田沼意次について語るスレat HISTORY
田沼意次について語るスレ - 暇つぶし2ch500:日本@名無史さん
07/04/11 01:32:27
軒下を貸して・・・・叩き出したか・・・!?

501:日本@名無史さん
07/04/11 09:51:33
田沼は、さきに田安や清水を抱き込んで、やばそうな一橋を空家にすべきであった。その後、清水重好を11代目とすべきであった

502:日本@名無史さん
07/04/11 23:44:10
意次の失脚に御三家が加担した背景には、三家各々のお家の事情を
巧みに治済に利用された面もあるが、
究極は、やはり「貸金会所の令」で、決定的に御三家をはじめとする門閥グループを敵に回してしまったからだと思う。
盟友水野忠友さえ、これを機に田沼の急進的な改革に危惧を感じて、彼から離れていっている。

503:日本@名無史さん
07/04/11 23:46:42
つか、その田沼改革の危うさを御三家らに喧伝したのが、治済。

504:日本@名無史さん
07/04/11 23:53:00
田沼意次は今で言えばさしずめ竹中平蔵って所か。

505:日本@名無史さん
07/04/12 08:16:06
治済スレにするつもりはないけどw、御三卿って、やっぱり「~卿」に任ぜられるのがお約束になっていたのかな?

治済は「民部卿」。でも例えば一橋慶喜は「刑部卿」だから、家と官職で固定でもないようだし。
この辺りの慣習についてご存知の方、いらっしゃいますか?

506:日本@名無史さん
07/04/12 08:33:55
田安家は衛門督が多い
徳川家臣のうち、御三卿以外で~卿は医者ぐらい。
正式な叙任を経たものか疑わしいが、医者には
室町以来の旧家があるから、慣例として認めたものか?




507:日本@名無史さん
07/04/12 09:54:48
>>504
全然違うw
そもそも意次はどこかの国の犬となってロボットに徹していたわけじゃないし。

508:日本@名無史さん
07/04/12 13:01:36
「貸金会所の令」というのは諸大名の領地から租税を徴収しそれを諸大名に貸し付け、返せない者は領地を担保ながれにさせるというやつか?

509:日本@名無史さん
07/04/12 21:08:51
>>505
一橋家は初代宗尹、六代慶昌は刑部卿。二代治済、三代斉敦、五代斉位は民部卿。
四代斉礼は兵部卿・・・と官名はまちまち。
田安家も民部卿、大蔵卿・・・清水家も宮内卿、式部卿・・・

「卿」に任じられるのは、本来宮家が多いが、例えば先に閑院宮が兵部卿に任じられていた場合、
御三卿の当主は兵部卿を遠慮した。
事実、伏見宮がよくなった中務卿は親王家専任とされ、御三卿の歴代当主は誰も就いていない。
この点が、「禁中並公家諸法度」に基づいて公家の定数の枠外で、御三家などが任じられた権大納言、権中納言などとは違う扱い。





510:日本@名無史さん
07/04/12 21:34:33
医師の官位はふつう法印、法眼を名乗る。

朝廷の典薬寮の長官、典薬頭は律令制では従五位下で、
正四位以上がなる「卿」とは大きな開きがある。

幕府にも典薬頭がいるが、これは>>506の指摘どおり朝廷に奏請して正式に叙任されたものではない。
半井家、今大路家が任じられ、他に有名な曲直瀬家があるが、いずれも法印。


511:日本@名無史さん
07/04/12 22:41:49
>>511
断言は、出来ませんが・・・(いつもそうだな・・)
徳川御三卿は従三位以上なので、所謂「公卿」だからではないでしょうか。


512:日本@名無史さん
07/04/12 22:50:02
ありゃ、またやってしまった
>>511>>505へのレスです

513:日本@名無史さん
07/04/12 23:00:56
田沼意次は、経済政策が目立ちますが、やはり外交でも、他の治世(特に改革路線)とは大きく異なっていますね。
赤蝦夷風説考によって北方の海防意識を持ったり、鎖国政策も見直そうとしていたとか。
ある意味、ペリー来航まで開国が遅れたのは、より危機感を煽って幕府滅亡へと推移しますが、田沼がやりたいようにやっていたらどうなっていただろうと、いろいろ想像が膨らみます。
「もし~」が度を超すと、よくあるトンデモスレになりかねないですが、ここは良スレなので、現実的な話が出来ると思います。
荒れない程度に田沼の外交像を考えてみるとすれば、どうでしょう?

長崎での相手国を拡張したか。
開港する港を増やしたか。
それとは別に、田沼のポリシー。
或いは、田沼がなしえなかったことは、どのように有形無形で後世に引き継がれたか・・・。


514:日本@名無史さん
07/04/12 23:33:29
田沼の政策は全部白河藩主の松平越中守によって否定されてしまいました

515:日本@名無史さん
07/04/13 01:10:42
一橋治済にとっては、何の興味もない事でした・・・

516:日本@名無史さん
07/04/13 01:51:18
家斉にとっては房事にいそしむことさえできれば田沼だろうが松平越中だろうが誰でもよかったんです

517:日本@名無史さん
07/04/13 08:23:52
定信は、質素倹約の一環として、家斉のセックス・コントロールもしようとしたらしい。
家斉が20歳となった頃、結局定信は更迭されたが、家斉の恐ろしいまでの子作りは、定信老中在職中の反動ではないかな。


518:日本@名無史さん
07/04/13 22:18:52
田沼意次なんかそれほど凄い政治家とは思えないけどな。柳沢吉保のほうが出世という点では勝ち組だし。

519:西丸御納戸頭の荻原彦次郎乗秀
07/04/14 00:22:34
柳沢の時代は大名を廃絶させても平気だったから空いた土地を側近に配れたが、田沼の時代は大名廃絶させる力が衰えつつあった。逆に下手に廃絶や減封、移封を力押しすると幕府の高官に多数の怪我人がでる始末
そんななかにおいて57000石も出頭したは破格といわねばならない

520:水野忠篤
07/04/14 01:09:56
柳沢は政治屋だけど田沼は政治家。

521:美濃部茂育
07/04/14 14:33:45
水野さん、あなたは柳沢よりもっとひどいよ

522:日本@名無史さん
07/04/14 16:01:25
水野美濃守忠篤って家斉の側用人でしょ?
具体的な政策は何もなし。

523:日本@名無史さん
07/04/14 23:51:08
美濃守忠篤は側用人でなく御側御用取次。
叔母が家斉の愛妾だったというだけで取り立てられた姦物。家斉死去後、水野忠邦により、免職・差控。五千石没収。屋敷家作没収。隠居・蟄居。

524:日本@名無史さん
07/04/15 00:16:36
水野忠篤の失脚の仕方って意次よりはましかもね。

525:日本@名無史さん
07/04/15 00:18:36
ふつう幕府の高官に不首尾があって、免職などの懲戒を申し渡される場合、
少なくとも前日には上意の主旨が伝えられ、当日には家老・用人などの名代を立てる。

が、水野忠篤の場合は、突然御用部屋に呼び出され、大老井伊直幸、老中太田資始、土井利位、脇坂安薫列座の中、
水野忠邦から「菊之間縁側詰め」を申し渡されるという、まるで時代劇の一コマのような劇的で異例な処分の宣告を
受け、そのまま「中の口」まで引き立てられた。(正式な処分は、その日の午後、名代を立てて受けたが・・・)
忠篤にとっては耐え難い屈辱、忠邦にとっては痛快事だったろう。

526:日本@名無史さん
07/04/15 00:21:37
ゴメン
井伊直幸×⇒井伊直亮○

527:日本@名無史さん
07/04/15 02:15:39
御側御用取次は吉宗からなんだが、やはり側用人というと柳沢や間部(彼は「側衆」だが)のイメージがあったから、位置づけを少し変えたのだろう。

ただ、御三家や柳沢の処遇と、御三卿や田沼の処遇を比較した場合、やはり江戸幕府って段々苦しくなってきて来たんだという感じはするね。
御三卿など、領国も与えられないから、官位を上げてごまかした?
お陰で一橋治済にような謀略の化け物が現れる始末。

528:日本@名無史さん
07/04/15 11:21:42
水野忠篤はなんか業績残してるの?

529:日本@名無史さん
07/04/15 12:21:16
忠篤は閨閥人事に腕を振るった以外になんにもないですね

530:日本@名無史さん
07/04/15 21:31:03
吉宗は将軍になる過程で、土屋政直、井上正岑ら当時の老中たちに借りがあったので、
柳沢吉保や間部詮房のように老中を凌ぐ権力の持ち主となりがちな側用人をまず廃止した。
ふつう、御側衆やその一種である御側御用取次は旗本の任。側用人は大名の任。
吉宗は紀州以来の側近、加納久通、有馬氏倫も新設の御側御用取次に留めた。
(古参の老中が退いてのち、享保11年になって加納も有馬もようやく1万石の大名になれたぐらい)

側衆にせよ御側御用取次にせよ側用人にせよ、彼らはもともと職制上政策の立案者ではないので、
吉保、詮房、まして水野忠篤に政治的な事績を求めること自体、無理。
単なる権勢家ではなく、政治的な理念とそれを具体化する政策を持っている者は、老中を目指すだろう。


531:日本@名無史さん
07/04/15 21:36:27
ちょうど田沼意次のように・・・

532:日本@名無史さん
07/04/15 21:41:29
>>527
御三卿にも領地はあったよ。分散していただけ。

533:日本@名無史さん
07/04/15 22:17:12
忠篤は頑張って大御所政治を支えたんだからそれ自体が業績だと思うけど。

534:日本@名無史さん
07/04/15 22:21:52
大御所「政治」って、何?「性事」ならわかるけど。


535:松平周防守康任
07/04/15 22:42:00
美濃守忠篤は幕政においては無能なくせに権力のありかについては、ある種の昆虫のような触覚を働かせるのである。

家斉は口喧しかった松平越中守定信の遺制が幕閣から消えていってからは気ままに、奢侈と女色に溺れてきた人物なのだ。長年の大奥の女たちとの遊興に費やし、残ったは沈潜した疲労のように、思える

536:日本@名無史さん
07/04/15 23:26:14
>>535
よほどの恨みでもあるのかな?
家斉は64歳で死んだが、余は満足じゃ・・・の生涯じゃないか。
で、その後は、松平越中守定信の息子12代将軍家慶の治世となった。

537:日本@名無史さん
07/04/15 23:36:36
田沼意知を刺殺した佐野政言の背後には松平定信がいたことを匂わせる文章を、
長崎のオランダ商館長だったチチングが書いているそうだけど、
思い出すのは、家基毒殺(?)の一件。
この時も田沼意次の介在を疑う風説が流れた。
自分が真の黒幕でありながら、他者が黒幕であるかのように偽装し、世論誘導する。
真犯人は・・・やはり!?


538:日本@名無史さん
07/04/16 17:15:10
水野忠篤ってそんなに評価悪い人物なの。
意次ほどの悪人とは思えないけど。

539:日本@名無史さん
07/04/16 20:55:44
田沼が悪人なんて、古いよ。
今では田沼政治はずいぶん見直されている。

水野忠篤は若年寄林肥後守忠英、小納戸頭取美濃部筑前守茂育とともに
「天保の三侫臣」といわれるぐらいだからなあ。
彼らに、わが子溶姫を生母とする前田慶寧を次期将軍に擁立するため、
家定を廃嫡しようと企んだとされるお美代の方の養父中野碩翁も加えて、
皆悪評が高い。
4人とも水野忠邦によって失脚させられたけど。
まあ、田沼意次とは比較にもならないと思うな。




540:日本@名無史さん
07/04/16 21:51:24
田沼政治の政策は、
蝦夷地開発
新御用金令
印旛沼開削工事

541:日本@名無史さん
07/04/16 22:30:30
田沼意次と聞くと、俺は田中角栄を連想する。
門閥のない小身上がりの意次と、学閥のない角栄。
ともに政策能力は抜群で、実力でのし上がってきた。
それだけに強引さもあった。
意次同様角栄といえば、汚職と結びつけやすいが、
彼の資源外交は将来を見据えて国益に叶うものだった。
国際石油資本と彼らをパトロンにするニクソン米政権を敵に回して、
ロッキード事件を暴露されるという謀略に嵌まったが、
この過程も、意次の失脚の経緯に酷似している。

542:日本@名無史さん
07/04/17 06:11:58
ちなみに成長政策をとってるさなかに浅間山噴火や水害におそわれたというのも、同じく成長政策のさなかにオイルショックにおそわれたのとそっくり

543:日本@名無史さん
07/04/17 06:28:51
角栄は土地価格の暴騰や、その後のバブルや数の政治への道筋など
現在に至る悪影響を及ぼしているが、意次はそんなことはない。

544:日本@名無史さん
07/04/17 09:16:09
田沼意次の路線が中断してしまったからね。
そのまま継続していたらどうだっただろう。

金権腐敗が進んで幕府が倒壊したか、列強との戦いとなったか。
明治維新にはつながったか。
いろいろ興味は尽きないが、仮定の話。

545:日本@名無史さん
07/04/17 15:40:12
相良城の模型でもないかな。


546:日本@名無史さん
07/04/17 17:22:58
松平定信は和泉岸和田藩岡部美濃守長備に命じ、3700人の大部隊で相良城を徹底的に破壊しつくすという子供じみたまるで意味のないことをして田沼憎しのうさを晴らした
ために史料がないから模型は難しい

547:日本@名無史さん
07/04/17 19:04:15
定信は白河松平の養子にならなければ将軍有力候補だったのに、紀伊家とかがうざかったからなぁ。残念だよ

548:日本@名無史さん
07/04/17 20:01:38
田沼は生まれた時代が悪かったねえ。
定信よりあと、化政時代のころに田沼が政治をおこなっていたら
どうなっていただろう?

549:日本@名無史さん
07/04/17 20:04:13
意次は老中には就かず側用人だけやってればそんなに批判されなかっただろうね。
水野忠篤は忠邦失脚後に復権してんのかな?

550:日本@名無史さん
07/04/17 21:17:18
>>549
復権も何も、家斉に媚びへつらって出世してきただけに、
家斉死後、失脚してからは誰にも構ってもらえない。
過去の栄華が忘れられず、水野忠邦の改革を誹謗したのが運のツキ。
失脚した翌年に信州諏訪に流され、息子の備前守もさらに知行を半減されて、甲府勤番に
「山流し」。


551:日本@名無史さん
07/04/18 01:07:27
なんだか18世紀後半の幕府総合スレになってきたなあ

552:日本@名無史さん
07/04/18 02:14:22
田沼政治そのものがある程度再評価されているから仕方ないんじゃない?
結果論だけど田沼路線が挫折して田沼否定に政治生命を賭けた松平某とかいう
思い込みが激しく感情的で無能な政治家がいたおかげで幕府の社会・経済に対する
影響力は減退したことは、田沼路線が継続できる可能性と比べれば良かったのかも
知れんなあ。しかし何で全く思想のない「寛政の改革」が教科書レベルで評価されるのか
分からん。言葉は悪いが保守反動の極みで何らの生産性もないじゃないか。

まあ教科書てのは未だww1の原因を3C政策や3B政策、汎ゲルマンと汎スラヴなどと
社会科学の成果より一歩遅れている内容からそんなものなのかなあ。

553:日本@名無史さん
07/04/18 02:52:37
ここで歴史論ぶつのはどうかとも思ったが、歴史って過去の事項は何もかも含まれてしまう。
政治も文化も、ありとあらゆるジャンルが、「過去」というだけで「歴史」の範疇なんだね。

だから、ある程度流れと史実をまとめるくらいで、それ以上のそれぞれの本質論は、それぞれの学問(社会学や政治学、経済学、文化人類学など)に任せても良いのではと思えるね。
流れという点では「勝ち組」で流れが出来るから、結果的に勝ち組中心になってしまうかも知れない。
それを史実を見ていくことで公平性を期すのだろうけど、そこまで、かな?
政治的な本質論、経済効果や社会性に対する評価は、他の学問と共同した方が良いかもしれないね。

自然科学にも歴史があるが、それなんかは殆ど自然科学ジャンルに任せているが。

554:日本@名無史さん
07/04/18 14:57:41
だれか水野忠篤の詳しい生没年月日知ってる方いないですか?
知ってたら教えてほしいです。水野忠篤に凄い興味あるんで。

555:日本@名無史さん
07/04/18 17:12:51
田沼意次は徳川家重の衆道相手だったから
容姿端麗だったのぢゃーッ!!!!!!

556:御側御用お取次中野播磨守清茂
07/04/19 02:21:49
ついでに美濃部茂育の生没年を知ってたら教えてください

557:日本@名無史さん
07/04/19 15:53:31
将軍家斉の愛妾お梅の方が産後の肥立ちが悪く、
いまわの際に甥の忠篤の重用を家斉におねだりした。
そんなこんなで出世した水野忠篤。
君臣ともにあきれ返るヤツバラ。

558:日本@名無史さん
07/04/19 17:27:28
田沼の話題から随分それてるな

559:日本@名無史さん
07/04/19 17:45:35
確かにそれているので田沼の時代の人々を中心とした話題に戻そうではないか。

560:日本@名無史さん
07/04/19 18:09:34
一族
田沼山城守意知(長男。若年寄)/田沼能登守意致(甥。御側御用取次)
三浦荘一(田沼家用人)
同僚など
水野出羽守忠友(駿河沼津藩主。勝手掛老中)
松平右近将監武元(上州館林藩主。老中)/松平右京大夫輝高(上州高崎藩主。老中)
松平周防守康福(石見浜田藩主。老中)/井伊掃部頭直幸(近江彦根藩主。大老)
阿部能登守正敏(武州忍藩主。奏者番→大坂城代)

部下
松本伊豆守秀持(勘定奉行)/川井越前守久敬(勘定奉行)
石谷備後守清昌(長崎奉行→勘定奉行)/曲淵甲斐守景漸(大坂西町奉行→南町奉行)
佐野備後守政親(大坂西町奉行)/稲葉越中守正明(御側御用取次)
本郷大和守泰行(御側御用取次)/横田飛騨守準松(御側御用取次)

政敵
佐野善左衛門政言(旗本)/松平越中守定信(奥州白河藩主)
徳川家斉(十一代将軍)/一橋民部卿治済(御三卿)
種姫(松平定信姉)/徳川宗睦(尾張藩主)
徳川治貞(紀州藩主)/徳川治休(水戸藩主)
--------------------------
清水宮内卿重好(御三卿)/徳川家治(十代将軍)

561:日本@名無史さん
07/04/19 20:44:01
家斉の正室篤姫の実父、「高輪下馬将軍」こと島津重豪は、
意次の強力な支持者で、定信が老中になってからも、
彼の倹約政策など無視した。

562:島津家家老伊集院監物
07/04/19 21:47:50
高輪下馬将軍は家斉義父にして従四位上中将。白河の倹約一本槍の小僧など屁とも思い申さぬ

563:日本@名無史さん
07/04/20 10:30:19
田沼意次より水野忠篤のほうが権力あったと思います。

564:日本@名無史さん
07/04/20 11:35:13
だからなんで美濃守忠篤の話題に振るんだよ!

565:日本@名無史さん
07/04/20 12:29:49
二人とも大樹の衆道相手だからぢや!

566:日本@名無史さん
07/04/20 15:10:08
忠篤は家斉とホモ関係か。林忠英ともやってたのかな。

567:日本@名無史さん
07/04/20 15:25:58
権力という点では多分意次のほうが格が上だと思う。

568:日本@名無史さん
07/04/20 17:24:29
そろそろ忠篤スレが必要なのかも。しかしどんなに日本史好きなやつでも水野忠篤知ってるのは少ないと思う。メジャーな人物ではなさそう。

569:日本@名無史さん
07/04/20 20:26:32
>>552汎ゲルマン主義なんて言ってるのは、日本の学者だけ。おそらくは、汎スラブ主義に対する用語として生み出されたのだろう。


正しくは大ドイツ主義。

570:日本@名無史さん
07/04/20 20:54:52
まア、綱吉と吉保ほど有名ではないけど、
「衆道を以ておのれ立身出世致し、武功の衆を侮る・・・・」と陰口を
たたかれたぐらいだから、家重と意次もそういう関係だったんだろうね。
家光と堀田正盛、家宣と間部詮房の例もあるしね。
けど、他者と違って将軍の取り巻きで終らなかったところが意次の凄いところ。
「拙者はかように勤居候ても、老職までになる心なり・・・・」の意気込みと、
それも単なる権勢欲からではなく、確たる政治的理念の持ち主だったことが
なおさら輝いていると思う。

571:日本@名無史さん
07/04/21 01:36:31
もともと譜代大名の家柄でない者が老中になるのも初めてなら、
側用人を兼務したまま老中になるのも初めて。
それだけ意次に対する将軍家治の信任が厚かったんだろうが、
その分、門閥派の妬みと恨みを買ってしまったんだろうな。

572:日本@名無史さん
07/04/21 05:15:40
家治は気宇壮大な気風を持っていて、祖父である吉宗の期待も大きかったらしいのだが、実際は意次に「押し込め」に遭っていたのだろう。
田沼意次の価値観を考えるときに結構興味深いテーマなので、いろいろ意見を聞きたいから、敢えて自分の意見を言い切ってしまおう。
多分、田沼は君臣の秩序なんていう従来の価値観に「辟易」していたのだろう。才覚や能力がある人間が何故台頭できないのか。

根っからの逆臣ではなかったと思うが、儒教(特に朱子学)的な価値観でいろいろいう奴(従来からだが、特に改革路線・松平定信なんかは最悪?)も多い中でそういうものに対する忌避感が拡大して行ったのは間違いないと思う。
そういう人間をまとめて言えば「門閥」なんだろうが、それを「排除」はしない、できない? は興味あるところ。

意次にとっては、将軍も、いや将軍位こそ門閥の最たるものとも考えられるのでは?
反門閥ではない。しかし、門閥の考え方では、門閥にとってもダメだと意次は考えていて、だから俺のような実力派に任せておけよ、みんなが良くなるようにしてみせるから、という位の考え方ではなかったか。
「賄賂やカネ」と「忠義」に対する独自の考え方も残っているが、田沼にとっての「良い」とは何かを考えてみるのも面白そうだ。



573:日本@名無史さん
07/04/21 11:41:13
ある意味、田沼意次も門閥も「現状肯定」なんだろ。
17世紀初頭から19世紀半ばまでが江戸時代だが、18世紀という時点は、ほぼ真ん中に当たる。
まだ江戸幕府という体制そのものを疑問視するという発想は出てこない。

享保や寛政の改革にしても、田沼意次の政治にしても「改革」には違いない。内容が正反対ではあるが。


574:日本@名無史さん
07/04/21 11:42:03
>>572
ん~う!? なかなか挑発的で斬新な意見だネ。
でもネ、何より意次の権威の源泉は、家重・家治父子の全幅に近い信任にあったから、
家治を「押し込める」必要などまったくなかったと思うな。
意次は何も徳川政権の乗っ取りを考えていたわけじゃないんだから。
意次は政治家としては理念型だったが、なかなかどうして実際面ではマキァベリストでもあったから、
無能な門閥派が幕政を牛耳ってきたことに忸怩としながも、血縁を結んだりして取り込むことは考えても、
「排除」みたいな極端な志向はもともとなかったと思うな。




575:日本@名無史さん
07/04/21 12:03:13
改革志向の強い将軍は、綱吉、家宣、吉宗、慶喜など成人後に他家から入った連中だ。
(15歳と13歳で入嗣した家斉と家茂は、政見を持ちまでに至っていない)
彼らはいずれも将軍の有力後継候補として、政権構想をずっと温めてきた経緯がある。
そうした彼の下では、側用人も将軍の意を迎えることに汲々としがち。
その点、家治は生まれながらの将軍として、聡明の聞こえ高いが、温厚に育って果断な政治を
自ら断行する気力に欠けた。
だからこそ、家重の遺言もあって、有能な田沼意次を信頼し、彼に政治を委任した。


576:日本@名無史さん
07/04/21 15:36:14
田安卿斉匡あげ

577:日本@名無史さん
07/04/21 18:39:17
家斉の改革志向とは、係累を増やすことで徳川家の力を増すこと。
そのために必要なのは子作りで、むしろ家康路線だな。
政策に見るべきものがないと考えるムキもあるが、当時は民主政治でないから、一概に定義できない。
権力志向一辺倒というのも「政策」だ。太政大臣にまでなっているから、無能な射精魔ではない。
家茂は政治見識はともかく(稚拙かも知れないが尊王家だったようだ)、長州征伐という、(大阪の陣を除けば)江戸幕府がやったことがない大名の討伐をやっている。
他の他家から入った将軍に比べたら霞むかも知れないが、それなりに面白い将軍たちだ。

578:日本@名無史さん
07/04/21 19:21:13
尾張、紀伊、田安、清水、越智、蜂須賀、因幡池田、川越、明石、津山…これだけ大量に養子を送り込んだ将軍はおらぬ

579:日本@名無史さん
07/04/21 21:55:28
産ませただけで、あとは他人任せ。展望もな~んもない!
脳タリ~ンの早死にが多く、跡継ぎがいるのに押し付けられて迷惑する藩も。
多子多妻で幕府財政はガタガタ。
挙げ句が侫臣はべらせて。
かくして精力絶倫の爺ィは長生きして太政大臣になれた。

580:日本@名無史さん
07/04/21 22:32:47
側近のなかでも水野出羽守忠成と中野播磨守清茂はそこそこ頭が切れたようだが若年寄の林、小納戸頭取の美濃部、御用取次の忠篤があくどいんだよ

581:日本@名無史さん
07/04/21 23:16:05
>>579
各藩のことなど考えてもいないだろう。
それどころか、将来的に敵対しかねない田安家と尾張家を事実上乗っ取ったのはひとつの手腕だろう。
相手のあることであり、無能では出来ない。相手がそれを上回る無能であったとしても。

・・・って、ここは、田沼意次のスレか。スマソ。

582:日本@名無史さん
07/04/21 23:28:06
「メンドリ鳴いて国滅ぶ」とはよく言ったもんだ。
感応時のスキャンダルも侫人忠篤の専横も、みんな側妾におねだりされた末のこと。
鼻の下伸ばした家斉がそのスケベ心につけこまれたって感じ。
これって為政者として最低限のモラルだろう!
家治・家基親子を意次・意知親子が補佐していたら・・・って、つくづく残念に思う。

583:日本@名無史さん
07/04/21 23:34:15
感応寺ね。

でも官能時・・・と言えば言えないことはないかもw

584:日本@名無史さん
07/04/21 23:42:53
家斉のエピソードで笑ったのは、三国志に関する逸話。

家斉が三国志に興味を持って読んだ挙句、側近たちが集まっている席でその話をして、
「このような話に出てくる忠臣が、余の側にも居ればのう・・・」
側近たちは黙り込んでしまったらしいが、その後家斉が、
「ま、主君が主君だからそれも仕方ないか・・・」
といって呵呵大笑したとか。

自覚していたんじゃないのかな。まあ、父治済の尽力で将軍になれたお坊ちゃま。

・・・田沼がどんどん遠ざかっていく、が、ネタ切れなら仕方ないか(呵呵大笑)。


585:日本@名無史さん
07/04/21 23:51:25
尾張家も田安家も乗っ取ったのは家斉の父治済です。
治済の三男斉匤が空屋形の田安家に養子入りしてます。
これには治済と定信の間に、定信の老中首座就任と斉匤の田安家入りをバーターする密約が
あったともいわれています。
尾張家も、治済の子治国の長子斉朝が最初に乗り込んでいます。家斉の十九男斉温が継いだのは
その後です。

586:日本@名無史さん
07/04/21 23:56:47
ごめん。
田安家に入った斉匤は治済の五男、
三男は治国でした。

587:日本@名無史さん
07/04/22 00:18:03
家斉の子らがそれぞれ尾張、紀伊、田安、清水の御三家御三卿に入ったのは、
いずれも一橋治済在世中のことですから、血族支配の絵図を描いたのは、策略家で剛腕の治済
であって、家斉は単にハラませただけって感じがします。
意次は(そして定信も)とんでもない怪物を相手にして、敗れ去ったと言うべきでしょう。

588:日本@名無史さん
07/04/22 14:08:54
やっぱり一橋民部卿治済スレだな、ここはw

589:日本@名無史さん
07/04/22 19:19:13
【天下】吉宗亡き後の楽しい徳川家【泰平】

590:日本@名無史さん
07/04/22 21:46:29
吉宗の政治の継承者は定信だという意見があるが、大勘違い。
意次の印旛沼開拓は、吉宗の政策を引き継いだものだし、
その人材登用は、吉宗が用いた紀伊系幕臣団の2世を多く登用しているそうだ。

倹約令など吉宗の緊縮財政路線さえ、最初は踏襲した。
ただ不景気が拡大して、のちに重商主義へと路線変更しただけ。
意次の吉宗~家重~家治~家基への忠誠心は生涯変わらなかったと思うな。

591:日本@名無史さん
07/04/22 23:47:54
水野忠篤はどうなったの?

592:日本@名無史さん
07/04/22 23:50:50
>>546の話、面白かったんでググったら、本当だったんだ。
でもこの岡部長備って、実は俗書では田沼意次によって謀殺されたといわれる老中久世広明の係累だったんだね。
長備の叔母が久世広明の正室。
まさか意次への復讐を遂げさせるために、松平定信がはからってやった、ってワケでもなかろうが。

593:日本@名無史さん
07/04/23 00:31:18
吉宗の継承問題辺りから、事実関係はいろいろあると思うけど、謀殺・毒殺の類の案件が徳川家では確かに増えるね。
これって、何かひとつの流れとか、一貫した担当者、一族みたいなのがいるのかな。
こういうのは思いつきだけではなかなか出来ないし、それなりのノウハウの蓄積・継承があるのでは。
田沼がよく絡んでいるのではという話は確かに多いが、その通りなのか、或いは田沼だと思わせるような何かとか。
田沼ではないとするなら、これは相当高度な技術だと思うがね。
一橋治済が関係していたのは確かだとして、一橋家当主の一個人だけでどうにかなるものでもないとも思えるのだが。
大体、吉宗の将軍後継の頃なんて、一橋家そのものが存在していない訳だし。

594:日本@名無史さん
07/04/23 00:34:17
ちょっと紛らわしい表現だったかもしれない。
吉宗の将軍後継って、8代将軍の座が問題になっていた頃、くらいの意味です。

595:日本@名無史さん
07/04/23 01:21:55
それ以前にも、甲府綱重の旅先での急死、家綱遺児の流産、尾張綱誠の食中毒死、老中阿部正武の病死・・・
について、いろいろ謀殺説はあるよ。
権力の中枢は伏魔殿、暗殺、謀殺の憶測は氾濫している。

>>563の意見に敢えて応えるとすれば、
紀伊家には根来薬込衆という秘密工作部隊がいて、八代将軍の座をめぐる争いに暗躍したとか、その一部は吉宗に従って将軍直轄になったとか、
直轄だから、その指揮権は御側御用取次の加納久通から田沼意次に引き継がれたとか・・・でも裏づける史料が何もない。

こうした影の種族は朝廷にもいて、それが八瀬童子。昭和天皇の御大喪で棺を担いだ一族の先祖。
でも、まともな史家は一顧だにしない。

596:日本@名無史さん
07/04/23 09:59:58
まともな史家って、現実から目を背ける者を言うのか?
きっと30世紀辺りのまともな史家なる者は、CIAやKGBの存在も一顧だにしないのかも知れないw

顧みて分析を試みたが、事実関係が確定せず、史実は目下謎のまま、というのだったら分かる。
憶測だけで確かなことは言えないと言う姿勢は、それなりに評価できるからね。

しかし一顧だにしない、というのは、そもそも取り組む態度として間違ってはいないか。
調べもせずに評価してしまっているのだから。
そして、「まともな史家」という表現が、その辺りの事情を物語ってしまっている。
つまり、そんなものを調べようとすると、「まともな史家」ではないというレッテルが貼られるということだ。
だから史学(日本史学)は世間と隔絶してしまうのではないかな?


597:日本@名無史さん
07/04/23 10:40:38
紀州という土地は、源平の昔(熊野別当とか)からそうした秘密裡な話が多いね。
戦国時代の根来衆もそうだし、だからこそ、家康は御三家のひとつを封じたのだろう。
そうした土地を本拠にした紀州徳川家も、初代頼宣以来、謀略色が強い。
血統というより、土地柄が育む何かがあるのかも知れない。

598:日本@名無史さん
07/04/23 12:49:59
水野忠篤は政治的手腕を発揮したの?
側衆として大御所政治をリードしてたんだろうし。

599:日本@名無史さん
07/04/23 12:59:38
>>596
レッテルというより、業績にならないから手出ししないというのではないか。
なにしろ分からない。史料もない。史料に基づかなければトンデモと言われてしまうからね。
かくして史実は闇に葬られる。

当時の人間が闇に葬りたかったのだろうから、まさに思う壺だな。

600:新井勘解由
07/04/23 20:08:43
スレリンク(history板)l50

601:日本@名無史さん
07/04/23 22:36:53
類推するのも、歴史としてはありだろうね。それは否定できないよ。
ただ、史学論文として成立しないというだけだろう。
ここでは、確定論文以外不可、という訳ではないので、もう少し気軽にやりませんか?

私は、謀殺などを担当していたのは、他でもない「田沼一族」だと思う。
紀州という地盤。吉宗の時と言い、その後の幕府内部といい、暗躍の中に田沼一族がいた。
一橋治済もそうした価値を利用したと思える。

しかし、問題は「田沼意次」その人。
この人は、確かにそうした田沼一族として、そうした位置づけの中から出てきたと思うのだが、彼はそうではない才覚と能力を持っていた。
それが「政治家」としての才能だったと思う。単なる幕府「CIA」ではなく、西の丸から政治を見て、彼の才能が自覚されたのではないかと思う。
しかし門閥中心の中で、それだけで台頭は出来ない。
それが、一橋治済(もしくは一橋家)との接近ではなかったか。御三卿に甘んじるのを善しとしない一橋家と、政界台頭を目論む意次の利害が一致した。


602:日本@名無史さん
07/04/23 22:37:31
ただし、これだけでは不自然。何故なら本来意次は家重-家治ラインという将軍家そのものにパイプを持っているので、わざわざ傍系に働きかける必要がどこにあるのかということ。
おそらく、働きかけてきたのは一橋側だろう。そして、そのネタになったのが、田沼一族の持つ暗い一面ではないかと思う。
多分、吉宗の頃だったら、意次自身もそうしたことを心配する必要はなかっただろう。吉宗は清濁併せ持っていて、田沼一族の存在や本質も理解していたはず。
しかし、代を経て、そうした紀州徳川家の将軍獲得というのは過去の話になり、家重や家治はまったく無縁の立場になっていたと思う。
そこで政治の表舞台を目指す意次にとって、そうした裏の一面をあからさまに言われることは、忸怩たるものがあったのではと思える。
そこに治済はつけ込んだのではないのかな。

田沼意次を田中角栄に比類した人がいたけど、政策面では確かにそうかも知れない。
しかし、立場という面で、ソビエト連邦末期の書記長「アンドロポフ」を想起するな。
元KGB長官だが、書記長となった。短期間で死去したから、政策らしいものは見るべきものはないが。
しかし田沼意次は、(本来は陰の部隊長の立場でありながら)卓越した政策を採れる政治家となった。
このジレンマの部分が、治済に利用されたような気がする。
当然家基暗殺は、田沼が関わっている。意次本人はともかく、少なくとも田沼一族の誰かが実行にも関わっていると思う。


603:日本@名無史さん
07/04/24 00:20:23
「まともな史家は一顧だにしない」・・・
いろいろ誤解を呼んでいるみたいだけど、これって、「非常に残念なことに」って思いと、
専門家の頑なな実証主義に多少の揶揄を込めて書いたつもり。
ここは2ちゃんなんだから、史料の行間はめいめいの想像力で埋めればよいし、
だから歴史は専門家でなくても楽しめるってもんだから。
一次資料だけでなく、怪しげな俗書も取り込んで、大胆な自説を唱える三田村鳶魚なぞ、
史学会では黙殺同然だけど、個人的には凄く好きだね。
まあ、史実を無視して、あんまり想像力の化け物みたいなものを肥え太らせてもどうか?
とは思うけど。
どうでもいい独り言でした。スマソ


604:日本@名無史さん
07/04/24 12:18:12
それは平成の革命で有り!

605:日本@名無史さん
07/04/25 01:05:25
>>602
田沼一族が紀州以来、暗殺者の系譜にあったかどうかは別として、
また、
意行・意次父子の小姓→小納戸といった経歴から考えると、闇の仕事を任されていた
って匂いはしない。
>>602の例えに従えば、アンドロポフよりブレジネフの秘蔵っ子チェルネンコの経歴に近い。
実際同じような職歴をたどった吉保、詮房はチェルネンコ型といえなくもない)
とか
・意次には家基謀殺の合理性がまったくといって良いほど見当たらない。
とか
等々をすべて捨象して想像すると、
例えば、甥の意致は、一橋家家老から将軍の御側御用取次に出世したわけだから、
つまり、田沼一族にも動機を持つ者がいたとは言えるだろうね。
もっとも、誰にせよ田沼一族は結局は切り捨てられたので、陰謀を主導したというより、
踊らされ、そそのかされたって印象の方が強いね。


606:日本@名無史さん
07/04/25 11:16:37
田沼意次は側用人と老中を兼ねてたっていう説もあるよね。

607:日本@名無史さん
07/04/25 11:25:52
電波を流してる馬鹿がいるね

608:日本@名無史さん
07/04/25 13:21:13
>605 あたりは猛毒電波の典型だね

609:日本@名無史さん
07/04/25 17:48:57
意次が老中を兼ねてたのは都市伝説だったの?

610:矢田部奈緒美
07/04/25 18:29:41
陰謀だの闇の仕事だの三流時代劇の見すぎじゃないかと思わせる脳内妄想電波レスかましてる精神分裂者が暴れてるスレはここですか?

611:日本@名無史さん
07/04/25 23:11:09
>>610
心配しなくていい。
そんな電波は飛んでないし、あんたは受信したつもりになっているだけ。
関わる必要ないから。


612:日本@名無史さん
07/04/25 23:49:51
意行・意次父子が同様に勤めた小姓、小納戸は将軍の近習ではあっても、
政治面ではなく身の回りの世話が中心で、三奉行や大目付、目付のように
実働部隊を持たない。
吉宗によって創設されたお庭番も確かに根来薬込衆の出身者で占められたが、
これに意行・意次父子は関わる立場になかった。
関わりができたとしたら、それは御側御用取次になって以降のことだろうから、
早くても家重以後のことだと思う。

父子いずれも吉保・詮房のような美男子で、才気煥発、よく気の利く、いかにも主君の
お気に入りになりそうな人物だったという。
その前提に立つから、>>605で棚上げしたり捨象した部分が本来の僕の意見。

ただ、>>601-602のような考え方も頭から否定すべきじゃないだろうと思って、
家基暗殺説に立つならば、彼の死によって利益を得たもの者はすべて容疑者たりうるという点で、
意次は容疑者からはずれても、意致はシロとは断定できないだろうと言ったまで。


613:日本@名無史さん
07/04/26 00:10:19
>>610
ええと、ね。
2ちゃんの日本史板では常にそのような話が出て来ますね。

史学という学問の交流の場というだけなら、素人はみんなオミットして史料を提示しての論証の場であってもいいかも知れない。
しかし、ここにはいろんな立場の人が来ます。
ちなみに私は情報システムのコンサルタントです。情報工学やシステム・コンサルティングという分野は、何のかかわりもないように思われるかの知れませんが、やはり歴史には興味がありますし、また、ただホビーに留まるという訳でもないのですね。
歴史的な思考とか、或いは過去の事例と言うのは、現代社会を考える上でも必要な視点ですし、歴史的思考をまったく除外しては、現代も考察できません。

おそらく、史学を専門になされている人と、そうでない人との一番の違いは、歴史的事項に関する情報の多寡、それと意見の中の実証部分と類推部分のウェートの違いでしょう。
むしろ、専門知識に秀でている方は、ここで類推としておかしな点があった場合、具体的に指摘して頂ければ良い交流の場になるのではと言う気がします。

私も、いろいろ読んだ知識はありますが、やはり素人です。ここで指摘して頂いたことは、また自分でも調べたりして確認しようと思っています。
もし、専門的な知識がおありなら、具体的に言っていただければ助かります。
少なくとも、感情をぶつけても、茶々を入れても、あなたはそれだけの人間にしか見えないことでしょう。
宜しくお願いします。


614:日本@名無史さん
07/04/26 23:58:12
>>613に禿同

615:日本@名無史さん
07/04/27 01:09:13
田沼を再評価するのは良いんだが、やっぱ怪しいところもあるんじゃないのかな。
陰謀・謀略が出ると、即座に時代劇がどうのというのは、世の中に謀略が存在しないと思っているのか。

門閥の壁を超えるのは、才能や能力だけでは不十分。それでは、うまく使われるだけ。
田沼も一橋なんてのに使われたんだろうが、それ以上の能力を発揮して歴史に名を残したんだから、うまく使われる以上の何かがあったのではないかと思うね。

616:日本@名無史さん
07/04/27 01:34:21
だからといって大納言家基暗殺に一枚噛んだというのは極論だよ。なんのメリットもない。田沼としては家基将軍のほうが生き残れる。

617:日本@名無史さん
07/04/27 09:58:23
>>615
一橋民部卿治済がいる以上、陰謀、謀略は誰も否定できない

618:日本@名無史さん
07/04/28 01:09:49
意次と治済は「使う」「使われる」の関係というより、どっちも相当したたかな奴だから、
握手しながら、テーブルの下では激しく蹴りを入れてるような、そんな関係じゃなかったか、と。

619:日本@名無史さん
07/04/28 02:40:43
このスレでは、意次と治済が主役の座を競ってますね。
どっちが勝つんだろ?

620:日本@名無史さん
07/04/28 02:52:56
>>616
その部分なんだが・・・
結果から見れば、家基が不審な死を遂げ、家斉が将軍になったのを契機に田沼意次は失脚して行った。
だが、その流れ一本だったら、いくらなんでも政権の座にいる意次がなす術がないというのもおかしな話だね。
確かに、意知が殺されたりと、凋落の序章はあった。だが、ただ無抵抗に、気がついたら四面楚歌でただ失脚したなんて無策過ぎないかな? 意次がだよ!?

想像・類推で申し訳ないけど、この場合、流れで行けば治済が意次を裏切った、とするのが一番自然なんじゃないかな?
一橋家と田沼家のつながりは深そうだよね。俺は余り知らなかったが、このスレでのカキコ見てると、結構田沼の係累が一橋家に入ってそうだし。
だから、家治がなくなるまでは、田沼意次と一橋治済の蜜月関係は、端から見ても疑いようのないものに思われた。
治済の陰謀なのか。または松平定信辺りが一枚かんでいたのか分からないが、意次にとっては予想外の展開が土壇場で起きたのではと思えるのだけれど。
この辺りの実情はどうなんでしょう。

621:日本@名無史さん
07/04/28 03:04:58
>>613
そうは言ってもここは「学問」板だしなあ…。
学問以外の視点で歴史を語りたいなら歴史難民板にでも行けばいいんじゃないか?
あっちは板のジャンルも「趣味」板だから。

622:日本@名無史さん
07/04/28 08:59:39
吉宗の兄頼職と家基の死に方って、よく似てるよね。

623:日本@名無史さん
07/04/28 11:39:39
>>621
学問は、だから否定できないと思う。トンデモスレも多いけれどね。
ただし、論文レベルでなくても良いのでは。仮説段階でも未熟段階でも。
逆に言えば、学問としてやらなかった人と学問でやっている人の接点になるから良い機会になるのでは?
能力レベルの差だけじゃないと思う。
歴史に興味があったけれど、進路としては史学は選択できないなあ、という人も多いだろうし。
ちなみに俺自身は工学部出身。進路としてはシステムやりたかったんで。
でも歴史も昔から興味があった。そういう人は結構多いよ。
史学専門の人は、世間一般での歴史認識とか、認知度が分かるから良いのでは?

624:日本@名無史さん
07/04/28 16:44:03
御三卿は将軍家やその幕閣にとっては、いわれているほど重きをなしていなかった。
特に「血」はともかく「家」はほとんど蔑ろにされていた。
だから一橋治済は相当な危機感を持っていた。
それが権謀術数をめぐらせる彼の半生の出発点。
家重時代から幕政を実質的に主導してきた意次は、治済にとっては強大な脅威だった。
この両者の関係に、互いに牽制したり懐柔したりの「駆け引き」はあっても「蜜月」などあり得ないだろう。

625:日本@名無史さん
07/04/28 17:10:24
寛延4年 田沼意次、御側御用取次となる。
     →幕命により一橋宗尹の嫡男重昌が越前松平宗矩の養子になる。
宝暦8年 意次、相良藩1万石の大名になる。
     →重昌の早世を受け、宗尹三男(次男は夭折)重富が越前家に養子に出される。

※重昌はただの嫡男ではない。正室一条兼香の姫が産んだ文字通りの正嫡である。
 正嫡を養子として、他家に出すなど本来あり得ない。
 ましてお控えの重富まで出すなんて・・・


626:日本@名無史さん
07/04/28 18:21:40
治済が家基を暗殺したという前提自体が怪しい

627:日本@名無史さん
07/04/28 19:23:56
暗殺自体が、単なる仮説。
だが、あまりにも不自然な急死だったことから、いろいろ憶測を呼んだ。
お知保の方なぞ、悲嘆のあまり意図的に流された意次犯人説を信じてしまって、
いままで懇意だった意次をたちまち憎悪しはじめた。

暗殺があったとすれば、犯人捜査の基本は動機だ。
最大の受益者を疑うのが論理的。
なら、治済が怪しいと思うのは当然だろう。

628:日本@名無史さん
07/04/28 21:41:27
だから家基が暗殺されたという証拠を出せよ。

629:日本@名無史さん
07/04/28 21:58:07
どこの誰が、暗殺と決めつけたかな?

630:日本@名無史さん
07/04/28 22:06:19
意次の弟や甥が治済によって一橋家家老に「用いられた」ような表現があったが、
これは誤解を生む。
御三卿家老の人事権は当主にはなく、幕府にあるから。
意次自身の人事か、治済が意次に懇請したものか、そのどちらかだろう。
いずれにせよイニシアチブは意次が握っていた。

631:日本@名無史さん
07/04/28 22:59:51
>>625
一橋重昌が越前家に入嗣したのは延享4年です。
また、田沼意次が御側御用取次に就任したのは、大御所吉宗の死んだ宝暦元年とする説もあります。
ただ延享4年当時、すでに家重は将軍でしたから、宗武・宗尹の二人の弟にずっと脅かされてきた家重が、
当時すでに小姓組番頭だった意次と組んで、御両卿の弱体化をはかったとは考えられます。
表向きは、越前家の家格回復のため松平宗矩から、御両卿からの養子縁組を求める願いが出されていましたからね。
大御所吉宗も了としたのでしょう。
でも、幕府の命令で嫡男を出すのは確かに異例です。
しかも重富まで他家に出せば、残るは4歳の治済だけになってしまいますから。
こののちに起きる定国、定信兄弟の田安家からの追い出しまで視野に入れると、
意次の介在は可能性があると思います。政治的にも有能なのでしょうが、策士としても出色の人物。
でなければ「封建の異端児」にはなれなかったでしょうが。

632:日本@名無史さん
07/04/28 23:27:53
そもそも江戸期を現代と同じ様に考えてる陰謀厨は何とかならんか?

急死なんて当たり前の時代なのに


633:日本@名無史さん
07/04/28 23:45:58
謀殺話は、現代と違って死因を特定するのが難しい昔の方がむしろ真実味をもって語られます。
家基の死や意知の死についてのいろいろな憶測は、必ずしも現代人の発想ではなく、
誰かが挙げた「続三王外記」や「チチング日記」あるいは「柳営婦女伝双」などに当時から書かれていました。

でもだからといって、何でもかんでも暗殺に結びつけ、あるいは黒幕を断定して
野放図に想像を膨らませのもいかがとは思いますね。
その意味で、>>632の意見もうなづけます。


634:日本@名無史さん
07/04/29 01:09:03
では、田沼意次の失脚は、全くの偶然によって齎された可能性が高いというのが史学的結論でしょうか。

635:若年寄米倉丹後守昌俊
07/04/29 01:39:22
そう。偶然だよ

636:日本@名無史さん
07/04/29 12:31:47
終了

637:日本@名無史さん
07/04/30 16:46:49
>>633
>でもだからといって、
>何でもかんでも
>いかが(か)とは思いますね

申し訳ないが、これでは論証になっていない。自分の書いた前半への論証にすらなっていない。

まだ明らかでない、としか言えない。そういうことだなw

638:日本@名無史さん
07/04/30 16:55:55
三浦庄司って意次の死後どう過ごしたの?

639:日本@名無史さん
07/04/30 19:32:50
>>634
もちろん偶然ではありません。
家基、意知の死は意次にとって想定外だったでしょうし、それが彼の失脚を早めたのも事実でしょう。
でも、二人の死がなくても、当時意次を取り巻く環境はかなり厳しくなっていました。
意次の政策は明治維新を先取りしたような斬新な要素が随所に見受けられますが、
中でも「貸金会所令」の真意は、これまでの幕藩体制を揺るがすものでした。
それは守旧派どころか、大名旗本の生命線たる知行地の流動化をもたらすという点で、
封建領主全体を敵に回す危険がありました。
このタブーに挑んだ者は、「上知令」が致命傷となって失脚した水野忠邦も同様で、やはり潰されています。
水野忠友がした役回りを、この時は土井利位がしました。意次、忠邦の政権を支えてきた盟友さえ離反していったのです。
その改革は「早すぎた」とも言えますが、諸大名に号令するには幕権がすでに下り坂にあったという面で「遅すぎた」ともいえます。
いずれにせよ時代的拘束性という限界から、田沼の失脚は訪れるべくして訪れた・・・と言えるのではないでしょうか。



640:日本@名無史さん
07/04/30 19:57:22
>>637
おっしゃるとおりです。
暗殺、陰謀・・・となると、あったともなかったとも、なかなか論証できないものです。
ただ、意次の斡旋した町医師の投薬で家治の病状がさらに悪化したことから、意次は将軍家治にさえ
毒を盛らせたという説もあって、そこまでいってしまうと後戻りできなくなるような気がして・・・

「続三王外記」が意次とは疎遠だった松平武元の家臣石井彖が書いていること。
「日本風俗図誌」のオランダ商館長チチングも開明派の意次には親近感を持っていたうえ、
意次と懇意の長崎奉行久世広民から情報を得ていただろうこと。
「甲子夜話」の松浦静山は定信政権に近かったこと。
等々から、それぞれの立場立場で書かれているでしょうから、意次が家基の死に、また定信が意知の刺殺に
それぞれ介在したかどうか?藪の中なのです。

641:日本@名無史さん
07/05/01 17:20:01
家治、家基の死が暗殺だとか、田沼が絡んでいたと自説を持つのは自由だが、それを前提に次から次へと説を展開させるのはおかしい

642:日本@名無史さん
07/05/01 21:37:53
どうなんだろ、それは。
もし、その前提が間違っていたなら、展開を進めていくうちに矛盾が出てきたり間違いだと分かるようなものが出てくるのではないかなー。
そうすれば、そうでないことが証明できるかもしれない。

歴史だけでなく、自然科学でさえ、取り敢えず合理的な説明だ出来るうちはそれが真実なんだが、もっと考えが進むと、それを覆すような事象が現れたりするし。
どんな「学問」でも、取り敢えずの現在進行形なんじゃないかな?
話が進めば変わってくるのが、実は「発展」だったりして。

641さんは、おそらく反対なんだと思うから、そう思う理由や違う考えを出していけば、結果がどうあれ、事実がより見えてくると思う。


643:日本@名無史さん
07/05/01 21:47:01
ただし、歴史っちゅうーのは、もう杉田事だから、お宮入りも有りねw

644:日本@名無史さん
07/05/01 22:25:48
家基が暗殺され、それが一橋の陰謀で、田沼が弱みを握られていたから仲間に引き込まれたと書いてあるが余り説得力がない。なるほど一橋が豊千代を将軍継嗣にしたがっていたのはそうかもしれないが、あの段階で家基を暗殺しても豊千代にお鉢が廻ってくる保証はないではないか

645:日本@名無史さん
07/05/01 23:26:12
>>644
その他の候補者には誰がいましたか。
また、家斉が将軍になれたのは、どのような経緯によってでしょうか?

646:日本@名無史さん
07/05/01 23:39:11
判らん!

647:日本@名無史さん
07/05/01 23:48:33
てかまさにそれらはあなたが説明すべき事柄だろう。一橋が将軍家世嗣暗殺をした証拠はないんだから

648:日本@名無史さん
07/05/01 23:49:37
くじ引きじゃないの?
たしか治済が八幡宮に詣でて引いたとか、引かないとか・・・?

649:日本@名無史さん
07/05/01 23:56:13
それは「満済」で、しかも室町時代の足利義教の話で(ry

と突っ込ませたい釣りだろw

650:☆ ◆G8Jw4.nqFk
07/05/01 23:56:57
民部卿治済が暗殺したとか田沼を抱き込んだとかそういう新説をもちこむほうがおかしいんだよ

651:日本@名無史さん
07/05/02 00:11:35
新説でもなんでもない。
むしろ手垢のついた話題。
だが否定も肯定もする確証がないから、いつも湧いて出てくる。

652:日本@名無史さん
07/05/02 00:16:53
つまりウジ虫と同じというわけだな

653:日本@名無史さん
07/05/02 00:32:38
このスレそろそろ終わりでOK?
>>652のような蛆虫を虫干しする必要があるかも。

654:日本@名無史さん
07/05/02 00:44:45
なんか、平和ボケした現代日本人の典型を見る思い。
開発独裁といわれる発展途上国はもちろん、
先進国の中でも、暗殺や秘密工作を行なう機関はない方が稀。
暗殺説を現代人の幻想とする方がおかしいだろう。
昔は、死因は謎のままになりやすいし、捜査能力は劣るし、科研なんてないしな。



655:日本@名無史さん
07/05/02 02:01:43
当時の江戸は現在以上に平和ボケな世界だと思うんだが

656:日本@名無史さん
07/05/02 02:08:53
>>654
暗殺・陰謀なんて所詮B級。
推論から始まった結論なんてクズですよw

657:日本@名無史さん
07/05/02 02:16:10
>>656
想像力・創造性ゼロ人間で確定w

推論から論証すれば良い。だから論証(反証でも当然可)にかかるのかと思えば、ウジ虫だ、クズだ・・・
シロートは来ても良いと思うが、話も通じないと書いても読んでも意味がない。何の為に書いてるの?

暗殺、陰謀を否定するのは良いと思う。ただ、何故否定できるのかが問題。
逆に知りたいところなんだが。

658:日本@名無史さん
07/05/02 03:08:36
暗殺や陰謀が見当たらないのが現実なんだから暗殺や陰謀を裏付ける証拠を説明する義務はそっちにあるんだよ。
いまのところ暗殺だの陰謀を裏付けるものがないからそこを準拠点とせざるを得ないと考えるところ、すでに陰謀や暗殺があったことを前提に話をぐちゃぐちゃに広げるからおかしくなる。
想像力とはいわず、妄想という。
それを想像力がないだのなんだのと噛みつかれても困るね。まさにクズ野郎、犬畜生以下の外道、デマ、天性のペテン師

659:日本@名無史さん
07/05/02 04:34:28
陰謀論=デンパ

660:日本@名無史さん
07/05/02 06:17:19
想像力=妄想力
創造性=捏造性

661:日本@名無史さん
07/05/02 10:46:57
では家基さんは、不幸にも死んでしまいました。
治済さんは、とても人の良い人物で、それを心配し、息子の豊千代丸ちゃんを将軍家に差し出しました。
それまで、タヌキさんが政治を仕切っていたのですが、疲れたでしょう、もう良いよって肩を叩いて降りて貰い、キツネさんを変わりに連れてきて老中をやって貰う事になりました。
豊千代丸ちゃんは家斉さんになり、お父さんはキツネさんと一緒にまつりごとを始めました。
で、家斉さんが成長したところで、治済さんはキツネさんに、もう疲れたでしょう。お稲荷さんをあげるから、もう降りてね、家斉さんは自分でやっていくから、と言いました。
キツネさんは、その後、本を書いて暮らしました、とさ。


662:日本@名無史さん
07/05/02 20:48:22
ウゲーッのひとことか

663:日本@名無史さん
07/05/02 23:00:10
4月の下旬からユニットバスの排水溝が詰まっていて一面水浸しになって水がひかず、
バケツで汲んで外まで往復を10回ぐらいしていたんですが、今日、意を決して
針金で排水溝をいじったら無事詰まりが治りました。本当にありがとうございました。

664:656
07/05/03 00:31:44
>>657
勝手に想像するのは結構だが、それは学問じゃねーよwww
小説家目指してがんばってくださいwww

陰謀があったって言ってるほうがその証拠を挙げるのは常識だろ・・・。
そんなことも知らないで学問板にいんの?www

シロートは来ても良いとは思うが、議論・学問の基本を知らないと意味がない。何の為に書いてるの?

665:日本@名無史さん
07/05/03 01:15:21
>>664
それは「知りたいから」だろう。
学問は、知る人と知らない人がいて成立するもの。
みんな知っていても成立しないし、みんな知らなくても成立しない。
「探求」なら、後者でも成立するだろうが。
また「知っている」でもいろいろなレベルがある。だから意見交換には意味がある。
最初から完全解しか書けない、のなら、それは陳列会で、その目的は「自己満足」だろうな。

頼むから、シロートでも分かるような事を、改めて聞くなよ。
野暮。

666:656
07/05/03 01:58:01
>>665
のってくんなよwww
てか最後のはあんたの言葉借りただけなんだけどそこだけにのるの?www
とりあえず>>658さんや>>664について意見をどうぞ?www

大体本当に知りたいなら妄想から始まる電波を肯定すんなよ・・・。
なんで研究者が暗殺説採らないか分かる?
真実を知りたくて史料に当たると暗殺を裏付けられないんだよ。
裏づけのない想像=妄想を肯定しながら知りたいとか探求とか言うなよw

頼むから、シロートはシロートらしくロムってろ。
野暮なんてガキが使わない言葉使うくらいだから大人だろ?
恥さらしてるから控えろ。な?


667:日本@名無史さん
07/05/03 03:00:29
暗殺や謀略を裏付けるのは確かに難しいです。
何せ、同時代に人にも知られないようにしている訳ですから。

噂には上りますがね。
現代でも、謀略をこれ見よがしにしていては、謀略ではないでしょう。

ただし、政略で、同時代の人にも明らかに判る場合はあります。
現代で言えば、小泉首相が郵政解散でチルドレンを輩出して選挙で大勝した、とか。
江戸時代は、民主主義ではありませんから、一般庶民には伝わらなくても、そういうケースは政治に関わるような関係者には伝わるでしょうね。
ですから、一橋治済みたいなのが政略を巡らした、くらいは伝わってくるのでしょう。


668:日本@名無史さん
07/05/03 03:54:01
だから一橋民部卿治済が陰謀家だったということが何ですぐに大納言家基や将軍家治暗殺(疑惑)に結びつけるわけ?
挙げ句はそこからさらに想像を膨らませて田沼が一枚かんでいたとか引きずり込まれたとか弱みを握られていたとか…さらに酷いのは田沼一族が闇の仕事だの影の種族だの後生のソ連書記長まで引用するしまつ。
どんどんどんどん妄想を前提に独りよがりな自説を拡大してゆく。
そりゃ治済の一挙手一投足に疑念を向ければキリがないわけで、前レスにもあるようにそれがしたいならば小説家を目指せばいいわけで日本史を討議するところにあんたはふさわしくないんだよ
ねえ君。情報システムのエンジニアだかなんだかしらないけど仮説に仮説を無限に広げるのは日本史じゃなくて小説の世界なんだよ

669:日本@名無史さん
07/05/03 04:13:24
妄想をあれこれ垂れ流し的に語るだけで、ではその事実関係に触れ得る内容を
説明しろといわれると全く説明できない。これもってしても妄想家であることはもはやハッキリした。

だいたい家基を殺傷しても清水宮内卿重好、一橋民部卿治済、御三家と、
優劣は別として将軍後継候補足りうる(まさにそのためにその家々は創設されている)
人々がいるわけで、一橋が暗殺の首謀者だとしても豊千代が将軍になれる確証はあるの?
暗殺暗殺というんだからあんたのほうから説明しなよ。
それら他の候補者をどうやって克服していったの?

それから繰り返しになるが、田沼意次にとっては、家治の次を傍系から養子
を迎えるというのは余りにもリスクが高い。過去の酒井忠清、柳沢吉保、間部詮房ら
がたどった末路を見てもわかる。
むしろ家治→家基と、つつがなく将軍職が継がれるほうが家基時代も、近代を見据えた
諸改革が行えると考えていたことであろう。
傍系養子は総じて先代の権臣失脚を伴う傾向が強い。
そういう客観的現象をすっ飛ばして、弱みだの闇の仕事を請け負っただの
なんら説得力のない妄想を展開するのは日本史板百年の大計を危うくする事は必定。



670:日本@名無史さん
07/05/03 04:38:05
>>668 >>669
エンジニアではなく、コンサルタントです。
書いてることも理解できないようなら、史料から得られるものですら、怪しそうですね。
仮説段階で考えることも「想像を絶する」のでしょうな。

小説がそうなのは、ストーリーにする為、論証が済んでないところも埋める必要が出てくる為。
「小説の世界」とか「史学の世界」とか、やたら世界を分けたがるようだが。

それから、俺は「断定」はしていない。
断定をしていないのを断定しているように言ったり、「妄想家であることはもはやハッキリした」なんて「断定」している方が「妄想」だと思われ。

あまっさえ、
>なんら説得力のない妄想を展開するのは日本史板百年の大計を危うくする事は必定。
とは。

「日本史板百年の大計」とは、その程度で危うくなるシロモノなのか?
「必定」という断定つきだが。
もっと自信を持ってはどうかな。今のところ、シロートに翻弄されているとしか映らない状況だが。
俺は翻弄するつもりはないから、自らの墓穴を掘っているのだろう。

671:日本@名無史さん
07/05/03 04:52:18
ちょっと思うのだが、そこまで雑言を並べ立ててまで、>>668>>669が守りたいものって一体何なんだろう。

例えば、情報システムの分野(「世界」なんて表現ではなく、専門家なら「分野」という表現が適当では)でも、顧客がいて、かつ当然シロートだからそれなりの事を言ってくる。
トンデモに近い内容もあるし、また難しいことも言ってくるが、そんなことで、専門家はいちいち躍起になったりしない。
それに相応しい事を筋道を立てて普通に言えば済む話。

歴史の話って、そんなに専門家にとって余裕のない、危ういものなんだろうか?
専門家が汲々としているのは、余りみっとも良い状態ではないと思うが。

672:日本@名無史さん
07/05/03 11:38:40
家治の後継者について。。。
一橋豊千代が家治の世継ぎとして西の丸入りした天明1年当時、
御三家御三卿の顔ぶれは次のとおりでした。
尾張宗睦(48歳)―継嗣なし
紀伊宗貞(51歳)―岩千代〈養子〉(10歳)
水戸治保(30歳)―鶴千代(8歳)
田安家(安永3年以来空き家状態)
一橋治済(30歳)―豊千代(8歳)
清水重好(36歳)―継嗣なし

一橋豊千代は家基と同じ吉宗の曾孫で、将軍家との親等からいえば、
家治の後継者として対抗できる者が他にいませんでした。
御三家は当時、将軍家との繋がりは、家光の血が入った尾張家以外、家康まで遡らねばならず、
「遠い親戚」状態。しかもその尾張家も吉通で嫡系は絶えています。
実際、家基死後、家治の後継者をめぐって、幕閣御三家の間で紛糾したという記録はありません。
家治の弟・清水重好は年齢、親等から言えば候補者たり得ても、生来の病弱で、
「あはれともいふべき人はなかりけり 身が病身で成らぬかなしさ」
と当時の落首で皮肉られる有り様でした。
「中興の英主」と言われ、発言力のあった尾張宗睦が、豊千代が西の丸入りした同じ天明1年に
48歳の年齢で従二位権大納言に異例の昇任を遂げているのは、意味深です。


673:日本@名無史さん
07/05/03 11:41:29
歴史ヲタが専門外の人間に押し捲られ、防戦一方w

突っ込めばもっと面白いのだが。
>>669
>だいたい家基を殺傷しても~
から後は、もう結果が出ている。豊千代丸改め家斉が将軍になったことは間違いない。
これに異論はないはず。
今更他の候補を挙げて云々するのが妄想だろう。
この妄想を一概に悪いとは言わないが、シロートより秀でていると自負しているのなら、
暗殺説を上回る考え方で、何故何人かの候補の中から家斉となったのかの合理的な説明
をすべきだろう。
「暗殺では?」と言った側は、シロート意見ながら、一応もう書いている。罪刑法定主
義みたいな証明責任の話を必死に展開しているが、そういうレベルの話なら、取り敢え
ず例え拙くても済んでいて、今は歴史ヲタ側の反証の番だよ。
ウジ虫とか、デンパとか言っている場合ではない。

>それから繰り返しになるが、~
から後もだ。何で歴史ヲタが、事実と違うケースで仮定の話ばかりしている
んだ。
端から見ていても、こちらの方がデンパで、拙くても暗殺説の方が事実検証
(事実ではないと思うが)のレベルの話ではないかよ。

完全に歴史ヲタが負けてるぞ。ヲタだから仕方ないかw
こんなの、専門家じゃないよ。専門家と話をしたかったら、大学に行ってくれよ。


674:日本@名無史さん
07/05/03 11:47:12
>>672
すれ違いだったが、このような話なら、マトモに検証していると言えるよね。
歴史ヲタは反証の機会も逸し、バカっぷりだけが発露して終息へ。

もう来ない方が懸命だろw 書けば書くほど、バカっぷりが残るだけだ。


675:日本@名無史さん
07/05/03 11:58:21
>>672
それなら、と俺が聞いたりする。
そこで掲げられた候補者で言えば、最も後継者に相応しいのは、実は一橋治済
その人ではないかと思えてくるのだが。
徳川吉宗は33歳(数え年)で8代将軍として紀伊家から相続している。
何故、治済本人が11代将軍にならなかったのか、という問題が残るよな。


676:日本@名無史さん
07/05/03 12:48:09
>>675
もっともな疑問だと思います。
私見ですが、主な理由は2つあると思います。
①家治の後継と入っても、世子家基の死を受けて跡を継ぐわけですから、
 治済では、世代的に後戻りになってしまいます。
 実際、家宣が家継の生育を危ぶんで、その後継者に指名したといわれるのは、
 巷間伝わっているような尾張吉通・紀伊吉宗ではなく、その子息たち五郎太・長福丸でした。
 結果としては、吉宗が8代将軍になったわけですが、やはり他家から入った綱吉、家宣のケースに比べて、
 周囲にずいぶん遠慮する羽目になりました。
 将軍になってのち、家重を西の丸に入れるのに8年もかけています。

②治済は、豊千代の入嗣、意次の失脚、定信の起用とその失脚に際して、常に御三家に周到な根回しをしています。
 いわば生臭い役回りをしてきた当事者です。
 彼自身が将軍襲位の野心を剥き出しにすれば、当時はまだ意次一党で占められていた幕閣や御三家、なにより将軍家治自身の反応は
 きびしいものになっていたでしょう。
 「幼将軍なら・・・」という思いは、その後の主導権をめぐって意次らにも算段があったでしょうし、
 大奥の受けも良いですから。

 

 

677:日本@名無史さん
07/05/03 14:01:10
>>676
良い見解だな。
誹謗中傷には文句を言うが、まっとうな意見には文句を言うつもりはない。
ただ、細かいところは突くよw それは、それ以外の部分を認めた上での話しなんだが。

「大奥の受け」は疑問だな。
何故なら、幼少の将軍だと、「関係」を持てないから。
大奥の女たちの栄達を、一言で言えば「上様のご寵愛を受けて、男子を身篭りたい」だろう。
その時点で女盛りなら、幼将軍が成長した頃は、逆に盛りを過ぎている事だろう。
チャンスは基本的に、ない。ストレスが溜まる一方だと思うが。
トンデモ話になりかねないが、これが大奥というものだと思う。
歴史的な影響という話で言えば、「絵島生島事件」はそんな状況も一因だと思う。
幼将軍家継。これじゃ上様と通じて後継ぎを生むチャンスなんか、ない。
絵島自身というより、大奥の中にそんなストレスが鬱積していたのではないだろうか。
そんなケース・スタディが、過去に実際にあると、余計にそう思うのではないかと考えるが。

結果は、家斉は15歳(数え年)で将軍になった。かつ、定信の管理下で早期に女色へ奔る事を厳しく戒められた。
定信失脚後、堰を切ったように家斉は子作りを始めるが、家斉自身のストレスもさることながら、大奥のストレスもあったことが容易に考えられるな。


678:日本@名無史さん
07/05/03 15:46:44
>677
我ながら、大奥云々は蛇足だったかなあ、と後から思いました。
これは14代将軍の座をめぐって悶着を起こした当時の、紀伊慶福と一橋慶喜への
大奥一般の反応から想像して、確証もなく書いてしまいました。
大奥にはあまり詳しくありませんが、ただ、次のことは言えるのではないかと思います。
「御代替わり」によって、後宮は総入替えとなります。
他家から養子が入ってくる場合はなおさらです。
しかも彼女らは、まず本丸大奥の連中は、家基存命なら、お知保の方は将軍生母として大奥に
残り勢威をふるえたでしょうから、その望みを絶たれた本人はもとより周囲の落胆はひとしおだったでしょう。
西の丸の後宮も、家基の死とともに大奥入りが泡と潰えたので思いは同じ。
そこへ、もし治済が世子豊千代と夫人たちを引き連れて乗り込んできたら・・・

世継ぎとして治済と豊千代を迎える家治の大奥の心情を察するに、まだ豊千代の方が抵抗感が少ないのではないか?
と思ったのです。

679:日本@名無史さん
07/05/03 16:42:47
まあ「将軍家家族」というレベルだと、それは言えそう。
俺が念頭に置いたのは、多くの女中、腰元など格下が栄達を望む場合も含めていた。
綱吉生母、家継生母はそれに該当する。

ただ、無理が通らないかと言えば、出来ない事もない。
家継生母月光院は、吉宗将軍就任後も、吉宗と関係があったと言われている。さすがに大奥には居られず、別途屋敷を与えられているようだが。
それに家宣正室の天英院も残っている。ま、それが>>676のいう「周囲にずいぶん遠慮する羽目」の具体例かも知れないが。

将軍の意向なら(ましてや治済ほどの男なら)無理が通るとも思えるが、それ以外の要因で同意している以上、そのテの話はここで留めよう。

田沼意次の話は、そろそろネタ切れか・・・・?

680:日本@名無史さん
07/05/03 17:23:21
私は>>675(おそらく>>677>>679サンでもあるのかな?)の
一橋治済だって有力な候補者だ・・・という発想に感心しました。
また、家継時代の大奥の風紀の乱れが幼将軍を擁した女性たちの倦怠というか、
欲求不満からきているという意見も説得力があります。
あと、工学系のコンサルタントをしている方の意見にも賛成です。
専門家でも、まず仮説からはじまると思います。
我々はなかなか一次史料に直接触れる機会は少ないですから、史料に基づいて
論証するのは難しいですが、想像力は何より大切だと思います。

そして田沼意次・・・この人は幕政を担った人物の中で、個人的には最も興味深い人物です。
ネタはまだいっぱいあると思いますが。。。


681:日本@名無史さん
07/05/03 18:05:38
治済も候補の一人だとは、あなた方が非常に嫌ってる日本史オタが最初に指摘してますよ

682:日本@名無史さん
07/05/03 18:11:49
田沼意次は将軍候補じゃなかったの?












酒井忠清とか「下馬将軍」とか言われたし。
征夷大将軍はそりゃ無理だけど、○○将軍とか、或いは実権者としての呼び方はなかったのかな。

と、無理やり田沼意次に持って行ってみるw

683:日本@名無史さん
07/05/03 21:22:41
九州王朝説とか広瀬とかその辺の妄想野郎と変わらないなwww

684:日本@名無史さん
07/05/03 21:24:42
トンデモと分かって、知的推論を重ねているだけならいいんだけど・・・。
妄想家は本気になってそっちを真実だと思い込むからタチが悪いよな。

685:日本@名無史さん
07/05/03 21:48:25
妄想家という自分でデッチあげた妄想上の敵に向かって必死に吠えてるだけ。
反応すると、面白がって意味のない罵詈雑言を浴びせてくるだけだから、
勝手に無駄吠えさせればいい。無視!無視!

ここは妄想とは?とか、知的推論とは?って議論する場じゃねーの!

686:日本@名無史さん
07/05/03 22:30:55
で、家斉が将軍になれた説明はみごとにすっ飛ばす

687:日本@名無史さん
07/05/03 22:45:06
では田招意次についてかたりましょ?

688:日本@名無史さん
07/05/03 22:55:58
後北條の滅亡後、佐野家も改易となる。その一族が家康に召し出されて、後に紀州頼宣の家臣に。佐野一門の田沼家も同じく紀州藩足軽に。


と言う事でよいのかな。

689:日本@名無史さん
07/05/03 23:04:38
>>688
御三家とか出来たときに、大量の就職口が出来たんだろう。

考えてみれば、水戸家に「一色」とかがいたりするしね。
当時は、大名の改易も多かったから、これは失業対策の効果もあるかもしれない。

逆に御三卿の創設時は、・・・・・・ハッ!? また民部卿治済に接近してしまいそうだからここらで止めとこ。


690:水戸藩士・一色由良之助
07/05/03 23:08:32
水戸藩士・一色由良之助

691:日本@名無史さん
07/05/03 23:38:23
頃玉衛門介玉次

692:日本@名無史さん
07/05/04 00:03:49
妄想家は自分がそうだとは分かってないもんだよ

693:日本@名無史さん
07/05/04 06:18:18
それだけに始末が悪いなw

694:日本@名無史さん
07/05/04 11:24:33
自演乙 しかも内容がバカすぎ

695:日本@名無史さん
07/05/04 12:12:05
話を蒸し返すようで申し訳ありませんが、
>>669の意見も、その後段は説得力があると思います。
前段については、
家基死後の後継者としては、一橋豊千代以上の適格者はいませんでした。
しかし、
意次の改革が彼一代ではとても完成が覚束ない気宇壮大なものでしたから、
家基と意知の世代に期待していたことは確かでしょう。
傍系養子によって、先代の権臣が退けられるという傾向も史的事実です。
ですから意次が家基の死に介在したとは、論理的にあり得ないという見解に賛成です。

ただ、残念なのは、おそらくあなた自身はよくわかっていて、いきがかり上こだわっている
だけではないかと疑うんですが、
家基の死は、
①彼がそれまで至って健康であったこと。
②急の発症がハンミョウを盛った場合の症状に酷似していたと云われること。
③その急死による受益者が明確に存在したこと。
などから、毒殺説は当時から噂されていたことで、その容疑者として一橋治済かその周辺を想定するのは、
荒唐無稽な「妄想」とは言えないでしょう。
史家の多くは暗殺を断定していませんが、その可能性を否定もしていません。


696:日本@名無史さん
07/05/04 16:23:15
>694
よしなよ。あんたが荒らしに左担してるようなものだ

>695
家基後継が世代逆行もあり得ると思われるが、御三家や清水重好、一橋治済ではダメなの?

697:日本@名無史さん
07/05/04 18:01:16
家綱→綱吉の時の酒井忠清
綱吉→家宣の時の松平吉保(柳沢保明)
家継→吉宗の時の間部詮房
という先例を知っていたら、田沼が家基を暗殺する必要がないどころか却ってそんなことをして傍系から養子将軍を迎えれば
命取りになるからしないと思うんだが。
たとえそれが史実の一橋豊千代以外の者であったとしても前車の轍を踏まない可能性は薄い。

忠清は自殺とも思える憤死をして、あてつけに自殺したと思い込んだ綱吉に墓を発かれた。
吉保は家宣擁立の事務を執ったにもかかわらず政界を退くことになった。自発的に退いたおかげで平穏に世を去ったが、吉
宗の時代になって二代吉里が墳墓の地甲斐を逐われた。
詮房は失脚して幕閣から去り、高崎から村上に左遷された。

698:日本@名無史さん
07/05/04 18:27:59
荒らしだってw
田沼意次について語るスレで将軍の話ばっかりしてんのは荒らしじゃねーの?

699:日本@名無史さん
07/05/04 18:51:04
荒らしはともかく陰謀論の当否や想像力など、かなりずれ込んでいるのは確かなんだよ。これは自称コンサルタントに元凶がある

700:日本@名無史さん
07/05/04 20:43:18
>>697
粘着キモヲタうざい。去ね。

701:日本@名無史さん
07/05/04 21:57:10
だから、田沼が加担しているとか、してないとか、毒殺とかはどうでもいいんだ。
自称コンサルタントという歴史とは無関係な人間だから問題なんだよ。
門外漢は、何を言っても妄想だ。

702:日本@名無史さん
07/05/04 22:19:01
何かこのスレ、荒れてきたね

703:免職、差控、隠居、永蟄居
07/05/04 22:33:15
わたしも元々は田沼さんが手がけた新御用金令や蝦夷地開拓事業などを話したいとおもっていたのに荒れてしまっているのは残念です

自称コンサルタントを本スレから放逐せよ。

704:日本@名無史さん
07/05/04 23:03:44
>>703
一行目に、私も賛成です。
政争話は面白いので、ついつい書き込んでしまいましたが、
意次の真価は、やはりその政策にあると思います。
スレの流れが変わることは歓迎です。

705:日本@名無史さん
07/05/04 23:09:23
>>703
まるで中世の魔女狩りだね。

並行して書くのには、何の問題もないでしょう。
むしろ、そうしないから「謀殺」とかだけが目立つのではないでしょうか。

ちなみに、>>702を書いた真意はそういう意味です。


706:日本@名無史さん
07/05/04 23:21:34
何を言う?謀殺の話に一緒になって騒いでいたのは貴様も同じだろうが

707:日本@名無史さん
07/05/04 23:24:01
荒れるのは、GWだから。
スレタイに知識も興味もない厨房がカキコする。
その証拠に、意次について何も語らない。
ただ他人を中傷するだけ。
学校が始まれば、また凪状態に戻るさ。

708:日本@名無史さん
07/05/04 23:29:04
遠野凪子

709:日本@名無史さん
07/05/05 00:18:27
>>706
騒いでないというのに。

710:日本@名無史さん
07/05/05 00:19:43
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_______________________________________________


711:田安斉匡
07/05/05 01:31:59
とうとうこのスレも手じまいのようだな

712:日本@名無史さん
07/05/05 13:14:35
意次は、酒井忠清、柳沢吉保、間部詮房と比較して、明らかに違う環境にありました。
つまり天明1年に世継ぎに決まった家斉が、わずか8歳の幼さだったことです。
当時、幕閣は田沼一党で占められ、松平定信は白河藩主松平定邦の養子の身で、
まだ家督も継いでいません。
一橋家には意次の正妻の父伊丹直賢に続き弟、甥と家老職を務め、
のちに家斉に従って西の丸から大奥へと入った老女大崎とも親しい関係にありました。
そして何より心強いのは、将軍家治がまだ44歳で先々の展望が持てたことです。
つまり、意次は家治存命中に家斉をコントロール下に置けると踏んでいた可能性があります。
この間は、いかに一橋治済とて隠忍自重せざるを得ません。
実際、家基死後も意次の改革は、印旛沼の開拓着工、蝦夷地の調査、江戸両替商や
大坂の江戸積問屋の株仲間の公認、大坂町人への御用金の賦課・・・
そして「貸金会所令」へと続いていきました。



713:日本@名無史さん
07/05/05 14:19:08
田沼の政策は、とにかく資本の集積が前提で、現在の企業論理と通じるところが多いから評価されるようになったのだろう。


714:日本@名無史さん
07/05/05 14:57:06
>>712 自称コンサルタント、もういい加減にしろ。お前のたわごとは飽きたので

715:日本@名無史さん
07/05/05 15:45:50
>>714
違うという事だけは、情報システムコンサルタント本人から断言しておきましょう。
もうほとんど、被害妄想だな。

716:日本@名無史さん
07/05/05 16:01:04
>>712
>>715
じゃないけど、「たわごと」だと決めつける自分の意見をちゃんと書けよな>>714
お前の存在が一番ウザイ。

717:日本@名無史さん
07/05/05 16:06:53
>>714
m9(^Д^)プギャーーーッ

718:( i_i)\(^_^)
07/05/05 17:50:23
もー完全なる誹謗中傷はお止め下さい!実害が出ております

719:日本@名無史さん
07/05/05 17:57:58
田沼をかたレ

720:日本@名無史さん
07/05/05 18:20:55
>>714
>>712はいいんじゃね?田沼の話だし。
自称コンサルタントっぽくないし。
結構読んでておもしろかったというか。

721:日本@名無史さん
07/05/05 18:29:46
ご感想有難うございます。

               情報システムコンサルタント

722:日本@名無史さん
07/05/05 18:47:14
な、なんだってー!(AA略

723:日本@名無史さん
07/05/05 18:59:50
田沼が考えた財源は

天領や貿易、鉱山収入のみで天下の政治を仕切っていた幕府が、大名から徴税し、これを行政費に宛て、あるいは土地を担保に大名に貸し出して返せない大名からは土地を取り上げる、という封建制では画期的な新御用金令を発布した


支配勘定太田南畝、土山宗次郎らが、蝦夷地に鉱物資源があるというのでその噂を頼りに調査団を派遣(失敗)。その後、蝦夷地住民との交易や、寒冷地ではあるが蝦夷地は地味がよいので開拓の可能性も視野に入れていた


田安、清水を空邸→廃邸にして二十万石を収公せんとした


印旛沼開削工事により新たに水田を開くと同時に流通網を確保し安定的に江戸に物資が流れるようにした

724:日本@名無史さん
07/05/05 19:33:03
>>723
短い行数の中に、田沼政治を凝縮したレス。
すばらしいと思います。


725:日本@名無史さん
07/05/05 20:06:51
諸大名は知行地の租税徴収権を持っているが、そこに手を入れて幕府の租税徴収を行う「新御用金令」は封建制では画期的、というより封建制を壊すものであった。
だが田沼がここに行き着いたのは自然の成り行きとも言える。
幕府が勅使院使御馳走役や治水治山、建築工事を諸大名に押し付けていったは、たかだか400万石とか600万石の天領しかない幕府が全国的な行政を展開せざるを得ない帳尻を、無意識裡に合わせていたのであろう。
その矛盾を解消し、国家的支出は全国民から賄おうとしたもので、その輪を広げてゆけばよかった。
でも田沼にとって惜しむらくは、徴税された税金が何に使われるか分からず、御三家や在府の伊達、浅野ら諸大名が疑心暗鬼になって反対し始めたことでござろう

726:日本@名無史さん
07/05/05 21:32:48
ござろう・・・って、キミ?

727:日本@名無史さん
07/05/05 21:36:23
本人降臨ktkr

728:日本@名無史さん
07/05/05 23:28:12
「悟られてしもうたかのう。許せ。
それがしは治済ごとき青二才とは違うて、日ノ本の将来を見据えた歴とした政治家ぞ」

729:日本@名無史さん
07/05/05 23:50:37
阪神7連敗

730:システムコンサルタンツ
07/05/06 00:00:06
いまから特捜最前線みるので25:00からにして下さい

731:日本@名無史さん
07/05/06 00:42:20
何人もいたのか、それともこいつが英語知らないだけか?

732:日本@名無史さん
07/05/06 00:54:04
>>725
参考になる意見をどうも。
素朴な疑問(悪意はないよ)をひとつ。
たとえ大藩とはいっても、てか、大藩ならなおさら、外様大名が幕政に口出しするのは
当時はまだタブーだったんじゃないの?


733:日本@名無史さん
07/05/06 01:21:05
確かに太平の世で徒党を組むのは天下の法度なので、いずれ素直に従うという目論見があったんでしょうが、天明六年の大洪水と家治の死、これが田沼の計画を狂わせて下総。

734:日本@名無史さん
07/05/06 01:26:55
>>732
外様大名が幕政に・・・という事だが。それは結果論かな。
>725じゃないけど、言うとするなら、逆に幕府も、外様藩には必要以上の内政上の口出しはしなかった。
もちろん、いろいろな制度を決めたり、負担を押し付けたりはあったが、それは徳川家と外様大名との相互間の問題。
財政面とか内政までは、原則口を挟まない。
従って、例えば「生類憐みの令」なんて、他の藩領では適用されていないし、御三家の水戸藩ですら従っていない。
そして、例えば吉宗の「上米の令」では献上米と引き換えに参勤交代の江戸在府期間を短縮している。
これは、逆に言えば、そういう問題については、幕府と諸藩(全体)は対等に近い結果となっている。見返りが必要な訳だからね。

田沼意次は、明らかにそれより踏み込んでいる。そして、天保の水野忠邦の上知令はその先例があったから発想的にも出来た事だろう。
逆に言えば、諸藩も江戸幕府の政策に、以前より無関心ではいられなくなった。
田沼意次に「中央集権」という発想まではなかったと思えるが、流れとしてはそちらへ向かっている。
それが、幕末から明治維新の「流れ」で作用した一面はあるかも知れない。意次の意向とは無関係にだが。
当時のアジア等世界全体で見ると、中央集権が出来たかどうかが、欧米列強の植民地支配から免れたかどうかの重要なポイントなので、結構この「流れ」は重要だったかも知れない。


735:日本@名無史さん
07/05/06 01:37:24
封建制のもとでは諸侯は領域内の排他的行財政権を握っていたが、主殿が全国民から税を徴収せんとしたのは、それを根本的に否定してかかるものだったので、騒ぎが起こってしまったんですね。水野忠邦の上地令も同じ。
まずいことにこれは田沼の取り巻きだった奥の役人たちの利害にも関わることだったので敵味方を全員敵に回してしまうことになる

736:日本@名無史さん
07/05/06 01:45:00
田沼全盛期ならいざ知らず、
>>725のいう「御用金令」だ出された頃は、意次の凋落ぶりはあきらかだったから、
それに御三家や定信の尻馬に乗る分には、反対しても「お家安泰」ってタカくくってたんじゅあ?
伊達は田沼と仲のいい島津とは猟官争いしたライバルだし、浅野は尾張と義理の兄弟だったしな。
まあ、領土がからむとあっては、それだけ必死コイタって見方もできるだろう。

737:日本@名無史さん
07/05/06 01:54:57
確かなのは、個々の事情はどうあれ、幕藩体制そのものが、徐々に変質して行ったのは間違いないと思う。
それだけ大きな影響はあったと思える。江戸幕府成立から200年近く経過し、幕末へと流れる中でのターニング・ポイントに位置づけてもそれほど大袈裟ではないともいえるかも知れないね。


738:日本@名無史さん
07/05/06 02:23:01
素朴な疑問をもうひとつ。
御用金令って、貸金会所という一種の公的金融機関を作って、年貢米や俸禄が凶作で
滞って窮乏化した武家を救済しようとしたもんなんでしょ。
意次って、ほんとうに大名の自治を制限し、貸し付けた公金を返済できない武家の知行地を
担保として取り上げてしまう、まるで公的資金を返済できない銀行を整理回収機構に委ねてしまう
ようなことまで想定していたんだろうか?
なんか、近代以降から顧みたあとづけの評価みたく思えるんだけど。


739:日本@名無史さん
07/05/06 02:25:01
もとの濁りの田沼恋しき

740:日本@名無史さん
07/05/06 02:56:01
新御用金令によると確かに法令の目的は大名救済、大名融資で、融資に当たっては村高証文(担保)を提出させる。返済できない場合は田畑からの収穫をもって充てる、とまでしか無い。
さすがに大名らの領地を担保流れにさせるのが目的だとは書いてない。漏れれば御三家含めて大名らはこぞって反対し、へたをすると田沼自身が改易になる…
と、あるいはこんな理由で田畑を担保ながれする目的は書けなかったのではあるまいか?

741:日本@名無史さん
07/05/06 02:58:07
>>738
当初の思惑と運用上の思惑のあるし、また思惑は記録に残っていない以上は分からないでしょうね。
また、運用については実現していない訳だから。
後付けはあるでしょう。まったく田沼意次ほど、後世の評価が乱高下する人も珍しいでしょうから。
ある意味、政策が実現しなかったからこそ、実は政策面でも謎の多い人物なのかも知れません。

ただ。
>意次って、ほんとうに大名の自治を制限し、貸し付けた公金を返済できない武家の知行地を
>担保として取り上げてしまう、まるで公的資金を返済できない銀行を整理回収機構に委ねてしまう
>ようなことまで想定していたんだろうか?
というのを真に受ければ、逆「徳政令」のような形ですね。これは、松平定信の棄捐令が、準「徳政令」みたいなものと考えると対照的です。
また、定信が棄捐令を出したお陰で札差が債権を失い、それを救済(金融拒否に対応)する為に貸金会所を設立しています。
現在でも、企業救済の為に銀行に債権放棄させたりもし(実際「徳政令」と揶揄された)、あなたの言うように整理回収機構を設けたりという政策がありますから、これは元々政策の「両面」という考え方も出来ると思います。


742:日本@名無史さん
07/05/06 10:19:20
いろいろなご意見参考になります。
>>738の疑問は、意次自身が拠って立つ封建制を自ら否定するような極端な考えは
彼にはなかったのでは?という文意だと思うのですが、
私も、意次の政治には、吉宗の改革を補完しようとする思想が根っ子にあるように思います。
印旛沼開拓はもちろんですが、直接税一辺倒では限界と享保の改革から学んで、「株札」という
間接税の発想を取り入れたのでしょうし、
南鐐二朱銀にしても吉宗の元文改鋳とのつながりで、その意義を評価すべきでしょう。
話題の貸金会所も、当時の政争がらみで歪められたり、のちの田沼再評価の中で「革命的」に捉えられすぎたり
している気がします。
いずれにしても、意次が定信のように自己弁明の著述を残していないのが残念です。


743:日本@名無史さん
07/05/06 13:16:58
>>742
封建制を否定しても、封建制を肯定しても、確かなのは当時の商品経済は無視できないものになっており、また封建制だけでは幕府の財政は維持できない状況になって行ったのは間違いないと思います。
封建制の重要な一面は「米」という一商品に財政が依存している事で、これが享保期の吉宗が「米将軍」とまで言われるくらい苦闘する羽目となります。
また、既出ですが、流通貨幣が金と銀という、国内で外為相場が存在しているような複雑な経済運営をしなければならなかったという部分もより政策が難解になっている側面です。
この頃の商人たちの経済感覚は、もう既に「近代経済」のレベルに達しています。複式簿記(B/S)、減価償却、引当、為替。
また相場取引についても、「酒田五(六)法」を考案した本間宗久は、現代の株価テクニカル分析とほぼ同レベルです(株価チャートはここから来ていると言っても過言ではない)。
そんな中で経済政策を考えるとすれば、もう殆ど発想が近代経済に近くなければ、ついて行けない状況だったのは確かです。
>>741でも書きましたが、有体に言えば、現在の日本政府の経済政策は、良くも悪くも田沼意次、松平定信レベルです。
新井白石の頃だと、海舶互市新例(正徳長崎新令)を出す時期辺りで、為替相場の不均衡が金銀の海外流出を齎すことがようやく理解されだしたというレベルですから、急速な進展ですね。
封建制についての認識の如何を問わず、日本経済・市場の急速な進展に、有無を言わされず巻き込まれていったというのが客観的な実態だったようにも思えるのです。


744:日本@名無史さん
07/05/06 15:36:02
consultant w

745:日本@名無史さん
07/05/06 16:19:12
俺は、田沼の経済政策には詳しくないけど、
言い訳や恨み節をダラダラ書き残した越中に比べて、
田沼が残した七ケ条の遺言に惚れ惚れしたなあ。
晩年、あれだけの迫害に遭いながら、恨みごと言わない潔さ。

746:日本@名無史さん
07/05/06 17:07:30
これかな。

URLリンク(homepage2.nifty.com)

短くても、田沼意次の人柄と、生涯を反映したものなのでしょうね。


747:日本@名無史さん
07/05/06 17:19:28
>>744
当たりですよ。今度は。
私は日本の歴史が好きですが、とりわけこの時期に興味を持つのは、日本経済の原点がこの辺りにあるような気がするからです。
世界的には、資本主義経済はイギリスから始まった流れが主流ですが、日本は一種独特な発展を遂げ、鎖国下でかなり高水準になっていたと思います。
私の専門は、情報システムの中でも、金融・証券・保険のシステム、それから企業の組織統制(最近の言葉でいう「内部統制」)です。
ですから、その専門的な観点からも、当時の田沼の政策はかなり高い水準の内容を、少なくとも指向していたと評価できます。
現在の政治家にもむしろ、見習って欲しいくらいに。
それは内容ではなく(後世なのだから内容が上なのは当たり前)、むしろ政策通としての在り方ですね。
そして、政治家は、当然政争にも巻き込まれます。組織ですから。
その両面の評価が、政治家としての評価でしょうね。


748:日本@名無史さん
07/05/06 17:35:43
自己紹介はいい。

749:日本@名無史さん
07/05/06 17:42:01
>>748 おい厨房、もういい加減にしろよ。
感情的になればなるほど、情けない実態をさらけ出してるぞ。
俺はもう書いたが、何か意見があれば書くか、さもなくば黙ってろ。

750:日本@名無史さん
07/05/06 18:48:43
う~ん、どうなんだろ。あなたも自己紹介してみれば。
名を名乗れっていう訳じゃない。歴史を専攻しているとか、なんでも。

751:日本@名無史さん
07/05/06 19:00:10
もうよしましょうよ。それよりせっかく新御用金令というハードボイルドなる話が出ているんですからそれについてを。「新」とついているがどの点が新しいの?

752:日本@名無史さん
07/05/06 21:12:38
>>751
御用金とは、今でいう国債発行(返済=幕府の債務が発生)。新御用金とは課税なので、新旧関係というよりまったく異なる概念でしょう。
どうなんでしょうね。私は実はそれほど刮目はしていませんが。
画期的だと思われる方は、意見を書いてください。

実はこれを、現在の所得税などの国民皆税みたいなものとは理解しません。
何故なら、税金をすべての人が払うから、それに見合う政策を・・・というのは「民主主義」の考え方であり、上意下達の政策では本来ないからです。
それは「新御用金令」という名称が、図らずも示しています。
つまり、返済を伴わない御用金という発想ですから。

何か田沼の政策というと、ここではall agreeという雰囲気も感じなくはないのですが、これはむしろ、窮余の一策であり、現在の税制とは似て非なるもの、これが田沼批判の原因となっても当然だと考えます。

・・・と、多少挑発しておきましょうか。冗談ですが、反対は意見の形でお願いします。


753:日本@名無史さん
07/05/06 21:13:55
>>743
意次というより吉宗にその萌芽が見られる、とは言えませんか?
私は意次と定信の政策は、吉宗が産み落とした双生児に見受けられるんですが。

754:日本@名無史さん
07/05/06 21:21:03
ちょっと誤解を受ける表現かな、と思うので追加しておきます。
>>752の前2行は、おそらく新御用金令を画期的と考える場合の想定される「概念」という意味で、私は「それほど」評価はしないという事です。
途中飛んでしまいました。敷衍しておきます。

755:日本@名無史さん
07/05/06 21:29:35
>>753
私も実はそう考えています。ある意味で、意次と定信は正反対のように言われていますが、確かに政治的・組織論的にはそうでしょう。
門閥対実力派という観点でもそうです。

しかし、政策としては、どちらも享保の改革から派生した問題を、どうするかという考え方で共通しています。

手法が反対だろ? という考え方もあると存じますが、>>741の最後2行で書いた通り、これらの政策は、「局面見合い」の同次元の政策手法だと考えます。
現在でも、公定歩合を上げるか下げるかは正反対の判断です。しかし、利率を操作して経済を制御するという意味で同一次元ですね。
債務の処理手段を厳しくするか、状況で緩和するかという観点となります。


756:日本@名無史さん
07/05/06 23:21:22
>>755
742、753ですが、レス有難うございます。
別の話題ではすれ違いもありましたが、おおむね同意見です。



757:日本@名無史さん
07/05/07 23:17:22
>>756
どうも。GWも明けたので、書き込みは一段落のようですね。
いろいろ書きましたが、ただし、という言い方をするなら、形として「中央集権」みたいな形式へ、意図したかどうかは別として推移している感はあります。
しかし、やり方が如何にもセコイ。と言えばまた挑発っぽいですが、それが、一官僚である限界、または江戸幕府を肯定せざるを得ない弱さでしょうかね。

支配者は「覇権」を目論むような観点で、統治的観点から集権を目論むことはありえます。
しかし、官僚は、「仕切る」ことでしか指向できません。石田三成もそうでしょう。徳川家康のような存在には太刀打ちできないでしょう。

吉宗は、支配者たり得ましたが、着手からすべてをやり果せることは出来ませんでした。
吉宗が、家斉みたいに長期在位したから出来たようなものでもないでしょうが。

幕末の小栗忠順(このスレの前の方に出ていますが)位に、周りの環境が乱世の趣を醸し出してきた頃なら、「第二の関ヶ原(による徳川中央集権体制)」みたいな過激論も出てくるようですから、天下泰平が一要因であるともいえますが。
時代の制約、立場の制約、環境の制約は認めても良いと思います。


758:日本@名無史さん
07/05/08 00:51:51
おい、歴史通たちよ、完全に押しまくられてるぞw

田沼意次や松平定信の政策は、経済政策だから、現代の経済通には敵わないってか。
それじゃあんまりだろ。ちゃんと中身で対抗しろよ。

さすがに小栗上野はそこまで過激だった訳ではないんじゃないか?
確かにフランス軍制による軍事力の拡充、海軍力の増強は、軍事力で主に西国大名を制圧するという発想も出来る。
ナポレオン3世の寵臣ロッシュから、ナポレオン1世のヨーロッパ征服の話なども聞いたようだが。
でも慶喜相手に、それは無理だろ。

田沼意次にはいろいろとコメントしたい気もあるが、経済については俺は勝てん。
誰か、頑張れー♪

759:日本@名無史さん
07/05/08 01:18:45
私は小栗豊後守は余り期待はできぬと思いますよ。

760:日本@名無史さん
07/05/08 01:46:54
でも「中央集権」は確かに大局的に見た場合、重要な観点かなって思う。
田沼意次にとっては「見果てぬ夢」だったかも知れない。
はっきり言って、江戸幕府って覇権になっていなかったというのが、結論ではないだろうか?
関ヶ原の戦いで勝っても、豊臣が残っていたことが、原因のような希ガス。
結局元和偃武の翌年に家康が死んでしまい、日本は連邦国家(幕藩体制)のような形で進んでしまった。
全国的な政策を行うというのが、力任せにしかできない。
だから、田沼意次のような「頭脳派」は苦労しただろう。いくら思慮深い政策を考えても、その施行にはどうしても「権力任せ」「力任せ」の要素が入ってくる。
随分誤解を受ける事になったと思う。
それと、年貢、税、債権債務という分析は、後世なら簡単だろうが、当時は経済学なんてないから、余程でないと無理。
冥加金と賄賂はどこが違うんだという話にもなりかねない。「御用金」の解釈も、そんなに分析性をもって考えるだけの体系はなかっただろう。

吉宗って、さかんに「尚武」を進めたが、それが充実していたら、真の統一でもやるつもりだったのかな?
田沼意次は官僚(老中にまでなっているが)、定信は朱子学徒だから、そんな発想はないだろうが。


761:日本@名無史さん
07/05/08 01:58:44
田沼意次は「ビスマルク」にはなれなかった、ということでOK?

762:日本@名無史さん
07/05/08 02:24:11
幕府は開幕当初ミスを犯した。全国から徴税する権能を作んなかった

763:日本@名無史さん
07/05/08 02:40:34
明治政府ですら「地租」という固定資産税か所得税か、律令の「租」なのかよく分からん税制からスタートしているし、無理もないよ。


764:日本@名無史さん
07/05/08 02:45:46
ま、開幕ダッシュに失敗したら、ペナントレースを制するのは難しい・・・

765:日本@名無史さん
07/05/08 02:48:36
>>763
よく分からんのは、自分の頭のせいだとは思わないのかw

766:日本@名無史さん
07/05/08 02:58:43
>>761
ビスマルクは、プロイセン王ヴィルヘルム1世(のちドイツ皇帝)の全幅の信頼があっただけでなく、モルトケ元帥など周りの有能な軍人やスタッフに恵まれていたし、また理解と協力が得られていた。
それに対して、田沼意次の周りは、協力者も多かったが、足を引っ張る奴も沢山いた。
特に格上が沢山足を引っ張った。

さぞかし、田沼意次の足は長くなったことだろうなw
スマソ

767:アジアシステム開発
07/05/08 03:52:14
いずれにせよ田沼氏は御三家や溜間詰格ら名門から足を引っ張られていたことは明瞭で有ります

768:日本@名無史さん
07/05/08 21:18:55
>>760
力任せ、または妥協でしょうか。理によって政策を実現できない。

769:日本@名無史さん
07/05/08 21:52:53
>>757
釣りなんでしょうが、「同意」の前言を翻し、あえて挑発に乗ります。
あなたの意見は、当初とやや変化して意次と彼の政治を矮小化しすぎだと思います。
つまりその時代における画期性を後世の高見から「それほどでも」って評価しているだけのように感じます。
「コロンブスの卵」ですよ。

第一、意次は「官僚」じゃなく、「政治家」です。
石谷清昌、河井久敬、松本秀持、赤井忠晶ら財務スタッフこそが「官僚」と呼べるでしょう。
意次の経済政策を「国立銀行」「国民皆税」「統一通貨」という近代国家を前提にして初めて
成立する政策と直線的に結びつけるのは「革命的」に捉えすぎると思いますし、
政策の真価はその運用を見て定まるものでしょう。
ですから「貸金会所」にしても、その真意も実効性もはっきりしないまま潰され、
「南鐐二朱銀」にしても、物価安定には寄与しましたが、秤量貨幣の廃止まで意図したものなのか?
見届けることなく廃止されましたから、結果論では何とでも言えますが、
その発想は、従来にない独創的なものだったんじゃないですか。

また、あなたも認めているとおり、政治家は政略に長けていなければ政策実現能力に欠けるという点で、
有能とは言えないでしょうから、そういう面でも彼の家重時代からの政略は目を瞠るものだった
と思います。

770:日本@名無史さん
07/05/09 00:14:08
ビスマルクはユンカーという一種の貴族出身。
ドイツ統一前からプロイセンはすでに近代国家。
田沼とは条件が違いすぎて、比較するのはナンセンス。

771:日本@名無史さん
07/05/09 00:44:54
全くもってその通り。誰だよ、唐突にビスマルクを出してきたは

772:日本@名無史さん
07/05/09 00:55:31
>>769
どうも有難うございます。ちゃんと説明すると長くなりそうですが・・・。
田沼意次を矮小化はしていません。私が言っているのは「新御用金令」ですね。
しかも、時代の制約、立場の制約、環境の制約は認めても良いと思っています。言葉を変えて言えば、現代経済政策よりはハンディをつけるか、或いはレベルについては現代を比較対象としないかです。

その上で、何故>>757のような評価になるのかといえば、「説得力」の問題だと思います。
レベルに関係のない次元で、現代と比較してみましょう。
例えば、現代。政府の財源が必要で、何とかしたいと考えたとします。
その手法として「国債」を大量に発行するとします。しかし、これでは財政赤字が増えるだけです。
そこで、増税ではなく、「国債」を発行するが、それは償還なし、なんて言ったらどうなるでしょうか。
つまり、一方的に出せ、ということです。政府は債務を負わないのです。
おそらく、非難轟々でしょう。そしてその「非難」は、政府がカネを集めるという意味よりも、もっと違った意味の非難が強いはずです。
「それは、形を変えた『増税』だ。しかも税を増やすと言うのならまだしも、形だけ国債という形式を取るなんて、やり方が『セコイ』。」
こうなるはずです。増税なら、そういう話にはならず、増税そのものが、財政や国民生活のバランス上問題であるか否かという「本来」の次元の話になります。


773:日本@名無史さん
07/05/09 00:56:19
(つづき)
課税対象範囲を拡大し、また米穀依存ではない課税形式という方法と「方針」を明確に打ち出せたなら、田沼の政策は当時としては卓越して優れた発想となります。
しかし、「御用金」の延長で、幕府の債務逃れというような形だから、当時ですら「説得力」に欠けるのではと思うのです。
不思議なことに、武家政権というものは、すぐに債務を踏み倒すという性質を持っているようですね。
鎌倉幕府や室町幕府の徳政令もそうですし、また江戸期の薩摩や長州の財政改革も通じるところがあります。
すなわち、その発想の範囲内であれば、それは「武家政権の本質」から脱出できていない、という事です。
武家政権にそれが可能なのは、「武力」や「権力」、すなわち「力」の論理です。意次は意識していなかったかも知れないですが、本質的にそれを持ってしまっているのです。

債務逃れ、ではなく、「課税」という発想なら、これは現代にも通じるくらいの画期的な発想だったはずです。
しかし、それは無理でしょう。意次が悪い訳ではないのですが、それは、TAX payerから生ずる民主主義の本質的発想だからです。
田沼意次に、民の為のみに税を集め、民の為のみに政治をするという発想はないはずです。民の為を突き詰めると、「民の、民による」が絶対に出てくるからです。
門閥でなかったとしても、それは田沼自体の存在をも否定するものとなります。

なお、政治家か官僚か、ですが、官僚出身の政治家(現在でもいますが)でしょうね。そこは、訂正させてください。




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