食人民族中国人 チャイナカニバリズムat CHINA
食人民族中国人 チャイナカニバリズム - 暇つぶし2ch356:名無的発言者
07/02/03 00:20:39
「凌遅処死」
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鄭曼は 常州(じょうしゅう)横林(おうりん)の出身で、天啓(てんけい)2年(1622)、進士に及第し、その文才と声望は一時、世間を騒がせた程だった。
崇禎のはじめ、朝廷内部の党派争いによって政治的混乱が生じると、鄭曼はその渦に巻き込まれ、“母を杖(むちう)ち”  “妹を犯した”かどで告発を受け、大逆非道の罪をきせられた。
そして崇禎帝はみずから、彼を凌遅の刑に処すように指示したのである。この一件の背景や是非については具体的には不明であるが、ここでは刑の執行時のおおまかな様子を述べておこう。
《崇禎12年(1639)、8月26日の早朝、聖旨により刑の当日執行が伝えられると、関係司直はただちに ていまん を西市にひきたてるよう役人に命じた。
当時の西市は北京皇城の西側、甘石橋(かんせききょう)下の四牌楼(しはいろう:のちの西四牌楼、今の北京西辺)にあり、死刑執行の場所となっていた。
慣例によれば、斬首は西牌楼の下で、りょうち は東牌楼の下で行われるようになっていたので、その日も首きり役人らが、手に手に小さな籠をかかえて小屋からでてきた。
籠には鉄製の鉤(かぎ)と鋭利な匕首(あいくち)がはいっている。彼らは鉤と匕首をとりだすと、砥石(といし)にあてて砥ぎすました。
辰巳(たつみ:午前8時~10時)のころ、監獄役人たちが鄭曼を刑場におしたててきて、東牌楼の下に放置した。鄭曼は柳で編まれた大きな駕籠(かご)のなかに坐ったままである。
頭巾もなければ足袋(たび)もはいていない。彼はひとりの召使いの少年にむかって、一家の後事をことこまかに託している。
このときすでに、あたりの道路や空地は、水のもれる隙間もないほど黒山の人だかりで埋めつくされていた。
役人の一人が「西城察院(かんとくいん)の長官殿がおみえになられていないので、いま少しお待ちを・・・・・・」と口にしたちょうどそのとき、くだんの長官が前後に従者をしたがえ、人垣をかきわけながらやってきた。


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