田沼意次について語るスレat HISTORY
田沼意次について語るスレ - 暇つぶし2ch300:日本@名無史さん
05/07/24 19:46:43
今日命日だよね。

301:日本@名無史さん
05/07/24 20:56:14
能力的には日本史上屈指の政治家だったかもしれないねえ。
如何せんツキがなさすぎたのと、定信ちゃんが馬鹿すぎた。

302:日本@名無史さん
05/07/25 13:04:52
ワイロで有名だろ
と書いて削除されたようなんだがなぜだ?

303:日本@名無史さん
05/07/25 13:34:21
愚民化政策をとった定信を授業でよく言うのは間違っているとおもてた厨房時代

304:日本@名無史さん
05/07/25 23:11:09
>>302
どこで削除?


305:302
05/07/26 00:07:53
>>304
ここで

306:日本@名無史さん
05/07/26 14:29:19
亀だが>>280
意次のルーツをたどると、我が田沼町に行き着きます。田沼家の初代重綱が、
元仁元年(1224)に当地(当時は下野国安蘇郡田沼村)に一家を立てたのが
そのはじまりで、その姓は地名に由来したものです。
URLリンク(www.city.sano.tochigi.jp)


307:280
05/07/26 17:12:12
>>306
寛政重修諸家譜にはそうあるらしいが、それ以外に資料があるんでしょうか。
この資料は自己申告で、眉唾の要素大のようです。尚、私は出自で意次の業績
をとやこういう積もりは一切ありません。業績は業績です。

308:日本@名無史さん
05/07/26 21:39:18
299 > 二つに分かれればどっちが勝っても家名が残る。関ヶ原でも前田そうだったよ?忘れた?w

309:日本@名無史さん
05/07/26 21:42:28
307 > 秀郷の一族であるからこそ 本家の佐野が出世に嫉妬して刀傷したのでわ?

310:日本@名無史さん
05/07/28 13:49:13
松平定信が将軍になっていたら、もっと悲惨なことになっていただろうから
寛政の改革が数年で終わって良かったことだ
一橋治済が彼を養子送りにしたお陰だな

311:日本@名無史さん
05/07/28 15:18:27
定信は一杯書き残し、意次は書き残していない。この辺がその後の評価の分かれ目
だな。胸に一物あるやつは一杯書き残したほうが良いという教訓かな。

312:日本@名無史さん
05/08/02 17:25:04
鎖国は経済的には貿易赤字対策という側面があるわけだが、田沼の重商主義
が日の目を見ていた場合、江戸時代後期に国産化していた品目などを
考えると、日本の輸出品目は何だっただろうか。
明治期の前倒しと考えると、こんなところだろうか。
絹、陶磁器、茶、銅:欧州向け
木綿、食料、繊維製品:極東ロシア、東南アジア向け
銅、海産物:中国向け
九州の石炭:近海に出張ってきた列強の艦船向け

313:笠間侯・老職、牧野越州
05/08/02 19:48:30
確かに田安を将軍継嗣とせず、白河侯松平定邦養嗣にしたのは正解で、田沼主殿頭、水野出羽守が重商主義政策をとったのも正解だが、
豊千代(家斉)がただひたすら本能のまま金を浪費したため、殆ど結果に結び付かなかったのが悔やまれる。

314:日本@名無史さん
05/08/05 00:18:50
>>307
それを眉唾とすると
日本史の研究は成り立たなくなります・・・・特A史料です。
特Aというか、超基礎的史料。

具体的に言うと、あなたの疑問は
「色の定義は誰が決めるの?」
「1+1はなんで2なの?」ってレベルまでいってます。
もの凄いびっくりした・・・


315:日本@名無史さん
05/08/05 20:09:27
いま「トホホ」で田沼と平賀源内している

316:日本@名無史さん
05/08/05 20:25:24
まあ民放での扱いなんてこんなものか・・・

317:日本@名無史さん
05/08/05 20:31:03
あの國學院講師って誰?
あまりにトホホなこと言ってたから
ac.jp中心に調べてるんだけど、見つからね。
聞いたことも無い人だ・・・・

318:日本@名無史さん
05/08/05 20:33:32
江戸時代について小学館の学習漫画レベルの知識しかない俺だが
あの先生の発言はなんか違和感を感じたんだが・・・。
その違和感は正しかったのか。

319:日本@名無史さん
05/08/05 20:39:41
宮本か宮元でしょう・・・大学のシラバスにも載ってないのだが?
だーれーこの人。気になる気になる。


320:日本@名無史さん
05/08/05 20:50:16
見つけました。
織豊期、戦国の論文が多いです。
あと特殊な分野好きそうです。医療とか。
世間受けしそうな分野好きそうだから
次は田沼意次なのかもしれん・・・・

321:日本@名無史さん
05/08/20 12:38:35
age

322:日本@名無史さん
05/08/21 22:51:55
ヒマな無駄話だが、先日田沼の西林寺へ行ってみた。田沼意次の先祖の墓があると
言われているところ。Tシャツ姿だったが住職らしい人が出てきたので、田沼の
先祖について聞いてみた。あの辺は藤原秀郷の末裔が多いところで、佐野も田沼も
そうらしいとか。しかし系図は売ったり買ったりしているので確かなところは分か
らんと気にも止めない返答だった。

本堂裏手の墓地の奥に墓があると聞いたが、ぐるっとまわっただけではわからなか
った。暑かったので探すのはまたの機会にした。

323:日本@名無史さん
05/08/23 01:11:47
>322
期待してます。いいすねぇ~。

324:日本@名無史さん
05/09/07 21:38:58
age

325:日本@名無史さん
05/10/03 22:57:25
保守

326:日本@名無史さん
05/10/05 18:42:31
いやな老中だ。

327:日本@名無史さん
05/10/05 19:41:14
西ノ丸老中だから

328:日本@名無史さん
05/10/07 14:35:05
沼田次意

329:日本@名無史さん
05/10/07 14:39:38
田んぼに沼って下級ぽい名前 なんで改名しなかったんだろう・・・

330:日本@名無史さん
05/10/07 23:15:18
窪田を久保田といいかえるような、好字佳字を好む風潮はあるが、
地名を名字にするのは出自や領地を連想させて、習慣として根強いものが
あったようだから使いつづけたのではないか。
それに今は「沼」はいいイメージでないが、野や谷に比べれば稲作に重要な
水の便がよさそうで、豊かな土地のイメージがある。今は畑作も差別がない
が、昔は稲作はいわば現金を作っているようなものだから、稲作と畑作では
大違いだった。田沼は米が沢山取れそうなイメージがある。

331:日本@名無史さん
05/10/13 21:48:05
贈収賄大好き。

332:日本@名無史さん
05/10/29 23:03:10
age

333:日本@名無史さん
05/10/30 01:26:48
>>331
当時も今も政治家はみんなそう。
あの松平定信も賄賂贈ったくらいだし

334:日本@名無史さん
05/10/30 01:36:52
当時と今じゃ感覚が違うでそ。
当時のはお歳暮や時候の挨拶みたいなもんじゃん。
今は明確に法に反してる。

335:歳バレバレ
05/10/30 07:05:02
「天下御免」の田沼が
個人的「初田沼体験」ですた。



336:日本@名無史さん
05/10/31 01:02:52
田沼さん頑張ったよね。

337:日本@名無史さん
05/11/01 04:37:52
田沼意次は松茸御飯が大好きでした。

338:日本@名無史さん
05/11/02 06:46:40
田沼が
矢野弾左衛門の莫大な資金で
蝦夷地大開発企てたったのは、ほんと?

やっときゃその後の日本の歴史もかわったかな。

339:日本@名無史さん
05/11/02 14:23:29
田沼意次は在日だから。

340:日本@名無史さん
05/11/02 14:27:44
田沼の親父さんは足軽上がり。

341:日本@名無史さん
05/11/02 14:38:24
松平だの水野だのは恵まれているよな。

田沼かわいそう。

342:日本@名無史さん
05/11/02 18:38:33
三大改革の時代は、贅沢を禁止したりして、消費を冷やす。
つまり不景気な時代だった。だから経済も悪化した。
田沼の時代は贅沢を認めたインフレ時代。経済は拡大した。
全体から見ると、田沼時代の方が景気が良かった。


343:日本@名無史さん
05/11/02 23:08:53
>>342
だろうなあ

344:日本@名無史さん
05/11/03 11:12:20
田沼意次の官途はなぜ、主殿頭なのか。

345:日本@名無史さん
05/11/03 18:05:29
直系が横浜に住んでるよ。さすが士族率74%の横浜だ。
現代の武家地、それが横浜。庶民を寄せ付けないからね。

346:日本@名無史さん
05/11/03 18:37:13
あえて釣られる
士族率74%なんてあるかよw

俺の親戚の横浜市民は東北の貧農出身で
苗字はズバリ、「佐藤!!!」

347:日本@名無史さん
05/11/05 11:19:23
>>339
在日日本人

348:日本@名無史さん
05/11/21 22:57:47
保守

349:日本@名無史さん
05/12/09 23:09:06
age

350:日本@名無史さん
05/12/21 15:31:23
age

351:日本@名無史さん
05/12/23 12:26:29
田沼意次

352:日本@名無史さん
06/01/11 22:58:28
最中age

353:日本@名無史さん
06/01/11 23:05:53
大黒屋光太夫たちが意次在任中に帰国していたら、すぐに日露の国交が開かれ、
貿易が始まったか?

354:日本@名無史さん
06/02/04 23:06:18
最中

355:残さん
06/02/05 11:30:16
あっしも田沼の殿様はいいと思う。現実主義者だから。

356:日本@名無史さん
06/02/05 17:22:28
わたしは田沼さんが失脚してしまったのは松平定信でも御三家でもなく、老獪な一橋民部卿の暗躍によると思います

357:日本@名無史さん
06/02/05 17:41:00
>329田沼は佐野一族(藤姓足利氏=秀郷直系)の名門ですよ。
田沼町は佐野市に吸収合併されますたが…

358:日本@名無史さん
06/02/05 17:57:16
>>356
老獪って治斉は定信と10も違わないんだぞ

359:日本@名無史さん
06/02/05 18:14:49
御三卿の当主って、江戸城内の邸宅に住んでて、将軍の家族扱いで、
領地経営の責任も宮仕えの気苦労もない貴公子でしょ、

どこで、そんな老獪な政治力を身につけたんだろう?

360:日本@名無史さん
06/02/05 20:30:35
>>356
それは常識だと思ってたよ。定信はただ騒いでただけで。

361:日本@名無史さん
06/02/05 23:58:43
>>359
時間があるんだから、史書でも読んだんじゃね

362:日本@名無史さん
06/02/26 12:51:09
田沼=ムネオ

363:日本@名無史さん
06/02/26 16:16:49
松本秀持あげ

364:日本@名無史さん
06/02/26 22:32:36
曲淵景漸もおるでよ。

365:日本@名無史さん
06/02/27 18:00:16
川井久敬もいる

366:日本@名無史さん
06/02/28 21:20:23
田沼の不束はたかが市井の町医を奥医にすすめた程度である。不束でもなんでもない。
よかれと思ってやったことだ。しかも田沼は辞職をもとめていない。にもかかわらず解任命令がでた。
家治の死をふせて誰かが解任命令をだしたにちがいない。誰か。いうまでもない。水野だ。
「裏切り者め!」
田沼は虚空をにらんでいった。虚空に水野の顔がうかびあがった。目があった。水野は目をそらした。
そこへ思わぬ男がぬうっと顔をだした。一橋民部卿治済だ。
「そうか」
田沼は気付いた。
「一橋民部卿、おことも謀りごとにくわわっていたか」

367:日本@名無史さん
06/02/28 23:35:12
一橋民部卿治済の実像がどうもわからない。
どういう人物だったのだろうか。

368:日本@名無史さん
06/03/01 00:03:37
御三家と治済の間で、松平定信を幕閣に推挙する推薦文の文言が書簡でやりとりされた。あって話をすれば簡単にすむのだが、
ここらあたり当時はなにかと窮屈になっていた。そして十二月十五日の月次登城の日―。尾張の宗睦、紀伊の治貞は所労で休んだ。
水戸の治保のみが登城し、宗睦、治貞の添書をそえて、
「松平越中守事、実儀なる者に相見え、そのうえ諸事宜敷ように我ら承り及び候、年若には候えども只今の内より
加判の列仰せつけられ候わば、後々御為にもあいなり申すべくと存じ奉り候、よってこの段おのおのまであい達し候事」
という推薦状を手渡し、定信を老中にあげるように進言した。
水野は大老井伊直幸、老中首座松平康福らとともに治保の進言をきき、推薦状をみた。
事ここにいたって水野はようやく手を握ってはならない相手と手を握ったことに気づかされた。

369:日本@名無史さん
06/03/01 00:24:29
一橋民部卿治済は、つねに、家斉や御三家を通じてしか動かないのでなかなか実像を掴みづらい。
①家治が一回だけ手をつけた色黒の、どこにでもいる風采のあがらない御富という大奥女中を側室に貰い受けた。
9ヶ月後に豊千代(家斉)が御富から生まれたため、家治は豊千代が実は自分の子ではないかと随分悩んだらしい
②大洪水と打ち壊しのどさくさにまぎれて水野忠友に田沼を失脚させる
③御三家に松平越中守推挙を働き掛けさせる
④松平越中守に水野、井伊らを放逐させる
⑤家斉を通じて老中に対し、自身を大御所格で西の丸に入れるようごり押しさせる(失敗)
⑥家斉を通じて朝廷から儀同三司(准大臣・則訣の官)に任命さる

370:日本@名無史さん
06/03/01 09:21:38
暴れん坊が御三卿なぞ創らなきゃな…
兄を殺して紀州を纂奪したり極悪人だな。
治済も定信もイラネ

371:日本@名無史さん
06/03/01 12:41:13
でもその暴れん坊が田沼専左衛門を江戸に召し出したのも事実

372:日本@名無史さん
06/03/02 00:56:22
江戸時代の三大改革の実行者の一人ではあるが政治家としての力量は松平定信と同列ではないわな。
暴れん坊>水野>定信っつー感じか?3人の中では定信が一番無為無策だな。

373:日本@名無史さん
06/03/02 13:59:03
松平越中守儀、ロシアの南下に備えるべく田沼が着手した国家的事業とでもいうべき蝦夷地開拓を中廃止にした点、罪が重い

374:日本@名無史さん
06/03/02 19:00:40
水野と一橋治済の間に早晩亀裂が生じるだろうというのは予測するところだった。治済のほうが役者は一枚上だ。
亀裂ができたときは水野が窮地におちいったときで、ひょっとしたら水野は相談にやってくるかもしれない。復権できるとすれば
そのときだとなかば心待ちしながらまっていた。期待していたとおり水野は連絡をとってきた水野にたいする怨みは数々ある。
老中を罷免され、あらゆる動きを封じられた。五十数人におよぶ離縁義絶の口火をきってくれた。
営々とふやした禄高五万七千石のうちの二万石も収公してくれた。手掛けていた事業、新御用金令や蝦夷地の一件などあらゆるものを中廃止してくれた
水野は八つ裂きにしてもしたりない相手だった。しかしいまさら愚痴をぶつけたところでどうにもならない。一文の得にもならない。
いつでもいい、来る気があるならこられたいと田沼は水野の用人にいった

375:日本@名無史さん
06/03/02 19:21:48
三浦庄次、井上伊織の話題求む!

376:日本@名無史さん
06/03/02 23:25:58
>>374
水野?

377:日本@名無史さん
06/03/03 21:36:18
「屋敷が狭くなって身の置き所もないような始末で・・・・・」
と田沼がいった。水野ががばっと手をついていった。
「こんどのことはなんとお詫びしてよいやら・・・・・」
田沼はつとめて冷静にいった。
「手をあげられよ、出羽どの」
それでも水野は手をついたままくどくどと詫びをいった、詫びおわると気もおさまったか、
「実は・・・・・・」
と御三家と一橋治済の動き、また松平定信推挙の動きなどの一部始終をかたり、ため息をつきながらいった。
「どうか力をお貸しくだされ」
「ため息をつかれるほどのことではござらん」
田沼はこともなげにいった。


378:日本@名無史さん
06/03/03 21:42:30
>>359
才能じゃねえの?

政治的センスってあるからね。

その上で>>361が言うように、貴公子だから書物をたっぷり
読み込む時間と金はあるからね。

379:日本@名無史さん
06/03/03 22:01:26
「それにはまずそれがしの差控をゆるすことでござる。年頭の祝賀に登城できるように差控免は年内ということがよろしかろう」
「・・・・・・?」
「甥の能登(意致)は御用取次を病免されており申す。病は癒えたからと能登も再勤仕させればなおよろしかろう」

年がかわって天明七年(一七八七年)一月一日、年頭拝賀の儀式の日、諸大名旗本等群臣は続々登城した。
その中に田沼の姿もあった。田沼の姿をみとどめて、諸人は目をまるくした。
田沼は家格からいうと当然大広間で群臣とともに拝謁する。
御白書院には御三家の水戸の治保、加賀の前田治脩、大老井伊直幸、それに
水野ら老中と若年寄が控えていた。田沼はツツと進んで老中の末席にひかえた。
直垂に身を包んだ家斉が老中牧野貞長の先導で現われ、上段の間に進んだ。
田沼はなにもかわったことがなかったように、水野らとともに家斉に拝謁した。

これが「松平越中守を加判の列に」という御三家の推挙への幕閣の回答だった。
“亡霊”を行きかえらせてしまった。治済は驚愕にしばらく声もでなかった。


380:日本@名無史さん
06/03/03 23:05:48
一月十五日になった。十二月十五日、一月一日とそうだったが、この日も尾張の宗睦、紀州の治貞は出仕しなかった。
一人水戸の治保のみが登城した。御三家の詰所は大廊下である。治保が一人大廊下で休息していると、
大老井伊直幸に松平康福以下の老中がやってきて、康福がいった。
「松平越中守の儀についての書面の趣、内々御聴に達しました。おっつけお言葉があると思います」

家斉はたしかに水野に、「御三家の意向をきき届けてしかるべしと存ずる」といった。かえってきた返事は意外だった。
「なりませぬ」
水野は強い口調でいってつづけた。「越中守の白河松平家は加判の列にすすむ家格ではございませぬ。
宿老に人がいないというわけでもございませぬし、ここはおきき届けにならぬほうがよろしゅうございます」

381:日本@名無史さん
06/03/04 16:29:02
御三家は「松平康福は老中首座でありながら田沼のいいなりになっていた。それがけしからぬ。康福を罷免してかわりを……」
とかわりの人物として奏者番の秋元永朝の名をあげていた。田沼の謗を恐れて老中を辞任した秋元涼朝の養子である。
御三家が秋元永朝の名をあげているのに深い理由はない。

政局を回転させようという意図があってあげた名ではなかった。治済には政局を回転させる男として意中の男がいた。
ありていにいうなら水野ら幕閣からおいだす男だ。御三家をたきつけてその男を幕閣におくりこむのが、水野おい
おとしのために治済が描いた構想の骨子になっていた。意中の男とは、家治が死んでから急接近してきた男、
話をしてみると田沼に異常な恨みをいだいているのがわかった男、水野らも田沼の党類とみなして幕閣からおっぱらおうと
情熱をもやしている男、白河藩主の松平定信だ。
ややエキセントリックなところが気にならないでもない。しかし毒には毒をで、そのくらいでなければ
とても水野らを幕閣からおいだすことはできない。定信こそふさわしい

382:日本@名無史さん
06/03/05 22:58:35
打ち壊し騒ぎがようやくしずまったのは五月二十三日。翌日の二十四日、家斉は本郷泰行、横田準松、田沼意致の三人をよんでいった。
「なにやらこのところ町方が騒がしいようだが、なんぞあったのか?」
本郷泰行がこたえた。
「とくに騒ぎというほどのことはおきておりませぬ」
横田準松も、
「世上いたって御静謐」
田沼意致も、
「そのとおりでございます」
口をそろえた。家斉は十五歳である。騒ぎを家斉の耳に入れても仕方がない、というのが彼らの判断であった。家斉はそこで怒って見せた。
「余をたぶらかすのにも程がある…そのほう本日より御用取次を免ずる。おって沙汰する」
びっくりして三人はさがり、水野らに事の成り行きを報告した。家重、家治は在任中解任などという人事権を行使しなかった。
家斉は公然と人事権を行使した。騒動のことを家斉に報告しなかった責任は老中にある。家斉が御用取次の非をとがめたというのは
暗に老中の非をとがめたということである。徳川幕府は絶対権力者である将軍がたとえ実父の指図であろうと、
人事権の行使についてこうはっきりと意思表示をすると、水野らはもうさからいようがない。

383:日本@名無史さん
06/03/07 20:31:02
民部卿一橋治済あげ

384:マルサの女 
06/03/07 20:33:29
お千保の方が大奥にて陰謀したらしです。
そうとう田沼を恨んでいたみたい

385:松平周防守康福 ◆ltxY70nW1I
06/03/07 20:37:34
いや、恨みに固まる田安賢丸こと松平越中守と、大御所格を狙う老獪なる一橋民部卿の謀略が

386:茶々
06/03/07 20:58:12
お千保って誰?

387:大御所格を狙う一橋民部卿
06/03/09 20:48:31
大御所格を狙う一橋民部卿

388:御台所・輔子
06/03/09 21:10:30
尾張藩・吉道の正室じゃ!吉道さまは頭がいいですが、母の本寿院さまがアホじゃ

389:日本@名無史さん
06/03/30 16:50:36
うほ

390:日本@名無史さん
06/04/15 10:01:31
      

391:日本@名無史さん
06/04/20 00:21:18
意次・意知は好きだが、意尊は×

392:日本@名無史さん
06/05/17 23:03:14
保守

393:日本@名無史さん
06/06/04 09:52:45
>>375 三浦庄次は、小説にでてくる田沼家の用人の方のことかな。実在の人物
だったのでしょうか?

394:日本@名無史さん
06/06/04 10:04:05
田沼氏の発想は、とれるところから更に絞る×。とれそうなところからとる○。
といった感じだと思います。何百年前の御仁なのでお目通りは不可ですが、揮毫
や書状があったら是非ほしい逸品です。勝林寺のお墓には一般人でも参詣できる
のでしょうか?

395:日本@名無史さん
06/06/04 22:52:48
暗闘
★旧田沼派★
水野出羽守忠友(老中)
松平周防守康福(筆頭老中)
井伊掃部頭直幸(大老)
田沼能登守意致(御側御用取次)
稲葉越中守正明(御側御用取次)
横田飛騨守準松(御側御用取次)
松本伊豆守秀持(勘定奉行)
曲淵甲斐守景漸(町奉行)
阿部播磨守正敏(大坂城代)

396:日本@名無史さん
06/06/04 23:01:31
★定信派★
一橋民部卿治済(御三卿一橋家当主、将軍実父)
松平越中守定信(陸奥白河藩主、将軍補佐)
尾張大納言宗睦(御三家)
紀州中納言治貞(御三家)
水戸中納言治保(御三家)
松平伊豆守信明(三河吉田藩主、側用人)
松平和泉守乗完(三河西尾藩主)

397:日本@名無史さん
06/06/05 00:46:41
『 南紀派 vs 一橋派 』みたいだな

398:日本@名無史さん
06/06/05 03:39:57
寛政の改革中期~末期
★定信派★
松平越中守定信(老中首座、将軍御補佐)
松平伊豆守信明(老中次席)
戸田采女正氏鉄(老中)
青山下野守忠良(老中)
京極備前守高久(若年寄)※外様閣老

★反定信派★
一橋大納言治済(将軍尊父、御三卿一橋家当主)
水野出羽守忠友(西丸老中格)



399:日本@名無史さん
06/06/28 00:06:53
定信は短小だったらしいよ

400:日本@名無史さん
06/07/03 21:32:41
なにが?

401:日本@名無史さん
06/07/03 21:38:49
子供に“龍助”と名付けたいのだが、
嫁やその実家に理由を聞かれ、正直に田沼主殿頭が好きで意次のように成ってほしいからだと言ったら、
猛反対を受けています。 


402:日本@名無史さん
06/07/03 23:19:44
>>401
親戚を説き伏せてください。
田沼の立派さを説いてください

403:日本@名無史さん
06/07/06 17:32:32
>>401
ごく普通の名前だし田沼も一応偉人なのにそこまで反対を受けるのか

404:日本@名無史さん
06/07/14 16:33:39
田沼意次の田沼は姓(かばね)だよね?じゃあ田沼家の子孫の苗字は何なの?
我が町内で田沼という名札を発見したけど偶然かな? 当方は栃木在住。

405:日本@名無史さん
06/07/14 23:54:53
今度合併した佐野市の田沼にゆかりということではないの?

藤原秀郷があの変の有力者でその末裔が佐野とかその枝の田沼とか名乗ったのでは
ないかと思ってる。本当の末裔かどうかは別にして、ゆかりのあるのがそう名乗
ったらしい。田沼意次の縁者の墓が田沼駅の前の寺にあるという。(自分は探した
が分からなかった。暑くて止めた。これ前にも書いたと思うが)
住職に聞いたら名乗った人はいるが、藤原秀郷の裔かどうか分からないと笑っていた。

余談だが、近くの唐沢山城は大きいのにびっくり。栃木には旧跡が多いが、余り
宣伝されてないのが残念だよね。もうちょっと案内板が欲しいね。もう転勤した
が、息子がお世話になっているときは随分県内をドライブした。

406:404
06/07/15 18:50:47
>>405
んじゃ血縁の可能性は低いのか・・・ちょっと期待してたのに (´・ω・`)
赤の他人に妙な期待してしまった俺は何様のつもりなんだろwまだ俺も青いな・・・。

もしかしたら明治新姓(皆姓)の頃に、その人の先祖が佐野氏にあやかって名乗り出したのかもね。
そうすると「田沼」の苗字を名乗ってる家は、(たとえ遠戚だとしても)佐野市一帯がルーツになるの?
それとも「まんが日本の歴史」なんかでアリガチな「木の下に住んでる=木下」や「農民=○田」てな具合かな?

407:405
06/07/17 05:40:28
>>406
このスレの前の方にあったと思うが、意次の親だかその前だかは紀州の足軽で
吉宗が将軍になったとき旗本になって、で、(親類が田沼の地方にいるという
ので)田沼を名乗ったのではなかったか。田沼出身の人間がどう巡り巡って
紀州の足軽になったかは、ぐぐれば多少の話はある。

408:日本@名無史さん
06/07/17 13:08:14
>>401
田沼意次を知ってるだけエラいじゃん。>嫁やその実家
でも一発変換できるんだね。「意次」

409:404
06/07/17 18:16:09
>>407

ごめん一生懸命ググっても意行エピソード見つからんかった。代わりにこんなの見つけた。
URLリンク(72.14.235.104)


たぶん上記データでの田沼姓は百姓出自だと思われる。なんかいい加減クダらなくなってきたw
「我が家は元々埼玉県民です byご近所」というオチだったらイヤだし、
声をかける時のリスクも付きまとう。もうアキラメますw。

ところで意次の父である意行は実績以外がハッキリしない訳ですが、
まさに彼は成り上がりの典型ですよね。
ここの部分で現代人にアピールできないでしょうか?
オキツグの賄賂のイメージのせいで、このままの評価では可哀相ですよ。
美濃斉藤氏の“油売り”某や徳川家康に至っての“得川”とか
DQNな噂が立つ人物が多いだけに尚更思ってしまう訳なんですが。

意行・意次・意知3代に渡る大河ドラマで映像化してほしいと祈りつつ、
そろそろ私は消えますw。 長文な上にチラ裏スマソ

410:407=405
06/07/18 07:29:39
>>409
醜女の深情けみたいなレスになりますが、
「寛政重修諸家譜」と「田沼意行」でぐぐると1つは出てくる。
自分も佐藤雅美の本で見たのかも知れない。寛政重修諸家譜での記載しかないのかも
知れませんね。それより(旧)田沼町の名前の由来を調べたけどわからないのが悔や
まれる。地形からなら地形でいいんだけど、それも見つからない。
しかし、意次の功績は立派なもので、相良町ではいまもって慕っているみたいですね。
(ま、地元で人気の殿様は他にもいるといえばいますが)

411:aaaaaa
06/07/24 12:06:15
・・・・よく勉強になる^!!

412:日本@名無史さん
06/07/24 23:45:48
>>1
最高かどうかは別にして、国内産業の流れの隆盛を掴んでいたってところは
現代ならばもっと評価あっていいと思う。

413:日本@名無史さん
06/07/28 05:59:08
佐藤雅美の本っていうのは「主殿の税」ですか?
キャスト
田沼意次(老中)

徳川家治(十代将軍)

徳川治済(一橋当主)

田沼意知(若年寄)/松平武元(老中)

松平康福(老中)/松平輝高(老中)/牧野貞長(老中)/板倉勝清(老中)

佐野政言(旗本)/徳川家斉(十一代将軍)

川井久敬(勘定奉行)/松本秀持(勘定奉行)

阿部正敏(大坂城代)/井伊直幸(大老)/徳川治保(水戸藩主)/稲葉正明(御側取次)/田沼意尊(御側取次)/横田準松(御側取次)/本郷泰行(御側取次)

水野忠友(勝手掛老中)
松平定信(白河藩主)

414:410
06/07/28 12:33:49
>>413
題名を覚えてなかったが言われるとそう。自分もここで教えて貰った。

415:日本@名無史さん
06/08/22 18:09:59
ほー

416:日本@名無史さん
06/09/23 22:16:29
田沼意次って松平定信より政治家としては格が下がる。田沼の政策なんかたいした事ないしね。

417:日本@名無史さん
06/09/23 23:27:37
老中
田沼意次 主殿頭 従四位下侍従 雁之間詰 遠江国相良藩57000石→37000石→1万石

老中首座兼将軍御輔佐
松平定信 越中守 従四位上少将 溜間詰 陸奥国白河藩11万石

418:日本@名無史さん
06/10/13 00:33:27
開国近代化の元祖だろ

明治維新の100年前に維新政府がやったことをやろうとしてたのが
この人

田沼の政治がつづいていれば日本は1700年代の終わりから
開国近代化できたわけだ

残念

419:日本@名無史さん
06/10/23 04:06:20
田沼政治が続いていれば、諸大名の領地は軍事力ではなく経済力をもって徐々に幕府に吸い上げられ、蝦夷地開墾により、國が豊かになり、また対露外交が有利になったことは異論の余地が無い

420:日本@名無史さん
06/10/23 06:34:23
けど当時の技術力でどれだけ蝦夷地の開墾が可能なん?

421:日本@名無史さん
06/11/27 02:34:04
>>375

嘗て田沼氏執政のとき、その家老井上伊織、殊更に時めきたり。
其一を挙て言ふに、阪大学と云輪王寺宮の家司、貨財融通のことにて伊織の宅に往き謁を請しが、取次云には、主人出勤まへにて灸治を為し居候。
因今朝は逢がたしと答ふ。
大学、急ぎ候ことなり。何かようにても不苦。
推て目通仕たくと云へば、左らば通られよと云ゆゑ、入りたるに、伊織は出勤前ゆゑ継上下を着て、物に腰をかけ三里に灸をしゐたり。
灸をすゆる人を見れば、御船手頭向井将監なり。
又羽箒を持て灸灰を払居たる人を見れば、御勘定奉行松本伊豆守なり。
大学も大に駭き退出たりとなり。
これ後に大学が直話にせしことなり。
此頃の世態、聞ても愕然に堪ざる計なり。

平凡社刊東洋文庫『甲子夜話』第二巻
巻之三十 三五 田沼の家老井上伊織の事 p.254-255

422:日本@名無史さん
06/12/14 00:26:55
あげ

423:日本@名無史さん
06/12/14 01:18:37
>>404姓カバネの意味、判ってますか?
姓セイは藤原で、足利氏の一門。小山・結城・長沼と同族の佐野家の庶流。
後北條氏の滅亡後、主筋の佐野家と共に徳川家に仕えたとされる。

424:日本@名無史さん
06/12/18 18:36:30
>>420
米では無理だな。
てか、田沼なら沿海州との交易くらい考えてたんじゃねーかな。
北海道はその基地として、拠点港だけ抑えた間接統治、自力で開拓するほど農業に執着なさそうだ。

425:日本@名無史さん
07/01/08 16:09:24
田沼と大岡忠光とではどっちが上なの。

426:日本@名無史さん
07/01/13 13:26:06
>>425
大岡の方が年上

427:日本@名無史さん
07/01/22 13:28:20
田沼意次と松平定信の双方を操った影の実力者、家斉の父、一橋民部卿治済は何者か

428:日本@名無史さん
07/01/22 17:38:22
一橋宗尹の子、徳川家斉の父

429:日本@名無史さん
07/01/22 19:35:01
そんなことはわかっている

430:日本@名無史さん
07/01/22 22:34:12
田沼は坂本に生まれかわりましたよ
経済的なバックグラウンドがなきゃ軍事力なんて張り子の虎だし

経済の土台が無い軍事力は破綻を早めるだけ

431:日本@名無史さん
07/01/27 12:41:42
>>429
じゃあ、何が知りたい?

432:日本@名無史さん
07/02/01 02:30:11
とにかく知ってることなんでも書け

433:日本@名無史さん
07/02/01 11:21:51
池波正太郎『剣客商売』おもすれー

434:日本@名無史さん
07/02/01 18:13:06
宮城谷昌光の歴史小説はワンパターン杉

435:日本@名無史さん
07/02/11 21:04:53
田沼が失脚してからまる二年がかりの暗闘に興味があるそうです

436:日本@名無史さん
07/02/11 22:32:49
携帯なので検索するの面倒だから、激しく外出なんだろうけど、田沼氏の発祥の地て佐野市の田沼なの?

437:日本@名無史さん
07/02/14 00:24:15
そだよ。藤姓足利氏から分かれたのが、佐野家や小山・結城一門。田沼は佐野の分家。

本来なら主筋の佐野大明神政言(貧乏御家人)が、老中意次・若年寄意知に嫉妬して刃傷に及んだ。或いは、一橋卿に洗脳されたのか…?

438:日本@名無史さん
07/02/14 01:23:52
結局、一橋治済は、息子を将軍にする為だけに田沼、定信を利用したんだろね。

一橋って、御三卿の二番目、田安より格下。この微妙な位置がね。
すなわち将軍家の後嗣が絶えるだけでは不十分。定信は田安だが、田安って
宗武の時もそうだけど、能力が高いから後継ぎにふさわしいなんて主張する
ようなお家柄。定信はうってつけの候補者だな(七男だけどね)。
将軍家には、家基という後継ぎがちゃんといた。これらふたりが後継者から
除外されないと豊千代丸(家斉)は将軍になれない。
権謀術策しかないけれど、これには優先度がある。家基から除外すると定信
が将軍になってしまう可能性が大(少なくとも一橋よりは上)。

当然、定信、家基の順で除外するしか豊千代丸の出番はない訳だね。

439:日本@名無史さん
07/02/14 03:32:39
ウホッ

440:日本@名無史さん
07/02/14 07:22:15
>>437
由緒正しい武士だったのに足軽まで転落してたんだ

441:日本@名無史さん
07/02/14 09:24:32
すでにさんざん既出だと思うけど(甲斐素直の随筆にもあるし)、
実は田沼氏のその後は「風雲児たち」に描かれているほど悲惨では
なかったらしくて、たとえば水野家から追い出されてきた子供って
いうのも、意知が亡くなったので田沼の方から呼び戻したもので、
元に水野家とは昵懇のまま、定信が権力をなくした後にまた幕府
財政を担当している。決して幕末の「ニシン倉」まで表舞台に出て
こなかったわけじゃあない。

ただ2年にわたる政争が凄絶なものだったのはたしかで、それは
よく言われているように、これが田沼家対一橋・定信の個人的な
対立という次元じゃなく、綱吉の時代から築き上げられてきた
「家柄にこだわらず能力主義で人材を登用するシステムを維持
したい勢力」と「能力に関係なく家柄で幕府の要職を固めて動かさ
ない門閥第一勢力」の覇権争いだったからで、実質的に江戸時代
180年の歴史の総決算的な路線対立だったから。

で、よくあるように「民衆の蜂起」を理由に革新派が撤退を余儀なく
されて、かえって民衆にはヒサンな政権が勃興してくるわけです。
改革をうたって人気を得て、しかし時代に逆行する破滅政権が
できるのは世の常ですね。かくして田沼意次を中心とした能力本位・
商業経済主義・開国革新路線の幕政は実質的にストップし、松平
定信のトチ狂った経済政策でせっかく蓄えた幕府の余剰金もアッと
いう間に底を尽き、幕政はたちまち破綻に追い込まれていくことに
なります。

とにかく幕末期もそうですが、派閥争いで報復人事を繰り返して
いるうちに、負けるはずのない相手に漁夫の利をくれてやるなど
負けるはずのない勝負を落とすようなことばかりゆやっているのが
日本のトップの体質です。まあ大東亜戦争も平成経済戦争もそう
でしたが、どうしてこう学習しないのか…余談すいません。



442:日本@名無史さん
07/02/14 09:58:51
>>441
いや、余談を交えて頂いたのが、流れに言及することになって良いのではと存じます。

>>440
考慮しておく必要があるのは、必ずしも「嫡流」ではないということかな。
由緒正しい嫡流が、そのまま足軽に没落するというより、嫡流以外が自然に由緒から
外れていって、いつの間にか嫡流は消滅してしまい、残った傍流の中から異例の台頭
をした者があった場合、その祖を辿ると実は由緒正しい家柄、なんてパターン。

徳川の家臣(御三家のような新興の家は顕著)だが、例えば水戸の家臣に「一色」
なんている。室町時代の名門武家だよね。ただ、一色の嫡流が水戸の家臣にまで
「身を落とした」のではなく、一色の嫡流は戦国乱世の中で別途落ちていって、
沢山存在している一色の傍流の誰かが、水戸に仕官した、という形。

先祖を辿れば、必ず天皇だ! なんてお茶目なスレも日本史版にはあるがw、
そんなところが実態でしょう。

443:○「本能寺の変、425年目の真実」
07/02/14 11:07:35
○人大杉状態を何とかするべし。自由に書き込めないだろう。

田沼意次を許す幕府。

○二十年間で二千億円の賄賂を集めた。
○天明大飢饉の最中に、米だけで七百億円をあちこちにため込んでいた。
○金銀反物は、屋敷に満ち、その数を知らず。
○大奥の美女らとはスキャンダルの数々。

島津家は長さ六メートルの銀の舟に金銀細工を万杯にして贈る。
井伊家は九尺四方の金銀製の箱庭を贈った。

444:田沼意次の財政改革ー主殿の税
07/02/15 01:56:38
一橋民部卿、おことも謀りごとに加わっておったか。

445:日本@名無史さん
07/02/15 02:35:21
一橋治済は、御三家と結託し、田沼の残党である大老井伊直幸、老中首座松平康福、老中水野忠成、御用御側本郷泰行、同田沼意致、同横田準松をおっぱらうため、
白河藩主松平定信、小浜藩主酒井忠貫、山形藩主秋元永朝のいずれかを老中首座にすべく工作していた

446:日本@名無史さん
07/02/16 09:40:21
定信は、何と言っても「吉宗の孫」という凄い札がかかっているからな。
家臣筋になってしまったが、主筋も同様。

老中首座になるのもむべなるかな。
ただ、既に一橋治済は、もうその先を見ていたのは間違いない。

447:日本@名無史さん
07/02/16 17:42:39
田沼の治世が原因で民衆が苦しんだってのは無い
飢饉や疫病はそれこそ地方領主の無能を示してるし


正直、汚職だろうが悪徳だろうが
それ以上の能力の持ち主だろ
息子が暗殺されたのは自業自得だが・・・・

448:日本@名無史さん
07/02/16 23:37:11
正義の胡散臭さが分かる人なら、田沼の価値も理解できるのかも。

449:日本@名無史さん
07/02/17 02:21:17
飢饉を悪政の証左のように語られちゃったのも気の毒だね。
小氷河期みたいな時期だったんでしょ?

しかし、為政者の失政を天変地異で戒めるってモロに儒教的発想だよね。


450:日本@名無史さん
07/02/17 03:22:11
天人相関説だな。

本能寺の変の頃も気象的には似た状況だったらしい。
赤光(オーロラの一種)が観測されたとも言うし。その逆が平氏政権末期。
気候変動も、歴史を動かす・・・・・?

451:日本@名無史さん
07/02/17 05:33:10
田沼が失脚してから寛政の改革の号令が始まるまで、まる二年の暗闘が繰り広げられ、幕府政権交代史上類を見ない激動だったと。
というのも、田沼改革はチームを組んで行われていたから田沼一人を閣外に放逐しても政策は簡単には揺るがない。しかも大奥まで田沼派。

その暗闘における一橋民部卿治済の暗躍には非常に興味を感じますが、いかがでしょうか

452:日本@名無史さん
07/02/17 11:45:35
最大の問題は、定信の処遇。実は、田沼派と寛政改革派(便宜上こう呼ばせていただく)の戦いは、やはりほとんど決着していたと見ている。
やはり田沼が巨魁であって、田沼なき田沼派は殆ど壊滅状態。政権を失った自民党経世会みたいなもの。

寛政改革派は、定信の処遇如何で、一枚岩になれるかだった。
それに、実は一橋治済は、そういった両派をも超越するような存在であったのではないかと考えている。

田安家の七男定信を、奥州白河藩主へと駆逐したのは、そもそも田沼と組んだ一橋民部卿治済の画策。
豊千代丸を将軍にしたい一橋民部卿治済の意志が働いている。将軍世子家基の暗殺も同じラインの謀略だろう。
御典医も買収されていた訳だし、用意周到。

その後の田沼追放も一橋民部卿治済。ここまでする動機は豊千代丸の将軍就任のみを至上命題にしているからこそ。
豊千代丸は、14歳で第11代将軍徳川家斉となったが、政権運営をする核が必要となる。政権与党側になった訳で、ただ謀略にのみうつつを抜かしている訳にはいかない。
定信の起用の背景だ。当然、家斉が成人するまでの暫定措置であり、何も幕政改革なんて路線を支持してのことではないだろう。

一橋民部卿治済は、暗闘の一方の当事者という考えではなく、両派を超越した巨魁であるという考えがないと、この一連の真相は見えてこない。


453:日本@名無史さん
07/02/17 23:29:19
一橋民部卿治済スレはここですか?

454:日本@名無史さん
07/02/18 00:58:06
そうかな、そうかも。
主役はすっかり食われていまつ

455:清水宮内卿重好
07/02/18 03:43:33
水野出羽守忠友は、一橋民部卿治済と手を組んで意次を免職、差控という形で老中から逐ったが、治済の老獪さに手を焼き、やはり大奥に隠然たる影響力をもつ意次が不可欠と判断。
意次に侘びを入れて協力を仰ぎ、差控を解いた。さらに、いずれは老中に復権させる腹積もりだったそうですが、これは真実でしょうか?

456:日本@名無史さん
07/02/18 11:42:06
その根拠は?

「腹積もり」なんて、具体的なデータがないと、トンデモだよ。
史料でも、それを窺い得るような出来事でも、何かソース挙げてくれ。


457:日本@名無史さん
07/02/25 15:56:24
誹謗中傷はなしね。

458:日本@名無史さん
07/02/25 16:02:17
そうだそうだ。誹謗中傷はよせ

459:日本@名無史さん
07/03/04 23:49:34
タヌキ意次

460:日本@名無史さん
07/03/17 11:37:50
沼田意次

461:日本@名無史さん
07/03/22 23:21:37
田沼意次は老中を罷免されたとはいえ、御用取次は田沼能登守意致、横田備中守準松、本郷大和守泰行らことごとく田沼派で占められ、
老中たちも松平周防守康福、水野出羽守忠友は大奥に繋がりを持っており、大奥まで挙げて定信の老中就任を阻もうとします

462:日本@名無史さん
07/04/03 19:14:40
俺も田沼意次は天才だと思ってた。やはり天才は不遇なのかね

463:日本@名無史さん
07/04/07 04:59:01
江戸時代は、太平が続き、経済があれだけ伸びたんだ。
重商主義を取る政治家が皆無だったら、もっと早く駄目になっていただろう。


464:日本@名無史さん
07/04/07 09:22:51
生活必需品を全国規模の流通で支えていた江戸中期に、通貨の統一が出来なかったのは
大きなマイナス要因になっただろうな。
相対的に銀を貶めて、金を高めることしかせずに、両貨統一の方向に向かわなかったのは
江戸幕府の統治能力の限界か?

てか、なぜ関西は銀なんだ?

465:日本@名無史さん
07/04/07 11:42:16
中国他、東洋は銀。欧米は金。BANKの訳語も銀行やがな。

466:日本@名無史さん
07/04/07 14:50:04
BANKは堤防だろ

467:日本@名無史さん
07/04/08 15:07:50
田沼といえば、すぐ賄賂政治とか批判されがちだが、
今と違って当時は、贈収賄への罪悪感なんて大してなかった。
松平定信だって、水野忠邦だって贈賄してるしな。

意次が家基の毒殺の黒幕なんて確たる根拠のない言いがかりまでつけられて・・・
これだって、初期の政敵だった松平武元の家臣が書いた「続三王外記」を元ネタ
にした俗説だろう。
家基生母のお知保の方と意次は実際は懇意だったし、家基が田沼の政治を批判して
いたなんてウィキが勝手に書いてるだけ。
家基につけた西の丸老中は歴代、松平康福、水野忠友、板倉勝清など意次の与党
ばかり。
第一、意次は家重→家治という吉宗の嫡流にのっかって出世してきただけに、
この嫡流の血統を重視、当初は大岡忠光と組んで一橋家を空き家にしようと画策、
そしのちには一橋治済と組んで、田安家を空き家にしたぐらいだから、家基を
亡き者にするなんて・・・考えにくい。

468:日本@名無史さん
07/04/08 23:12:52
>>464
関西が銀なのは昔からです。銀の方が西国産出量が多く、価値も金ほどではなくてもそこそこあるからです。
金が産出するのは、東日本の方が多く、特に戦国期はゴールド・ラッシュですが、そんなところから、東国系武士=金、西国系商人=銀という流れが自然に生まれたのではないでしょうか?
江戸期には、統一のメリットはあるが、むしろ不統一のメリットも考えたのでは。小判の品質を(改鋳等で)落とさざるを得ない場合、銀の品質をより落とす(流通量を上げる等)ことで相対的な価値下落を軽減させるなどの手法もありますので。

>>467
おそらく、一橋治済と組んだことから、治済の嫡子豊千代丸を将軍にする路線で一致したものと考えられます。
ただし、それだけでは治済があれほど田沼を操れたのが不思議です。田沼の方が実権を握っている立場で、治済排除は出来なくてもイニシアティブは田沼が持っていてもおかしくない。
おそらくは、治済が何等かの田沼のウィーク・ポイントを握っていたのではないか。そうでなければ、田沼失脚という筋書きが説明できません。家基暗殺も。

飽くまで想像ですが、例えば紀伊吉宗の擁立までの過程の田沼家の暗躍(紀州内や尾張に対してetc.)などの田沼家にとって発覚すれば致命的な機密事項を握っていたとか。


469:日本@名無史さん
07/04/08 23:17:59
>>467
えっ!????

470:日本@名無史さん
07/04/09 08:06:35
>>469
ボヘッ!?

471:日本@名無史さん
07/04/09 09:22:40
>>470
スッポンポーン♪

472:日本@名無史さん
07/04/09 23:08:20
愚鈍な政治家でない限り、当然以下のことは察するだろう。
豊千代を将軍の跡継ぎに迎えれば、実父一橋治済の勢威が手のつけられないほど大きくなるだろう
ことは。
意次にとっては、家基に11代を継がせた方がずっと有利なのは自明。

>>468
わざわざ個人的な想像とことわっているのになんだけど、
吉宗擁立の暗闘は、紀伊・水野重上VS尾張・水野弥次太夫の闘争に尽きるじゃないか?
たとえ意次のオヤジが関与したとしても、治済にせよ意次にせよ定信にせよ、
みんな吉宗勝利の受益者ばかり。その過程でどんなあくどい立ち回りをしたとしても、
殊勲にこそなれ、弱みになるなんてことはない。


473:日本@名無史さん
07/04/09 23:14:04
徳川家基暗殺は、一橋治済が首謀者で、田沼意次は消極的参加または黙認ではないかな。
意次にとっては、別に家基でも悪くはない。しかし、一橋治済は何としても家斉を将軍にしたい。でなければ意味がない。
動機は、一橋治済にある。

474:日本@名無史さん
07/04/09 23:23:41
>>472
後世の我々は、みんな同じように見えるかもしれないが、当時は君臣の歴然たる差があるので、そこは斟酌しなければならないと思います。
一橋治済や、また定信は格下へ養子に出されていますが、やはり「主家」の人間。
田沼は、どんなに優れていても家臣です。スキャンダルがあった場合、どんな場合でも責めを負うのは家臣なんですね。
徳川頼宣と由比正雪を出したら極端ですが、発覚した例を出せばそんな感じです。

ただし、私も>>472の前半の内容には同意です。かつ、結果はそうなりました。
それが、田沼意次の限界だったのではないでしょうか。
一橋治済が家基暗殺を画策した場合、田沼は不本意であっても従わざるを得ない。
そんなところではなかったかと「思う」のです。私ももう少し調べてみますが。

475:日本@名無史さん
07/04/09 23:29:12
意次が家重とその嫡流を守るために苦心惨憺して、田安・一橋の「御両卿はずし」に奔走してきた
経緯と、お知保の方との所縁を考えると、家基の死に関与していたとはどうもね。

意次の義父や弟と甥が一橋家の家老をしていたのは事実だけど、これは一橋家側から働きかけた結果。
成り上がりの意次も、門閥の後ろ盾は必要との思惑もあったろうけど、
でもね・・・家基の死には積極的も消極的もなんも、無関係だと思うな。

476:日本@名無史さん
07/04/09 23:35:48
いや、無関係かもしれないです。私も傍証となるに相応しいデータをまだ見つけていません。
ただし、仮に田沼が嫡流を守ろうという意図を持っていたとしても、田沼ほどの政治力のある人間が、結果的に家基暗殺を許してしまい、その結果、豊千代丸の将軍就任と自らの失脚を招いています。
純粋に田沼意次と一橋治済の政治能力を比較したら、間違いなく田沼が上です。
にも関わらず、結果は田沼の敗北。そうなったのは何故なのかを考えてみた次第です。

477:日本@名無史さん
07/04/09 23:39:07
つか、意次が黒幕と思わせるあたりが、そもそも治済のしたたかね仕掛けじゃないかって
疑うな。
奴は、ずっと初代宗尹の長男次男を相次いで越前松平家へ養子に追いやった意次への
怨念を腹中に宿していたと思う。

478:日本@名無史さん
07/04/09 23:45:17
それはあると思います。
結局、田沼対治済という暗闘が、手を組んだ面もあったことを認めたとしても、構図として存在していたでしょう。
そしてそれは、このスレでも出てきていましたが、「立場の上下」対「能力の優劣」で、最終的に治済に軍配が挙がったと言うことでしょうか。


479:日本@名無史さん
07/04/09 23:54:06
確たる経綸をもっていただけ、意次は政治家として卓越していると思う。
過去レスに、何人かの役人の名を挙げて、意次の手柄ではないような書き込みが
あったけど、官僚はしょせん官僚、大図を示し、役人の献策を取り上げるか否かの
舵取りをするのが政治家。
その点、治済はただの権勢欲に取り憑かれた政治屋って感じ。
けど、その妄執が凄い。確かにある意味逸材だな。

480:日本@名無史さん
07/04/10 00:10:53
なかなか有意義な意見交換が出来ました。私ももっと調べてみますが。
馴れ合いになると面白くないのですが、具体的な話が多く出たので、意義はあったと思います。

田沼意次の卓越した見識がもっと通れば、江戸時代後半の様相はかなり変わったかも知れません。
ある意味、治済の勝利は理不尽なのですが、そのような幕府だからこそ滅んでいくわけで、どちらが良かったかは難しいですね。

あと、敢えて治済にも同情論を。
おそらく「御三卿」というシステムに大いに問題があったのではと考えます。
御三家と御三卿の大きな違いは、一国一城の主ではない、ということでしょうか。
十万石ありますが、はっきり言って仕事はありません。
尾張家や紀伊家なら、例え将軍になれなくても、55万石~60万石の「大名」であり「藩主」です。
その人生は決して無為なものではありません。
それに比べると、御三卿は将軍家家族で、家臣すら、幕府からの出向みたいなもの。
私が御三卿の当主になれといわれたら(有り得ませんが)お断りですね。後三卿の当主で一生を過ごすなんてことになったら、一体何のために生まれてきたか分かりません。
それに、ひょっとしたら「将軍になれるかもしれない」のです。そうすると、何か有意義なことをやろうと考えたら・・・

どんな手を使ってでも、将軍の座を目指す。それしかないのではないでしょうか。

481:日本@名無史さん
07/04/10 00:37:31
う、久々にヒートアップしとるな、このスレw

しかも、またもや一橋民部卿治済のスレになりかけている。
・・・と思たが、まあどちらもバランスが取れていて意次も評価されている
ようやな。

治済が将軍になろうとした訳ではない。しかし父親の情を考えたらと一橋家
の存在意義を考えたら、家斉を何としてでも将軍にしたかった気持ちは分か
る。自分がダメでも、せめて息子には、部屋住みの延長みたいな一橋家なん
か継がせたくなかったんだろう。
意次は、そんなのと戦わなければならなかったから、更に不憫だな。

482:日本@名無史さん
07/04/10 00:41:54
>>480
>ひょっとしたら「将軍になれるかもしれない」・・・そうすると、何か有意義なことをやろうと考えたら・・・
その志あっぱれ。。。というべきでしょうねえ。
でも治済の場合は、手段が目的化してしまったような。
御三卿は高等遊民の最たるもの。責任を負わずに権威に胡坐をかける。
あなたと違って、僕が憧れと思うのはナマケモノだからでしょう。



483:日本@名無史さん
07/04/10 00:42:34
大納言家基の暗殺首謀者の容疑者筆頭は一橋民部卿治済だと思うが、田沼が暗殺に一枚かんでいたとは考えにくい
メリットがないし、ぎゃくにリスクありすぎ

484:日本@名無史さん
07/04/10 00:45:32
そんなこんなで将軍となった11代徳川家斉は、大した業績は何も残さず、太政大臣兼征夷大将軍という家康秀忠以来の栄誉と、大御所時代を含めて50年も最高位にあって53人もの子供を作るという離れ業をやってのけたw

485:日本@名無史さん
07/04/10 00:48:50
しかも上洛して太政大臣宣下をうけるのが筋なのに江戸に居ながらにして太政大臣になるという横着きわまることをする
治済=准大臣、家斉=太政大臣、家慶=右大臣を独占するゴキブリ並生命力一橋党

486:日本@名無史さん
07/04/10 00:58:24
>>483
リスクはある。しかもものすごーく。
しかし一方で、一橋治済と正面から対立するリスクもものすごーくあるのではないかな。
暗殺には加担はしていないと思う。いくらなんでも。
でも分かっていても(意次ほどの政治家なら、察知できなかったという方が考えられない)抗えなかったのでは?
テラカワイソス

487:日本@名無史さん
07/04/10 01:02:05
治済による家基暗殺計画を察知する→家治に報告する→治済隠居→一橋十万石は収公→幕府財政に寄与

というあらすじにはならないんですか?

488:日本@名無史さん
07/04/10 01:11:28
それは、将軍家分裂、全面戦争。第二次応仁の乱・・・か安永の乱かになるかも。
田沼意次さんは、「政策」を実施したかったんでしょう。
家治-家基ラインと治済-豊千代丸ラインを比較したら、後者の方が遥かに粘着質。
前者は貴族然としているっていうか、頼りになるくらいなら、意次さんも何とか動いたのでは。
実権握る為に無力化していたのが裏目に出たのかもしれないし。
どーでもいいや、あんな親子・・・・って

489:日本@名無史さん
07/04/10 01:16:59
しかし家基さえつつがなく将軍を継承していればねぇ。意次は、せがれ意知を次期将軍の老中に、甥の能登守意致を次期将軍の側用人とし、
次代も田沼一族で将軍周辺を固めるつもりであり、一橋民部ごときに口出しさせぬ権力基盤確立まであと一歩だったのに…

490:日本@名無史さん
07/04/10 01:21:45
家基が毒殺されたかどうか?・・・自体が藪の中。
鷹狩り後、東海寺で体調を崩し、典医池原雲伯の投薬後、さらに病状が悪化して帰城後3日後に死んだ経緯
から、まず雲伯が疑われ、それを推挙したのが意次とされるところから意次自身に嫌疑がかかった。
(といっても、取り調べを受けたわけではなく、「続三王外記」などの俗書で、巷間囁かれただけ)
これがまず出来過ぎ。
よほどのバカじゃない限り、すぐ容疑者が割れるようなこんなトンマな仕掛けはしない。

第一、仮に毒殺だとしも、防ぐとか事前に察知するなんて容易じゃない。
治済はもっとしたたかで老獪だよ。




491:日本@名無史さん
07/04/10 01:23:38
で、結局、大納言家基は病死なのか暗殺なのか?

492:日本@名無史さん
07/04/10 01:26:25
田沼氏による執権政治が開始され、封建制から重商主義による高度な資本主義経済がアジアで独自に開花した。
北方の防備に備えるため、オランダと全面提携。西洋式武装と積極的な貿易が開始された。
ペリーが来航する50年以上も前。

493:日本@名無史さん
07/04/10 01:31:40
>>490
そう。具体的な計画まで察知できたかは疑問。
だが、ネガティブな流れは感触として得られたのでは?
その程度では、将軍家にも言えないし、また表立って動けば、それこそ一橋と正面きって対立しなければならなくなる。
むしろ田沼は、もっと真面目な政策通であり、謀略とかは却って治済には遠く及ばなかったと思えるな。

494:日本@名無史さん
07/04/10 01:31:53
家基は文武両道の聡明な青年といわれているが、18歳ではまだなんとも?
治済の父親の宗尹は「生まれながらの将軍の子はわれ一人」と強い自負を
持っていたそうだから、この家系、大岡忠光や意次が早くから脅威に感じていた
ように権力にも色事にも逞しかったんだろう・・・と思う。

495:日本@名無史さん
07/04/10 22:29:53
>>494
吉宗の後は嫡流の家重か、英明な(田安)宗武か、みたいな中で埋没していたように見えて、猫被ってたか。
こういうのが、実は一番怖いね。

496:日本@名無史さん
07/04/11 00:25:36
自身が無事生育するかどうかもわからない幼少の頃に、兄重昌、重富が相次いで越前家に養子に出され、
一橋家存亡の危機に陥った苦い経験から、
治済はこの策動の首謀者意次に接近して、彼の同輩だった岩本正時の弟内膳正正利の娘お富を側室(その子が家斉)に迎え、
意次の弟の意誠、甥の意致を家老に用い、意次と昵懇の老女大崎に一橋家の奥向きを取り仕切らせた。
この時期の力関係はまだ、一橋<田沼だった。

しかし、大奥における意次の最大の同盟者だった年寄松島の庇護下にあったお知保の方(意次はお知保の生家津田家の血縁
を探って、所縁の娘を側妾にした)が産んだ家基が急死してから目算が狂った。
この時期からあきらかに一橋>田沼へと力関係が逆転していく。

家基亡き後、わが子が時期将軍になると決まれば、治済にとって、意次の利用価値はなくなる。
と同時に、いよいよ復讐の刻来る!
ともに「御両卿はずし」の憂き目にあった治済と定信が接近。つか、定信を復讐に利用・・・
ってな感じかな。



497:日本@名無史さん
07/04/11 00:47:48
田沼失脚の際は、表向きは「御三家が相談」となっているけど、そのあたりの事情はどうなんだろう?

498:日本@名無史さん
07/04/11 01:05:24
尾張宗睦は従二位権大納言に昇進する約束で沈黙。
紀伊家は当主治貞と、わが子岩千代に藩主の座を継がせたい先代重倫との確執があってゴタゴタ。
水戸治保は、甲府・紀伊が綱吉の後継争いをしていた頃の綱條のような態度を取っていたらしい。
もともと御三家ら門閥グループは保守派、成り上がりで重商主義の意次の専横を快く思っていなかったようだ。
家基死後は、親等からいっても一橋豊千代に対抗できないだろうねえ。

499:日本@名無史さん
07/04/11 01:25:05
家宣は、柳沢吉保に勧められるままお須免の方を側室にしたけど、
治済は、はるかに徹底して意次を懐柔し、篭絡した。
なんせ一橋家を田沼一党で占拠させたようなもんだから。

500:日本@名無史さん
07/04/11 01:32:27
軒下を貸して・・・・叩き出したか・・・!?

501:日本@名無史さん
07/04/11 09:51:33
田沼は、さきに田安や清水を抱き込んで、やばそうな一橋を空家にすべきであった。その後、清水重好を11代目とすべきであった

502:日本@名無史さん
07/04/11 23:44:10
意次の失脚に御三家が加担した背景には、三家各々のお家の事情を
巧みに治済に利用された面もあるが、
究極は、やはり「貸金会所の令」で、決定的に御三家をはじめとする門閥グループを敵に回してしまったからだと思う。
盟友水野忠友さえ、これを機に田沼の急進的な改革に危惧を感じて、彼から離れていっている。

503:日本@名無史さん
07/04/11 23:46:42
つか、その田沼改革の危うさを御三家らに喧伝したのが、治済。

504:日本@名無史さん
07/04/11 23:53:00
田沼意次は今で言えばさしずめ竹中平蔵って所か。

505:日本@名無史さん
07/04/12 08:16:06
治済スレにするつもりはないけどw、御三卿って、やっぱり「~卿」に任ぜられるのがお約束になっていたのかな?

治済は「民部卿」。でも例えば一橋慶喜は「刑部卿」だから、家と官職で固定でもないようだし。
この辺りの慣習についてご存知の方、いらっしゃいますか?

506:日本@名無史さん
07/04/12 08:33:55
田安家は衛門督が多い
徳川家臣のうち、御三卿以外で~卿は医者ぐらい。
正式な叙任を経たものか疑わしいが、医者には
室町以来の旧家があるから、慣例として認めたものか?




507:日本@名無史さん
07/04/12 09:54:48
>>504
全然違うw
そもそも意次はどこかの国の犬となってロボットに徹していたわけじゃないし。

508:日本@名無史さん
07/04/12 13:01:36
「貸金会所の令」というのは諸大名の領地から租税を徴収しそれを諸大名に貸し付け、返せない者は領地を担保ながれにさせるというやつか?

509:日本@名無史さん
07/04/12 21:08:51
>>505
一橋家は初代宗尹、六代慶昌は刑部卿。二代治済、三代斉敦、五代斉位は民部卿。
四代斉礼は兵部卿・・・と官名はまちまち。
田安家も民部卿、大蔵卿・・・清水家も宮内卿、式部卿・・・

「卿」に任じられるのは、本来宮家が多いが、例えば先に閑院宮が兵部卿に任じられていた場合、
御三卿の当主は兵部卿を遠慮した。
事実、伏見宮がよくなった中務卿は親王家専任とされ、御三卿の歴代当主は誰も就いていない。
この点が、「禁中並公家諸法度」に基づいて公家の定数の枠外で、御三家などが任じられた権大納言、権中納言などとは違う扱い。





510:日本@名無史さん
07/04/12 21:34:33
医師の官位はふつう法印、法眼を名乗る。

朝廷の典薬寮の長官、典薬頭は律令制では従五位下で、
正四位以上がなる「卿」とは大きな開きがある。

幕府にも典薬頭がいるが、これは>>506の指摘どおり朝廷に奏請して正式に叙任されたものではない。
半井家、今大路家が任じられ、他に有名な曲直瀬家があるが、いずれも法印。


511:日本@名無史さん
07/04/12 22:41:49
>>511
断言は、出来ませんが・・・(いつもそうだな・・)
徳川御三卿は従三位以上なので、所謂「公卿」だからではないでしょうか。


512:日本@名無史さん
07/04/12 22:50:02
ありゃ、またやってしまった
>>511>>505へのレスです

513:日本@名無史さん
07/04/12 23:00:56
田沼意次は、経済政策が目立ちますが、やはり外交でも、他の治世(特に改革路線)とは大きく異なっていますね。
赤蝦夷風説考によって北方の海防意識を持ったり、鎖国政策も見直そうとしていたとか。
ある意味、ペリー来航まで開国が遅れたのは、より危機感を煽って幕府滅亡へと推移しますが、田沼がやりたいようにやっていたらどうなっていただろうと、いろいろ想像が膨らみます。
「もし~」が度を超すと、よくあるトンデモスレになりかねないですが、ここは良スレなので、現実的な話が出来ると思います。
荒れない程度に田沼の外交像を考えてみるとすれば、どうでしょう?

長崎での相手国を拡張したか。
開港する港を増やしたか。
それとは別に、田沼のポリシー。
或いは、田沼がなしえなかったことは、どのように有形無形で後世に引き継がれたか・・・。


514:日本@名無史さん
07/04/12 23:33:29
田沼の政策は全部白河藩主の松平越中守によって否定されてしまいました

515:日本@名無史さん
07/04/13 01:10:42
一橋治済にとっては、何の興味もない事でした・・・

516:日本@名無史さん
07/04/13 01:51:18
家斉にとっては房事にいそしむことさえできれば田沼だろうが松平越中だろうが誰でもよかったんです

517:日本@名無史さん
07/04/13 08:23:52
定信は、質素倹約の一環として、家斉のセックス・コントロールもしようとしたらしい。
家斉が20歳となった頃、結局定信は更迭されたが、家斉の恐ろしいまでの子作りは、定信老中在職中の反動ではないかな。


518:日本@名無史さん
07/04/13 22:18:52
田沼意次なんかそれほど凄い政治家とは思えないけどな。柳沢吉保のほうが出世という点では勝ち組だし。

519:西丸御納戸頭の荻原彦次郎乗秀
07/04/14 00:22:34
柳沢の時代は大名を廃絶させても平気だったから空いた土地を側近に配れたが、田沼の時代は大名廃絶させる力が衰えつつあった。逆に下手に廃絶や減封、移封を力押しすると幕府の高官に多数の怪我人がでる始末
そんななかにおいて57000石も出頭したは破格といわねばならない

520:水野忠篤
07/04/14 01:09:56
柳沢は政治屋だけど田沼は政治家。

521:美濃部茂育
07/04/14 14:33:45
水野さん、あなたは柳沢よりもっとひどいよ

522:日本@名無史さん
07/04/14 16:01:25
水野美濃守忠篤って家斉の側用人でしょ?
具体的な政策は何もなし。

523:日本@名無史さん
07/04/14 23:51:08
美濃守忠篤は側用人でなく御側御用取次。
叔母が家斉の愛妾だったというだけで取り立てられた姦物。家斉死去後、水野忠邦により、免職・差控。五千石没収。屋敷家作没収。隠居・蟄居。

524:日本@名無史さん
07/04/15 00:16:36
水野忠篤の失脚の仕方って意次よりはましかもね。

525:日本@名無史さん
07/04/15 00:18:36
ふつう幕府の高官に不首尾があって、免職などの懲戒を申し渡される場合、
少なくとも前日には上意の主旨が伝えられ、当日には家老・用人などの名代を立てる。

が、水野忠篤の場合は、突然御用部屋に呼び出され、大老井伊直幸、老中太田資始、土井利位、脇坂安薫列座の中、
水野忠邦から「菊之間縁側詰め」を申し渡されるという、まるで時代劇の一コマのような劇的で異例な処分の宣告を
受け、そのまま「中の口」まで引き立てられた。(正式な処分は、その日の午後、名代を立てて受けたが・・・)
忠篤にとっては耐え難い屈辱、忠邦にとっては痛快事だったろう。

526:日本@名無史さん
07/04/15 00:21:37
ゴメン
井伊直幸×⇒井伊直亮○

527:日本@名無史さん
07/04/15 02:15:39
御側御用取次は吉宗からなんだが、やはり側用人というと柳沢や間部(彼は「側衆」だが)のイメージがあったから、位置づけを少し変えたのだろう。

ただ、御三家や柳沢の処遇と、御三卿や田沼の処遇を比較した場合、やはり江戸幕府って段々苦しくなってきて来たんだという感じはするね。
御三卿など、領国も与えられないから、官位を上げてごまかした?
お陰で一橋治済にような謀略の化け物が現れる始末。

528:日本@名無史さん
07/04/15 11:21:42
水野忠篤はなんか業績残してるの?

529:日本@名無史さん
07/04/15 12:21:16
忠篤は閨閥人事に腕を振るった以外になんにもないですね

530:日本@名無史さん
07/04/15 21:31:03
吉宗は将軍になる過程で、土屋政直、井上正岑ら当時の老中たちに借りがあったので、
柳沢吉保や間部詮房のように老中を凌ぐ権力の持ち主となりがちな側用人をまず廃止した。
ふつう、御側衆やその一種である御側御用取次は旗本の任。側用人は大名の任。
吉宗は紀州以来の側近、加納久通、有馬氏倫も新設の御側御用取次に留めた。
(古参の老中が退いてのち、享保11年になって加納も有馬もようやく1万石の大名になれたぐらい)

側衆にせよ御側御用取次にせよ側用人にせよ、彼らはもともと職制上政策の立案者ではないので、
吉保、詮房、まして水野忠篤に政治的な事績を求めること自体、無理。
単なる権勢家ではなく、政治的な理念とそれを具体化する政策を持っている者は、老中を目指すだろう。


531:日本@名無史さん
07/04/15 21:36:27
ちょうど田沼意次のように・・・

532:日本@名無史さん
07/04/15 21:41:29
>>527
御三卿にも領地はあったよ。分散していただけ。

533:日本@名無史さん
07/04/15 22:17:12
忠篤は頑張って大御所政治を支えたんだからそれ自体が業績だと思うけど。

534:日本@名無史さん
07/04/15 22:21:52
大御所「政治」って、何?「性事」ならわかるけど。


535:松平周防守康任
07/04/15 22:42:00
美濃守忠篤は幕政においては無能なくせに権力のありかについては、ある種の昆虫のような触覚を働かせるのである。

家斉は口喧しかった松平越中守定信の遺制が幕閣から消えていってからは気ままに、奢侈と女色に溺れてきた人物なのだ。長年の大奥の女たちとの遊興に費やし、残ったは沈潜した疲労のように、思える

536:日本@名無史さん
07/04/15 23:26:14
>>535
よほどの恨みでもあるのかな?
家斉は64歳で死んだが、余は満足じゃ・・・の生涯じゃないか。
で、その後は、松平越中守定信の息子12代将軍家慶の治世となった。

537:日本@名無史さん
07/04/15 23:36:36
田沼意知を刺殺した佐野政言の背後には松平定信がいたことを匂わせる文章を、
長崎のオランダ商館長だったチチングが書いているそうだけど、
思い出すのは、家基毒殺(?)の一件。
この時も田沼意次の介在を疑う風説が流れた。
自分が真の黒幕でありながら、他者が黒幕であるかのように偽装し、世論誘導する。
真犯人は・・・やはり!?


538:日本@名無史さん
07/04/16 17:15:10
水野忠篤ってそんなに評価悪い人物なの。
意次ほどの悪人とは思えないけど。

539:日本@名無史さん
07/04/16 20:55:44
田沼が悪人なんて、古いよ。
今では田沼政治はずいぶん見直されている。

水野忠篤は若年寄林肥後守忠英、小納戸頭取美濃部筑前守茂育とともに
「天保の三侫臣」といわれるぐらいだからなあ。
彼らに、わが子溶姫を生母とする前田慶寧を次期将軍に擁立するため、
家定を廃嫡しようと企んだとされるお美代の方の養父中野碩翁も加えて、
皆悪評が高い。
4人とも水野忠邦によって失脚させられたけど。
まあ、田沼意次とは比較にもならないと思うな。




540:日本@名無史さん
07/04/16 21:51:24
田沼政治の政策は、
蝦夷地開発
新御用金令
印旛沼開削工事

541:日本@名無史さん
07/04/16 22:30:30
田沼意次と聞くと、俺は田中角栄を連想する。
門閥のない小身上がりの意次と、学閥のない角栄。
ともに政策能力は抜群で、実力でのし上がってきた。
それだけに強引さもあった。
意次同様角栄といえば、汚職と結びつけやすいが、
彼の資源外交は将来を見据えて国益に叶うものだった。
国際石油資本と彼らをパトロンにするニクソン米政権を敵に回して、
ロッキード事件を暴露されるという謀略に嵌まったが、
この過程も、意次の失脚の経緯に酷似している。

542:日本@名無史さん
07/04/17 06:11:58
ちなみに成長政策をとってるさなかに浅間山噴火や水害におそわれたというのも、同じく成長政策のさなかにオイルショックにおそわれたのとそっくり

543:日本@名無史さん
07/04/17 06:28:51
角栄は土地価格の暴騰や、その後のバブルや数の政治への道筋など
現在に至る悪影響を及ぼしているが、意次はそんなことはない。

544:日本@名無史さん
07/04/17 09:16:09
田沼意次の路線が中断してしまったからね。
そのまま継続していたらどうだっただろう。

金権腐敗が進んで幕府が倒壊したか、列強との戦いとなったか。
明治維新にはつながったか。
いろいろ興味は尽きないが、仮定の話。

545:日本@名無史さん
07/04/17 15:40:12
相良城の模型でもないかな。


546:日本@名無史さん
07/04/17 17:22:58
松平定信は和泉岸和田藩岡部美濃守長備に命じ、3700人の大部隊で相良城を徹底的に破壊しつくすという子供じみたまるで意味のないことをして田沼憎しのうさを晴らした
ために史料がないから模型は難しい

547:日本@名無史さん
07/04/17 19:04:15
定信は白河松平の養子にならなければ将軍有力候補だったのに、紀伊家とかがうざかったからなぁ。残念だよ

548:日本@名無史さん
07/04/17 20:01:38
田沼は生まれた時代が悪かったねえ。
定信よりあと、化政時代のころに田沼が政治をおこなっていたら
どうなっていただろう?

549:日本@名無史さん
07/04/17 20:04:13
意次は老中には就かず側用人だけやってればそんなに批判されなかっただろうね。
水野忠篤は忠邦失脚後に復権してんのかな?

550:日本@名無史さん
07/04/17 21:17:18
>>549
復権も何も、家斉に媚びへつらって出世してきただけに、
家斉死後、失脚してからは誰にも構ってもらえない。
過去の栄華が忘れられず、水野忠邦の改革を誹謗したのが運のツキ。
失脚した翌年に信州諏訪に流され、息子の備前守もさらに知行を半減されて、甲府勤番に
「山流し」。


551:日本@名無史さん
07/04/18 01:07:27
なんだか18世紀後半の幕府総合スレになってきたなあ

552:日本@名無史さん
07/04/18 02:14:22
田沼政治そのものがある程度再評価されているから仕方ないんじゃない?
結果論だけど田沼路線が挫折して田沼否定に政治生命を賭けた松平某とかいう
思い込みが激しく感情的で無能な政治家がいたおかげで幕府の社会・経済に対する
影響力は減退したことは、田沼路線が継続できる可能性と比べれば良かったのかも
知れんなあ。しかし何で全く思想のない「寛政の改革」が教科書レベルで評価されるのか
分からん。言葉は悪いが保守反動の極みで何らの生産性もないじゃないか。

まあ教科書てのは未だww1の原因を3C政策や3B政策、汎ゲルマンと汎スラヴなどと
社会科学の成果より一歩遅れている内容からそんなものなのかなあ。

553:日本@名無史さん
07/04/18 02:52:37
ここで歴史論ぶつのはどうかとも思ったが、歴史って過去の事項は何もかも含まれてしまう。
政治も文化も、ありとあらゆるジャンルが、「過去」というだけで「歴史」の範疇なんだね。

だから、ある程度流れと史実をまとめるくらいで、それ以上のそれぞれの本質論は、それぞれの学問(社会学や政治学、経済学、文化人類学など)に任せても良いのではと思えるね。
流れという点では「勝ち組」で流れが出来るから、結果的に勝ち組中心になってしまうかも知れない。
それを史実を見ていくことで公平性を期すのだろうけど、そこまで、かな?
政治的な本質論、経済効果や社会性に対する評価は、他の学問と共同した方が良いかもしれないね。

自然科学にも歴史があるが、それなんかは殆ど自然科学ジャンルに任せているが。

554:日本@名無史さん
07/04/18 14:57:41
だれか水野忠篤の詳しい生没年月日知ってる方いないですか?
知ってたら教えてほしいです。水野忠篤に凄い興味あるんで。

555:日本@名無史さん
07/04/18 17:12:51
田沼意次は徳川家重の衆道相手だったから
容姿端麗だったのぢゃーッ!!!!!!

556:御側御用お取次中野播磨守清茂
07/04/19 02:21:49
ついでに美濃部茂育の生没年を知ってたら教えてください

557:日本@名無史さん
07/04/19 15:53:31
将軍家斉の愛妾お梅の方が産後の肥立ちが悪く、
いまわの際に甥の忠篤の重用を家斉におねだりした。
そんなこんなで出世した水野忠篤。
君臣ともにあきれ返るヤツバラ。

558:日本@名無史さん
07/04/19 17:27:28
田沼の話題から随分それてるな

559:日本@名無史さん
07/04/19 17:45:35
確かにそれているので田沼の時代の人々を中心とした話題に戻そうではないか。

560:日本@名無史さん
07/04/19 18:09:34
一族
田沼山城守意知(長男。若年寄)/田沼能登守意致(甥。御側御用取次)
三浦荘一(田沼家用人)
同僚など
水野出羽守忠友(駿河沼津藩主。勝手掛老中)
松平右近将監武元(上州館林藩主。老中)/松平右京大夫輝高(上州高崎藩主。老中)
松平周防守康福(石見浜田藩主。老中)/井伊掃部頭直幸(近江彦根藩主。大老)
阿部能登守正敏(武州忍藩主。奏者番→大坂城代)

部下
松本伊豆守秀持(勘定奉行)/川井越前守久敬(勘定奉行)
石谷備後守清昌(長崎奉行→勘定奉行)/曲淵甲斐守景漸(大坂西町奉行→南町奉行)
佐野備後守政親(大坂西町奉行)/稲葉越中守正明(御側御用取次)
本郷大和守泰行(御側御用取次)/横田飛騨守準松(御側御用取次)

政敵
佐野善左衛門政言(旗本)/松平越中守定信(奥州白河藩主)
徳川家斉(十一代将軍)/一橋民部卿治済(御三卿)
種姫(松平定信姉)/徳川宗睦(尾張藩主)
徳川治貞(紀州藩主)/徳川治休(水戸藩主)
--------------------------
清水宮内卿重好(御三卿)/徳川家治(十代将軍)

561:日本@名無史さん
07/04/19 20:44:01
家斉の正室篤姫の実父、「高輪下馬将軍」こと島津重豪は、
意次の強力な支持者で、定信が老中になってからも、
彼の倹約政策など無視した。

562:島津家家老伊集院監物
07/04/19 21:47:50
高輪下馬将軍は家斉義父にして従四位上中将。白河の倹約一本槍の小僧など屁とも思い申さぬ

563:日本@名無史さん
07/04/20 10:30:19
田沼意次より水野忠篤のほうが権力あったと思います。

564:日本@名無史さん
07/04/20 11:35:13
だからなんで美濃守忠篤の話題に振るんだよ!

565:日本@名無史さん
07/04/20 12:29:49
二人とも大樹の衆道相手だからぢや!

566:日本@名無史さん
07/04/20 15:10:08
忠篤は家斉とホモ関係か。林忠英ともやってたのかな。

567:日本@名無史さん
07/04/20 15:25:58
権力という点では多分意次のほうが格が上だと思う。

568:日本@名無史さん
07/04/20 17:24:29
そろそろ忠篤スレが必要なのかも。しかしどんなに日本史好きなやつでも水野忠篤知ってるのは少ないと思う。メジャーな人物ではなさそう。

569:日本@名無史さん
07/04/20 20:26:32
>>552汎ゲルマン主義なんて言ってるのは、日本の学者だけ。おそらくは、汎スラブ主義に対する用語として生み出されたのだろう。


正しくは大ドイツ主義。

570:日本@名無史さん
07/04/20 20:54:52
まア、綱吉と吉保ほど有名ではないけど、
「衆道を以ておのれ立身出世致し、武功の衆を侮る・・・・」と陰口を
たたかれたぐらいだから、家重と意次もそういう関係だったんだろうね。
家光と堀田正盛、家宣と間部詮房の例もあるしね。
けど、他者と違って将軍の取り巻きで終らなかったところが意次の凄いところ。
「拙者はかように勤居候ても、老職までになる心なり・・・・」の意気込みと、
それも単なる権勢欲からではなく、確たる政治的理念の持ち主だったことが
なおさら輝いていると思う。

571:日本@名無史さん
07/04/21 01:36:31
もともと譜代大名の家柄でない者が老中になるのも初めてなら、
側用人を兼務したまま老中になるのも初めて。
それだけ意次に対する将軍家治の信任が厚かったんだろうが、
その分、門閥派の妬みと恨みを買ってしまったんだろうな。

572:日本@名無史さん
07/04/21 05:15:40
家治は気宇壮大な気風を持っていて、祖父である吉宗の期待も大きかったらしいのだが、実際は意次に「押し込め」に遭っていたのだろう。
田沼意次の価値観を考えるときに結構興味深いテーマなので、いろいろ意見を聞きたいから、敢えて自分の意見を言い切ってしまおう。
多分、田沼は君臣の秩序なんていう従来の価値観に「辟易」していたのだろう。才覚や能力がある人間が何故台頭できないのか。

根っからの逆臣ではなかったと思うが、儒教(特に朱子学)的な価値観でいろいろいう奴(従来からだが、特に改革路線・松平定信なんかは最悪?)も多い中でそういうものに対する忌避感が拡大して行ったのは間違いないと思う。
そういう人間をまとめて言えば「門閥」なんだろうが、それを「排除」はしない、できない? は興味あるところ。

意次にとっては、将軍も、いや将軍位こそ門閥の最たるものとも考えられるのでは?
反門閥ではない。しかし、門閥の考え方では、門閥にとってもダメだと意次は考えていて、だから俺のような実力派に任せておけよ、みんなが良くなるようにしてみせるから、という位の考え方ではなかったか。
「賄賂やカネ」と「忠義」に対する独自の考え方も残っているが、田沼にとっての「良い」とは何かを考えてみるのも面白そうだ。



573:日本@名無史さん
07/04/21 11:41:13
ある意味、田沼意次も門閥も「現状肯定」なんだろ。
17世紀初頭から19世紀半ばまでが江戸時代だが、18世紀という時点は、ほぼ真ん中に当たる。
まだ江戸幕府という体制そのものを疑問視するという発想は出てこない。

享保や寛政の改革にしても、田沼意次の政治にしても「改革」には違いない。内容が正反対ではあるが。


574:日本@名無史さん
07/04/21 11:42:03
>>572
ん~う!? なかなか挑発的で斬新な意見だネ。
でもネ、何より意次の権威の源泉は、家重・家治父子の全幅に近い信任にあったから、
家治を「押し込める」必要などまったくなかったと思うな。
意次は何も徳川政権の乗っ取りを考えていたわけじゃないんだから。
意次は政治家としては理念型だったが、なかなかどうして実際面ではマキァベリストでもあったから、
無能な門閥派が幕政を牛耳ってきたことに忸怩としながも、血縁を結んだりして取り込むことは考えても、
「排除」みたいな極端な志向はもともとなかったと思うな。




575:日本@名無史さん
07/04/21 12:03:13
改革志向の強い将軍は、綱吉、家宣、吉宗、慶喜など成人後に他家から入った連中だ。
(15歳と13歳で入嗣した家斉と家茂は、政見を持ちまでに至っていない)
彼らはいずれも将軍の有力後継候補として、政権構想をずっと温めてきた経緯がある。
そうした彼の下では、側用人も将軍の意を迎えることに汲々としがち。
その点、家治は生まれながらの将軍として、聡明の聞こえ高いが、温厚に育って果断な政治を
自ら断行する気力に欠けた。
だからこそ、家重の遺言もあって、有能な田沼意次を信頼し、彼に政治を委任した。


576:日本@名無史さん
07/04/21 15:36:14
田安卿斉匡あげ

577:日本@名無史さん
07/04/21 18:39:17
家斉の改革志向とは、係累を増やすことで徳川家の力を増すこと。
そのために必要なのは子作りで、むしろ家康路線だな。
政策に見るべきものがないと考えるムキもあるが、当時は民主政治でないから、一概に定義できない。
権力志向一辺倒というのも「政策」だ。太政大臣にまでなっているから、無能な射精魔ではない。
家茂は政治見識はともかく(稚拙かも知れないが尊王家だったようだ)、長州征伐という、(大阪の陣を除けば)江戸幕府がやったことがない大名の討伐をやっている。
他の他家から入った将軍に比べたら霞むかも知れないが、それなりに面白い将軍たちだ。

578:日本@名無史さん
07/04/21 19:21:13
尾張、紀伊、田安、清水、越智、蜂須賀、因幡池田、川越、明石、津山…これだけ大量に養子を送り込んだ将軍はおらぬ

579:日本@名無史さん
07/04/21 21:55:28
産ませただけで、あとは他人任せ。展望もな~んもない!
脳タリ~ンの早死にが多く、跡継ぎがいるのに押し付けられて迷惑する藩も。
多子多妻で幕府財政はガタガタ。
挙げ句が侫臣はべらせて。
かくして精力絶倫の爺ィは長生きして太政大臣になれた。

580:日本@名無史さん
07/04/21 22:32:47
側近のなかでも水野出羽守忠成と中野播磨守清茂はそこそこ頭が切れたようだが若年寄の林、小納戸頭取の美濃部、御用取次の忠篤があくどいんだよ

581:日本@名無史さん
07/04/21 23:16:05
>>579
各藩のことなど考えてもいないだろう。
それどころか、将来的に敵対しかねない田安家と尾張家を事実上乗っ取ったのはひとつの手腕だろう。
相手のあることであり、無能では出来ない。相手がそれを上回る無能であったとしても。

・・・って、ここは、田沼意次のスレか。スマソ。

582:日本@名無史さん
07/04/21 23:28:06
「メンドリ鳴いて国滅ぶ」とはよく言ったもんだ。
感応時のスキャンダルも侫人忠篤の専横も、みんな側妾におねだりされた末のこと。
鼻の下伸ばした家斉がそのスケベ心につけこまれたって感じ。
これって為政者として最低限のモラルだろう!
家治・家基親子を意次・意知親子が補佐していたら・・・って、つくづく残念に思う。

583:日本@名無史さん
07/04/21 23:34:15
感応寺ね。

でも官能時・・・と言えば言えないことはないかもw

584:日本@名無史さん
07/04/21 23:42:53
家斉のエピソードで笑ったのは、三国志に関する逸話。

家斉が三国志に興味を持って読んだ挙句、側近たちが集まっている席でその話をして、
「このような話に出てくる忠臣が、余の側にも居ればのう・・・」
側近たちは黙り込んでしまったらしいが、その後家斉が、
「ま、主君が主君だからそれも仕方ないか・・・」
といって呵呵大笑したとか。

自覚していたんじゃないのかな。まあ、父治済の尽力で将軍になれたお坊ちゃま。

・・・田沼がどんどん遠ざかっていく、が、ネタ切れなら仕方ないか(呵呵大笑)。


585:日本@名無史さん
07/04/21 23:51:25
尾張家も田安家も乗っ取ったのは家斉の父治済です。
治済の三男斉匤が空屋形の田安家に養子入りしてます。
これには治済と定信の間に、定信の老中首座就任と斉匤の田安家入りをバーターする密約が
あったともいわれています。
尾張家も、治済の子治国の長子斉朝が最初に乗り込んでいます。家斉の十九男斉温が継いだのは
その後です。

586:日本@名無史さん
07/04/21 23:56:47
ごめん。
田安家に入った斉匤は治済の五男、
三男は治国でした。

587:日本@名無史さん
07/04/22 00:18:03
家斉の子らがそれぞれ尾張、紀伊、田安、清水の御三家御三卿に入ったのは、
いずれも一橋治済在世中のことですから、血族支配の絵図を描いたのは、策略家で剛腕の治済
であって、家斉は単にハラませただけって感じがします。
意次は(そして定信も)とんでもない怪物を相手にして、敗れ去ったと言うべきでしょう。

588:日本@名無史さん
07/04/22 14:08:54
やっぱり一橋民部卿治済スレだな、ここはw

589:日本@名無史さん
07/04/22 19:19:13
【天下】吉宗亡き後の楽しい徳川家【泰平】

590:日本@名無史さん
07/04/22 21:46:29
吉宗の政治の継承者は定信だという意見があるが、大勘違い。
意次の印旛沼開拓は、吉宗の政策を引き継いだものだし、
その人材登用は、吉宗が用いた紀伊系幕臣団の2世を多く登用しているそうだ。

倹約令など吉宗の緊縮財政路線さえ、最初は踏襲した。
ただ不景気が拡大して、のちに重商主義へと路線変更しただけ。
意次の吉宗~家重~家治~家基への忠誠心は生涯変わらなかったと思うな。

591:日本@名無史さん
07/04/22 23:47:54
水野忠篤はどうなったの?

592:日本@名無史さん
07/04/22 23:50:50
>>546の話、面白かったんでググったら、本当だったんだ。
でもこの岡部長備って、実は俗書では田沼意次によって謀殺されたといわれる老中久世広明の係累だったんだね。
長備の叔母が久世広明の正室。
まさか意次への復讐を遂げさせるために、松平定信がはからってやった、ってワケでもなかろうが。

593:日本@名無史さん
07/04/23 00:31:18
吉宗の継承問題辺りから、事実関係はいろいろあると思うけど、謀殺・毒殺の類の案件が徳川家では確かに増えるね。
これって、何かひとつの流れとか、一貫した担当者、一族みたいなのがいるのかな。
こういうのは思いつきだけではなかなか出来ないし、それなりのノウハウの蓄積・継承があるのでは。
田沼がよく絡んでいるのではという話は確かに多いが、その通りなのか、或いは田沼だと思わせるような何かとか。
田沼ではないとするなら、これは相当高度な技術だと思うがね。
一橋治済が関係していたのは確かだとして、一橋家当主の一個人だけでどうにかなるものでもないとも思えるのだが。
大体、吉宗の将軍後継の頃なんて、一橋家そのものが存在していない訳だし。

594:日本@名無史さん
07/04/23 00:34:17
ちょっと紛らわしい表現だったかもしれない。
吉宗の将軍後継って、8代将軍の座が問題になっていた頃、くらいの意味です。

595:日本@名無史さん
07/04/23 01:21:55
それ以前にも、甲府綱重の旅先での急死、家綱遺児の流産、尾張綱誠の食中毒死、老中阿部正武の病死・・・
について、いろいろ謀殺説はあるよ。
権力の中枢は伏魔殿、暗殺、謀殺の憶測は氾濫している。

>>563の意見に敢えて応えるとすれば、
紀伊家には根来薬込衆という秘密工作部隊がいて、八代将軍の座をめぐる争いに暗躍したとか、その一部は吉宗に従って将軍直轄になったとか、
直轄だから、その指揮権は御側御用取次の加納久通から田沼意次に引き継がれたとか・・・でも裏づける史料が何もない。

こうした影の種族は朝廷にもいて、それが八瀬童子。昭和天皇の御大喪で棺を担いだ一族の先祖。
でも、まともな史家は一顧だにしない。

596:日本@名無史さん
07/04/23 09:59:58
まともな史家って、現実から目を背ける者を言うのか?
きっと30世紀辺りのまともな史家なる者は、CIAやKGBの存在も一顧だにしないのかも知れないw

顧みて分析を試みたが、事実関係が確定せず、史実は目下謎のまま、というのだったら分かる。
憶測だけで確かなことは言えないと言う姿勢は、それなりに評価できるからね。

しかし一顧だにしない、というのは、そもそも取り組む態度として間違ってはいないか。
調べもせずに評価してしまっているのだから。
そして、「まともな史家」という表現が、その辺りの事情を物語ってしまっている。
つまり、そんなものを調べようとすると、「まともな史家」ではないというレッテルが貼られるということだ。
だから史学(日本史学)は世間と隔絶してしまうのではないかな?


597:日本@名無史さん
07/04/23 10:40:38
紀州という土地は、源平の昔(熊野別当とか)からそうした秘密裡な話が多いね。
戦国時代の根来衆もそうだし、だからこそ、家康は御三家のひとつを封じたのだろう。
そうした土地を本拠にした紀州徳川家も、初代頼宣以来、謀略色が強い。
血統というより、土地柄が育む何かがあるのかも知れない。

598:日本@名無史さん
07/04/23 12:49:59
水野忠篤は政治的手腕を発揮したの?
側衆として大御所政治をリードしてたんだろうし。

599:日本@名無史さん
07/04/23 12:59:38
>>596
レッテルというより、業績にならないから手出ししないというのではないか。
なにしろ分からない。史料もない。史料に基づかなければトンデモと言われてしまうからね。
かくして史実は闇に葬られる。

当時の人間が闇に葬りたかったのだろうから、まさに思う壺だな。

600:新井勘解由
07/04/23 20:08:43
スレリンク(history板)l50

601:日本@名無史さん
07/04/23 22:36:53
類推するのも、歴史としてはありだろうね。それは否定できないよ。
ただ、史学論文として成立しないというだけだろう。
ここでは、確定論文以外不可、という訳ではないので、もう少し気軽にやりませんか?

私は、謀殺などを担当していたのは、他でもない「田沼一族」だと思う。
紀州という地盤。吉宗の時と言い、その後の幕府内部といい、暗躍の中に田沼一族がいた。
一橋治済もそうした価値を利用したと思える。

しかし、問題は「田沼意次」その人。
この人は、確かにそうした田沼一族として、そうした位置づけの中から出てきたと思うのだが、彼はそうではない才覚と能力を持っていた。
それが「政治家」としての才能だったと思う。単なる幕府「CIA」ではなく、西の丸から政治を見て、彼の才能が自覚されたのではないかと思う。
しかし門閥中心の中で、それだけで台頭は出来ない。
それが、一橋治済(もしくは一橋家)との接近ではなかったか。御三卿に甘んじるのを善しとしない一橋家と、政界台頭を目論む意次の利害が一致した。


602:日本@名無史さん
07/04/23 22:37:31
ただし、これだけでは不自然。何故なら本来意次は家重-家治ラインという将軍家そのものにパイプを持っているので、わざわざ傍系に働きかける必要がどこにあるのかということ。
おそらく、働きかけてきたのは一橋側だろう。そして、そのネタになったのが、田沼一族の持つ暗い一面ではないかと思う。
多分、吉宗の頃だったら、意次自身もそうしたことを心配する必要はなかっただろう。吉宗は清濁併せ持っていて、田沼一族の存在や本質も理解していたはず。
しかし、代を経て、そうした紀州徳川家の将軍獲得というのは過去の話になり、家重や家治はまったく無縁の立場になっていたと思う。
そこで政治の表舞台を目指す意次にとって、そうした裏の一面をあからさまに言われることは、忸怩たるものがあったのではと思える。
そこに治済はつけ込んだのではないのかな。

田沼意次を田中角栄に比類した人がいたけど、政策面では確かにそうかも知れない。
しかし、立場という面で、ソビエト連邦末期の書記長「アンドロポフ」を想起するな。
元KGB長官だが、書記長となった。短期間で死去したから、政策らしいものは見るべきものはないが。
しかし田沼意次は、(本来は陰の部隊長の立場でありながら)卓越した政策を採れる政治家となった。
このジレンマの部分が、治済に利用されたような気がする。
当然家基暗殺は、田沼が関わっている。意次本人はともかく、少なくとも田沼一族の誰かが実行にも関わっていると思う。


603:日本@名無史さん
07/04/24 00:20:23
「まともな史家は一顧だにしない」・・・
いろいろ誤解を呼んでいるみたいだけど、これって、「非常に残念なことに」って思いと、
専門家の頑なな実証主義に多少の揶揄を込めて書いたつもり。
ここは2ちゃんなんだから、史料の行間はめいめいの想像力で埋めればよいし、
だから歴史は専門家でなくても楽しめるってもんだから。
一次資料だけでなく、怪しげな俗書も取り込んで、大胆な自説を唱える三田村鳶魚なぞ、
史学会では黙殺同然だけど、個人的には凄く好きだね。
まあ、史実を無視して、あんまり想像力の化け物みたいなものを肥え太らせてもどうか?
とは思うけど。
どうでもいい独り言でした。スマソ


604:日本@名無史さん
07/04/24 12:18:12
それは平成の革命で有り!

605:日本@名無史さん
07/04/25 01:05:25
>>602
田沼一族が紀州以来、暗殺者の系譜にあったかどうかは別として、
また、
意行・意次父子の小姓→小納戸といった経歴から考えると、闇の仕事を任されていた
って匂いはしない。
>>602の例えに従えば、アンドロポフよりブレジネフの秘蔵っ子チェルネンコの経歴に近い。
実際同じような職歴をたどった吉保、詮房はチェルネンコ型といえなくもない)
とか
・意次には家基謀殺の合理性がまったくといって良いほど見当たらない。
とか
等々をすべて捨象して想像すると、
例えば、甥の意致は、一橋家家老から将軍の御側御用取次に出世したわけだから、
つまり、田沼一族にも動機を持つ者がいたとは言えるだろうね。
もっとも、誰にせよ田沼一族は結局は切り捨てられたので、陰謀を主導したというより、
踊らされ、そそのかされたって印象の方が強いね。


606:日本@名無史さん
07/04/25 11:16:37
田沼意次は側用人と老中を兼ねてたっていう説もあるよね。

607:日本@名無史さん
07/04/25 11:25:52
電波を流してる馬鹿がいるね

608:日本@名無史さん
07/04/25 13:21:13
>605 あたりは猛毒電波の典型だね

609:日本@名無史さん
07/04/25 17:48:57
意次が老中を兼ねてたのは都市伝説だったの?

610:矢田部奈緒美
07/04/25 18:29:41
陰謀だの闇の仕事だの三流時代劇の見すぎじゃないかと思わせる脳内妄想電波レスかましてる精神分裂者が暴れてるスレはここですか?

611:日本@名無史さん
07/04/25 23:11:09
>>610
心配しなくていい。
そんな電波は飛んでないし、あんたは受信したつもりになっているだけ。
関わる必要ないから。


612:日本@名無史さん
07/04/25 23:49:51
意行・意次父子が同様に勤めた小姓、小納戸は将軍の近習ではあっても、
政治面ではなく身の回りの世話が中心で、三奉行や大目付、目付のように
実働部隊を持たない。
吉宗によって創設されたお庭番も確かに根来薬込衆の出身者で占められたが、
これに意行・意次父子は関わる立場になかった。
関わりができたとしたら、それは御側御用取次になって以降のことだろうから、
早くても家重以後のことだと思う。

父子いずれも吉保・詮房のような美男子で、才気煥発、よく気の利く、いかにも主君の
お気に入りになりそうな人物だったという。
その前提に立つから、>>605で棚上げしたり捨象した部分が本来の僕の意見。

ただ、>>601-602のような考え方も頭から否定すべきじゃないだろうと思って、
家基暗殺説に立つならば、彼の死によって利益を得たもの者はすべて容疑者たりうるという点で、
意次は容疑者からはずれても、意致はシロとは断定できないだろうと言ったまで。


613:日本@名無史さん
07/04/26 00:10:19
>>610
ええと、ね。
2ちゃんの日本史板では常にそのような話が出て来ますね。

史学という学問の交流の場というだけなら、素人はみんなオミットして史料を提示しての論証の場であってもいいかも知れない。
しかし、ここにはいろんな立場の人が来ます。
ちなみに私は情報システムのコンサルタントです。情報工学やシステム・コンサルティングという分野は、何のかかわりもないように思われるかの知れませんが、やはり歴史には興味がありますし、また、ただホビーに留まるという訳でもないのですね。
歴史的な思考とか、或いは過去の事例と言うのは、現代社会を考える上でも必要な視点ですし、歴史的思考をまったく除外しては、現代も考察できません。

おそらく、史学を専門になされている人と、そうでない人との一番の違いは、歴史的事項に関する情報の多寡、それと意見の中の実証部分と類推部分のウェートの違いでしょう。
むしろ、専門知識に秀でている方は、ここで類推としておかしな点があった場合、具体的に指摘して頂ければ良い交流の場になるのではと言う気がします。

私も、いろいろ読んだ知識はありますが、やはり素人です。ここで指摘して頂いたことは、また自分でも調べたりして確認しようと思っています。
もし、専門的な知識がおありなら、具体的に言っていただければ助かります。
少なくとも、感情をぶつけても、茶々を入れても、あなたはそれだけの人間にしか見えないことでしょう。
宜しくお願いします。


614:日本@名無史さん
07/04/26 23:58:12
>>613に禿同

615:日本@名無史さん
07/04/27 01:09:13
田沼を再評価するのは良いんだが、やっぱ怪しいところもあるんじゃないのかな。
陰謀・謀略が出ると、即座に時代劇がどうのというのは、世の中に謀略が存在しないと思っているのか。

門閥の壁を超えるのは、才能や能力だけでは不十分。それでは、うまく使われるだけ。
田沼も一橋なんてのに使われたんだろうが、それ以上の能力を発揮して歴史に名を残したんだから、うまく使われる以上の何かがあったのではないかと思うね。

616:日本@名無史さん
07/04/27 01:34:21
だからといって大納言家基暗殺に一枚噛んだというのは極論だよ。なんのメリットもない。田沼としては家基将軍のほうが生き残れる。

617:日本@名無史さん
07/04/27 09:58:23
>>615
一橋民部卿治済がいる以上、陰謀、謀略は誰も否定できない

618:日本@名無史さん
07/04/28 01:09:49
意次と治済は「使う」「使われる」の関係というより、どっちも相当したたかな奴だから、
握手しながら、テーブルの下では激しく蹴りを入れてるような、そんな関係じゃなかったか、と。

619:日本@名無史さん
07/04/28 02:40:43
このスレでは、意次と治済が主役の座を競ってますね。
どっちが勝つんだろ?

620:日本@名無史さん
07/04/28 02:52:56
>>616
その部分なんだが・・・
結果から見れば、家基が不審な死を遂げ、家斉が将軍になったのを契機に田沼意次は失脚して行った。
だが、その流れ一本だったら、いくらなんでも政権の座にいる意次がなす術がないというのもおかしな話だね。
確かに、意知が殺されたりと、凋落の序章はあった。だが、ただ無抵抗に、気がついたら四面楚歌でただ失脚したなんて無策過ぎないかな? 意次がだよ!?

想像・類推で申し訳ないけど、この場合、流れで行けば治済が意次を裏切った、とするのが一番自然なんじゃないかな?
一橋家と田沼家のつながりは深そうだよね。俺は余り知らなかったが、このスレでのカキコ見てると、結構田沼の係累が一橋家に入ってそうだし。
だから、家治がなくなるまでは、田沼意次と一橋治済の蜜月関係は、端から見ても疑いようのないものに思われた。
治済の陰謀なのか。または松平定信辺りが一枚かんでいたのか分からないが、意次にとっては予想外の展開が土壇場で起きたのではと思えるのだけれど。
この辺りの実情はどうなんでしょう。

621:日本@名無史さん
07/04/28 03:04:58
>>613
そうは言ってもここは「学問」板だしなあ…。
学問以外の視点で歴史を語りたいなら歴史難民板にでも行けばいいんじゃないか?
あっちは板のジャンルも「趣味」板だから。

622:日本@名無史さん
07/04/28 08:59:39
吉宗の兄頼職と家基の死に方って、よく似てるよね。

623:日本@名無史さん
07/04/28 11:39:39
>>621
学問は、だから否定できないと思う。トンデモスレも多いけれどね。
ただし、論文レベルでなくても良いのでは。仮説段階でも未熟段階でも。
逆に言えば、学問としてやらなかった人と学問でやっている人の接点になるから良い機会になるのでは?
能力レベルの差だけじゃないと思う。
歴史に興味があったけれど、進路としては史学は選択できないなあ、という人も多いだろうし。
ちなみに俺自身は工学部出身。進路としてはシステムやりたかったんで。
でも歴史も昔から興味があった。そういう人は結構多いよ。
史学専門の人は、世間一般での歴史認識とか、認知度が分かるから良いのでは?

624:日本@名無史さん
07/04/28 16:44:03
御三卿は将軍家やその幕閣にとっては、いわれているほど重きをなしていなかった。
特に「血」はともかく「家」はほとんど蔑ろにされていた。
だから一橋治済は相当な危機感を持っていた。
それが権謀術数をめぐらせる彼の半生の出発点。
家重時代から幕政を実質的に主導してきた意次は、治済にとっては強大な脅威だった。
この両者の関係に、互いに牽制したり懐柔したりの「駆け引き」はあっても「蜜月」などあり得ないだろう。

625:日本@名無史さん
07/04/28 17:10:24
寛延4年 田沼意次、御側御用取次となる。
     →幕命により一橋宗尹の嫡男重昌が越前松平宗矩の養子になる。
宝暦8年 意次、相良藩1万石の大名になる。
     →重昌の早世を受け、宗尹三男(次男は夭折)重富が越前家に養子に出される。

※重昌はただの嫡男ではない。正室一条兼香の姫が産んだ文字通りの正嫡である。
 正嫡を養子として、他家に出すなど本来あり得ない。
 ましてお控えの重富まで出すなんて・・・


626:日本@名無史さん
07/04/28 18:21:40
治済が家基を暗殺したという前提自体が怪しい

627:日本@名無史さん
07/04/28 19:23:56
暗殺自体が、単なる仮説。
だが、あまりにも不自然な急死だったことから、いろいろ憶測を呼んだ。
お知保の方なぞ、悲嘆のあまり意図的に流された意次犯人説を信じてしまって、
いままで懇意だった意次をたちまち憎悪しはじめた。

暗殺があったとすれば、犯人捜査の基本は動機だ。
最大の受益者を疑うのが論理的。
なら、治済が怪しいと思うのは当然だろう。

628:日本@名無史さん
07/04/28 21:41:27
だから家基が暗殺されたという証拠を出せよ。

629:日本@名無史さん
07/04/28 21:58:07
どこの誰が、暗殺と決めつけたかな?

630:日本@名無史さん
07/04/28 22:06:19
意次の弟や甥が治済によって一橋家家老に「用いられた」ような表現があったが、
これは誤解を生む。
御三卿家老の人事権は当主にはなく、幕府にあるから。
意次自身の人事か、治済が意次に懇請したものか、そのどちらかだろう。
いずれにせよイニシアチブは意次が握っていた。

631:日本@名無史さん
07/04/28 22:59:51
>>625
一橋重昌が越前家に入嗣したのは延享4年です。
また、田沼意次が御側御用取次に就任したのは、大御所吉宗の死んだ宝暦元年とする説もあります。
ただ延享4年当時、すでに家重は将軍でしたから、宗武・宗尹の二人の弟にずっと脅かされてきた家重が、
当時すでに小姓組番頭だった意次と組んで、御両卿の弱体化をはかったとは考えられます。
表向きは、越前家の家格回復のため松平宗矩から、御両卿からの養子縁組を求める願いが出されていましたからね。
大御所吉宗も了としたのでしょう。
でも、幕府の命令で嫡男を出すのは確かに異例です。
しかも重富まで他家に出せば、残るは4歳の治済だけになってしまいますから。
こののちに起きる定国、定信兄弟の田安家からの追い出しまで視野に入れると、
意次の介在は可能性があると思います。政治的にも有能なのでしょうが、策士としても出色の人物。
でなければ「封建の異端児」にはなれなかったでしょうが。

632:日本@名無史さん
07/04/28 23:27:53
そもそも江戸期を現代と同じ様に考えてる陰謀厨は何とかならんか?

急死なんて当たり前の時代なのに


633:日本@名無史さん
07/04/28 23:45:58
謀殺話は、現代と違って死因を特定するのが難しい昔の方がむしろ真実味をもって語られます。
家基の死や意知の死についてのいろいろな憶測は、必ずしも現代人の発想ではなく、
誰かが挙げた「続三王外記」や「チチング日記」あるいは「柳営婦女伝双」などに当時から書かれていました。

でもだからといって、何でもかんでも暗殺に結びつけ、あるいは黒幕を断定して
野放図に想像を膨らませのもいかがとは思いますね。
その意味で、>>632の意見もうなづけます。


634:日本@名無史さん
07/04/29 01:09:03
では、田沼意次の失脚は、全くの偶然によって齎された可能性が高いというのが史学的結論でしょうか。

635:若年寄米倉丹後守昌俊
07/04/29 01:39:22
そう。偶然だよ

636:日本@名無史さん
07/04/29 12:31:47
終了

637:日本@名無史さん
07/04/30 16:46:49
>>633
>でもだからといって、
>何でもかんでも
>いかが(か)とは思いますね

申し訳ないが、これでは論証になっていない。自分の書いた前半への論証にすらなっていない。

まだ明らかでない、としか言えない。そういうことだなw

638:日本@名無史さん
07/04/30 16:55:55
三浦庄司って意次の死後どう過ごしたの?

639:日本@名無史さん
07/04/30 19:32:50
>>634
もちろん偶然ではありません。
家基、意知の死は意次にとって想定外だったでしょうし、それが彼の失脚を早めたのも事実でしょう。
でも、二人の死がなくても、当時意次を取り巻く環境はかなり厳しくなっていました。
意次の政策は明治維新を先取りしたような斬新な要素が随所に見受けられますが、
中でも「貸金会所令」の真意は、これまでの幕藩体制を揺るがすものでした。
それは守旧派どころか、大名旗本の生命線たる知行地の流動化をもたらすという点で、
封建領主全体を敵に回す危険がありました。
このタブーに挑んだ者は、「上知令」が致命傷となって失脚した水野忠邦も同様で、やはり潰されています。
水野忠友がした役回りを、この時は土井利位がしました。意次、忠邦の政権を支えてきた盟友さえ離反していったのです。
その改革は「早すぎた」とも言えますが、諸大名に号令するには幕権がすでに下り坂にあったという面で「遅すぎた」ともいえます。
いずれにせよ時代的拘束性という限界から、田沼の失脚は訪れるべくして訪れた・・・と言えるのではないでしょうか。




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