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万葉と渡来人の里・狛江郷を巡る道
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調布から狛江にかけては古くは狛江郷と呼ばれた。高麗(朝鮮半島)から
先進文明を携えた渡来人が多数住み着き、狛江と言う地名が生まれた。一方、
特産物(調)として朝廷に献上した布地を調布と言ったことから調布の名が
生まれた。調布を作る技術は、これらの渡来人達が伝えたものと思われる。
万葉の昔、狛江郷一帯は麻の栽培がさかんで、麻から織られた麻布は白く
柔らかくするために多摩川で晒された。万葉歌に詠われた様に、高台から
多摩川を見下ろせば、白い素足を覗かせた里の娘達が多摩川の流れで調布を
晒らす光景が見られたことであろう。狛江郷における渡来人の足跡は、
深大寺の創建にまつわるロマンスや狛江百塚等に見ることが出来る。
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今でもここには金子 姓が多く、地主は皆渡来人の子孫だという。それに昭和に
入って宅地開発される前は、周辺に古墳も多く残っていたそうだ。ちなみに
現在私が住んでいる練馬の豊玉周辺には 白井(しらい)姓がやたらと多い。
そもそも地名に 馬と付いている練馬は、日本に馬を持ち込んだ朝鮮渡来人と
かかわっていることは多いに考えられる。今、丁度渡った黒目川の新座側、
練馬との境には馬場 という地名が残っている。天宝七年(1836)に出版された
『江戸名所図会』では、この黒目川を 黒馬川 と呼んでいる。さらに、現在の
和光市白子あたりから黒目川をはさんで、柳瀬川まで続く起伏のある武蔵野段丘
は、古来立野(たての)の駒と呼ばれた名馬の産地として有名で、天暦五年(951)の
『後撰集』を始めとする多くの勅撰和歌集にも詠まれた牧野だったことが述べら
れている。この立野という地名は、現在では東久留米市を流れる黒目川の支流、
立野川にのみその名を残しているが、藪のような草原が広がり、不毛の地と思わ
れていたかつての武蔵野を、渡来人達が逆に馬の放牧の適地として利用したこと
は想像に難くない。恐らく我が家の近所、練馬に多い白井さん達は、立野で馬の
放牧を生業としていた新羅系渡来人の子孫達なのだろう。