06/09/06 18:19:03
住谷寅之助とか詳しくしりたい
551:日本@名無史さん
06/09/06 22:38:05
>>542
望月亀弥太すきですよ。
ちょいちょい歴史小説に登場しますよね。
552:日本@名無史さん
06/09/12 22:28:00
>>551
お、同士がいたか~。望月亀弥太、俺もあいつ好き。
肖像が残ってないのが惜しいね。
亀弥太の亡骸を見た人は「是は年齢十八九歳、」と言っている。
童顔だったのかな。
553:日本@名無史さん
06/09/21 18:10:36
望月と北添はわりと有名だろう
554:日本@名無史さん
06/09/22 00:31:10
長井雅楽良いよねえ。
先見の明があるのも善し悪しだなと言う人生だけど。
555:日本@名無史さん
06/09/28 17:10:50
山代屋和助
山縣にあてつけに陸軍大臣室で腹を切った人。
大臣室の金庫が空っぽになっていた原因を作った人。らしい。
うまくやってれば、三菱の岩崎ぐらいになっただろうか。
556:日本@名無史さん
06/09/28 20:45:29
伊庭八郎の征西日記で不始末を起こしたと書かれてる(日記中登場回数多し)人物戸田祐之丞。手裏剣使いの幕臣。その不始末とは酔っ払って池田屋事件直前の新選組屯所に行ったという武勇伝
557:日本@名無史さん
06/10/08 08:36:31
福地桜痴
558:日本@名無史さん
06/10/10 12:07:28
梅田雲壜、梁川星巌 吉田寅太郎、勝小吉
559:日本@名無史さん
06/10/10 12:21:19
加藤司書…福岡藩高官にして尊皇攘夷派の重鎮。
平野国臣…尊皇攘夷派志士。生野の乱を起こす。
大隈言道…歌人。
野村望東尼…勤王の志士を平尾山荘に匿った勤王の母。
月形洗蔵…薩長和解に尽力した幕末志士
中村円太…福岡藩の尊皇攘夷派志士。
早川養敬…中岡慎太郎と仲深い尊皇攘夷派志士。
原古処…儒学者。稽古館の教授。
海賀宮門…古処の門下で勤王志士。
戸原卯橘…古処の門下で勤王志士。
臼井亘理…幕末期、洋式軍備の重要性を説いた藩士。干城隊に妻諸共に惨殺された。
中島衝平…干城隊に暗殺された。
臼井六郎…臼井亘理の子。日本最後のあだ討ちを行った。
山本克己…あだ討ちされた人。
宮崎車之助…秋月党の首領。秋月の乱を起こす。
大石進…幕末三剣豪の一人。
真木和泉…久留米藩の尊皇攘夷派志士。禁門の変に破れて自刃。
560:日本@名無史さん
06/10/22 17:03:16
「五稜郭を落とした男」でだいぶ有名になったと思うが
山田顕義。
561:OPS
06/10/22 18:25:43
小栗上野介あまり知られてないかな。
社会の先生でも知ってなかった。
でもこいつの評価は自分的には高いけど世間の評価は低いかな?
562:日本@名無史さん
06/10/24 07:54:50
その社会の先生の方が問題だろ
563:日本@名無史さん
06/11/15 20:06:13
保守っとくか
564:日本@名無史さん
06/11/17 11:11:57
>>561
上野介は縁起が悪いから替えたらと言われたのに、
そんなこと気にしないよって言って上野介のままだったのよね…
戊辰戦争の混乱の中で、無抵抗だったのに川原で斬首カワイソス
565:日本@名無史さん
06/11/29 15:25:27
薩摩藩士 奈良原 喜三郎
寺田屋騒動の折、殺気立った仲間たちを説得するために
寺田屋の階段を上半身裸の丸腰で登り
仲間たちを説得する。
確か、生麦事件のときも大名行列を横切った外人を切ったのも
この薩摩隼人だった。
566:日本@名無史さん
06/11/29 17:21:40
間違った
喜三郎じゃなくて
喜八郎 失礼!
567:日本@名無史さん
06/12/06 02:57:35
大石団蔵
568:日本@名無史さん
06/12/06 08:54:35
教師なんて教授と違いおおざっぱな事しか知らないよ!音楽教師はモーツァルトとベートーベンとビートルズくらいしか知らないのがいたし(もっとマイナーなクラシック作曲家やロックバンドたくさんいるのに)閑話休題。
569:日本@名無史さん
06/12/09 20:17:12
そっか。でもかなり頭不自由なのは自覚してる?
570:日本@名無史さん
06/12/28 02:49:24
大坂藩邸留守居の北条瀬兵衛(維新の後は伊勢華(いせさかえ)と名乗る)って?
木戸の書簡とかにも出てくるんだが・・・・
571:日本@名無史さん
07/01/15 10:20:25
玉虫左太夫なんかどうなの?
572:日本@名無史さん
07/01/21 21:39:20
佐藤 政養 文政4(1821)12~明治10(1877)8/2
鉄道功労者。庄内酒井家農民佐藤与兵衛の長男として出羽国飽海郡升川村に生まれる。
幼少のころから性温順で父母に孝行を尽くして郡内の評判となる。
たびたび庄内酒井家から表彰を受け、また家業に従事する傍ら、彫刻・俳諧を嗜んだという。
弘化元年(1844)酒井家に選ばれて江戸に上がり、広木貫助に入門して砲術を修める。
後に勝海舟の門に移って、蘭学を学ぶ。
途中、嘉永6年(1853)には伊藤鳳山から漢学、後藤恒俊から彫刻の技を学んだ。
安政2年(1855)海舟に従い長崎海軍伝習所に赴き、勝麟太郎内侍・員外聴講生としてオランダ人から測量・軍艦操縦の術を習得する。
安政6年(1859)酒井家から組外徒士格となり、また幕府から軍艦操練所蘭学翻訳方を命ぜられる。
文久2年(1862)幕臣に取り立てられ、大坂台場詰鉄砲奉行に就任。
文久3年(1863)兼任で神戸海軍操練所の教授方に就任する。
元治元年(1864)将軍家茂の軍艦による大坂港巡視に供奉。同年鉄砲奉行兼神戸軍艦操練所教授方を免職。
明治2年(1869)太政官民部省に出仕。翌年土木司に奏任される。
明治4年(1871)工部省鉄道寮鉄道助に奏任される。
明治5年(1872)東京-横浜間の鉄道敷設のため尽力、12月明治天皇から軍扇を賜る。
明治10年(1877)8月2日、勝海舟邸にて病のため、死去。享年57歳。青山墓地に葬られる。
昭和3年(1928)11月、従4位を追贈。
昭和39年(1964)7月、郷里の山形県吹浦駅に銅像が建立された。
573:日本@名無史さん
07/01/22 01:17:17
玉虫左太夫は日本で最初にビールを飲んだ人(記録にある範囲で)として有名じゃないですか
遣米時の日記とか読むと滅茶苦茶頭良いね。福沢諭吉より良い。
574:日本@名無史さん
07/01/22 19:44:21
本多幸七郎忠直
旗本。旧幕府軍陸軍歩兵頭取。
生没年不詳。
でも「安政6年、19歳で祖父の跡を継いで新御番についた」ともある。
慶応4年4月、陸軍歩兵奉行・大鳥圭介率いる小川町伝習隊などと共に江戸を脱走。
宇都宮での攻防戦で負傷。一端戦列を離れるが、その後会津戦で復帰。
蝦夷に渡り五稜郭降伏開城する明治2年5月まで連隊隊長として戦う。
降伏後は謹慎。
明治3年4月釈放。
明治3年5月、沼津兵学校体操方(この時28歳と「旧幕臣の明治維新」にある)
明治4年12月、陸軍少尉。
明治7年、陸軍中尉。
明治14年、眼病のため依頼免官。その後の足取り不明。
伝習隊隊長としては「大川正次郎」「滝川充太郎」と共に名前が出る。
歩兵奉行(箱館政権では陸軍奉行)の大鳥にも頼りにされ、大鳥の著書「南柯紀行」にも
特に名指しで「(負傷につき)いなくて困る」とすら書かれているのに何故か詳しい事が
わからない。
写真もない(同じ脱走組で沼津兵学校にも行った下逸郎氏は写真あるのに・・・)
575:日本@名無史さん
07/01/27 01:25:44
中世古 克一(なかぜこ かつかず) 天保14年(1843)~慶応3年(1867)12月25日
通称は仲蔵。出羽庄内酒井家家臣。同家家臣相良八十吉の弟。後に同家家臣300石中世古惟一の養子となる。
安政3年(1856)7月、世子忠恕の近習に召出される。
安政5年(1858)田宮流剣術免許皆伝を受け、世子忠恕の指南役に当たる。同年酒井家が実施した与内坂で行われた洋式調練に参加する。
元治1年(1864)3月中奥小姓。
慶応3年(1867)12月庄内酒井家が将軍家の命令で江戸三田の薩摩・佐土原の両島津家屋敷を攻撃した際、砲車司令として参加。南裏門から砲撃の際、砲身が破裂、即死した。
庄内酒井家唯一の戦死者。享年25歳。鶴岡総穏寺に葬られる。
576:日本@名無史さん
07/01/27 02:12:57
神戸 義方(かんべ よしかた) 天保11年(1840)11月27日~明治15年(1882)7月30日
通称は小太郎・善十郎。出羽庄内酒井家家臣。同家家臣120石神戸方儀の長男として鶴岡に生まれ、若年の頃から、英才の誉れをほしいままにする。
慶応4年(1868)戊辰戦争当時は家督を相続しており、役職は近習頭取。
同年7月、酒井了恒指揮の2番大隊が編制されると、軍監兼参謀として出征、これを補佐した。
明治3年(1870)11月、前当主酒井忠篤が家臣70名を引き連れて鹿児島に兵学修行をした際、一行の監督となって同地に赴く。
明治5年(1872)4月、参議西郷隆盛の尽力により、酒井忠篤・忠宝兄弟のドイツへの留学が決定すると、酒井家から他一名と選ばれて、酒井兄弟とともに随従してドイツに渡る。
この間約7年間、忠篤(ドイツ式兵学)・忠宝(ドイツ式法律学)兄弟に近侍し、自身も法律の研究に励んだ。
明治12年(1879)12月、主君とともに帰国。
明治15年(1882)7月30日、故郷の鶴岡南郊日枝村の自宅で自刃する。享年43歳。
自刃の理由については諸説あり、主君忠篤が帰国後、西郷派の人物であったため、太政官で不当に扱われ
(留学前陸軍少佐だったのが帰国後2ヶ月で陸軍中尉、後予備役入り。)その後鶴岡に隠棲。この隠棲を支持したのが
西郷びいきの主流派家臣団だった。
その忠篤の将来をめぐり、主流派家臣団と対立、自殺に追い込まれた。
577:日本@名無史さん
07/02/03 08:12:07
入江 文郎 天保5年(1834)~明治11年(1878)1月30日
天保5年(1834)松江松平家家臣で奥医師の元範の子としてうまれる。始め、江戸で蘭学を竹内玄内に学ぶ。
万延元年(1860)横浜でフランス公使館通訳ブーブについて、フランス語を50日ほど習った。
文久元年(1861)蕃書調所出役教議手伝となり、ブーブについてフランス語の発音と作文を習った。
慶応元年(1865)開成所教授職並となる。
慶応3年(1867)フランス軍事顧問団が到着すると、陸軍所において、フランス公使ロッシュやフランス軍事顧問団の建白書
の翻訳を行う。陸軍総裁松平乗謨にフランス語を教えている。
明治元年(1868)太政官に出仕する。
明治2年(1869)3月フランス留学を命ぜられ、帰国後文部省中教授になり、フランスの学制の調査に当たった。
明治11年(1878)1月30日、パリで喉頭結核で死んだ。享年44歳。
578:日本@名無史さん
07/02/04 00:01:17
梶原 影武 天保13年(1843)10月10日~明治22年(1889)3月23日
幼名は悌彦。天保13年(1843)10月10日、父会津松平家家臣内藤信順、母もと子の間に次男として生まれる。
内藤家は代々会津松平家において家老格の家柄である。
安政7年(1860)3月、梶原家に養子に入り、平馬影武と名乗る。
文久2年(1862)閏8月、会津松平家が京都守護職に就任。
12月、藩主松平容保が兵1千を率いて江戸から上洛する際、大目付としてこれに従う。
慶応1年(1865)5月、若年寄に就任する。
慶応2年(1866)3月、家老に就任する。
慶応3年(1867)1月、主席家老に就任する。
慶応4年(1868)、戊辰戦争。江戸、横浜、新潟、会津の各地において外交、兵器調達など東奔西走の日々を送る。
8月、篭城戦の際、政務総督に就任する。
9月、西軍に降伏、東京に幽閉される。
明治4年(1871)、釈放、後青森県庁庶務課長に就任するも、2ヶ月で辞任。北海道に渡る。
明治22年(1889)3月23日、根室にて死去。享年46歳。
579:日本@名無史さん
07/02/04 01:22:22
外山 光輔・・・公卿。京都府貫族・華族。明治4年国事犯事件にて自尽。
愛宕 通旭・・・公卿。京都府貫族・華族。参与、神祇官判事。明治4年国事犯事件にて自尽。
初岡 敬治・・・出羽久保田佐竹家権大参事。明治4年国事犯事件にて斬罪。
小河 真文・・・筑後久留米有馬家権大参事。明治4年国事犯事件にて斬罪。
古賀 十郎・・・筑後柳川立花家家臣。軍務官書記。明治4年国事犯事件にて斬罪。
比喜多源二・・・愛宕家家扶。明治4年国事犯事件にて斬罪。
河上 彦斎・・・肥後熊本細川家家臣。幕末期は「人斬り彦斎」と恐れられた。明治4年国事犯事件にて斬罪。
矢野 寿助・・・豊前宇佐郡乙女村出身。農間船乗り渡世の者。明治3年長州脱退騒動に参加。明治4年国事犯事件にて斬罪。
楠本勘兵衛・・・豊後速見郡八丸村出身。明治3年長州脱退騒動に参加。明治4年国事犯事件にて斬罪。
楠本 省吾・・・豊後速見郡八丸村出身。勘兵衛の弟。明治3年長州脱退騒動に参加。明治4年国事犯事件にて斬罪。
阿部 琢磨・・・豊後速見郡平山村出身。明治3年長州脱退騒動に参加。明治4年国事犯事件にて斬罪。
以上、明治4年「国事犯」事件における自尽、死刑者でした。
580:日本@名無史さん
07/02/04 21:36:30
木下 業広 文化2年(1805)~慶応3年(1867)
通称は真太郎、宇太郎、号は犀潭。その先祖は菊池氏に仕え、父・衛門は徳行をもって郷里に聞こえた。
業広も幼少の頃から秀才の名をほしいままにした。
文政10年(1827)、熊本細川家から帯刀をゆるされた。
天保6年(1836)、伴読に挙げられ、中小姓に班した。同年、江戸に遊学し、佐藤一斎の門下に入る。
嘉永2年(1849)、藩校時習館の訓導となる。以後、学校党と呼ばれる勢力の中心人物になる。
門下生の井上毅、竹添進一郎、木村弦雄、古荘嘉門は木下門下の4天王と呼ばれた。
慶応1年(1865)、物頭に就任する。
慶応3年(1867)、病没。享年63歳。
581:日本@名無史さん
07/02/06 00:15:30
582:日本@名無史さん
07/02/09 07:32:51
ほす
583:日本@名無史さん
07/02/11 20:06:48
ジェームス・ファブル・ブラント 1841年(天保11年)9月23日~1923年(大正12年)8月7日
スイス人。貿易(横浜外国人商人、時計輸入)。
1841年(天保11年)9月23日、スイスのルロックルで生まれる。
1862年(文久2年)、日本との修好条約締結の為、時計組合総裁・元参議院議員A・アンベールを団長としたスイス特派使節団の一行16名の一員として来日した。
1864年(元治1年)、条約は日本スイス両国間で締結されたが彼はそのまま日本に留まり、横浜居留地52番で時計宝石商を開業した。
1866年(慶応2年)、横浜大火の際この店は焼失したが、彼は居留地175番に新規の営業所を開設し、スイス時計の輸入商として日本各地にスイス時計の販売促進を行った。
1874年(明治7年)、横浜に出来た町会所に時計台を設置し、また横浜の名所でもあった高島町岩亀楼の建築は彼の工夫によるもので、何れも幕末・明治初期の横浜名所として浮世絵などに描かれた。
1923年(大正12年)8月7日、避暑先の長野県軽井沢の別荘で心臓発作の為死去。享年82歳。遺体は横浜山手の外人墓地に埋葬された。
なお、彼は戊辰戦争の際には、薩摩島津家、長岡牧野家などに武器・弾薬等を供給したほどの商売上手であった。
584:日本@名無史さん
07/02/11 20:49:25
西郷 隆広 天保4年(1833)~慶応4年(1868)8月14日
幼名は金次郎、通称は吉二郎。
天保4年(1833)、鹿児島城下下加治屋町にて薩摩島津家家臣の西郷吉兵衛隆盛を父に、母満佐子の次男に生まれる。
長男は維新三傑の一人西郷吉之助隆盛、三男は慎吾従道。
兄吉之助隆盛が国事に奔走し、また南島に流刑されている間、家事を収めて後顧の憂いを無くした。
慶応3年(1867)11月、当主島津忠義の上洛に従い、城下小銃8番隊監軍として参加する。
慶応4年(1868)1月から始まった戊辰戦争に出陣、5月の越後長岡城第1次攻防戦に参加した。
同年7月番兵2番隊監軍に転じ、第3次攻防戦に参加。
さらに8月2日曲淵村五十嵐川を越えて敵を攻撃したときに激戦となり、腰部に弾丸を受け14日柏崎病院で没し、高田に埋葬された。
享年36歳。
585:日本@名無史さん
07/02/16 22:24:07
大野 英馬 文政9年(1826)~慶応4年(1868)8月23日
陸奥国会津若松城下において、会津松平家家臣大野伝九郎(30石4人扶持)の長男として生まれる。
幼少より活発にして才気あり、父伝九郎が江戸詰めとなるに従い赴く。
父の没後会津に帰り、30歳ごろ御供番となった。
文久2年(1862)、会津松平家が京都守護職となるや、新設された公用方に抜擢され上京した。
慶応4年(1868)の戊辰戦争では、8月23日、国産奉行河原善左衛門の指揮下にあって滝沢村の戦いで奮戦し、
戦死した。享年43歳。
586:日本@名無史さん
07/02/16 23:02:28
佐々木 政純 文化14年(1817)11月20日~明治27年(1894)11月8日
陸奥国盛岡城下において、父、盛岡南部家家臣佐々木伊兵衛(6駄2人扶持)、母、つねの子として生まれる。
通称は直作、維新後は板垣草蔭(桑蔭)と名乗る。
慶応4年(1868)2月、家老楢山佐渡上洛にあたり、勘定奉行兼留守居役として同行。奥羽越列藩同盟から秋田戦争にかけて、
補給部門の責任者として尽くした。南部家が降伏した際、楢山佐渡・江幡五郎とともに太政官に対する反逆首謀者として東京に護送され謹慎処分を受ける。
が、楢山佐渡が一身に罪を引き受けたため、軽輩の為許され、死を免ぜられる。
明治6年(1873)、沼宮内五日市に隠遁、一度君命により、命を終わり板囲いの裸の草葉の蔭に入りこの世を去ったとの意味で板垣草蔭と名を改める。
漢学塾を開いて、子弟の教育に当たり地方教育の一翼をになった。
明治27年(1894)11月8日、死去。享年78歳。
孫に満州事変時の関東軍高級参謀を務めた板垣征四郎がいる。
587:日本@名無史さん
07/02/17 10:34:46
手代木 勝任 文政9年(1826)3月9日~明治37年(1904)6月3日
通称は直右衛門。性格が重厚で、教養があり、体が大きく、人に重んぜられるようなところがあるといわれる。
陸奥国会津若松城下において、会津松平家家臣佐々木源八(与力格)の長男として生まれる。
坂本竜馬殺害で有名な佐々木唯三郎は実弟。
後に同家家臣手代木勝富の養子に入る。(父源八の実家で、嫡男がいないため)。
嘉永六年(1853)、会津候松平容保が房総沿岸の警備巡視を行うに当たり、これに従った。
その後江戸詰御聞番を命ぜられ、その役目柄、江戸表の事情や幕府の内情に詳しくなる。
文久2年(1862)、松平容保が京都守護織に就任する。京都に新設された公用方に江戸の情勢や事情を報告する。
元治1年(1864)、京都常詰公用人、御聞番御内用兼務を命ぜられ、京都に赴く。 京都に赴任してから、堂上や伝議奏に馴染みが出来、江戸と京都の双方にまたがる仕事を担当する。
慶応3年(1867)、将軍徳川慶喜より金一封と服地を賜る。また、同年11月の坂本竜馬殺害命令は手代木から実弟の佐々木唯三郎に下したものだといわれている。
慶応4年(1868)、戊辰戦争では、軍事奉行副役として軍事局に勤務する傍ら、大監察を兼ね、奥羽越列藩同盟を奔走する。
明治1年(1868)、若年寄となり、西軍包囲下の若松城を脱出し、米沢に使いし、開城の方法を奉命した。会津松平家が降伏した後、東京に連行され、鳥取池田家、高須松平家、尾張徳川家の各大名家に幽閉される。
明治5年(1872)、許され、釈放される。その後、太政官に出仕し、左院少議生、香川県・高知県の権参事を歴任した。晩年は会津で過ごしたといわれる。
明治37年(1904)6月3日、死去。享年79歳。
588:日本@名無史さん
07/02/17 12:58:33
大山 成美 天保6年(1835)~明治9年(1876)2月
通称は彦八。
薩摩国鹿児島城下下加治屋町において、父、島津家家臣大山綱昌、母、競子の間に長男として生まれる。
次男が有名な大山巌。父の通称も彦八というので、大山家では、嫡男筋の人物が彦八を名乗る。
西郷隆盛の従兄弟に当たり、同じ下加治屋町に生まれて、その薫陶を受けた。
万延1年(1860)、桜田門外の変時、京都伏見の薩摩島津屋敷詰であったが、幕府の嫌疑を受けて、京都六角の獄舎に繋がれた。
文久1年(1861)、嫌疑が晴れて、釈放される。再び、京都伏見の薩摩島津屋敷詰となり、諸大名の家臣、諸国の志士と交渉する。
文久2年(1862)、実弟の巌が寺田屋事件に参加、謹慎処分を受ける。このときの成美の行動は不明。処分を受けていないところを見ると、反対の立場にいたか何もしていなかったか。
慶応2年(1866)、土佐浪人の坂本竜馬が伏見寺田屋において、追手二人を射殺して逃亡した際、応接役として京都伏見の薩摩島津屋敷に迎えて、これを庇護した。
慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは、後方勤務を担当し、武器、弾薬、兵糧、軍資金の準備、手配、負傷者の処置などに尽くした。
明治3年(1870)、京都府大参事に就任。後に埼玉県大参事に転任する。
明治6年(1873)、征韓論政変の結果、従兄弟で参議の西郷隆盛が辞任した影響を受け、官職を辞して鹿児島に帰る。
明治9年(1876)2月、鹿児島にて、病没。享年42歳。
589:日本@名無史さん
07/02/22 07:27:54
どっからのコピペ?
590:日本@名無史さん
07/02/24 15:47:40
河田 熙 天保6年(1835)~明治33年(1900)3月11日
通称は貫之助、官職は相模守。号は貫堂、古香荘。
武蔵国江戸城下において父に幕臣河田興(通称八之助、儒者200俵)、母?の間に長男として生まれる。
安政6年(1859)6月、父の家督を継いで、儒者見習いとなる。一時奥右筆に転じる。
文久2年(1862)6月、儒者を命ぜられる。
同年10月、外国奉行支配組頭を命ぜられる。
文久3年(1863)11月、目付を命ぜられる。同時に横浜鎖港談判使節の同行を命ぜられる。
同年12月、従五位下相模守に任ぜられる。同月正使池田長発、副使河津祐邦らと共に、随員を従え、フランス軍艦に搭乗して、フランスに渡る。
パリで案件談判の間、使命達成の不可能を悟り、開国の必要性を痛感した。
元治1年(1864)5月、パリ約定調印後、直ちにパリを出発、7月帰国して使節一行は横浜鎖港の不可を建言したが、幕府当局者の忌諱に触れ、免職、小普請入り、閉門を命ぜられた。
その後許され、陸軍奉行並支配を命ぜられる。
慶応3年(1867)2月、開成所頭取を命ぜられる。
慶応4年(1868)2月、目付を命ぜられる。更に同月、大目付を命ぜられる。
同年5月、徳川家が駿河70万石の大名家に決定し、その事務処理に奔走する。
明治2年(1869)藩治職制の導入に伴い、静岡藩小参事となり、学制を担当した。
明治4年(1871)、廃藩置県後は徳川家の家扶を勤め、東京に移った。
明治10年(1877)4月、徳川家達のイギリス留学に従い、イギリスに渡る。
明治15年(1882)、帰国。以後、徳川家子女の教育に当たった。
明治33年(1900)3月11日、死去。享年66歳。
591:日本@名無史さん
07/03/02 11:29:36
大久保大和
旧名大久保剛
慶応四年3月、幕府の命を受け甲陽鎮撫隊として甲府へ出陣したが
甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走
その後、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区)で募集し
4月には下総国流山(現在の千葉県流山市)に屯集するが
新政府軍に包囲され、越谷(現在の埼玉県越谷市)の政府軍本営に出頭する
4月25日、平尾一里塚(現在の東京都北区滝野川)で斬首された。享年35
592:日本@名無史さん
07/03/02 21:42:48
宮村 利貞 弘化3年(1846)12月8日~大正15年(1915)5月31日
通称は伸来。出羽国田川郡稲生村番田に医師宮村元邦の嫡男として生まれる。
若くして剣術を庄内酒井家家臣大淵竜之介に入門、修める。
慶応2年(1866)、江戸に上って齋藤弥九郎に入門、神道無念流を学んだ。
慶応4年(1868)、戊辰戦争。庄内軍に身を投じ、新庄、秋田方面に出陣。武勲を立てた。
明治19年(1886)、山形県巡査となる。
明治28年(1895)4月、鶴岡の荘内中学校に撃剣科(剣道部の前身)が創設されたときに金野久孝、桑島武得と共に教師となってこれを指導する。
明治29年(1896)、同校の嘱託に招かれる。以来20余年信望を得て多くの門下生を育成した。
大正15年(1915)5月31日、死去。享年81歳。
593:日本@名無史さん
07/03/04 16:46:58
吉岡 信義 天保14年(1843)~慶応4年(1868)6月9日
通称は新太郎。長州毛利家家臣の子として生まれる。後に吉岡家に養子に入る。
文久3年(1863)10月8日、周防国吉敷郡秋穂に駐屯する八幡隊(後に鋭武隊)に入隊を志願する。
翌11月半隊司令に任ぜられる。
元治1年(1864)8月、下関にて英仏蘭米4ヶ国連合艦隊相手の戦いに従軍する。
慶応1年(1865)1月、大田・絵堂の戦いに反乱軍として参加、毛利家政府軍を打ち破る。
慶応2年(1866)、幕府の第2次長州征伐時、吉岡の属する八幡隊は芸州口に配属。井伊・榊原両家の軍を粉砕し、幕府歩兵隊、紀州徳川軍と互角の戦いを演じる。
後に小倉口に転属、苦戦する奇兵隊を後押しし、小笠原家の居城小倉城を陥落させ、毛利家の勝利に多大な貢献を果たす。
慶応3年(1867)1月、 秋穂に凱旋。
同年10月、薩摩島津家とともに長州毛利家に「密勅」がでると、本隊と共に本国を出発し、備後国尾道に滞陣して、徳川家・会津・桑名両松平家打倒に備える。
慶応4年(1868)1月、吉岡の属する八幡隊は阿部家の居城備後福山城攻めに参加し、その足で大坂に乗り込む。
大坂では部下を率いて難波に駐屯し、市中取締りに当たる。
大坂在陣中、難波くろがね通り6丁目の商家の娘山邑マサと恋仲になる。
4月、役目を終えた吉岡は秋穂に帰陣。マサ、これを追いかけ、秋穂に尋ねる。
6月9日、秋穂西町の福田亀太郎方で吉岡、マサ心中する。死去。享年26歳。
ただし、毛利家の公式記録では、5月に「除隊」、6月9日「病死」した事になっている。
「心中」の事実はどこも記されておらず、記録上「除隊」させ、毛利家諸隊との関係を断った上で吉岡を死なせている。
594:日本@名無史さん
07/03/04 19:38:17
丹羽 富穀 文政6年(1823)~慶応4年(1868)7月29日
幼名万寿郎。通称は内匠、一学。号は反求。
陸奥国二本松城下において、父丹羽富寿(丹羽家家臣、家老職600石)、母とく女の間に次男として生まれる。
天保5年(1834)2月、富穀と名乗り、200石を賜る。同年家督相続し、600石となる。
嘉永1年(1848)2月、御番頭となる。
安政5年(1858)9月、上総国富津海岸警備に就いた。
元治1年(1864)3月、家老職となり、役格料100石、1000石高の礼遇となった。
慶応4年(1868)戊辰戦争。4月、奥羽列藩同盟が成立する。
同盟会議が伊達領白石城にて行われ、丹羽家代表として参加、丹羽家を加盟させる。
7月29日、太政官が進攻してくると、丹羽家を抗戦に持っていく。
二本松城攻防戦の折に城内武器蔵奉行にあったが、景山蔵之進邸において自刃した。
享年46歳。
595:日本@名無史さん
07/03/05 19:30:22
>>591
大久保大和おもいっきりメジャーなんすけど。
596:日本@名無史さん
07/03/06 01:18:35
勝沼を騎馬洋装の土方が通過した後
白羽二重で駕籠に乗って現れたんだよな大久保大和
597:日本@名無史さん
07/03/08 06:58:39
∧_∧
( ^ิ౪ิ ) ∧_∧
/ \ ( )おまえ顔が変だぞ
.__| | .| |_ / ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄ / .| | |
||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./
||. ( ) ~\_____ノ| ∧_∧
/ ヽ 病気だ \| ( )
| ヽ \/ ヽ. うつすなよ
| |ヽ、二⌒) / .| | |
.| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ /
∧_∧
( ^ ิ ౪ ิ) ∧_∧
/ \ ( ^ ิ ౪ ิ)ドゥヒュヒュヒュ
.__| | .| |_ / ヽ
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||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./
||. ( ^ ิ ౪ ิ) ~\_____ノ| ∧_∧
/ ヽ ドゥヒュヒュヒュ \| ( ^ ิ ౪ ิ)ドゥヒュヒュヒュ
| ヽ \/ ヽ.
| |ヽ、二⌒) / .| | |
.| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ /
598:日本@名無史さん
07/03/08 18:24:49
川村修就なんか結構好きだな。
新潟、堺、長崎奉行をつとめたお庭番血筋の人。
幕末の高官のわりに真面目だし頭良い。
599:日本@名無史さん
07/03/08 18:36:39
小松重男がその人について幾つか本書いてるね
600:日本@名無史さん
07/03/09 22:45:51
藤沢 次謙 天保6年(1835)4月11日~明治14年(1881)5月2日
通称は長太郎、主税、官職は志摩守、備前守、肥後守。号は梅南。
武蔵国江戸城下において父桂川甫賢(幕府奥医師)の三男として生まれる。
成人してから桂川家を出て同じく幕臣藤沢家(1500石)の養子となる。
文久2年(1862)12月、小普請組より講武所砲術方を経て頭取に進む。
文久3年(1863)12月、歩兵頭に進む。
元治1年(1864)6月、歩兵奉行並となって、水戸徳川家天狗党の筑波挙兵を鎮圧の為派遣された。
7月、幕府当局者に軍の不備を指摘し、それが当局者の忌諱に触れたため、敗戦の責任を取らされ、御役御免逼塞を申し渡される。
慶応1年(1865)7月、軍艦奉行並に召し出される。
慶応2年(1866)10月、軍艦奉行を命ぜられる。
慶応3年(1867)1月、歩兵奉行を命ぜられる。
5月、陸軍奉行並を命ぜられる。
慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川宗家の下で、陸軍副総裁を命ぜられる。
2月、上官の陸軍総裁勝安房が、軍事取締に就任すると、(後任者が不在の為)事実上徳川陸軍を指揮した。
7月、徳川宗家の駿河70万石移封により、沼津に赴く。
8月、静岡藩小参事軍事掛を命ぜられ、沼津兵学校を設立してその運営に当たり、また移住士族の生活問題にも尽力した。
明治4年(1871)9月、沼津兵学校が太政官兵部省に移管されたので、太政官の下につくのを断固拒否して野に下った。
晩年は東京に移り住んだといわれている。
多芸多才を絵に描いた人で、武術、蘭学、兵学、書、絵画に秀で、特に絵画は玄人といわれた。
明治14年(1881)5月2日、死去。享年47歳。
601:日本@名無史さん
07/03/10 09:40:32
刈谷 三郎 弘化1年(1844)~明治43年(1910)3月5日
旧名は鈴木虎三郎。変名は東狷介。号は無隠。
下野国足利郡足利新田仲町にて、父鈴木千里(足利家儒者)の三男として生まれる。
後に刈谷家の養子に入る。
父の感化を受けることが多く、水戸徳川家家臣の藤田信(通称小四郎)とは親交があった。
安政4年(1857)秋頃、江戸に上がり、古賀茶渓の久敬舎に学び、のちに昌平坂学問所に転じた。
元治1年(1864)3月、水戸徳川家天狗党が筑波山に挙兵するとこれに参加、田中愿蔵の竜虎軍に属した。
天狗党が分裂すると、これから逃れて江戸・京・大坂などを放浪し、仏門に入ったこともあった。
戊辰戦争後、司法省に入り、千葉裁判所判事となり、ついで東京裁判所判事に転じたが、間も無く官職を辞した。
後、京都相国寺に来て、禅門に入り後進の誘掖につとめた。青鴻維摩会を率い、あるいは師範学校に教鞭をとった。
明治43年(1910)3月5日、死去。享年67歳。
越後長岡牧野家家臣の河井秋義(通称継之助)を語る上で欠かせない人物。
602:日本@名無史さん
07/03/10 11:33:03
前山 長定 文政6年(1823)2月~明治29年(1896)3月27日
通称は清一郎。
肥前国佐賀城下において、佐賀鍋島家家臣前山長信(通称五兵衛)の長男として生まれる。
藩校弘道館の教授補として、また家塾を開いて家臣子弟の教育に当たった。
慶応4年(1868)、戊辰戦争時には、東征大総督府参謀として参加。
閏4月、イギリス汽船2隻を雇い、佐賀鍋島兵300人、小倉小笠原家130人を率いて仙台に上陸。
5月、仙台に留められていた奥羽鎮撫総督九条道孝、同参謀醍醐忠敬と共に盛岡、久保田に移動。
7月、大山綱良、桂太郎らと共に久保田佐竹家を切り崩し、奥羽越列藩同盟を離脱させ、奥羽戦線の勝利に一躍買った。
明治2年(1869)、戊辰戦争終了時、永世禄450石を賜る。(佐賀鍋島家では最高の石高である。)
明治3年(1870)7月、佐賀藩大参事に就任する。
明治4年(1871)4月、太政官兵部省に出仕したが、いくばくも無く辞職し、佐賀に帰郷する。
明治7年(1874)2月、江藤新平(征韓党)・島義勇(憂国党)を中心した佐賀士族の反乱が起こると、前山は中立派の佐賀士族を組織して太政官に協力、反乱の平定に努めた。
このため、郷里の人たちから憎悪の対象となり、「裏切者」・「官の走狗」と呼ばれ、家族も迫害を受けることが多くなってきたため、下総国印旛郡小間子に移住し、開拓殖産に心血を注いだ。
明治29年(1896)3月27日、死去。享年74歳。
603:日本@名無史さん
07/03/10 12:29:45
梶原 雄之助 生没年不明
旧名は藤吉、村上長門之介。
会津生まれの農民といわれている。江戸に出てきて、火消しの頭に収まった。
非情な乱暴者で、身体一面に刺青のある一寸見て恐ろしい様な奴といわれている。
徳川陸軍の歩兵隊に在籍していた。
慶応4年(1868)2月、戊辰戦争時、鳥羽・伏見の戦いに敗れて帰ってきた歩兵第11・12連隊の兵隊たちを扇動、内500人ほどがこれに参加。
当直将校を殺害、勝海舟の制止を振り切って北関東一円を荒らしまわり、下野国佐久山に陣を張る。この指導者が藤吉といわれる。
同月、歩兵指図役頭取・古屋佐久左衛門の説得を受け、その指揮下に入る。このとき、名前を梶原雄之助と変える。
以後、古屋の下で、北日本各地を転戦、蝦夷地に渡り、戊辰戦争の修羅場を潜り抜ける。
明治2年(1869)5月、箱館で降伏する。投降した士卒は津軽海峡を蒸気船で青森に運ばれ、身分や所属によって分けられ、弘前津軽家・久保田佐竹家領内の寺院に収容。
その後、各大名家に身柄を預けられるが、6月、太政官通達により、草鞋銭2両を支給されて赦免、国許に送り返された。
梶原もこれに従ったと思われる。
その後、宮内省に勤める山岡鉄舟の世話で、宮内省に入り、明治天皇の馬車の馭者になった。
以後の足取りは不明。
604:日本@名無史さん
07/03/11 09:31:15
島崎 正樹 天保2年(1831)5月4日~明治19年(1886)11月29日
諱は重寛、字は禎夫。通称は鍛名太郎、宮之丞、?三郎、?蔵、吉左衛門。号は璞堂、松翠園静雄、観山楼。
信濃国筑摩郡馬籠村において、父島崎重韶(通称吉左衛門、庄屋)、母ゆかの間に次男として生まれる。
生家は庄屋で本陣・問屋を兼ねた。中津川で間秀矩・馬島穀生と交わり、馬島から皇漢学の教えを受け、のち平田篤胤没後門人となった。
戊辰戦争後、戸長・学事掛を勤め神坂敬義学校の教諭となった。
松本の教員講習会で日本人モンゴル説を聞いて反発、文部省に訴願しようとした。
明治7年(1874)、文部省考証課雇員になったが、この年自作歌を書いた扇面を天皇の興中に投入したため不敬罪に問われた。
明治8年(1875)、飛騨国水無神社宮司、権中講義となる。
明治11年(1878)、職を辞して帰郷する。
明治13年(1880)、明治天皇の行幸献言をして、隠居させられる。
明治19年(1886)11月29日、発狂して自殺する。享年56歳。
明治の文豪といわれた島崎藤村の父である。
605:日本@名無史さん
07/03/11 12:39:00
鵜殿 長養 天保2年(1831)~明治1年(1868)12月9日
通称は団次郎、号は春風。
越後国長岡城下において、父鵜殿長義(長岡牧野家家臣、150石)の長男として生まれる。
実弟に海援隊に参加した白峰駿馬がいる。
安政2年(1855)江戸に出て、東堂英庵、手塚律蔵に洋学を学び、数学・天文・測量・航海術を修め、時勢に深い洞察を持っていた。
安政6年(1859)、越前大野候土井利忠に招かれ、西洋型帆船大野丸に乗って、樺太を往来した。
文久2年(1862)、幕府に招かれて蕃書調所の教授方に任命された。
文久3年(1863)、幕府陸軍の歩兵指図役に任命される。
元治1年(1864)、職を辞して、長岡に帰郷し、著述・教育に努める。
慶応2年(1866)、長岡候牧野忠恭に「御軍制御改正に附き心得申上」の建白書を提出する。
慶応3年(1867)、勝安房守の招きにより軍艦役に任命される。
慶応4年(1868)1月、目付に任命される。
鳥羽・伏見の戦いで敗北した時の徳川宗家内において、大久保一翁、勝安房とともに徳川宗家内で非戦論を主張する。
西郷隆盛も鵜殿の識見を尊敬し、薩摩に招こうとしたことがあった。
4月、長岡に帰郷しようとするが、北越戦争の為かなわず、江戸に戻る。
明治1年(1868)12月9日、北越戦争終了後の焦土となった長岡の自宅にて、死去。享年38歳。
長岡においては、河井秋義(通称継之助)、小林虎(通称虎三郎)、三島心臆(通称億二郎)と並んで、長岡四傑と呼ばれている。
606:日本@名無史さん
07/03/18 04:54:51
>>578
何でこの人って、注目されないの?
会津松平家の主席家老でしょう。
不思議?
松平容保と西郷頼母の影が大きすぎて、目立たないってやつね。
607:日本@名無史さん
07/03/18 05:09:48
>>587
なんだ、坂本竜馬殺害論の答え出たじゃん。
会津松平家黒幕でいいんでねぇの?
京都守護職で諜報機関の担当(手代木)と治安維持の職務担当(佐々木)だし、兄弟なら意思の疎通も容易だし、
手代木や配下の今井信男が証言を残しているのだから、これほどわかりやすい答えはないよ。
他の黒幕論は、状況証拠だけで、証言も何もないから。
手代木には、大泉荘客という人が書いた「手代木直右衛門伝」というのがあって、手代木は直接大泉に
「あれは(坂本殺害)唯三郎がやった。命令は某諸侯からでた」
と語っているから。
某諸侯は誰か?というのは、松平容保なのか、松平定敬なのか、それとも、・・・・・
ただ、徳川慶喜ですら、慶応三年当時坂本竜馬の名前知らなかったから、松平容保もおそらく知らなかったのでは。
608:日本@名無史さん
07/04/22 19:25:12
どうして結論とみなすことができるんだろう?
609:日本@名無史さん
07/05/11 07:03:54
最初から結論を決めてるからじゃない?
610:日本@名無史さん
07/06/01 02:14:51
窪田泉太郎(窪田備前守鎮章)
611:日本@名無史さん
07/06/01 02:29:45
西国日田の治部右衛門か?
612:日本@名無史さん
07/06/01 08:34:25
>高知県の権参事を歴任した。
坂本竜馬殺害の黒幕なのに・・・?
613:日本@名無史さん
07/06/01 10:21:08
小宮民部
614:日本@名無史さん
07/06/07 13:55:28
URLリンク(homepage2.nifty.com)
さらに前田藩の軍艦に乗り込み観覧した記録がある。そして的確な質問をしているのだ。
どうも大野の知っていた航海術は、机上の学問ではなく、実際に経験していたことをうかがわせる
このことから、彼が銭屋の船に乗り込んで密貿易を行っていた外洋に出ていたことを想像できる
ちなみに五兵衛の密貿易の舞台は、日本海の竹島のほか、トカラ列島の島々、八丈島近海、
小笠原諸島まで広がっていたという。そちらに同行した可能性だってなくはない。
ところで銭屋五兵衛は、香港・アモイまで出かけていたとか、オーストラリアのタスマニアに
領土を持っていたという説がある。とくにタスマニア領土説の信憑性は、決して低くはないのだが
ここにも弁吉の陰が見え隠れする。幕末の金沢に何が起きていたのか、興味あるところである。
弁吉は、1870年(明治3年)70歳で生涯を終えた。弟子には、米林八十八、朝倉長右衛門を
はじめ和算、医術、彫刻、写真など多分野で活躍した人たちがいて、明治期に活躍したことも付け加えておこう。
615:日本@名無史さん
07/06/07 21:19:54
木村拓哉
616:日本@名無史さん
07/06/08 04:06:17
大野弁吉がマイナーなわけないだろうに
617:日本@名無史さん
07/06/08 20:12:15
>611
日田の西国郡代の窪田治部右衛門鎮勝の嫡男。
618:日本@名無史さん
07/06/08 20:13:59
窪田備前守鎮章
URLリンク(ja.wikipedia.org)
619:日本@名無史さん
07/06/09 03:15:53
美濃部達吉
620:日本@名無史さん
07/06/10 21:44:03
中居正広
621:日本@名無史さん
07/06/11 02:29:16
>>620
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622:日本@名無史さん
07/08/08 15:24:05
合原義直 1827-1901 通称は猪三郎
浦賀与力合原雄左衛門の次男、兄、合原操蔵は当時著名な砲術家。
ペリー来航時は与力見習。中島三郎助、香山栄左衛門とともに応接係を務めている。
その後下田奉行所に転任、ハリスとの交渉を担当、1858年に旗本に昇進。
1860年、神奈川奉行所に転任
1863年神奈川奉行並 家禄100俵、職禄1000石。
フランス人士官殺害事件の捜査に当たるが失敗し、二丸留守居に左遷。
1864年 目付 左衛門尉任官、のち伊勢守
1865年 長崎奉行並(1000石)、歩兵頭(2000石高)
1866年 外国奉行
1867年 陸軍奉行並(3000石)
1868年 大目付
維新後は新政府や、榎本武揚の説得を受けても任官を拒否、隠棲した。
井上清直の引き立てを受け、外交官僚として活躍したらしいが、詳細は不明。
623:日本@名無史さん
07/08/08 15:47:27
春山弁蔵 1817-1868
浦賀奉行所同心、日本初の洋式軍艦鳳凰丸の設計チームの一人
長崎海軍伝習所一期生となる。
その後、日本初の蒸気軍艦千代田形の船体設計を担当、
当時、造船の第一人者であった。
戊辰戦争時は咸臨丸の副将を務める。榎本の命で脱走するも、
嵐のため、咸臨丸は清水港に漂着。
新政府軍に発見されたとき、船を預かっていたのが春山。
白旗を掲げ、降伏の意志を伝えたが、新政府艦隊は発砲。
最後まで逃亡しなかった春山以下の士官はなぶり殺しにされ、
遺体は海に投げ捨てられた。
仙台で春山の死を聞いた中島三郎助は大変なショックを受けたという。
624:日本@名無史さん
07/08/08 17:21:44
小杉雅之進 1843-1909
長崎奉行支配調役並出役 小杉右藤の次弟
長崎海軍伝習所三期生、蒸気機関を専攻
軍艦操練所教授方手伝となる。
1860年、遣米使節随行船、咸臨丸の蒸気方見習士官を務めた。
その後、朝陽丸の機関士官として、小笠原諸島の回収に係わる。
戊辰戦争時は軍艦蒸気役一等となり、開陽丸の機関長を務め、
榎本武揚に従った。開陽沈没後、旧幕府軍の江差奉行並となる。
降伏後は士籍を剥奪され、雅三と改名。海軍への出仕話を断固拒否するが、
榎本の引き立てで内務省、農商務省、逓信省に勤務、
海事行政を担当。正六位大阪船舶司検所長で退官後、大阪商船管理部長となった。
625:日本@名無史さん
07/08/08 17:31:48
望東尼とか大木喬任とかってメジャー?
626:日本@名無史さん
07/08/08 17:32:36
根津勢吉 1839-1877 通称は欽次郎
小晋請小笠原弥八郎組から長崎海軍伝習所三期生となる。
航海術を学んだ。
軍艦操練所教授方手伝となる。
1860年、遣米使節随行船、咸臨丸の運用方見習士官を務めた。
その後、朝陽丸の士官として、小笠原諸島の回収に係わる。
1866年、大番格軍艦役となり、回天丸の副将を務める。
戊辰戦争では軍艦頭となり、甲賀源吾戦死後、回天丸艦長となる。
維新後は海軍に出仕、海軍大尉となるがまもなく病没。
627:日本@名無史さん
07/08/08 17:33:02
>>625
メジャーすぎる
628:日本@名無史さん
07/08/08 18:00:02
岡田井蔵 1837-1904 諱は敬感(なんて読むんだろう?)
浦賀与力、岡田増太郎の弟、昌平黌で漢学を修めた秀才。
姉婿中島三郎助の引き立てで長崎海軍伝習所二期生となり、
蒸気機関の運用、設計を学んだ。軍艦操練所教授方手伝となる。
1860年、遣米使節随行船、咸臨丸の蒸気方見習士官を務めた。
その後、朝陽丸の機関長として、小笠原諸島の回収に係わる。
徳川家茂上洛時の護衛も務めている。
戊辰戦争時は軍艦蒸気役一等、朝陽丸の機関長だったが、
朝陽丸が官軍に引き渡されたため、従軍できなかった。
維新後、横須賀造船所の製図技師となり、明治海軍初の純国産砲艦磐城、
初の巡洋艦海門の設計を手がけている。
ちなみに名前の読みは「いぞう」ではなく「せいぞう」である。
岡田井蔵の写真が岡田以蔵の写真と混同されることがあったため、
咸臨丸の見習士官の中では、赤松則良男爵海軍中将についで著名かもしれない。
629:日本@名無史さん
07/08/17 01:00:48
春山弁蔵は昔日テレの「勝海舟」で結構出番多かったから(演・本田博太郎)
そこそこ有名かな
630:日本@名無史さん
07/09/24 00:29:12
駒井相模守信興
46代南町奉行で「最後の南町奉行」ではありません
631:日本@名無史さん
07/10/16 12:24:44
ほう
632:日本@名無史さん
07/10/17 18:28:59
春山とか小栗とか近代日本に必要な人間をなぶり殺しにした
官軍に義は無いよな。
633:日本@名無史さん
07/10/18 02:50:00
長井雅楽を殺しといて結局その真似をせざるを得なくなったり
吉田東洋を殺しといて以下略
勢いで行動して後悔する、てパターンが多いね
634:日本@名無史さん
07/10/23 08:07:18
橋本左内とか吉田稔麿とか近代日本に必要な人間をなぶり殺しにした
幕府にも義は無いよな。
635:日本@名無史さん
07/10/23 17:48:19
稔麿は京に放火して天子様拉致を謀議していた現場に居たから仕方ない。
ハシモトーッは可哀想だったな。
636:斉藤きちヲタ
07/10/29 14:35:38
唐人お吉
637:日本@名無史さん
07/10/29 15:45:19
徳川家定がまさにそうだろ
家斉・家慶・(欠)・家茂・慶喜って感じw
638: ◆KKUTYPLj66
07/10/30 00:46:24
来年の大河の主人公の旦那ということで
メジャー化する予定です
639:日本@名無史さん
07/10/31 18:35:13
>>638
誰がやるんだっけ? これまでのイメージをぶち壊すようなイケメソ?
640:日本@名無史さん
07/11/03 19:52:39
徳川家よりは義がなかった太政官は100年もつことなく、マッカーサーの軍門に下りました。
641:日本@名無史さん
07/11/06 08:10:40
>>639
新選組!でブレイクした堺雅人
642:日本@名無史さん
07/11/10 07:41:27
四条隆謌
643:日本@名無史さん
07/11/11 02:44:24
食中りで若死にした天才佐久間象山の息子
644:日本@名無史さん
07/12/22 22:32:36
池田長発
645:日本@名無史さん
07/12/26 03:13:55
本因坊秀策
646:日本@名無史さん
07/12/28 10:16:25
緋村抜刀斎
647:日本@名無史さん
07/12/28 14:29:35
edobakufuha ?
648:日本@名無史さん
07/12/28 15:47:50
>>638
原作ではかなりの虚弱体質で神経質だよ。
大奥が怖くて中奥でばかり泊まったり。
変な役どころなのだけど・・・
649:日本@名無史さん
07/12/28 20:06:51
>>648
Gackt様にやらせればメジャー化まちがいなし。
650:日本@名無史さん
08/01/20 15:22:31
間瀬和三郎
651:日本@名無史さん
08/02/15 14:28:56
殿内義雄…新選組史上初の犠牲者。暗殺。享年34。
阿比留鋭三郎…新選組史上2番目の死亡者。病死。享年22。
652:日本@名無史さん
08/02/15 14:44:18
トリックの矢部とカラテカの矢部か。
653:日本@名無史さん
08/02/15 21:16:45
安藤信正
ドラマでも桜田門外の変に比べて、
坂下門外の変の扱いの、なんとぞんざいな事かw
654:日本@名無史さん
08/02/27 12:43:52
井伊直弼の首を打ち獲った薩摩藩士の有村次左衛門
655:日本@名無史さん
08/02/27 12:55:07
所郁太郎
656:日本@名無史さん
08/02/27 14:02:46
>>655
井上聞多を治療した人だな
657:日本@名無史さん
08/04/01 07:45:29
山田宇右衛門 に一致する日本語のページ 約 252 件
乃美織江 に一致する日本語のページ 約 664 件
毛利登人 に一致する日本語のページ 71 件
来原良蔵 に一致する日本語のページ 約 998 件
大和国之助 に一致する日本語のページ 60 件
渡辺内蔵太 に一致する日本語のページ 64 件
前田孫右衛門 に一致する日本語のページ 約 539 件
658:日本@名無史さん
08/04/21 17:09:04
益満休之助
659:日本@名無史さん
08/04/21 20:37:00
松尾多勢子
岩倉と仲違いさえしなければ縁者が爵位ゲットできたかも
660:日本@名無史さん
08/04/26 21:36:07
藩主なのに脱藩w
661:日本@名無史さん
08/05/20 21:12:07
>>5
こいつすげーよ 竜馬の仇をうちに行ってるよ!半端じゃない!
662:新選組
08/06/18 00:33:24
剣客 仏生寺弥介
剣術は確かなのに、放蕩無頼、たまに道場に顔を
出しては道場破りを撃破して、金をせびって
行方をくらます。
最後は暗殺された。理由は不詳。
663:日本@名無史さん
08/06/18 01:14:40
所郁太郎
664:日本@名無史さん
08/07/15 07:56:36
間崎蒼浪
665:日本@名無史さん
08/07/19 20:28:33
梶清三郎
666:日本@名無史さん
08/07/19 21:27:59
>>91
河上彦斎(熊本藩士)
【るろうに剣心(アニメ・漫画の緋村剣心)】は、河上彦斎がモデルとなっている。
667:うすじ みくる
08/07/20 19:08:13
ましらの文吉について誰か詳しく
668:日本@名無史さん
08/07/20 20:56:11
>>666
その師匠の林桜園
兄弟弟子の大田黒先生
反乱起こし頼られた大楽源太郎
669:新選組
08/07/21 01:36:23
>自分も詳しくはないが、猿の文吉は幕府側、所司代か奉行所の
下っ引き。勤皇方の動向を探るスパイだった。
そこを土佐勤皇党に睨まれ、殺害。
この事、刀で斬殺しようとしたが、岡田以蔵が
「刀の穢れになる」と言って絞殺して河原に晒した。
その時の絵と罪状が「幕末天誅斬奸録」に出ている。
ちなみに小説にもなっているが、主人公の文吉は
やたらニヒルで格好良く、とてもあの時代の下っ引き
には合わない感じの内容だった。
670:日本@名無史さん
08/07/21 04:54:32
林桜園はもっと知りたい。
671:日本@名無史さん
08/07/21 07:20:37
徐族ノ上 斬首
熊本県士族 浦楯記
672:日本@名無史さん
08/08/22 21:37:51
test
673:日本@名無史さん
08/08/22 22:36:34
>>671
日本最後の内乱
西南戦争(士族反乱) 神風連
674:日本@名無史さん
08/08/25 04:54:33
蓮田東三
(安政3年(1856年)にハリス要撃を計画するも発覚し入獄死。)
メジャーとマイナーの間みたいな香川敬三の兄。
兄の方は完全にマイナー。
675:日本@名無史さん
08/08/25 08:46:40
松井徳太郎(天保11年~?)
武蔵国江戸生まれ。清水家御近習番の松井八十五郎の子。姉のツネが近藤勇の妻で彼は近藤勇の義弟にあたる。一時京都守護職の預かりになる。
江戸開城後に旧幕府脱走軍に参加してその後函館新撰組第一分隊に所属し奮戦。弁天台場で降伏。終戦後の消息は不明。
ちなみに他に近藤勇の親類で新撰組に参加したのは宮川信吉(甥・一番隊伍長を務め天満屋事件で戦死)がいる。
宮川は活躍を残しているが松井に関しては参加が遅く情報が少ないためか近藤の弟にも関わらず全く注目されてないマイナー人物。
676:日本@名無史さん
08/10/12 09:27:39
蓑田伝兵衛
677:日本@名無史さん
08/11/15 14:39:49
他にはいますか?
678:日本@名無史さん
08/11/17 06:35:34
小笠原唯八。
高知城下に近い小高坂村で生まれ育った土佐藩士。武市半平太と同い年生まれ。
先祖は三河武士。苗字は小笠原ではなかった。江戸初期に浪人し京都で暮らしていたが、土佐の山内忠義に拾われた。
その末裔の唯八は尊皇攘夷思想の持ち主ではあったが、激しい性格な上に下士嫌いだった。
勤皇党の獄では後藤象二郎と並ぶコワモテの代表だったが、
君命で安芸郡の勤皇党員たちを尋問ぬき大量処刑させられた時にはショックを受け、
元来は豪放磊落だったのが厭世的になったと言われている。
中岡、板垣、大石、谷、佐々木、本山と共に土佐の過激派の代表格となるが、
厭世観は東征でも消えなかった。会津戦争ではテキパキと自軍を指揮していたが、敵兵に狙撃され討死。
最後の言葉は「吾、死所を得たり」。
勤皇党の獄では逆の立場だった安岡覚之助も小笠原同様に厭世観に陥っており、会津戦争で討死。
小笠原より中岡や板垣の方がずっと重要人物だったから当然と言えば当然だが、
少なくともどうでもいい存在ではなかったのに知られていない。
679:日本@名無史さん
08/11/17 07:13:46
マイナーではないよ
680:日本@名無史さん
08/11/17 13:50:35
>>678
メジャーとは言いがたいけど、マイナーとは言えないよ
小笠原唯八は谷干城、佐々木高行、吉松速之助と同じ扈従組(他潘の
小姓組)の貧乏上士の出だね。
吉松といえば、小笠原より彼の方がマイナーかも・・・
681:日本@名無史さん
08/11/17 13:53:17
ある時代、ある地域、ある分野が好きな歴史ヲタの間でも有名ではない香具師でなきゃ。
682:日本@名無史さん
08/11/17 14:18:29
第二次征長戦争
幕府の指揮官
小笠原長行
683:日本@名無史さん
08/11/17 15:42:57
URLリンク(jp.youtube.com)
684:日本@名無史さん
08/11/17 17:05:02
小笠原長行はマイナーじゃないでしょ
独断で賠償金払ったりクーデター起こそうとしたり
第2次長州征討の指揮官だったり最後の最後まで新政府に抵抗したり
685:日本@名無史さん
08/11/18 13:11:46
望月亀弥太
土佐藩の坂本龍馬を名乗るとただ飯が食えるんで、龍馬の名前を
寸借詐欺してたんじゃないかなぁ。
686:日本@名無史さん
08/11/18 14:24:33
>>望月亀弥太
>>土佐藩の坂本龍馬を名乗るとただ飯が食えるんで、龍馬の名前を
>>寸借詐欺してたんじゃないかなぁ。
寸借詐欺がばれたもんで、海難事故で死んだふり。
長州藩の高杉晋作の元に身を寄せて、奇兵隊の創立に
影で関わる。
687:日本@名無史さん
08/11/18 17:37:59
メジャーな名前ばかりだな
688:日本@名無史さん
08/11/18 18:22:50
>>685
彼は白札出身だね
親分の武市が白札上がりの留守居組ってことは知られているけど、
白札で脱藩してまで勤皇運動を続けたのは望月ぐらい
白札は他の下士よりも山内家への忠誠心が強かったらしい
689:日本@名無史さん
08/11/18 20:55:07
土佐の話が出てるから便乗して・・・
伯爵になりながらも没後マイナーな一人は土方久元
主義者で爵位を剥奪された孫の方がメジャーw
690:日本@名無史さん
08/11/18 21:00:10
マイナーといえば
椋梨藤太
大楽源太郎
秋良順之助
月形潜蔵
691:日本@名無史さん
08/11/19 00:18:45
>>690
月形と大楽はマイナーとは言えないような・・・
メジャーではないからマイナーかな?
荒神山の決闘で吉良の仁吉をたおした角井間之助(穴太徳の用心棒)。
692:日本@名無史さん
08/11/19 00:20:13
ジョゼフ彦はジョン万次郎と比べると知名度が低いような気がする
693:日本@名無史さん
08/11/19 01:15:17
ウラジミル・ヨシフォヴィチ・ヤマトフもマイナーだぜ
694:日本@名無史さん
08/11/19 01:50:29
辻将曹
島村志津摩
小宮民部
二木求馬
長岡監物
立花壱岐
加藤司書
高場乱
小河真文
水野正名
有馬監物
今井栄
村上守太郎
古松簡二
矢野定雄
695:日本@名無史さん
08/11/19 19:08:57
小幡篤次郎
696:日本@名無史さん
08/11/19 19:35:26
三家老にくらべると四参謀はマイナーだよな
宍戸左馬之介、佐久間佐兵衞、竹内正兵衞、中村九郎
697:日本@名無史さん
08/11/20 12:43:58
上岡胆治。高岡郡の地下浪人出身で土佐勤皇党員。
脱藩して国事に奔走。禁門の変で討死。
698:日本@名無史さん
08/11/30 08:24:06
( ´・ω・`)ノ
699:日本@名無史さん
08/11/30 12:46:45
超マイナーな豊前彦山勤王党の俗名
藤山衞門
佐竹織江
水谷左門
南条丹三
安達昇
阿部豪逸
政所有緜
鷹羽浄典
渋川栄承
宇都宮有允
宇都宮尭岷
佐久間勝信
生島大炊
城島公茂
橋本有幸
高根正也
別所彦助
渡辺三郎
渡辺弥助
700:日本@名無史さん
08/11/30 14:16:45
>>48
あ、この人うちの先祖の肖像画の画賛を書いた人だ。
近衛家に招かれて伊丹郷町の塾の塾頭になったけど、とんでもない大酒飲みで、
すっからかんになったあと大坂に出たらしい。
701:日本@名無史さん
08/12/05 15:12:43
江戸の総攻撃の準備
東征大総督・有栖川宮熾仁親王
参謀・正親町公薫
参謀・西小辻公業参謀・広沢兵助(真臣)広沢は後々辞した。
広沢に変わり
参謀・西郷隆盛
参謀・林玖十郎
薩摩藩
長州藩
肥前藩
彦根藩
土佐藩
筑前藩
安芸藩
岡山藩
宇和島藩
東征大総督・有栖川宮熾仁親王
参謀・正親町公薫
参謀・西小辻公業参謀・広沢兵助(真臣)広沢は後々辞した。
広沢に変わり
参謀・西郷隆盛
参謀・林玖十郎
文献みてたら載っていた。
西郷隆盛以外みな無名Wikipediaにも載らないくらい無名
702:日本@名無史さん
08/12/05 16:37:14
>>701
幕末朝廷の人達かな?
正親町公薫
西小辻公業
広沢兵助(真臣)
林玖十郎
文献上みることができるけど知名度低いのか?
ネット上もWikipediaにも載ってないww。
703:日本@名無史さん
08/12/05 16:55:33
村田新八
吉井友実
香月経五郎
鮫島誠蔵
黒田清隆
横井大平
横井左平太
日下部太郎
大村益次郎
704:日本@名無史さん
08/12/05 19:32:28
>>701 >>702
全員超有名だ
705:日本@名無史さん
08/12/05 19:33:13
>>703もメジャー
706:日本@名無史さん
08/12/06 01:43:04
広沢は官軍の無慈悲な戦い方に嫌気が差して辞任した。
707:日本@名無史さん
08/12/26 21:27:51
>>614
石川県の人間ですが、
さすがにタスマニアの銭屋領有説については信じられないです。
あくまでも「実際にあった」という肩書きを前につけただけの伝説で証拠がないです。
そもそもどう考えても変でしょう。
石川県とオーストラリアのタスマニア島の間に星の数ほど島があるのに
わざわざタスマニアを領有するってのは。
もっと適度なインドネシアの島などいくらでも領有できる島はありますのに。
やはり、当時の海外進出盛んだった頃の日本の怪しい話しでしょうね。
708:日本@名無史さん
09/01/29 00:22:36
URLリンク(www.orz2ch.net)
709:日本@名無史さん
09/02/18 10:01:28
奥村 五百子(おくむら いおこ)
弘化2年5月3日~明治40年2月7日1845~1907)
佐賀(唐津藩)生まれ。社会運動家。生家は真宗の寺院・高徳寺。
幼時から父兄の影響を受け、尊王攘夷運動に加わる。
佐幕派優勢の唐津藩の中で、父了寛が京都公家の出身であったことから、
高徳寺はこの地方の尊王派、討幕派の拠点となっていた。
長州藩の家老職である宍戸家は奥村家とは親戚にあたり、討幕運動の連携を
取り合っていたが、文久3年(1863年)に起こった下関戦争のため、
長州藩は一時、周囲から男子の入国を禁じた。
そこで奥村了寛は五百子を密使として派遣することにした。
騒乱の世に18歳の娘の一人旅では、道中が余りにも危険なので、
了寛は五百子を若武者姿に変装させ、途中までは警護をつけて送り出した。
門司の浜で五百子は従者を帰し、ひとり小舟を雇って今の下関市赤間が関浜に上陸。
ほどなく長州藩の武士たちに捕らえられるが、よく見ると女性なので武士たちは
皆驚き、対応に戸惑う。
五百子は落ち着いた態度で潜入の目的を述べ、家老への面会を求め、それを実現した。
使命を果した五百子の武勇伝は、尊王派の志士たちのあいだで有名になり、
唐津の高徳寺を訪れる志士たちも増え、寺はますます尊王運動の拠点となっていく。
慶応元年(1865年)、三条実美(さんじょうさねとみ)ら主だった公卿たちが
大宰府に逃れてきた時、奥村了寛は五百子を大宰府に派遣して、公卿たちに様々な便宜を
図っている。
明治33年(1900)北清事変がおこると皇軍慰問使に加わり、北京、天津を歴訪。
34年(1901)将兵慰問、遺家族援護を目的とする軍事援護団体・愛国婦人会を結成。
全国を遊説し、会員の拡大に努めた。
710:日本@名無史さん
09/02/22 18:33:07
河田 八之助は昌平坂学問所時代の1854年にペリーの黒船来航時に
幕府に贈られた機関車の実演時に跨って乗ったそうです。
711:日本@名無史さん
09/02/23 00:59:00
壬生宗十郎
712:【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6
09/02/23 02:48:31
しかし、広沢真臣は穏健過ぎた。
江戸放棄論、会津寛典処分論、これじゃ何も変わらんし、
新政府内で浮く罠。会津にとっては前原と共にいい人だろうが。
母方から会津藩士の血をひく俺が言うのも何だけどさ。
西郷が言ったといわれているように、あの戦自体足らなかったのだから。
その西郷自身が勝と示し合わせて、旧幕府を寛大処分をし、
子分の海江田なんつったらほとんど旧幕とお友達状態に。
そこに乗り込んで来たのが大村なわけだが。
ただ、あれは全て慶喜が悪い。
やるなら最初から完全武装させて都攻略令を出してやらにゃ、鳥羽・伏見。
何が討薩之表だよw
しかも、徹底抗戦を叫んだその日の夜に軍艦でとんずら。
戊辰の役はどっちが勝っても良かったからリアル素寒貧になるまでトコトンやるべきだった。
どっちが日本のシャーマンに焼け野原にされたって構わなかった。
半端は禁物。
713:【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6
09/02/23 03:13:30
今こそ日本が真っ二つに別れたシビルウォーが必要な時だけどな
地域間のウォーじゃなくてね
714:日本@名無史さん
09/03/04 17:26:10
ゼブラちゃんちゃこりんマン
715:日本@名無史さん
09/03/23 12:42:05
才谷梅太郎
石川誠之助
716:日本@名無史さん
09/03/24 16:10:36
真田喜平太
あの真田幸村の子孫なのに…
717:日本@名無史さん
09/04/01 09:03:36
伊庭八郎ってマイナーではないが、土方とは江戸からの付き合いだと本で読んだが本当にそうなのか?
箱舘戦争で再会する、という話の続きだが
718:日本@名無史さん
09/04/01 16:08:38
浪士組に応募する前の試衛館時代に、知り合いだったみたいよ。
遊び友達だったような・・・
719:日本@名無史さん
09/04/01 17:01:27
嘘くせー
720:日本@名無史さん
09/04/02 06:48:17
道場の掛け持ちしている剣士とかもいただろうし、
結構道場間の交流もあったでしょ。
市ヶ谷の試衛館は、九段の練兵館と交流があったし。
伊庭道場は直参旗本の坊ちゃんが多かったみたいだが、
講武所の教授方を目指していた近藤が、伊庭道場の関係者と
顔見知りだった可能性は高いと思う。
土方もそんな近藤のそばに居れば、伊庭八郎と知り合いになっていても
不思議じゃないよね。お互い女遊びがお盛んだったようだし。
721:日本@名無史さん
09/04/03 18:36:11
赤松小三郎 信州上田藩士 兵学・洋学者
佐久間象山・勝海舟・オランダ人教師から、蘭学・兵学・数学などを学ぶ。
薩摩藩から兵学者として招かれる。
村田新八・東郷平八郎・中村半次郎ら薩摩藩士に兵学を教授する。
開国洋学者として、松平春嶽に西洋の議会制国家論を提唱する。
坂本龍馬は春嶽からこの案を聞き、船中八策として練り上げる。
公武合体、反倒幕論者だった為、薩摩から幕府のスパイだと誤解され、
67年京で中村半次郎らに暗殺される。
後年、東郷平八郎が上田に赤松の碑を建てる。
722:【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6
09/04/05 04:30:17
武市瑞山、中岡慎太郎、板垣退助も今や知名度が低い。
龍馬人気の影に隠れてね(中岡は龍馬のおまけ程度の扱い)。
板垣が戊辰戦争で軍人だったことを知っている人は非常に少なく、
はたまた武士出身だと知らない人までいる始末。
せいぜい百円札のおっつぁんって程度。
あと、武市は映画「人斬り」の電波で以蔵を苦しめる悪の権化、
板垣は漫画「お~い竜馬」で龍馬や以蔵を苦しめる悪の権化として、
それぞれ誤解されて一部の人たちに知られているけど。
723:【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6
09/04/05 04:34:30
勝新はあの世で武市にどつきまされてるだろう。
板垣は武田鉄矢が来るのを待ちかねてるぜw
724:a
09/04/05 04:37:31
幕末では、伊藤博文も奇兵隊に居たのに余り出てこないよね。高杉晋作とか桂小五郎ばっか。なんか、元、力士でしょ?
725:日本@名無史さん
09/04/05 22:51:58
>龍馬人気の影に隠れてね
龍馬人気で割り食ったのは何といっても見廻組の皆さんだな。
当初から新撰組が殺ったとデマが飛び
いまだに薩摩やら土佐やらが黒幕だったことにされてしまう始末。
生き残りの渡辺篤が手記で
新撰組犯人説のデマが飛んだことに触れていて
ホントに悔しそうな書きぶりだったんでワロタ。
726:日本@名無史さん
09/04/06 03:14:46
外山脩造(とやま しゅうぞう、1842年11月10日 - 1916年1月13日)
外山脩造は、新潟県長岡市(旧栃尾市)出身の明治期の実業家、政治家。
村役人外山伝の子として生まれた脩造は、17歳で江戸へ行き、清川八郎、塩谷宕陰のもとで学業を修め、昌平坂学問所に入った。
維新の動乱期、河井継之助のもと、長岡で戦い、河井の遺訓により商人として生きることを決意する。
明治2年に慶應義塾、明治4年に開成学校に入った脩造は、5年に秋田県に出仕し、翌年、大蔵省銀行課に入り、国立銀行創設に力を出した。
明治11年渋沢栄一の斡旋で大阪第三十二国立銀行総監役として、業務の内容に取り組み、明治15年から3年間、日本銀行大阪支店長に就任して大阪銀行界の指導者になった。
明治20年から21年にかけて欧米の経済機関視察に加わった脩造は、信用調査機関の必要性を再認識し、明治24年、大阪に商業興信所を設立して自ら総長となった。
またその前に大阪貯蓄銀行副頭取、明治25年に衆議院議員、明治31年、浪速銀行頭取、大阪舎密工業社長、明治32年に阪神電鉄社長に就任したのをはじめ数多くの関西の会社設立に尽力し、
大阪銀行集会所委員長として関西財界の指導者として活躍した。
727:日本@名無史さん
09/04/07 23:24:49
>>717 >>718 >>720
とりあえず、土方と伊庭の江戸での交友はまず創作といえよう。
明治か大正の作家(名は今失念)がまずそういう逸話を作って、
以来それからネタ盗りした作家が多い。
ただ、無かったとかいえないだろ?と言われたらそれまでだが、
れっきとした幕臣・奥詰めで将軍上洛の警護もしたような、
高名な伊庭道場の後継者と土方が交友していたとは、
正直あまり考えられない。
伊庭には新吉原に馴染みの花魁、稲本楼の小稲がいたが
(その小稲の上客にはあの河井継之介もいる)
その店は土方の財布で遊べるような格の店ではない。
伊庭の友人はほとんどが、幕臣、御家人。
親類も幕臣や講武所務めが多い。
通称「征西日記」から、京都での交友をみても知己はみな幕臣だ。
幕末の人気者同士が江戸でも遊び仲間だったという逸話は
面白く創作のネタになるだろうけど、それまでのコト。
立証できるような証言もなし。
同人誌のネタとして格好のネタだけどな。
728:日本@名無史さん
09/04/08 00:35:21
ワシントンの桜の木と同じようなもんか
729:日本@名無史さん
09/04/08 01:16:44
>>727
なるほどね。
確かに行商時代の土方がどうやって武家の伊庭と知り合ったのかも不思議に思ってた。
おっしゃる通り伊庭も武家の子供だから、交友関係もそれなりの人になるな。
土方が没した二日後に伊庭も没したということも相俟ってそういうネタが浮き上がったんだろな。
本当の史実とネタとを区別するのが難しいね。本当に友達だったなら面白いけれど
730:日本@名無史さん
09/04/09 23:35:55
伊庭で思い出したが、
幕末には長州の遊撃隊と伊庭の遊撃隊があってややこしいな。
自分の記憶違いかな?
731:日本@名無史さん
09/04/10 01:51:19
>>729
727です。
自分は東京日野市近隣の市の生まれで、土方は好きな人物。
なので、別に土方の身分をどーのこーの言うわけではなく、
ネタとしては面白いけど、実際の二人の境遇や生育歴から考えると
「仲良し」っていうのは考えづらい・・・と。
伊庭は部屋住みから召し出されて御番衆になり、すぐに奥詰に。
後に沼津兵学校の教員になる中根香亭とも幼少時代から親しかったし、
弟たちの養子先はみな旗本御家人の家。
また山岡鉄舟の娘の回顧談にも登場するような青年なので
土方との接点はあまり考えられない・・・というのが自論です。
吉原という遊興地から考えても、遊ぶ店の格は違うのではないかと。
でも伊庭八郎のマニアwな人のなかには、
土方と伊庭の遊び友達説を嬉しく信じている人も、結構多いよ。
絵的には美味しい話ですよね。
732:日本@名無史さん
09/05/03 18:35:42
なるほどな。
よく土方が奉公時代に出会うみたいな話を聞くが、話として作りやすいわな。
733:日本@名無史さん
09/05/03 22:45:04
坂本龍馬が小千葉時代に新撰組の面々と知り合いだったと言うのと変わらない気もするけどな
734:日本@名無史さん
09/06/02 17:32:51
山田方谷はもっと評価されるべき
735:日本@名無史さん
09/06/02 17:48:41
方谷は超評価されてるじゃん
方谷駅まで出来ちゃって
マイナーなだけですよ
736:日本@名無史さん
09/06/28 01:16:38
リアル幕末では結構メジャー、現代ではマイナー、
(しかしそういうやつらも掘りつくされてるかも)
とりあえず途中まで見た中で出てこなかった人
小野友五郎
平山敬忠
山口直毅
川勝広運
向山黄村
幕臣ばかりじゃ・・・・
737:日本@名無史さん
09/07/27 12:02:18
児玉次郎彦(1842~1864)
徳山藩士。藩校の一刀流剣術指南・浅見栄三郎の次男として生まれる。
後、児玉半九郎の娘・久子と結婚。児玉氏を継ぐ。
徳山藩出身の国学者・飯田忠彦が幕府に罪を問われ、
『大日本野史』『門跡伝』などの著書が伏見奉行・林忠交に取り上げられた際、
有栖川宮熾仁親王の命を奉じて林邸に往来、これを取り返した。
周旋方として国事に奔走。若干22歳で藩の大目付、京都留守居役に任ぜらる。
また、藩校・興譲館の助訓役、学寮長ともなった。
1864年8月9日、同志・河田佳蔵らが藩内の保守派・富山源次郎の暗殺に失敗。
次郎彦もその一味と目され、8月12日早朝、保守派に暗殺された。享年23歳。
明治31年7月4日、従四位を贈られる。
現在、児玉家屋敷跡の一角に「贈従四位児玉次郎彦君遭難之跡」の碑が建っている。
義弟・源太郎は有名なのに……orz
738:日本@名無史さん
09/08/11 01:26:38
>>731
伊庭の辞世の句もあって余計拍車をかけてるんだろうな
戦死した親友に向けて詠んだ和歌だもんな
739:日本@名無史さん
09/08/11 03:13:44
昔は超有名だったのに今やマイナー
月形潜蔵
740:日本@名無史さん
09/08/11 03:22:13
今年いちばん笑った動画です!おひまならどうぞ!
URLリンク(www.youtube.com)
741:日本@名無史さん
09/08/11 13:06:34
こんどう いさむ
どかた さいぞう
742:日本@名無史さん
09/08/12 07:38:07
月形潜蔵って名前はかっこいいんだけどな。
轟武兵衛もかっこいい割にマイナー、かつ九州志士という共通点が
743:日本@名無史さん
09/09/06 16:14:48
矢田堀鴻
744:日本@名無史さん
09/09/20 01:03:30
age
745:日本@名無史さん
09/09/20 01:15:05
当時有名・今無名と言えば堀織部正じゃないか
746:日本@名無史さん
09/10/26 21:22:59
「そのような暴論は戦を起こす、国賊なり」と言われて腹を切る。ミドルの悲劇が織部の最後
747:日本@名無史さん
09/10/26 21:36:53
赤根たけと
748:日本@名無史さん
09/10/26 22:31:03
犬飼兵庫
749:日本@名無史さん
09/11/03 23:51:21
陸奥出海
750:日本@名無史さん
09/11/04 11:36:48
浦靭負
751:日本@名無史さん
09/11/17 19:20:40
ここだけの話、私は千葉周作の血をひいてます
752:日本@名無史さん
09/11/21 03:05:23
矢田堀の小説読んだ。勝・榎本は微妙な立場だった。木村はいい仲間扱い。
小野の小説も読んだ。中浜・小栗と深い関係だった。
だが、あくまで小説。研究本などは出てなさそう。
堀は「外国奉行なんたら」という本で、岩瀬、水野、永井、井上とともに詳しく書かれていた。
まだ川勝、平山、杉浦、向山あたりの詳しい本にはお目にかかっていない。
村瀬などはある意味有名かも。
753:日本@名無史さん
09/11/21 03:13:07
堀は腹切る、岩瀬は憤死、井上病死、川路は自殺、水野も死、小栗は惨殺、
残った勝先生がひとり奮闘しましたとさ。
754:日本@名無史さん
09/11/26 02:48:29
>>752
誤)村瀬→正)村垣
755:じkljk
10/01/27 21:59:39
けんしんの本名てなんでしたっけ
756:日本@名無史さん
10/01/27 22:14:17
長谷川平蔵じゃなかった?
757:日本@名無史さん
10/01/29 13:28:02
>>755
土方歳三
758:日本@名無史さん
10/02/23 17:59:15
会津は駄目なのばっかし有名(T-T)
759:新谷道太郎
10/03/05 04:17:18
弘化3年(安芸国御手洗島)生まれ、山岡鉄舟に剣を学び無刀流八段免許皆伝、慶應3年11月3日故郷御手洗島において薩,長、芸、土、の四藩連合の軍事同盟成立に立会う。
伏見鳥羽の戦には錦旗護衛長をつとめる。明治元年、西郷隆盛と共に16名小御所において正五位綬三等に叙される。晩年は島根県温泉津の長命館 伊藤様のお世話になり96歳で浄土へ、
温泉津温泉のはずれに胸像が建っている。
760:新谷道太郎
10/03/09 03:43:26
安芸の国豊田郡御手洗島大長出身
弘化3年2月13日生まれ、山岡鉄舟門下、無刀流八段免許皆伝、
慶應3年11月7日御手洗島にて、長州、薩摩、土佐、芸州 四藩連合の
軍事同盟を故郷の我家本徳寺で結ぶ、坂本龍馬、大村益次郎、たち14人が
集まった。
鳥羽伏見の戦いには錦の御旗の守備隊長として参加、明治元年正五位綬三等に叙せられる。
晩年は島根県温泉津にてすごし、温泉街のはずれに胸像がある。
761:日本@名無史さん
10/03/09 04:09:45
歴史に詳しいであろう日本史板住人は、
『龍馬伝』で剣術指導してる,杉並の「玄武館」をどう思ってるの?
偽物疑惑で、かなりスレが荒れてるんだけど。
スレリンク(budou板)l50
URLリンク(www.unkar.org)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
762:日本@名無史さん
10/03/09 07:33:46
>>761
マルチうぜーな
763:日本@名無史さん
10/03/27 19:21:05
>>758駄目な方を現代で美化してるからね。
764:日本@名無史さん
10/04/24 10:32:22
玉松操はメジャー?
765:日本@名無史さん
10/04/24 12:52:42
幕末の人物としてはマイナー、明治の人物としてはメジャーってとこではないかしらね?
766:日本@名無史さん
10/07/01 05:59:08
土佐の由比猪内について知ってる人いる?
東洋門下で幕末は京都詰大監察だったと思う。
生年没年や経歴が分からん><