幕末マイナー人物at HISTORY
幕末マイナー人物 - 暇つぶし2ch200:日本@名無史さん
04/04/10 15:47
水野忠徳
外国奉行・長崎奉行・軍艦奉行を歴任。日本初の欧米諸国との条約締結
するなど幕末3傑ともいわれる逸材。小笠原探検の功績にアメリカへの
特使として派遣されるなどその経過は卓越したもの。

201:日本@名無史さん
04/04/10 18:17
塩谷 宕陰(1809~1867)

儒学者。若い時には水野忠邦に仕え天保の改革にも参加。
阿片戦争が起ると情報を集め「阿芙蓉彙聞」を著し
世に海防論を盛んとさせた。


202:日本@名無史さん
04/04/10 20:20
楢山 佐渡(1830~1869)

盛岡藩の重鎮。藩主、南部利剛に組し、新政府寄りの南部利義の一派を
退け、盛岡藩を奥州列藩同盟加盟への道を歩ませる。
戊辰戦争中は新政府側の秋田藩と戦い、自身も鹿角口攻撃の総大将を務め
大館を攻略し意気を上げるも、その後は新政府軍に敗北を重ね、9月に開城、
降伏する。

明治2年6月、藩を朝敵の窮地に追い込んだ責任をとって自刃する。

203:日本@名無史さん
04/04/19 15:24
良スレ揚げ

204:日本@名無史さん
04/04/20 07:44
>>200
水野忠徳をマイナー人物呼ばわりはちょっとかわいそうな気がする。

205:日本@名無史さん
04/04/20 19:05
修理済み神保修理

206:日本@名無史さん
04/04/21 06:49
楢山佐渡だってマイナーじゃないと思ふが

207:日本@名無史さん
04/04/28 22:31
>>111間崎イイね。マイナー具合も丁度よさそう。
若いのに安積艮斎塾の塾頭になって、同塾の清河八郎と交流したり
吉村虎太郎・中岡慎太郎の師(といっても3・4歳年上なだけ)だったり
竜馬と春嶽公の元に訪れたり(一説によると竜馬を春嶽に引き合わせたのは彼)

、、でも早く死にすぎた。

208:111
04/04/30 06:54
まあ、間崎の場合ある意味、土佐の吉田松陰と言えなくもない。

209:日本@名無史さん
04/05/01 23:17
佐藤八郎だろやっぱ

210:日本@名無史さん
04/05/02 18:35
大津 彦之允(1835-1864)

水戸藩士。
元治の役に執政・榊原新左衛門の陣にあって神勢館砲撃に参加。
9月に、北方に援軍を求めるため郷士勢を率いて那珂湊を出立。
山野辺義芸と合流し介川に至るも諸生軍に攻められ、
長倉へ向かう途中の9月9日、久慈郡島村の戦いで戦死。

211:日本@名無史さん
04/05/02 18:49
阿久津 小太郎(1843-1864)

水戸藩士。
文久3年、幕府新徴組に加えられたが、元治元年の水戸の内乱に巻き込まれ
那珂湊で捕らえられ処刑。

212:日本@名無史さん
04/05/02 19:06
浅田 忠之進(1841-1866)

床机廻世話役を勤め、松平昭訓の神位を奉じて水戸に至るも
市川三左衛門らの阻止にあい、那珂湊に拠って城兵との戦いに参加。
元治元年10月23日、総督・榊原新左衛門らと自首して古河藩に禁固され、
慶応2年3月に囚中に病死。

213:日本@名無史さん
04/05/02 19:42
榊原 新左衛門(1834-1865)

水戸藩士。
元治元年6月、同藩で絶大な力を誇る、市川三左衛門の執政就任に反対し
江戸藩邸に向かいその解任に成功する。

8月、藩主目代として下向する松平頼徳を護衛して水戸城に至るも、ぶち切れた
市川三左衛門に入場を阻止されたため、那珂湊に陣して城兵と交戦する。
松平頼徳は新左衛門を軍事総督に任ずる一方、幕府の介入もあり、陳情のため
後命を待つよう指示して江戸に立つも、休戦は破られ、再び戦闘を再開した。

城中の戸田銀次郎の勧めもあり、10月21日に会合を開き、1000人あまりを
率いて幕軍に降伏した。その後、古河藩に禁固されたが翌、慶応元年に自刃に処された。年32。

214:日本@名無史さん
04/05/02 20:16
鮎沢 伊太夫(1824-1868)

水戸藩士。
弘化元年に藩主、徳川斉昭が幕府により処罰されると、雪冤運動に奔走し
禄高を召し上げられ処罰された。

安政5年、江戸で薩摩の有馬新七らと会見し国事に関して意見を交換するも薩水
両藩提携の挙兵にはなお自重するところがあった。(有馬らはその過激さゆえに、その後あぼーん)

安政6年、安政の大獄に連座して終身禁固に処されるが許され、元治元年に松平頼徳を護衛して水戸に
下るも市川三左衛門に入場を阻まれ、那珂湊で榊原新左衛門らとともに市川三左衛門と戦う。
榊原新左衛門が自首すると、武田耕雲斎に属して西上し、大徳寺に潜伏した。

明治元年正月、藩政回復の勅書を奉じる。3月帰藩。7月に脱走する市川三左衛門を北越に追討し
10月1日、水戸城侵攻の市川勢と弘道館に戦って勝利するも、この戦いにて戦死する。年54。


215:日本@名無史さん
04/05/02 20:40
市川 三左衛門(1816-1869)

水戸藩家老。
安政の大獄および、勅書返納問題をめぐって水戸藩内に内訌が起きた際は改革派の
鎮圧に努め、家老に昇進する。
その後は佐幕派諸生党の首領として武田耕雲斎らの天狗党と対抗した。

元治元年3月、天狗党の田丸稲之衛門、藤田小四郎らが筑波山に挙兵すると諸生党を率いて
江戸に入り武田耕雲斎らを退けて執政となり、幕軍の援助をうけて天狗党を弾圧し、水戸城を占拠しては
ついに藩政の実権を握った。

しかし、明治元年には弘道館の戦いに敗れてからは数百名ほどの一隊と共に
水戸を脱して会津に落ち延びる。
その後、再度水戸侵攻を図るも水戸城を守る家老、山野辺らの軍との戦いにも敗北し、
下総八日市場で一隊は壊滅。
市川 三左衛門は翌年の明治2年4月に東京で逮捕され水戸で生晒の挙句、
水戸城外の長岡原で逆磔の極刑に処された。年54.

216:日本@名無史さん
04/05/03 09:38
えー。他の5人はともかく
市川三左はマイナーじゃないだろ…

217:209
04/05/03 09:56
おまえらひょっとして佐藤八郎知らないの

218:日本@名無史さん
04/05/03 12:41
>>217どんな人?ジジイ?

219:日本@名無史さん
04/05/03 16:12
>>217
…ごめん。知らん。
勉強不足で…。どんな人さ。

220:209
04/05/03 16:24
>>218>>219
じゃあ、教えてやる。
俺のじいさんのじいさんのじいさん(プゲラゲラーリ

221:日本@名無史さん
04/05/03 16:30
>>220幕末の時代なん?じいさんのじいさん

222:日本@名無史さん
04/05/03 16:36
>>209の名前は佐藤十四郎

223:日本@名無史さん
04/05/03 20:02
>>209トシちゃんか!

224:日本@名無史さん
04/05/10 16:12
高松 太郎(1842-1898)

土佐郷士。坂本竜馬の甥(千鶴の長男)。
剣術修行で九州を旅したり、土佐勤皇党に加盟したり。
叔父(竜馬)のコネで大原重徳とか三条実美とか姉小路公知とかの邸宅に出入りしたり。
三条、姉小路の勅使東下で護衛を勤めたり。
土佐藩吏、井上佐市朗殺害の容疑で追われたり。
箱館戦争に参加したり。
竜馬の跡をついで坂本 直と改名したりする。
コネの強さから宮内省に勤務。(・∀・)イイナアー




明治22年、キリスト教徒である事がばれて免職。(゚Д゚ )・・・


225:日本@名無史さん
04/05/11 02:03
土佐勤王党生き残り、田中顕助は?
爵位ももらってるけど、勤王党は壊滅したが故に生き残りの方がマイナーになってると思う。

226:日本@名無史さん
04/05/12 14:06
田中顕助はマイナーかねぇ?司馬遼太郎が短編で主役にして描いてたりするしなぁ。
長州にもかかわり深いから、美味しい人物ではあると思うが。

227:日本@名無史さん
04/05/13 17:28
Dear フランス大統領殿

「ヤバイ。切腹ヤバイ。まじでヤバイよ、マジヤバイ。
切腹ヤバイ。
まず痛い。もう痛いなんてもんじゃない。超痛い。痛いとかっても
「裂痔20個ぶんくらい?」
とか、もう、そういうレベルじゃない。
何しろ腹を切る。スゲェ!なんか単位とか無いの。出血何㍑とか内臓何㌔とかを超越してる。臓物出るし超痛い。
しかも作法があるらしい。ヤバイよ、作法だよ。
だって普通は自殺するのに作法とか関係ないじゃん。だって自分が自殺する時やたら落ち着いてたら困るじゃん。
腹切るのに顔歪めんなとか言われても困るっしょ。
外人暴れて、逮捕しようとしたら撃ってきたから反撃したのに、自分だけ死ななきゃなんないとか泣くっしょ。
だから大名とか宣戦布告しない。話のわかるヤツだ。
けど武士はヤバイ。そんなの気にしない。戦いまくり。現場の武士とかよくわかんないくらい強い。ヤバすぎ。
強いっていたけど、もしかしたら武器とか貧弱かもしんない。でも貧弱って事にすると
「じゃあ、それで立ち向かってきて潔く切腹ってナニよ?」
って事になるし、それは誰もわからない。ヤバイ。誰にもわからないなんて凄すぎる。
あと超怨念こもってる。約1カリブの亡霊。摂氏で言うと-272℃。ヤバイ。怨念こもりすぎ。自分の腸投げつけてきて死ぬ。怖い。
うちらなんて自殺とかたかだか首吊ったただけでしょうがないからに焼き討ちしたり、ギロチン置いてみたり、革命やったりするのに、
武士は全然平気。戦って責任負って死んでく。凄い。ヤバイ。
とにかく貴様ら、武士のヤバさをもっと知るべきだと思います。
そんなヤバイ日本に出て行った俺らとか超偉い。もっとがんばれ。超がんばれ。」

from フランス軍艦ジェプレー号船長

228:日本@名無史さん
04/05/19 00:18
age

229:日本@名無史さん
04/05/23 00:47
幕人は結構一般的にマイナーのたぐに入る・・・

230:日本@名無史さん
04/05/27 09:05
赤松大三郎則良

も活躍の割にマイナーな希ガス。まあ幕末には日本にいなかったわけだが

231:日本@名無史さん
04/05/27 17:57
酒井 孫四郎(1839-1869)

福井藩家老。
20歳で酒井家を継ぎ、25歳で家老職に就任した。
頭脳明晰らしい。
一橋慶喜と会し、松平慶永の意向を伝えたり、長州征伐に兵を率いて従軍した。
天狗党の武田耕雲斎に対しての処置を行ったのもこの人。
戊辰戦争では越後口各地に転戦しては功を挙げ、会津若松城を攻略して凱旋しては
天顔を拝するにいたった。

伊藤や大隈のように次代を待望されたスーパールーキーかも知れなかったが
明治2年3月、藩命による欧米視察のため横須賀より出港してさっそく観音崎沖で座礁して
あぼーん。(クス。
年30。


232:日本@名無史さん
04/05/27 18:21
>>230

幕臣から海軍中将に成った人だね。
伊藤は日清日露だけじゃなくて幕末でも血刀を振るってた人だからいいけど
この人はオランダ留学だとかで完全に明治限定の人って感じがする。

233:日本@名無史さん
04/05/27 18:26
>>232は北洋艦隊を壊滅した方の伊藤ね。

234:日本@名無史さん
04/05/31 20:58
新納 八郎二(1841-1868)

出身:日向国宮崎郡佐土原
立場:佐土原藩士

文久3年薩摩で郷田流兵法を、慶応元年に江戸でイギリス式練兵を習得する。

戊辰戦争では27歳にして藩の北陸道進撃軍長官を務め会津戦で活躍するも
敵兵追撃にあたり、会津藩兵の強烈な反撃に遭い、両翼を固めていた薩摩軍、長州軍
が急遽撤退を開始してしまったため、
正面の戦闘を担っていた佐土原軍は敵の重囲の中に陥る。

八郎二は先頭に立ち叱咤激励して戦闘を指揮し孤軍奮闘の挙句、敵を撤退せしめるも
佐土原軍の死傷甚大にして、八郎二自身も敵弾に斃れていた。

235:日本@名無史さん
04/05/31 21:06
高間 省三(1848-1868)

広島藩・神機隊砲兵隊長。
江戸、甲府、東奥州へ転戦。東奥浪江駅口の戦いで戦死。20歳。

236:日本@名無史さん
04/05/31 21:40
沢野井 徳右衛門

山城国宇治郡山科郷大宅村の郷士。郷士とはいえ天皇のお侍。親兵。
御守衛士隊(山科郷士隊)の総代として京の町をブイブイいわせ、禁門の変、鳥羽伏見の戦いでは
禁裏を守備し、戊辰戦争では東山道先鋒総督に任命された岩倉具定にしたがって東上して信州、甲州に転戦
し、上野国宇都宮城攻撃ではいい仕事をしたらしく、大功を挙げたことになっている。

明治天皇の東駕東幸の際も、天皇警護の任についた。

237:日本@名無史さん
04/05/31 22:22
淵上 郁太郎(1837-1867)

農民。
肥後の鳩野宗包に外科術を学び、医者にバージョンアップして天草に開業した。
江戸へ出て諸藩の志士と論じ、文久元年、久留米藩校の明善堂の教官を務めたりする。
安政2年、脱藩。長州で発見され久留米で禁固に処される。
安政3年、釈放。真木和泉の命を受け上京。
8月18日の政変で七卿に従って京を脱出。
再び上京。
元治元年・6月5日、池田屋からの脱出成功。
禁門の変で京都脱出成功。
筑防、対馬、大阪と渡り歩き、薩長和解、征長解兵の工作を試みるも幕吏に捕まり
投獄。
いきなり釈放。→突然の釈放に同志より幕偵の嫌疑を受ける。

ある日、伊藤甲子太郎らに呼び出されてアボーン。首は大宰府に送られた。30歳。

238:日本@名無史さん
04/06/03 19:35
三戸 式部

盛岡藩家老。
明治元年2月、楢山佐渡、目時隆之進らと共に藩兵200名を率いて維新変革の
下問のため藩主に代わって上洛する。
奥羽列藩同盟について楢山と目時が対立し激論となったが、三戸は可否を言明せず楢山に
一任した。そのため盛岡藩は列藩同盟加盟の道を歩み、敗北。
藩主、南部利剛の命をうけ十二所へ楢山と赴き、鎮撫総督・九条道孝に降伏の嘆願書を提出する。

239:日本@名無史さん
04/06/03 19:42
島 忠之(1824-1901)

盛岡藩士。
奥羽列藩同盟に反対し脱藩。京都、長州藩邸に匿われ、桂小五郎に藩主の朝廷への
異志無きを訴え続け、明治元年十月、盛岡藩の開城にあたって城中御用掛として
藩政収用にあたった。

240:日本@名無史さん
04/06/03 19:56
長宗我部 四郎(1843-1865)

出身:土佐国吾川郡長浜村
立場:土佐藩士

文久3年、藩命で上京して三条実美の衛士となる。
同年、8月に天誅組の挙兵に参加して上田宗児とともに五条代官・鈴木源内を斬るも
戦いに敗れ、同志とともに中山忠光を推して三田尻へ逃れ、忠勇隊に属する。

元治元年、禁門の変で忠勇隊で戦う。その後は井原応輔らと諸藩への遊説を計画し、
上京の途中美作国土居の関所で賊徒として追求を受け、井原と刺し違えて死す。23歳。

241:日本@名無史さん
04/06/14 17:36
幕臣とかもっといないわけ?

242:日本@名無史さん
04/06/15 10:04
矢田堀鴻
 通称は景蔵。幕府海軍総裁。しかし副総裁の榎本釜二郎と陸軍総裁勝麟太郎の間に挟まれ
 ちっとも目立たない。
木村喜毅
 摂津守。幕府軍艦奉行。咸臨丸に乗船し、幕府使節の護衛をする。日本の水師提督だが
 一艦長である勝にすべてが仕切られたため非常に影が薄い。号は海舟をもじって芥舟。
新見正興
 豊前守。米国との条約批准文書交換のため、幕府正使としてポーハタン号に乗船し渡米。
 しかし、なぜか目付の小栗豊後守(のち上野介)の方が目立ってしまい、影が薄い。
村垣範正
 淡路守。同副使。もっと目立たない。
堀利煕
 織部正。箱館奉行。蝦夷地探検や蒸気船造成など結構派手な働きをしているが目立たない。
 蝦夷地探検の際の従者だった榎本釜次郎の方が目立つ。
林復斎
 大学頭。幕府の代表としてペリー艦隊と交渉を行い、日米和親条約を結ぶ。西洋の事情にも
 通じ、へりくだることなく堂々と対米交渉を行った傑物だが、儒学者という本職から、古くさい学者
 というイメージが強く、活躍の割に目立たない。

243:日本@名無史さん
04/06/25 23:57
反応なし…(´・ω・`)

244:日本@名無史さん
04/07/14 09:15
メ几
木又

245:日本@名無史さん
04/07/17 10:02
それがし儀、保守致し度存じ奉り候ニ付キ、age奉り候。恐惶謹言

246:日本@名無史さん
04/07/21 00:22
>>224 ワロタ

247:日本@名無史さん
04/08/18 10:24
仙台藩の尊攘派、桜田良佐親子についてご存知の方がいらしたら
教えてください。

248:日本@名無史さん
04/08/22 23:33
探してみよう。

249:日本@名無史さん
04/08/25 02:10
時山直八。

250:日本@名無史さん
04/09/13 13:06:59
>>242
やたぼりと木村はそれなりに有名だと思うが

251:日本@名無史さん
04/09/13 20:20:18
>>247
酒井良佐じゃないの?_?

252:日本@名無史さん
04/09/29 01:52:54
長州のヒーローといえば、乃美織江と山田宇右衛門だよな

253:日本@名無史さん
04/10/05 01:38:50
そして、薩摩のヒーローは桂久武と松木弘庵

254:日本@名無史さん
04/10/06 00:47:02
土佐のヒーローつったら間崎蒼浪と佐々木三四郎

255:日本@名無史さん
04/10/15 00:57:16
上杉宗二郎

256:日本@名無史さん
04/10/22 07:50:58
河野敏鎌ってマイナー?

257:日本@名無史さん
04/10/22 08:32:56
明治に入ってからはメジャーだが…

258:日本@名無史さん
04/11/04 06:33:11
上田馬之助

259:日本@名無史さん
04/11/09 14:00:32
阿比留鋭三郎
新選組にいたらしい

260:日本@名無史さん
04/11/09 20:03:57
三吉慎蔵
長府藩士。龍馬のボデーガード。

261:日本@名無史さん
04/11/10 08:16:01
>>259-260
その辺はそれほどマイナーではないと思うな。

262:日本@名無史さん
04/11/20 01:30:29
紀州人が勝手に維新の四傑に入れる津田出もマイナーだな

263:日本@名無史さん
04/11/24 09:27:06
佐々木只三郎はメジャー?マイナー?どっちですか?
大河ドラマではかなりの存在感だったと思います。
最期が報われないあの忠臣ぶりは泣けました・・・

264:日本@名無史さん
04/11/24 09:59:11
>>263
クマー!

265:日本@名無史さん
04/11/25 07:56:43
超がつくほどのメジャーだろ…

266:日本@名無史さん
04/11/26 19:53:53
加納宗七
とりあえず幕末の人

267:国
04/12/02 15:08:12
松森胤保(1825-1892)

出身:出羽国鶴岡
立場:洋学者(出羽松山藩士)

若年から文武両面に頭角を現し、
文久三年には松山藩家老となり、
慶応三年には兵を率いて江戸の
三田薩摩屋敷襲撃に参加、戊辰戦争では
軍務総督として官軍を破る。
(松森という名字は、この時出羽松山城を
守り抜いたことを記念に賜ったもので、
実家の名字ではない)
維新後は区長・中学校長・県会議員などを
歴任。著述は八十七部三百二十八冊に達し、
その一部は酒田市光丘文庫に残されている。

268:日本@名無史さん
04/12/02 15:59:16
尊攘派浪士に暗殺された画家の冷泉為恭はマイナー?

269:日本@名無史さん
04/12/02 16:03:04
誰それ

270:日本@名無史さん
04/12/02 16:19:52
おかっ引の文吉

271:日本@名無史さん
04/12/02 16:32:04
長州の狂人・大楽源太郎に殺された絵師だろー冷泉ためちか

272:日本@名無史さん
04/12/03 02:06:06
>>270
目明かしの猿の文吉のことか?

273:日本@名無史さん
04/12/22 15:47:07
こっこて、武士の名前しか書き込んじゃいかんの
絵師の月岡芳年はマイナーなほう?
俳人の井上井月も幕末の人だったような・・・・

274:日本@名無史さん
04/12/23 10:11:33
しかし、それを言い始めるときりがないからなぁ。
戯作者とか力士とか歌舞伎役者だっているにはいたろうし

275:日本@名無史さん
04/12/24 23:27:12
三島億次郎

276:日本@名無史さん
05/01/12 11:25:28
ネタ切れか?

277:日本@名無史さん
05/01/12 17:22:54
ちと聞きたいが桑名藩はメジャーだよな?

278:日本@名無史さん
05/01/13 03:14:46
田辺太一は誰も知らんだろうな

279:日本@名無史さん
05/01/13 03:41:11
桑名って伊勢平氏桑名家があったところの桑名?



280:日本@名無史さん
05/01/13 04:51:30
>>279
その手は桑名の焼きハマグリ の桑名

281:日本@名無史さん
05/01/13 14:54:18
平吉(1833年~1869年)

出身: 土佐国
立場: 農民

小作農の長男として生まれる。19歳のとき夜這いをかけた
イネと結婚3男1娘をもうける。「俺は竜馬さんと相撲をして勝った
ことがある」が口癖。

282:日本@名無史さん
05/01/14 02:17:25
長州の広沢さんは既出?


283:日本@名無史さん
05/01/14 02:21:54
幕臣 矢田堀 鴻

284:日本@名無史さん
05/01/14 02:26:15
山形有朋ってマイナーかな?


285:日本@名無史さん
05/01/14 03:06:08
長州の広沢や山県は誰でも知ってるだろ。

286:日本@名無史さん
05/01/14 08:18:58
広沢兵介や矢田堀景蔵も十分メジャーだ。

287:日本@名無史さん
05/01/14 16:29:17
>>274  狂気の絵師と乞食の俳人ってなんかインパクト
       あると思って書き込んだつもりなんだが

288:日本@名無史さん
05/01/14 21:12:13
長岡護美ってマイナー?

289:日本@名無史さん
05/01/15 02:58:45
誰?

290:日本@名無史さん
05/01/15 03:03:01
緋村剣心こと心太は?

291:日本@名無史さん
05/01/15 10:10:44
女はどうよ。
寺田屋のお登勢
大浦屋のお慶
野村望東尼あたりは有名だが。松尾多勢子とか村岡局とか…

292:日本@名無史さん
05/01/15 14:31:10
>>290
緋村剣心は実在したの?

293:日本@名無史さん
05/01/15 19:00:16
>>288
長岡家自体はマイナーじゃないと思うが、幕末の肥後藩自体が地味だからなぁ。

294:日本@名無史さん
05/01/17 08:43:55
つか、細川家中興の祖、藤孝・忠興父子は長岡姓だったのだが。

295:日本@名無史さん
05/01/18 23:10:24
秋月悌次郎
立見鑑三郎

296:日本@名無史さん
05/01/19 08:03:47
立見は微妙だが秋月は十分メジャーじゃろ。

297:日本@名無史さん
05/01/19 08:50:46
田代 安定(1856 - 1928)

出身:薩摩藩加治屋町

1875年、それまで勤めていた内務省を辞め帰郷、その後農商務省へ移り
熱帯の動植物・民族・風土の調査目的で、沖縄県八重山諸島や南洋諸島を巡る。
「東京大学植物標本室」設立の第一人者。

298:日本@名無史さん
05/01/20 02:35:35
その後、陸軍に出仕し、田代砲を開発。

299:日本@名無史さん
05/01/21 18:07:59
月形洗蔵

300:日本@名無史さん
05/01/22 13:22:23
『宮本宗助』

水戸藩出身。
水戸藩下級武士の出身。藤田東湖に師事していた父を尊敬しており、自らも尊王攘夷の道を志す。
安政七年、桜田門外の変で父の悲願であった井伊直弼の暗殺に参加。
その後は京に逃れ、土佐勤王党の活動に協力する

301:日本@名無史さん
05/01/22 13:30:43
『秋月小二郎』

江戸府内に浪人の子として生まれる。
代々御家人として幕府に仕えてきた家系だが、祖父の代に身分を剥奪された。
文久三年幕臣への復帰を胸に、清川八郎の発案によって結成された浪士組に参加。
上洛後、浪士組を尊王攘夷に利用しようとする清川に反発した近藤勇、芹沢鴨らと共に新撰組を結成する。


302:日本@名無史さん
05/01/22 13:34:45
>>300-301
↑はプレステ2の『風雲幕末伝』というゲームの主人公なんですけど、
この人達に合うような史実の志士っていないですかね?

303:日本@名無史さん
05/01/22 13:55:09
>>300-301
絶対出ると思ってた。

304:日本@名無史さん
05/01/22 15:52:17
>>5 の中井庄五郎は?

305:日本@名無史さん
05/01/25 23:55:20
>>304
マイナーではないだろ。
司馬の短編小説にも主人公で取り上げられたよね。

306:日本@名無史さん
05/01/26 20:59:14
佐野竹之介は討幕主人公に使えないか?

水戸藩士で桜田門外の変に参加
死んじゃったけど、年齢若いし所詮ゲームだから
生き残って歴史に名を残して…
と言う脳内設定で

佐幕は…思い付かない…
尾形俊太郎あたりか?

307:日本@名無史さん
05/01/26 23:56:51
討幕なら田中だろう。同志獲得は難しいだろうが。


308:日本@名無史さん
05/01/27 01:27:16
>>307
田中ってば…シンベェさんのコト?
彼なら出て来ますよ

飄々としたやつですが

309:日本@名無史さん
05/01/28 21:07:16
豊後の毛利空桑って知ってる人いる?

310:日本@名無史さん
05/01/29 04:44:06
吉田松陰の先生だっけ?

311:日本@名無史さん
05/01/29 10:35:06
豊後の毛利? 毛利勝永の子孫?

312:日本@名無史さん
05/01/29 23:16:31
毛利空桑 (1797-1884)

豊後国の熊本藩領鶴崎(現大分市鶴崎)出身の儒学者で尊王思想家。
吉田松陰とも交流があった。
鶴崎で塾を開き豊後国内外の多くの子弟を教育,
維新時の豊後諸藩の動向に大きな影響を与える。
維新後,高田源兵衛(河上彦斎)とともに長州の大楽源太郎を一時かくまう。

家系としては,毛利元就と争って敗れた,弟の毛利(相合)元綱の子孫にあたる。



313:日本@名無史さん
05/01/30 00:04:03
沢太郎左衛門

314:日本@名無史さん
05/02/04 02:38:28
保守…

沢って誰?

315:日本@名無史さん
05/02/04 08:31:12
澤太郎左衛門貞説は幕府軍艦開陽丸(艦長:榎本武揚)の副長。。
榎本らと同じく長崎海軍伝習所→オランダ留学組。
その後、函館戦争まで榎本と行動をともにした人。
鳥羽伏見の敗戦の後、大坂城を密かに脱出した徳川ケーキが
お忍びで開陽艦で帰ろうとしたとき「船は艦長がいなければ出航できませぬ」
(榎本は戦況視察のため入れ違いで上陸中だった)と述べたら
その場で臨時艦長を仰せつかったというエピソードが。

どうでもいいが昔『五稜郭』というドラマで秋野太作がやってたのだが
あまり上品に見えなかった…

316:日本@名無史さん
05/02/10 10:31:34
三吉慎蔵

317:Gくん641
05/02/11 16:09:18
知っている人教えて!
松平春嶽と田安慶頼は、どちらが兄でどちらが弟?


318:日本@名無史さん
05/02/12 10:22:56
田安慶頼は田安斉匡の五男、越前慶永(春岳)は八男。

319:Gくん641
05/02/12 12:01:21
>>318さん!ありがとう!

320:日本@名無史さん
05/02/12 18:09:48
鈴木三樹三郎 北辰一刀流

新撰組 九番隊組長 
新撰組参謀 伊東甲子太郎(のち御陵衛士)の実弟


321:日本@名無史さん
05/02/13 00:39:07
陸奥宗光も幕末まではマイナーだよな

322:日本@名無史さん
05/02/13 01:24:29
陸奥は明治になってから政府転覆の陰謀企てて獄に入れられてるね
そんな奴でも登用して外相までやらすんだから明治政府は懐が深い


323:日本@名無史さん
05/02/13 01:34:40
でも明治大帝からは嫌われてたらしい>伊達陽之助

324:日本@名無史さん
05/02/13 02:01:37
>>320
その人物もっと詳しく知っている人教えて下さい!

325:日本@名無史さん
05/02/13 02:34:45
伊地知正治
1828-1886
薩摩藩士の子として生まれる。目と脚が不自由だったが、努力して薩摩藩の
兵学を学び、藩校の造士館の教官となり西郷従道・三島道庸らを教える。
文久二年に島津久光の上京にあたり軍師としての資質を認められ、軍奉行と
なる。薩英戦争・禁門の変で藩兵を指揮するなど幕末の薩摩藩の軍事指揮に
おいてめざましく活躍する。戊辰戦争では東山道総督府参謀を命じられ、旧
幕府や大鳥圭介の軍勢を相手に北関東・会津にてめざましく活躍する。
会津攻めでは板垣退助とともに戦う。

326:日本@名無史さん
05/02/13 09:01:43
鈴木 三樹三郎が、三樹 三郎に改名した件について

327:日本@名無史さん
05/02/13 10:46:05
>>326
マジで言ってんのか?

328:日本@名無史さん
05/02/13 21:07:42
>>322
でも軍閥がある。
・・・・すっげぇ理解しにくい政府だよな。

329:日本@名無史さん
05/02/20 15:19:38
入江九一

330:日本@名無史さん
05/02/20 22:00:32
さすがに松門四天王はマイナーとはいえないのでは

331:日本@名無史さん
05/02/21 19:03:40
>>330
ですね…。
でも四天王の中で一番マイナーな気がするんですが…。

332:日本@名無史さん
05/02/21 21:56:57
山本帯刀。

333:日本@ななしごんべ
05/02/22 00:01:34
鈴木三樹三郎について。
彼は幼名不詳、一時期多門と名乗っていたらしいです。
伊東甲子太郎の実弟。彼らは鈴木が本姓です。常陸筑鈴木家は上から長女こと、長男大蔵(後の甲子太郎)、次男三樹三郎、次女よし(後に須磨と改名)の四人兄弟。
後に三樹三郎は人の伝で養子に入るも酒癖が悪くて離縁され、三木荒次郎と名乗ります(母御にも手厳しく勘当されたため鈴木姓に戻れなかった)。
そして流れるように脱藩。
幼い頃から文武に秀で、水戸留学を経て江戸深川の伊東誠斎道場へ弟子入りしていた兄大蔵を頼って伊東道場へと転がり込みます。
当時は桜田門外の変などがあったため幕府の浪士監視が厳しく、尊皇攘夷の思想を持っていた三樹三郎は身の危うさを感じていたようです。
兄弟仲の比較的よかったらしい大蔵と三樹三郎は剣の稽古の合間にそういった話に華を咲かせていたらしいです。
元治元年9月、伊東道場寄り弟子であった新選組の藤堂平助が隊士募集のため東下。まっさきに伊東道場の門をたたき、彼ら兄弟を勧誘したようです。
大蔵は道場に集まっていた同志達(後の御陵衛士、加納・服部・内海・佐野・篠原と中西など)と相談。
道場をたたんでとりあえず上京し、様子を見て新選組に加盟するかどうかを判断すると決めて行動に移しました。

…また時間があったら書き込みます。

334:日本@名無史さん
05/02/22 00:21:56
阿比留鋭三郎

335:日本@名無史さん
05/02/22 14:29:29
自分に惚れた娘の前でワザと嫌われるように
(大望ある身に色恋は邪魔という論理)
路上でぶりぶりうんこたれたという豪快なエピソードがある
梅田雲浜

336:日本@名無史さん
05/02/22 14:38:34
>>335
スカトロ?

337:日本@名無史さん
05/02/22 14:38:59
>>335
ほんと?死に際って結構見苦しいって聞いたけど・・・。
それは橋本左内か?

338:日本@名無史さん
05/02/22 14:56:23
越前・若狭を誇る

松井 耕雪
(まつい こうせつ:1819年~1885年)
 横井小楠、三岡八郎とともに、福井藩の殖産興業の積極的な牽引者。
 府中の富商松井家の9代目。幕末のころ府中には学校がなく、安政3年他藩に遅れをとることを憂いた耕雪は、
私財三百両を献じて藩校建設を願い出た。これによりつくられたのが「立教館」である。
立教館が開かれた後も有能な教師を招いて人材の育成に努めた。
 立教館からは、渡邊洪基(東京帝国大学初代総長)、斉藤修一郎などの優れた人材を送りだした。
耕雪は、武生の教育の礎を築いた人物といえよう。
 武生市公会堂記念館の正面にある建学記念碑は、その功績を記念したものである。



339:日本@名無史さん
05/02/22 14:58:39
関 義臣
(せき よしおみ:1839年~1918年)
 福井藩校の「明道館」に学び、文久元年、府中を出て東西に歴巡。その後、江戸の昌平坂学問所に学び舎長になる。
やがて坂本龍馬、後藤象二郎とともに海援隊を組織し、慶応4年、大政奉還論を唱えて、徳川慶喜に建白する。
明治3年、「武生騒動」に連座して福井で投獄されるが、許されて武生に帰った。
その後は、大阪府権判事、鳥取県・徳島県・山形県の知事を歴任し、同40年、男爵を授けられ、府中藩出身唯一の男爵になる。


340:日本@名無史さん
05/02/22 15:06:05
中根雪江(1807-1877)
幕末の福井藩士、明治政府初期の参与、国学者。
文化4年(1807)7月3日、福井藩の上級武士(寄合席700石)中根衆諧の長男として城下に生まれた。
諸役を歴任後、松平慶永の側用人となり、藩財政立て直しに活躍。
また春嶽の懐刀として、橋本左内とともに将軍継嗣問題や条約勅許問題に関する政争に関わる。
嘉永6年(1853)6月、黒船来航の時、春嶽はペリーの要求を断わり、海岸線防備の必要性、軍艦の建造などを幕府に献言するが、
これは側用人である雪江の意見が反映されたものである。
安政の大獄により春嶽が隠居謹慎処分となり、橋本左内も斬られると、雪江も藩政の第一線を退く
春嶽が政界に復帰して政事総(惣)裁職になると、側近として参勤交代制の緩和や横井小楠と協力し、公武合体運動に奔走し、将軍上洛を現実のものとした。
また、長州出兵は慎重に決定するべきことを説いている。
慶応3年(1867)12月12日、新政府の参与となったが、王政復古後に徳川家救済に尽力したため、
新政府批判の嫌疑で翌年免じられた。

341:日本@名無史さん
05/02/22 15:09:43
鈴木主税
福井藩士。鈴木主税は水戸藩の藤田東湖が西郷隆盛と共に「当今の豪傑」と評した人物で、
中根雪江と共に松平春嶽を補佐した。
世直神社の祭神として生前から奉られたといい、寺社奉行、町奉行時代の善政と共に人柄が偲ばれる。

342:日本@名無史さん
05/02/22 18:55:34
中平龍之介

高岡郡梼原村地下浪人中平佐平(定好)の長男として生まれる。
那須俊平に剣を学んだ。
勤王の志を固め文久3年(1863)11月6日、
田所壮輔、尾崎幸之進、安藤(東)真之助らと脱藩、
長州忠勇隊に入り禁門の変に参戦。
激闘の末重傷を負い元治元年(1864)7月19日自決。
二十三歳の若さであった。

343:335
05/02/22 21:15:15
>>336
>>337
まあ宮武外骨の本で読んだんで
本当はどーかはわからんですがね

あと、幕末の侠客てーと清水の次郎長がメジャーだが
会津の小鐵 新門辰五郎なんかはどうだろう?


344:335
05/02/22 21:15:56
>>336
>>337
まあ宮武外骨の本で読んだんで
本当はどーかはわからんですがね

あと、幕末の侠客てーと清水の次郎長がメジャーだが
会津の小鐵 新門辰五郎なんかはどうだろう?


345:日本@名無史さん
05/02/22 21:17:04
↑ダブりすまぬ

346:日本@名無史さん
05/02/22 21:30:21
ドンマイ!

347:日本@名無史さん
05/02/22 22:13:04
あぁ、赤松が来る…

348:日本@名無史さん
05/02/22 22:54:32
>>333
おぉ凄い!鈴木の情報ってこんなにあったんですね!全部初見です。
是非続き見たいです。

349:日本@名無史さん
05/02/23 02:16:54
良スレage

350:日本@名無史さん
05/02/24 05:44:01
>>340
中根雪江はメジャーだと思う。

351:日本@名無史さん
05/02/24 17:37:58
斎藤一諾斎

352:日本@名無史さん
05/02/24 17:42:20
つーかわからなすぎ。誰なわけよ。

353:日本@名無史さん
05/02/24 23:49:42
望月亀弥太
意外と影が薄い…資料少ないし

354:なお
05/02/25 00:22:17
会津藩士で鬼官兵衛こと佐川官兵衛とかですかね
山川大蔵さんとか会津じゃあ有名なんでしょうね。きっと。
弟の、山川健次郎は東大初代総長ってのはメジャーでしょうか?
会津って田舎ってイメージありますけど、意外と教育の水準は日本一という説が。。。。
かくいう自分はやかましい名古屋人ですw

355:日本@名無史さん
05/02/25 05:56:53
>佐川官兵衛

勇敢かも知れないが、上士なのに喧嘩で人殺しをした粗暴無思慮な男のイメージ

356:日本@名無史さん
05/02/25 08:29:51
高崎五六(薩摩)あたりはどう?

357:日本@名無史さん
05/02/26 09:01:07
乃美織江(長州)あたりはどう?

358:日本@名無史さん
05/02/26 15:20:48
長州の大楽源太郎

359:日本@名無史さん
05/02/26 15:53:17
雄藩はメジャー。それ以外で出るとドキッとする。

360:日本@名無史さん
05/02/26 18:16:21
>>359 教育水準は高いけど惜しむらくは古典に精通してただけの優等生。他藩は砲術や医学や工業・科学、政体、時事など正統派以外の学があった。

361:日本@名無史さん
05/02/26 19:43:46
会津は農民層まで教育は普及していなかった。
商人・豪農層の人材が厚い他の諸雄藩に比べてやはり一枚落ちる。


362:日本@名無史さん
05/02/26 22:40:46
小松帯刀

363:日本@名無史さん
05/02/26 22:46:48
小松帯刀ってマイナーなのか?

364:日本@名無史さん
05/02/27 06:28:06
十分すぎるほどメジャー。

365:日本@名無史さん
05/02/27 14:05:58
藤堂平助

この人物はマイナーじゃん?

366:日本@名無史さん
05/02/27 18:31:28
なぜか知らないっけどメジャーなんだよ。

367:日本@名無史さん
05/03/03 20:50:51
メジャーかマイナーかわからないんだったら黙ってROMってろボケが。

368:日本@名無史さん
05/03/04 02:41:19
吉田松陰の兄
井上馨の兄
前原一誠の弟
大山巌の兄
 
有名人の兄弟なのに結構地味な印象があるな。
マイナーかどうかはしらんが。


369:日本@名無史さん
05/03/04 04:13:47
土居通夫(宇和島藩)
知らんよな・・・orz

370:日本@名無史さん
05/03/05 13:12:34
吉田稔麿

371:日本@名無史さん
05/03/05 13:15:47
西郷頼母

372:日本@名無史さん
05/03/05 22:51:23
マイナーって言えばきりがなくなると思うけど,どの辺が限度?

373:日本@名無史さん
05/03/06 14:36:48
浦和盛三郎(南宇和郡内海村)

374:日本@名無史さん
05/03/06 18:36:42
マギー司郎

375:日本@名無史さん
05/03/06 18:41:37
の弟子

376:日本@名無史さん
05/03/06 19:49:36
二宮敬作

>>373
渋いな~



377:日本@名無史さん
05/03/06 21:12:59
>>372
誰かが『メジャーだよ』って突っ込んだら、2レス消費したこととなり、
知名度に関係なくマイナーでは無いことが認定。

378:日本@名無史さん
05/03/07 00:28:08
宮崎八郎兵衛(宇和島藩、ただし子孫は吉田藩)

379:日本@名無史さん
05/03/07 06:03:59
せめて業績を一つぐらい書け!
名前だけ聞いたって興味湧かないでしょ?



380:日本@名無史さん
05/03/07 10:56:20
椎原小弥太(薩摩藩士)
本名不詳。

381:378
05/03/07 13:54:22
>>379
河内浪人。伊達秀宗に仕え、宗純(秀宗5男、吉田藩祖)の傅役となる。
逝去直前の秀宗に手を添えて3万石分知の判物に花押を据えさせる。
秀宗が逝去すると2代宗利と宗純のいざこざを収めるため殉死する。
嫡子専助らは宗純に引き取られ以降吉田藩士となる。

382:日本@名無史さん
05/03/07 21:56:33
>>381
殉死の禁止令が出る5年前だよね。

383:日本@名無史さん
05/03/07 22:36:47
月照(西郷と一緒に身投げした人)と
よく混同されて可哀想な月性

384:日本@名無史さん
05/03/08 07:08:42
武藤鬼一 
 衝撃隊No.2。生没年不明。エピソード不明。墓は石巻市

385:日本@名無史さん
05/03/08 13:09:50
>>384
すげぇ名前!!
№2ってことは実力あったのか


386:日本@名無史さん
05/03/09 03:50:09
でもエピソード不明・・。

387:日本@名無史さん
05/03/10 21:56:36
マイナーって言えば立花壱岐

388:日本@名無史さん
05/03/11 08:22:57
だからエピソード書け

389:日本@名無史さん
05/03/11 16:56:35
柳川城を炎上させた人

390:日本@名無史さん
05/03/16 04:46:40
松平茂昭
最後の福井藩主兼最初の福井県知事

391:日本@名無史さん
05/03/16 07:48:57
請西藩主・林昌之助忠崇。藩主なのに脱藩。

392:日本@名無史さん
05/03/16 15:52:11
391
その人って、遊撃隊の伊庭八郎や人見勝太郎と行動を共に
してた人ですよね?

確か昭和15年まで生きてたって聞いたけど…。

393:日本@名無史さん
05/03/17 07:42:04
藤本鉄石、っていたような

394:日本@名無史さん
05/03/17 07:57:49
天誅組総裁はさすがにメジャーなのでは

395:日本@名無史さん
05/03/18 00:05:00
江川英龍。
お台場を作る。

396:日本@名無史さん
05/03/18 07:58:17
有名じゃろ。教科書にも載ってるし。

397:日本@名無史さん
05/03/18 13:06:50
じゃあその盟友斎藤弥九郎。
神道無念流錬兵館道場主の剣客。

398:日本@名無史さん
05/03/19 09:41:57
江都三大道場の主がマイナーなわけなかろ。
そういえば弥九郎は江川の密偵として各地を廻ったとかいう話もあったな。

399:日本@名無史さん
05/03/19 12:10:10
前原功山。
一応、小説の主人公になった事があるが、マイナーだろう。

400:日本@名無史さん
05/03/19 12:15:44
神代直人

401:日本@名無史さん
05/03/19 17:51:40
>>400
恒例となってるその人物のエピソード書いてくれ・・・
名前だけじゃ、まるっきし分からんよ

402:日本@名無史さん
05/03/20 07:57:38
徳川茂栄。
高須四兄弟の中では一番マイナーだが3家の当主をはしごするなど結構経歴は派手

403:日本@名無史さん
05/03/22 13:25:11
すいませんエピ書きます。ゴメンナサイ。

「神代直人」
高杉晋作を殺そうとした男、大楽源太郎の子分格。
極端な攘夷家。
「あんな男に殺されるのはイヤだ」と、
晋作がスタコラ逃げちゃったほどの、粗暴悪漢。
後に、大村益次郎も殺そうとつけ狙う。

・・・河上彦斎やら、河合ヌ殿之助に、テイストが似てるかも。

404:日本@名無史さん
05/03/30 13:36:49
>>369
外国事務局大阪運上所勤務
大阪府権少参事
兵庫裁判長
大阪上等裁判長
大阪控訴裁判長
大阪電灯会社社長
日本硝子製造重役
長崎電灯重役
日本生命重役
大阪毎日新聞重役
明治紡績重役
大阪実業銀行重役
阪鶴鉄道重役
大阪馬車鉄道重役
宇治川電気重役
大阪染色重役
浪速電車軌道重役
大阪土地建物重役
大阪貯金銀行重役
京阪電鉄重役
衆議院議員
大阪商業会議所会頭
堂島米穀取引所理事長
大阪銀行取引所理事長
日本電気協会会長
大阪実業協会会長

>>391>>392
嘉永1年7月28日~昭和16年1月22日

405:日本@名無史さん
05/04/18 07:19:49
松島剛蔵あたりはマイナーなのか?

406:日本@名無史さん
05/04/22 06:20:11
勝川海老蔵
幕末の任侠、清水次郎長のライバル。

鈴木三樹三郎
新選組参謀(のちに御陵衛士頭取)の伊東甲子太郎の実弟

407:日本@名無史さん
05/04/22 07:50:19
陣幕 久五郎(1829~1903)
本名:石倉 槇太郎
出雲出身。江戸時代最後の横綱。徳島藩お抱え力士から薩摩藩を経て大坂相撲へ。
ライバル不知火との対戦では1度も負けなかった。
慶応3年横綱免許。同年末薩摩藩邸焼き討ち事件が起きた際、大坂の西郷へ事件を伝える。
引退後は実業界に転身、それまで伝説の域にあった歴代横綱を確定し、数々の顕彰碑を建てた。
靖国神社社殿竣工の際には奉納土俵入りを勤めた。

408:日本@名無史さん
05/04/24 22:07:58

実況スレ

NHKアーカイブス ◆ 幕末転勤物語 妙高山
スレリンク(livenhk板)

409:日本@名無史さん
05/04/24 22:30:43
>>406
鈴木三樹三郎って80代まで生きたらしいね。
斎藤や永倉は死んだ時70代だったから、三樹三郎が新選組で最長寿なのかな。

410:日本@名無史さん
05/04/24 22:46:42
さげ

411:日本@名無史さん
05/04/27 18:49:26
坂英力

412:日本@名無史さん
05/04/27 23:30:56
むしろ、桜田良佐

413:日本@名無史さん
05/04/28 07:26:57
中井桜洲もマイナーか

414:日本@名無史さん
05/04/29 17:04:48
宮川 助五郎(1844-1870)

土佐藩士。馬廻り格の上士であったが勤皇の心篤く、郷士とも広く付き合いがあり、尊王運動に奔走する。
また50人組みの総組頭として江戸まで山内容堂の警護にあたったりもした。

慶応二年九月十三日の夜、京都三条大橋の幕府の制札を除くために出かけ、
待ち伏せていた新撰組と戦闘になり重症を負って生け捕られた。

その後、脱走して潜伏し、戊辰戦争では軍曹として働いた。


なお、中岡慎太郎は新撰組から宮川助五郎を救出すべく画策し、坂本竜馬に相談しにいったが、
運の悪いことにその日は坂本竜馬暗殺の11月15日であった。

415:日本@名無史さん
05/04/30 09:27:11
宮川 音五郎

近藤勇の実兄。

416:日本@名無史さん
05/05/06 23:49:51
宮川 大助 花子

漫才師。

417:日本@名無史さん
05/05/08 20:56:48
金正日(????)~(????)
口がキムチ臭くて髪は薄井で有名の独裁者。しかも頭はいかれている。2007年に死ぬ予定

418:日本@名無史さん
05/05/23 12:29:53
あげ

419:日本@名無史さん
05/05/23 21:17:06
河合継之助

420:日本@名無史さん
05/05/23 23:28:16
西郷隆盛

421:日本@名無史さん
05/05/28 15:57:08
大高 又次郎(1821~1864)

林田藩士。赤穂47義士の大高源吾の末裔。
幼少より武芸に励み、安政五年に脱藩して京に上がり、梅田雲浜に師事し
多くの志士と交わった。
安政の大獄により梅田雲浜が逮捕され江戸に護送されるやその奪還を試みたが失敗し
一時、浅草寺の僧侶になりすまして幕吏の追及を逃れた。

後に再び京に入り長州藩邸に匿われ、
元治元年6月、肥後勤皇党の宮部鼎蔵らと三条の池田屋で密会中に新撰組に急襲され(池田屋の変)
奮闘の後に戦死。42歳。

422:日本@名無史さん
05/05/28 15:58:20
高松 平十郎(1836~1863)

塚田孔平の門下で剣術を学び、且つ同門の師範を努めた。
尊皇攘夷運動に身を投じ広く同士と交わり、文久3年2月23日の夜、三輪田元綱、角田忠行ら
15名と京都等持院に押し入り、足利尊氏らの木像を引き出してその首を斬り、
三条河原に晒したが、補吏と戦いになり数名を殺傷し、自分も殺された。28歳。

423:日本@名無史さん
05/05/28 15:59:09
根本 六三郎(1843~1864)

水戸藩士。
安政6年・・・勅書返納阻止を計って長岡に屯集。
万延元年8月・林忠左衛門と共に攘夷運動の尖兵となるべく薩摩藩廷に身を投じるが幽閉される。
文久3年・・・許されて藩主の上京に追従。
元治元年3月・田丸稲之衛門らの筑波挙兵に呼応。一部隊の隊長として常陸を転戦。
その後、武田耕雲斎と共に西上し、12月12日に耕雲斎の内意を受け加賀藩と交渉開始。

17日に降伏して敦賀に禁固に処され、慶応元年2月4日に斬。26歳。

424:日本@名無史さん
05/05/28 16:00:02
鷲津 隆聚(1842~1912)

堂上公家(羽林家)。
父は右近衛権中将・鷲津隆賢、母は権納言・高倉永雅の女。

嘉永3年、元服と同時に昇殿を許され、文久2年には侍従に任ぜられる。
勤皇の大儀を唱えて倒幕の大計を計り、上京した諸藩の藩士達を糾合しては寺院に寄託させ時期を図る
が朝議を蒙って差控された。(寄託させた志士の中には坂本竜馬など、後に大成する有名人も多数居た)

慶応3年、差控を赦されるや直ちに内勅を奉じて高野山に登り、檄を四方に飛ばしては政府軍の糾合に努め、1000人からなる
勢力を作ると京都の同士と相呼応し、大阪城攻略を図ったりした。

明治元年1月7日に錦旗を授けられると高野山より入京、参与に任じられ軍防事務局親兵掛を兼ね、その後に
奥羽追討総督、東征大総督府参謀、奥羽追討白河口総督などを歴任しながら政府軍を率いて東北各所を転戦した。

維新後は戊辰の戦功を評され、三等陸軍将、陸軍少将、五条県知事、若松県知事などを歴任した。
著書に「鷲津隆聚奥羽追討日記」がある。


425:日本@名無史さん
05/05/28 16:06:54
山本 速夫(1825~1874)

三河吉田藩士。
代々藩主松平家に剣道をもって仕え、彼も剣を能くした。
少年の頃から羽田野敬雄に国学を学び勤皇の志すこぶる時勢に感奮するところがあった。

禁門の変の数日前に脱藩、諸国を流浪し京都で侍従・鷲津隆聚の邸宅に坂本竜馬、田中顕助、藤村四郎、香川敬三らと
共に同居し時期を待った。

慶応3年、鷲津隆聚が密勅を奉じて高野山に挙兵するや、彼もこれに従い、監察に任じ、
東三番隊長を務めた。明治元年に朝命により帰藩し、その後内国事務局権判事、三河裁判所、武蔵国巡察使、
租税司判事、若松県大参事等を努めた。


426:日本@名無史さん
05/05/28 16:25:15
大江 卓(1847~1921)

土佐藩士。
家老・宿毛の伊賀氏の臣。
長崎で砲術を学んでいたが風雲急をつげる時勢を見、上京して陸援隊に入隊する。
このころ京の生活で歳多、非人に思うところがあった。
明治元年、鳥羽伏見の戦いを陸援隊士として戦い、
高野山に使して錦旗を侍従・鷲津隆聚、勅書を和歌山藩主・徳川茂承に伝える役を果たした。

維新後は兵庫県判事試補や大阪会計官に抜擢されるが思うところあって重職を退官して上海に渡ると東亜の情勢を監察し
清国人の惨状を目の当たりにする。

帰国後、神戸にて歳多非人の廃止運動を行い、明治4年民部省ついで工部省に出仕後、陸奥宗光県令の後を継ぎ、神奈川県令
に就任。在任中にペルー船籍マリア=ルーズ号の中国人奴隷売買の不法を摘発し
特別裁判所を開設すると、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ等の外国公使の反対を押し切って奴隷を解放した。

明治7年、大蔵省。翌年は後藤象二郎の蓬莱社に入る。
西南戦争が勃発すると林有三らと挙兵を企てるが捕らえられ10年の刑を受け、岩手監獄に繋がれたが
その後、咎人の身ながら帝国議会衆議院議長にまでなった。


427:日本@名無史さん
05/05/28 23:41:27
大江はメジャー。

428:日本@名無史さん
05/06/05 01:27:48
幕末儒者大橋。
坂下門外の変に関与し牢死。数々の長州の勤皇志士を育てた。
ただの教育者ではなく、自らも維新に挑戦した実行者。
松蔭が今これだけ評価されながら、彼の名前は歴史に埋もれた。


429:日本@名無史さん
05/06/05 02:41:02
津田真道はどうだい。

430:日本@名無史さん
05/06/05 02:50:47
うん。俺が知らないからマイナー認定します。つーかプロよろしく。

431:長州ファンA
05/06/15 01:36:39
あげ

432:日本@名無史さん
05/06/17 00:56:32
輪王寺宮(北白川宮能久親王)  1847(弘化 4)~1895.10.28(明治28)  
幼名は満宮(みつのみや)、法名は公現親王。伏見宮邦家親王の第9王子。仁孝天皇の猶子だから、孝明天皇とは兄弟。幕末に彰義隊が担ぎ出した上野寛永寺の輪王寺宮公現親王である。 
1858(安政 5)輪王寺宮を相続・門跡となる。 1868(慶応 4)には将軍慶喜征討の中止を懇願するため、東征大総督となった有栖川宮熾仁親王を駿府に訪ねている。
上野戦争では激戦の中、脱出して幕艦長鯨丸に乗って陸奥会津城に入城。 1870(明治 3)還俗、伏見宮に復帰して軍籍に就き、同年直ちにプロシア留学を命ぜられている。
1872(明治 5)留学中に北白川宮第二代を相続している。 1877(明治10)帰国し近衛砲兵連隊に配属。
1884(明治17)陸軍少将、歩兵第一旅団長。1892(明治25)陸軍中将、第六・第四師団長を歴任。
 日清戦争では開戦後の1895. 1.(明治28)近衛師団長となり、台湾に出征。戦後も台湾守備を命じられ、台南で病没した。
 死後に陸軍大将を追贈され、また台湾神社に祀(まつ)られた。

今吉村昭が朝日新聞に「彰義隊」を書いてるが主役的扱い。






433:日本@名無史さん
05/06/17 00:57:48
このスレまとめて誰か本出してくらはい。

434:日本@名無史さん
05/06/17 01:11:49
阿比留優
父は歯科医だが高利貸しも営み不正で逮捕、母親は濡卯弩女優、姉は元、威江楼伽部。
堀布魯に所属していたが、子どもの頃の団房流万引きが発覚、謹慎処分に、図々しくも復帰し、週刊文春に愚裸美唖を載せる。
天敵伊集院光に夜道斬られ死亡。享年19歳。

435:日本@名無史さん
05/06/17 01:14:16
>>432 「東武皇帝」の名前だけならわりかし有名人だね。

436:日本@名無史さん
05/06/18 03:45:52
土田衡平:天保7年(1836)生まれ~文久4年(1864)死亡、矢島藩士

漢学を新田勘七に学び、又、島源蔵について関口流の柔術を学び、その奥義を究めた。
安政元年、9歳の時、藩の選抜をもって江戸藩邸におもむき留守居役書記となるが、23歳で脱藩する。
京都におもむき岩倉具視と交を結び、多くの志士とともに活躍するかたわら、藤本鉄石について軍学を学びその奥義をきわめた。
文久3年(1863)大和に天誅組の義挙があり、これにおもむいて戦い、敗れた後足利に身をひそめ、その地にあって関東の志士と交わり勤王倒幕に活躍した。
翌元治元年、水戸藩士藤田小四郎等が中心となり筑波山によって天狗党を結成し攘夷のさきがけを決行しようとした。その中に騎兵隊長田中源蔵あり、土田衡平の非凡の才あるを知り、しきりに決起を要請した。
衡平はそのもとめに応じて田中隊の参謀となり、広く関東常野の地において幕軍と戦ってこれを敗走させた。後、助川の戦いにおいて利なく、田中隊も四散、衡平は小船をもって同志とともに海へのがれ去ったが、
たまたま台風にあい、漂流の末相馬藩中村にたどりつき、捕らえられて同年11月5日斬刑に処せられた。享年29歳。

土田衡平が古賀塾にいたころ、同門の河井継之助を師匠として学問に励んでいた三郎(苅谷無隠)が、継之助が西国遊学のため古賀塾を去るとき、三郎少年は継之助に対し「誰を師匠にしたら良いでしょうか?」と聞いた所、
継之助は「土田衡平がよかろう」と言った。


437:日本@名無史さん
05/06/19 02:04:58
甲賀源吾

438:日本@名無史さん
05/06/20 03:26:09 BE:12816544-
木川松蔵氏について教えてください



439:日本@名無史さん
05/06/20 03:30:01
>>735
台湾で戦病死したことでも有名だと思うが
マイナー人物とは言えん罠

440:日本@名無史さん
05/06/25 23:28:41
池田徳太郎
弘化4年(1845年)安芸広島忠海生まれ、

池田種徳(徳太郎)の諭に従って、志を立て江戸に上り、山岡鉄舟の門に入り免許皆伝を受ける。帰郷し三原城主浅野公に聘せられ、精義隊の剣道指南となる。
その後池田種徳と共に京師に上り、幕末の志士坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作、西郷隆盛、大久保利通等と交わり、又九條家、本願寺等に出入して、日夜王事に奔走し、鳥羽伏見の役には尊王近衛団の大隊長として大活躍する。
坂本龍馬を高杉晋作に引き合わせ、薩長連合の成立に尽力。


441:日本@名無史さん
05/06/25 23:43:51
URLリンク(cache.yahoofs.jp)
からのまるぱくりです。もしかしたら>>438さんがかいたことかもしれません、そのときはごめんなさい。

木川松蔵  長岡藩家老河井継之助の従者
もともと松蔵は藩主の駕籠の者だったが、若君の正室と恋に陥り、奥女中に知れた。継之助は口止めをして、松蔵を引き取り、従者にした。
姓をつけるとき、松蔵本人は、河井の河の字を取って「木河」にしたかったのだが、届けを出したときに、役場の人が間違えて?「木川」になったらしい。
司馬遼太郎「峠」では「役者のようないい男」とか書かれている。



442:日本@名無史さん
05/07/03 17:37:52
岩村 高俊(1845~1906)

土佐藩士。
大江卓と同じく代々家老を努める伊賀氏の臣下であった。
慶応3年、上京して国事周旋活動に参加。
 同年11月、坂本竜馬・中岡慎太郎が暗殺されると、暗殺の嫌疑がかかっていた和歌山藩士・三浦久太郎を
陸奥宗光、大江卓ら16人で襲撃し、新撰組と刃を交える。

明治元年、戊辰戦争に東山道総督府軍監として参加。
信越に出征の際、小千谷慈眼寺において長岡藩家老、河井継之助と会談して決裂。長岡藩を抗戦側にまわしてしまう。
その後、奥羽に転戦。戦功が認められ200石を下賜される。

維新後、神奈川や宇都宮の権参事を勤め、佐賀県県令の時には江藤新平の起こした佐賀の乱を平定。
ついで大久保利通と日清会談に参画し、
諸県令を歴任後、宮中顧問官を経て貴族院になり男爵を授爵。


443:日本@名無史さん
05/07/03 21:53:34
新撰組隊士・野村利三郎。

444:日本@名無史さん
05/07/04 01:23:57 BE:25632948-
長岡藩士高野貞吉

445:日本@名無史さん
05/07/04 04:25:50
戦国マイナー人物、源平合戦マイナー人物、江戸時代マイナー人物のスレも欲しいな

446:日本@名無史さん
05/07/04 05:19:46
>>442
ちなみに兄貴の岩村通俊は初代北海道庁長官。
高俊は弟のほうか…

447:日本@名無史さん
05/07/04 07:03:31 BE:38448386-
           /   \        /   \
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        |    ,,-'==..,,         ,,,==,,,     |    高俊愛してるぜ…
       .|    ." .____ ''=,,     ,,-''_____  "   |
        |    /______、 =   ="/_____ \    |
        |    、ヘ:゚ノ `, `i    、ペ::ノ >     |
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         `、      、____--___,,        /
           ヽ     、,,,"" ,        ノ
            |:\.    """     /|
            |  .ヽ         ./   |
            |.    `ー- - -ー.'"     |


448:日本@名無史さん
05/07/04 12:38:13
>>446 長男・道俊、次男・林有造(養子)、三男・高俊でつ。

449:日本@名無史さん
05/07/04 14:16:27
みんなろくでなしのイメージです。(河井継之助命、山風地の果ての獄)

450:日本@名無史さん
05/07/04 18:40:17
ろくでなしだからマイナー人物なんだよ。マイナー人物にロマン求められても困る。

451:日本@名無史さん
05/07/08 03:28:56 BE:21628139-
山本帯刀・・・・1844~1868

代々家老職を継ぐ門閥であったが、聡明にして果敢という評
価がされている人物で、河井継之助の人物、思想を理解していたとされ
藩政改革での藩士の俸禄改正では三分の一減俸を積極的に受け入れ、
藩士の範を示した。
長岡で戦端が開かれるや若き指揮者として重きをなし、大隊を率いる将として奮戦
長岡陥落により八十里峠附近で残存の長岡兵を指揮し西軍進入を8月末まで阻止。
その後会津若松へ転戦、会津戦争を配下の長岡兵と共に戦うも明治元年9月8日、
会津の飯寺村において集結の西軍攻撃を濃霧の中行うも長岡兵は敵味方を誤認し
配下の43人と共に捕らわれた。
西軍の将はその人物を惜しみ降伏を勧めたが降伏を拒み、
山本含み43名は翌9日斬首された。享年24歳
山本帯刀亡き後の山本家はその後、養子となった山本五十六が継いだ。

452:日本@名無史さん
05/07/11 00:53:01 BE:51264588-
三島億二郎(1825~92)

文政8年(1825)長岡藩士伊丹市左衛門の二男として生まれる。 継之助より2歳年上である。
20歳でわずか37石の川島家の養子となる。佐久間象山に学び、吉田松陰とも交流があり、
黒船の来航では調査を命ぜられている。蘭学に秀でており藩校宗徳館の三進といわれた秀才の花輪馨之進、
三間市之進、渡辺進は川島塾の門下生である。また継之助とも親しく、若いころ奥州各地を遊歴している。
継之助と違って性格は温厚かつ沈着であり、華々しく表面にはでることはなかった。
それゆえに継之助に信頼される。 慈眼寺の会談が決裂の後、継之助は億二郎に真っ先に開戦の止むなきを伝えた。
継之助は自らの首と3万両で戦いを避けようとしたが、非戦派だった億二郎が生死を共にすることを誓い、
長く苦しい戦いに突入する。
億二郎が力を発揮したのは、戊辰戦争後の長岡の復興である。下級藩士の出でありながら、
藩主や藩士から人望が高く大参事に抜擢された。そして壊滅的な打撃をこうむった藩士や領民のための産業振興、
教育環境の整備、病院や銀行の設立さらには北海道の開拓と移民など、億二郎の果たした業績は数え切れない。
米百俵で学校が設立されたというが、百俵の代金では学校は建てらず、本や教材費でほとんどなくなる。
億二郎は苦しい財政の中から、三千両の大金を学校建設資金として最優先に割り当てた。
明治25年(1892)68歳の人生を閉じるが、後半生は長岡の基礎造りのために、懸命に捧げた人生である。
継之助や小林虎三郎を凌ぐ逸材であり、長岡藩士で唯一の銅像が、信濃川のほとりで今も長岡を見続けている。

453:日本@名無史さん
05/08/12 07:54:02
吉富藤兵衛
山口矢原の豪農。「勤皇庄屋」と呼ばれた。
俗論党が政権を握った際に周布政之助を保護するが、周布は吉富邸で自害。
高杉晋作の功山寺蜂起に呼応して、井上聞多を擁立して鴻城隊を組織。
御楯隊と合流して萩の正規軍と戦う。

454:日本@名無史さん
05/08/21 08:50:53
age

455:日本@名無史さん
05/08/25 22:19:30
黒瀬一郎助
(熊本出身)
この人について詳しいことを知りたいのですが、
良い文献を御存じの方がおられたら教えていただけませんか。

456:日本@名無史さん
05/08/28 08:55:16
聞いたことねえ。せめて何した人か書いてくれ

457:日本@名無史さん
05/08/30 14:15:42
URLリンク(cache.yahoofs.jp)
>>455とりあえず、

458:【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守
05/08/30 22:04:19
神代直人 最高!

459:優良スレ救済委員会
05/09/22 00:48:13
age

460:日本@名無史さん
05/09/22 23:36:29
志々雄真実と緋村抜刀斎はあまり知られてないだろうな
日本の命運を賭けて戦った二人だけど、何故かマイナーなんだよ
大久保利通を暗殺したのは、志々雄の部下である瀬田宗次郎という説も有力だからな
志々雄の秘剣は凄かったらしいし、抜刀斎の抜刀術も評価が高いよ
多分、日本で最強の剣客はこの二人(恐らく志々雄)だろうな

461:日本@名無史さん
05/09/22 23:38:32
>>460
もうそのネタは前スレで俺が書いたわボケ


462:日本@名無史さん
05/09/22 23:41:10
それってある漫画だよな?実在はしてないんじゃ・・・
まぁ、俺も好きだけどさ^^

463:日本@名無史さん
05/09/22 23:51:19
だったら深草丘十郎もありだな

464:【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守
05/09/23 00:08:52
大石弥太郎(円)、吉松速之助。

465:日本@名無史さん
05/09/23 00:30:13
>>461
うっさいハゲ
>>462
ハア?歴史の勉強為直せ

466:日本@名無史さん
05/09/23 00:49:45
>>332
山本帯刀は山本五十六のおかげでなかなか有名だろ?

こいつ捕まり方は馬鹿だが、いさぎ良さとか意志の強さは武士らしくて好き。

一緒に捕まった従者の渡辺豹吉の末弟の廉吉は兄の死後、苦学力行し開成学校から文部省にはいり、伊藤博文総理の秘書とし活躍し貴族院に勅選され、従三位法学博士、行政裁判所部長となる。



467:日本@名無史さん
05/09/23 00:58:47
>>466馬鹿な捕まり方とはいかなる事?詳細キボン

468:日本@名無史さん
05/09/23 01:13:53
明治元年、河合継之助が奮闘するも死に、帯刀は雪辱に燃えた。会津入りし水戸藩と協力し日光口の新政府軍をたたき会津鶴が城の兵糧を確保しようとする。

会津藩は鶴が城の籠城戦に入っていた、13日目の九月五日、藩家老の佐川官兵衛が日光口の新政府を破る。
会津に展開してた山本帯刀ら長岡藩士も勢いにのり士気たかまる。
九月八日、帯刀らは会津の阿賀川を渡河した。山峡特有の濃霧が一帯を覆っていた

469:つづき
05/09/23 01:25:40
午前八時ころ雷のごとき銃砲声がとどろいた。そのままこだまとなり、山間の空気を揺るがした。百名の長岡兵は砲声のする方向に動くが、方向を見誤ったのか、見方がいると思われる所から銃弾が飛んできた。

「味方を撃つとは何事」
しばし返答がない
やがて
「お手前は何藩か」
と問う声がする
「越後長岡」
勘違いしたのはこちらであった。
考えるなり、「やっ」と叫び、新政府軍が一斉射撃を始めた。
悲鳴と絶叫を上げる長岡藩士たちに新政府軍の包囲網は狭まり、長岡兵14名は銃口に囲まれた。
この時、濃霧に紛れ逃げようと思えば逃げれたのだが長岡兵は敵に背を向けるを潔しとしなかった。
捕えられた兵のなかに山本帯刀の姿もあった

470:さいご
05/09/23 01:47:15
捕えられた帯刀は小軍監、三宮義胤に尋問された後、官軍に加わる気はないかの問に断固拒否、14人のうち一人も新政府軍の甘言に乗らなかった。
その場の主力は宇都宮兵だったが、長岡藩兵生け取り名簿は、新政府軍軍監の薩摩藩士、中村半次郎に提出された。

半次郎は躊躇なく言い放った。
「大隊長、山本帯刀と従者の渡辺豹吉を残し斬首せよ」
命令を受け12名の長岡藩士はその場で首を斬られることになる。
翌朝、山本は「再度訊ねっが、錦旗を奉じ、官軍に身を投ずっ気はなか」
訊ねたのは薩摩兵だった。
山本は、敵の軍門に降れと主命は受けてない、さっさと首をはねよ。と言い張る、
覚悟を察した薩摩兵は二人の縄を解かし、
山本、渡辺 の順で斬り、山本は長岡藩の主命に殉じた。

471:日本@名無史さん
05/09/23 01:51:30
長文 乙!
なかなかおもしろかったぞ、褒美をとらす



つ且

472:日本@名無史さん
05/09/23 02:36:16
>>470
渡辺はその場では斬られていなかったはず
渡辺は一度命乞いをして開放され、山本帯刀の斬首後
帯刀の遺品等を整理した後
もう一度、宇都宮藩兵に投降して斬首を乞い
斬首されたはず

473:日本@名無史さん
05/09/23 02:41:20
京都の三条大橋で土下座してる人

でも銅像あるぐらいだからメジャーか

474:日本@名無史さん
05/09/24 00:35:25
渋沢栄一のいとこで何とかって言う人

475:SJ
05/09/24 04:16:13
小笠原唯八

476:世界@名無史さん
05/09/24 08:03:18
松平 太郎
幕府歩兵頭、蝦夷共和国副総裁。榎本政権降伏後は官職にも付かず
不遇の最後。

477:日本@名無史さん
05/09/24 08:17:55
だから「共和国」ではないと・・・
作家やアマチュアの言いふらしてる俗説じゃねえか。

478:日本@名無史さん
05/10/01 20:32:20
入れ札で総裁選んでる時点で一応共和制だが。
政体としては中途半端ではあるが、一応英仏からは「Authority Defacto」と認められていたわけで。

元首が他にいたのか? 徳川家もしくは皇室を名目上の元首にしてたのなら
確かに「共和国」とは言い難いが。
…と思ってぐぐったら、水戸の徳川昭武を総統(?)に推そうとしていたという話もあるみたいだな
幻だったようだが

479:日本@名無史さん
05/10/10 23:42:28
龍馬脱藩というと梼原の那須信吾親子を思い出す。文久2年3月26日の夜、
龍馬は梼原の那須宅に宿泊し、翌日土佐の国境の韮が峠まで信吾が送り、
そこから先は親父の俊平が愛媛県の宿間まで送り、そこからは川舟で長浜,
そして長州へと脱藩していくのである。親子で龍馬を国境まで見送るという
手厚いもてなしである。それだけ龍馬はすごい人物であったに違いない。
 龍馬脱藩後、那須信吾は吉田東洋を暗殺し脱藩。影響されたのか親父の
俊平も脱藩して行く。血気にはやる年頃でもないのに、それだけ土佐の人間
は熱かったのかもしれない。俊平は蛤御門の変にて、得意の手槍で見事な
戦いをみせるが、不覚にも土塀ぎわの小溝に足をとられ、そこを越前藩士の
堤市五郎に胴を串刺しにされ地を掻いてこと切れる。俊平の手槍は今なお
福井県の堤家に保存されている。と司馬著『竜馬がゆく』に記されてある。
確かに龍馬脱藩サミットは今後形をなしていくだろうが、御旗が必要でないかと思う。梼原町だけの問題でなくこのサミットの御旗としてこの那須俊平の
手槍を生まれ故郷の梼原に返還できないものだろうかと痛切に思う。
140年もの間、那須俊平の手槍はどんな想いで堤家で過ごしているのだろう。その無念は、それを想うと、、、。龍馬脱藩サミットの誕生をきっかけに、
ぜひ手槍の返還運動を起こしたいものである。  

480:日本@名無史さん
05/10/15 21:00:09
山縣以上の槍の達人の時山直八で決まり!!

481:日本@名無史さん
05/11/05 13:10:50
昔、確か堺屋太一の著書で
高杉晋作が奇兵隊の実権を取り戻す時に、
確か赤根武人の出自を馬鹿にした
という話を読んだことがあります。
そのエピソードと赤根武人の詳しい情報を教えて下さい。

482:日本@名無史さん
05/11/05 13:16:29
>>481
赤根武人でググればそのエピソードは出てきます。
赤根武人は周防の町医者か村医者の倅で、百姓身分。
親父さんかお爺さんは安芸から来たらしい。

上士の倅たる高杉晋作から見れば「下郎」だ罠。

483:日本@名無史さん
05/11/06 00:47:29
>>482
サンクスです。何か本で見たのとニュアンスが違ったので
ホッとしました。高杉に差別的志向などないと思ってたので。


484:日本@名無史さん
05/11/12 22:53:27
笹沼金吾
会津藩砲兵隊頭取。会津に迫る官軍を大内峠で待ち受けて味方が撤退した後
もゲリラ戦を展開し、最期を迎えた。福島県の大内宿にある正法寺に地元の
方々が弔って墓石もあります。官軍はしばらく埋葬も許さなかったが・・・。

485:日本@名無史さん
05/11/14 20:17:35
そーいや新撰組からスカウト受けて断った豆腐屋がいたよね。誰だったっけ?

486:日本@名無史さん
05/11/15 03:05:19
>>316
その人物は恐らく、あれがなければ超マイナーだったんだろうな。

487:日本@名無史さん
05/11/23 19:57:28
木村って人

488:日本@名無史さん
05/11/24 07:35:07
誰やねん

489:日本@名無史さん
05/11/24 14:02:03
海保青陵

丹後宮津藩家老角田市左衛門の長子
として江戸で生まれる
藩営専売を説き歩いた。

490:日本@名無史さん
05/11/24 14:12:44
>>473
高山彦九郎
江戸中期の人、寛政三奇人の一人
林子平は割りとメジャーだけど、思想的な人
マイナーですね
蒲生君平のほうがもっとマイナーかも

491:日本@名無史さん
05/11/27 09:29:48
マイナーだけにここは人気ないなAGE

492:日本@名無史さん
05/11/27 09:52:08
河本にわ
(1863(文久3)~1976(昭和51))
徳川家茂時代に生まれながら、今29歳の人が生まれた年まで生きた。
URLリンク(www.mitsui-seimei.co.jp)

493:日本@名無史さん
05/11/29 12:55:54
姉歯某(名前は忘れた)
仙台藩士で、佐幕派
うる覚えだが藩主、伊達宗成に東征軍・薩長軍へ徹底抗戦を求める。
姓は姉歯(あねは)名は忘れた
仙台藩士兼大工の棟梁だと恐い

494:日本@名無史さん
05/11/29 12:57:45
岩村高俊

495:日本@名無史さん
05/11/29 12:59:03
仙台藩士で、会津戦に参戦した人で 姉歯(あねは)なんとかと言う人がいるのは確か
なんとか隊か なにか忘れたが、隊を率いていたような気がする

496:日本@名無史さん
05/11/29 13:01:38
岩村通俊

497:日本@名無史さん
05/11/29 13:43:24
新選組隊士中村金吾。結構活躍したけど中途半端な時期(慶応元年又は二年)に離局。

498:日本@名無史さん
05/11/29 20:02:59
>>493
今、旬の人のご先祖ですか?

499:日本@名無史さん
05/11/29 20:06:47
安藤早太郎

500:日本@名無史さん
05/12/01 13:17:43
服部武雄
新選組隊士・ 御陵衛士
一説では新選組どころか京都の浪士の中でも一番強かったらしい。けどあんまり有名じゃないんだよな~~なぜ?

501:日本@名無史さん
05/12/01 17:09:29
>>495 瀬上隊軍監・姉歯武之進だよ!
>>498 旬の人のご先祖だと私は思いますね!

502:日本@名無史さん
05/12/13 14:56:17
桑田 立斎(1811~1867)

越後国新発田藩士、村松喜右衛門の第二子。
蘭医、坪井信道に師事し蘭医となる。天保13年、深川万年橋に小児科の診療所を開く。
上野国山内恵律師にも帰依し、棄児養育ならびに種痘について幾度も幕府に建白した。

たまたま嘉永2年、蘭医モーニケにより牛痘種が日本にもたらされ、痘種が江戸鍋島邸に到着すると
同邸と自邸の間の幼児ら十数名に接種し、その痘種に関する書を次々と著しその効用を宣伝した。

安政4年、蝦夷地で疱瘡がアイヌの間で蔓延し病死者が相次ぐという報が幕府に伝えられると、
桑田立斎と深瀬羊春はアイヌに種痘せよとの命をうけ、同年4月に江戸を発ち、蝦夷地への道すがら
幼児に接種しその中から良痘児を選んで次駅に伴うという駅伝方式で目的地まで痘種を運んだ。

箱館において深瀬羊春と会して分担を定め、深瀬羊春は西蝦夷と樺太
桑田立斎は東蝦夷とを巡って5115人(「明治国手百家略伝では7000人」)に痘種を施して
9月に箱館に帰り11月に江戸に帰着した。
生来、済幼院設立と10万人の幼児接種を目標としていたが、済幼院設立は実現せず、接種児も7万人
に達したところで、明治元年7月、58歳で死去。

503:日本@名無史さん
05/12/13 15:06:08
飛田 与七(1833~1869)

身分 水戸藩反射炉係の大工
出身 常陸国 那珂湊村 字小川

父の跡を継ぎ大工になる。
絵画や彫刻のうでは天才的であったという。19歳の春、水戸領内の大工の中から選ばれて
薩摩藩の反射炉の視察団として派遣され、その後、苗字帯刀を許される。
嘉永6年、帰藩。
安政元年、水戸藩は湊の高台に反射炉を起工開始。飛田も工事に尽力を尽くす。
安政4年、反射炉の第二基工事が完成。
しかし、
元治元年の藩末の内乱で反射炉は灰燼に帰し、その跡に茫然自失としてたたずんでいる
ところを諸生党に捕らえられ入牢。出獄後37歳で死去。

504:日本@名無史さん
05/12/13 15:07:02
大貫 多介(1835~1860)

身分 水戸郷士
出身 常陸国 那珂郡 西塩子村

万延元年の2月20日、高橋多一郎と脱藩。3月6日大阪に到着。
大老・井伊直弼の襲撃成功の報が大阪に達したが、薩摩側の事情が一変したため薩水連合の構想は崩れた。
そのため今後の進退を協議すべく同志・川崎孫四郎と大阪一旗亭に会合しているところを捕吏に包囲され
囲いを突破するも泉州堺で捕らえられ獄死。26歳。

505:日本@名無史さん
05/12/13 15:07:48
中村 貞介(1833~1861)

身分 農民
出身 常陸国 那珂郡 八里村

同郷の大武魁助や多くの神官の同志と共に尊攘運動に身を投じる。
脱藩浪士・有賀半弥らの外人襲撃計画を知りこれに身を投じる。
すなわち文久元年5月28日の第一次東禅寺・英国仮公使館襲撃事件である。

この事件により公使館員2名が負傷、警備兵十数名が死傷するも戦いは敗北に終わり
中村貞介は包囲を脱して旅館に身を潜ませるも捕吏に探知され、包囲のなか自刃して果てた。29歳。
ちなみに二年後の文久3年、第3次英国公使館襲撃事件では公使館を焼き払うことに成功している。
(メンバーは高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文ら長州勢)


506:日本@名無史さん
05/12/13 15:09:12
斉藤 大之進(1822~1871)

身分 捕吏
出身 上野国 緑野郡 緑野村

若くして幕府に仕え、文久元年5月28日、東禅寺にあった英国仮公使館を水戸浪士・有賀半弥ら10余名が
襲ったときちょうど宿営に当たっており、これを奮戦して撃退した。
この功績により後年、英国皇帝より賞牌を受けた。

斉藤大之進はこの一戦でいっきに武勇をもって知られ、文久2年に一介の捕吏から旗本に抜擢される。
その後、外国奉行・竹内保徳に従って欧州六ヶ国の視察に加わり世界を回遊して帰朝するや
神奈川奉行改役に就くなどトントン拍子に出世した。

明治元年、新政府軍が東進してくるや、先鋒の西郷隆盛と交渉して神奈川一帯の安全を確約させた。
その後、明治政府から出仕の要求があり勤務を継続。
明治三年、土木権大丞となり、灯台局長などを兼ねた。50歳で没。

507:日本@名無史さん
05/12/13 15:24:23
斉藤 留次郎(1830~1860)

安政の大獄で前藩主・徳川斉昭がふたたび処罰されると雪冤運動に加わった。
安政五年、勅書問題に際して極力伝達を進言し、江戸へ上がっては画策するところがあった。
(勅書問題とは孝明天皇が水戸藩へ現政権である井伊大老の独裁制の強い政治を諸侯達で打破するよう
命じたものであり、朝廷が幕府を介さず直接諸侯へ指令を下すということは前代未聞の事件であった。
これは、幕権強化を狙う井伊に対抗して
勅書を受け入れて井伊打倒に動くか、勅書を返納して幕府との対立を避けるかで
藩の存亡を大きく左右する重要な問題であった。時、あたかも薩摩藩士・有馬七平によって薩水間の連合の
周旋が進んでいたときである)

しかし、一部の過檄派を除き幕府と対立を避ける意見が採用され勅書が返納されることに決定されると
一通の書を書き留めて城中大広間廊下で割腹して廊下を血で満たし勅書の通過を阻止した。31歳。


508:日本@名無史さん
05/12/13 15:49:46
岩間 金平(1838~1896)

水戸藩士。
安政2年、小十人目付組頭に進任し、文武に励み国事に奔走した。
万延元年6月、西帯刀らと共に長州藩士・桂小五郎と丙辰丸に会見して盟約を結び幕閣改造を計った。
これを丙辰盟約、または成破の盟と称した。

のち、京都滞在中に岡山藩主・池田茂政に兵庫開港阻止の遊説を行ったり
明治元年7月、同藩の北越追討に従軍したりし、翌年6月、藩主・徳川昭武を補佐して北海道開拓に人力した。
59歳で没。

509:日本@名無史さん
05/12/14 08:20:28
どうでもいいやつばっかりだな

510:日本@名無史さん
05/12/21 21:46:03
age

511:日本@名無史さん
05/12/30 18:48:17
赤尾 清三郎(1821~1867)

福山藩出身。浪士。
元治元年水戸の田丸稲之衛門、藤田小四郎らが大平山に屯営した際に、挙兵に参加せんと
軍門を叩き意見を述べたが議論が合わず合流しなかった。

一行が上州太田町に帯陣したおりにも、再び表れ意見を述べたが天狗党には容れられなかった。
そのため天狗党に加盟することをあきらめ、
慶應3年、自ら薩摩藩邸に倒幕派の同志を組織し、同年11月の出流山義挙には数十人を率いて
参加し討幕運動の先端を切った。

しかし岩船山の戦いに敗れ、長男、豊が捕らえられると自ら捕吏に捕らえられて斬刑に処された。


512:日本@名無史さん
05/12/30 18:49:34
水野 勝善(1840~1864)

結城藩家老。
性格は沈毅。藩の尊攘派の頭領的存在であった。
越惣太郎とともに水戸藩の尊攘派と連絡を取り、結水両藩の連合を模索していた。
しかし、結城藩主・水野勝知や江戸藩邸の藩士たちは徳川譜代の立場から結城藩の藩論は佐幕であった。

元冶元年、水戸で筑波挙兵がおこると、挙兵側から結城藩の参加を求められたが、水野勝善は
自分自身は尊攘だが、藩の家老という立場から藩論である佐幕を貫き、藩力微弱を理由にこれを断った。

しかし、自身は家老という立場を捨てて脱藩。筑波挙兵軍に身を投じた。
これにはその他の尊攘の同志も役職を捨てて脱藩し水野勝善に従った。

その後、結城脱藩浪士隊は高道祖、下妻の二戦役に転戦し、主力の水戸藩士が筑波をくだり那珂湊に拠ると
これと別れ、他藩士と別働隊を組織し、海路、横浜へ進軍しようとしたが幕府軍の追撃を受け四散、
常総の山中を逃走中に捕らえられ水海道鬼怒川堤で自刃した。25歳。

513:日本@名無史さん
05/12/30 18:52:49
大野木 仲三郎(1843~1864)

加賀藩士。
元冶元年、藩の世子・前田慶寧に先だって三月に上京。
長州藩士、桂小五郎(木戸孝允)と提携して征長が強行された場合、鳥取藩、対馬藩と協力して
薩摩、会津、桑名藩を挟撃して撃退し、天皇を藩領の今津へ遷座させようと謀議したが挫折。
同年7月、禁門の変で庇護を求めてきた長州藩士・小島弥十郎を津田正邦に託して長州へ送った。

以後、苦境に陥った慶寧を助け、退京理由を釈明したが効がなく慶寧は謹慎、側近の勤皇党は
一斉弾圧され仲三郎は切腹を命じられた。22歳。

514:日本@名無史さん
05/12/30 18:53:41
和田 秋清(1834~1869)

薩摩藩士。文久年間、五代友厚に従って航海術を修め慶應年間、藩が春日丸を購入するに
及んで士官に任官した。

明治元年正月、藩船・平運丸が幕府の開陽艦に砲撃された時、これと土佐沖に戦い
2年3月、春日丸に航海長として宮古港に入り、幕艦の砲撃に応戦、これを追撃して青森に至った。
これより陸兵と並進して箱館港に入り、
5月7日、幕艦・回天丸、幡竜丸と檄戦を展開し、味方の死傷者が続出するなか
終始、甲板にあって味方を指揮したが左大腿を敵弾に貫かれて戦死。36歳。

515:日本@名無史さん
05/12/30 18:56:09
井上 奨輔(1843~1868)

立場:萩藩足軽→振武隊砲隊長
出身:萩

松下村塾塾生。
その後、奇兵隊に入隊し、京都守衛の任に選ばれた。
八月十八日の政変によって帰国。
元冶元年、藩主訴冤のため上京したとき禁門の変に遭遇、堺町門の戦いで負傷して帰国した。

治療の後、振武隊に入隊し砲隊長となる。
慶應元年1月、恭順派政府軍と美邇郡で戦い、翌年6月に四境戦争では石州口で戦い浜田城を攻略した。
明治元年4月、北陸掃討軍として出兵し、
同年8月、越後蒲原郡石間村の激戦で戦死。26歳。

516:日本@名無史さん
05/12/30 18:59:32
水谷 左門(1844~1864)

豊前国田川郡彦山の修験者。
勇壮活発で武芸を好んだ。
文久3年6月、彦山の僧侶達が長州と連絡をとり挙兵しようとしていることを知り、これに加わる。
8月、奇兵隊の長三洲が連絡のため訪れると、会見して同志とともに長州に渡る。

初め招賢閣の七卿の守衛にあたり、翌年、7月禁門の変に従軍。
真木和泉、久坂玄端の旗下にあって鷹司邸東門で同志・裕王坊、中坊、浄現坊ら僧侶とともに奮闘し敵中に
斬りこんで戦死した。21歳。

517:日本@名無史さん
05/12/30 19:02:56
渋谷 伊予作(1842~1864)

下館藩士。
早くから尊攘論に傾倒していた。
文久2年12月脱藩して京都に赴いた。同3年5月、長州藩が下関で外国船を砲撃したと聞き
奇兵隊に身を投じた。
のち、京師に戻り。中山忠光に従い大和天誅組の四天王の一人として挙兵した。
近畿諸藩はこれを包囲し賊徒討伐軍と称したので憤慨し津藩藤堂氏に賊名を除かんと謁したが
逆に欺かれて獄につながれ、斬られた。23歳。

518:日本@名無史さん
05/12/30 19:03:43
渋谷 伊予作(1842~1864)

下館藩士。
早くから尊攘論に傾倒していた。
文久2年12月脱藩して京都に赴いた。同3年5月、長州藩が下関で外国船を砲撃したと聞き
奇兵隊に身を投じた。
のち、京師に戻り。中山忠光に従い大和天誅組の四天王の一人として挙兵した。
近畿諸藩はこれを包囲し賊徒討伐軍と称したので憤慨し津藩藤堂氏に賊名を除かんと謁したが
逆に欺かれて獄につながれ、斬られた。23歳。




519:日本@名無史さん
05/12/30 20:24:30
このスレ読んでいると、坂本龍馬だの河井継之助だののように、
まだまだ発掘できる幕末の英雄がいるかもしれない、と思う。

520:日本@名無史さん
06/01/28 14:57:10
姉歯武乃進(あねは たけのしん)

仙台藩士 新政府の奥羽鎮撫使の下参謀・世良修蔵を福島
の金沢屋で捕縛指揮した。その後戊辰戦争で戦死。

件の方の先祖かどうかは解らないが一族であることは間違いない。

521:日本@名無史さん
06/02/10 07:52:36
おっぱいの見本です

AAカップ URLリンク(k.pic.to)
Aカップ URLリンク(j.pic.to)
Bカップ URLリンク(k.pic.to)
Cカップ URLリンク(j.pic.to)
Dカップ URLリンク(j.pic.to)
Eカップ URLリンク(k.pic.to)
Fカップ URLリンク(k.pic.to)
Gカップ URLリンク(k.pic.to)
Hカップ URLリンク(j.pic.to)
Iカップ URLリンク(j.pic.to)

522:日本@名無史さん
06/03/28 07:18:30
パトラッシュ、疲れたろう。
僕も疲れたんだ…
     ,.-─-、
     / /_wゝ-∠l
     ヾ___ノ,. - >
     /|/(ヽY__ノミ
    .{   rイ  ノ


何だかとても眠いんぶべら

   パーン   l>‐∠l
   ,.-─-、∩/,. - >
  //。wv、ゝヾヽY__ノミ
  ヾ__Д(☆ ミ⊃  ヽ
   /∨ (ヽ

523:日本@名無史さん
06/04/21 12:28:17
小嶋兵左衛門:幕末の仙台藩の悪徳材木商人。本当は善良な仙台藩建築奉行姉歯武之進に手抜き建築をやらせる。
戊辰戦争で奥州白河城が簡単に落城したのも手抜き建築のせい。なお姉歯武之進は責任を取りその城で戦死。

524:日本@名無史さん
06/04/21 12:47:52
外国人もあげてほしいな。どなたかお願いします

525:日本@名無史さん
06/04/21 21:37:21
ジャネット八田

526:日本@名無史さん
06/04/22 07:29:26
ベルクール
フランス初代駐日公使。後任のロッシュのインパクトが強すぎて印象がない

527:日本@名無史さん
06/04/22 13:05:36
ヒュースケン


528:日本@名無史さん
06/05/14 09:46:33
すねる

529:日本@名無史さん
06/05/30 07:50:58
すねる(弟)

530:日本@名無史さん
06/05/30 10:56:56
八州取締出役・園部弾次郎

浅草弾左衛門手代・小鹿野軍右衛門 
同、笠原忠助 藤本佐藤七 永井六右衛門 水野彦助 矢野初右衛門 野田富右衛門


531:日本@名無史さん
06/05/30 10:58:01
伊勢華。もとの名を北条瀬兵衛。長州藩士。
先祖は北条就之とひめぢ(北条氏忠娘)なのか・・・?

532:日本@名無史さん
06/05/30 11:23:05
相模国湘南渚藩(一万八百石)オーシャン奉行 杉山清隆

533:日本@名無史さん
06/06/27 23:03:53
天野八郎

534:日本@名無史さん
06/06/27 23:38:55
嘉藏は外出?

535:チェリー
06/06/29 22:13:06
天保高殿
という志士のこと、知っている方いらっしゃたら教えていただけませんか?
天誅組で東吉野で亡くなったと地誌ではわかっており、水戸脱藩らしいのですが、
その記述以外一切不明なんです。
彼が天誅組に入る前、どんな足跡と人生をたどったか、など知りたいのですが・・

536:チェリー
06/06/29 22:15:21
天保高殿
という志士のこと、知っている方いらっしゃたら教えていただけませんか?
天誅組で東吉野で亡くなったと地誌ではわかっており、水戸脱藩らしいのですが、
その記述以外一切不明なんです。
彼が天誅組に入る前、どんな足跡と人生をたどったか、など知りたいのですが・・

537:日本@名無史さん
06/06/29 22:18:17
小栗上野介

538:日本@名無史さん
06/07/01 08:30:26
時山直八

539:日本@名無史さん
06/07/09 14:43:30
>>537
小栗は有名

540:日本@名無史さん
06/07/18 00:31:20
ほんまや

541:日本@名無史さん
06/07/28 02:04:15
こんどうちょうじろう
近藤長次郎(1838~1866)幕末の志士。上杉宗(宋)次郎。
名は昶、昶次郎。字は子長。号は藤陰、梅花道人。天保9年3月7日
高知城下水通町2丁目、餅菓子作りに生まれ、饅頭屋長次郎とよばれた。
父伝次、母鹿の長子。幼少より饅頭行商を手伝いながらも本をはなさず、
剣道にもはげんだ。藩の重役由比猪内の下僕として江戸に出る機会を得て、
弥太郎の師でもあった安積艮斎の門をたたく。
学問が進み、諸藩より長次郎を扶持したいとの申し出が勝のところに
あいつぎ、土佐藩は急ぎ苗字帯刀を許し、終身2人扶持、
金10両給付の陸士格の藩士として取りたてた。
文久3年、勝に従って神戸海軍塾に入る。
長崎に亀山社中がおこされるにおよび、これに投じ、龍馬のもとで
薩長同盟に奔走。長州のためにユニオン号(桜島丸、乙丑丸)購入に尽力。
その報奨として、井上聞多ら英国密航経験者の話もありイギリス渡航を計画したが仲間に露見。
秘密裏の行動を責められ慶応2(1866)年1月14日(墓所の長崎市寺町皓台
寺の過去帳では24日)29歳で自害。

542:日本@名無史さん
06/07/28 02:06:37
望月亀弥太

名は義澄。天保7年土佐郡小高坂(現高知市)で団右衛門真澄の二男として生まれる。
文久元年9月武市瑞山が江戸より帰り尊王攘夷論を説くや、兄清平とともに勤王党に
加盟したとみられているが、その血盟書に名はない。
翌2年山内容堂護衛のため50人組の1人として江戸にの上る。
のち藩主山内豊範に従い江戸に滞留し、同3年1月大監察小南五郎右衛門の命により、
高松太郎、千屋寅之助とともに勝海舟について測量、航海等の海軍のことを学んだ。
元治元年時勢の動きに落ち着いておれず神戸の海軍塾を脱して京に上る。
同志に討幕の計をすすめたが、同年6月5日池田屋の変で会津、桑名の兵
および壬生浪士に襲われ奮戦し、重囲を突破したが、満身創痍の身で再起不能を知って翌6日自刃した。
享年27歳。


543:日本@名無史さん
06/07/28 02:17:00
松平太郎

544:日本@名無史さん
06/07/28 03:47:23
稗田利八
1849~1938
最後の新撰組隊士

柴五郎
1860~1945
会津藩の偉人

林忠敬
1848~1941
脱藩して幕府に忠誠を尽くした大名

545:日本@名無史さん
06/07/28 11:01:07
>544
林忠崇ではないか?
請西藩藩主にして、徳川存続の志の為に伊庭八郎らの
誘いを受け脱藩。
後に徳川存続だけは決まり伊庭らと別れて降伏するも、
請西藩の取り潰しが決定。(確か唯一の取り潰し)
昭和の時代まで生きた最後の大名として有名。
この人の「琴となり 下駄となるも 桐の運」と言う
言葉は結構好きだったりする。

546:日本@名無史さん
06/08/04 22:41:52
もしかして戦死すると歴史に残りにくいのか?

547:日本@名無史さん
06/08/04 23:50:25
時山直八はそうだな

548:日本@名無史さん
06/08/28 17:01:20
みな何から人物情報得てるの?地元・郷土史関連の本?
土居大作(実光)・七助、村岡宗四郎、田岡凌雲、小橋安蔵、木内順二、小橋橘陰
調べようと思うが上記の中(俺の地元の勤王)だと誰がマイナー?

549:日本@名無史さん
06/09/03 23:52:49
橋本左内とか長井雅楽
幕末初期の人間は・・・結構重要なのによく知られていない。

550:日本@名無史さん
06/09/06 18:19:03
住谷寅之助とか詳しくしりたい

551:日本@名無史さん
06/09/06 22:38:05
>>542
望月亀弥太すきですよ。
ちょいちょい歴史小説に登場しますよね。

552:日本@名無史さん
06/09/12 22:28:00
>>551
お、同士がいたか~。望月亀弥太、俺もあいつ好き。
肖像が残ってないのが惜しいね。
亀弥太の亡骸を見た人は「是は年齢十八九歳、」と言っている。
童顔だったのかな。


553:日本@名無史さん
06/09/21 18:10:36
望月と北添はわりと有名だろう

554:日本@名無史さん
06/09/22 00:31:10
長井雅楽良いよねえ。
先見の明があるのも善し悪しだなと言う人生だけど。

555:日本@名無史さん
06/09/28 17:10:50
山代屋和助

山縣にあてつけに陸軍大臣室で腹を切った人。
大臣室の金庫が空っぽになっていた原因を作った人。らしい。
うまくやってれば、三菱の岩崎ぐらいになっただろうか。

556:日本@名無史さん
06/09/28 20:45:29
伊庭八郎の征西日記で不始末を起こしたと書かれてる(日記中登場回数多し)人物戸田祐之丞。手裏剣使いの幕臣。その不始末とは酔っ払って池田屋事件直前の新選組屯所に行ったという武勇伝

557:日本@名無史さん
06/10/08 08:36:31
福地桜痴

558:日本@名無史さん
06/10/10 12:07:28
梅田雲壜、梁川星巌 吉田寅太郎、勝小吉

559:日本@名無史さん
06/10/10 12:21:19
加藤司書…福岡藩高官にして尊皇攘夷派の重鎮。
平野国臣…尊皇攘夷派志士。生野の乱を起こす。
大隈言道…歌人。
野村望東尼…勤王の志士を平尾山荘に匿った勤王の母。
月形洗蔵…薩長和解に尽力した幕末志士
中村円太…福岡藩の尊皇攘夷派志士。
早川養敬…中岡慎太郎と仲深い尊皇攘夷派志士。
原古処…儒学者。稽古館の教授。
海賀宮門…古処の門下で勤王志士。
戸原卯橘…古処の門下で勤王志士。
臼井亘理…幕末期、洋式軍備の重要性を説いた藩士。干城隊に妻諸共に惨殺された。
中島衝平…干城隊に暗殺された。
臼井六郎…臼井亘理の子。日本最後のあだ討ちを行った。
山本克己…あだ討ちされた人。
宮崎車之助…秋月党の首領。秋月の乱を起こす。
大石進…幕末三剣豪の一人。
真木和泉…久留米藩の尊皇攘夷派志士。禁門の変に破れて自刃。



560:日本@名無史さん
06/10/22 17:03:16
「五稜郭を落とした男」でだいぶ有名になったと思うが
山田顕義。

561:OPS
06/10/22 18:25:43
小栗上野介あまり知られてないかな。
社会の先生でも知ってなかった。
でもこいつの評価は自分的には高いけど世間の評価は低いかな?

562:日本@名無史さん
06/10/24 07:54:50
その社会の先生の方が問題だろ

563:日本@名無史さん
06/11/15 20:06:13
保守っとくか

564:日本@名無史さん
06/11/17 11:11:57
>>561
上野介は縁起が悪いから替えたらと言われたのに、
そんなこと気にしないよって言って上野介のままだったのよね…
戊辰戦争の混乱の中で、無抵抗だったのに川原で斬首カワイソス


565:日本@名無史さん
06/11/29 15:25:27
薩摩藩士 奈良原 喜三郎

寺田屋騒動の折、殺気立った仲間たちを説得するために
寺田屋の階段を上半身裸の丸腰で登り
仲間たちを説得する。

確か、生麦事件のときも大名行列を横切った外人を切ったのも
この薩摩隼人だった。

566:日本@名無史さん
06/11/29 17:21:40
間違った
喜三郎じゃなくて
喜八郎 失礼!

567:日本@名無史さん
06/12/06 02:57:35
大石団蔵

568:日本@名無史さん
06/12/06 08:54:35
教師なんて教授と違いおおざっぱな事しか知らないよ!音楽教師はモーツァルトとベートーベンとビートルズくらいしか知らないのがいたし(もっとマイナーなクラシック作曲家やロックバンドたくさんいるのに)閑話休題。

569:日本@名無史さん
06/12/09 20:17:12
そっか。でもかなり頭不自由なのは自覚してる?

570:日本@名無史さん
06/12/28 02:49:24
大坂藩邸留守居の北条瀬兵衛(維新の後は伊勢華(いせさかえ)と名乗る)って?
木戸の書簡とかにも出てくるんだが・・・・

571:日本@名無史さん
07/01/15 10:20:25
玉虫左太夫なんかどうなの?


572:日本@名無史さん
07/01/21 21:39:20
佐藤 政養 文政4(1821)12~明治10(1877)8/2
鉄道功労者。庄内酒井家農民佐藤与兵衛の長男として出羽国飽海郡升川村に生まれる。
幼少のころから性温順で父母に孝行を尽くして郡内の評判となる。
たびたび庄内酒井家から表彰を受け、また家業に従事する傍ら、彫刻・俳諧を嗜んだという。
弘化元年(1844)酒井家に選ばれて江戸に上がり、広木貫助に入門して砲術を修める。
後に勝海舟の門に移って、蘭学を学ぶ。
途中、嘉永6年(1853)には伊藤鳳山から漢学、後藤恒俊から彫刻の技を学んだ。
安政2年(1855)海舟に従い長崎海軍伝習所に赴き、勝麟太郎内侍・員外聴講生としてオランダ人から測量・軍艦操縦の術を習得する。
安政6年(1859)酒井家から組外徒士格となり、また幕府から軍艦操練所蘭学翻訳方を命ぜられる。
文久2年(1862)幕臣に取り立てられ、大坂台場詰鉄砲奉行に就任。
文久3年(1863)兼任で神戸海軍操練所の教授方に就任する。
元治元年(1864)将軍家茂の軍艦による大坂港巡視に供奉。同年鉄砲奉行兼神戸軍艦操練所教授方を免職。
明治2年(1869)太政官民部省に出仕。翌年土木司に奏任される。
明治4年(1871)工部省鉄道寮鉄道助に奏任される。
明治5年(1872)東京-横浜間の鉄道敷設のため尽力、12月明治天皇から軍扇を賜る。
明治10年(1877)8月2日、勝海舟邸にて病のため、死去。享年57歳。青山墓地に葬られる。
昭和3年(1928)11月、従4位を追贈。
昭和39年(1964)7月、郷里の山形県吹浦駅に銅像が建立された。


573:日本@名無史さん
07/01/22 01:17:17
玉虫左太夫は日本で最初にビールを飲んだ人(記録にある範囲で)として有名じゃないですか
遣米時の日記とか読むと滅茶苦茶頭良いね。福沢諭吉より良い。

574:日本@名無史さん
07/01/22 19:44:21
本多幸七郎忠直
旗本。旧幕府軍陸軍歩兵頭取。
生没年不詳。
でも「安政6年、19歳で祖父の跡を継いで新御番についた」ともある。
慶応4年4月、陸軍歩兵奉行・大鳥圭介率いる小川町伝習隊などと共に江戸を脱走。
宇都宮での攻防戦で負傷。一端戦列を離れるが、その後会津戦で復帰。
蝦夷に渡り五稜郭降伏開城する明治2年5月まで連隊隊長として戦う。
降伏後は謹慎。
明治3年4月釈放。
明治3年5月、沼津兵学校体操方(この時28歳と「旧幕臣の明治維新」にある)
明治4年12月、陸軍少尉。
明治7年、陸軍中尉。
明治14年、眼病のため依頼免官。その後の足取り不明。

伝習隊隊長としては「大川正次郎」「滝川充太郎」と共に名前が出る。
歩兵奉行(箱館政権では陸軍奉行)の大鳥にも頼りにされ、大鳥の著書「南柯紀行」にも
特に名指しで「(負傷につき)いなくて困る」とすら書かれているのに何故か詳しい事が
わからない。
写真もない(同じ脱走組で沼津兵学校にも行った下逸郎氏は写真あるのに・・・)

575:日本@名無史さん
07/01/27 01:25:44
 中世古 克一(なかぜこ かつかず) 天保14年(1843)~慶応3年(1867)12月25日
 通称は仲蔵。出羽庄内酒井家家臣。同家家臣相良八十吉の弟。後に同家家臣300石中世古惟一の養子となる。
安政3年(1856)7月、世子忠恕の近習に召出される。
安政5年(1858)田宮流剣術免許皆伝を受け、世子忠恕の指南役に当たる。同年酒井家が実施した与内坂で行われた洋式調練に参加する。
元治1年(1864)3月中奥小姓。
慶応3年(1867)12月庄内酒井家が将軍家の命令で江戸三田の薩摩・佐土原の両島津家屋敷を攻撃した際、砲車司令として参加。南裏門から砲撃の際、砲身が破裂、即死した。
庄内酒井家唯一の戦死者。享年25歳。鶴岡総穏寺に葬られる。



576:日本@名無史さん
07/01/27 02:12:57
 神戸 義方(かんべ よしかた) 天保11年(1840)11月27日~明治15年(1882)7月30日
 通称は小太郎・善十郎。出羽庄内酒井家家臣。同家家臣120石神戸方儀の長男として鶴岡に生まれ、若年の頃から、英才の誉れをほしいままにする。
慶応4年(1868)戊辰戦争当時は家督を相続しており、役職は近習頭取。
同年7月、酒井了恒指揮の2番大隊が編制されると、軍監兼参謀として出征、これを補佐した。
明治3年(1870)11月、前当主酒井忠篤が家臣70名を引き連れて鹿児島に兵学修行をした際、一行の監督となって同地に赴く。
明治5年(1872)4月、参議西郷隆盛の尽力により、酒井忠篤・忠宝兄弟のドイツへの留学が決定すると、酒井家から他一名と選ばれて、酒井兄弟とともに随従してドイツに渡る。
この間約7年間、忠篤(ドイツ式兵学)・忠宝(ドイツ式法律学)兄弟に近侍し、自身も法律の研究に励んだ。
明治12年(1879)12月、主君とともに帰国。
明治15年(1882)7月30日、故郷の鶴岡南郊日枝村の自宅で自刃する。享年43歳。
自刃の理由については諸説あり、主君忠篤が帰国後、西郷派の人物であったため、太政官で不当に扱われ
(留学前陸軍少佐だったのが帰国後2ヶ月で陸軍中尉、後予備役入り。)その後鶴岡に隠棲。この隠棲を支持したのが
西郷びいきの主流派家臣団だった。
その忠篤の将来をめぐり、主流派家臣団と対立、自殺に追い込まれた。



577:日本@名無史さん
07/02/03 08:12:07
 入江 文郎 天保5年(1834)~明治11年(1878)1月30日
 天保5年(1834)松江松平家家臣で奥医師の元範の子としてうまれる。始め、江戸で蘭学を竹内玄内に学ぶ。
万延元年(1860)横浜でフランス公使館通訳ブーブについて、フランス語を50日ほど習った。
文久元年(1861)蕃書調所出役教議手伝となり、ブーブについてフランス語の発音と作文を習った。
慶応元年(1865)開成所教授職並となる。
慶応3年(1867)フランス軍事顧問団が到着すると、陸軍所において、フランス公使ロッシュやフランス軍事顧問団の建白書
の翻訳を行う。陸軍総裁松平乗謨にフランス語を教えている。
明治元年(1868)太政官に出仕する。
明治2年(1869)3月フランス留学を命ぜられ、帰国後文部省中教授になり、フランスの学制の調査に当たった。
明治11年(1878)1月30日、パリで喉頭結核で死んだ。享年44歳。
 

578:日本@名無史さん
07/02/04 00:01:17
 梶原 影武 天保13年(1843)10月10日~明治22年(1889)3月23日
 幼名は悌彦。天保13年(1843)10月10日、父会津松平家家臣内藤信順、母もと子の間に次男として生まれる。
内藤家は代々会津松平家において家老格の家柄である。
 安政7年(1860)3月、梶原家に養子に入り、平馬影武と名乗る。
 文久2年(1862)閏8月、会津松平家が京都守護職に就任。
12月、藩主松平容保が兵1千を率いて江戸から上洛する際、大目付としてこれに従う。
 慶応1年(1865)5月、若年寄に就任する。
 慶応2年(1866)3月、家老に就任する。
 慶応3年(1867)1月、主席家老に就任する。
 慶応4年(1868)、戊辰戦争。江戸、横浜、新潟、会津の各地において外交、兵器調達など東奔西走の日々を送る。
8月、篭城戦の際、政務総督に就任する。
9月、西軍に降伏、東京に幽閉される。
 明治4年(1871)、釈放、後青森県庁庶務課長に就任するも、2ヶ月で辞任。北海道に渡る。
 明治22年(1889)3月23日、根室にて死去。享年46歳。

579:日本@名無史さん
07/02/04 01:22:22
外山 光輔・・・公卿。京都府貫族・華族。明治4年国事犯事件にて自尽。
愛宕 通旭・・・公卿。京都府貫族・華族。参与、神祇官判事。明治4年国事犯事件にて自尽。
初岡 敬治・・・出羽久保田佐竹家権大参事。明治4年国事犯事件にて斬罪。
小河 真文・・・筑後久留米有馬家権大参事。明治4年国事犯事件にて斬罪。
古賀 十郎・・・筑後柳川立花家家臣。軍務官書記。明治4年国事犯事件にて斬罪。
比喜多源二・・・愛宕家家扶。明治4年国事犯事件にて斬罪。
河上 彦斎・・・肥後熊本細川家家臣。幕末期は「人斬り彦斎」と恐れられた。明治4年国事犯事件にて斬罪。
矢野 寿助・・・豊前宇佐郡乙女村出身。農間船乗り渡世の者。明治3年長州脱退騒動に参加。明治4年国事犯事件にて斬罪。
楠本勘兵衛・・・豊後速見郡八丸村出身。明治3年長州脱退騒動に参加。明治4年国事犯事件にて斬罪。
楠本 省吾・・・豊後速見郡八丸村出身。勘兵衛の弟。明治3年長州脱退騒動に参加。明治4年国事犯事件にて斬罪。
阿部 琢磨・・・豊後速見郡平山村出身。明治3年長州脱退騒動に参加。明治4年国事犯事件にて斬罪。
以上、明治4年「国事犯」事件における自尽、死刑者でした。
 

580:日本@名無史さん
07/02/04 21:36:30
 木下 業広 文化2年(1805)~慶応3年(1867)
 通称は真太郎、宇太郎、号は犀潭。その先祖は菊池氏に仕え、父・衛門は徳行をもって郷里に聞こえた。
 業広も幼少の頃から秀才の名をほしいままにした。
文政10年(1827)、熊本細川家から帯刀をゆるされた。
天保6年(1836)、伴読に挙げられ、中小姓に班した。同年、江戸に遊学し、佐藤一斎の門下に入る。
嘉永2年(1849)、藩校時習館の訓導となる。以後、学校党と呼ばれる勢力の中心人物になる。
門下生の井上毅、竹添進一郎、木村弦雄、古荘嘉門は木下門下の4天王と呼ばれた。
慶応1年(1865)、物頭に就任する。
慶応3年(1867)、病没。享年63歳。

581:日本@名無史さん
07/02/06 00:15:30


582:日本@名無史さん
07/02/09 07:32:51
ほす

583:日本@名無史さん
07/02/11 20:06:48
 ジェームス・ファブル・ブラント 1841年(天保11年)9月23日~1923年(大正12年)8月7日
 スイス人。貿易(横浜外国人商人、時計輸入)。
1841年(天保11年)9月23日、スイスのルロックルで生まれる。
1862年(文久2年)、日本との修好条約締結の為、時計組合総裁・元参議院議員A・アンベールを団長としたスイス特派使節団の一行16名の一員として来日した。
1864年(元治1年)、条約は日本スイス両国間で締結されたが彼はそのまま日本に留まり、横浜居留地52番で時計宝石商を開業した。
1866年(慶応2年)、横浜大火の際この店は焼失したが、彼は居留地175番に新規の営業所を開設し、スイス時計の輸入商として日本各地にスイス時計の販売促進を行った。
1874年(明治7年)、横浜に出来た町会所に時計台を設置し、また横浜の名所でもあった高島町岩亀楼の建築は彼の工夫によるもので、何れも幕末・明治初期の横浜名所として浮世絵などに描かれた。
1923年(大正12年)8月7日、避暑先の長野県軽井沢の別荘で心臓発作の為死去。享年82歳。遺体は横浜山手の外人墓地に埋葬された。
 なお、彼は戊辰戦争の際には、薩摩島津家、長岡牧野家などに武器・弾薬等を供給したほどの商売上手であった。




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