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ひとことで言えば「偽もの」、あるいはニーチェの言葉で言えば「弱者」というと
ころだろうか。実際、「センチメンタルな写真、人生」と題する荒木経惟展に見ら
れるのは、まさしくセンチメンタルな私小説の写真版でしかない。妻との新婚旅行
。その妻との死別。妻の死後、空っぽのヴェランダから空を撮り続ける写真家。そ
していま、そのヴェランダにはカラフルな花々が溢れ、写真家の分身であるらしい
爬虫類のフィギュアが這い回っている。死を超えた生の横溢? いや、そこにある
のは、そういうセンチメンタルな物語にすがることでしか生きられないひ弱な「私」
、しかも、そのような自分を売り物にして弱者の群れの歓心を買おうと計算するさ
もしい「私」でしかないのだ。もちろん、「弱者」は実際にはつねに多数派であり、
その意味ではむしろ強者といってよい。現に、一昔前なら私小説に夢中になったで
あろうひ弱な「文学青年」たちが、「写真評論家」や「美術評論家」を自称し、寄
ってたかって荒木経惟の「私写真」を「芸術」に祭り上げてしまったのであり、そ
の展覧会は、草間彌生展を上回る数の大衆を惹きつけているのである。何よりも問
題なのは、どうやら写真家自身が自分でも「芸術家」のつもりになっているらしい
ことだ。百歩譲って言えば、『写真時代』(白夜書房)などの「エロ雑誌」で猥褻
表現の限界をめぐって警察とゲリラ戦を展開し、「恥部屋」と称する狭い空間の壁
から天井からすべてを女性器の写真で埋め尽くしていた頃の荒木経惟の写真は、い
わば徹底して薄汚れてあることによって、逆に一種のマイノリティとしての気概を
感じさせた。いま残されているのは、希薄化されたその形骸でしかない。写真その
ものはもとより、プリントやディスプレイからしてすでに、徹底してチープでもな
ければ、徹底してゴージャスでもない、つまりは、いかにも中途半端なのだ。それ
にしても、こういうウェットな感傷にまみれた薄汚い写真が日本の現代芸術の代表
とみなされ、公立の美術館で大規模な展覧会が開催されるというのは、なんという
倒錯だろう。