07/01/23 19:55:27
「殺妾饗士」
URLリンク(www.geocities.co.jp)
張巡(709~757年)は、鄭州南陽の出身です。唐国の開元年間の進士(国家公務員試験合格者)で、いろんな本をよく読んでいて、兵法に精通していました。
西暦755年、安禄山が反乱を起こし、翌年正月に洛陽で皇帝を名乗ります。張巡は奮起して反乱軍に抵抗し、雍丘(河南杞県)を60日以上にわたって固守し、反乱軍の武将である令狐潮を撃退しました。
西暦757年、安禄山は息子の安慶緒に殺され、安慶緒は尹士奇に十万人の兵力を任せて?陽(河南商丘の南)を包囲しました。張巡は軍隊をひきつれて雍丘を出ると?陽に入り、?陽太守の許遠と共同で反乱軍に抵抗します。
張巡、許遠、そして武将の南霽雲、雷万春たちと城を守るすべての将兵、城に住むすべての人民は、?陽城を九ヶ月もの長きにわたって守り続け、大小400回以上の戦いをおこない、反乱軍の将校を三百人以上も殺しました。
殺した反乱軍の兵士は、12万人に達します。その後、城内の食料がつき、兵士は弓をひく力もなくなり、騎馬を殺して飢えをしのぐようになります。
さらに騎馬がいなくなると、今度はスズメやネズミをつかまえて食べました。それがなくなると、武器や道具に使っている革を煮て食べます。
こういった状況において、張巡はようしゃなく自分の妻子を殺して料理し、兵士たちに食べさせて飢えをしのがせました。この行動は「殺妾饗士」と言われています。
『新唐書』の記載によると、「長いこと包囲され、はじめは馬を殺して食べ、なくなると三万人以上の婦人、老人、弱者を食べた」とあります。