08/09/19 08:04:40 AxCE6vUY
URLリンク(ja.wikipedia.org)
黒海洪水説 ... ンビア大学]]の[[地質学]]者[[ウィリアム・ライアン]]と[[ウォルター・ピットマン]]は、
URLリンク(ja.wikipedia.org)ジブラルタル海峡
実に奇妙なことだが、1970年まで、地中海がそんなに新しいなんて考えた人間は誰も居な
かった。この年、ビル・ライアンは深海掘削舟グロマーチャレンジャー号に乗った。地球の磁場の逆転の
証拠を求めて、海底から錐芯試料を採取するのが目的だ。彼等の引きあげた資料は、純粋
な塩だった―長い管状の海塩の塊だ。これによって、地中海がかつて干上がった「海類
平原」だったことは疑いの余地がなくなった。そこに突然、海が注ぎこまれたのだ。科学
者は最初これを受け入れようとしなかった―だが証拠は圧倒的だった。
一年後、ライアンは海洋学者ヲルター・ピットマン、それに若いイギリスの研究家ジョン・デューイは何も考え
ず、それこそが洪水伝説の下かもしれないね、と言った。言ってしまってから、それが起
こったのは地上に人類が現れるはるかいぜんだと気づいた。だがライアンが洪水の話を始めた
ので、デューイは―半ば冗談で―その証拠を見つけてみろ、とあおった。ライアンとピットマンの
研究はこうして始まったのだ。
ライアンもピットマンも大学で「ギルガメシュ叙事詩」を学んだことがあったので、とりあえずこれを
出発点とすることにした。再現してみると、ギルガメシュがウトナピシュティムを探しに行くとき、彼
は日没の方向へ歩いていったと書いてあった。
もしもギルガメシュがペルシア湾にほど近いウルクに住んでいたなら、彼は洪水の証拠を探すのに西
ではなく南に向かうはずだ。ウーリーの洪水は2つの川の土地に限定されているが、それは南
北方向に、というか少なくとも北西から南東へと流れている。
101:,
08/09/19 08:12:07 AxCE6vUY
URLリンク(ja.wikipedia.org) 地中海
URLリンク(ja.wikipedia.org) 地磁気
URLリンク(ja.wikipedia.org) ジョン・デューイ
URLリンク(ja.wikipedia.org) ペルシャ湾
ライアンとピットマンが何を探しているかというと、大西洋がジブラルタルに流入した出来事のような
ことが、はるか新しい時代に再び起こったのではないかということだ。それが起こるため
には、ジブラルタル海峡のようなボトルネックが必要だ。それがまず封印され、その後、海圧によっ
て無理やり突破される必要がある。
地中海地域には、その候補地は一つしかない―トルコの北にある黒海だ。これはボスポラス海
峡と呼ばれる細長い海峡によって地中海と隔てられている。ライアンとピットマンは、デューイの問い
に答えるために、ここは調べてみる価値はあると考えた。
黒海は深さ1マイル(約1・6キロ)のサラダ・ボウルのようなものだ。ドナウ川、ドニエストル川、ドニアプ
ル川などから流入する淡水はその上層部分を流れ、地中海に注ぎ込む。サラダ・ボウルの底の部
分には重く濃い塩水があり、これは死海のそれに近い。
このために黒海は「呼吸」が妨げられ、地中海の青さに対して暗緑色を呈している。生命
は比較的少ない―ときに「死の海」と呼ばれる所以だ。そしてギルガメシュもまた、「死の海」
を探しにいったと書かれている。ライアンとピットマンにとっては有力な材料だった。
1680年、イタリアの科学者ルイージ・マルシリは、黒海に二つの潮流があることを発見した。一つは表
面、もうひとつはそのはるか下である。ライアンとピットマンはマルシリの実験を追試してみた。長い
綱の先に石を詰めたバスケットを取り付け、さらに浮きをつけて沈めるのだ。
102:,
08/09/19 08:41:37 AxCE6vUY
URLリンク(ja.wikipedia.org) ドナウ川
URLリンク(ja.wikipedia.org) ドニエストル川
あるところまで沈めていくと、バスケットは逆方向に流れている潮流にぶつかり、それまで南
下していた浮きは一転して北上し始める。もしもライアンとピットマンが正しいなら、この北向き
の潮流が流れ始めたのはおよそ9000年前、黒海が淡水湖だったころだ―このとき、上昇
した地中海から海水が滝となって流れ込んだ。
同僚たちはこの滝仮説に賛同しなかった。彼等の考えによれば、黒海は地中海によて「底
上げ」されたのであり、しかもしれは極めて緩慢なプロセスで、恐らく何世紀もかかったとい
うのだ。
洪水説の検証にはちょっとした問題があった―ロシア人だ。黒海には彼等の軍艦がうようよ
居て、当然ながら、アメリカ人による科学調査はそれを装った偵察なのではないかと懸念
した。1990年の冷戦終結によって事態は好転したが、ライアンとピットマンに最初の転機が訪れる
のは1993年3月19日のことだった。
そのきっかけは、ペトコフ・ディミトロフというブルガリア人からの手紙だった。それによると、今か
ら9750年前には、黒海の海面が今よりも100メートル低かったと言う証拠があるという。
小型潜水艇で黒海に潜ったディミトロフは、海面下110メートルのところにある古代の海岸を発
見した。これが化石化していたという事実は、海岸が洪水によって沈んだと言うことを示
している。もしも海面が徐々に上昇してきたのなら、打ち寄せる波は海岸を浸食していた
だろう。
103:,
08/09/19 08:47:20 AxCE6vUY
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その直後、第二の幸運が訪れた。モスクワのP・P・シルショフ海洋学研究所による黒海調査へ
の参加要請だ。その目的は、ウクライナのチェルノブイリ原発事故による国会の汚染調査だった。
ロシア人もまた面白い発見をしていた。国会の北、幅4マイル(約6・4キロ)の海峡を隔てた反
対側にアゾフ海がある。まるで破滅した泡みたいに、黒海から溢れ出しているのだ。ロシア人は、
この海峡をまたぐ鉄橋の建築を計画していた。そしてその岩盤の深さを調べるために、水
底に穴を開けたのだ。
水底の堆積物の下にあったのは、さらに深さ200フィート(約60メートル)に及ぶ亀裂だっ
た。この海底の峡谷は、川、恐らくはドン川によって造られたに違いない。ドン川は今はアゾ
フ海の北を流れているが、この川がこの渓谷を造ったということは、かつてアゾフ海は乾いた
土地であり、そこをドン川が縦断して、当時は氷河期の小さな湖だった黒海に住んでいたと
いうことだ。
そこでライアンとピットマンはロシアの舟アクアノート号に乗り組み、ついに黒海の底を調査する機会を得た。
心配の種は、ロシアの専門家たちがそういう洪水は無かったと考えていたことだ―ただ、氷
が溶けた水が北から流れ込んだために、黒海の水位は徐々に上昇したのであり、同時に地
中海もまた、最後の氷河期の氷が溶けたために水位が上昇し、この二つの海は最終的には
一つになったが、その際に巨大な瀑布が出現したわけではなく、単に両者を隔てていた「ダ
ム」の上までゆっくりと水位が上昇したに過ぎないという。
104:,
08/09/20 10:46:21 NEU6F5C5
URLリンク(ja.wikipedia.org)チェルノブイリ原発事故。
だが黒海を航海すればするほど、そんなことはありえないということが明らかとなってき
た。高度に発達したロシア製の機器が、海水の下に沈んだ古代の海洋と河床の存在を示したの
だ。さらに海底から採取した錐芯試料は、日光によって乾燥した固い泥と、その上に積も
ったやわらかく黒い泥とを明瞭に区別した―古い泥は実際、乾燥しているように見えた。
そして両者の接点には、瀑布によってもたらされた地中海の甲殻類がいた。かつて潟や沼
であった箇所は、腐敗する植物層から生じたガスを依然として放出し続けていた。
もう疑いの余地はない―確かに突然の大洪水があったのだ。500万年から600万年前に、
乾いた土地だった地中海を海に変えたのと同じ様な大洪水が―ピットマンの試算によれば、
それはナイアガラ瀑布250個分に相当し、地中海からの流入速度は毎時60マイル(約96キロ)
にも達した。
ライアンとピットマンがBBCのために製作した番組は、そのインパクトを目に見える形で描き出
した―淡水湖であった黒海沿岸の住民たちは、両海を隔てていた土地を歩き回り、ある
日、ほんのわずかな水が崖から噴出して居るのに気づく。ためしに飲んでみると塩水だ。
翌年には、その水量は2倍になっている。と、見る間にその流れは荒れ狂う怒涛となり、
あっという間に両海の協会を破壊してしまう。これによって水位は、恐らく毎日1フィート(約
30センチ)ずつ上昇しただろう。水位の上昇から流れるためには、毎日1マイル(約1・6キ
ロ)ずつ北に移動する必要があったはずだ。そして最後に遠い高台から、水没した土地を
振り返ることになる
(黒海大洪水の歴史。氷河が溶け始めた紀元前一万二千年ごろは、淡水の黒海からマルマラ海、
そしてエーゲ海に水が注ぎ込んでいた。
氷河の融解が進んでエーゲ海が上昇すると、海水がマルマラ海へ注ぎ込む。
そしてついにボスポラス海峡が開き、海水が黒海へと大量流入した。黒海大洪水である。)
105:,
08/09/20 10:49:03 NEU6F5C5
ライアンとビットマンによれば、こうしたことが起こったのは疑いの余地はない。巨大な洪水が、
小さな氷河期の湖を黒海に変えたのだ。だが、それはいつのことか?
ディミトロフは、貝殻の放射性炭素年代測定に基づいて、それをおよそ9750年前のこととして
いる。だが、あるアメリカの研究所がこの貝殻を測定して見せたところ、ライアンとビットマンは大い
にショックを受けることとなった―特にライアンだ。彼はすでに、それを9000年以上前、つまり
紀元前7000年ごろとする講義を行っていたのだ。だが件の研究所の測定によれば、彼は
1500年も間違っていた。大洪水は紀元前5450年に起こったというのである。
この年代は、BBCの番組をみたあらゆる人をとまどわせた―ほかならぬ私自身もだ。
私としては、洪水は今から1万2000年前、プラトンのいうアトランティスの時代であって欲しかった
わけだ。なのにその5000年も後に起こったというのはまったくの当て外れだった。
ライアンとビットマンにとっては、この年代はある意味ありがたいものだった。そのころなら、そ
れこそ「ギルガメシュ叙事詩」と「創世記」に描かれた洪水に当たるからだ。確かにウーリーとマロウ
ワンはそれをはるか後においている。だが人間の記憶は長く保たれているのであり、この洪
水は文字というものが発明されるはるかいぜんから、吟遊詩人の歌によって伝えられてき
たものかもしれないのだ、、、、。
ライアンとビットマンはさらに、シュメール人は黒海大洪水の生き残りではないかとまで示唆している。
彼等の灌漑水路の知識は、黒海が淡水湖だった時代の名残だというのだ。
URLリンク(ja.wikipedia.org) エーゲ海
106:,
08/09/20 10:51:22 NEU6F5C5
当然ながら、彼等の同僚のほとんどは、いくらなんでもそれは言いすぎだと考えている。
洪水の生き残りが逃げるとしたら北のほうであって、南のメソポタミアというのはおかし
いんじゃないのか?これに対してライアンは言う、「ギルガメシュ叙事詩」の中でギルガメシュがウトナプシ
ュティムをを探して海へ赴くとき、彼は渡しもりの舟に乗るが、このとき渡し守は籠に石を詰
めて海に沈める―まさにライアンが水面下の潮流を調べるためにやったのと同じことだ。
BBCの番組で、メソポタミア神話と「ギルガメシュ叙事詩」の専門家であるスティファニー・ダリーは、こ
れを完全な空想だと切って捨てた。彼女によれば、「ギルガメシュ叙事詩」は埒も無い空想に満
ちており、これをそのまま現代メソポタミアのガイドブックとして使うことなど不可能だというの
だ。また、シュメール人がウルを築き始めたのは紀元前4000年以後のことで、黒海大洪水よりも
2000年近くも後のことだという。
だが1980年代に行われた一連の調査は、ライアンとピットマンが基本的に正しいことを示して居る
ようだ。たとえ「ギルガメシュ叙事詩」の洪水が黒海大洪水であるにせよ、あるいはそれより
もはるか南の洪水であるにせよ。
バルバドス島近郊のカリブ海では、珊瑚-―通常は水面から数ヤードのところに棲息する-―が水
面下10ヤード(約9メートル)のところにいることが知られている。これは、数千年前に
さんご礁が定着して以来、水面が徐々に上昇してきたことを示している。
1988年、ラモント=ドハティ地球観測研究所のリック・フェアバンクスは、この珊瑚礁から錐芯試料の採
取を始めた。最初の試料が浮かび上がったのは、1988年の謝肉祭の直前のこと。そしてそ
れは、大洪水が一度ではなく、3度起こったということを示していたのである。
URLリンク(ja.wikipedia.org)放射性炭素年代測定
107:,
08/10/08 19:36:14 6NQ8oalC
,
108:,数度の大破局と生き延びた人々、
08/10/08 19:38:12 6NQ8oalC
、、、 周期的な氷河融解による洪水 、、、、、
今から1万8000年前、最後の氷河期(始まったのは13万年前)の絶頂期には、海面は現
在より120メートルも低かった。それからゆっくりと氷が溶け始める。
1万4500年ほど前、一時的な亜氷期(オールダー・ドリアスと呼ばれる)の後、溶解は突然加速
した。当時、北極の氷冠はまだイギリス諸島あたりまで延びていた。そこへ突然、さらに急速
な溶解が始まったのだ。氷床が割れて氷山となり、大西洋を漂流し始めた。紀元前1万2
千年ごろ(すなわち今から1万4000年前)、北アメリカにあった広大なリヴィングストン湖が崩壊し、
莫大な氷を-―8万4000立方キロ-― 一気に海に注ぎ込んだ。その結果、世界の海面はた
だちに9インチ(約23センチ)上昇した。これが最初の大洪水だ。
次に、気まぐれにもほどがあるが、再び寒さが戻った。このような気候変動の理由はわか
っていないが、気象学者たちはこれを「ミランコヴィッチ周期」と言うもののせいにしている。紀
元前1万1000年ごろ、世界は再び寒冷化した(ヤンガー・ドリアスと呼ばれる亜氷期)。平均気
温はオールダー・ドリアスのときよりもさらに下がった。それから、紀元前9500年ごろ、またし
ても突然融解があり、50年もしないうちに世界は再び水に沈んだ。
,
109:,
08/10/08 19:45:27 6NQ8oalC
URLリンク(ja.wikipedia.org) 氷河期
もうひとつの巨大湖、今度は北西カナダにあったものが氷を開放した。そしてこれこそ-―も
しもチャールズ・ハプグッドが正しいなら-―プラトンの言う「アトランティスの洪水」なのだ。その時代は
確かに正確に一致する―これについては、すぐ後でもう一度触れる。
だがさらに第3の洪水が来る。紀元前6400年ごろ、またもや寒冷化が起こり、これが400
年ほど続く。その後、再び温暖化に転じ、その結果、紀元前6000年ごろ、これまでで最大
規模の洪水がおこる。その主たる水源はハドソン湾で、そこにあった巨大な洪水が溶け、
何百万トンと言う氷水を海に放出したのだ。ほかのカナダの大洪水もこれに続いた。その結果、
水位は恐らく80フィート(約24メートル)という劇的な上昇を果たし、現在の高さ
となった。
黒海に―あるいは、紀元前5750年の時点でそこにあった淡水湖に―押し寄せた洪水は、
この海面上昇に起因する。地中海から流入した瀑布は、高さ350フィート(約105メート
ル)に及び、すでに述べたようにピットマンはそれをナイアガラ259個と見積もっている。
というわけで、どうやらノアの洪水と、(恐らく)ギルガメシュの洪水は紀元前6000年ごろ、つ
まり「ギルガメシュ叙事詩」の初期シュメール版が書かれるよりも2000から3000年前に起こったら
しい。
これは途方も無いことのように思える。ステファニー・ダリが述べたように、ギルガメシュの洪水はライ
アンとピットマンの言う洪水よりもはるかに最近のものだと考えたくもなるだろう。とはいうも
のの、局地的な洪水―ウーリーがウルで発見した10フィート(約3メートル)の堆積物もこれに
含まれる―を除けば、紀元前5500年以後、地球規模の大洪水は一度も起こっていない―
―小さな洪水は無数に起きたが、たぶん人間の記憶が、吟遊詩人の働きによって、3000年
前の洪水を生き生きと伝えたのだろう。
110:,
08/10/08 19:53:21 6NQ8oalC
「ギルガメシュ叙事詩」や「創世記」を見ると、明らかな点がひとつある。この洪水には「空
が落ちるとき」にかかれて居るような地震、火山の噴火、そして太陽の不規則ない動きな
どは伴っていなかったということだ。ウトナピシュティムは暗黒と嵐については語っているが、地
震については何も述べていない。となると、これはカナダからペルーに至る多くのインディオの伝
承が語る、太陽が起動を外れたときの洪水とは別物のようだ。
この伝承ゆえに、メキシコとペルーのインディオたちは日蝕を恐れ、それを回避するために犠牲を捧
げる。グラハム・ハンコックもまた「神々の指紋」の多くのページを費やして、太陽が起動をはずれ、
空が落ちたと言う伝承を紹介している。
そもそも太陽が軌道を外れるなどということはありえない。だがハプグッドが述べたように、
もしも地球の地殻が滑動すれば、太陽は軌道を外れたように見える。
地球の地殻が実際に滑動したいという証拠はあるのか?一つの興味深い証拠は、BBCの
「地球物語」(1999)という本にある。そこには、今から1万8000年前の地球を示す
図が掲載されている。
(最初の氷河期におけるアメリカ氷床(白地)。5大湖のみなみにまで広がっているが、北極点
から見ると氷床は南側に偏っているようだ。)
これを見ると一目瞭然だが、最後の氷河期の最盛期には、アメリカの氷床は5大湖の南にまで
広がっていた―もうひとつの地図では、それはニューヨークの南まで広がっている。一方、イ
ギリス諸島では、氷床はコーンウォールにすら達していない。その緯度はだいたいニューファンドランドと
同じで、ニューヨークより700マイル(約1120キロ)も北にあるのだ。
111:,
08/10/08 20:00:12 6NQ8oalC
URLリンク(ja.wikipedia.org) 地殻
URLリンク(ja.wikipedia.org) 地殻変動
もしもこの古代の氷床が現在の北極点を中心にして広がっていたなら、スペイン中部辺りまで
達していたはずだ。実際、40年以上も前にハプグッドが述べたように、この氷床の偏りか
ら見て、北極点はハドソン湾のあたりになくてはならない。1万8000年前以後のどこ
かの時点で、北極点はかなり北に移動したに違いない。つまり地球のその部分が南に動い
たのだ。
1990年代の地球科学の発見によれば、最後の氷河期以後、3度の大洪水が起こった。
最初は紀元前1万2000年ごろ、次に紀元前9500年ごろ、第3が紀元前6000年
ごろだ。この年代から見る限り、第二の大洪水こそチャールズ・ハプグッドが興味を持ったもの
―つまり「アトランティス」の大洪水だ。
すでに見たように、アトランティスの大洪水と黒海(ギルガメシュ)大洪水の大きな違いは、アトランティス
の破局には地震と火山の噴火が伴っていたということだ。プラトンのアトランティスの時代に何が起
こったにせよ、それは突然かつ激烈だった。だが、それは何だったのか?
112:、
08/10/08 21:05:28 6NQ8oalC
、、、 巨大彗星や小惑星による大破局 、、、
1993年、ウィーン大学地質学研究所の地質学者アレクサンドル・トールマン教授と妻のエーディトは、
この問題に答える研究所を発表した。彼等の解答は氷で出来た巨大彗星の衝突である―
彼らはその日付けまで算出して見せた―紀元前7545年9月23日である。この彗星
は巨大な津波を引き起こし、地球の大気に散りを充満させた。その結果、マンモスやサーベルタイガ
ーなどが滅んだ。
トールマン夫妻によれば、これはプラトンの言う大洪水であるのみならず、聖書のノアの洪水でもあ
る―彼らは、黒海大洪水こそが「創世記」の洪水だ、というライアンとピットマンの説に与しな
い。だが後に見るように、トールマン夫妻は両方の点で誤って居るという有力な証拠がある。
この説は、全世界の紀元前7600年の堆積物の中に、集中的にテクタイトが存在していると言
う発見に基づいている。彼等によれば、これは彗星もしくは巨大隕石を示すものだ。さら
にまた、この彗星は7つに分裂したと言う。外典「エノク書」には、燃える山のような7つの
星が地上に落ちたと書かれているからだ―これと似た分裂は1994年7月にも起こっ
ている。シューメイカー=レヴィ弟彗星が時速13マイル(約21万キロ)で木星に落下したときだ。
その力は地球上の核兵器の総量50倍と見積もられている。
113:、
08/10/08 21:11:23 6NQ8oalC
トールマン夫妻はまた、当時の樹木から発見された炭素14を挙げている。これは彗星によって
地球のオゾン層が破壊され、宇宙からの放射線が降り注いだ結果であると言う。
トールマン夫妻は自説の根拠として世界各地の神話を挙げている―中東、中国、インド、そして
アメリカ大陸。アメリカの西海岸を襲った津波は内陸ふかくに達し、巨大な塩湖(ソルトレイク)を作っ
た。現在のソルトレイクシティの場所だ。またこれらの神話のいくつかは、大地に7つの燃える太陽
が降り注いだと述べている。7つの落下地点を地図に示そう。(紀元前7545年に地球に
衝突し、洪水を引き起こしたと思われる、巨大彗星の7つの断片の落下場所。)
さらに夫妻は言う、「これを見る限り、今やアトランティスの存在を否定することは極めて困難で
ある」と。
地図を見ればわかるとおり、この場所のひとつは東シナ海に落下した。この意味するとこ
ろは後に述べる。
8番目の小さな衝突がオーストラリアのオッツ渓谷で起こり、コフェルズ・クレーターを作った。これもまただ
いたい紀元前8000年ごろとされている。
オクスフォードの天体物理学者ヴィクター・クリューブは、基本的にトールマン夫妻の仮説を支持している。彼
は20年にわたって彗星の衝突を研究し、その結果をビル・ネイビアと共著の「宇宙からの冬」
(1990)にまとめた。
114:名無しさん@お腹いっぱい。
08/10/14 18:37:35 VlQ5ytk0
当たり前
115:,
08/10/15 09:13:40 UYswNLDb
URLリンク(ja.wikipedia.org) ソルトレイクシティ
1950年代以後の定説によれば、彗星は遠い外宇宙からの訪問者ではなく、われわれの
太陽系が渦巻くガス雲から形成された時代から取り残された断片である。1950年にオ
ランダの天文学者ヤン・H・オールトが提唱した説によれば、彗星の原料はわれわれの太
陽系の外側のどこかに軌道を持つ氷結したガス雲である。通過する星や分子雲などがその
軌道を周期的に乱し、一部が太陽に向けて落下する。そしてそれは最終的に分解するまで、
長大な楕円軌道を描いて周期的に―たとえばハレー彗星なら77年―運行する。ほと
んどの彗星は10マイル(約16キロ)ほどの大きさで、かなり軽い物質、例えばガスででき
ているとされる。だが明らかにシューメイカー=レヴィ第9彗星はそうではなかった。
彗星は分裂いして巨大な破片の雲となる傾向がある。地球がどのような雲の中を通過する
と、壮大な「流星雨」が見られる。いうまでもなく、そのほとんどは大気との摩擦によっ
て燃えてしまうが、中には地上に達するほどの大きさを持つものもある。たとえば190
8年6月30日、シベリアのツングースカで爆発したおうし座流星群の隕石だ。これは半径18マ
イル(約29キロ)に及ぶ範囲の木々をなぎ倒し、焼き尽くしたが、クレーターの形成には至ら
ず、上空数マイルで蒸発したらしい。
我々は幸運だ。というのも、これまでに宇宙からの落下物が地球の歴史を変え、地質年代
に急激かつ暴虐な終焉をもたらしたことは何度もあったからだ。
今から6000年前、地球に巨大彗星もしくは隕石が衝突した。それはメキシコ沖のチクチュルブに
落下し、地球の大気を粉塵で満たした。これが日光を遮断し、植物の―そして、それに
依存する恐竜たちの息の根を止めた。
116:,
08/10/15 09:33:40 UYswNLDb
URLリンク(ja.wikipedia.org)太陽系
URLリンク(ja.wikipedia.org) 彗星
URLリンク(ja.wikipedia.org)
このようなことは、我々の願いよりも頻繁に起きている。「恐竜を滅ぼした星」は、地球の
歴史上大量絶滅を引き起こした5つの彗星もしくは小惑星のうちの一つに過ぎないのだ。
一つは三畳紀とジュラ紀の境(二億1300万年前)、ひとつはぺルム期と三畳紀の境(二億
4800万年前)、ひとつはデヴォン期と石灰紀の境(3億800万年前)、そしてひとつは
オルドヴィス期とシルル期の境(4億8300万年前)。つまり、今から6000万年前まで、新
しい地質年代は常に彗星の衝突によって引き起こされてきたようだ。ワシントンDCの南東にあ
るチェサピーク湾は3500万年前の巨大隕石によって作られた。だが地球の地殻は、月のそれ
とは違って常に変化し続けているので、クレーターも「治癒」する傾向がある。
クリューブとネイピアによれば、彗星は300万年から500万年に一度の割合で、オールと雲か
ら弾きだされる。それは太陽系が分子雲の中を通過したり、銀河の渦の腕に接近すること
による。そして今や、太陽系には新たな衝突の脅威が迫りつつあると言う。この説は、天
体の落下によって紀元前7600年に世界規模の破局が引き起こされたと言うトールマン夫妻
の説と一致する。
クリューブとネイピアの仮説を裏づける事実が1997年にベルファストのクイーンズ大学から発表されて
いる。古代樹の年輪研究の結果、紀元前2354年から2345年までの9年間で、地球
が急速に寒冷化したことが判明したのだ。ネイピアはこの寒冷化こそが彗星衝突の証拠である
と考えている。北シリアの発掘で、それと同時期に何らかの大災害が起こり、泥煉瓦の建造物
が破壊された痕跡が発見された。それは地中海に落下した。たった一個の彗星もしくは小
惑星の衝突によるものであることはほぼ確実だ。
ネイピアによれば、この時期に3つの大文明が衰滅に向かったと言う―エジプト、シュメール、そ
してインダス渓谷のハラッパー王国だ。さらに彼は、世界中の40の都市が同じ時期に壊滅してい
ると言う。
117:,
08/10/15 09:51:22 UYswNLDb
URLリンク(ja.wikipedia.org) チェサピーク湾
URLリンク(ja.wikipedia.org)チェサピーク湾のクレーター
URLリンク(ja.wikipedia.org)オールトの雲
URLリンク(ja.wikipedia.org)分子雲
URLリンク(ja.wikipedia.org) 銀河
ここで、読者諸君が大洪水や破局のあまりの多さに混乱してくる頃かもしれないので、ち
ょっと整理してみよう。
第一の洪水は氷河期の終わりを画するもので、紀元前1万2000年ごろに起こったが、
ここではあまり触れない。なぜならそれは神話や文学、あるいは人類の種としての記憶に
何の痕跡も残していないからだ。その理由は明らかだ―それは氷河の溶解によるもので、
水位の上昇もたった9インチ(約23センチ)に過ぎなかったのだから。
第二の洪水は紀元前9500年に起こったもので、ハプグッドの対洪水、つまり、アトランティスを
壊滅させた大洪水。これは恐らくクリティアスの言う「最初の大洪水」で、彼は祖父のソロモンから
その話を聞いた。そのソロモンはエジプトはサイスの神官からその話を聞いた。
ということは、クリティアスの言う「第二の大洪水」はトールマン夫妻の主張する紀元前7545年の
ものに違いない。原因は彗星もしくは小惑星の衝突だ。
第3の洪水は黒海大洪水、ギルガメシュの洪水だ。
クリティアスの言う第4の大洪水は、デウカリオンの洪水で、紀元前2200年ごろの青銅器時代に起
こった。これもまた天体の落下によるものらしい。
残された問題は、ハプグッドの頭を悩ませ、アトランティスへの探求に駆り立てられた問題だ―「ア
トランティス大洪水」の原因は何だったのか?
118:,ミジンコ
08/10/15 10:15:54 UYswNLDb
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WIKIの説明を入れることなくすごしてきた、 /
` ー
単語や地名や人名はたくさんあるけど _,.>
r "
それは、大方は、検索しても見つからなかった、、、\ _
_ r-''ニl::::/,ニ二 ーー-- __
と言う事だからな~ .,/: :// o l !/ /o l.}: : : : : : :`:ヽ 、
/:,.-ーl { ゙-"ノノl l. ゙ ‐゙ノノ,,,_: : : : : : : : : :ヽ、
__l>ゝ、,,ヽ /;;;;;;;;;;リ゙‐'ー=" _゛ =、: : : : : : : :ヽ、
/ _________`゙ `'-- ヾ_____--⌒ `-: : : : : : : :
...-''"│ ∧ .ヽ. ________ / ____ ---‐‐‐ーー \: : : : :
! / .ヽ ゙,ゝ、 / ________rー''" ̄''ー、 `、: : :
.l./ V `'''ー-、__/__r-‐''"゛  ̄ ̄ \ ゙l: : :
l .,.. -、、 _ ‐''''''''-、 l !: :
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/ '゙‐'''''ヽ、 .,,,.. -''''''''^^'''-、/ l !: :
r―- ..__l___ `´ l / /: :
\ `゙^''''''―- ..______/_/ /: : :
`
119:,
08/10/15 10:18:09 UYswNLDb
、、、 天体ファエトーンの来襲 、、、、
その答は間違いなく小惑星か彗星の衝突だろう。それが「地球が死に掛けたとき―紀元
前9500年の宇宙的災厄の決定的証拠」(1995)の説得力ある結論だ。著者は古地理
学者D・S・アランサザプトン大学地質学博物館長J・B・デレア。
それによると、地球がほとんど死に掛けたのは、プラトンの言うアトランティスの壊滅のときだ。入
念極まりない徹底振りで、めくってもめくっても(この本の記述は極めて膨大で2段組で
印刷されている)、紀元前9500年に巨大な変動が地球を揺らしたと言う地質学的・神話
的証拠がこれでもかこれでもかとばかりに並べられている。そして著者自身の仮説が出て
くるのはようやく半分を過ぎてからだ―何らかの天体、すなわち巨大隕石もしくは新星
の破片が、今から一万1500年ほど前に我々の太陽系に衝突し、破片の爪あとを残した
のだと言う。
著者たちによれば、それは天王星を横倒しにしてその衛星の一つを引きはがし(これがそ
のまま宇宙を漂って最終の惑星である冥王星となる)、土星の衛星を引き裂き、木星と火星
の間にあった惑星を粉々に砕いて小惑星に変えた。
120:,
08/10/15 10:27:07 UYswNLDb
その後、地球に接近したそれは、地軸の傾斜を増大させ、チャールズ・ハプグッドが地殻の滑動
に帰した破局をもたらした。この「傾斜の増大」は現在では元道りに「復帰」しているが、
これが天文学者ノーマン・ロッキャーの言う「黄道傾斜」の原因だと言う。黄道傾斜とは、地球の地
軸が前後に震動する現象だ(これは現在では疑問視されている)。
特に興味深いのは、ティアワナコの破壊に対する彼等の見解だ。アランとデレアによれば、あの破局を
引き起こしたのは、この天体―彼らはこれをファエトーンと名づけて居る―に他ならない。
さらに彼らは、ティアワナコが破壊されたのみならず、アンデスもまた紀元前9500年に突如とし
て非常に隆起したと言う証拠も提唱している。たとえばアンデスには、現在の万年雪の高度よ
りもかなり高い場所に石壁や階段耕作地が数多くあるが、それはこの地の隆起が歴史時代
であったことを示している。
また、海棲生物の多くの棲息するティティカカ湖は明らかにかつては海面と同じ高さにあった。
また、近郊の山地には古代の汀線があり、石灰質の藻類の堆積物から成る白い帯がある。
これは海抜2マイル(約3200メートル)以上の高さだ。地質学者は常にこの隆起が起
こったのは何百万年も前のことだとしてきたが、アランとデレアは、それが紀元前9500年の
巨大隕石の地球衝突によって起こったものだと言う明瞭な証拠を提示した。
重要なことに、ティアワナコにも洪水神話がある。神ヴィラコチャは大地の創造者であり、ティアワナコに住
んでいた。だが人間が神に従わなくなったので、彼は大地を呑み込む大洪水を起こして彼
等を滅ぼした。生き残ったのはたった2人―男と女だ。彼は箱の中に流れ、洪水の引い
たティアワナコにとりのこされた。それからヴィラコチャは地上の人を再び創造し、彼等に自分の言語
と歌を与えた。
121:,
08/10/15 10:40:56 UYswNLDb
URLリンク(ja.wikipedia.org)黄道
URLリンク(ja.wikipedia.org)黄道傾斜角
URLリンク(ja.wikipedia.org)章動
URLリンク(ja.wikipedia.org) 天文学史
URLリンク(ja.wikipedia.org)隆起
URLリンク(ja.wikipedia.org)隕石
この話は、聖書の洪水の話に明らかによく似ているし、男女が取り残されていると言う部
分はアダムとエヴァを思わせる。だが「創世記」ではノアの洪水の後、すべての人間は同じ言語
を話していた。だが神は(二度とバベルの塔を築かせないため)彼等に異なる言語を与え、
地上に散らばらせた。
「そらが落ちるとき」の中で、ランドとローズ・フレマスは多くの洪水伝説、特にアメリカとカナダの先
住民のそれを作り上げ、カナダの北西沿岸沖にあるクイーン・シャルロッテ島のハイダ族の洪水物語と、
シュメール版洪水物語の類似を指摘している―シュメール版というのは「ギルガメシュ叙事詩」ではな
く、より古いヴァージョンで、19世紀の終わりにニップールで発見されたものだ。ここでウトナプシュ
ティムに当たる人物は、神官ジウスドラである。
どちらの物語でも、往古の人類は苦しみの無い黄金時代を生きたことが語られる。シュメール人
によれば、彼らの祖先はディルムンと呼ばれる島に住んでいた。一方、ハイダ族の祖先が住ん
でいたのは「世界で一番大きな村」である。神々がこれを滅ぼすことを決意する―それ
には人間の罪深さに始まって、彼等の立てる騒音のうるささに至るまで、様々な理由が与
えられている。ハイダ神話では、生き残ったものは大きなカヌーで脱出し、新しい土地の山
に辿り着く。シュメールの物語では、ジウスドラが箱舟を造り、最後に山の頂に至る。
ランド・フレマスによれば、ハイダ族の言語はナデネ大言語に属する。これはアメリカ先住民全体の語族
だが、その中でもハイダ語は一番古い。
そして信じがたいことに、1980年代にロシアの言語学者メリット・ルーレンが行った研究によれば、
この言語はシュメール語と関連していると言う。もしそうなら、これはハプグッドの言う世界規模
の海洋文明の存在のこの上ない証拠だ。
ハプグッドがアトランティスの問題に興味を抱いたのは1949年のことで、学生の一人ヘンリー・ウォリン
トンに失われたムー大陸のことをたずねられたのがきっかけだった。伝説によれば、ムー大陸も
また、アトランティスと同時期に海底に没したという。ハプブッドは彼に言った、今すぐムーについて
調べに行きなさい―それから、とっさの思いつきで、自分もアトランティスの証拠について調べ
てみるから、と言ったのだ。
122:,
08/10/15 10:55:28 UYswNLDb
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
ウォリントンは、ムー―もしくはレムリア―には、元来は十分な科学的証拠があったということ
を見出した。1850年代、イギリスの動物学者P・L・スクレイターは、インドとオーストリアという離れ
た土地の間に奇妙な動植物の類似があることに気づき、かつてはその間に両者を繋ぐ大陸
があったが、その後水没したと考えた。これは今から5500万年前の始新世に存在した
と言う。彼はこの大陸をレムリアと名づけた。なぜならこの失われた大陸の両岸に接していた
土地には共通のキツネザル(レムール)が棲息していたからだ。
1880年代に、有能だが変わり者の学者、オーギュスト・ル・プロンジョンは、メキシコのマヤの文書を
解読したと主張した。そこにはムーと呼ばれる大陸に関する記述があり、それは大地震とと
もに太平洋に没したと言う。大地震があったということは、それはアトランティスの破局か、トールマ
ン夫妻の言う紀元前7500年の彗星衝突かのいずれかだろう。
「東方のエデン―東南アジアの水没大陸」(1999)という驚くべき本の中で、スティーヴン・
オッペンハイマー教授は、シュメール人は大洪水の生き残りの子孫であると論じている。この大洪水は
中国沿岸と、彼が「スタンダランド」呼ぶ地域にあった太平洋の大陸にも押し寄せた。
(南西アジアのスンダランド。現在のスンダ列島からボルネオ島、フィリピンにかけて存在した大陸。海図
の白い大陸棚の部分がそれだ。)
オッペンハイマーの説は、イギリスの動物学者P・L・スクレイターの言う、インドとオーストリアの間にあった陸
橋の話によく似ている。ただしスクレイターの「レムリア」が存在したのは5500万年前の始新世
で、一方、オッペンハイマーの陸橋が沈んだのはごく最近の紀元前6000年だ。
オッペンハイマーもまたハプグッドとピリ・レイスの海図、それにグラハム・ハンコックの信ずる南極の「始祖文
明」を論じている。が、彼自身の始祖文明の候補地は、彼がスタンランドと呼ぶ南西アジアの水没
大陸だ。これは単にシュメールやエジプトに先行するだけではなく、その両者の母胎であったとい
う。
オッペンハイマーはまず、「創世記」のエデンの園が東方にあったとされていることを指摘する。さ
らにその後、「東のほうから移動してきた人々は、シナルの地に平野を見つけ、そこに住み着
いた」とある。シナルの地とは、いうまでもなく聖書で言うシュメール、すなわち「最初の文明」
の地だ。
またオッペンハイマーによれば、シュメールの言語は近隣のエラム語と同様、セム系言語の中では極めて得
意なものだ(シュメール語に取って代わったバビロニア語、あるいはアッカド語は、「ギルガメシュ叙事詩」
の言語だが、典型的なセム系言語だ)。ある意味では、シュメール語はフィンランド語やハンガリ
ー語に近いのである。この言語の起源はようとして知れない。不運なことに、オッペンハイマーは
一つの重要な情報を知らなかったらしい-―トールマン夫妻の言う、紀元前7545年の彗星衝突
だ。オッペンハイマーが述べている大洪水の規模だけでも、それが単なる氷の溶解によるものとは
考えがたい。
123:,
08/10/15 19:46:06 UYswNLDb
URLリンク(ja.wikipedia.org) ムー大陸
URLリンク(ja.wikipedia.org)スンダ列島
URLリンク(ja.wikipedia.org)スンダランド
124:,
08/10/15 19:52:13 UYswNLDb
一方、トールマン夫妻の彗星の破片はインド洋と南シナ海に一つずつ、南アメリカ西岸近くに二つに落
下している。この4つなら、スンダランドを沈めるのに十分だったろう。トールマン夫妻の彗星は、
オッペンハイマーの破局の原因の候補としては黒海大洪水よりも優れている。実際、トールマンによれ
ば「アジアでは1万五千年前に、人類はマンモスの生息する温暖な草原地帯だったシベリアに達して
いた。東南アジアの島々もまた、当時は陸地だった大陸棚を通って到達可能であり、最新
の研究によれば、5万年前から4万年前までのあいだに、ティーモール海を舟で渡ることによっ
て、オーストラリアにまで達していた」。この地域が紀元前7545年の洪水で破滅したのだ。トール
マンが参照している中国の版画には、洪水を表す龍のモチーフが描かれている。その版画には大
津波と、様式化されたチューリップ形の水の噴射が正確に示されている。彼によればこの版画は
「間違いなく、南シナ海で起きた衝突を地質学的に正しく描写した言い伝えに基づくものだ。
これはベトナムのガラス化した岩石からも確認されている。さもなければ、つい最近科学的に検
証されたばかりの衝突をこれほど正確かつ詳細に描写できるはずが無い」。
オッペンハイマーによれば、この洪水の後、スンダランドからの非難民はありとあらゆる方向に逃げた。
ある学者はインド、恐らくインダス渓谷に稲作を伝え、ある者は中国南西部、ビルマ、チベットに芸
術を伝えた。ある者は南に逃れてオーストラリアに、またあるものは東のミクロネシアに逃れた。オッペンハ
イマ-よれば、これらすべての土地は、洪水で故郷を追われた漂流民たちの言語的・遺伝的痕
跡を示している。「歴史上の度量衡」という本の中で、A・E・ベリマンは、彼の言う「インダス・
インチ」がシュメールの単位「シュシ」のぴったり二倍に当たると指摘している。また、多くの古代ポ
リネシア語では、太陽神は「ラー」と呼ばれていたが、これはエジプトと同一だ。
オッペンハイマーは言う、「その離散の中で、南東アジアの探検家たちは中国、インド、メソポタミア、エジプ
ト、クレタの新石器時代をの豊かなものにしたのだ」。つまり、彼等こそ西洋文明の真の始祖な
のだ。
125:名無しさん@お腹いっぱい。
08/10/17 19:57:12 gRdvDfXc
ものすごい長期荒らしだな
126:,
08/10/19 20:45:04 0iQKPAE4
、、、 コカイン・ミイラの謎 、、、
オッペンハイマーの仮説は正しいのかもしれない。だがもしも、チャールズ・ハプグッドもまた同時に正
しかったとしたら、世界規模の文化はすスタンランドの破局以前からすでに存在していたという
ことになる。ハプグッドの存在中から、彼の古代海洋民族説を裏づける証拠は発見され続け
ていた。中でも最も興味深いのは、コカイン・ミイラの話だ。
1976年9月。紀元前1213年に没した、最初の偉大なエジプトのファラオであるラムセス2世
のミイラが、パリに到着した。人類博物館の展示の目玉だ。彼は生涯の大半をヒッタイトとの戦
いに費やし、カルナック神殿の壮大な柱の間は恐らく彼の最大の記念碑だ。だがこのミイラを検
査したところ、状態が劣化していることが判明した。
そこで科学者たちに修復が依頼されたのだが、その一人である自然博物館のミシェル・レスコ博士
は、自らミイラの包帯の一部を電子顕微鏡で調べた。
(ラムセス二世のミイラ。菌類による劣化を防ぐため、さまざまな検査が行われた。その過程でタバ
コの種子が発見された。)
127:,
08/10/19 20:55:14 0iQKPAE4
URLリンク(ja.wikipedia.org) ラムセス2世
URLリンク(ja.wikipedia.org)カルナック神殿
URLリンク(ja.wikipedia.org)ミイラ
驚いたことに、そこにはタバコの種子が発見されたのである。これは馬鹿げたことのように
思えた。というのも、タバコが始めて南米からヨーロッパにもたらされたのは、コリストファー・コロンブス
の時代であるはずだからだ。
博士がこの事実を発見すると、学会に風が吹き荒れた。エジプト学者たちは、その種子はパイ
プをふかしながらこのミイラを研究していた現代の科学者に由来するものだ、と主張した。そ
こでレスコはミイラの内側の深い部分から試料を採取した。そしてやはり、そこにもまた粒子が
発見されたのである。
それでも、専門家はそれがタバコであることを認めなかった。それは他の植物、例えばタバコ
科に属するヒヨスなどだろうというのだ。レスコにしてみれば、そんなことはありえないのだが、
彼女はあまり自分の意見を声高に主張しないことにした。
それから15年が経過した。当時、すなわち1992年、ミュンヘン博物館のドイツ人研究者たち
が、古代エジプト人がミイラ製造に用いた材料の研究を始めた。彼らは薬物の有無を調べるた
め、ある法医学者の助言を仰いだ。法医学者というのは、疑わしい遺体などを調べるため
に警察からお呼びがかかる人々だ。彼女の名はウルム法医学研究所のスヴェトラーナ・バラバノヴァ
博士。
博士に提供されたミイラはファラオのような有名人ではなく、紀元前1000年ごろにテーベで死ん
だヘヌト・タウイという女神官だった。タウイの墓は19世紀に盗賊の略奪を受け、そのミイラは芸術
好きなバイエルン王ルートヴィヒ一世に買い上げられ、ミュンヘンの博物館に寄贈されていたのだった。
128:,
08/10/19 21:06:57 0iQKPAE4
URLリンク(ja.wikipedia.org)コロンブス
ミシェル・レスコ博士はWIKIは出ないね、、、。スヴェトラーナ・バラバノヴァ博士もでないね、、。
URLリンク(ja.wikipedia.org)(%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E7%8E%8B)ルートヴィッヒ1世
バラバノヴァ博士はこのミイラを抗体反応に基づく検査にかけ、さらにミイラを構成するいくつかの
物質の分子量を分析、結果をグラフ化してみた。するといずれの検査においても、このミイラに
には保存料としてニコチンのみならずコカインが用いられていたのである。
彼女の発見はレスコのそれよりもさらに驚くべきものだ。モシモバノヴァが正しいなら、古代
エジプト人はアメリカ大陸東岸の原住民と接触していたのみならず、同じ大陸の反対側の沿岸
にまで達していたということになる。実際、古代ペルー人もまた、死体をミイラ化していたの
である。
コカインはアンデス原産だ。疲れ果てた旅行者がラ・パスやクスコのホテルに辿り着くと、まずは
コカの葉で入れたお茶が振舞われる。これを服用すると、たちまちのうちに高地特有のめ
まいが吹き飛んでしまうのだ。バラバノヴァのい発見によれば、エジプト人は3000年以上
前にコカインの防腐作用を知っていたようだ。
バラバノヴァ博士の分析は、レスコ博士のとき以上に激しい嵐を巻き起こした。彼女のことを単
なる空想化と決め付ける、口汚く侮辱的な手紙が殺到した。そこで彼女は分析結果の数字
とグラフを公にした。すると考古学の権威者たちは、第二防衛線まで退いた-―このミイラは何ら
かの汚染を受けて居るに違いない、と。このような批判に対して、バラバノヴァはさらに反論
した-―検体の汚染を防ぐのは法医学のイロハである、と。すると今度はまた別の反論がなされ
た。このミイラは、「捏造」、すなわちアラブのペテン師が作った贋作だ、というのである。だが、
放射性炭素測定法などによる測定によって、その非難もまた退けられた。
129:,
08/10/19 21:14:38 0iQKPAE4
この騒ぎに当惑した博物館当局は、すべてを無かったことにすることにした。だがバラバノバ
博士はさらに他のミイラも次々に検査し、それらの中に定期的にタバコとコカインを発見し続け
た懐疑派はなおも、それはかつてヨーロッパに存在した絶滅種のタバコだ、と強弁し続けた。が、
コカインの存在についての説明だけはどうしてもつけることができなかった。
この話を聞いて、1975年にブラジルにある「壺の湾」と呼ばれる湾の沖でローマ時代の壺が
発見されたと言う話を思い出した者もいた。実際、この湾からは何世紀にもわたって古代
ローマの壺が発見されているのだ-―沈黙したローマのガレー船のものに違いない。
とはいうものの、もしも古代ローマ人が大西洋を渡る航路の事を知っていたなら、ローマの歴
史家は確実にそれを記録に残していたはずだ。だからたぶん、このローマのガレー船は暴風雨に
吹き寄せられ、海流に乗って大西洋を越えてここまで漂って来たに違いない。トール・ヘイエルダ
ールの船であるラー号もまた、1969年にこの同じ西向きの海流に乗って大西洋を越えたの
だ。とはいえ、先のエジプト人の場合、発見される「コカイン・ミイラ」の数は膨大であり、それ
だけでもこの「漂流説」は成り立たない。
今のところ、これ以外に古代エジプトにタバコやコカインが存在したことを示すものは何も無い。
だから多分、これらの商品が定期的に取引されてきたわけではないのだろう。おそらく、
王や女王のミイラを保存し、その永遠の命を保証するためだけに、これらの薬品は目の玉の飛
び出るような値段でエジプトに持ち込まれたのだろう。
だがわれわれは不可避的に次のような結論に直面せねばならない-―つまり、古代エジプト
の神官たちは、3000マイル(4800キロ)の海の彼方に巨大な大陸があること、そ
して海流を利用すればそこに辿り着けると言うことを知っていたのだ。もしも彼等が南米
東岸に上陸し、それから森や高原や山々を越えてペルーに辿り着いたのではないとすれば、
海路でケイプ・オブ・ストームズを越えたことになる(あるいは、さらに長い太平洋航路を辿った
からだ)。ハプグッドの古代海洋文明にとっては、これ以上の証拠は無いだろう。
130:,
08/10/19 21:26:32 0iQKPAE4
次に示す「古代海王たちの海図」にある「ハジ・アフマドの地図」に関するハプグッドの話もま
た、ここで触れておく価値がある。
1559年のトルコに出現したこの地図では、ヨーロッパの描写はあまり正確ではない。たとえば
地中海は実に異様な形をしており、そこから南に流れる水の行き先が紅海なのかペルシア
湾なのかも判然としない。ハプグッドによれば、アフリカの海岸線の正確さも、半世紀前のピリ・
レイス海図とは比べ物にならないという。
一方、この地図のアメリカ大陸は実に正確に描かれており、一見すると現代の地図のように見
えるほどだ。だが、コロンブスのアメリカ到着はこの地図の製作のわずか67年前に過ぎないと言
うのである。当時、この大陸はほとんどの部分が広大な未開地に過ぎなかったと言うのに、
地図製作者はどうやってこれほど正確な情報を得たのだろうか。特に、どうやって太平洋
側の海岸線をこれほど正確に引いたのか?ピサロとコンキスタドール(征服者)がペルーの海岸に上陸
したのは1532年、すなわちたった27年前のことに過ぎない。動考えても、そんな短
時間にここまで正確な情報を得られるはずが無い。
可能性は一つしかない。ヨーrッパの部分は、たぶんプレトマイオスの古くて不正確な地図に基づく
ものであり、一方アメリカの部分は古代のポルトラーノに基づいているということだ。そ
のポルトラーノは、実際にこれらの海岸線を知っていた人物が描いたものなのである。
これはもちろん、コカインやタバコを捜し求めた古代エジプト人だったのかもしれない。だがポル
トラーノを作った者が誰であれ、それはラムセスよりもはるかに古い時代のものだと言うこと
を示す証拠がある。
(ハジ・アフマドの地図。ヨーロッパの不正確な描写に比べ、アメリカ大陸の正確さは際立っている。
さらに不思議なのは、ベーリング海峡がなくアジアとアラスカが繋がって居ることだ。)
ハジアフマドの地図にはもう一つ奇妙な点がある。あたかも北極から見下ろしたかのようなこ
の図では、アジアとアラスカが繋がっているのだ。確かに、そこには細いベーリング陸橋は描かれて
いない。
131:,
08/10/19 22:06:08 0iQKPAE4
ベーリング陸橋というのは、ベーリング海峡を繋ぐ陸橋で、最後の氷河期の終わりに海面下に沈ん
だ。だが、もしもかつてこの大陸が現在と同様に離れていたのなら、両者の間に狭い間隔
を置くことは容易だったはずだ。だが、ここではこの通り両者が繋がっている。まるで幅
1000マイル(約1600キロ)の陸橋のようだ。
ハプグッドが紹介しているオクスフォードの科学者デレク・S・アランの指摘によれば、現在ではノヴヤ・ゼリムヤ島と呼ばれる島がシベリア沿岸に接続して描かれ、現在のノヴォシビルスク諸島もまた、乾燥
した大地として現されている。
言い換えれば、地図制作者は今から約1万4000年前の世界を示しているということに
なる。
だが、今から約1万4000年前に地図を制作したものとは何者なのか?
その答は推測でしかない-―が、多くの可能性が考えられる。まず「アトランティス人」の祖先。ス
ンダランド人。初期オーストラリア人。ティアワナコの建造者たち―ポナンスキーはそれを、それがまだ海面と
同じ高さにあった紀元前1万5000年のものと考えている。
だが大きな問題が残されている―なぜ我々の祖先は「海王たち」になったのか?少し想
像力を働かせれば、自分が氷河期の終わりの時期のクロマニオン人だったら、ちお考えることが
出来るだろう。氷が溶け、夏が次第に暑くなり、獲物が増え、魚を求めてどんどん沖へ出
て行くことが可能となった。だが、最初に大西洋を渡った元祖コロンブスとは誰か。そして大
西洋を横断した本家バルボアとは?そんな恐ろしいことに挑戦する勇気は何処から来たの
か?
132:,
08/10/20 09:16:41 R1Vq4a3l
、、、 大海を自由に往来した古代の海洋文明 、、、
この石球がいつごろ作られたのかという問題は、いまだ議論の対象となっている。ディキ・
デルタから発見される古代の遺物は、紀元前1万2000年ごろから紀元後500年にまで
及んで居るのだ。(コスタリカに関するインターネットのサイトによると)学者たちはこの石球を非常に新
しいもの、すなわち紀元前数世紀から紀元後500年の間のものと考えて居るという。
だが考古学者というものは、極度の保守的になりがちだ。というのも、それが仲間の考古
学者をあきれさせない一番の方法だからだ。新しく発見されたものの年代考察に極端に慎
重になることは、自分が学会で真面目で立派な一員であり、いきなりトンデモな結論に飛びつ
いたりする軽薄な人間ではないということを示す方法なのだ。
しかし、こんな態度が間違いの元になることもある。1920年代、中米の考古学者マシュー・
W・スターリングは、メキシコのトレス・サポテスで巨大な黒人の頭像を発見した。彼はこの像を彫ったオルメカ文化は
紀元前600年という古い時代のものと唱えたが、学会からは嘲弄を持って迎え
られた。だが実際にはむしろスターリングは保守的過ぎたのであって、現在ではサポテカ文化は紀
元前1200以後のものとされている。
ザップはハプグッドの著作も知っていたので、石球を作った船乗りたちがハプグッドの言う「古
代の海王たち」である可能性も認識していた。そしてすぐに、その仮説をうらづける証拠
も見つかったのだ。フンベルト・カロと言う学生が発見したのだが、「千夜一夜物語」の船乗りシン
ドバッドの物語の中に「カマル」と言う舵取りの道具が登場する。これは結び目のある長い紐
で、両端に木の四角形がついている。結び目はさまざまな緯度を表している。アラブの航海
士は特定の結び目を口にくわえ、紐を北極星に向けることで船の位置を知ったのである。
133:,
08/10/20 10:06:24 R1Vq4a3l
URLリンク(ja.wikipedia.org) コスタリカの石球群
URLリンク(ja.wikipedia.org)トレス=サポーテス マシュー・W・スターリング
やはり、プロフィールわからんね、、。
URLリンク(ja.wikipedia.org)巨石人頭像
URLリンク(ja.wikipedia.org)シンドバッド
だがザップは、この結び目のある紐をかつて見たことがあった。ロスロップが石球の近くで発見
した小さな像がそれを持っていたのだ。像は両手に紐の両端を持ち、真ん中を口にくわえ
てV字型を作っている。ザップはこれと似たものが世界中にあることを知っていた。ペルーは
プレ・インカの墓所の壺絵から、インドはインダス渓谷の壁画まで。
コスタリカもまた、いうまでもなく海洋文化の土地だ。それは中央アメリカで最も狭い部分の一
つであり、両側に広大な二つの海が広がっている。フンベルト・カロは、もうひとつの興味深い
証拠を発見した。トール・ヘイエルダールの論文に、風や海流に逆らってバルサ材の筏を進める技術が
紹介されていたのだ。竜骨が発明されるよりも何千年も前に、ペルー人は筏に可動式の中心
板を取り付けていた。これが竜骨の働きをし、船の上手回しを可能にしたのである。ピサロ
はペルー沖で、このような筏の大艦隊と遭遇した。それは風と海流に逆らって、彼等のほう
に進んできたのである。
彼らはこのような筏を使って、南アメリカ中の海岸を制覇していたと言うことをピサロは知る。
ヘイエルダールもまた、コン・ティキ(ケツァルコアトル神の名前の一つ)号という同様の筏を使って、古代の
船乗りたちが太平洋を横断していたことを示した。後にはエジプトからアメリカまで太平洋を渡
り、その主張を補強した。
1502年、クリストファー・コロンブスが太平洋を越える4度目の紅海でコスタリカに上陸したとき、
彼らは原住民から大いに尊敬を受け、二時間ほど歩いたところにある名士の墓に連れて行
かれた。そこには船の選手の装飾があった。
134:,
08/10/20 10:21:06 R1Vq4a3l
URLリンク(ja.wikipedia.org)(%E8%88%B9) 竜骨
明らかにコスタリカ人は、スペインから来た偉大な船乗りたちを、彼等自身の著名な船乗りに引き合
わせたのだ。死者を横たえる石の死体置き台はペルーのバルサ材の筏の中心板のようで、他の
人物―明らかに神官や王たち―もまた同じ様な中心板に乗せられていた。王たちが、
その人生に重要な役割を果たした板の石のレプリカの上に乗せられている理由は明らかだ。
だが、原書の船乗りたちは、この膨大な距離を本当に渡ったのだろうか?確かにヘイエルダール
はそれが不可能ではないということを身をもって証明した。だが―たとえば―紀元前
5000年のコスタリカの船乗りたちは、そもそもイースター島の存在自体を知っていたのだろう
か?よしんば知っていたにせよ、あえて広大な太平洋の何も無い海原にバルサ材の筏を浮か
べ、この島を目指す必要があったのだろうか?
ザップはこの疑問に対する答を偶然見つけた。1972年に出版されたテイヴィッド・ルイスの「わ
れ等航海者」と言う本だ。著者ルイスは、島の原住民と共に彼等の手作りの船に乗り、太平洋
を1万3000海里(約2万4000キロ)以上も航海した。原住民は先祖伝承の知識だ
けに基づいて、近代的な器具は何一つ用いていなかったが、必ず目的地に到達したと言う。
ザップやその仲間である著述家のジョージ・エリクソンは、ハプグッドが提供できなかった詳細な話
を多く書き記し、古代の船乗りたちが中国から北アメリカに至る7つの海を自在に航海していたことを示した。
135:,ミジンコ
08/10/20 10:29:17 R1Vq4a3l
>>132
スレリンク(ruins板:67-71番)
136:,ミジンコ
08/10/20 10:40:10 R1Vq4a3l
、、、、最近は、DSM法から出発して、DSMに基づいた意図を含めた、
極度の懐疑主義的考古学のでっち上げの活動を進める奴が、多いようだ、、、。
ニッテレの特命リサーチなんかも途中からそうなっちゃったんですよね、、、。
137:,
08/10/31 07:38:01 jlDj2b6Y
>>134
ザップによれば、そのすべてはハプグッドの言う世界規模の海洋文明の可能性を支持する確か
な証拠なのである。
138:名無しさん@お腹いっぱい。
08/11/15 11:10:31 TSIT8jUJ
うちにある最新道路地図、1972年版。
139:名無しさん@お腹いっぱい。
08/12/14 15:09:07 djSAHeQT
NHKの番組ブラタモリ関連スレが大変盛り上がっております。
スレリンク(nhk板)l50
スレリンク(livenhk板)l50
スレリンク(livenhk板)l50
スレリンク(livenhk板)l50
140:名無しさん@お腹いっぱい。
08/12/14 19:30:08 3bI3GvMl
短パンマン出ちょる
141:名無しさん@お腹いっぱい。
08/12/14 19:31:09 3bI3GvMl
1:短パンマン ★ :2008/12/14 19:30:28 ID:TanpanM
いろいろあるさ @bg r.so ver 2008/02/19
ERROR = 5656
(e_mes = [33333])
142:名無しさん@お腹いっぱい。
08/12/14 19:32:13 3bI3GvMl
名古屋はエ~エ~で ♪
スレリンク(geo板)
143:、
09/04/06 22:37:41 hExpmQLp
,
144:名無しさん@お腹いっぱい。
09/04/20 21:20:38 Jhmk9ZLz
あ
145:名無しさん@お腹いっぱい。
09/04/20 21:31:22 Jhmk9ZLz
い
146:名無しさん@お腹いっぱい。
09/04/26 09:49:17 PbytFo1n
う
147:名無しさん@お腹いっぱい。
09/04/26 17:30:03 ZlWV7Na5
えっ
148:,
09/06/09 09:49:59 FGn1Su0g
,
149:,
09/09/05 15:41:25 1zraY3rA
,
150:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/06 14:47:32 /2SFiEjk
>>1
なにこの金土日って?
もしかして珍走団の名付け親の金土日?
151:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/08 04:14:22 tTvrAsIk
未だにミャンマーの首都をヤンゴンにしている地図は古い