08/09/18 17:36:06 t4sFY2oF
>>423
「住居をつくるのに、先ず深さ80cm以上掘り込み、次に厚さ約25cmの粘土を床面に貼り、その上面を
焼いて整え、さらに約8cmの精良な粘土を貼り高温で焼いて固めている。こうした床を焼床(やきどこ)と
いい、従来にはなかった建築工法である。この床にはさらに、直径2cm程の穴が多数、開けられていた。
一方、壁際には40cm×30cm、厚さ約8cmのレンガと思われる建築部材が少なくとも5個以上見つかっ
ている。」
「ややこしい話は表にしましょう。百済熊津時代の王陵と貴族墓は,次のとおりです。
年代 熊津時代前半 熊津時代後半
磚室墓 なし 新登場→王陵
宋山里型石室 新登場→王陵 →貴族墓に転落
表井里型石室など 貴族墓 貴族墓 」
「では,いつから「熊津時代後半」なのでしょう。百済の磚室墓は武寧王陵と宋山里6号墳の2基があり(
このほかにも可能性が指摘される例はある),前後関係は解決していませんが,ここでは洪?植氏のよ
に,武寧王(462年 - 523年)陵から熊津時代後半と考えておきましょう。」
URLリンク(www.ops.dti.ne.jp)
磚室墓が百済では6世紀なのに日本には焼き床は神話時代だ。