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西条正『中国人として育った私 解放後のハルビンで』中央公論社より
人民公社化以前のわが家の便所は、裏庭にあり、ドアも、囲いもある専用の便所だった。町内
でこのような専用便所をもっていた家は、わが家のほかには数軒しかなかった。それ以外の家は、
庭の一角に設置された数軒共用の便所を使っていた。それらの共用の便所も、ドアが付いていて、
囲いも屋根もあった。
ところが、人民公社化の時、町内会を通じて、公衆便所が出来るから各自の便所を全部取りこ
わせという上からの命令が伝達されてきたのである。みんなはそれに従って木造の便所を取りこ
わし、大便槽を埋めてしまった。
個人の便所を取りこわし、公衆便所を作る背後には、人民公社化に伴う「共産風」(共産主義
風潮)があった。食事は公共食堂で、育児は保育所でと、なんでも共用の時代だった。だから、
便所も、町内に一つ共用のを作り、個人便所を廃止することになったのだろう。
(中略)
その新しい公衆便所は、わが家から五十メートル離れた「三角地」と呼ばれる三叉路の真ん中
に建てられ、たんなる共用便所ではなく誰でも利用できた。当初は立派なもので、屋根はもちろ
んのこと、ドアも囲いもあった。(中略)しかし、この公衆便所がだんだん変容していった。ま
ずドアがはずされ、その後、六つに仕切られた囲いも取りこわされた。残されたのは外壁と男女
の仕切りだけである。変貌した公衆便所の中をのぞくと、右側半分に六つのアナがあいているだ
けで、そこで用をたす人がまるまる見える。(中略)