08/08/11 09:10:55 +PtgbRPh
>>31
>楽浪郡の東側(日本海沿岸地方)にはワイ
「正始六年(245年)、楽浪郡太守劉茂と帯方郡太守弓遵は領東で高句麗に従属していた?を討伐した。
不耐侯らは邑(国)を挙げて降伏した。 正始八年(247年)、王宮に詣でて朝貢、不耐?王は再び詔を拝
する。(王の)居所は百姓らと雑居である。四季ごとに郡に詣でて朝謁する。二郡(楽浪・帯方)に軍征が
起れば賦調として使役を供し、これを遇するに臣民の如し。 245年、前年に魏の幽州刺史毋丘倹
(かんきゅうけん)が万余の兵を率いて、高句麗王の位宮を攻めた。位宮が敗走、魏軍は峠まで追走し、
車馬を束ねて丸都山に登る。」
重要なことは
「その風俗は山川が重なり、山川には各部族がおり、みだりに干渉することはできない。同姓は婚姻でき
ない。多くの忌諱があり、(家族が)疾病で死んだときは、すぐに旧宅を廃棄し、更(通典では夏)に新居を
建てる。麻布があり、蚕糸で絹を作る。夜明けの星宿(二十八宿の占い)から、その歳の作物の豊穣を
予想する。珠玉を宝としない。」
吉林・遼寧を出発点としながらも、半島においては養蚕技術(おそらくは二郡経由)を取得していたこと。
これは雄略が導入したクレの養蚕技術というのは高句麗より分離され、「句麗」となった穢族を意味し、更に
秦族も「發」族であった可能性を意味する。つまり、穢は倭に続いて日本に移住しているということだ。
穢の淵源を辿るとパミール山岳民エフタル、ツバ付帽子を被った民族に行き着く。これは中国の北狄が
移住したものではないかとされる。しかし、このパミール地方こそYAP+のDとEの重なるところでもある。
また、河内王朝そのものが穢族であった可能性がある。雄略とはおお發瀬のワカタケル、そこには
狛川が流れ、白山神社がある。