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八風峠みち その二
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すでに伊勢に出るのに、八風峠や千草越えがメインルートになっているのが判る。
永碌のころ、伊勢国丹生川(員弁郡大安町)の某から四本商人に報告された
行商人の数は十八人、その前の年は五十人以上も山越えしてきたとある。
その活躍の場も桑名、梅戸、日長など、北伊勢一円に渡っている。
初めは近江の茶、薬、蚊帳、椀、布などを遠方へ運んで売り、
その土地の産物を仕入れて帰途に売るのである。
ところで、戦国時代初期に八風峠の通行権をほゞ独占していたのは保内商人らしい。
保内とは滋賀県八日市市の南東部に広がる、今堀、中野金屋など十四の集落を
足場にした商人のことである。
こゝは比叡山の寺領であったので、商人たちはその保護を受けて活躍した。
別の名前を[得珍保商人]とも言われた。それは平安時代に得珍という
比叡山の僧が保内に流れてきて行商を始めたことから。そして保内から伊勢
へ出る八風峠と千草越えの二つの峠道を通行するのに、ときの幕府から
許可されたという[院宣]と称する通行免許を振りかざしたり、商人仲間で組合
を組織して会費を集める。
ときの支配者、大矢知氏や佐々木氏(六角)に献金し、その見返りに独占
通行権を得ていたという。
保内商人たちはこの特権を利用して、伊勢地方の産物を独占して扱うことが出来た。
また得珍が比叡山の僧だったので
『この商品は比叡山の名において、保内商人だけに買い取らせる』
という許可状を勝手に発行したりした。
峠の通行権と伊勢産物の独占に成功した後は、この特権を必死に守ろうと
する。そこで彼らは私設の関所を八風峠の入り口に構えたり、無頼の徒や
僧兵などを用心棒に雇って八風峠に配置した。
そして権利のない他の商人が自分たちの扱う商品を買いこんで、伊勢から
峠を越えようとすると、そこで待ち構えて品物を没収したり、さんざんに打ち
のめしたりした。
永碌元年(1558)、近隣の枝村商人が伊勢の桑名港で紙を仕入れ、八風峠
を越えて運搬しようとした。すると保内商人がこれを発見し、これは違反だと
して八風峠で商品を没収してしまった。怒った枝村商人は訴訟に持ち込んだ
が、そのときの保内側の言い分は 『枝村が運搬した紙は公認された美濃紙でなく、桑名で仕入れた
他の紙である。そのうえ八風峠通行は違法行為である。だから
品物を没収した。』枝村は『桑名で購入したのも、八風峠通行も我々が初めてではない。前例がある。』
『そんな前例はない。事実無根だ。』などゝ応酬が続いているが、その中で
『日本国諸商罷通八風海道之由候(略)』
「すでに日本中の諸国の商人が八風峠をまかり通っているではないか」と主張している。
永碌元年(1558)、八風峠での押収品目録を見ると、当時の商人の営業品目がわかり興味深い。
『麻の紐、木綿、陶器、塩、油草、若布、真綿、海苔、荒布、伊勢布 曲物、鳥の類、魚の類』
これは三河、美濃、伊勢、尾張などの主要な産物の殆どにおよんでいる。