09/05/19 22:44:57
こんにちは。最近思うことを少し。
以前このスレで性善・性悪説の話が出ました。その際わたしは性善説支持の考えでした。
それが変わりつつあるようです。(今スレをざっと見直したのですが、思うことは既にあの中にありそうです)
日曜日に性善説性悪説の講演を聞く機会を得まして、演者の結論として、自分は性善説がいいなあーと信じたいです。
というようなのんびりした口調で言っていたのがとても気になりました。
性善説がいいなあーって、そりゃそうだけど、自分は善人でありたいと甘え、他人から害を受けたくない心の現れではないだろうかと……。
かと言って性悪説か、と言われても、どうも違う気がする。善悪というものは人間の判断ですよね。
自然のうちに善も悪もない。ただそれを、人間が自然の本性に従うのが善だとか、様々な解釈を付けている。
で、ここからが本題です。講演後の質問で、真宗の僧侶と思しき人間が言っていたこと。
親鸞の教えは善だの悪だのの次元を超えて、全ての人が幸福になれる道を説いているんだ、というようなこと。
乱暴に言えば、南無阿弥陀仏で信じれば誰だって救われるよ、信じられなくても、阿弥陀仏すげえから救われるよ、というわけです。
どうも疑問に思うんですよね。霊魂不滅や浄土を信じている人は良いけど……死んだらおしまいだと思っている人をどうやって救うんだと。
死んだらおしまいな人たちにとって重要なのは今、生きているこの時です。ここで幸福を得られねば何の意味もない。
生きているうちに確固たる信を得ることが幸福なのは認めます。素晴らしいです。でも簡単に信じろと言われても無理ですよ。
みんな幸福だーなんて信者同士の内輪だけの話ではないのか?信仰を持たない人間に宗教者は何ができる?みんなが幸せというならしてみろ、布教なしで。
こんなことを思ったのです。宗教者や浄土真宗に対して挑戦的な考えを持つに至ってしまいました。
1人で考えていても凝り固まってしまうので、皆さん良ければわたしの頭をほぐしてくださいw