08/10/26 16:56:50
(Wikipediaより)
「原爆ドーム」としての再出発
広島の復興は、焼け野原にバラックが軒を連ねる光景から始まった。その中で鉄枠のドーム形が
残る産業奨励館廃墟はよく目立ち、サンフランシスコ講和条約により連合軍の占領が終わる頃に
は市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていた[3]。
原爆ドームは原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、一方で「原爆投下に
よる悲惨な状況を思い出すので撤去すべき」などの意見もあり、その存廃が議論されてきた。市当
局は当初、「保存には経済的に負担が掛かる」「貴重な財源は、さしあたっての復興支援や都市基
盤整備に重点的にあてるべき」などの理由で原爆ドーム保存には消極的だった。市民からも、「見
るたびにあの惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という意見も根強かった。しかし、1960年に
被爆が原因と見られる急性白血病で亡くなった1人の女子高校生が「あの痛々しい産業奨励館だ
けが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」と記した日記を読み感
動した平和運動家の河本一郎が中心となって保存を求める運動が始まり、1966年広島市議会は
永久保存することを決議する。その後風化を防ぐため定期的に補修工事が行われながら保存され
ている。1995年国の史跡に指定され、翌1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ
の登録が決定された。さまざまな年齢・国籍の人が多く訪れるようになった一方、最近では立ち入
り禁止区域に入っての落書きなども問題になっている。