09/04/27 04:17:40
>>594
最後の、"Quiescence and resignation are no longer pertinent, is reasonable."
の部分は抜けがあるんじゃない?
1937年、社会学者のRobert S. Lyndは"Knowledge for What?"という表題の
珠玉の一編を著し、学問が当時の諸問題から乖離していることを酷評した。
本書は27年後に再版されたばかりだ。その間、世界はアウシュビッツにヒロシマ、
バーミンガム(IRAのテロ)を経験したが、本書における学界に対する糾弾は
いまだ一行たりとも間違ってはいない。社会学者の大部分は依然として、
自身の研究の焦点を世界の喫緊課題に真っ向から合わせていない。確かに、
社会学者はこうした問題についてデータを蓄積しているが、多くの場合、
問題解決の提示に近づこうとはしない。なぜなら、その時点で物議が勃発
するためだ。故に、学術論文と社会悪とは、残念ながら決して交わろうとしない
ユークリッド的完璧さをもって互いに並列した別々の山で堆く積み上がり
続けている。
この短い論文において、私は学術課題としてではなく、今日日一般群衆の声
として高まりつつある日々われわれが身の回りで見聞きすることに関連し、
権力の使用について議論を少なくとも始めたいと思う。
思うに、社会の健全性は、人々の期待とその期待の実現との間のバランスに
依存している。東洋におけるゴータマの仏教と、西洋におけるエピクテトスの
ストア哲学はともに、幸福にいたる手段として諦観を重視している点で、
荒削りな技術の限界に嵌められた。今日、科学の趨勢は充足できる需要の
波を世界中で創出している。