昔の地図は古いat GEO
昔の地図は古い - 暇つぶし2ch24:名無しさん@お腹いっぱい。
07/06/11 00:50:37 mm/xB/AB
カラーでやたら緑地だけ目立たせようという魂胆の最近の地図の方が
ある意味グロテスクで遥かに気持ち悪い・

25:名無しさん@お腹いっぱい。
07/06/14 11:33:16 uiKMyEDy
>>23
反対

>>24
賛成

26:名無しさん@お腹いっぱい。
07/11/18 14:18:13 auz0Pz/p
昭和20~40年くらいの市街地図が欲しいのですが、そのような地図の充実している古書店を知っている方がいたら教えていただけませんでしょうか?

27:名無しさん@お腹いっぱい。
07/11/20 14:45:42 in5sTE4q
都内なら神保町に専門店があったと思うが(自分で検索して)、
普通に閲覧やコピーでいいのなら国会図書館の地図室にある。
URLリンク(www.ndl.go.jp)

後者は、子供のときに見た地元の住居表示前の町名が
ぐちゃぐちゃになっている地図を見て感動した。

28:名無しさん@お腹いっぱい。
07/12/15 13:07:14 VitjE8dG
簡単に略地図の作成ができる「ALPSLAB 略地図」
URLリンク(news.ameba.jp)

29:名無しさん@お腹いっぱい。
07/12/16 19:38:22 9z0UDrOI
ポストはイタリア語で
ポスティーノ

30:名無しさん@お腹いっぱい。
07/12/25 23:20:27 LvcjrJ0e
兄弟スレage
スレリンク(retro板)l50

31:名無しさん@お腹いっぱい。
07/12/26 02:20:56 D+wpQbBx
コロンブスがアメリカを発見する前に作られた地図なのに、アメリカ大陸らしき物や南極大陸まで描かれてる地図があると聞いたけど本当?

32:名無しさん@お腹いっぱい。
08/02/27 20:22:16 pnElDtlL
昔の携帯は古い
スレリンク(phs板)
昔のテレビは古い
スレリンク(tvsaloon板)


33:名無しさん@お腹いっぱい。
08/02/28 00:36:34 /56QZU7R
教養の低い奴らは「今は昔」ということを知らないらしい。

34:名無しさん@お腹いっぱい。
08/02/28 01:15:18 yeD0+gb8
教養だってさ

35:,
08/06/02 22:53:02 juwXtHW+

世界最高の精密な暦


パリでマヤの専門家と夕食をともにしたモーリス・シャトラン―「ニネヴェ定数」を研究したNASAの
科学者―は、マヤ人と呼ばれる奇妙な民族のことをもう少し調べてみようと決意した。彼
らは紀元前3世紀にメキシコに現れ、紀元900年ごろに忽然と歴史から姿を消す。

マヤは文字通り逆説の塊だ。車輪すら知らなかったにもかかわらず、その暦と天文学の知識

は彼等が知的な超人だったことを示している。そしてシャトランによれば、彼らもまた15桁に
及ぶニネヴェ定数のようなものを知っていた。

元来のニネヴェ定数と同様、ここでも考古学者たちはマヤの神殿の石に彫られた巨大数を発見し
ていた、そのうちの二つは、マヤの至聖所というべきグアテマラのキグリアにあった。

だがその数が発見された当時のヨーロッパ人は、世界が紀元前4004年に想像されたと信じてい
た。この数字は、大主教ジェイムズ・アッシャーが聖書にあるすべての日数を足し合わせてはじき
出したものである。そんなわけで、マヤの巨大数のような数字に注意を払う学者は一人も
居なかった。だが、シャトランは、これらの数字―340億2000万と1474億2000万―
を見て、直ちに興味を惹かれた。


36:,
08/06/02 22:54:45 juwXtHW+

彼はこれを日数であると推定した。マヤ人は暦を日数で勘定するからだ。最初の数字はおよ
そ9300年で、もうひとつはおよそ4億390万年だ。シャトランはすぐに前者がニネヴェ定数の15
倍であり、後者が65倍であるということに気づいた。このことはつまり、当然ながらマヤ人
が春秋分点歳差をよく知っていたということを意味する。

この驚くべき民族は一体何者なのか?

彼らを発見した、というか再発見したのは、ラモン・デ・オルドニュスというスペイン人修道士だ。彼
はメキシコ南部のチャパスにあるシウダード・レアルという町に住んでいた。1773年、70マイル(約112
キロ)先に、ジャングルに飲み込まれた都があるという話を聞く。果たして彼はジャングルの中
に、一種のピラミッドを含む壮大な遺跡を発見した。後のその遺跡はバレンケと呼ばれるように
なる。彼はそれを蛇の都と呼んでいた。というのも、そこには蛇の彫刻があるといわれて
いたからだ。

オルドニエスは、その都の始祖であるヴォータンなる人物についての本を読んだことがあった。それ
はキチェ語で書かれたマヤの本だった。この本は1960年ごろにある神殿で発見されたもの
だが、地元の司教ヌエス・デ・ラ・ベガはただちにこれを火中に投じてしまった。だが幸運な
ことに、彼は燃やす前にその一部の写しをとっており、オルドニェス修道士はその内容の一部を
発見することができたのだ。


37:,
08/06/02 22:56:07 juwXtHW+

ヴォータンは何世紀も前に新世界にたどり着いた、長身で髭面の男だ。彼の生まれた故郷の都
は中東にあり、ヴァルム・キヴィムと呼ばれる。写本によれば、彼が故郷に戻ったとき(彼は少
なくとも4回は帰省している)、その都では土地の人が天に届く塔を建てようとしていた。
もしこれがバベルの塔のことなら、その都とはバビロンであり、年代は恐らく紀元前2500年
ごろだ。

このバビロンとの繋がりが事実なら、ヴォータンを支配者兼教師として受け入れたマヤ人がニネヴェ定
数を知っていた理由もわかる。マヤ人はヴォータンを神と見なした。彼の象徴は蛇だった。彼は、
また別の名前でも知られることとなったー―ヴィラコチャ、コン・ティキ、ケツァルコアトル(翼ある蛇)だ。

ティアワナコのカラササヤの前にある「沈める寺院」の中に、長身で髭を蓄えたヨーロッパ人の像がある。
これは偉大な教師ヴィラコチャとされていつが、ヨーロッパ人であることは間違えない。というのも、
原住民のインディオは髭を蓄えることはできないからだ。もしもこの像が実際にヴィラコチャであり、
ティアワナコが紀元前1万年よりも以前から存在しているなら、彼が新世界に到達したのはバビロ
ンの建造よりも遥か以前と言うことになる。さらにもうひとつの伝説によれば、何らかの自
然の大災害の後、白い神が東からやってきたと言う。これはもしかしたら、アトランティスの洪水
から逃れてきたもののことかもしれない。


38:,
08/06/02 22:57:25 juwXtHW+

もちろん、すべて推測にすぎない。だが、ただひとつ動かしがたい事実があるー―マヤ人が
一種のニネヴェ定数、すなわち歳差の数を知っていたということだ。 
1841年、マヤ文化はそれにふさわしい名声を勝ち取ることとなった。その直接の原因は、若
きアメリカの弁護士ヨン・ロイド・スティーヴンズだ。彼はそれ以前から中東旅行記で知られていたが、
今度はメキシコへ行って有名な遺跡を自分の目で見ようと決意した。彼の旅行記「中央アメリ
カ旅行の出来事」は、一夜にして彼に名声をもたらした。そしてまた、友人であるフレディック・
キャザウッドによるジャングルの都の挿画は、マヤの建築を世界に知らしめたのだった。

マヤ人の作った世界最高の精密さを誇る暦-―1年を365日とするローマのユリウス暦よりもはるかに
精密であるー―では、1年が365・2420日とされていた。これほどの正確さはまさに
仰天ものだ。

初期のマヤ人-―つまり、ジャングルの中に都を築き、紀元890年にどういうわけかこれを放棄
してしまう以前の、いわゆる「古典期」のマヤ人は、何ゆえにこれほど精密な暦を必要とし
たのだろうか?現代われわれの一年はセシウム時計に基づくものだが、365・2422日になる。1
万分の2長いだけだ。



39:,
08/06/02 22:58:28 juwXtHW+

さらに、マヤ人はゼロの記号も発明していた。それは数字に必要不可欠な基本要素だが、ギリシ
ア人もローマ人もゼロを持たなかった。これはさほど重要なこととは思えないかもしれない
が、十進法がなければ、1桁ごとに十倍ずつになっていく記数法で数を表すことは困難だ。
ローマ人は1944と言う数字を書くのに、MCMXLIVなどと書かなくてはならないのだ。

マヤの天文学はまさに壮大だー―あまりに複雑、かつ精確で、もしも火星の学者がたまた
まそれを見ていたら、マヤ人こそが地球最高の科学者だと思っただろう。
我々は太陽の運行によって年を数える。マヤ人もそうだ。だが彼らの暦には金星、木星、土
星の周期も採りいれられている。地球の年に関しては、彼らは、3つの独立した暦を導入す
ることによって、エジプト人、ギリシア人、ローマ人ですら解き得なかった問題を解決した。

彼らの太陽暦は360日、そこに定数外の5日が付加されている(とはいうものの、前述の
ように彼らは正確な太陽年の長さをしっていた)。それに加えて354日の太陰暦があり、さ
らに「ツォルキン」と呼ばれる特別の「聖暦」があった。これは魔術や儀式に使われるもので、
1年の長さは260日。これを各20日ずつの13月に分ける。

これら3つの暦が並行して用いられるわけだが、当然ながら、通常の年がようやく終わり
に近づいた頃には、ツォルキンはすでに二年目に突入している。ゆえに彼らの「世紀」は3つの
小周期がすべて1巡する周期で、52年である。「金星年」(584年)には、ほかの2つの
世紀(104年)が1巡する。


40:,
08/06/03 06:16:26 2F0aZjCp

さらにもうひとつ別の暦があり、これを「長期計算法」と呼ぶ。その単位は、すでに見た
ように20日である360日を「トゥン」、20トゥンを「カトゥン」、20カトゥンを「バク
トゥン」と呼ぶ。1バクトゥンは14万4000日だ。13バクトゥンは1「大周期」も
しくは1「地球年」で、その終わりにはすべてのものが破壊され、再び始まる。現在の地
球の周期は紀元前3114年に始まったので、紀元2012年12月に終わる。

またマヤ人は天王星と海王星も知っていた。ともにヨーロッパでは19世紀半ばにようやく発見
されたものだ。ロバート・テンプルは、彼等が何らかの望遠鏡を持っていたと考えられている(こ
れはシュメール人にも言えることだ。彼らは土星の周囲に円を描いたが、それは肉眼では絶対に
見えない)。


マヤの残虐な人身供儀、、、、

奇妙なことに、文明の担い手としてマヤ人は特に傑出していたわけではない。20世紀を代
表するマヤ研究の権威であるエリック・j・トンプソン教授によれば、この文明は書くも驚くべき天
文学知識を示しながら、車輪やアーチを知らず、1袋のトウモロコシの重さを測ることもできなかっ
た。」さらに、多くの研究者が指摘しているように、マヤ人は進歩とか発達と言うものがない。
彼らの後期の芸術や建築は初期のものとまったく同一に見える。


41:,
08/06/03 06:17:28 2F0aZjCp

だがこれにかんしては、マヤ人自身が答を出しているー―彼らの知識はもともとヴォターンから
もたらされたものであり、彼は大破局の後に東からやってきたのだ。

ヴォターン―別名ヴィラコチャ、ククルカン、ケツァルコアトル、コン・ティキなどー―に何が起こったのか?伝説に
よれば、彼は策略によって再びこの地を追われ、筏に乗って西へ去っていったいつか必ず
帰ると言い残し、さらにその場所まで特定していた。だからこそ、信じられない偶然だが、
1519年にスペイン人ヘルナン・コルテスと手下たちがまさにその予言された海岸ベラ・クルスに上陸し
たとき、アステカ人-―マヤ人の子孫―は彼を神の再来だと信じ、何の抵抗もせずに蹂躙され、
滅ぼされたのだ。

そしてこの信じがたい、ありえないような偶然を見れば、われわれはメソアメリカのインディオたち
がなぜそれほどまでに星星に固執していたのかが解る。彼らは天が未来を予言してくれる
ことを信じて疑わなかったのだ。

だがもうひとつの理由もあるー―不合理な恐怖だ。ある朝目を覚ますと、太陽が地平線に
現れない。彼らはそんな日が来ることを恐れていた。そのときには風が吹きすさび、豪雨
が降る。そしてかつて何度もあったように、大地は洪水の下に沈む。彼らを暦に固執させ
たのは、この「空が落ちるときへの恐怖なのだ。なぜなら暦こそ、神を慰撫するための儀
式の正しい日付を定めるものだからだ。



42:,
08/06/03 06:18:42 2F0aZjCp

そしてその神々を慰撫する方法とは、人身供儀だった。生贄は石板の上に横たえられ、神
官は石のナイフでその胸を切り開する。それから肋骨のしたに手を突っ込み、鼓動する心臓を
抉り出して高く掲げるのだ。

これをみれば、メキシコをー―そして後にはペルーをー―侵略したスペイン人が、この迷信深い野蛮
人を拷問したり虐殺したりすることに良心の呵責を覚えなかった理由がわかるだろう。彼
らは、生きた心臓を抉り出すような習慣を持つ連中に対しては、何をしてもかまわないと
感じたのだ。

もっともそのスペイン人がいかに残虐かつ冷酷だったかは、ウィリアム・H・ブレスコットの「メキシコ征服
史」(1843)に詳しく書かれている。これは読むのに相当の心臓を必要とされる本だ。
われわれはアステカ人-―マヤ人の後継者―に対して申し訳なく思いがちだが、それでも次のよ
うな話を聞けばどうだろう。

アステカ人の第8代皇帝アウィソトルは、ある神殿の奉献のために8万人の捕虜を人身御供にするこ
とを命じた。水路は血で溢れた。虐殺は4日間にわたって休みなく続けられた。それから


神官たちが死体の皮を剥ぎ、その脂肪を自らの肌に塗りつけ、皮を潜水服のように身にま
とった。続いて虐殺者とその家族は人身御供を食った。これらすべては信仰心ゆえの行為
であるー―などというのは明らかにばかげている。嗜虐的な殺人は一種の中毒となること
は、どんな犯罪者でも知っていることだ。


43:,
08/06/03 06:21:05 2F0aZjCp
アーティストでマヤの専門家であるホセ・アルグエリェスは、「マヤの要素」(1987)という著書の中で、
このような行為はマヤ人には当てはまらないと述べているが、捕虜を描いた図像は存在する
と認めている。だが、彼はマヤ人をこう弁護する。「領事や戦争よりも大事なことは、独自の
数学的体系によって地球の周囲をたどることだったのである」。

問題は、マヤ人自身が惑星の周囲を見つけ出したのではないということだ。彼らはそれを優
れた教師から教わったー―だから本当は本当はそれを自分の手柄にすることはできないの
だ。マヤ研究の権威であるシリヴァヌス・グリスウォルド・モーリーは、彼らを「地球上で最も聡明な先住
民」と呼んでいるが、それは誉めすぎというものだ。彼らは教えられたことをただ丸暗記
しただけであり、それでも世界の終末への恐怖ゆえにその知識を守ったに過ぎない。

彼等が車輪すら発明できなかったという事実こそ、彼らの実際の知的能力を物語っている。
長い大通りと広大な広場のある年に暮らしながら、牛に引かせる荷車があれば生活はずっ
と楽になるだろうということに思い至らないなんて、相当の馬鹿としか言いようがない。

マヤがどこから天文学を学んだのかという点に関しては、オルメカ人という推定が有力だ。この
メキシコ先住民は、おそらく紀元前2000年に遡るが、発見されたのは比較的最近のことだ。

1884年、考古学者アルフレド・チャペロは、メキシコ湾はベラクルス南部の沼沢地で、巨大な石の頭像
を発見した。1930年代初頭、マシュー・W・スターリングは、湿地帯の中ほどの木の生えた丘で
あるラ・ベンタと呼ばれる場所にその頭像の源を発見した。さらにその下生えの中に、高
さ100フィート(約10メートル)に及ぶ円錐型のピラミッドが隠されており、巨大な祭壇や頭像も見
つかった。


44:,
08/06/03 06:23:18 2F0aZjCp

1884年、考古学者アルフレド・チャペロは、メキシコ湾はベラクルス南部の沼沢地で、巨大な石の頭像
を発見した。1930年代初頭、マシュー・W・スターリングは、湿地帯の中ほどの木の生えた丘で
あるラ・ベンタと呼ばれる場所にその頭像の源を発見した。さらにその下生えの中に、高
さ100フィート(約10メートル)に及ぶ円錐型のピラミッドが隠されており、巨大な祭壇や頭像も見
つかった。

それらは、分厚く官能的な唇を持つ力強い黒人の顔だった。それはアフリカ人奴隷を表したも
のだと述べた考古学者もいるが、この頭像は奴隷にしては品格がありすぎる。そもそも、
重さ60トンもあるような奴隷の像をつくろうなんて人が居るだろうか?いずれにせよ、こ
の頭像は神か権力者の肖像だろうと考えられる。

結局、ラ・ベンタはオルメカ人の都であることが判明した。これはそれまで知られていなかっ
たメキシコ住民の種族だ。この都は紀元前1200年以来のものらしい。彼らはククルカンと呼ばれる
翼ある蛇を信仰していたが、恐らく彼らの祖先が何かを教わった神なのだろう。彼らの神
のひとつがジャガー人間だ。白いピラミッドは天文台で、長年の間に難解か位置をかえているこ
とが判明した。つまりオルメカの天文学者は歳差運動による天の変化を認識していたのだ。

そんなわけで、春秋分点歳差の知識と暦の知識をマヤ人に伝えたのは、たぶんオルメカ人だろう。
さらに、オルメカ人も人身供儀を行っていたので、彼らもまた大破局の再来を恐れていたよう
だ。だからこそ、彼らはその暦をひたすら精密化することに取りつかれていたのだ。



45:,
08/06/03 17:48:14 2F0aZjCp
地球の大きさを知っていた古代人、、、


翌朝、われわれはナイルを500マイル(約800キロ)遡ったアスワンへ飛んだ。アスワンは私がこ
の目で見たいと切望していた古代都市のひとつだ。というのも、それはハプグッドの仮説の
中で重要な役割を果たしているのだ。この街は元来はシエネと呼ばれており、エラトステネス(紀元
前274~194)という名の天才が地球の大きさを測定したことで知られている。

エラトステネスは、夏至の日の正午、シエネの街では太陽光線の深い井戸の底まで届くということを
知った。いうまでもなく、大要が真上に来るということだ。だから塔にも陰がまったくで
きない。だが、500マイル北にあるアレクサンドリアでは、正午に塔に陰ができる。そこでエラトステネス
は、6がつ21日の正午きっかりに塔の影の長さを計った。これによって、シエネで太陽が真上
にあるその同じ瞬間に、アレクサンドリアでは太陽光線が何度の角度を取っているのかが解る。

その角度は7度だった。もし、7度が地球の外周上の500マイルに当たるなら、360度が約
2万5000マイル(約4万キロ)にあたることは容易にわかるー―紀元前240年という時代
にしては、驚くべき精確さだ。

シエネ―アレクサンドリア間の距離の計測に若干の計算違いがあったため、エラトステネスは地球の大きさを
4度ほど多く計算してしまった。ハプグッドは、もしこの誤差を計算に入れるなら、ビリ・レイ
スの海図の精度はさらに高くなるというのだ。

地球は球体だが、地図は平面だ。今日の地図製作者は緯度と経度の玖珂にもとづくメルカトルの
「投影法」を用いる。古代の地図製作者が用いた方法はさらに複雑で、より効果的なもの
だった。彼らはまず中心点を選び、その周囲に円を描く。それを、ちょうどケーキのように、


46:,地球の大きさを知っていた古代人、、、
08/06/03 17:50:52 2F0aZjCp
さらに16の区分に分割する。それから、このケーキの円周上に、外に向かって展開する一連
の四角形を描く。

ビリ・レイスの海図の元来の中心点はエジプトにあったが、それは地図の外に当たっている。ど
うも中心点はアレクサンドリアらしいと考えられた。だが、さらに計算すると、それはもっと南の
ようだった。

実際、それはシエネであることが判明したのだ。この発見には面白い含意がある、とハプグッド
は気づいた。アレクサンドリアの地図製作者たちが新しい地図を作り始めたとき、実際に船を出し
て、地図に描こうとする様々な場所を測量に出かけたわけではないだろう。多分彼らもま
た、さらに古い地図を参考に下に違いない。そしてもしもその4度の誤差がなければ、そ
の古い地図は驚くほど精確だったに違いない。このことはつまり、アレクサンドリア以前の地図製
作者たちは、ギリシア人よりも遥かに正確で進歩した地図を製作する科学を持っていたという
ことだ。

これをうらづける興味深い証拠がある。紀元前2世紀の終わりごろ、ギリシアの文法学者で、
プレトマイオス朝エジプトの王の家庭教師であったクニドスのアガタルキデスという人が居た。彼が耳にし
た古い伝承によれば、大ピラミッドの格底辺の長さは、精確に地球の外周の1分(すなわち1
度の60分の一)の8分の一であるという。大ピラミッドの底辺は230メートル少々だ。

この話を確認するには、230を8倍して1分、これをさらに60倍して1度、さらにこれ
を360倍すると、地球の外周の長さになるはずだ。その答は約4万キロ、すなわち約2万
5000マイルだー―驚くほど精確に赤道周辺(4万77キロ)に一致している。つまりピラミッ
ドの建造者たちは、紀元前2500年の時点ですでに地球の大きさを知っていたということに
なる。

事実その通りなのだ。このことは大ピラミッド自身が証明している。その周辺が正確に赤道周
辺に対応しているだけではなく、その高さもまた、同様に地球の「高さ」、つまり赤道面か
ら北極点までの距離に対応しているのである。多分エジプト人は地球そのものを表す巨大
なジオデシック・ドームのようなものを造りたかったのだろうが、そんな形にしてしまうと、ピラ
ミッドの魅力的な幾何学の一部が失われてしまう。そこで彼らは次善の策として今の形を選
んだのだ。

47:,
08/06/03 17:53:07 2F0aZjCp
1798年にナポレオンがエジプトを侵略してきたとき、彼が連れてきた学者の中に、エドム・フランソワ・
ジョマールという人が居た。彼は大ピラミッドを丹念に研究し、いくつかの重要な発見をした。ピ
ラミッドの4辺は、信じられないほど正確に東西南北の4方向を向いている。ピラミッドはカイロか
ら10マイル(約16キロ)の地点にあるが、そのカイロはナイル川でデルタ地帯の基点である。そ
してピラミッドの対角線を延長すると、それは、ナイル川デルタ地帯全体をぴったりと包含
してしまうのだ。のみならず、北面のちょうど中央から直線を引くとデルタ地帯を正確に二
等分する。

これらの事実を総合すると、古代エジプト人は長距離を測定するための何らかの極めて正
確な技法を持っていたとしか考えられない。単なるあてずっぽうでこれだけのことができ
るはずがない。

フランスの1メートルは、赤道から極までの距離の1000分の一に当たる。ピラミッドを研究したジョマ
ールは、古代エジプト人もまた、地球の大きさに基づく度量衡を持っていたに違いないと確
認したー―この場合は、赤道円周の21万6000分の一だ(21万6000は60の3乗)。

これらはいずれもたまげるような事実だ。まったく原始的な農耕文明が、どうやって地球
の大きさを知ったのだろうか?同様に理解しがたいのは、なぜこの知識が2000年以上後に
エラトステネスによって再発見されなければならなかったのか、ということだー―だが、コロンブスが
アメリカを発見するまで、一般に地球は平面だと考えられていたことを思い起こしていただき
たい。知識というものは実に容易に失われてしまうものなのである。「古代海王たちの海図」
の最後で、ハプグッドが強調していたように。

エジプト人は、距離や単位に関するこれらすべての知識を何処から得たのか?もし彼等が
ヴァイキングのような航海者だったなら、話はわかる。だがそうではなかった。彼らは自分自
身の土地、自分自身の海に固着する傾向があった。ということは、何らかの先行する文明
から学んだとしか考えられない。

ハプグッドは言う。「経度に関する明らかな知識は、我々の知らない民族を物語る。それは航
海者の国であり、ギリシア人が夢にも思わないような経度の測定技術を知っていた」。

48:,ミジンコ
08/06/03 20:11:53 2F0aZjCp
スレリンク(archeology板:91番)
スレリンク(archeology板:89番)
    / ,'   l    l'  /  /     /,、 ヽヽl  ',
.     / l   .l    l./ , / , ィ´ ィ /ィハ ヽヽ.!   ',
       ! ,l.   !     ! // //// /〃 ', ヽl   .!
      V .l         レ'´// ̄'`´ .//  /_ ', ヽl.   l
     /  l      l _..===xヽ /  /__  `', ,'   l
.     / / ,!       .K{_ノ } `´     ' ´z==x_li    ハ
    〈 /./ l      l"`ー-'-       トイ .} ネ,l.   ,' ',
    `/ /.l      .l           `ー'- /イ  ,'  ',
   / , ' ,l     l                /ノl  !.   ',
.   {_ /  /.l     l     、    ′    ./  .!  .l    ヽ、
   /  ./ l     lヽ.    `ニ ‐   , ィ´   .l  .l      `
.  〈.   /   ',     ', ヽ、      , ィ´i.      !  l
   `/     ',     ',   `ー-ィ ´  l l     l  l
  /        ハ.     ',     ト、  l l     l  !
       _ノ  ',     i    lヽ ヽ、 l      l  !
    ,, - ''ヽ、  ',     !    ' `ヽ `ヽ!.     ! l

49:,ミジンコ
08/06/04 09:52:22 K9Zmfxdk
URLリンク(ja.wikipedia.org)
メソアメリカから数千マイルかなたの南アメリカ西岸に、もうひとつの文明が栄え、そして滅んだ。
1987年2月、ある墓泥棒の1団が、ペルー北部のシパンという村にある「ピラミッド」(む
しろ瓦礫の山に見えたが)に押し入った。それは「月のピラミッド」と呼ばれていた。泥棒の
頭目がトンネルの天井にパールのようなものをつきたてると、突如天井が崩れ、黄金の雨が降り
注いだ。彼らはツタンカーメン以後、最大の宝物庫のひとつを発見したのだ。

泥棒たちは11袋の黄金を抱えてよたよたとうぼうした。全員が大金持ちになれるりょう
だったが、彼らは分け前を巡って争いを起こし、1人が射殺され、別の一人は警察に駆け
込んだ。隠して一味は逮捕され、その際に頭目は射殺された。だが不幸なことに、そのときにはすでに宝物の多くは売り飛ばされていたのだった。

それは誰の墓だったのか?考古学者たちは、月のピラミッドで最も重要なミイラを「シバンの長」
と呼ぶことにした。

ピラミッド群のあるランバイエケ渓谷のペルー人の間には、ナイムラップという王の伝承がある。彼は西
のほうからバルサ材の船に乗ってやってきて、信奉者たちを1マイル(約1・6キロ)ほど内陸に
連れて行き、チョットという場所に宮殿を建てた。

ケツァコアトルやコン・ティキと同様、彼もまた神として崇拝された。彼の死後、信奉者たちは彼をピラ
ミッドに埋葬し、彼は天高く飛んでいったと宣言した。古代の伝承を記録したカベーヨという名
のイエズラ会士によれば、ナイムラップの後に11代の王が続いたという。彼らもまた全員、ピラミッ
ドに葬られた。
URLリンク(ja.wikipedia.org) 月のピラミッド


50:,
08/06/04 09:54:31 K9Zmfxdk

これらがすべて終わったのは、最後の王であるフェムペレクが、美しい女の姿を借りた悪魔に誘
惑されたときだ。その後、神々は暴風雨を起こし、それから大旱魃がやってきた。これを
鎮めるためにフェムベレクは縛られ、海に放り込まれたが、もはやすべては手遅れだった。

冒険家トール・ヘイエルダールは、ピラミッドの盗掘が行われていた当時、偶然ペルーに居合わせた。ヘイエ
ルダールといえば、いまさらいうまでもないが、生涯をかけて「古代の航海者たち」の研究に
打ち込み、彼等が世界の大洋を航海できたということを身をもって示した人物だ。彼はウォル
ター・アルヴァという考古学者の案内で盗掘された墓を見学し、明るい青い眼を持つ黄金のマス
クを見せられた。明らかにペルー人ではない。これはナイムラップ王なのだろうか?もしそうな
ら、彼は東洋人でなかったということになる。

このピラミッドを建てたのは、モチェ族と呼ばれるインディオだ。彼らはメキシコのインディオの子孫かも
しれないが紀元100年から700年ごろに栄えた後、突然消滅した。その消滅の理由が明ら
かとなったのは1990年代後半になってからであるー―6世紀のペルーを、40年に及ぶ旱魃
が襲ったことが判明したのだ。エル・ニーニョによって引き起こされていた豪雨が途絶えたのが
原因だ。モチェ族は飢え死にするか、あるいは他の土地に去った。

アルヴァは、130マイル(約208キロ)ほど北のトゥクメというところにある、別のピラミッド群の
ことをヘイエルダールに教えた。そこでは17基のピラミッドがあるが、その泥煉瓦はすっかり磨耗
し、自然の丘のように見えた。そこにはシバンのような黄金の財宝はなかったが、同様に面
白いものが発見されたー―バルサ材の筏を描いた壁画だ。つまり、トゥクメのピラミッドを築いた
人々は航海者であったばかりか、かつて1974年にヘルエイダールがペルーからポリネシアへわたったと
きと同じタイプの筏を用いていたのだ。


51:,
08/06/04 09:57:49 K9Zmfxdk

メキシコのインディオ同様、モチェ族もまた人身供儀を行っていた。フワカ・デル・ルナと呼ばれるピラミッド
で見つかった。切断された人間の骸骨がそれを示している。奇妙なことに、これらは戦争
の捕虜ではなく、戦いに敗れたモチェ族の戦士なのだ。彼らは一度でも敗北すると、祖先への
生贄にされてしまったのである。まずかれらをかたどった粘土板が作られ、しかる後にす
さまじい棍棒の一撃によって彼らは脳をぶちまけられ、さらに山腹に投げ捨てられた。

これはある興味深い可能性を呼び起こすー―モンテ・アルバンの石板に描かれた犠牲者たちもま
た、球技場での「戦い」に負け、生贄として選ばれた人なのかもしれない。最終的にペルー
の征服者となったインカ人もまた、「神々への使者」として子供を選び、これを山の洞窟に閉
じ込めて凍死させるという風習があった。

1988年、すなわちトゥクメ調査の翌年、ヘイエルダールはもうひとつの奇妙な道に迷い込んだ。それ
は先史時代の航海者たちが、大西洋の海流を利用していたことを示すものだ。もう長い間、
彼はグアンチェ族という古代の部族に興味を抱いていた。彼らは長身のブロンドで、カナ
リア諸島のテネリフェに黒い石のピラミッドを造った。

専門家の一人であるアリシオ・ドス・サントス博士は、彼らの言語がインドの「ドラヴィダ語族」のそ
れに類似していると指摘している。彼等が海を嫌う羊飼いであることからして、彼らは家
族や羊を筏に乗せてカナリア諸島にたどり着いたに違いない、と博士は言う。つまり彼ら
はアトランティスの避難民であり、アントスによればそれはインドネシアのどこかにあったという。だがた
ぶん、彼の言っているのはアトランティスとは別の破局だろう。恐らくグアンチェ族はトールマンの彗
星が引き起こしたスタンランドの破局から逃れてきたと考えられる。
スペイン沖700マイル(約1120キロ)のところにあるカナリア諸島に、重い石造ピラミッド
があると聞かされたヘイエルダールは、取るものもとりあえずそれを見に出かけた。

そのピラミッド群はそれまで誰一人としてピラミッドだとは気づいていなかった。というのも、
それはメキシコのものと同様の会談ピラミッドだったからだそのひとつはテネリフェの中心にあったの
だが、そう思われていなかったのは、それから6つの段丘と平坦な頂上から出てきていた
からだ。ヘイエルダールはノルウェーの実業家を説得してこのピラミッドを買い取らせ、博物館を作らせ
た。

52:,
08/06/15 09:43:22 yc4UPfDs

大金持ちになったソニエール


ソニエールがピレネーの北、ラングドックにあるレンヌ=ル=シャトーに赴任して6年後の1891年、村の教会が改
修された。そのとき労務者の一人が、祭台を支える四角い西ゴート様式の柱の中に4つの
木の筒を発見した。その中には巻物が入っていた。そのうちの二枚は地元の一族の家計図
で、彼らの先祖がメロヴィング家であることを示していた。メロヴィング家というのは、5世紀から
8世紀までフランスを支配した―決して首尾よくではないが―王家である。後の二枚には、
ラテン語による新約聖書からの引用が、単語の間に空白を入れずに書き付けられていた。

これはどう見ても暗号に見えた。事実、二枚のうちの短いほうは非常に単純で、ヘンリー・リンカ
ーンはそれを一目見るなり、ジエラール・ド・セドというジャーナリストが書いた「呪われた財宝」(1
967)と言う本に載っていたものと同じだと見抜いた。

文字の一部が上にずれており、それだけを選んで続けて読むと、(A Dagobert Ⅱ roi 
a Sion est ce trsort et il est la mort)すなわち「この財宝はダゴベール二世と
シオンに属す、彼その地にて死す」と読めた。

シオンはイェルサレムのことで、最後の文字は「そは死なり」とも解釈できた。ダベゴールとは、7世
紀のメロヴィング王朝ノフランス王だ。この暗号を書いたのは多分ソニエールの前任者で、フランス革命のこ
ろにこの教会で司祭をしていたアントワーヌ・ビグーだろう。

ソニエールはこの暗号文を司祭に持っていった。これに魅了された司教は、ソニエールをパリに送りい
ろいろな学者に相談させた。そこで彼はサン・シュルピス教会へ行き、指導者であるビエイユ神父と
出会った。さらに彼は、ビエイユの姪で若い見習い司祭であるエミール・オフェにも紹介された。オフェ
は「オカルティスト」のサークルに所属していたが、980年代のパリではそういう団体が花盛りだった(そ
の一部は、J・K・ユイスマンが「悪魔主義」の小説「彼方」で描写している)。


53:,
08/06/15 09:44:44 yc4UPfDs

スレリンク(occult板:349番)

オフェはソニエールを作家や芸術家のサークルに紹介した。そこにいたのは詩人のマラルメ、劇作家メーテルリンク、
作曲家ドビッシーだった。ソニエールはまた―恐らくはドビッシーを通じて―著名なソプラノ歌手エン
マ・カルヴェと出会い、彼女の恋人となった(ソニエールは禁欲など何処吹く風だった)。

ソニエールはパリを発つ前にルーブルを訪れ、三枚の複製画を買い求めた。うち3枚がニコラ・ブッサンの
(Les Bergers D`Arcadie (アルカディアの牧童))で、墓の前に立つ3人の牧童と1人の
女牧童が描かれている。その墓には(ET  in  Arcadia Ego)の文字があり、それは
通常「我もアルカディアに在り」と訳す(この絵のタイトルは「死に服従する幸福」だった)。

3週間後にレンヌ=ル=シャトーに戻ると、ソニエールは人を雇い、祭壇の前の床に据え付けられた石板―
―それはだいたいダゴベール2世の時代のもので、彼はレンヌ=ル=シャトーが殷賑を極めた街だった
はるかな昔にここに住んでいた―を剥がした。するとそこに、二つの骸骨と「二束三文
のメダリオンの壺」を見つけた。ソニエールは作業員を返らせ、その夜は一人教会で過ごした。

それからソニエールは、境内にある墓石の一つ―マリ・ド・ブランシュフォールと呼ばれる有名な女性の
墓―に奇妙な破壊行為を行う。その二つの銘を抹消してしまったのだ。

彼は知らなかったのだが、実はこの二つの銘はすでに地元の古物研究家が出版した小冊子
の中に収録されていたのだった。

そのひとつには(ET  in  Arcadia Ego)と、ラテン文字とギリシア文字の混合で書かれて
いた。もう一つのほうには変則的な表記の小文字があり、それは3つのeとひとつのpだ
った。また同様に変則的な4つの大文字T、M、R、Oがあった。



54:,
08/06/15 09:45:27 yc4UPfDs

4つの小文字でつづることのできる単語はひとつ―(epee)すなわち「剣」であり、大文
字のほうは(MORT)、すなわち「死」しかない。そしてこの(epee)という語は、ソニエー
ルが柱の中から発見した第二の羊皮紙の暗号を解くキーワードであることが判明したのだった。

そして、なぜか突然、ソニエールは大金持ちになった。村に通ずる汚い小道に代わって公道を造
り、給水塔を建てた。それから自分自身のための庭付きの別宅を建て、蔵書を収納するゴシ
ック様式の塔を建てた。著名な人々が定期的にここを訪れた。エンマ・カルヴェやオーストリア皇帝フランツ=
ヨゼフの従兄弟である大公ヨハン・フォン・ハプスブルクなどだ。彼の客には、若い農夫の家政婦マリ・。
デナルノーがとびきりの食事とワインを振舞った。

彼はまた村の教会を建て直し、新たに装飾したが、それは悪趣味極まりないものだった―
―そのけばけばしい色彩は、ディズニーランドを思わせる。ドアの内側には、いきなり足の曲が
った悪魔がうずくまっている。これはおそらくソロモンの財宝の守護者とされるアスモデウスだ。そ
れから、キリストが人々を救っている絵の丘の麓に、わけのわからない金袋がある。

「疲れた者、荷物を負う者は、だれでも私のもとに来なさい、、、、」という言葉が引用され
ているが、その配置にも変則的な部分がある(accable)(重荷)と言う言葉の最初の二文字
が他の文字よりも小さく、薄い線によって直前の単語の最後の文字である(etes)のsに繋
がれているのだ。


55:,
08/06/15 09:46:25 yc4UPfDs

これは(SACCABLES)と読める」。つまり(sac a bles)―-トウモロコシの袋、に近い。トウモ
ロコシは、フランス語のスラングで黄金を表す。さらに引用文字の原文では(acccables)ではなく
(afflige苦悩した)と言う言葉が使われている。ソニエールはそれを変え、金袋を表す、地口に
なるようにしたのだ。

(十字架の道行きの留)もまた、わけのわからない異常さに満ちている。たとえば、ポンティ
ウス・ピラトに背を向け、金の卵を掲げている謎の人物。第二留で杖を拾い上げている若い男
はまったく意味不明だ。また、天に向かって楯を振り上げている兵士もしかり。

悪魔が半分腰掛けている玉座は、村人なら誰でも分かる近くにある「悪魔の肘掛け椅子」
と呼ばれる岩だ。この岩の側には

円の泉」と呼ばれる泉がある。悪魔は右手の親指と人差し指で円を作っているが、それは
泉の名前を強調しているかのようだ。

ソニエールは明らかに何らかのゲームをしている―あるいはわれわれに何かを告げようとして
いる。新しい教会を祝福しに来た司教はそれを見て仰天、困惑し、二度と来ることはなか
った。だが少なくとも彼は好戦的だった。次の新しい司教はあからさまに敵意を抱いてい
た。この金は何処から出たのか、と問いただしたが、ソニエールはそれを明かさなかった―さ
る裕福な告解者から寄付を受けたが、その人物は匿名を希望している、と述べるに留めた
―ので、司教は彼の更送を要求した。ソニエールは更送を拒否し、彼の教区は別の司教が担当
することとなった(実に奇妙なことに、件の司教がローマ教皇に訴えると、教皇はソニエールの見
方をしたのだ)。


56:,
08/06/15 09:48:37 yc4UPfDs

1905年、フランス政府が―反教皇派だが―彼を悩ませ始めた。彼がオーストリアのスパイだという
のだ―彼の定期収入の一部は、どうやらオーストリアから入ってきていたらしい。
1917年、ソニエールは肝硬変で死んだ。65歳だった。彼の臨終を看取った司祭は、その最後の
告白を聞いて愕然とし、彼に終油の秘蹟を授けることを拒絶したと言う。

彼の家政婦はその後も件の別宅で暮らし、1953年に死んだ。彼女は1946年にこの別宅を
売却し、その買い手にあなたの富と力をもたらす秘密をいずれ明かしましょう、と約束し
た。だが彼女は卒中の発作に倒れ、口が利けなくなってしまった。

以上が、ヘンリー・リンカーンの読んだジェラール・ド・セドの驚くべき書物のないようだ。どうみても
多くの疑問が残る。ソニエールは財宝を見つけたのか?あるいは何らかの秘密を知り、その口止
め料をもらったのか?彼は強請だったのか、それとも厳重な秘密を共有する小集団の一員
だったのか?可能性はまだ他にもある―その財宝は、フィリップ端麗王の手に渡らぬように
隠匿されたテンプル騎士団の財宝だったのか?レンヌ=ル=シャトーからほど近いところに、ベズの城がある。
領主はテンプル騎士団の艦隊とともに脱出したセニュール・ド・ゴだ。

スレリンク(occult板:349番)

ダ・ヴィンチ・コード ... そこでラングドンは、ルーヴル美術館館長'''ジャック・ソニエール'''
の遺体が[[猟奇殺人]]にも似た[[ウィトルウィウス的人 ... ... する見解を聞きたいと協力を要請した。
しかし、実際はソニエールと会う約束をしていたラングドンを第一容疑者として疑 ...
9 キロバイト (237 words) - 2008年6月3日 (火) 12:08

シオン修道会 ... コード]]』で殺されたルーヴル美術館の館長ジャック・ソニエールの名はここから採られている。
</ref> が発見したもので ...


57:,レンヌ=ル=シャトーの聖なる地形、、、
08/06/15 18:10:52 yc4UPfDs
リンカーンは、BBC調査部の協力によって、(シオンの僧院)の当時
の最有力メンバーがピエール・プランタールと言う人物であることを知った。「プランタール」と言う姓は、
確かにメロヴィング家に連なる高貴な家名だ。会合の席が設けられ、リンカーンはブランタールを招いて、
彼のレンヌ=ル=シャトーものの第二作「司祭と画家と悪魔」を見せた。

会ってみると、彼は親切で礼儀正しい老人―生まれは1920年―だった。そして彼の信
奉者の集団も現存していた。会合に同席した彼の腹心はフィリップ・ド・シュリゼという公爵らし
い。ド・シュリゼはルーヴルにある「秘密文書」の多くを手がけた人物だった。

リンカーンは彼らの後ろに座ってそれとなく観察していた。フィルムの中に例の羊皮紙が登場した。
リンカーンはそこに5角星型を発見していた。これを見た2人の表情がにわかに強張ったのを確
認して、リンカーンはしてやったりと思った。

リンカーンはまた、ブッサンの「アルカディアの牧童」の構成に奇妙な点を見つけた。ルイ14世を不安に
陥れたという「秘密」を探していた彼は、右の牧童の持つ杖が、その腕によって正確に2
等分されていることに気づいたのだ。そして杖の頂点から牧童の人差し指までの距離もま
た、正確にこの長さに一致していた。彼はさらに、同じ長さがこの絵のいたるところにち
りばめられているのに気づいた。この絵は、明らかに幾何学的に構成されていたのだ。
URLリンク(ja.wikipedia.org) ニコラ・ブッサン

スレリンク(archeology板:69-71番)
URLリンク(ja.wikipedia.org) 黄金比
リンカーンは王立美術大学のクリストファー・コーンフォード教授にこの絵を見せた。すると教授はさら
に魅力的な特徴を見出した。この絵の構造は「黄金分割」と呼ばれる(そしてギリシア文字φ
で表される)幾何学的比例に基づいているのだ。

一見したところ、この話は幾何学の教科書に載っている退屈な定義のように思われるかも
しれない。だが実際には、それだけで一冊の本がかけてしまうほど、圧倒的かつ深遠な意
味を持つ事実なのだ。

ごく簡単に言うと、それは一本の線分を2つに分割し、短いほうと長いほうの比を、長い
ほうと全体との比に等しくすると言う方法だ。

一見、電車の中で子供をおとなしくさせておくために買い与えたパズ
ルの本から取ってきた問題のようだが、これの何がそれほど重大なのか?

その理由はどういうわけか、自然が常にこれを用いるということにある。たとえばあなた
の身体。ちょうどヘソの位置がこの分割店に当たっている。葉序の螺旋にも、花の花弁にも、
茎の周囲の葉にも、松かさにも、ヒマワリの種にも、貝殻にも―星雲の腕にまで、これが見
られるのだ。

58:,レンヌ=ル=シャトーの聖なる地形、、、
08/06/15 18:12:02 yc4UPfDs

画家たちもまた、非常に古い時代からこれに気づいていた。というのも、画面をこれによ
って分割すると、非常に目に心地よいものになるのである―ちょうど音楽の和音が耳に
心地よいように。

なぜ自然はそれほどこれを好むのか?なぜならそれは無駄な空間を最小化する、充填に最
適の方法だからだ。明らかに、」この一見単純な比率には何か極めて重要なものがある。実
際にはそれは、0・618034、、、、と言う具合に果てしなく続いていく。

φのもう一つの形は、1・618だ。線分をφの分だけ延長するには、それを1・618倍す
ればよい。

レンヌ=ル=シャトーの謎に戻る前に、もうひとつ、数学の話題に触れねばらない。それは、数学者
フィボナッチが発明した数列だ。ここでは、各数はその前の二つの和となっている。だから0か
らはじめるなら、次の数字は明らかに1だ。そして0+1は1。1とその前の1の和は2。
2とその前の1の和は3.以下同様(0、1、1、2、3、5、8、13、21、35、
55、、、、)。

ここでもう一つの興味深い事実がある。フィボナッチ数列から任意の2つの数字を取り、前の数
を後ろの数で割るとその除はどんどん「黄金分割」0・618034に近づいていくのだ。
数が大きいほどそのようになる。たとえば、2を3で割ると0・666、、、。34を55で割
ると0・6181、、、、だ。元の数がそれほど大きくなっても―億や兆の桁になっても―
―その数は決して黄金分割そのものにはならない。

URLリンク(ja.wikipedia.org)  5角形

松毬やオウムガイの殻、そして渦状星雲に見られるのはこのフィボナッチ数だ。何故神がこの奇妙な
比率を選んだのかは、誰にも分からない。だが面白いことに、フィボナッチ螺旋は五角形から求
めることができるのである。それに内接する5角星型の一辺を、その「脚」の辺と直角に
置くと、短い線の終端からフィボナッチ螺旋を開始することができる。

まるで、5角星型もまた神のお気に入りであるようだ。

更にいうなら、ヘロトドスによれば(実はこの一説は写字生の誤りを正す必要があるのだが)、
黄金分割は大ピラミッドの各辺の区画にも見ることができる。

さてコーンフォードは「アルカディアの牧童」に関する研究結果をヘンリー・リンカーンに報告した。彼はまず、
古典画家たちが常に用いる2つの「システム」を探すことから始めた。その一つは数字のシステム
で、プラトンの「ティマイオス」(宇宙の創造についての対話篇)に基づいており、ルネッサンスのころに
流行した。だがもう一つは遥かに古いもので、黄金分割に基づく幾何学のシステムだ。

コーンフォードは、プッサンの絵にはティマイオスのシステムが見出されるだろう、と予想した。なぜなら当時、
黄金分割のシステムは極めて古臭いものと見なされていたからだ。実際、彼は予想通りそのシステ
ムの痕跡を発見した。だが、「アルカディアの牧童」に用いられていた主要なシステムは、黄金分割だ
ったのだ。さらに、この絵には五角形の幾何学が充ち満ちていた。

59:,レンヌ=ル=シャトーの聖なる地形、、、
08/06/15 18:13:37 yc4UPfDs
この5つの辺(例えば辺AB)と弦(例えば弦AC)の比は1:1・618、つまりφだ。

さらに詳細に調べていくうちに、コーンフォードは画面の外に延びる5角星型を見つけ出した。
つまり、プッサンの絵には5角星型が埋め込まれていたのだ。

そこでコーンフォードは興味深い推測をした。「プッサンが鍵を持つ、、、」のフレーズは、ソニエールが財宝を
探したレンヌ=ル=シャトーの地形に関係があるのではなかろうか?

これに触発されたリンカーンは、彼の最も重要な発見を成し遂げた。

レンヌ=ル=シャトー一帯の陸地測量地図を見ると、あることがただちに明らかとなった。その地方
の3つの重要地点―つまりレンヌ=ル=シャトー、ベズのテンプル騎士団の城、それにブランシュフォール城は、
きれいな3角形を描いていたのだ。そしてそのいずれもが山頂に当たっていた。リンカーンは地
図上にこの3点を頂点とする3角形を描き、その各辺を測定してみて驚愕した―それは
正確な2と右辺三角形だったのだ。すなわち2つの辺の長さがまったく等しかったのであ
る。ベズを頂点として、ブズからブランシュフォールへ引いた直線と、ブズからレンヌ=ル=シャトーへ引い
た直線は完全に等しい長さだった。

これは偶然ではありえない。はるかな昔、何者かがこの3つの頂上の測量を行い、これが
二等辺三角形を描いていることを確認した後に、これを秘密のパターンの一つとして選択した
ことは間違いない。

ここでリンカーンは、可能性としては遥かに低いが、もしもあと二つ頂点があれば、きれいな5
角星型が描けるのに、と思いついた。もちろん、ないものねだりに違いない、、、、。だが、
そうやって地図を見て見ると、実際にあと2つの頂上が、まさに正確な位置に存在したの
だ。東側はラ・スラン、西側はセール・ド・ロズ。そしてこれらを繋ぐと正確な5角星型が出現し
たのである。

これは極めて稀な自然の奇観だ。だが、驚きはそれだけではなかったのだ。リンカーンが地図の
中心を調べると、そこにもう一つの山頂、ラ・ピクが存在した。

確かに地図で見るとラ・ピクはど真ん中に見えるが、実際には中心から250ヤード(約22
9メートル)南にずれている。だが、それは想定の範囲内だ。結局のところ、これは人工の地
形ではないのだ。

60:,
08/06/15 18:16:07 yc4UPfDs

なのにラ・ピクが5角星形のこれほど中心に来るというのは十分驚くべきことだ。
これこそがレンヌ=ル=シャトーの基本的な秘密だ。つまりそれは聖なる地形の一部だった。だから
こそ、ダゴベールはレンヌ=ル=シャトーに都をさ定めたのだ(そして彼の息子シギスベルトは、父が殺さ
れた後、そこから逃亡したのだ)。メロヴィング家の聖なる血は、魔術的地形と関連していたの
である。

私も、リンカーンの『聖なるパターンへの鍵』(1997)を読むまでは懐疑的だったが、これ
こそ天然の「魔術的地形」だと気づいたリンカーンも同意見だ。だが奇妙なことに、プランタール氏はリンカ
ーンの推察に同意しなかった。リンカーンがソニエールの暗号文書に5角形の幾何学を発見したとき、
彼とシュリゼが驚愕したのは確かなのに、プランタールは黙して語らなかった。

逆に、ここに書かれた秘密の暗号についてリンカーンがたずねたところ、プランタールは信じられな
いことを述べたのである。つまり、それはシュリゼによる「捏造」だと。いったい何のために?
何年か前に作られた10分のTV番組のためだという。

当然ながら、リンカーンはその話を鵜呑みにはしなかった。この暗号の信じがたいほどの複雑さ
を見る限り、その作成には長い時間と高度な作成技術が必要であることは一目瞭然。

では、なぜプランタールは話をごまかそうとしたのか?というのも、プランタールの―そして(シオン
の僧院)の元来の目的は、この謎に衆目を集めることにあったのはほとんど間違いない。
その目的とは、恐らく、フランスが共和制に飽きたとき、メロヴィング家の子孫をしかるべき地位

に就ける事にあったのだろう。ド・セドはかつてリンカーンにこう言った。「われわれはあなたの
ような人物の注意を惹こうと考えたのです」。いまや、リンカーンはすでにこの話に食いつき、
5角形の幾何学まで発見したというのに、プランタールはなにかちょっとやりすぎたように感じ、
引き返そうとしているように見える。


61:,
08/06/21 19:04:20 d5Y34M5X



スレリンク(min板:74-78番)  正規の尺度





62:,聖地を貫く直線パターン、、、
08/06/21 19:10:18 d5Y34M5X

1991年、リンカーンはもう一つ重要なことを発見した。彼は、ボルンホルム島生まれのデンマーク人
TVプロデゥーサーと接触していた。エルリング・ハーゲンは、ボルンホルム島の15か所の教会に興味を持
っていた。それは13世紀(すなわちテンプル騎士団の時代)のもので、どうも古代の巨石と
関係があるらしい―事実、巨石のいくつかは教会の壁にとりこまれていた。

さてリンカーンは常々、レンヌ=ル=シャトーのパターンの一部は巨石時代にまで遡るのではないかと考えて
いた。一方、ハーゲンセンは、ボルンホルムの幾何学図形もまた5角星型だと彼に告げた。リンカーンは彼
らがそれぞれ「同じ謎の別の部分を解き明かしつつある」と確信した。
さらにハーゲンセンは、ボルンホルムの幾何学にイギリスのマイルが用いられている事を発見した。例えば、
もしもハーゲンセンの幾何学が正しいなら、イヴスケルとポヴスケルの2つの教会の距離は、正確に7
マイル(約11・2キロ)になるはずだ。そして実際にその通りだった。

だが、なぜに「マイル」なのか?リンカーンの本の「単位」と題する章には、奇妙だが説得力ある
事実が示されている。

URLリンク(ja.wikipedia.org)  マイル

1791年に使用されるようになったフランスのメートルは、北極から赤道までの距離の1000
万分の1だ。リンカーンによれば、イギリスの古い単位である「ロッド」「ポール」「パーチ」(1マイルの3
20分の1)「などもまた、地球表面の正確な距離に基づいていると言う。1ポール(198
インチ)を二乗すると、ちょうど1キロ(39370インチ)となる。

この古代のポール(198インチ)に1・618、すなわち黄金分割をかけると、答は320。
そして320ポールは1マイルだ。つまりイギリスのポールとキロメートル、それに黄金分割を掛け合わ
せたポールとマイルは、数学的に関連しあっているのである。


63:,聖地を貫く直線パターン、、、
08/06/21 19:24:47 d5Y34M5X
URLリンク(ja.wikipedia.org)  ロッド

リンカーンはまた、ベルリンの「歴史上の度量衡」を引用している―ギリシアのスタディオンは、ギリシア人
が地球の正確な大きさを知っていた示していると述べた本だ。ベリマンは問う、「はるかな太
古に、地球は計画されていたのか?」。そして確かに計測されていたことを示すために、古
代エジプト、バビロン、シュメール、中国、ペルシア、その多くの古代文明の例を挙げる。彼によれ
ば、古代の度量衡は地球の計測に基づくものだ。逆に言うなら、当然ながら古代人はすで
に地球を計測していたと言うことだ。

これはもちろん、歴史は必ずしも進歩し続けるとは限らない、と言うハプグッドの見解とも
一致する。歴史は停滞することもあれば逆行することもあるのだ。このことは、今から1
0万年前に存在した高度な科学レベルを持つ文明の存在を前提としている。

リンカーンは、ハラルド・ベールケというノルウェー人と知り合った。彼はノルウェーにおける距離に関し
て驚くべき発見をした。ノルウェーは1000年前まで異郷の土地で、キリスト教の進入とともに、
あちこちにあった交易場が姿を消し、より大規模な人口密集地となって都市へと発展していった。
このような新しい街―オスロ、トロンドハイム、ベルゲン、スタヴァンガル、ハマル、トンズベルク―
は極めて恣意的な場所に造られたように見える。たとえばオスロは、何もない単なる僻地だ。

スタヴァンガルに大聖堂があるのはなぜか、誰にも分からない。


だが、それらの街の距離は、何らかの数学的理由に基づいて造られたらしいのだ。すなわ
ちオスロからスヴァンガルまではぴったり190マイル。オスロからベルゲンも190マイル。トンズベル
クからスタヴァンガルは170マイル。トンズベルクからハルスノイまでは170マイル等々。

さらに、古い修道院のある場所は、やはり5角星型の幾何学に基づいていた。あたかも教
会が、新しいキリスト教ノルウェーを作り出すために、何らかの秘密の幾何学の知識を使っていたか
のようだ。
URLリンク(ja.wikipedia.org)  オスロ
URLリンク(ja.wikipedia.org) ベルゲン
URLリンク(ja.wikipedia.org) トンズベルク


64:,聖地を貫く直線パターン、、、
08/06/21 19:29:07 d5Y34M5X
リンカーンはまた、188メートルを基準とする単位を発見し、これを「教会単位」と名づけた。
そして5角星型の測地とともに、これをフランスの雑誌で発表した。フランス在住の数学教師パトリシ
リンカーンの「聖なるパターンへの鍵」の最終章によれば―「われわれは謎に直面している。レンヌ
=ル=シャトーの地形構造、それとイギリスのマイルとの関連(そしてマイルと地球の大きさとの関連)は、
豊富な実例とともに容易に示すことができる。単位と幾何学配置の存在は明らかだ。その
パターンは繰り返し現れ、その形は深い意味を持つ。これらすべては遠い過去に作られ、それ
が今明らかになりつつある」。そして彼は、歴史家や考古学者に対して、これらの証拠に目
を向けるよう訴えている。

リンカーンの言う「パターン」とは、山々の5角形配置や教会の円状配置だけではない。
彼はレンヌ=ル=シャトー周辺に、意図的に作られたとしか考えられない数多くのパターンを発見した。
彼の言う「聖地」とは、「自然の山々による5角形、およびそれをとりまくように建てられた人工の神殿」である。

この種の話は、どうもこじつけが過ぎるとおもわれがちだ。私だって、やたらと細かい線
を引きまくった地図を見せられただけで、げんなりして本を投げ出してしまう。そんな私
だけが、リンカーンの本は実に説得力があった。例えば、レンヌ=ル=シャトー教会を中心として、周囲の
村、教会、白などに直線を引いた図。はるか彼方の教会や城からレンヌ=ル=シャトーにむかって引
かれた直線が、そのままレンヌ=ル=シャトー教会を貫通し、遠く離れた反対側の城や教会に到達す
るのだ。中でも最も説得力ある図は、格子パターンだろう。様々な場所を繋ぐ直線を引くと」、
それらは互いに平行しているのだ―右から左だけではなく、上から下にも。そしてその
直線同士の距離も等しいのである。

それだけではない。この格子の基本単位は、イギリスのマイルになっているのだ(リンカーンはマイルで
示した距離のリストを挙げている。例えば、レンヌ=ル=シャトーからブズはちょうど4マイル。レンヌ=ル
=シャトーからスランもちょうど4マイル)。


65:,
08/06/21 19:31:01 d5Y34M5X

さらに彼は、ソニエールの謎の財宝についても新しい手がかりを提示した。彼の発見した直線の
多くは、ソニエールが書庫として建てたマグダラ塔を通過していた。それはまさに、ソニエールにとっ
ての最西端にある―彼はそれを切り立つ急斜面のすぐ上に建てたのだ。これによて、リンカ
ーンの言う「レンヌ=ル=シャトー神殿」に、さらに重要な配置が追加された。

さらに興味深い情報がある。1917年の死の直前、ソニエールはもう一つの塔の建立に着手し
ていた―それも高さ60メートルのものだ。その位置は不明だが、リンカーンによれば、この
あたりで最も重要な配置の一つは「日の出ライン」、すなわちアルク教会からブランシュフォールを
通過してレンヌ=ル=シャトーに至るラインだと言う。このラインは、リンカーンが始めてイギリスのマイルに気づいたラインで、その長さはほとんど6マイル(約9・6キロ)だった。

このラインを正確に6マイルにするためには、マグダラ塔の下の斜面に終点を置かねばならない。

だが、塔の下の斜面であるために、目印としてブランシュフォールやアルクから見えるようにするため
には、マグダラ塔よりも高い塔でなければならない。ソニエールが新しい塔を作ろうとしていたの
はこの場所なのだろうか?
もしそうなら、それはわれわれの仮説をさらに裏づけるものとなる―このあたり一帯が、
ちょうどニューヨークの街路のように、幾何学的原理に基づいて意図的に配置されている、と言
う仮説だ。

例の暗号文書を発見した直後から、ソニエールは長い時間をかけて周囲の丘を歩き回っている。
彼自身は岩屋を作るための石を集めていたと述べているが、多くの研究家は財宝を探して
いたと考えている。だが、さらに可能性の高い説が浮かび上がってきた―パリ滞在中、彼は「神殿」の幾何学の秘密を知り、自らこれを習得していた。その後、彼はマグダラ塔を作
り、これによって「日の出ライン」を完成させようとしたのだ。

つまり、暗号文書の発見によって彼は「神殿」の看護者に任じられていた。それを命じたのはたぶんドビッシーで、目印を建てるための金も彼が供与したのだろう。

リンカーンの30年に及ぶレンヌ=ル=シャトーの研究によって、地球の計測に関する古代の科学の存在が
明らかとなった。中世以来、この科学は教会によって管理されてきたようだ(当然、そこ
にはテンプル騎士団も関わっていただろう)。だがリンカーンは、それがさらにはるかにふるいもの
であると感じている―まさしく、巨石時代にまで遡るものであると。これはただちに、
アレキサンダー・トムの言う「巨石時代のアインシュタインたち」を思い起こさせる。


66:,
08/06/21 19:42:34 d5Y34M5X

ベリマンもまた「歴史上の度量衡」で同じことを述べた。すでに述べたように、彼によれば先
史時代の単位は測地学に基づいていた―地球の大きさに基づいているということだ。そ
してベリマンは、驚くべき事例の数々をこれでもかとばかりに集めている。例えば地球の円周
とスタディオンの正確な対応、あるいはインダス渓谷のモヘンジョ・ダロの大浴場の面積がぴったり10
0平方ヤードであること、等々だ。

また彼によれば、インダス渓谷で発見された貝殻に、巧みな技術で均等目盛りのつけられてい
るものがあった。そして特に印のついている目盛りの間隔は、シュメールの1シュシにぴったり一
致していた(1シュシは1インチの3分の2)。

さらに奇妙なことがある―ローマにはユゲルムと言う面積の単位があり、これはイギリスの1エーカーの8分の5である(フランスのメートルもまたイギリスのマイルの8分の5だ)。そしてこれは、ぴったり
100平方「ポール」に当たっている。ここでもまた、古代の測量単位というものは、昔の
王に仕えた測量士の気まぐれなどではなく、往古に遡る伝統に則るものだという観念と直
面する。そしてそれは、地球の大きさに関する正確な知識に由来しているのだ。

URLリンク(ja.wikipedia.org)  ヤード
URLリンク(ja.wikipedia.org) モヘンジョ・ダロ
URLリンク(ja.wikipedia.org) エーカー
この「イギリス繋がり」について、リンカーンは突飛だが魅力的なことを思いついた。レンヌ=ル=シャト―
を研究し始めた頃、彼はジェラール・ド・セドと一緒にパリの国立図書館へ行った。セドは、アンリ・
ブデ神父の「真ケルト語」(1886)と言う本を借りるよう勧めた。ブデはレンヌ=ル=バンの司祭
で、ソニエールの親友だった。


67:,
08/06/21 19:45:58 d5Y34M5X

事実、ソニエールに金を渡していたのはどうもこのブデだったらしい。プランタールの祖父が189
2年にブデを訪ねたが、ブデはソニエールに(というか、ソニエールの家政婦であるマリ・デナルノーに)3
50万金フランを渡していたのみならず、ビアール司教にも750万金フランを渡していた。
この司教はソニエールを任命し、また明らかにこの秘密に関わっていた人物である。1金フランは
今の35フランに相当する(そして9フランが英貨1ポンド)ので、ソニエールの受け取った金
はポンドで言えば1300万ポンド(2000万ドル)以上、そして司教はその2倍以上の
額を手に入れたことになる。

リンカーンはブデの本を手にしたが、それは不可解極まりないものだった。ブデは、バベルの塔
以前の原言語は英語―というより、ケルト語であったと考えていたらしい。リンカーンはブデの
本のこの部分を「言語学的冗談」と呼んでいる。

ブデは聡明な人物であったとされているので、これは彼の韜晦ではないのか、とリンカーンは考
えた。だがその後、話は遥かに面白い方向に転ずる。ブデはその地方の巨石構造物を論じ
始めるのだ。この本の副題は「レンヌ=ル=バンのクロムレック」―クロムレックとは2個の直立する立石の
上に平らな巨石を乗せた、巨大なダイニングテーブルのような構造物を言う。

あたかもブデの役割は、その地方のなぞについてほのめかし、それが巨石時代にまで遡る
と暗示することのみにあるように見えた。だがリンカーンはこう想像した―彼の意図は、この
地方の謎を解く大きな鍵はイギリス、特にイギリス単位(例えばマイル)にあると示唆することでは
なかったのか、と。そしてブデは、人類の原単位がイギリスのもの、例えばマイルであるといい
たかったのだろうか?


68:,絵の中に隠されていた5角星
08/06/21 19:55:43 d5Y34M5X
67のレスはマズッタかも、、、。レンヌ=ル=シャトーの場所ってWIKIで検索できないでしょ、、。


ネンヌ=ル=シャトーは、自然の5角形を中心としている点で、他のすべての聖地とは異なっている。
それだけでここを聖地と見なすには十分だったのだろう。では、ここはいつから聖地とさ
れていたのだろうか?リンカーンによれば、少なくとも1000年間はそうだと考えている。「神
殿」―-教会、城、村から成っている―は少なくとも1000年以上前にデザインされたに
違いないのだから。

そこで、秋から名疑問が浮かぶ。この地方の山々の5角形の配置は、空中から見るか、も
しくは精密な地図上でしか確認できない。だが、1000年前にそのような地図は存在し
なかった。確かにポルトラーノというものはあったが、あれはあくまでも海図であって、
陸図はお粗末極まりないものでしかなかったのだ。

だが、ハプグッドの提示した証拠の中には、キリスト教よりも何千年も前の地図が―それも、
氷結前の南極大陸の地図までもが―存在しているのだ。

さて、ベルリンの示した証拠によれば、古代ギリシアのスタディオンは地球の正確な大きさを知っ
ていた文明の存在を示しており、どうもそれはシュメール人らしい。彼らは60分で1時間、6
0秒で1分という体系を作り出した。だが、そうだとすると、また別の問題が持ち上がる。
シュタイナーはいったいどうやって地球の大きさを知ったのか?

その答は―紀元前250年にエラトステネスがアレクサンドリアの塔の影を使って計測したのと同じ方
法だ。だが、そのためには必ずしも5000スタディオンも離れた場所が必要なわけではない。
日本の垂直柱を、数マイル話して地面に建てればよいのだ。古代エジプト人が同様の方法を知
っていたのは明らかだ。彼らは、大ピラミッドの単位の中に、地球の大きさを組み込んでいる。
シュメール人が60進数を使っていたと言う事実は、彼らもまたそれを知っていたことを示して
いる。

とはいうものの、もしも地球の正確な大きさに関する知識は何処からもたらされたのか、
とプラトンにたずねることができたなら、彼は答えただろう―アトランティスだ、と。かつてのハプ
グッドも9部9里同じことを答えていたに違いない。だが晩年の彼は、アトランティスよりも遥か
に古い、10万年前に遡る「高度に発達した科学」の存在を確信するに至った。


69:,絵の中に隠されていた5角星
08/06/21 19:59:33 d5Y34M5X

スレリンク(rikei板:239-240番) ニネヴェ定数

それは実にばかげた考えに見える。だがモーリス・シャトランによれば、ニネヴェ定数はさらに巨大な
キグリア定数の約数の一つであり、「マヤ人とシュメール人はお互いに直接のつながりを持っていたか、
あるいは共通の祖先を持っていたに違いない」。そしてシャトランによれば、その共通の祖先と
は、6万年以上前に遡ると言うのだ、、、。

レンヌ=ル=シャトー地域の配置に関するリンカーンの研究をさらに拡大したのが、美術史家のピーター・ブレ
イクだ。彼がこの主題に関する興味をかきたてられたのは、ルイージ・シニョレッリの「パンの教育」
という絵を見たときだ。これはロレンツォ・メディチの依頼によって描かれた。ブレイクは、1492
年に依頼されたこの絵の中に5角星形を見出した。リンカーンによる「アルカディアの牧童」の分析
に親しんでいた彼には、その構造はひと目で明らかとなったのだ。

このことは当然ながら、ロレンツォ・メディチもまたテンプル騎士団と(シオンの僧院)の秘密に関与し
ているのか、と言う疑問を引き起こした。彼は偉大な人文主義の伝統に属する人物なので、
その可能性は極めて高い。さらに彼はダ・ヴィンチのパトロンでもあり、そのダヴィンチが1510
年から1519年まで(シオンの僧院)の総長を務めていたことを思い出せば、それはほぼ確
実となる。

ブレイクはまた、「パンの教育」の5角星形が、ヘンリー・リンカーンがソニエールの暗号文書の中に発見した
もの同じであることに気づいた。

ブッサンの「アルカディアの牧童」の依頼人は、後に教皇クレメンス9世となる枢機卿ジュリオ・ロスピリオージ
だった。だからこのロスピリオージもまた(シオンの僧院)の一員らしい。教皇にもなろうという
男がそんなはずはない、と思われるかもしれないが、「このキリストの神話はわれらに役立って
くれた」と言う名言を残した教皇レオ10世が、ロレンツォの息子であるジョヴァンニ・デ・メディチで
あることを思い起こせば、ありえない話ではない。

ロスピリオージ枢機卿はまた、1638年に描かれたプッサンの「時の音楽の舞台」の依頼人でも
ある。これは彼がブッサンに依頼した最後の作品であり、ゆえに多くの点で最も重要なものだ
とブレイクは睨んでいる。


70:,絵の中に隠されていた5角星
08/06/21 20:01:43 d5Y34M5X
絵の中では、ヘルメスが竪琴をかなで、4人の女性が手に手を取り、互いに背中を向け合いな
がら輪になって踊っている。2つの顔の彫刻、恐らくイエスと洗礼者ヨハネが、大理石の柱の上
に背中合わせになっている。画面の反対側の同じ高さのところに台座があり、それらを繋
ぐ線は明らかに5角星形の上の線だ。

彼らの上にはオリオンが戦車で空をかけている。「アルカディアの牧童」とは違って、こちらの5角
星形はきれいに画面内に収まっている。ブレイクは、「アルカディアの牧童」の中にイエスを赤で表す
色の暗号を見出した。同じことは「時の音楽の舞踊」にも当てはまる。

中央の人物の画面左にいる女性は赤と青の衣装を着ているが、これはイエスと聖母マリアの両方
を表す。中央の人物、すなわち金のスカートの女性は収穫の象徴だという。ブレイクによれば、女
性の収穫とは子供である―この解釈は右隅と左隅の子供によって裏づけられている―
そしてこの絵は、イエスと母性の両方を表す女性が、イエスとの間に子をもうけることを示して
いるという。

イエスが子をもうけたことを示す絵がもう一つある。「大洪水」だ。これは四季を描いた4枚
の絵の最終作で、冬を表している。極めて奇妙な絵で、隠された意味があると公言してい
るようなものだ。

この絵は、荒れ狂う海から岸に逃れようとする家族を描いている。赤い服を着た人物がロ
バに引っ張ってもらって騎士に近づいている。これがイエスであるのは明らかだ。「時の音楽
の舞踊」と同様に金色を身につけていた女性が居て、赤ん坊を抱いている。その赤ん坊は
やはり赤い服を着ていて、イエスが父であることをはっきり示している。

岩に居る蛇はブレイクによれば叡智の象徴で、背景のピラミッドも同様だ。イエスとその家族が上陸
する見知らぬ岸辺は、フランスを表しているのか?そのように解釈しない限り、この絵を意味
するところはまったく不明だ。

この絵を依頼したのはド・リシュリュー公爵で、彼は、ルイ13世の延臣にして黒幕であった枢機
卿リシュリーの甥だ。リシュリューは1624年に王の宰相となるが、その17年前にローマで司教の叙
階を受けていた。スペイン・ハプスブルク家とスイスのプロテスタントの論争の際にはプロテスタント側に立ち、
フランスから教皇軍を放逐した。王母マリ・ド・メディシスは震え上がり、息子を説き伏せてリシュリュー
を追放しようとした。だがルイは母親の干渉に嫌気がさしており、リシュリューこそが力になって
くれると判断した。彼がリシュリューを選ぶと、母と兄弟は当時スペインに占領されていたネーデルランド
に逃れた。


71:,
08/06/21 20:24:36 d5Y34M5X



リシュリューはブッサンを高く評価していた。それゆえに彼はブッサンの愛するイタリアからフランスに戻るよ
うに圧力をかけ、王立美術院の一員とした。1640年、ブッサンはいやいやながら渡仏し、
2年後にようやくイタリアに戻ることを許された。恐らく彼はパリ滞在中に(シオンの僧院)の1
員となり、イタリアに戻ると、ロスピリオージ枢機卿の注文に取り掛かった。リシュリューはイタリアのブッサン
をしばしば訪問した。

このことから見て、リシュリュー自身もまた(シオンの僧院)の一員であるようだ。となれば、彼が
カトリック教会よりもプロテスタントの側に立った理由もわかる。いずれにせよ、ブッサンを(僧院)に
導いたのは」リシュリューだったのだろうか?もしもリシュリューが実際に(僧院)の一員であるとして
も、彼は明らかにメロヴィング家の末裔を王位に就け様という意図はなかったようだ。という
のも、彼は、アンヌ・ドートリッシュが妊娠するよう取り計らい、それによってピピン短躯王の子孫
が王位を継ぐように画作した、とされているからだ。

何故そんなことをしたのか?たぶん、王位に就くのがメロヴィング家であろうとカロリング家であ
ろうと、リシュリューにはどちらでもよかったからだろう。ロレーヌ家のほうがブルボン家(ルイの家
だ)よりもキリスト教の真実を世に公言する見通しが強いわけではない。それにロレーヌ家が王位
に就けば、リシュリューは権力を失うだろう。ゆえに彼は、世継ぎを用意することで、ブルボン家
を守ったのだ。


72:,
08/06/21 20:43:56 d5Y34M5X

だが、もしもリシュリューが字際に(僧院)の一員であるのなら、当時の傑出した人々の多くが、
教皇や枢機卿をペテン師の王朝とみなし、ローマ・カトリックの終焉を喜んでいた、と言う驚くべき
事実が強調される。

ブッサンの「アルカディアの牧童」と「時の音楽の舞踊」、それにシニョレッリの「パンの教育」の中に5
角星形を見出したピーター・ブレイクは、それをレンヌ=ル=シャトー周辺の地形に当てはめようと考えた。
するとうれしいことに、ピタリと当てはまったのだ。

シニョレッリの5角星形も、「アルカディアの牧童」のそれも、多くの頂上に当てはまった。「時の音楽
の舞踊」は女性主体の絵だったので、ブレイクはその5角星形を他の二つに対して90度傾け
た。するとやはりその頂点は山の頂上と一致したのだった。それらの5角星形の交点は、
渓谷の終端の山頂に当たっていた。その側には山頂から突出している部分があり、エスタニョル
と呼ばれていたが、それは古フランス語で「東の子羊」と言う意味だ。

ブレイクは車でその場所に行ってみた。それは断崖の頂上にある長い石で、その反対側には1
0メートルの落差があった。その基部には巨大な石板があって、崖にもたれかかっていた。
その石板の片側に苔で覆われた穴があった。ブレイクがそれをはぎとると1メートル4方位の隙間
があった。その中には空洞があり、そこは平坦な地面になっていた。3角形の洞窟を這い
進むと、その底の土の下に平らな石の床のようなものがあった。その一つを引っ張り出し
てみたところ、その下面はざらざらで不規則になっていた。この床は明らかに注意深く設
置されたものだ。

洞窟の反対側には出口があり、外に通じていた。さらに数ヤードいくともう一つの石板が
あり、3角形の穴に立てかけられていた。その中にはやはり洞窟画あった。ブレイクはこの二
つの洞窟はイエスとマグダラのマリアの墓に違いないと考えた。

73:,異界への扉を開くシャーマンの儀礼
08/07/09 09:35:48 Xs7BKDvF

失われたインカ文明の痕跡  、、、


ラジオとTVのブロードキャスターであるロス・サーモンは、失われたインカの世界に魅了され、かのパーシー・
フォーセット大佐のように、失われた都を見つけるたびに出た。彼は、プリマスのBBCで働いてい
て、私もときおりプレゼンターとしてBBCには顔を出していたので親しくなったのだ。南ア
メリカの失われた都の伝説は、リオデジャネイロの国立図書館にある「第512番手稿」に由来す
る。それは1760年代に同館の蔵書となったものだ。まるでコナン・ドイルの冒険物語のようだ
が―実際、フォーセットの探検がコナン・ドイルの「失われた世界」(1912年)の元ネタとなった―
―それは実際にはポルトガルの財宝ハンターが10年にわたって中央ブラジルをさすらった記録だ。

手稿によれば、ハンターたちは巨大な石のブロックで造られた廃都を発見した。彼らは援軍要請の
ために文明社会にメッセージを送ることを決め、彼等の発見の話は地元の飛脚によってバイアの
総督に伝えられた。だがそれに対しては何の動きもなく、以来、手稿はずっとその図書館
にある。小説家イアン・フレミングの兄であるピーター・フレミングは、「ブラジルの冒険」(1933)に記さ
れている遠征に出かける前に、その図書館でそれを読んだ。また、ハロルド・ウィルキンズの「古
代南アメリカの謎」(1946)にも全文収録されている。
著名な旅行家にして冒険家であった

パーシー・フォーセット大佐はこの手稿を読み、1925年1月、「失われた都」を求める旅に出た。し
して1925年5月、彼はブラジルのマトグロッソで消息を絶った。ほぼ間違えなく原住民に殺され
たのだ。彼の足跡をたどろうとする試みは数多く行われているが、一つとして成功した者
はない。

URLリンク(ja.wikipedia.org) 巨大アナコンダ


74:,
08/07/09 09:38:52 Xs7BKDvF
とはいうものの、ロス・サーモンが失われた都に興味を持つようになったのは、フォーセットとは何の
関係もない。第二次世界大戦中を軍隊で過ごした彼は、冒険の人生を夢見るようになり、
気がつくとベネズエラの牛の放牧場で働いていた。その後、彼は隣接するコロンビアの放牧場を負
かされるようなった。ここで彼は、スペインのコンキスタドールと、彼等が征服した部族に関する記
録を読みはじめる。山地に住むインディオに関する記録の中に、「イニカ」と呼ばれる民が「青眼」
(白人)に追われ、ジャングル奥地で生活することを余儀なくされたが、いつの日か戻ってき
て侵略者を皆殺しにする、という情報があった。「イニカ」というのは、もしやインカのことか?
かくして探求が始まった。

BBC旅行番組の製作で彼はかつてコチャバンと呼ばれたインカの都市を訪ねるべく、ボリビアに
やってきた。高い山々や乾いた河床を踏破し、彼ともう一人のイギリス人は、インディオの若者の案
内で都の痕跡のある場所にたどり着いた。今ではすっかり植物にに覆われている。だがそ
こで古い工芸品を見つけた彼らは、自分たちこそが世界で最初にこれを発見したと確信し
た。地元のインディオは祖先の例を恐れてそこに足を踏み入れようとはしないのだ。だが同行
者が熱のために瀕死状態となり、コチャバンバ遠征は延期せざるを得なくなった。

というわけで、サーモンが再びボリビア探検に出たのは何年も後のことだった。彼の目的は財宝
ではない―ただ、古代文明が存在したという証拠だけだ。

ボリビア・アンデス東方のベニと呼ばれる一帯でドキュメンタリーを撮影していた彼は、一面の運河と丘
のような塚(マウンド)のある広大な平原を発見した。これはまさしく今は亡き文明の痕跡の
ように思えた。。毎年、この平原は1メートルほど冠水するので、インディオたちは塚を築いて、排
水が引くまでそこで生活していたのだ。

ビル・ドノヴァンというアメリカの学生が、1962年に飛行機からこの塚を発見したが、学会の機関
に調査に向かわせることは出来なかった。衛星写真によれば4000基ほどの塚が確認で
きるが、考古学的調査はまったく行われていない。


75:,
08/07/09 09:44:19 Xs7BKDvF
URLリンク(ja.wikipedia.org) アイマラ族

古いインカ遺跡の専門家であるヴィクター・ブストス博士がサーモンに語ったところによれば、これらの
証拠は「塚の文明」が最終的には排水のために塚を遺棄せざるを得なくなったことを示し
ているという。それは聖書の洪水のことですか、とサーモンは訪ねた。「おっしゃるとおりです」
とブストスは言った。
「この地球全体が洪水に飲まれたことを示す証拠は、世界中に圧倒的にあります。それは
今から1万年ほど前、異常な雨の後に起こったものです」

ブストスによれば、それは突然の破局ではなく、何十年も続いた浸水であるという。

サーモンはたずねた、「塚の文化はそれ以前のものなのですか?」。ブストスは認めた、「恐らくこ
こには、歴史を遥かに遡る文化があったのでしょう。洪水によって彼らはアンデスに追われ、
そこに最初のアンデス文化を築いたのです。何千年も前に」。

もう一人の考古学者、カルロス・ポンセ・サンヒネス博士がサーモンに語ったところによれば、紀元900
年ごろ、ティアワナコ一帯でアイマラ族による帝国が最盛期を迎えたという。それは恐らく、か
つてのギリシアやローマ帝国よりも大規模であったらしい。


私がアイマラ族に興味を抱いたのは、フレマスの「空が落ちるとき」がきっかけだった。現在もな
お、アイマラ語を話す人々は250万以上に上るが、フレマスによれば「1984年、ボリビアの数
学者イバン・グスマン・デ・ロハスは、コンピューター・ソフトウェアの発達の上で重要な一歩を記した。英語
を他の数ヶ国語に同時翻訳する際、アイマラ語をその媒介言語として使うことが出来ることを
示したのである」。

アイマラ語の構造は極めて厳密かつ単純で、「つまり統語法の法則が完璧に適用され、コンピューター
によって判読可能な一種の数学的記号で書き残すことが出来る。実際、一部の歴史家によ
れば、これほど純粋な言語は他の言語のように発達して出来上がったものではなく、まっ
たくゼロから開発されたものであるとしか考えられないという」


76:,
08/07/09 09:49:30 Xs7BKDvF

もしもモーリス・シャトランがこのことを知っていたら、間違えなく彼は、アイマラ語は異性人によって
コンピューター言語として作られたものだというだろう。

ロス・サーモンは、そのような考えを裏づけるかような興味深い発見をしている。ブカリラと呼ばれ
る古いインカの砦は、一見したところ大きな自然のピラミッドのように見えるのだが、彼はそこ
で2つの興味深い物体を発見したのだ。そのひとつは黄金製のインカの外科用ナイフで三日月
のような刃がついていた。もうひとつはペーパーバックの表紙くらいの大きさの薄い胸飾りだ
った。その表面に刻まれていたのは16の桝目で、まるで将棋版のようだった。それぞれ
の桝目の中に、角張ったシンボルが書かれていた。

サーモンのガイドを勤めていたケチュア族のワナクは言った、「これは私の祖先の言語です。彼らはこれ
で他の都にメッセージを送ったのです」。


インカ人は文字を持たなかったとされているが、サーモンはこれを見た瞬間、それが文字であると
確信した。後に彼は、このシンボルを解読できる人はいませんかとTVで呼びかけた。すると、
ポートレス在住のノエル・ビリングスというコーンウォール人が、夢でその答を見たと名乗り出た。彼のよれ
ばそれは数学的言語であり、優秀な数学者、測量技師、建築家によって作られたものだと
いう。サーモンはこのシンボルのかいどくに関してこれ以上の幸運に恵まれることがなかったが、
インカの言語の一つであるケチュア語族は、アイマラ語に極めて近いということは覚えておいて損はな
いだろう。そしてもしも、このシンボルがワナクの祖先のコミュニケーション手段であったのなら、サーモンの
発見は、遠い昔のボリビアのインディオたちがわれわれの想像以上の科学文明を持っていたこと
を示しているのかもしれない。

URLリンク(ja.wikipedia.org)


77:,コンドルの裁き
08/07/09 09:54:28 Xs7BKDvF

スレリンク(psycho板:411番)

 私はサーモンの説明を聞きながら、BBCの番組を見た。

1979年に「わがエルドラド探求」が出ると、取るものもとりあえず一冊買い求めた。だが
これを読んだ私は驚き、当惑した。ワクチュの話がまったく別物になっていたのだ。

1979年に「わがエルドラド探求」が出ると、取るものもとりあえず一冊買い求めた。だが
これを読んだ私は驚き、当惑した。ワクチュの話がまったく別物になっていたのだ。

 サーモンによれば、ワクチュは「人身御供」として選ばれたのだという-―何に対するものかにつ
いては一言もない-―そして、サーモンの助手であるケチュア族のヘラルドによれば、神官たちが撮
影のためにコンドルの儀式を演じてくれるという。

 ワクチュの不倫には一言も触れられていない。もちろん「この女は自ら死を選ばねばならぬ」
という叫びについてもだ。そしてコンドルが飛んでいき、話は唐突に終わる。ワクチュの自殺の話
もない。ワクチュが人身御供になったということに関して、それ以外にいっさいの言及がない
ために、話全体がなんだか要領を得ないものになっている。

サーモンは言う、「カラワヤ族に何の魔術的な力もなく、野生のコンドルを彼等の足元に着陸させ
ることなどできそうにないとすれば、それ以外の理由を探さねばならない」--暗に、それ
が飼いならされたコンドルであるとほのめかしているのだ。

 プリマスのBBCでたまたまサーモンにあった私は、一体全体何がどうなっているんだ、と訪ね
た。話によれば、彼の番組を見た「専門家」が、彼は担がれたのだと述べたという―た
ぶん、カラワヤ族はカネをもらって彼を騙したのだ、と。そんんあことあるはずないじゃない
か、と私は言った。
 サーモンは恥じ入った様子で、私に同意した、、、、。
彼が専門家とやらの意見を鵜呑みにしたのは悲しむべきことだ。
彼のフィルムを見れば、コンドルとアマウタの間に何らかのテレパシー的な関係が生じていたのは明らかなのだ。

78:,アトランティスの神像  、、、
08/07/12 08:33:30 oyjDjBdf
問い合わせ: "フォーセット大佐" (全ページ/リンク元)
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URLリンク(ja.wikipedia.org) ライダー・ハガート

サーモンの先輩であるフォーセット大佐は、それほど疑い深くはなかった。あるときフォーセットは、小説
家のライダー・ハガードから、黒い玄武岩でできた高さ10インチ(約25・4センチ)の小像
をもらった。ブラジルのものだという。胸に飾りをつけた男の像で、そこには謎の文字が刻
まれていた。フォーセットによれば、この像を手に持つと、誰でも「腕を電気が流れるような感
じ」がする。中には持っていられなくなる人も居るほどだという。

大英博物館の専門家によれば、これは贋物ではないが「見たこともないもの」だという。
贋物は骨董品として売ることを目的としているが、これに似た骨董品はまったく知られて
いない。

そこでフォーセットは、奇妙かつ異端的な方法でこれを調べようと考えた―サイコメトリーだ。これは
一部の人が持つ能力で、あるものを手にすることによって、その来歴を「感じ取る」ので
ある。不合理な話と思われるかもしれないが、実際に1840年代に科学的研究の対象と
された。「サイコメトリー」という名称は、その発見者であるジョセフ・ローズ・ブキャナンが名づけたもの
で、「精神(あるいは魂)による測定」を意味する。

フォーセットが訪ねたサイコメトリストによれば、この小僧は神官を象ったもので、それが置かれていた
神殿には祭壇の上に大きな目が描かれていたという。さらにその島大陸とその住人たちに
関する長い話があり、それからその破局が語られた。海が「ハリケーンの時」のように持ち上が
ったのだという。

フォーセットは、この「神像」をさらに何人かのサイコメトリストに見せたが、彼らの得た「印象は、先
のものと細部まで符合していた」。そこで彼は、この小像がアトランティスのものであることを確
信した。彼は言う、「どれほどの空想がその物語を彩っていようと、古代人が極めて高度な
文明を持っていたという伝承が、この大陸の原住民の間に根強く存在しているという事実
は残る―そしてこれらの伝承は、今日においても白人のほとんど訪れることのない遠く
離れた場所のインディオから聞かれるのだ。その話には驚くべき共通性があり、その先の元と
なった事実があると考えるのは極めて理にかなっている」。

URLリンク(ja.wikipedia.org) サイコメトリー


79:,
08/07/12 08:35:25 oyjDjBdf

フォーセットによれば―当時としては非常に斬新な考えだが―かつて「大変動の呪い」が南
アメリカを襲った。それはどうやら、プラトンのアトランティスを滅ぼした破局であるらしい。それほど
大規模な破局が巨大な津波を引き起こし、また世界中に小規模な災害を起こすとは疑い得
ない。「それは「アトランティスの隆起」を引き起こし(つまりそれは最後の氷河期以後に起きた
ということだ)、南アメリカに「文明の技に長けた白人種」をもたらした」。実際、フォーセットの結
論は、チャールズ・ハプグッドやシュワレール・ド・リュビックのそれに驚くほど似通っている。

この非難民たちはまた、1743年の探検で発見されたものに似た都市を築いたという。

「古代都市の存在については、私は人ときたりとも疑ったことはない。どうして疑うこと
は出来ようか?私自身がかつてそのひとつを目撃したことがあるというのに―だから私
は、もう一度行かざるを得ないのだ。あの遺跡は、かつて存在した最大の都市の単なる末
端に過ぎないもののようだった、、、、」

ここで一つの疑問が残る。何故彼はこんなあいまいな言い方をしているのか?答は一つだ
―その都市の残りの部分は完全にジャングルに覆われていたのだ。1830年代にスティーヴン
ズやキャザウッドが発見した失われたマヤの都もそうだった。つまり、フォーセットは失われた都市を
探すべき場所を知っていたということだ。しかし彼の著書によれば、彼はその場所が数多
く存在すると考えていたらしい。

彼の最後の探検の目的地は、どうも1753年の遺棄された都ではなかったらしい。彼は、
外界との接触を一切断絶した原住民尾うわさを聞いたことがあった。しかも、それは、ヨーロ
ッパ人に似た外見の衣服を着た民族であるという。「われわれの次の探検の目的地は―簡
便のために「Z」と呼称するが―この内気な民族の一部が住んでいるかもしれないとさ
れる都だ」。

かくして1925年1月、彼はイギリスを発って再び南アフリカへ向かい、そのままジャングル
に消えた。彼の著書「探検家フォーセット」(1953)は出発前にかかれたものだ。


80:,
08/07/12 08:39:43 oyjDjBdf




スレリンク(archeology板:68-88番)




、、、、詳しい話しは後ほど、、、。




81:,
08/07/16 21:30:08 RQSrKfjh

スレリンク(archeology板:68-88番)

だが、驚くべき事はそれだけではなかった。なんとフレマスは、8つ以上の聖地が、ハドソン湾の

旧北極時代の北緯10φの位置にあったことを発見したのである。(10φは北極から4429・2海里にあたり、

北緯16・11度である)。

聖地         座標            旧北極への距離(海里)かつての緯度

バールベック       北緯34・00/東経36・12    4431      北緯16・09

パラカス        南緯13・50/西経76・11    4431      北緯16・09


クスコ         南緯13・32/西経71・57    4433      北緯16・09

シドン         北緯33・32/東経35・22    4437      北緯16・03
 
マチュピチュ       南緯13・08/西経72・30    4407      北緯16・37

エーディン       北緯34・19/東経35・57    4406      北緯16・32

オヤンタイタンボ     南緯13・14/西経72・17    4414      北緯16・26

ニネヴェ      北緯36・24/東経43・08    4451      北緯15・49
 


82:,
08/07/16 21:36:53 RQSrKfjh

はたしてこれは偶然なのだろうか。もしも偶然で無いなら、南緯10φのテイアワナコに対応す
る、北緯10φ聖地があるはずだ、とフレマスは考えた。しかもそれは、やはりギザの大ピラミッ
ドと関係のある位置でなければならない。それにもっともふさわしいのは、北緯10φ、
ギザ西経120度の位置である。

だが、そこは、一見、何もなさそうな場所だったー-中央アメリカのベリーズという国にある、
ルバントゥムという、聞いたことも無い町だったのである。だが、インターネットで調べてみると、こ
こはかつてマヤの祭祀センターであり、3つのピラミッドがあったことが判明したのである。

実は私は、以前からこの町を知っており、かつて「過去と現在の解き明かされぬ謎」(邦訳
「世界不思議百科・総集編」)という書物の中で、この町のことを書いたことまであった。
というのも、ここは有名な「水晶髑髏」と関係のある町だったのた。

スレリンク(ruins板:74番)  水晶髑髏

83:,
08/07/19 10:37:13 q3+oeicx

数度にわたる南アメリカの探検で知られるパーシー・ハリソンン・フォーセット中佐は、1020年代に謎の
失墜を遂げた。このとき彼は、ブラジルのジャングルにあるという、失われた失われた都市を探
検していたのである。この都市については、リオ・デ・・ジャネイロの国立図書館の古文書にも
その存在が記されておりかつてそれが存在したことはほぼ確実と見られる。

この古文書の全訳は、ハロルド・ウィルキンズの「古代南米の謎」(1956)に収録されているが、
それによると、1753年にこのジャングルに迷い込んだポルトガル人の一団が、かつての壮麗
な大都市の遺跡を目撃したと言う。ウィルキンズがこの古文書の写しを手に入れたもは1939
年のことだが、フォーセット中佐は少なくともその20年以上前にこの古文書を見て、その内容
を正しいものと信じた。そこで彼は、何度も死線をさまよいながらも生涯この地の探検を
続けたのである。ちなみに、かのアーサー・コナン・ドイルの名作「ロスト・ワールド」は、このフォーセット中
佐の探検にヒントを得たものだ。

フォーセット中佐はアトランティスの存在を固く信じていた。かつて南米を大規模な洪水が襲ったが、そ
の原因こそ、アトランティス大陸を海中に沈めた災厄であった、と考えていたらしい(当時として
は非常に斬新な考えである)。そしてアトランティスの生き残りの一部が南米にやってきて、件の
謎の都市を残したのだと言う。彼の結論は、本書の結論と奇妙なほどに通っている。
中佐は言う。

「私は古代都市の存在をひとときたりとも疑ったことはない。なぜかというと、私自身が
かつてその一つを目撃したことがあるからだ。それはかつて存在した巨大都市のほんの一
部だった。私はもう一度かの地へ渡り、この目で見ないわけには行かない」

彼の言う「古代都市のひとつ」とは、彼が1906年の探検の際に発見したものらしい。
彼によればこの都市は、1753年の記録にある都市と「同じ人々が築いたもの」である、
という。

だが、彼の最後の旅の目的地は、どうもそれとは異なっていたらしいのだ。というのも彼
は、ブラジルに今もなお、外界との接触を一切断絶した原住民の住む都市がある、という噂
を聞きつけていた節があるからである。しかもそれは、ヨーロッパ人に似た外見の、衣服を着
た民族であると言う。彼はこう記している。


84:,
08/07/19 10:39:37 q3+oeicx
「私の次の探検の目的地は―これを、言いやすいようにZと呼んでおくが―非常に内
気な民族が住んでいると言われる都市である」

これを率直に解釈すれば、古代の都市と思われるものが少なくとも3つあったことになる。
「1753年の都市」、「かつて彼が目撃した都市」、そして「Z」の3つだ。

いずれにせよ彼は、再びジャングルへと向かった。彼と彼の息子ジャック、そしてその友人と言
う、たった3人のパーティだった。彼はボートでマットグロッソ州の州都クーヤバに辿り着き、それから
北の、未知の領域へと向かった。彼の考えでは、Zはこの領域のさらに東にあった。彼は
次のように手記に記している。

「もしもそのとき、状況が許せば、1753年の記録にある古の都市を訪ねるだろう。そ
れはおよそ南緯11度30分、西経42度30分のところにある。このようにして旅を終
え、鉄道に乗れるところまで辿り着いたら、そこからバイア市まで帰る予定である」

このように、フォーセットは「1753年の都市」の正確な緯度と経度を書き記しているのだが、
なぜか彼の息子のブライアンはこの部分に次のような脚注を入れている。

「私は個人的に父が1753年の都市であるときしている場所を要求したが、それは間違
いなくここではなかった」

何らかの理由で、彼はその座標を間違えていたらしい。フォーセットほど慎重な人間にしては、
いかにも奇妙なことではある。

1925年5月20日までに、彼はクーヤバの来たにあるバカイリと言う村に辿り着き、それか
らナフカという村に滞在した後、クルエネ川沿いのカラパロという村に向かった。5月29日、彼等
のたびはこの村で唐突に終わる。

後にカラパロ村長イザラリは、自分がフォーセットを殺したことを死の床で告白した。どうやらフォーセット
は土地のタブーを犯したために、死をもって償わされたらしい。だがいずれにせよ、フォーセッ
トがZに辿り着けなかったのは明らかだ。

私はこの話について、フレマスに意見を聞いてみた。案の定、フレマスはすでにフォーセットの目指した
都市Zの位置を推定していた。すなわち、もしもギザがアトランティス以後の本初子午線として用
聖地はギザから見て10の倍数の緯度の位置にあるはずである。すなわちティアワナコギザ西経
100度、キトは西経110度などだ。そしてフレマスに言わせれば、ギザから90度の位置に
は、当然重要な聖地がなければならないという。90度は地球の円周の4分の1に当たる
重要な位置だからだ。


85:,
08/07/19 10:41:02 q3+oeicx

また、前述のように、ティアワナコの緯度(16度38分)は、一見、なんでもない数字のよう
だが、実は10φの位置に当たっている。そこで、ブラジルのジャングルで聖地にふさわしい場
所は、ギザから西に90度、そして南に10φの地点と言うことになる。

私はこの位置こそがフォーセットの最後のたびの目的地であるに違いないと思って地図帳を調べ
てみたが、どう見ても無関係な地点だった。

ここはフォーセットが停滞したクーヤバの南50マイルほどのところで、ちょうどボリビアとブラジルの
国境に当たっているからである。だが、よく考えてみると、ここはフォーセットが、最後のたび
の前に探検した地帯に当たっている。もしかしたら、フォーセットがかつて目撃した「ジャングルに
埋もれた都市」は、このあたりにあったのかもしれない。

フォーセットが記録している1753年の都市の座標は、南緯11度30分、西経42度30分
だった。ギサを起点とすれば西に73度38部であり、「ブループリント理論」に照らしてみても、
特に意味のある場所とは思えない。

だがフレマスは、この数字に重大な手がかりを見出した。彼は、この地点から100マイル以内の
ところに、ギザ西経72度(地球の円周の5分の一)、南緯10度という聖地を見つけ出し
たのだ。彼は次のような手紙を書いてよこした。

フォーセットの言う「1753年の都市」の座標は南緯11度30分、西経42度30分。一方
「ブループリント理論」から導き出される位置は南緯10度、西経40度52分だ。さて、ブルー
プリント理論の経度を四捨五入すると(フォーセットもやっただろうが)、西経41度となる。いい
かい―フォセットの座標、南緯11度30分・西経・42度30分から、南緯10度・西経4
1度をマイナスすると、どちらも1度30分ずつとなるよね。
つまり、南にも東にも、1・5度ずつ離れて居るということさ。

フレマスは、フォーセットが座標を偽装して、東と南に1・5度ずつズラした、といっているのだ。そ
してもしそうなら、フォーセットはギザの本初子午線のことを知っていたことになる。だが、そ
んなことがありうるのだろうか?

(ギザ本初子午線は、イースター島(ギザ西経140度)からティアワナコ(ギザ西経100度)まで
を結びつける。このパターンを、さらにアマゾン流域にまで適用すると、未発見の聖地の位置が
分かる。上図の四角形は聖地、もしくはせいちの候補を示す。右からキト(赤道上、ギザ
西経110度)、ティアワナコ(南緯10φ、ギザ西経100度)、うしなわれたアトランティス都市(南
緯10φ、ギザ西経90度)、、フォーセットが消息をたった地点、聖地の候補地(南緯10度・
ギザ西経80度、南緯15度・ギザ西経80度)、フォーセットによるZ地点、聖地の候補地(南
緯10度、ギザ西経72度)。)


86:,
08/07/19 10:42:35 q3+oeicx
スマイスがギザに本初子午線を定めようとして、古代人もそうしていたのだという主張をぶっ
ていたとき、フォーセットは知識旺盛な17歳の若者だった。また、フォーセットは対戦中はカイロの英国
情報部に勤務していて、エジプトのことはよく知っていたし、さらに自ら測量も行っていた。
彼もまた南米の古代都市の位置を特定するためにギザの本初子午線を用いていたのだろう
か。

そんなことを考えながらブラジルの地図を眺めていて、私は奇妙な事実に気がついた。フォーセッ
トの辿ったルートは、実に異常なものだった。というのも、そもそもクーヤバは彼が目指していた
座標から西に1000マイル(約1600キロ)、南に700マイル(約1130キロ)も
離れているのである。彼の最終予定地であるバイアは、「1753年の都市」の東わずか25
0マイル(約400キロ)である。なぜわざわざこんな遠回りをしたのだろう。初めから
バイアを拠点にして、直接西に向かったほうが、遥かに効率的であったと思えるのに。

その理由は、こうではなかろうか―もしも聖なる緯度が10度ごとに存在しているなら、
実はフォーセットは、もうひとつの聖なる緯度も計算に入れていた可能性があるのだ。それはつ
まり、ギザ西経80度(グリニッジ西経49度である。そして彼は南緯10度線(これもまた
聖なる緯度)に沿って移動していたので、彼の最終目的地である都市Zは西経80度、南
緯10度の交点なのではないかと考えられるのである。

この地点は、まさにフォーセットが消息立った地点からたった200マイル(約320キロ)北西に行っ
たところに当たっている。もしもZが聖地の一つであったのなら、ブルールリント理論から見て、
その位置の第一候補はこの地点である。そしてこのZから東へ500マイル(約800キロ)
行くと、「1753年の都市」に到達できるのだ。

それでは、なぜフォーゼットは、その座標を偽ったりしたのだろうか。

恐らく彼は、イングランドに帰還した後に、3つの「失われた都」を発表しようとしていたの
だ。ひとつはすでに行った事のある、ジャングルに覆われた都市。さらにZと1753年の都市
を発表できれば、完璧である。だが、もしも発見できずに帰還を余儀なくされた場合、そ
の手記が入手に渡ってしまうと、非常に困った事態を招くことになる。そのため、仮にそ
れが入手に渡っても言いように、あえてその場所をごまかして書いたのではなかろうか。

現在では、ジャングルの下に埋もれた都市を発見するのに、わざわざその奥地まで踏み込む必
要は無い。金星の厚い雲をも透視する人工衛星を用いれば、ただ遺跡の上空を通過するだ
けで、それは容易に発見できるのだ。問題は、その高性能探査機を用いて、地球上のどの
地点を調べればいいか、ということである。フレマスの提唱するブループリント理論は、まさにその
答を提供するのである。


87:,
08/07/19 10:44:36 q3+oeicx
先にも述べたように、フレマスによれば、大ピラミッドから現在の北極と、ハドソン湾の旧北極に
向けて直線を引くと、その2本の直線の角度は28度となる。そして28という数字は、ギ
ザの遺跡において重要な役割を果たしている。

これと同様の調査を、フレマスは他の聖地についても行ってみた。スコットランドにあるテンプル騎士団
の境界ロスロリンの場合、2極の間の角度は50度だが、この場所はまた北緯50度でもある。
フレマスはこれを「50/50聖地」と呼ぶことにした。ストーンヘンジの場合は北緯46度で、2
極の角度もやはり46度。ゆえにここは、「46/46聖地」である。

このような「ゾロ目」の遺跡が頻出に及んで、フレマスはこのことが古代人にとって極めて重
要な要素であったことを確信するにいたった。そしてフォーセットの失われた都市の場所もまた
「12/12」聖地だったのだ。

(フォーセットが関心を抱いていた遺跡のうちのふたつは、ハドソン湾曲時代には北緯12度にあっ
た。失われたアトランティス都市から見ると、ハドソン湾曲は真北から12度に死の方向にある。ゆ
えにここは「12/12聖地」である。つまりハドソン湾曲時代の北緯12度と方向の12度
が重なるからだ(上図の90℃の位置の左側を通過している直線))

そこでフレマスは、さらに冒険をしてみた。ギザで言えば、意味のある緯度でイングランドを通過
しているものはただ一本しかない―ギザ西経30度ラインだ。もしもブループリント理論が正し
いなら、このラインの上に何か重要な遺跡がなくてはならない。フレマスは地図を出して調べてみ
た。するとはたせるかな―このライン上には、イングランドで最も神聖な場所、カンタベリーがあっ
たのだ。

さらに調べてみると、カンタベリーの2極の角度は45度であり、旧北極時代の緯度は45度。
つまりカンタベリーは「45/45聖地」に当たっている。しかもその上、ギザ北緯30度、か
つギザ西経30度でもある。つまり、この地点はギザから見れば「30/30聖地」でも
あるのだ。

カンタベリーは比較的新しい聖地のようだが、実際には太古の異教時代から聖地とされていた。
そしてそれが「45/45聖地」であるということは、この聖地はハドソン湾の旧北極を知る
ものによって造られたとしか考えられない。すなわち、イングランドで最も重要な宗教遺跡で
あるカンタベリーもまた、フレマスのブループリント理論に当てはまっていたのである。

(カンタベリー大聖堂はギザ本初子午線の30度西にあり、かつて北極と赤道の中間、すなわち
北緯45度に位置していた。)

フレマスの発見したブループリント理論の最も重要な点は、この理論によって、聖地のあるべき場所
を見出す事だ出来る、という点だ。もしもこの理論がまったくデタラメなら、その指し示す場
所に何かが存在する確率など、100万に一つも無いだろう。まったく何も無いと思われ
た場所にルバントゥムを発見したことで、フレマスはギザこそが本初子午線にふさわしいというスマイス
の主張の正しさを、改めて実感したのである。

88:,砂の海のそこに眠る緑の大地、、、、。
08/07/26 20:54:07 1+Woy44y
砂の海のそこに眠る緑の大地、、、、。

1957年、レンネルはそうした問題の専門家であるチャールズ・ハプグッドと連絡を取った。ハプグ
ッドは王立地理学協会のメンバーでもあったのだ。ハプグッドによれば、現在のサハラ砂漠は紀
元前5500年には豊富な水があった。紀元前1万年ごろの最後の極移動の夜、数千年に
わたってサハラ砂漠は緑をなすのどかな大地であり、多くの湖があったのだ。当時のサハラ砂漠
の岩面彫刻の中には、家畜や牧夫を描いたものもある。

レンンエルとドーフィンの見解は、ハプグッドがポルトラーノの研究を通じて到達した結論と実にうまく一
致していた。もしも人間が紀元前5000年に外航船を作っていたとするなら、当時すで
に専門的な知識レベルを擁する文明があったということだ。その文明は、それ以外の高度
なテクノロジーの産物も容易に作ることができただろう。

さらにハプグッド自身もまた、純金の首飾りを見たことがあった―-エジプトではなく、メキシコ
で発見されたものだった。また、1956年にジョージタウンで行なわれたビリ・レイスの海図につ
いての番組に参加したアーリントン・マレリー大佐も驚くべき主張をしている。

マレリーはオハイオ州やヴァージニア州で多くの溶鉱炉跡を発掘したことがあるが、その結果、紀元前
4000年前から鉄の訓練技術が用いられていたことを確認したというのだ。のみならず、
古代エジプト人は驚くべき超高温を用いていたが、それは「原子爆弾の製作を可能にした
ものと同じプロセス」を用いて作り出されたものである。つまりマレリーによれば、科学者た
ちが20世紀においてようやく手にすることのできた新発見だと思っている核分裂のプロ
セスを、エジプト人は5000年前に使っていたというのだ。

だがハプグッドは、原子力に対しては懐疑的だった。彼はエクアドル沖に水没した謎の民族
の話を聞いたことがあったが、彼らの文明では光学が高度に発達しており、太陽光線を集
めるレンズやプリズムが作られていたという。



89:,
08/07/26 20:56:25 1+Woy44y

凹面鏡を使えば、太陽光線を集積させることができる―紀元前211年、アルキメデスは鏡を
使って、シュラクサイを包囲したローマのガレー船を焼いたという(ロバート・テンプルは、古代のレンズを
テーマとする「クリスタルの太陽」を書いた。それによれば、レンズは一般に知られる年だいよりも
はるか以前から存在していたという)。つまりハプグッドの考えでは、古代人は超高温の秘密
を知っていたのかもしれない―が、それは原子力ではなく、レンズをつかったものだった
という。

この興味深い話に対して、ボストン大学のファルーク・エル=バズ博士が面白い脚注を追加している。
エル=バズ博士はカイロの西方300マイル(約480キロ)の西エジプトの砂漠を旅して、その

奇怪な天然ピラミッドに魅了された。何十もの3角形の巨石が、平坦な砂漠の高原から突き出
しているのだ。これらの天然ピラミッドこそ、エジプトのピラミッドのヒントになったのではないか、と彼は思いついた。

西砂漠の風は、北すなわち地中海のほうから吹いてくる。ゆえに砂漠の砂は風によっても
たらされたのではない。それが岩石からできているとするなら、それは南から来たに違い
ない。では、どうやって? 河―つまり水によってに違いない。だが、この広大な乾燥
地帯のどこにそんな河があるというのか

さて、このエル=バズ博士はたまたま1967年から72年までの間、アポロ宇宙計画の月着陸
作戦の0指導に当たっていた。つまりNASAに相談するコネがあったのである。194
4年、彼は軌道を周回するスペースシャトルのレーダーを使って、この砂の海の底を観測した。
出来上がってきた写真を見て、彼は驚倒した。その地域一帯は、5000万年前に遡る網
状の河川に覆われており、中には幅20マイル(訳32キロ)に及ぶものもあったのだ。つま
りこの巨大な砂漠は、かつて緑をなす大地だったのである。

ローマ大学の地質学者フェクリ・ハッサンが干上がった湖床の周囲で行なった調査では、一万年前
から最後の氷河期の末期にまで遡る人間の住居跡が発見された。

当時、ここには年間を通じて豊富な降雨があった。2000年後(紀元前6000年ごろ)
には、降雨は夏だけになった。その3000年後、つまり、エジプトの王朝が現れたころ、
巨大旱魃が始まった―エル=バズによれば、それは太陽エネルギーの何らかの変動のため
だという。だが大ピラミッドが築かれた当時はギザの平原はまだ緑地だった。


90:,
08/07/26 20:57:40 1+Woy44y


現在の西砂漠にあった湖の周辺に住んでいた人々がどの程度の文明レベルに達していたのか、
もちろん不明だ。だが少なくともエジプト王朝の何千年も前に、文明を築く条件が整っ
ていたことは確かなのだ。彼らはストーンヘンジの数千年も前に、天文観測のために立石を建てて
いたかもしれない。このことは、ジョン・ウェストが「天空の蛇」(1979年)で提示した謎
を解く答えになるだろうか。つまりクフ王のエジプトの科学、医学、数学は、たかだか50
0年程度の文化ではありえないほどの高度なレベルに達していた、という謎だ。





91:名無しさん@お腹いっぱい。
08/08/14 00:51:03 G0d5/w39
コリン

92:、、、、  アンデスを空中に持ち上げた大変動   、、、
08/08/15 08:14:04 wrUqrXex









私はティアワナコについてあれこれ思いをめぐらせていた。私に言わせれば、学者たちは単に、
地球上で最も謎に満ちた遺跡の一つの価値を引き上げようとして躍起になっているように
しか見えない。コラータの言うように、その始まりが紀元前100年だなんて、噴飯ものだ。そ
れを造った人々がワンケラニと呼ばれるインディオであったなどといわれて、誰が納得できるか?彼
等の村にあるのは「自給自足農業(主として芋とキノア=アカザ科の植物)とラクダ類の牧畜」だ
けだというのに。こんな単純のインディオたちが、どうやって巨石ブロックを動かしたのか?

南アメリカから戻った私は、ウェブでアーサー・ボナンスキーの「ティアワナコ―アメリカの人類の揺籃」を見つけ
て購入した。これを手に入れてまず最初に見たのは、1904年に撮影された修復前の太陽の
門の写真だ。それは完全に二つに折れ、それぞれが気が違ったように互いに相手に寄りか
かっている。明らかに、港(プマ・プンク)の巨石ブロックをひっくり返したのと同じ地震の結
果だ。



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08/08/15 21:35:30 wrUqrXex
スレリンク(ruins板:60-64番) ティアワナコ遺跡の建造年代
何がおきたかは明白だ。遠い昔、ティティカカ湖に臨む巨大な港が築かれた。この湖は世界でも
最も高いところにあり、海抜1万2500フィート(約3800メートル)、面積は3000平方マイ
ル(約4800平方キロ)以上だ。

さて、注意深い読者はこうおっしゃるだろう。「ちょっとまてよ、何だって彼らは、空の上
の2・4マイル(約3800メートル)のところなんかに港を作ったりしたんだ?気は確かか?」
よくある説明―これは海港ではなく、湖港だから―では答にならない。

確かに、港というのは海を渡ってきた船が、積荷で商売したり交易したりするところじゃ
ないのか?ティティカカ湖には他にもいくつの港があったのか?

そこで答が出る―「ひとつも」。それを聞くと、何もかもが馬鹿げて居るように思えてく
る。しかも、ティティカカ湖を航行していたのは葦舟に乗ったインディオだけだという。この巨大な
港は明らかに造る場所を間違えている。

だが、ティティカカ湖には真水に適応した海棲生物が沢山居るとしたら同だろう。明白な説明が
生まれてくる。つまり、それは最初は海面と同じ高さにあったのだが、何らかの大変動が
アンデスを空中1万2500フィートまで待ち上げてしまったのだ。

ではそれはいつか?どうみてもそれは歴史時代のことであって、100万年前とかそんな昔で
はない。なぜなら人間が港を築いていたからだ。

実際、ボナンスキーはその破局が起こった時期を示唆している。紀元前11千年期。つまり、紀
元前1万1000ごろだ。

この年代は何かピンとくるものがある。少し前、私はロサンゼルスのジョージ・C・ペイジ博物館に
行って、死んだ恐竜の骨でいっぱいのホールを撮影した。その博物館の地下では、「ラ・ブレアの
タール・ピット」が今も不吉に沸き立っている。何百万年にもわたって、何千もの生物がこの油
性の水を飲もうとして死んだ。そして、ゆっくりと泥に飲まれた状態で発見された。


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08/08/15 21:37:21 wrUqrXex

だが紀元前1万年ごろには―その博物館の官長ジョン・ハリスによれば―もっと激しい破局
があった。巨大地震が、4000マイル(約6400キロ)南東のティアワナコの巨大な門を真っ二つ
にしアンデスを海面から2・5マイル(約4000メートル)の高さにまで持ち上げたと言ったら、
言いすぎだろうか?だが思い起こしていただきたい。ハプグッドによれば、この同じ破局に
よって地球の表面は2000マイル(約3200キロ)も活動し、プラトンが「アトランティス」と呼んだ
大陸が壊滅したのだ。

しかも、大洪水はこれだけではないということに注目しなければならない。「クリティアス」によ
れば、「デウカリオンの洪水の前に」3回の洪水があった。伝説に言うデウカリオンの洪水とは(青銅
時代)の人類を罰するためにゼウスが送ったもので、紀元前2500年ごろのことに違いない。

最初の洪水は、多分、ラ・ブレアの惨事をもたらしたハプグッドの滑動だろう。

同様のシナリオは世界中の神話に記されている。それが起こる前には空は赤くなり、大地
は震える。それからある日、空は黒くなり、大地は激しく震動し、傾いたかのように感じ
られる。泥の雨が降り注ぎ、耳を聾せんばかりの雷鳴が轟き、一面の稲妻が目をくらませ
る。

フレマス夫妻は、ネイティヴ・アメリカンの伝説を記録していて―ユト族、クートネー族、オカマガン族、アアテム族、
カート族、チェロキー族から、ペルーのアラウカノ族まで―「空が落ちるとき」に関するほとんどの話を
聞かされた。

このような破局の中で最も有名なのは、聖書の国に発祥するものだ―パレスティナではなく
メソポタミア、つまり「二つの川の土地」である。



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