」のは幕府なのです。
(余談ながら、幕府の御用金そのものが、他ならぬ宝暦年間、つまり意次が政権中枢に入ってからはじまったものなんですけどね)
実際この「貸金会所」は挫折というより「阻止」されてしまったわけですが、運用されればその先に経営能力のない藩の淘汰に行き着くわけで、
その決意が意次にあったことは、郡上一揆での金森頼錦改易と老中、若年寄ら幕閣さえ処分した経緯からも確かでしょう。

歴史的意義は、徴税ではなく出資(当然配当もあれば還付もある)を募って原資とし、公的金融機関の体裁を取って大名に貸し付ける。
その発想はこれまでにない展開を持ち、返済できなかった場合を想定すれば、封建制の土台を揺るがす因子を孕んだものと言えるぐらい、
踏み込んだものなのです。


804:日本@名無史さん
07/05/13 00:16:28
次に、南鐐二朱銀の発行は、「金貨本位制」の確立に向けた、わが国貨幣金融史上きわめて重要なイノベーションだと思います。
これを契機に銀貨の金貨に対する補助貨幣化が本格化し、その後幕末までに7種類の係数銀貨が発行されました。
また、係数銀貨の鋳造に際しては大量の丁銀が鋳潰されたため、1830年代になると銀貨の約9割を係数銀貨が占めるようになりました。
南鐐二朱銀は貨幣供給を経済実勢に見合った水準に増やし、しかも米価その他の物価の水準に応じて、秤量、係数銀貨の割合を加減する事で、
金貨も含めた大がかりな貨幣改鋳によらずして、微調整の可能な政策手段を与えるものです。
それ以前は貨幣改鋳に頼るほかなかったことに比べれば、画期的に異なります。
ちなみに南鐐二朱銀が発行されなかった場合、1736-1818年の期間の金銀貨在高の増加率は急減しただろうとの試算があるぐらいです。
この南鐐二朱銀はいったん定信によって潰されましたが、彼の失脚後鋳造が再開されました。

この政策の歴史的意義は、江戸と大坂の金圏・銀圏の分立が商品流通の阻害要因になっていることからこれを解決しようとしたものですが、
金銀交換レートの安定を図るという点で、今の為替政策にも通じるうえ、明治4年の新貨条例制定への底流となる、先進性の高い通貨政策だ
と言えると思います。


805:日本@名無史さん
07/05/13 00:22:25
さらに意次といえば倹約政策とは無縁と思われがちですが、
今で言うゼロシーリングを採用し、行政機関ごとにあらかじめ支出額を策定しておく予算制度を初めて導入したのは彼です。
つまり民需は活性化するが、官の肥大化は抑えようとしたのです。
それは彼の権勢のバックボーンとなった将軍・大奥にまで及び、小納戸予算の大幅削減を果たしています。

その歴史的意義は、幕府が江戸開府以来、予算を組むことがなかった、というより1873年の「見込会計表」、1881年の「会計法」によって、
ようやくわが国で予算制度が確立した経緯を考えると、そのすぐれた先見性が見えてくるはずです。


806:日本@名無史さん
07/05/13 00:33:02
まあ、いろいろ長く書きましたが、連休明けはロムるのが精一杯で、
週末の長い書き込みとなってしまったわけですが、
意次の政治を語る場合、ほかにも蝦夷地開発や印旛沼開拓、その貿易政策(経常収支改善)にも
触れなくてはいけないでしょう。
つまり、田沼政治の一面だけを切り取って、現代の土俵に持ち込み、一般論もからめてあれこれ言っても
あまり実証的ではないだろう、ってことです。

807:コンサルタント
07/05/13 00:56:24
いまから特捜最前線みるので26時からにしてください…

808:日本@名無史さん
07/05/13 05:21:54
>>803
あなたの「誤認」について触れておきます。
「新御用金令」とは、別に私が命名した訳ではありません。
それに、何度も繰り返しますが「事実誤認」とか言っている「返済を求めない課税」の件ですが、私はそのような論議は措く、と言っているのです。
そしてそれには興味がない、関心がない、すなわち歴史的な意義は余り感じない、と言っているのです。
何度言えば分かるのでしょうか。
それを前提にしていないのに、「前提となる事実を見誤っていては虚構の論」と言っているのでは、最初からすれ違いです。

いいんですよ、そんな内容は。もう私を始め、何人かは結論を出しています。
優れた先見性は、引き継がれなかった訳ですから、先見ではなかったという結果です。

それに、何度も、かつ何人も言っているのですが、「経済の実情」「目的に対する合理性・合致の如何」に対して、あなたは何の提示も出来ていません。
実証といって、またもや列挙に終始しています。

政策というものは、当時でも何でも、実情に即しているかが問題であり、いかに体系的であっても、細かい内容であっても、実情に合わなければ妥当な政策ではないのです。
おおざっぱな政策でも、実情に即していれば妥当な政策です。


809:日本@名無史さん
07/05/13 05:22:57
私はそのような細かい話よりももっと重要な部分の話をしています。
それは、田沼は「何の為にそれをしようとしたのか」です。
「田沼政治の一面だけを切り取って」をやっているのは、あなたの方なんですよ。

田沼意次の「目的」は幕府権力の強化、です。そしてそれは、うまく行きませんでした。
それに対する反論ではないようなので、ここではもう敷衍はしません。

あなたが、田沼の政策の細部までよく知っているのは分かります。しかし、理解していないようですね。
歴史の大局、という視点においてです。

田沼意次を考える際の最も大きな「誤解」は、細かい経済「的」政策に着目し、それがあたかも現代の経済政策の嚆矢になったような理解をしてしまうことです。

実際は、それは「断絶」し、現代の経済政策は、改めて西洋の影響を受けたものだからです。
一方、江戸時代以来の「商人」の方は、断絶はほとんどなく、西洋の資本主義を取り入れながら、従来の商人の経営手法は連綿と受け継がれてきています。
これが、今日「日本的経営」といわれているものです。
「先見性」というのは、今に至るまで続いているかが問題であり、かつそれが当時妥当であったかと併せて論じるべきで、当時駆逐され、かつ後世とリンクしていなければ、それは「先見」ではない、ということになってしまうのです。
ずっと見ていると、細部ばかりを見ていて、歴史を連続してみていないことから来る誤解をしているようですね。
木を見て森を観ず、を地で行ってしまっているような。

もうかみ合っていないようなので、論議はここまでにしましょう。
「画期的だと思う人の意見」は他にないでしょうか?


810:日本@名無史さん
07/05/13 06:09:37
最後の2行はちょっと酷、でした。申し訳ありません。
あなたの論議を封じてしまう誤解を与えますね。そうではないのです。
ただ、田沼の細部を引き合いに出しても、先見性とは無関係であることを理解してください。

ずっと前に、こんなことを書きました。
「田沼意次の卓越した見識がもっと通れば、江戸時代後半の様相はかなり変わったかも知れません」
と。>>480
私は、田沼意次の政策から「卓越した見識」があったと認めてはいるのです。

それと、吉宗の政策は、田沼意次にも、松平定信にも受け継がれた、これも認めました。
これは吉宗に、多少の先見性があった(現代にまでは至りませんが)ことも認めています。

このことから、田沼意次が「先見性」を「持ち得る」ための条件を考えてください。
そうすれば分かるはずです。

それは、田沼意次は、決して潰されてはならなかった、ということです。
>田沼意次の卓越した見識がもっと通れば、江戸時代後半の様相はかなり変わったかも知れません
これは「仮定」であって、実際は見識は通らなかったのです。
それには、いろいろな要因があります。私一人が言ってしまうと面白くないので、考えるなら、それを考えてみてはどうでしょう。

どうすれば見識は通ったのか(どうだから通らなかったのか)。
どうすれば潰されなかったのか(どうだから潰されたのか)。


811:日本@名無史さん
07/05/13 09:43:38
>>808
かなりの暴論ですね。
議論は置くって!?「新御用金?」について滔々と語っていたのはあなた自身ですよ。
間違えを指摘された途端、「興味はない、関心がない。意義を認めない」って。
あのね、田沼政治を語るなら、その政策の一つ一つを「実証的に」検討してから、
評価を導き出し、そのうえで、通史的な大局的見地からの位置づけをすべきでしょう。
これはどんなテーマに取り組む場合でも、あるべきアプローチの仕方です。
意次や彼の政策を良く知らない、知らないから総論を語る―
表現はキツイですが、そんな印象を拭いきれません。


812:日本@名無史さん
07/05/13 09:44:37
>>809
また意次は市井の革命家ではありませんから、「幕権の強化」をめざすのは当然でしょう。
要は、そうした時代的、身分的な制約の中で、その政策に先見性、妥当性があったか?ということで、
この点は、あなたも力説している部分なのですが、次期政権に潰されたから先見性がなかったなんて立論、私は初めて聞きました。
ポスト田沼を政敵が担ったために、そしてその先見性、革新性ゆえに潰されただけです。
守旧派の政治家には彼の見識が理解できなかったと言うべきで、その見識は脈々と近代まで生き続けたと思います。
実際、定信後、忠邦以後に、時代の要請によって復活せられた政策はいくつもありますし、
通史的に見た場合、彼の政策は明治以降の政策に通底するものがあることは、すでにいくつか実例を挙げました。
「先見性」とは先を見通す力であって、その時代に実現できなかったからといって、否定されるものではありません。


813:日本@名無史さん
07/05/13 09:46:07
>>810
最期に>>480があなたとは知りませんでした。
「妄想」をめぐって荒れた時の、あなたの意見には感心しきりでした。
また、>>810に少し痕跡を残すあなたの当初のバランスの取れた見解には共鳴する部分が
多くありました。
反応がイマイチで、挑発のため自説を先鋭化させるフリをしたのか?本性を現わしたのか?(笑
疑ったものでした。
視座が違うので、どこまで行っても議論が噛み合わないというのが率直なところ。
彼が「潰された」原因は、政策の失敗より政治的(政略的)な要因による面が強いと言うのが
私の持論なので、そうした話題になったら、またレスしましょう。


814:日本@名無史さん
07/05/13 14:17:18
と、コンサルタントがほざいておられる

815:日本@名無史さん
07/05/13 14:22:10
商人が断絶してない?そりゃあ、利潤追求って意味ではなw
だがその姿はずいぶん変ったさ。
だいたい商人どころか資本家だって、今じゃ少数派だ。


816:日本@名無史さん
07/05/13 15:18:57
でも世の中を実質支配してるぜ。数の問題じゃないだろw

いつになったら、江戸商人→財閥→各種業界最大手、は滅亡するのかな。

817:日本@名無史さん
07/05/13 15:46:45
根猿短人?

818:日本@名無史さん
07/05/13 15:57:35
文字通りの資本家なんて、中小企業のオーナーぐらい。
経済界をリードしているのはサラリーマン社長。
三菱は武家出身だし、三井、住友、鴻池、古河みんな江戸商人じゃない。
財閥?そんなもん今ではタガゆるみっぱなし。
トヨタの住友から三井への乗り換え、三井住友銀行の誕生がいい例だろ。
業界最大手?勢力地図はずいぶん塗り替わってるぜ。
商人が政治を・・・中世の都市国家がせいぜい。

819:日本@名無史さん
07/05/13 18:19:27
>>818
こいつ真性のヴァカみたいだ。
武家でも商家でも、血縁の世襲だけだと思ってやがる。バロスw
それに身分はずっと固定だと思ってやがる。ワロスw
武家が商売始めたら、商人なんだよ。それが、本人の意思なら、なおのこと、武家より商いの方が良いと選択した事になる。

歴史ヲタって、事例を挙げたらそれがすべての真実みたいに思い込んで、内容をキチンと検証しない奴、多いね。
そういうスタティックな脳細胞は、もっと働かせてダイナミックにしろよw
勢力地図を塗り替えても、商人が天下を動かしている状況には変わりがない。

門閥を迎えて、田沼が経済を動かそうとしても、所詮は武家政治だったように。
田沼が江戸幕府を動かすのも、サラリーマン社長と同じだろうがw。





820:日本@名無史さん
07/05/13 18:39:29
すぐに現代と比較したがる奴が出てきたせいで急につまらなくなってきた。これも例のコンサルタントで有らうか?

821:日本@名無史さん
07/05/13 19:51:14
商人が天下を動かしてるってさ。
こいつ真性のばバカじゃない。
おまえみたいな単細胞、もう一度中学レベルから学びなおした方がいいぞ。


822:日本@名無史さん
07/05/13 19:55:25
田沼ヲカタレ。経済ヲタサレ。

823:日本@名無史さん
07/05/13 20:41:02
田沼でも田沼と経済でも、田沼と現代でも良いが、それ以外のことのみを語るな。
多分、田沼の個々の業績や田沼マンセーのみが面白いと思うのは、田沼ヲタ、歴史ヲタだけであろう。
田沼意次に関して、いろいろな内容に関心を持てるのは、プロでも素人でもここに書いて良い。
それ以外はスレ違い。


824:日本@名無史さん
07/05/13 20:42:37
>>820
別におまえのご機嫌を取るために書いている人ばかりじゃない。
ダダをこねるなw


825:日本@名無史さん
07/05/13 20:49:38
>>823
なに偉そうに仕切ってんだ、こいつ。


826:日本@名無史さん
07/05/13 21:12:23
Mr.コンサルタント只今発狂中!!!

【注意】近づいたり、エサを与えないで下さい。
    だれかれなしに咬みつきます。

827:日本@名無史さん
07/05/13 21:33:57
>>824 何偉そうに仕切ってんだこいつw

828:日本@名無史さん
07/05/13 22:09:23
これはもう終わりかも分からんね

829:日本@名無史さん
07/05/13 22:26:31
田沼意次なんて、元々そんなにネタがない。
よくここまで伸びたな。ある意味驚異だね。
それもこれも、結構斬新な考えが出てきたからかもしれない。

田沼意次って、政治理念的に最低とか、経済政策の評価が実は高いとか
いろいろ虚実が多い歴史上の人物だったけれど、経済とか現代とか、
もっと歴史を大きく考えた意見が出たことで、割と実像や歴史上の意味
が明確になってきたような気がする。
田沼意次の評価について書いたものは、賛否両方、歴史学者が書いたも
のを読んだし、小説は山本周五郎の「栄花物語」を昔読んだけれど、
このスレの、しかも後半の内容が一番興味深かった。
経済通VS歴史専門家みたいな意見交換も迫真だったけれど、実は一番
気に入ったのは、どちらでもなく(ご両人、ごめんなさい)、>>784
何か江戸時代や江戸幕府の本質に迫ったものじゃないかな。
それもこれも経済通VS歴史専門家みたいな意見交換があって、導かれ
るように出てきたような気がする。
いろんな角度から意見が出たし、歴史専門家ってそういう場合最初から
相手にしない、みたいな感じで対話がなかったけれど今回は違ったし。
意見を戦わせるスレとして、久々に良スレだったんじゃない?
幕間の罵倒や誹謗中傷は、どのスレにもいるんで、相変わらずだった
けれど。

830:日本@名無史さん
07/05/13 23:23:32
>>825
>>827
何情けなく仕切られてるんだおまえらw

831:日本@名無史さん
07/05/13 23:44:54
しかし、IE6だと人大杉ばっかだね?
IE7だと何でもないのに。

832:日本@名無史さん
07/05/14 01:05:10
>>821
おまえ、意見としてはカラッポじゃないか。
人に何かいう場合、まずは意見を書け。脳もカラッポなんだろw

833:日本@名無史さん
07/05/14 03:04:58
>>830 お前にそんなことを言われる覚えは無い。自分の主義に誇りを持てなくて如何する?脅される謂われは無い。お前に脅されて踊るバカではない?

834:日本@名無史さん
07/05/14 09:27:10
↑最後が「?」なのが、ワロスwww

835:日本@名無史さん
07/05/14 10:42:16
>>812
>次期政権に潰されたから先見性がなかったなんて立論、私は初めて聞きました。
良いこと教えてもらったじゃないかw 誰でも最初はあるもんだよ。
世間じゃ、常識だよ。潰されたら、先見性はなし。

836:日本@名無史さん
07/05/14 14:11:54
まあ潰されたらそれまでだろうね。
「歴史に『もし』があるか?」を認めるかどうかとも、関係あると思う。
潰されたからダメだったけれど、潰されていなかったら・・・? という話は、歴史の『もし』を肯定しているんだね。
歴史の専門家は、よく『もし』をトンデモだと否定するのが大勢だと思うけれど。
ここでは逆になっていないかな?
実際は、田沼意次の政治は潰された。そして門閥も滅びた。
石田三成とか、田沼意次とか、時々見直しの対象となって『もし』を考えられるけれど、
ひょっとしたら、歴史研究者のネタとしてのみ、意味を持ってしまったりしていないかな?
結論を先延ばしにした方が、飯の種もずっと残るってこと。


837:日本@名無史さん
07/05/14 14:37:07
このスレの役割も終わったようだな

838:日本@名無史さん
07/05/14 21:22:51
ホントにこの人、コンサルタント業やってンのかね?
やってねえだろうなあ。
ずっと朝から晩まで、ネットに貼りついてのたわ言。
文体変えての罵詈雑言。



839:日本@名無史さん
07/05/14 21:56:18
>>838
あんたまで自演に走るとはね・・・

840:日本@名無史さん
07/05/14 22:04:52
>>839 好い気に成るなよ!

841:日本@名無史さん
07/05/14 23:26:17
田沼意次が潰されたから評価されているのかな?
潰されずに経済政策を行使して失敗したら、ここまで評価されていないのかもしれない。
自分はコンサルタントなんかやっていません。
ただし、歴史に詳しい人が、余りに仮定が多いような気がしました。
コンサルタントの人の方が、現実を語っているのではないかと。

842:日本@名無史さん
07/05/15 00:09:47
>>829
私の意見は、結構オーソドックスなのであまり面白くないと思います。
もし興味を持って頂けたとしたら、あなたの指摘どおり経済通氏のお陰でしょう。
彼の反論によって目立っただけです。

>>784のご意見、再読しました。
この方も経済通氏もマクロ的に歴史を見ようとしている・・・肝心なことです。
ただ、一つ一つの丹念な検証は必要でしょう。

「中央集権」・・・この概念は近代統一国家の概念です。
封建制とは両立しないと思います。
誰かも以前語っていて、「まったく同感」と思ったのですが、徳川氏が「幕府」を開くという
選択をした時点で、近代国家の「中央集権」への道を自ら閉ざした(対比として信長を念頭において言っているのですが)
と、私は見ます。
「幕権の強化」と「中央集権化」とはまったく別物です。
そして市民革命を経ずして促成栽培で近代国家になった国特有の現象として、明治以降日本は
極端な中央集権国家になり、その残滓はいまだに色濃く残っています。

意次は?と云えば、彼は「士貌商魂」の感じを受け、よく使われる対比で言えば
「資本の論理」と「武士の論理」のうち、幕府の政治家でありながら「資本の論理」を
ウエイトを置いた人だったのでしょう。
中央集権化は商人の求めるところでないことは、今も昔も変りませんが、「ゆるやかな連合」
とそれをまとめる政府、ちょうど藩と幕府のような関係の秩序は欲します。
意次はその要請に応えつつ、幕府の行財政力の回復に努めたと思います。


843:日本@名無史さん
07/05/15 00:25:09
>>835>>836
自然科学の分野に目を移せば明白ですが、
その時代に迎えられず、否定されても、のちに真理と実証された例は
いくつもあります。
政治や経済も同様、むしろ先見性とは「当時は否定されたが」という
前置きが付くとき、いっそう輝くものでしょう。
定信は今でいうステータスポリティックスの政治家。
ステータスポリティックスには常にスケープゴートが必要とされます。
意次はその意味で潰された側面が強いでしょう。
しかし、定信自身失脚して白河藩に戻ったとき、彼の藩政は意次に倣うものでした。
そして、繰り返しになりますが、意次の政策は結果として、明治以降の財政政策や通貨政策に
嚆矢となったのです。


844:日本@名無史さん
07/05/15 00:31:14
田沼意次が失脚しなかったら……カステラみたいにピロシキも日本料理になっていただろう

845:日本@名無史さん
07/05/15 00:39:44
それは違うな。別に俺はコンサルタントの味方ではないが。
田沼意次の経済政策と、明治以降の近代化に伴う財政政策や通貨政策には
何の関係もない。
それらは、改めて西洋の影響を受けたもの。残念だとは思うが。
日本の商人の動きが、後の日本的経営へと流れたとするならば、田沼意次の
政策が結実していたならば、日本的経済政策が独自の発展を遂げた可能性が
ある。
それなら嚆矢といえるだろう。ただし、それも所詮は可能性。
ちなみに、面白いと思ったのは、「士貌商魂」という表現。
誰かが荒れる中でも言っていたが、日本の江戸時代の商人は、元を正せば武士
だったものが多い。いうなら「商貌士魂」だろう。
士農工商は所詮は朱子学の概念であり、また兵農分離は統一や海外進出の都合で
考えられたものだから、その路線通りにいかない反主流はいくらもいる。
むしろ、江戸期の商人の中にある武士的精神にも注目するのも観点のひとつ。
ある意味、江戸期の幕府の経済政策と商人の戦いは、形を変えた武士のいくさで
はなかったか。

846:日本@名無史さん
07/05/15 00:42:22
ついでに>>844に便乗させてもらえば、
「開国」・・・この大きな展開も意次の外交貿易政策に
その胎動を感じます。
まあ、これは徳富蘇峰が最初に指摘したことですけど。

847:日本@名無史さん
07/05/15 00:56:02
>>845
おそらく明治4年に「新貨条例」が、明治14年「会計法」が制定された時、
誰も意次が「金貨本位制」や予算制度の確立をめざしたことは知らなかったかもしれません。
私は彼の政策を近代国家の成立を前提として成り立つ政策と「直線的に」
結びつけるのは革新的に見過ぎると、以前自分で語りましたが、
その根っ子には、あなたと同じ考えがあるのですよ。
私が言いたいのは、似たような理念をその当時持ち得た・・・そこに先見性を認めるのです。



848:永島竜二 ◆Hfzjqzckbc
07/05/15 03:06:26
関係ないことに話を広げるな!

849:日本@名無史さん
07/05/15 07:01:27
ここまで田沼マンセーされると、もう鼻につくよ

850:日本@名無史さん
07/05/15 07:39:31
>>842
>「中央集権」・・・この概念は近代統一国家の概念です。
これも、違う。
律令制も基本的には「中央集権」。江戸幕府は、幕府だから中央集権ではない
というのではなく、「幕藩体制」になってしまったから、そうでない形態になった。
あんたは織田信長=中央集権を肯定するなら、はからずも近代統一国家概念で
はないと書いているようなものだが、織田信長=近代なのか?

ただし、江戸幕府は前半は織田信長的な観点から、その後は朱子学を幕府の
統治理念にしたことにより、「中央集権」指向が強まったことになったと思われる。
寛文期になるまで(或いは慶安事件以前)は、徳川の方針は、大名改易路線。
これが進めば、すべての外様大名が改易されたところで、幕府による中央集
権が完成する。
綱吉が将軍になった当初(天和期)も、この路線がある意味(というのは外
様ではないから純粋な当初の路線ではない)復活するが、次第に朱子学による
覇権概念に修正されていく。
朱子学路線で行くと、徳川将軍≒中国皇帝となる為、おのずと中央集権を目指
すことになる。ただ、基本的にもう戦争は出来ない。だが吉宗のような考え方
が現実に進めば、軍事力による覇権を目指すことは十分可能だった。
清朝の第六代皇帝乾隆帝の例もあり、天下泰平下での覇権を指向する可能性は
なくもない(ちなみに乾隆帝の治世は少しだが吉宗在位時期と重なる位同時期
で、乾隆帝が後だからこれを参考にはしていないだろうが)。
それ以降、吉宗後半から田沼意次は、武断でもない文治でもない経済で苦闘す
ることになる。それは新たな敵(商人)に対する為で、外様大名どころではな
くなった。


851:日本@名無史さん
07/05/15 21:38:14
外様幕閣
京極備中守高久(若年寄。丹後峰山・一万五千石)
脇坂淡路守安董(奏者番・寺社奉行。播磨龍野・五万一千石)

852:日本@名無史さん
07/05/15 22:44:11
>>845>>850
たいへん示唆に富んだレスですね。
「寛文期になるまで(或いは慶安事件以前)」という幕府の大名政策の区切り方も、
よく観察されていると思います。
であるからなおさら、誤解は避けたいので付け加えますと、

私は「中央集権」が近代統一国家の概念だと疑いませんが、
その概念を使って歴史を顧みたとき、律令制は本来公地公民制を前提としていましたから、
めざした形が「中央集権的」だったとは言えます。その点に異論はありません。
ただ封建制は中央集権とは両立しません。
幕藩体制は、むしろ従来の封建制に比べれば幕府権力の強化が特徴的です。
それでも中央集権化とは制度的に自己矛盾があって、「国家」を(そして中央集権を)強く意識すれば
するほど、反徳川や尊王でなくても、「倒幕」を志向せざるを得なかったと考えます。

「信長=近代」という見方はしていません。彼は幕府=封建制を突き破る体制を考えていた可能性があります。
その程度の意味です。
傍証はあっても確定する材料を知らないので、そんな大胆な仮説も持ちあわせていません。


853:日本@名無史さん
07/05/15 22:45:23
朱子学路線を進めても、「徳川将軍≒中国皇帝」とはならないでしょう。
朱子学はよく言われるように尊王敬幕を説いていました。
これは、政治の二重構造の容認を前提とする「幕府」という政体選択をした限界に由来するものでしょう。
案の定、やがて両者のバランスが崩れ、闇斎のように尊王賎覇と華夷内外の思想部分が突出して、
幕府にとっては結果的に両刃の剣になってしまいました。

話題が「田沼意次」からだいぶ逸れてしまいましたが、
私は「商人」が勝った「武士」が負けたではなく、商人でも武士でも「資本の論理」と「武士の論理」を融合できた者・・・
それが結果的に勝者になれたと考えます。
石田梅岩の思想やあなたのいう「商貌士魂」もキーワードになると思いますが、
そうしたものを受け容れるかどうか?
本商人(ほんあきんど)と彼らの云う袖長商人との対立、その後主流となった本商人と在郷商人との18C後半からの相克・・・
利害の対立だけでない思想の相違もあって、「商人」となかなか一言に概括できないでしょう。
商人の間でも、意次と定信に似た対立があったのです。
その意味で、意次は「資本の論理」に目覚めながら、その時代の拘束性からは抜けきれず、
限界にぶちあたったと見ています。


854:日本@名無史さん
07/05/16 01:57:59
>>853
あの、朱子学路線を進めても、「徳川将軍≒中国皇帝」となるのか、どうかだが。
それは、ここで俺とあなたが争う以前に、既に当時、江戸時代に論争がある。
山崎闇斎を引き合いに出してくれたから、おそらくご存知のはずだが、その弟子
の佐藤直方と浅見絅斎だ。
つまり、ここでそのテの論争しても、直方と絅斎との論争の繰り返しになるはず。
かつ俺はその一方を擁護したり否定したりしようとするのではない。
ごくごく簡単に言えば、直方は「徳川将軍=王者」という発想。対して絅斎は
「徳川将軍=覇者、王者=天皇」という発想。
尤も直方は後に立場が揺らぐ。「徳川将軍=王者」という発想は、新井白石の方
がより鮮明だ。
しかし、こういった論争の是非や真偽を検証しているのではない、というのが俺
の考え。
純粋な学問上の概念でいえば、実はどちらも間違い。本来の朱子学は、「王者=皇帝」
で、これは朱子学(新儒教)以前の儒教、特に孟子の頃からある発想だ。更に
ややこしくなるが、厳密にいえば皇帝すら、王朝を開いた頃は「覇者」、文治主義に
なって「王者」となっていく、というのがより正しいだろう。
いってみれば、朱子学上の「尊王」の対象の「王者」とは、実は曖昧なもの、相対的
なものともいえる。




855:日本@名無史さん
07/05/16 02:00:21
では、江戸時代における徳川将軍はどうなのか? 天皇は別にいる。しかし
江戸幕府が儒教、そして朱子学を統治理念として採用した経緯は、決して
皇室を尊ぶのが目的ではなかった。「忠孝」の概念の「忠」の対象は徳川
将軍である。これは、正しいのかどうかが重要なのではなく、当時の幕府は
そう考えていた、ということなんだ。
その論法で行けば、徳川将軍≒王者=中国皇帝となる。繰り返すが、これが
概念として妥当かではない。そのように位置づけて江戸幕府は朱子学の普及
・浸透を図ったということだ。
しかし、当然研究が進めば、その辺りで疑問が出てくる。それが直方と絅斎
との論争などに現れてくる。しかし、朱子学の本場中国には、征夷大将軍を
頂点とする「幕府」なるものがそもそも存在しない為、突き詰めれば突き詰
めるほど、つまり理論を語れば語るほど、そうじゃないのではないか、とい
う話になってしまうんだ。これは「歴史上の経緯」の話。

長くなったがそういう意味だ。そして結局それが幕末の尊王思想になっていく。
幕府にとっては朱子学を推奨したのが完全に裏目。そしてより過激な「水戸学」
が尊王思想を過激なものにしていく。

田沼に死命を制したのが門閥とその統治論の朱子学だから、田沼が出てこないが
この話は重要。



856:日本@名無史さん
07/05/16 02:15:56
そして結論。
「幕府」という政体選択をしたにも関わらず、幕府は統治手法として「朱子学」
を採用し、徳川将軍≒皇帝=王者に位置づけることで、統治しようとした。
この発想を「信じる」限り、江戸幕府はそれによる覇権を指向することになる。
幕府が開かれても、当然実態としては覇権になっていない。>>760の書いた通り。

しかし、幕府は覇権を目指した。いろいろ手法は異なるが田沼意次の政治目的
もその範囲内のものだった。しかし朱子学は結果的に尊王思想を育んでしまい、
それが衰退に拍車をかけ、最後は大政奉還となって滅亡した。
そういう流れだろうな。

商人の類型については、別途考察しよう。


857:日本@名無史さん
07/05/17 01:47:50
次に、
>「商人」が勝った「武士」が負けたではなく、商人でも武士でも「資本の論理」と「武士の論理」
>を融合できた者・・・ それが結果的に勝者になれたと考えます。

これはその通りだ。まったく異存はない。そして、それで行けば、幕府権力側にいた方の負けなのは
明らか。従って田沼は「敗者」であることも明らかなんだ。
政治に関わったから、ではない。例えば幕末の「亀山社中」のような考えで行けば、商売と交易、そ
して資本の論理と政治は容易に結びつくし、坂本龍馬は明らかに政治に首を突っ込んできている。
それが土佐藩公認となって海援隊となる。龍馬は薩長や幕府に首を突っ込みすぎて殺されたが、海援隊
の中から後の三菱を立ち上げる岩崎弥太郎が出ているから、このことは龍馬に先見性があったと見て良
いだろう。何故なら、当初の発想は、しっかり後に継承されたからだ。彼らはかつて経済政策や海外交
易まで念頭に置いた(かも知れないとされる)田沼意次の精神を念頭には置いていない。
従って田沼は「結果的に」先見性は持っていなかったことになる。

先見性というのは、後の評価だ。当時では絶対に評価できない。「先見性の可能性」までだ。
後に先見性があったと評価される為には、後の世が、一旦断絶したとしてもその精神を受け継ぎ、
その主旨を理解してそれを実現したかで決まる。
後の世は、経済中心となり、一見似たようなものになったが、実は田沼の精神を受け継いで近代
日本の経済に寄与しようとした人間はいない。別の動機、別の影響によるもの。

何が違うかは、もう明らかで、田沼意次の「動機」が幕府権力や幕府財政の建て直しだったから、
ということに尽きる。手法が同じか、似たようなものでも、動機は実は松平定信や、極論すれば
井伊直弼とも大差ない。明治以降に引き継がれなかったのは当然。
幕府側の人間だから、ではない。例えば岩崎の好敵手、渋沢栄一などを考えれば、それは明らか
だろう。
多分、コンサルタント氏が出てきても、似たようなことを書くのではないだろうか。
株を完全に奪ってしまったがなw



858:日本@名無史さん
07/05/17 10:04:07
>>851
外様に対する「譜代」の概念だけど、江戸幕府はかなり拡大解釈をしているね。
本来、譜代とは、父祖代々その主君に仕えている者。
ところが、豊臣秀吉にはそれはなく、当代で仕えても、そのような扱いにする「恩顧」という言葉が出てきた。
豊臣恩顧の大名、とか太閤恩顧の・・・というのがそれ。
徳川家康の場合、従来の「三河譜代」および、秀吉でいう「恩顧」の両方を「譜代および譜代格」として扱ったようだ。
それと外様の境界線はどこか、といえば、一応関ヶ原の戦い以前に従っていたか、それ以降(関ヶ原の戦い時も含む)かということになっている。
だが一律にそうかというと微妙なところ。
そのルールだけで行けば、加藤清正とか福島正則は外様大名。そして彼らまたはその子孫は改易によって葬られた。
おそらく、それ以降改易路線でなくなってきたところで、ある条件を満たせば譜代扱い(幕閣参入)という風に条件が緩和されていったと思う。
条件は、推測だが、
1.関ヶ原前後で徳川方についた者
2.大大名ではない者
3.当代も幕府に忠誠心のある者
4.養子縁組により、譜代や徳川縁者の係累が入った
京極は関ヶ原の後、石田三成の佐和山城攻めの後、家康に城を供出している。それ以前からも東軍に与している。
脇坂は、関ヶ原では西軍についたが、小早川の裏切りに呼応して東軍に寝返った。
それプラス上記の条件を満たした。
あと、挙げるなら老中に抜擢された真田幸貫を挙げないと。
彼は松平定信の次男で、松代藩主の養子に入っている。

859:日本@名無史さん
07/05/17 22:48:27
>>857
すごい論争になっていますね。
別にお株なんて拘っていません。むしろ近い考えを持っている人がいてくれて何よりです。
しかし、ちょっと違います。
私が言ったのは、「政治が経済に屈した」という事です。
武士とか商人とは、「身分」であり、身分間の階級闘争みたいに捉えていません。
武士対商人なら、明治以降はありませんし、また武士から商人になった者も、農民から名字帯刀を許されて武士になって、更に商人になった(渋沢栄一)例もあります。
問題は、田沼意次の経済政策と言ったものを考えた時、その歴史的位置付けでしょう。
今までに出てきたものを挙げてみましょう。

1.田沼意次の経済政策は、(1)現代の経済社会の到来をも見越した先見性のあるものであり、それは、門閥の排斥に遭って頓挫した。
  (2)排斥さえなければ、田沼意次の経済政策は日本の経済の進展に大きく寄与し、場合によっては有意義に評価できる日本独自の経済政策が育まれた可能性がある。
2.田沼意次の経済政策は、(1)現代の経済社会とは直接関係はない。
  (2)門閥の排斥がなくてもそれは発展を遂げる可能性は低かった。

大体こうでしょうか。目的については、私や>>857さんが「幕府権力を強化、または立て直す為」という主旨であり、>>853さんは特にコメントはありません。
まだ、論点の相違は不明ですが、実はこれが決定的なんです。
そしてそれは、江戸幕府の本質的な存在意義、覇権を目指したとかというのがその背景として語られています。
これも、その対立軸は見当たりませんね。

860:日本@名無史さん
07/05/17 22:49:52
ですから、ひとつ言えるのは、田沼意次の経済政策を、現代にまで通じるような「画期的」で「先見性」のあるものだったという「論証」はまだ提示されておらず、比較検証する段階にもまだ至っていないということでしょう。
例えば、申し訳ないのですが、>>847さんは、
「似たような理念をその当時持ち得た・・・そこに先見性を認めるのです。」
と書いていますが、似たような「理念」とは何でしょうか。近代・現代の経済社会と理念が似ていると考えておられるらしいという推測は出来ます。
では、>>847さんの考える「近代・現代の経済理念」とは何でしょうか? そして、田沼の経済理念とどこが似ているのでしょう。
これが皆無なので、果たして反論かどうかも特定できないのです。似ていても
私や>>857さんは、近代社会の経済理念と、田沼意次のそれとは似ているかどうか以前に「別物」と考えています。
それは、目下常識であり(だから正しいとは言っていない)、常識は覆されること自体は良いのですが、それは常識を信じる人間を論証により説得しなければ覆りません。

例えば、最初の征夷大将軍は誰でしょうか? 坂上田村麻呂か、大伴弟麻呂か等諸説あるようですが、それは「幕府政権=武家政治」を念頭に置いたものなのか? というのに近いものだと思われます。
坂上田村麻呂は、武家政治に対して先見性を持っていたのか? というのと現段階では同じです。そうでない「論証」が欲しいところですね。


861:日本@名無史さん
07/05/17 23:15:53
それで、>>843についてですが。

私は理系の出身なので、触れておきますが、
>その時代に迎えられず、否定されても、のちに真理と実証された例
はあります。しかし、それは情実的な評価とは無関係です。

>政治や経済も同様、むしろ先見性とは「当時は否定されたが」という
>前置きが付くとき、いっそう輝くものでしょう。
これでは、「ドラマ」ですよ。そんな主観的な評価は、自然科学の中ではあり得ません。

客観性とはまったく無縁で、自然科学を引き合いに出してもらったら、自然科学の「客観性」を否定してしまうことになります。
どのような経緯であれ、合理的な説明が出来れば「真」とする、というのが自然科学の在り方です。
そしてそれは程度問題で、より合理性の高い説明が別の説でなされた場合、より高いレベルで「真」が取って代わるというだけで、唱えた人間がどのような扱いを受けたかどうかは関係ありません。


862:日本@名無史さん
07/05/18 00:57:46
またコンサルタントかw

863:日本@名無史さん
07/05/18 01:02:40
と、何も意見できないのに、見に来るだけ見に来る乙かw

864:日本@名無史さん
07/05/18 01:24:40
コンサルタント氏は明らかに途中から立ち位置が変わったなw
最初は専門外だから遠慮していたか、迎合気味だったが・・・

最近、田沼意次に限らず、追いやられた歴史上の人物が掘り起こされている。
それ自体は研究だから良いのだが、ややもすると勝者の歴史が歪んでいて、
敗者の中にこそ史実があるというような錯覚が横行するきらいがある。
勝者が勝ったのは紛れもない事実。それは動かしようがなく、そうでなけれ
ば、を考えるのは、IFを考えているに過ぎない。
IFを考えるなという訳じゃないが、IFはIFだ。むしろ、敗因を考えた
方が史実を正確に見ることになるんじゃないのか?

田沼意次が排斥されたのは、門閥の為。では、田沼意次は、それだけ評価が
高いとするなら、何で門閥ごときに負けたのか、だろ? それだけだったら、
大した政治家ではないではないか。
経済政策でもうまく行かなかったから、だ。そして幕府は重商主義政策を進
めれば、自己矛盾に陥って自らの首を絞めるにもかかわらず、それを強引に
進めたからだ。
俺はコンサルタント氏の1.、2.という分類は正確でないと思っている。
1.の(1)は良い。だが(2)は2.の(2)の方が近いが、その可能性は、田沼の
発想では不可能で、田沼とは違う考え方を持った人物が現れない限り無理だ
ろう、という考えなんだ。何故なら田沼は幕府肯定&重商主義を取ったから
でこれは矛盾以外の何者でもない。
重商主義を進めるには、朱子学秩序を否定し、士農工商秩序を否定しなけれ
ばならない。門閥は生かしても殺しても良いが、門閥は封建制以外の手段で
食わせる必要がある。
これを進めたら明治維新になってしまうのだが、田沼意次にも井伊直弼にも
小栗忠順にも無理だろう。実はこいつらこそ、最も重商主義にとって不要な
立場の人間で、田沼意次は始めから自己矛盾の立場だったことになる。


865:日本@名無史さん
07/05/18 01:42:58
田沼意次は立場上無理、なんていうなら、それだけの話。
開国も視野に入れていた、なんて仮定の話をしてもしようがない。
実際に開国したのは、阿部正弘だし、通商条約を締結したのは井伊直弼。
そちらの方が、田沼意次より結果評価は上だろう。現実を考えれば。

薩摩も長州も土佐も実は同じだ。でも奴らは明治維新後、富国強兵・
殖産興業(≒重商主義)と引き換えに「武士」をなくすという政策を
思い切ってやってのけた。田沼意次など、比較にならないし、誰も
参考にもしていない。



866:日本@名無史さん
07/05/18 01:51:42
白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼恋しき・・・か。

五七五七七でこれだもの、スゲーよな。




867:日本@名無史さん
07/05/18 02:06:52
だからといって、それが田沼待望論ではなかった。
白河と田沼、ただの地名と苗字を引っ掛けただけ。
まぁ、言ってるだけだから、特に何ということはない。

868:日本@名無史さん
07/05/18 02:16:13
>>866
それを「詠んだ」のが誰か、というのが肝心でしょうね。
大田南畝ですが、これが門閥や政治家の立場から詠んだものではなく、庶民の立場から幕府を揶揄して詠んだのは間違いないでしょう。

ちょっと荒っぽい言い方をすれば、
松平定信は融通が利かない権力の権化だ。それに対して田沼は融通無碍でまだマシだった。

この場合の「融通無碍」という考え方が「有能で優れた政治家」という評価では、ない、というところがミソでしょうね。
むしろ田沼時代は好き勝手にやれたのに、寛政の改革期はそうはいかなくなった、という揶揄でしょう。
好き勝手にやりたい者が好き勝手にやれるような社会が、現代です。
だから「政治が経済に屈した」ということです。これが良いとばかり言っている訳ではありません。


869:日本@名無史さん
07/05/18 02:24:33
清濁併せ持つ政治家が優れた政治家。
清いだけでも濁ってばかりも、どっちもダメだよw

870:日本@名無史さん
07/05/18 02:29:17
>>866
ウケてるな、なかなかw みんな食いついてきたじゃないか。
まあ、デキが良い狂歌というのは認めるが・・・

871:日本@名無史さん
07/05/18 22:29:42
>>864-865
遂に田沼意次の正体が明らかになった、というか、日本における重商主義の本質がはっきりしましたね。
結局、重商主義にとって、もっとも邪魔だったのは「武士」そのもので、武家政権を運営しようとしてもその中では重商主義は成立しない、という結論で良いでしょうか。
明治維新の功労者の大半が武士だったにも関わらず、彼らは武士そのものを国家の近代化と経済の発展の為には葬らねばならないと決意したのでしょう。

私もほぼ同意です。もっと言えば、「門閥」は実は場合により「セーフ」です。
何故なら彼らは「資産」を持っているからです。すなわち「スポンサー・資本家・投資家」になり得る訳です。
商人もそうだし、また働いているという意味では、商家の人間も重商主義の社会で生きていけることでしょう。
雇われていく庶民もです。
一番不要なのは、資産もなく、働きもせず、僅かな俸禄だけで生きていた大半の武士でしょう。
こういう立場にコストをかけるようでは、産業社会は立ち往きません。
唯一の取り柄は「兵力・戦力」だったはずですが、それはすっかり旧式化し、徴兵の方が勝るということが奇兵隊や西南戦争で証明されてしまいました。
ここまでに、武士は新たな生きる道を選択し直す必要があった訳です。

田沼意次は、立身出世した経緯が幕府権力の中でしたから、限界があったし、そもそも一個人の能力が如何に優れていても無理だったことでしょう。
彼が、幕府転覆を図るほどの覚悟をしていたということなら、分かりませんが。


872:日本@名無史さん
07/05/18 23:02:10
幕府天ぷら

873:日本@名無史さん
07/05/19 00:22:04
しかし田沼が南鐐二朱銀を発行したせいで
後に天保一分銀が発行されることとなり
天保一分銀と米ドルの交換レートがおかしくなったことがインフレを招いた。

URLリンク(www1.u-netsurf.ne.jp)

一定額の金貨と交換できることを幕府が補償した
「銀でできた金貨」なんて概念は
DQN奉行には到底理解できっこない。

田沼一人があがいたところで
どうせ幕府の運命は大してかわってないってこった。

874:日本@名無史さん
07/05/19 02:32:31
>>871
というよりは、田沼流重商主義というのが初めから「主義」と言えるようなものではなく
幕府存続のための手段でしかなかった、と見るのが自然だろう。

幕府存続のためにあえて経済の論理にある程度膝を屈する姿勢を見せつつ取り込みを図る、
それ以上でもそれ以下でもないと見たほうがすっきりする。

現代で田沼の対応物を探すなら日米の新自由主義より中共の改革・開放路線(中共政権
維持のための市場原理の容認)のほうが近いように思える。

875:日本@名無史さん
07/05/19 02:58:02
そりゃ何処の国の重商主義だってはじめは体制側に都合のよい発想からスタートしただろうさ。
だから主義をつけられないだなんてそんなバカな話があるか?

あたりまえのことをもったいつけて書いてるんだお前は?

876:日本@名無史さん
07/05/19 03:55:14
>>871
>一番不要なのは、資産もなく、働きもせず、僅かな俸禄だけで生きていた大半の武士でしょう。
>こういう立場にコストをかけるようでは、産業社会は立ち往きません。
同意してもらって何よりだが、これを読んでると、むしろ現代がヤバそうだなw
資産もなく、働きもせず、僅かな年金と生活保護だけ受けている大半のナントカはどうなる?
そして、それで社会が立ち行かなくなったら?
おお、こわw

>>875
スタートはそういうのがありだが、うまくいくとは限らないさ。
明治維新がうまく行ったのは、体制側が自分の身内も同然の立場を斬る勇気があったから。
田沼意次がうまく行かなかったのは、門閥とも、商人とも迎合し、かつかつての自分と同じ立場(一般の武士)を切れなかったから。



877:日本@名無史さん
07/05/19 13:13:54
>>874
>現代で田沼の対応物を探すなら日米の新自由主義より中共の改革・開放路線(中共政権
>維持のための市場原理の容認)のほうが近いように思える。

そうだろうな。政治と経済がアンバランスであるという点では対応物たり得るだろう。
しかし中国は一筋縄ではいかない。
強大な軍事力を保有している。田沼にはそれはなかった。いや、本来江戸幕府が政権
を取ったのは強大な軍事力があった為のはずなんだが、脆弱化していた。吉宗はそれ
を何とかしたかったようだが、家康の頃に匹敵するようなところまでは到底行かなか
った。日本人は泰平の世を迎えると途端に怠惰になるからな。
中国の現在の状況は、当然対米を念頭においているが、先に挙げた清朝の乾隆帝の例
もある通り、世の中が皇帝の代数(乾隆帝は第六代)を経て落ち着いた頃(乾隆帝の
在位期間は吉宗から田沼時代が重複する、すなわち田沼と同時期)であっても、軍事
力による周辺制覇に乗り出している。江戸幕府も「武家政権」の本質を貫くなら、む
しろそういった政策の方が「らしい」路線だったはずだ。
おそらく、日本人は本質的に「和」の民族で、戦争なんてものは出来るだけやりたく
ないのだろう。でも判断として常に適切かは別問題。
それでも薩長は戦争をも辞さず、それで幕府を倒し、翻って藩をも廃止し、武士もな
くし、経済政策を路線に乗せた。田沼意次とは覚悟の程が違いすぎるなw


878:日本@名無史さん
07/05/20 12:12:55
田沼意次の「南鐐二朱銀」の発行について、ですが。
確かに金銀の二種類の本位貨幣があるような江戸時代で、かつ銀(西日本)については計数ではなく秤量貨幣だったのを改革して行こうとした「意思」は読み取れますね。

問題点は、
1.金と銀の二種類の本位貨幣がある問題(従って変動相場が成立)
  (プラス補助貨幣銅銭による「三貨制」)
2.(1)金については計数貨幣、(2)銀については秤量貨幣という問題

これを整理しないと行けない訳です。
南鐐二朱銀に先行して、「明和五匁銀」が出ています。これは純粋に2.(2)を解決するための発行でした。
しかし、市場においてはほぼ、無視です。これは計数貨幣という形にだけ拘った為、金銀の実勢相場とかけ離れていたからでした。

「南鐐二朱銀」は、金2朱(8分の1両)を明記することで、金銀の変動相場を否定し、銀貨も金貨の補助貨幣に事実上してしまったところが最大の特徴でしょう。
これは、上記1.2.の両方に対応するものだったので、意義はあると考えています。

私が田沼意次に対する評価が変わる、という指摘が度々出ていますが「功罪」を論じる際、「功」について肯定的に評価し、「罪」について否定的に評価しているだけなのですが、「功」または「罪」しか評価しない人にとっては、そう見えるのでしょうか?
「あなた自身の田沼評が変っていくので」という指摘が田沼意次全体を肯定的に評価している人から出ていて、
「途中から立ち位置が変わったな」という指摘が同じく全体を否定的に評価している人から出ています。

私の評価は、田沼意次は、
当時の(1)経済政策通としては評価する部分があるが、(2)全体として、および(3)政治家としては評価できない。
というものです。そして、経済政策についても、その「目的=幕府権力の立て直し」には敵わなかった(上記(2)の部分です)ので、そこまでの評価に留まる、ということでした。
私がこのスレで試みたのは、全体像としての田沼意次の評価でした。それは当然「功罪」両方ある訳です。
最後に残ったのは、「画期的」かどうかでしたが、これは、そうではなかった、という結論です。




879:日本@名無史さん
07/05/20 16:08:24
印旛沼運河が出来ていれば・・・。
利根川~印旛沼~東京湾の水運が確立され
東京湾から銚子方面までは野島岬を通らずに
印旛・利根川経由で行けた。

880:日本@名無史さん
07/05/20 20:19:27
四国の江戸後期の史料(庄屋文書)をいくつか読んだことあるんだけど。
全部銀は秤量貨幣として使われてるんだよね。
銀貨の計数化は全国的には広まってないのかな?

881:日本@名無史さん
07/05/20 23:33:11
そこが江戸幕府の限界なんだね。
四国のどこか知らないけれど、幕府の政策の及ばない範囲か。

計数銀貨とかは、やはり上方商人を意識しての話だと思う。


882:日本@名無史さん
07/05/21 01:05:30
>>877
話がそれるが十全老人、清朝第六代皇帝乾隆帝は60年も在位したってね。
50年の史上最強将軍徳川家斉も吹っ飛ぶなw

まあ、在位だけでは昭和天皇が史上最強だがw

883:日本@名無史さん
07/05/21 10:40:17
っ太陽王ルイ14世

884:日本@名無史さん
07/05/21 18:42:32
魚の棲む城読んだが風雲児たちの田沼老人の方が魅力的に見えるな

885:日本@名無史さん
07/05/22 00:27:22
ふー
コンサルタントや田沼マンセー氏の論議も一段落したみたいだ。
かつ、1000まで残り少ないし、後はマターリと好きなように田沼意次を語れ。
田沼意次以外の同時期の政治家については別スレ立ってるみたいだぞ。

886:蟹江慶三
07/05/22 04:24:10
俺もそう思う。いちいち現代に結びつけたり、~~主義だとかレッテルを張るのはつまらない。

で、上にでた印旛沼開削だが、当時、利根川を銚子まで出て房総半島迂回して江戸入りするのは遭難の危険性が高い
で、防ぐには印旛沼から直接江戸へというルートが考案された

887:日本@名無史さん
07/05/22 10:11:51
田沼意次って、開国まで考えていたのか?

888:日本@名無史さん
07/05/22 15:34:57
田沼はその時代の与えられた条件の中で最大限尽くしたことは間違いない。開国がどうのこうのを討議する場では無い

889:日本@名無史さん
07/05/22 20:35:39
あっそ・・・
じゃ、「マンセー、意次!!」で良いの?

890:日本@名無史さん
07/05/22 20:41:34
役人の子はにぎにぎをよく覚え

やっぱ汚職政治家だな

891:日本@名無史さん
07/05/22 21:19:03
誹謗中傷は止めろ!にちゃんねる運営委員会に報告するぞ!

892:日本@名無史さん
07/05/22 22:15:20
バカ麦価・・・

たかが田沼意次で

893:日本@名無史さん
07/05/22 22:32:13
水野忠篤って田沼意次とよく比較されるけどどうなの?

894:日本@名無史さん
07/05/23 00:30:38
>>893
殆ど比較などされない。約一名だろう。
そいつは別スレに去った。比較したければそこでやれ。
>>600を参照。

895:日本@名無史さん
07/05/23 00:35:57
>>888
そうだろうな。従ってまぁ普通の政治家。特別注目に値する存在ではない。

896:日本@名無史さん
07/05/23 01:58:05
じゃあお前はなんでこのスレを見てるんだ?

897:日本@名無史さん
07/05/23 03:32:54
>>896 うるせー!自称コンサルタントはすっこんでろ!

898:日本@名無史さん
07/05/23 08:32:44
ちょっと前静岡へ出かけたので、ちょっと相良へ寄って見た。
月曜日で史料館は閉まっていたが、さすが地元だ、意次が町起しになっていた。
意次は以前は賄賂の権化みたいに言われていたが、謂われるほどひどくはない
が、反動で実はすごい人というほどでもない印象。
(幕末天狗党の処罰に意尊がかかわっていたのの扱いを知りたかったのだが
 それは果たせなかった。)

ついでに、森町の石松の墓というのにお参りした。
石松もそこそこの人気者?扱いの感じがした。
第2東名が通ると森町は便利になりそうだった。

899:日本@名無史さん
07/05/23 09:22:34
>>898 だからどうした?

900:日本@名無史さん
07/05/23 09:55:48
どんなヒールであれ、地元ではそれなりに持ち上げる。
吉良上野介も同様。
ただし、2つの要素はあると思われ。
ひとつは、ただ有名だから。功名であっても、悪名であっても。だから町興しに
つなげよう、というもの。

もうひとつは、中央と地元では違う顔を持っていて、地元では評価に値する
というもの。吉良についてはそのような評価らしいが、田沼意次はどうなのか。
相良に行ったなら、そういう部分が分かれば良かったのだが。


901:898
07/05/23 11:32:04
>>900
相良には偉人が結構出ているので、意次はその一人でマ基盤を作ったみたいな印象。

吉良は、お墓があるお寺さんにお参りしたことがあるが、ちょっと寂しかった。
尾崎なにがしという作家も出ているが、そっちの方が表に出ている感じ。

やっぱすごいのは、赤穂。大石内蔵助はお宮もある。よく金を出す人がいたもんだ
と思う。(芝居や映画の関係者がお参りするってのもあるらしいが、金をはずむん
かな)
吉田松陰もお宮があるが、明治に出世した人がお金を出したんだろうから、あれ位
はできるだろうと想像するが、そうでない状況だと大変だったろうと思う。

主題からずれた。ゴメン。

902:日本@名無史さん
07/05/27 00:41:56
>>900
吉良については、「地元の顔」なんて史実ではないよ。
もっぱらもう一つの要素、町興しに利用しただけ。
国許に帰ったのも一度だけ。領民を潤したと言う塩田開発もその事実はないし。
田沼についても、老中でずっと江戸にいたわけだからなあ・・・・


903:日本@名無史さん
07/05/27 11:58:39
「町興し」かどうかだが。

これは地方自治や地方活性の時代のお話なので、該当の人間の評価がそれ以降かどうかが判断基準だろう。
例えば江戸時代からそのような評価があった、というのだったら、少なくとも「町興し」とは別の範疇の話。

吉良の場合、
・新田開発
・塩田開発
・黄金堤
が地元での業績とされる。それが事実かどうかだな。
「赤い馬」と題された資料は、地元の出版社が出したもの。

904:日本@名無史さん
07/05/28 23:14:31
もうエンドロール?

905:日本@名無史さん
07/06/02 13:02:35
意次の母はどういう人?そして意次の死因は?

906:日本@名無史さん
07/06/03 16:37:27
知りません

907:エンドロール
07/06/10 19:45:50
出演
田沼意次…中井貴一
田沼意行…津川雅彦
田沼意知…堤真一/田沼意尊…長門裕之
田沼意致…上川隆也/水野忠友…小林稔侍/水野忠成…いしいすぐる
松平武元…山本圭/松平輝高…黒沢年男/松平康福…秋野太作/井伊直幸…鈴木瑞穂
松平定信…中村梅雀

稲葉正明…阪本浩之/横田準松…藤田宗久/本郷泰秋…可知靖之/
松本秀持…すまけい/赤井昌…佐藤慶/川井久敬…小林宏史/佐野政言…北村総一郎
佐野政親…神山寛/一橋治済…岡村喬生/徳川家斉…小林翼
徳川家治…勝野洋/徳川宗睦…久米明/徳川治貞…石濱朗/徳川治保…池部良

908:日本@名無史さん
07/06/14 01:25:05
照明・・・田招意訳

音声・・・羽柴秀三

録音・・・徳永由旨

編集・・・根猿単徒



909:日本@名無史さん
07/06/15 02:16:28
エンドロールあげ

910:日本@名無史さん
07/06/15 03:24:42
家治はどの程度、意次を庇護してたの?
将棋に没頭した人生みたいだけど…

911:日本@名無史さん
07/06/15 23:44:09
ウィキペディアで、意誠が意次の兄になってる。

912:日本@名無史さん
07/06/16 01:25:17
語り…江守徹
家重…中村
脚本…田向正健

協力…相良町、白河市、千代田区、東京都

演出…大原誠

913:日本@名無史さん
07/06/16 09:10:42
>>912
中村梅雀なら、>>907の松平定信と二役になってしまうがw
ここは大河の熱演? を買って、

徳川家重・・・中村梅雀
松平定信・・・松平健

でどうだろう?


914:日本@名無史さん
07/06/16 16:10:39
家重は新人で。
重度の脳性麻痺者の中から全国規模でオーディション。
乙武氏みたいに身体障害者スターを誕生させよう!

915:日本@名無史さん
07/06/16 22:27:13
田沼子爵家は大正年間まで存続した。屋敷は俺んちの数軒隣り。

916:日本@名無史さん
07/06/17 09:04:00
意次はなんで領地を没収されたんだ?没収しても意味がないと思うんだが。

917:日本@名無史さん
07/06/17 11:27:07
懲罰的な没収だろう。幕府財政の足しになるかどうかで意味を求めても仕方ない。
懲罰に意味があるかどうかは、また別の論議。

918:日本@名無史さん
07/06/17 13:14:54
定信がうさはらしですよ。領地没収のうえ、和泉岸和田岡部美濃守長備の4500人の大部隊をして城を徹底的に破壊し尽くすんですから

919:日本@名無史さん
07/06/17 16:13:30
岸和田の岡部家って5万石だろ。数千人を動員できたのか?

920:日本@名無史さん
07/06/17 17:28:16
>>919 への答えではないが、

岡部氏への幕府からの沙汰書には、2万5千石の格式で行けということ
があったと↓にあり、即ち2,500人の陣立てと訳している。
単純換算なら、5万石=5000人とも言えるが、実の数はどういうこと
やら。しかし以前の意次への加増が岡部氏の旧領からだったので、岡部氏の
恨みつらみは相当のものだったようだ。
h URLリンク(onihei.cocolog-nifty.com)

921:日本@名無史さん
07/06/17 17:32:50
普通、動員数は1万石あたり250人程度じゃないの?

922:日本@名無史さん
07/06/17 22:01:00
h URLリンク(wwwi.netwave.or.jp)
では、200人と言っている。慶安の軍役令だが。

923:日本@名無史さん
07/06/17 23:30:49
まあ、民部卿治済にとってはどうでも良かったことなんだがw

924:日本@名無史さん
07/06/22 09:28:19
治済は死んだ後のことなのでどうでもいいことだったろうが、一橋家って4代以降
子がいないってのは、舞台暗転みたいな感じだな。

925:日本@名無史さん
07/06/23 10:47:33
一橋家の血脈は、あちこちに継承されたからいいんじゃね?
尾張も紀伊も将軍家も田安家も一橋の血だ。

田安の末裔である徳川宗英さんのエッセイ本を読んだ事があるが、一橋はわが
田安を乗っ取った酷い家だと書きながら、あっ、自分はその末裔だった・・・
なんて書いていて、面白かったw


926:日本@名無史さん
07/06/26 13:45:38
松平定信が名君として語られてるのはむかつくよなぁ

自分の領地にさえ寂れさせてるのに

927:日本@名無史さん
07/06/26 18:57:52
>>925
わろたw

928:日本@名無史さん
07/06/26 18:58:43
>>926
少なくとも国政上で名君とはされてないと思うが。

929:日本@名無史さん
07/06/26 22:54:39
民主党の元の代表を、平成の松平定信って言っていたことがあった。

>>926 に同感なんだが、彼は一杯書き残しているから、得をしている
ように思う。儒学を勉強したせいだろう。翻って意次は自身は書いて
ないんじゃない?

後世の評価が気になる人は書き残すべきだな。
ときの為政者が都合が悪いと焼き捨てるかも知れないが。

930:日本@名無史さん
07/07/01 12:49:40
>>925
これか

URLリンク(www.amazon.co.jp)


931:日本@名無史さん
07/07/01 17:34:17
はじめまして。興味深く読ませていただきました。
元田沼町民で現在佐野市民ですが、こちらでは相良と違って、やはり田沼意次はワイロ政治の悪名のためか町おこしに使われるでもなく、近年評価が良くなるまではほとんど無視されてたようです。
(観光等でメインで持ち上げられてるのはやはり藤原秀郷。佐野の場合はそれプラス明治期の田中正造)
まぁ田沼一族ゆかりの地というだけで、意次本人に関する史跡とかは特にないようなのでこんなものかもしれませんね。

932:日本@名無史さん
07/07/01 20:52:19
田沼御殿の七不思議

933:日本@名無史さん
07/07/02 06:57:03
>>931
駅の近くに縁のあるお寺があるよね。近所に行ったとき寄って見た。たまたま住職が
居られたので、聞いたら系図なんか当てにならないと笑っていた。
裏手の墓場で関係の墓を探したが、見つからず。その先の道端にまた違う墓があった。

余談だが、佐野も天明とか犬伏とかみたいと思っているが、果たせない。
近くの岩舟の大慈寺(円仁さんが小さいとき勉強したところ)は本堂が焼けて再建と
か言っていたが、出来たんかな。

934:日本@名無史さん
07/07/02 22:44:56
「経済」という視点を堺屋太一が持ち込んで、日本史の評価の仕方に大きな革命が起きたそうだ。
田沼意次はその好例。
でも、最近はそろそろ、それが行き過ぎてきてないか。
経済ばかりを重視し過ぎて、逆に当時の人間を理解できなくなっている弊害が出始めてないか?

935:水野出羽守忠成
07/07/04 22:43:52
新評価を持ち込んだのは大石慎三郎じゃないのか?

936:日本@名無史さん
07/07/05 18:36:47
松平定信が大御所問題で将軍家斉、一橋治済と対立して老中を免職されたとはいえ、定信派の三州吉良藩主松平信明が続いて老中首座に進み、定信派の松平乗寛、青山忠良、牧野忠精らも残留していた。
従って信明が死去する1817年までは寛政の改革は続いたとみるのが妥当であろう
信明死後、水野忠成、阿部正精が老中になる

937:日本@名無史さん
07/07/05 23:13:37
全部、というか後半を特に興味深く読んだけれど、田沼意次の高い評価というのは、
学者の研究ネタの域を出ていないなという気がした。

なぜなら、もし田沼意次の政策の評価が現代社会において高いものであったとする
ならば、当然それを手本にしたり、或いは尊敬する人物として挙げたり、理想の政
治家として挙げられるだろうから。

織田信長とか源頼朝は、それよりずっと昔の人物であるにも関わらず、今でもその
政治が理想であったり、尊敬する政治家として、現代の政治家すら引き合いに出す。
また、大久保利通のようにもっと後世の人物も同様。

今の政治家が(例え単なるパフォーマンスにしても)田沼意次を引き合いに出すこ
となど、ない。もし仮に引き合いに出すような政治家がいたとしたら、それ以外の
我々の多くは一体どう思うだろうか?

それが、本当の現代における田沼意次に対する評価であるような気がする。


938:日本@名無史さん
07/07/06 01:29:31
織田信長はあれだけ大虐殺した人なんだから尊敬するなんていったらやばい気がする。にもかかわらず田中角栄や細川護煕、小泉純一郎らは織田。
田沼は今日に於いて評価がまだ確定していないからなぁ

939:日本@名無史さん
07/07/06 06:06:48
一般庶民はミーハーだから。信長の人気は映画化された時の中村錦之助の人気が発端だろ。

940:日本@名無史さん
07/07/06 10:48:16
田沼の子孫って奴ならうちの学校に居たな
まあ頭の悪そうなDQNだったが

941:日本@名無史さん
07/07/07 01:02:10
田沼意次って誰?

942:日本@名無史さん
07/07/07 09:42:03
そこへ来るかw

ググれ

943:日本@名無史さん
07/07/07 21:44:22
田沼意尊って幕末の天狗党の連中にひどいことしたらしいね。
全裸にして異臭を放つニシン蔵の中に監禁。便所も無く…挙句に、寺の境内に大きな穴を掘り、次々に斬首されていった。処刑は5日間にも及び、斬首された者は352人。行軍中、戦闘に加わったものは全員斬首という非常に厳しい死罪。
明治以後、水戸藩出身で活躍した人材がほとんど出なかったのは、このときの大量処刑が原因といわれる。

944:日本@名無史さん
07/07/07 22:02:14
豚一の徳川よしのぶが守りきれなかったんだからしょうがない。

945:日本@名無史さん
07/07/07 23:10:59
>>943
あ、何かそのシチュエーション、TVで観た事があるw
天狗党の処刑のシーン。TVだからどこまでちゃんと考証しているか分からんが、背後に沢山の天狗党の人間を座らせて、順番に目の前で大穴の前で斬首して行った。
田沼意尊だったのかw TVでも、それは酷い処刑の意味で描いていたと思うが。


946:美濃部筑前守茂育
07/07/08 03:38:40
田沼意次は御三家と一橋治済の強押しで失脚したわけだから子孫が水戸藩を怨むのももっともじゃ

947:日本@名無史さん
07/07/08 15:00:18
>>937
> なぜなら、もし田沼意次の政策の評価が現代社会において高いものであったとする
> ならば、当然それを手本にしたり、或いは尊敬する人物として挙げたり、理想の政
> 治家として挙げられるだろうから。

そりゃ、定信公のありがたい著作作業のおかげで世間一般にはマイナスイメージがべったりだからな。
「田沼を尊敬してます」なんて言ったら脊髄反射で「ワイロスキーかよ!」と思われるに決まってる。
水戸黄門も何かって言うと「柳沢吉保の悪巧み」になってるので、地元では保明を郷土を拓いた偉人として教えている埼玉
県入間郡三芳町では地元の資料館で反駁するような本を売ってるぞ。
そうなると、甲府や大和郡山ではどうなんだろう。

948:日本@名無史さん
07/07/08 18:50:57
甲府では城下町の整備と、特産品の水晶、りんご、もも、ぶどうの生産と販路拡大をした。単なる年貢一辺倒の大名ではないことを伺わせる


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