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久我山の秦氏
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久我山には、秦(はた)姓が多い。
古代の秦氏は新羅(しらぎ)系の渡来人であった。秦氏は、新羅より渡来した
弓月君を祖とし、この秦一族の秦川勝は、聖徳太子に使えていた舎人(とねり)
としてよく知られている。久我山の住宅地図をみると、秦を名乗る家は久我山
に多く集まり、玉川上水をはさんだ隣の牟礼にも、秦野、波多野といった名が
みえる。
武蔵野を散策すると、帰化人と何らかの関係をもった地名の地域が各所にみら
れ、当時の開拓の一面をみることができる。多摩川畔の狛江も、刑部氏一族が
居住したところである。刑部氏は、その先祖を秦氏においているが、この狛江
を中心とした多摩川地域、府中、調布、深大寺、井の頭池も狛江の名でよばれ
ており、また三鷹市の牟礼の地も秦氏一族の居住したところである。
渡来人は、およそ九世紀頃まで、開拓し定住するためにたびたび関東平野に入
り、その持ちこまれた文化が重層してゆく。新羅系渡来人も関東に多く入って
いる。武蔵国でいえば、埼玉県新座市のあたりがその定住したところとされ、
『続日本紀』の天平宝字2年(758)條に、
帰化の新羅僧卅二人。尼二人。男十九人。女廿一人を武蔵の国の閑地に移す。
是に於て、始めて新羅郡を置く。
とあるように、新座という地名も、新羅とよばれていたのが、新羅が「しんら」
と読むところから、「にいら、にいくら、にいざ」と変化した可能性がある。
桜井氏のいうように、久我山の秦氏もその頃来た秦一族であったかというと、
出自を明らかにできる、そのようにいいきれる資料はみあたらない。口伝すらも
残っていない。