08/08/11 09:10:55 +PtgbRPh
>>31
>楽浪郡の東側(日本海沿岸地方)にはワイ
「正始六年(245年)、楽浪郡太守劉茂と帯方郡太守弓遵は領東で高句麗に従属していた?を討伐した。
不耐侯らは邑(国)を挙げて降伏した。 正始八年(247年)、王宮に詣でて朝貢、不耐?王は再び詔を拝
する。(王の)居所は百姓らと雑居である。四季ごとに郡に詣でて朝謁する。二郡(楽浪・帯方)に軍征が
起れば賦調として使役を供し、これを遇するに臣民の如し。 245年、前年に魏の幽州刺史毋丘倹
(かんきゅうけん)が万余の兵を率いて、高句麗王の位宮を攻めた。位宮が敗走、魏軍は峠まで追走し、
車馬を束ねて丸都山に登る。」
重要なことは
「その風俗は山川が重なり、山川には各部族がおり、みだりに干渉することはできない。同姓は婚姻でき
ない。多くの忌諱があり、(家族が)疾病で死んだときは、すぐに旧宅を廃棄し、更(通典では夏)に新居を
建てる。麻布があり、蚕糸で絹を作る。夜明けの星宿(二十八宿の占い)から、その歳の作物の豊穣を
予想する。珠玉を宝としない。」
吉林・遼寧を出発点としながらも、半島においては養蚕技術(おそらくは二郡経由)を取得していたこと。
これは雄略が導入したクレの養蚕技術というのは高句麗より分離され、「句麗」となった穢族を意味し、更に
秦族も「發」族であった可能性を意味する。つまり、穢は倭に続いて日本に移住しているということだ。
穢の淵源を辿るとパミール山岳民エフタル、ツバ付帽子を被った民族に行き着く。これは中国の北狄が
移住したものではないかとされる。しかし、このパミール地方こそYAP+のDとEの重なるところでもある。
また、河内王朝そのものが穢族であった可能性がある。雄略とはおお發瀬のワカタケル、そこには
狛川が流れ、白山神社がある。
42:月光仮面
08/08/11 15:35:47 +PtgbRPh
エフタルは古代山戎、移動遊牧民の元祖的な要素を持っている。
URLリンク(www.gesanmedo.or.jp)
URLリンク(www12.wind.ne.jp)
URLリンク(karamatsu.cocolog-nifty.com)
URLリンク(chikatsu.mediajoy.com)
雪豹を取るということは最高の狙撃能力を持つことを意味し、ラピスラズリ、その他の有用山岳鉱物資源
を生産、メソポタミア、エジプト、地中海文明への販売を太古から行っていたことを意味する。当然、優秀
な猟犬を有し、青銅・鉄を多民族に先駆けて実用化、馬を家畜化、戦闘二輪車、乗馬を生産、保有、販売し、
古代のユーラシアの歴史を築いた民族であったものが、農業文明による巨大国家成立と共に山岳部に
追いやられる。そしてアマテラスのスサノオイジメが始まるが、その結果の日本文化がオリンピックの
弱さの大きな原因となっている。
43:出土地不明
08/08/11 15:51:27 8u40G2Cl
>>39
おい、どうした?
いつも茶色く鼻の潰れた香港マフィア顔の台湾工作員くんw
何で楽浪以前の朝鮮南部は日本と同じく中国土器や南方土器が
伝わっていないのかね?w
44:月光仮面
08/08/11 16:06:30 +PtgbRPh
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)
「『上古音韻』 日本語では、穢とYはともに「ワイ(wai)、またはカイ(kai)」と読むが、現代漢語では、
穢「huiフイ」、Y「huoフオ」と異なり、上古音韻でも、穢「huat」、Y「iuat」と異なっている。従って、穢は「huat→
hui」、Yは「iuat→huo」に変転したものである。」
「日本語では、上古音韻の穢(huat)の母音を「クァ」、Y(iuat)の母音を「ウァ」に発音したと思われる。
そして、「クァ→カ」「ウァ→ワ」に転化する。 穢し(kitanasi)は(クゥタナシkua tanasi→カタナシka tanasi→
キタナシki tanasi)に転化している。」
「huat」は發、ハタ、ハヤト、ホイトに通じる。日本の農耕民も中国文化の尻馬に乗って、朱に交われば
赤くなるというが、同胞の差別を行ったようである。こうしたイジメ神話の起源は銅鐸が終わり、銅鏡の始
まる時より早くはなく、当時の政策当局が牧畜文化の戦闘能力は欲しいが、牧畜が国土の環境に合わない
ので移民を厳しく管理したことの現れであろう。
時点
45:月光仮面
08/08/11 16:14:58 +PtgbRPh
句麗(穢)/邪馬台国は魏の臣下、冊封を受け、逆に、馬韓、辰韓が魏と果敢に戦っていたというのは
おそらく半島・列島関係史上で唯一の例外的現象であろう。歴史とは不思議なものだ。
46:出土地不明
08/08/11 17:41:11 dZuvAQnd
宮本長二郎・東京国立文化財研究所国際文化財保存修復協力センター長(建築学)の話。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。ただし、日本の高床建物は
祭祀(さいし)目的とみられ、住居など実用目的だった中国とは異なる。
URLリンク(inoues.net)
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。
47:出土地不明
08/08/11 21:40:24 beH+P2ka
>>43
日本人は、他のアジア人とは人種が違うと
「誤 解 し よ う の な い よ う に」はっきりと書いてあるだろが。
どう朝鮮人やベトナム人や中国人のほうが近い台湾人だと思ったのか
以前も聞いたが、全く答えないな。
色白で、鼻の高い俺のような人間(日本人では別に珍しくないが・・・)に向かってでも、
ダライ派のチベット人工作員とか、地中海系工作員とは絶対に言わないんだろうな。
日本人が Y A P + の古い貴種であることがそんなに都合が悪いかね。
>>40
> ほほう、じゃあ何で楽浪以前の朝鮮南部は日本と同じく
> 中国土器や南方土器が伝わっていない?w
このスレは「朝鮮人が詳細にどこから来たのか」がメインテーマではないので、
日本人と別人種の彼らにそもそもそれほど興味などない。
あえて言えば、比較的新しい時代になるほど、朝鮮人は、
文明的なものであったり、父系の遺伝子に顕著に出る支配層は、
極めて中国の華北政権やモンゴルや満州族の影響が強いということだ。
だいたい土俗的で南方的要素が強かった原半島人が北方系に
エスニッククレンジングを受けたのが今の朝鮮人といって間違いはない。
だから、大抵の日本人より顔全体はごつごつして色グロなのに、
鼻は低く目は釣り目みたいな、三重苦の焼き芋顔なんかも発生する。
日本も飛鳥時代とかに半島からの亡命渡来人を入れないで、
D2系統が7割、C1系統・O2系統が各1割強とかの純粋性を保っていれば、
もっと理想的だったと思うと残念なんだがな。
48:出土地不明
08/08/12 01:03:47 8GNLY5CY
>>47
はあ?
誰がそんな事聞いたんだよこのカス。
39で朝鮮半島南部には南方から来た土人顔のボートピープルが来たんだろ?
で、原半島人は南方的要素が強いんだろ?
だから何で楽浪以前の朝鮮南部は日本と同じく中国土器や南方土器が
伝わってねえんだと聞いているんだよこのウソコキ台湾ベトナミ顔ロイドくん。
49:出土地不明
08/08/12 09:59:23 r12H9O7i
シベリア?アムール?
■三内丸山遺跡と同時代の新開流文化■
何枚もの魚骨が重ねて出土する貯蔵穴が
多く発見されて、魚を貯蔵する施設だと思われている。
何枚もの魚骨が重ねて出土する貯蔵穴
何枚もの魚骨が重ねて出土する貯蔵穴
何枚もの魚骨が重ねて出土する貯蔵穴
何枚もの魚骨が重ねて出土する貯蔵穴
何枚もの魚骨が重ねて出土する貯蔵穴w
穴に貯蔵ですがなにかw
50:出土地不明
08/08/12 14:58:48 XjbGmVoL
まぁ、徒歩であれ,,くりぬきカヌーであれ
1万3000年分は保証できるね。
/a人間の存在a/
/b海水の存在b/
[a]と[b]により、1万2000年分は100%保証できる
1万3000年分は51%保証できる。
1万4000年より前となると日本独自といっていいかどうか悩むが。
中学3年15歳の学問内容じゃ、理解できないのが悲しいところだが。
中学3年でできる調査の元手
URLリンク(www.kahaku.go.jp)
だけど物資の補給(石器、土器、木器、やじり、紐ヒモ)を考えるとねぇ.
51:出土地不明
08/08/12 15:25:55 1s1+UuS+
「日本」と一括りにせず地域別に考えろ
52:出土地不明
08/08/12 16:15:06 Mh7iR24X
シラキ(カラ)の領土は、時代と共に変化し、移動している。
そのようすを地図にしてみた。
(1)紀元前1世紀頃
楽浪郡(コマ)
↓
○○○○○△▽△←ワイ州(ワイ諸部族の居住地)
○○○○○▽△▽
○○○○○◆◆◆
○○○○○◆◆◆
○○○○○◆◆◆
○○○○◆◆◆◆ 【日本海】
◆◆◆◆◆◆◆◆
◆◆◆◆◆◆◆◆←カラ(倭人国・シラキ=稲飯命が建国した国)
◆◆◆◆◆◆◆◆
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(2)AD1世紀頃
楽浪郡(コマ)
↓
○○○○○△▽△←ワイ州
○○○○○▽△▽
○○○○○◆◆◆
◆◆◆◆◆◆◆◆
◆◆◆◆◆◆◆◆ 【日本海】
◆◆◆◆◆◆◆◆
◆◆◆◆◆◆◆◆←カラ(倭人国・シラキ=稲飯命の孫・天日矛の国)
◆◆◆◆◆◆◆◆ 〔日本海沿岸部から東シナ海沿岸部まで領有〕
◆◆◆◆◆◆◆◆
53:出土地不明
08/08/12 16:17:16 Mh7iR24X
<続き>
(3)AD2世紀頃
楽浪郡
↓
○○○○○△▽△←ワイ州
○○○○○▽△▽
■■■■■◆◆◆
■■■■■◆◆◆
■■■■■◆◆◆ 【日本海】
■■■■■◆◆◆
■■■■◆◆◆◆←シラキ(別名・カラ=弁韓=稲飯命の孫・天日矛の国)
■■■■◆◆◆◆
■■■◆◆◆◆◆
↑
馬韓(日本名・クタラ。シラキから分離)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(4)AD3世紀前半頃
楽浪郡=コマ
↓
○○○○○△▽△←ワイ州(ワイ諸部族の居住地)
○○○○○▽△▽
■■■■■▲▼▲←ケリン(ワイ族国=辰韓。元はシラキ領)
■■■■■▼▲▼ 〔シラキから分離〕
■■■■■◆◆◆
■■■■■◆◆◆ 【日本海】
■■■■■◆◆◆
■■■■■◆◆◆←シラキ(倭人国=弁韓。天日矛[天日日子]の国)
■■■■■◆◆◆
↑
馬韓(日本名・クタラ)
54:出土地不明
08/08/12 16:19:29 Mh7iR24X
<続き>
(5)AD4世紀中頃
楽浪郡(コマ)
↓
○○○○○△▽△←ワイ州(ワイ諸部族の居住地)
○○○○○▽△▽
◆◆◆◆◆▼▼▼←ケリン(ワイ族国=辰韓。元はシラキ領)
◆◆◆◆◆▼▼▼ 〔シラキから分離〕
◆◆◆◆◆▼▼▼
◆◆◆◆◆▼▼▼
◆◆◆◆◆▲▼▼
◆◆◆◆◆◆▼▼←ケリン領土となった南加羅(ありし日のカラ)
◆◆◆◆◆◆▼▼
↑ 【日本海】
ミマナ(シラキから改号。3世紀後半にシラキと馬韓[クタラ]が合併)
55:月光仮面
08/08/12 17:04:50 Xw2qYLV5
>>52-54
ご苦労様。いずれにせよ日本への移住ともなれば日本政府の出先機関のビザ、つうか、コミットメント
なしには難しかっただろう。技術者等に限定していたような感じがする。
56:出土地不明
08/08/12 18:47:36 XjbGmVoL
>51
> 「日本」と一括りにせず地域別に考えろ
>
地域別の定義は?
山1つで線を引くのか
山脈として線を引くのか、
河川湖沼で線を引くのか、
定義をしないと。
------------------
んで、俺個人の定義の仕方。
火山地図volcano map
URLリンク(www.bosai.go.jp)
日本列島はアジア大陸とは明らかに違う[独自の地質]を持つ。
[海の上,昭和新山,阿蘇山]を見ても[海の下,,海底火山]を見ても独自の地質。
地質的にも独立している。人間にどのような影響を与えるんだろうか。
そして地質でつないでいくと、感情的な人には不満だろうが理性で突き詰めていくと
URLリンク(en.wikipedia.org)
---------------
なんで半島に誘導しようとするんだ?根拠が存在するならまだしも根拠を提示しないから嫌いだ。
-----------------
URLリンク(en.wikipedia.org)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
根拠を出すのがシベリア主張派の人のやり方。
根拠を出さずに口だけでねじ込めようとするのがとある場所の方方。
57:出土地不明
08/08/12 20:17:23 Mh7iR24X
7世紀以前のカラ半島は、大きく3つのブロックに分けて考える必要がある。
まず、紀元前から漢人が住み、半島文明の中心地だった西北部=楽浪郡地方。
そして、太白山脈の東側(半島東北部)にあり、文明とは無縁だったワイ地方。
最後に、日本文明圏の一部であり、古代ヤマトの領土であった韓(カラ=南部)である。
これらの3つの地方は、異なる民族が住んでいたのだ。
朝鮮人の先祖が住んでいたのは、この3ブロックのうち、文明がほとんど発達していなかった
ワイ地方(半島の東北部)であった。ワイ族が半島全域に移住するのは8世紀以降である。
7世紀の『白村江戦争』は、半島南部の倭人連合と半島東北部を本拠地とするワイ族連合の
戦争であった。
58:出土地不明
08/08/12 20:49:20 jnlKDt6n
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)
59:出土地不明
08/08/12 23:45:52 959wXws8
朝鮮人は日本に対するコンプレックスが凄いな
60:XYZ ◆PH4Mje0jPU
08/08/13 02:21:26 JP/ixIx8
>>20
ですね。
概観しますと、やはり原始時代の人々にとりましては「海」は非常に大きな
壁となってきた模様ですので、まず大陸と距離的に一番近く、早くから
大陸と繋がった樺太・北海道からの流入したサイビリア方面を経由した
人々が、Y染色体で言えばC系統の人々になりますでしょうか。これは
旧石器時代人と言われる人々ですよね。
次に、二番目に大陸と近く、またこちらも後に大陸と繋がったと言われる
朝鮮半島から流入した人々が、D・E系統の人々になりますでしょうか。
この人々の経路は、いわゆる“シルクロード(陸の)”と呼ばれる、
中央エイジャから現在の支那国の大部分を横断する形でやって来たと思われ、
彼らが縄文人と言われる人々ですね。こちらは上記の経路より気候も
厳しくないためか、それより多くの人々が流入した模様。そして彼らは
後の文明化した人々に追われ、高地の西蔵や雲南、または島になった
日本等にしかその遺伝子がほとんど残っていないわけですね。
61:XYZ ◆PH4Mje0jPU
08/08/13 02:26:47 JP/ixIx8
× 樺太・北海道からの
○ 樺太・北海道から
62:XYZ ◆PH4Mje0jPU
08/08/13 02:28:58 JP/ixIx8
最後に日本が大陸と別れてから、もしくは支那地域で文明化が始まった
時代から主に流入した人々がFR系統の人々になりますでしょうか。
このうちのO2(b)系の人々が、いわゆる弥生人と呼ばれ、支那の東部の
主に中北部から主に朝鮮半島を経由して流入した人々であった模様。
その形質は北方新モンゴロイドゥの影響を多少は受けたものであったかと。
彼らは「倭人」とも呼ばれ、その遺伝子は日本では南下して辿り着いた
と思われる、沖縄の先島諸島に、現在でも多く残っていますね。
また別のO3系の人々は、いわゆる古墳時代に流入した人々で、彼らは
もともとO2系の人々より北方に居た集団であり、彼らもまた朝鮮半島を
経由し、後に日本で水稲耕作と文明の力でもって主に関西方面で人口を
急激に増加させ、後のヤマト(大和)政権を打ち立てるわけですね。
その形質は北方新モンゴロイドゥ形質に属する形質であったと。
ただ、ここでわたしが気になる事として、FR系統の人々はもともと
どの辺りから支那方面へやって来たのだろうか?という事があります。
彼らは現在東南エイジャ方面にも多く存在しているわけですが、それは
北方から押し出された結果だと言われていますよね? ですが他方、
そのうちのN系の人々はモンゴリアやサイビリア方面にも多くあるようです。
となりますと、元来C・D系統の人々が居た位置と重なりますし、
元来FR系統の人々は、よく言われる「南方系」とは言えないと
思われますし、いったいどのような存在だったのでしょうか…?
これを明確に説明出来る人がいますでしょうか??
余談ですが、今までの話、結局のところ白馬青牛さんが言っている事が
一番正確であるように思われませんかね…。
63:XYZ ◆PH4Mje0jPU
08/08/13 02:54:39 JP/ixIx8
勿論、わたしは月光仮面さんや(柄は悪いですが)京都人さんの意見も
必読に値するものだと思います。^^
他方で常に「朝鮮人」「チョン」などと書き、誰も主張していない
“朝鮮半島起源論(?)”で罵る人達は、問題がありそう…。
ほとんどは「半島を経由して」としか言っていませんよ。
これは何も不思議な事ではないでしょうに…。
64:出土地不明
08/08/13 04:41:25 JHtQORgY
>>60
お久しぶり。
ざっと見たところ、考古遺物と他の遺伝学の知識が浅いせいか、
総合的に俯瞰できる段階にはまだないね。
YAP+がアフリカからペルシャ湾までに発生したと見るのなら、日本に人類が入って来た
最初からDがなければ矛盾してしまう訳だから、CとDはゴビ砂漠南部経由で35000年前の
地続き朝鮮経由でナイフ形石器を持って最初から同時に入って来たと見るべきだろう。
それとアラスカに人類が渡ったのが25000年くらい前だから、地続き朝鮮半島経由で
入ってきた方が先で樺太経由で入ってきたのはその間の30000年くらい前だろう。
それとO2bが弥生時代以降に入ってきたとは限らない。
日本には中華全体にあるKがないから、これも地続き時代の終盤までには
入ってきた因子だと見た方が良いのではないか?
65:出土地不明
08/08/13 04:43:09 JHtQORgY
それと何度も何度も口を酸っぱくして言っているが、日本には縄文時代から弥生時代に
至るまで中国土器はない。その影響土器もない。中国金属器もない。
朝鮮半島も楽浪開始頃まで中国土器はない。
弥生人が支那から朝鮮半島を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは中国土器か朝鮮無文土器のはずでしょう。
しかし、彼らが最古の水田遺構と同時に伝えたのは中国土器でも朝鮮無文土器でもなく、
口縁部に刻目を持つ当時の沿海州中南部あたりが故郷と見られる土器なのだよ。
輸入したと見られる朝鮮無文土器はわずかに見られるが生産していた集落遺跡がない。
どういう経緯で北方民族である彼らが水田稲作を持ってやって来たのかは一番最初に教えた通り。
青牛爺さんは久しくお見受けしていないが、彼も結構なデムパニストですよ。
ただ君の言う通り、例の集団よりははるかにマシだがねw
66:月光仮面
08/08/13 09:22:31 pvssD5D2
山辺の道にマーケットをつくり、東方山岳、辺境部と瀬戸内・玄海灘平野部との交易を図る国づくりという
のは洛東江上流方面の考えであり、これが一概に遺伝子の流れとは言えませんが、遺伝子の流れと
軌を一にする、並行する考えで、これが三内丸山時代からあったとは思えない。これは古墳時代に強く
なるものの、その始まりは遠く戦国時代の始まりの頃でしょう。この頃から遺伝子が海岸沿いにはいる
ようになった。遺伝子とプロファイリング、生業研究は関係しますね。四川、雲南とのつながりはこれで
すね。アカホヤ以降、列島は古代人に見向きもされない千年以上の年月があった。そこで山岳民遺伝子
の多様化はありえず、それをいうなら興安嶺から白頭山にかけての山間でしょうね。
67:月光仮面
08/08/13 11:06:52 pvssD5D2
秦の始皇帝の末裔、エジプト中近東に君臨した草原の民、秦氏、と黒竜江の鹿狩り民族、穢とはどこで
接点が出てきたのかは不思議ですが、ごく最近半島中央部の第一玄菟郡文化地帯の研究により、この
楽浪東方、すなわち、ソウルから日本海沿岸にかけた地方において黄海沿岸を南下した楽浪文化と
日本海沿岸を南下した箱式石棺墓文化である沃沮、穢の接点に発生した文化が検出された。そして、
朝日遺跡で発掘される鉄斧が沿海州沃沮・穢の輸出商品であることもわかってきた。BC4-3世紀の
ことらしい。
68:月光仮面
08/08/13 15:01:22 pvssD5D2
力士黒海の国、グルジアの北西沿海部アブハジアは支石墓発生のの地でもありますが、力士露鵬等の
国の攻撃を受けている。この地のコーカサス語はシノ・コーカサス語族といって中国語もその仲間に入る
言語集団に属するが、この地からヒルベト・ケラクという黒陶のような優秀な土器勢作集団と馬・馬具・馬術
集団が今のトルコに入ってはヒッタイトを建国。カザフスタンで実用化された馬・馬具・二輪車・馬術集団は
インダス、エジプトへと入る。中国で周が殷を倒したのちいち早く体制側にもぐりこむのも秦集団で、馬がらみ。
ところが、黒龍江省の沃沮・穢には室韋などと違いこうした馬の文化の形跡はない。この辺が秦集団と
穢・狛集団の大きな違いですね。
69:月光仮面
08/08/13 15:06:11 pvssD5D2
ただし、秦集団が立地したと見られるコーカサス、ミタンニ、アッシリア、太秦等は山岳地形であり、秦族
も沃沮、穢と同じ、ひいては、チベット、四川、雲南と同じYAP+の遺伝子を持っていた可能性がある。
YAP+の多様性とはこうした地球規模の多様性であり、箱庭のような環境で生まれるものではないと思い
ます。
70:月光仮面
08/08/13 15:28:05 pvssD5D2
「北方臺正東,高夷?羊,?羊者,羊而四角。獨鹿??,??善走者也。孤竹距虚。不令支玄豹。不屠何青熊。
東胡黄羆。山戎戎菽,其西般吾白虎黑文。
これは西周初年(紀元前1046年頃)、周の成王が洛邑(洛陽)を創建後、諸侯を招いて大会を催したとき
の記事の抜粋だが、ここに高夷の名が見える。 孔潁達(唐代の学者、隋書を編纂)は、王會篇の注釈に
次のように記している。「逸周書に記された会議に参加した北方台地の東の高夷とは、高句麗族の源流で
ある」 高夷氏は山東省に登場する最古の部族。大地に鵠(おおはくちょう)のトーテムを祀り、東夷族が
中原に進入するのに従い、商代には河南省北部に進入。やがて中原から東北地方に移住し、後に高句麗
と名乗ったと考察(あるいは調査の結果)したようだ。 」 sadabeさんHP
この高夷の鳥トーテムはヤマトタケル、神武等始祖的天皇の時代に出現するので、おそらくはヘロドトス
のいう王族スキタイのことで、白鳥等は天神のシンボルではないかと思います。高句麗とはこうした王族的
集団を含有する集団といった意味ではないかと。
「『契丹古伝』 燕国の衛満は、漢の武帝に「殷(箕氏朝鮮)は胡や秦の縁者を抱えており、これを滅して後患
を絶つべきだ」と言上。武帝が彼に兵を与えたので、殷王(箕準)は辰(辰国)に逃れ、殷は滅亡した。衛満
は殷を奪い、前漢は郡県を広げて徐珂(?)を阻んだ。[蘇我のことか。] 衛満は真番国をも奪い、朝鮮
(衛氏朝鮮)と号した。徐珂王の淮骨令南閭峙は殷の報復をすべく漢と謀った。漢は徐珂を郡としないこと
を誓い、『王印』を以て證とした。」sadabeさんHP 衛満の箕子朝鮮が胡や秦の縁者を抱えておりとした
情報は正しく、殷、朝鮮、大和、ヒクソス王朝、ヒッタイト、ミタンニを建国したのは同一のオークネフ・
カラスク文化人であると思います。ヒクソスの国境はクサエ、橋頭堡的国家にヤマハドがあります。
71:月光仮面
08/08/13 15:32:52 pvssD5D2
言いそびれたが、高夷すなわち、王族スキタイが諸族を動員しドルメン建設を行ったのではないかという
ことで、この行動パターンはセファルジムユダヤ人の西欧における足跡と一致しています。
72:月光仮面
08/08/13 15:38:41 pvssD5D2
時代的には、エジプトにおけるイクナートン宗教改革、スキタイより早くユダヤと言う概念はなかったと
思われますが。
73:月光仮面
08/08/13 15:59:41 pvssD5D2
>>67
この韓国中央東部、沃沮・穢文化の出土土器ですが「滑らかな表面の硬質破片となっている土器」と
いうことで、日本的にいえば須恵器となりましょうか。沿海州における鉄器製造技術の発達に付随して
土師器が須恵器となったってことかな。
74:月光仮面
08/08/13 16:19:02 pvssD5D2
>>73
URLリンク(upload.wikimedia.org)
ソウルの東は上からイムジン、プクハン、ナムハンという漢江の支流ですが、これに囲まれたところを
Chundoという極めて誤解を生む領域名で呼んでいる。これが沃沮穢と楽浪のコンタクトゾーンです。
半島中央東方地域とでも呼んだ方がいいようだ。
75:出土地不明
08/08/13 16:38:24 SiQqotFF
■『寛平の新羅賊』(新羅=第51代王-真聖女王の時代)
『日本紀略』『扶桑略記』寛平五年(893年)および六年(894年)の条にみえる熊本、長崎、壱岐、対馬にかけての
入寇とその征伐の記録。
893年5月11日、大宰府は新羅の賊を発見。
「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。また、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」
翌894年4月、新羅賊が対馬島を襲ったとの報せを受ける。沿岸国に警固を命じ、参議・藤原国経を権帥として
下すなどを定めたが、新羅賊は逃げていった。
この間、遣唐使が定められたが、一説に唐の関与を調査するためであったともいう。
9月5日の朝、対馬守・文屋善友(文)は、郡司士卒を励まして賊徒45艘を弩をかまえた数百の軍勢で迎え撃った。
雨のように射られ逃げていく新羅賊を追撃し、220人を射殺した。また、船11、太刀50、桙1000、
弓胡?(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊一人を生け捕った。
その賊が言うには、新羅はここ数年、不作が続き、民は餓えに苦しみ、国庫も尽きて王城も例外ではなく、
「新羅王の命令により、日本の穀絹を奪う為に、帆を飛ばして参り来たる」という。
王の命令による海賊行為であったと、大宰府に捕らえられた賊が証言しているのである。
この真聖女王は、たしかに無能であったが、自分の意思で女王になったわけではないであろう。
当時の政治状況の中で、女王に成らざるを得ない立場にあったというのが真実であろう。
また、この女王が堕落した人物だったという『新羅本紀』の記録も鵜呑みにはできない。
彼女の後を継いで、第52代王となった「孝恭王」(本名は金嶢というらしい)という男が、
彼女から王位を奪ったあと、自分の王位継承の正当性をアピールする目的で、真聖女王を悪辣な女性であったと
記録する文書を、役人に書かせたのであろう。
この孝恭王(金嶢)なる人物は、真聖女王の太子といっても真聖の子ではない。真聖の兄である憲康王の庶子、
つまり非嫡出子だと記録にあるが、これも疑問である。
実際は、孝恭王(金嶢)はクーデターで権力を握った人物で、王位を手に入れた後に、
自分が王位継承者として相応しいとアピールするために、自分の血筋をデッチ上げたのだろう。
本当は王家の血を受け継いでいない可能性が高い。
新羅王家・金氏は、真聖女王の代で滅びたというのが、歴史の真実であろう。
76:月光仮面
08/08/13 16:42:58 pvssD5D2
「徳島市蔵本町三丁目の徳島大蔵本キャンパスにある「庄・蔵本遺跡」を発掘調査していた徳島大埋蔵
文化財調査室(室長、北條芳隆・総合科学部助教授)は九日、弥生時代後期の集落跡の溝から鉄製の斧
の刃や鎌の刃の一部が見つかった、と発表した。県内で見つかった鉄製品としては最古。同じ場所から
鍛冶作業の際に飛び散った火花が固まったとみられる鉄くず数点も出土しており、同調査室は「農具など
の道具を鉄で作る技術がこの時期の徳島で普及していたことを物語る資料だ」としている。」
URLリンク(mai-bun.hosp.med.tokushima-u.ac.jp)
>>74 は「ポリツェ型Celt(扇形刃斧)」といっているので↑これもそうかも。これって鳴門萩原古墳の
オオアサヒコ辺りが楽浪銅鏡と一緒に導入したのちゃーうの?
77:月光仮面
08/08/13 16:57:46 pvssD5D2
↑楽浪と穢の蜜月時代は邪馬台国と重なる。ホケノヤマと鳴門が義兄弟の穢人であった可能性が
出てくる。後に春日に招致される阿波夷さんがこれか。
78:出土地不明
08/08/13 19:12:21 SiQqotFF
楽浪とワイの間に、交流はなかったでしょ。
それにワイは日本人とも交流していないし。戦争はしていたが。
79:出土地不明
08/08/14 02:09:43 Ek6GJEuM
日本人が朝鮮人だったのにおまえらはFFか
スレリンク(ogame板)l50#tag810
こんな所にも暴れてる朝鮮人がいるぞ?
80:XYZ ◆PH4Mje0jPU
08/08/14 04:39:24 UZ8F+J2Q
>>64-65
返信ありがとうございました。お久しぶり(?)です。^^
そのご批評・ご批判は、かなり的確です…。;;
毎度出しゃばってすみません。
それとわたしも確かに白馬青牛さんにはやや思い込みを感じる時はあります。
考古遺物からはそうした感じなのですね。わかりました。
これはまさに余談になりますが、
これから、わたしは人類学の中でも、考古学や民俗学、言語学などよりは
民族学、または日本では文化人類学や社会人類学と呼ばれる分野の研究で
生きていこうと思っているのですが、考古学の分野の知識も
多分に持っている必要があるかと思われます。ですからいつも非常に
助かります。
いつの日か、あなたと一緒に仕事する日が来るかもしれません…。
妄想ですが楽しみにしています。^^
まだ暑いですので、どうぞお元気で。
81:XYZ ◆PH4Mje0jPU
08/08/14 04:52:00 UZ8F+J2Q
一つ忘れていましたが、↑の話で人種学、または形質人類学や
自然人類学と呼ばれる、主にいわゆる理系の生物学的な知識が
必要な分野も、実はわたしはあまり本腰を入れるつもりはありません。
ですから2chで興味本位で…。
失礼しました。^^;
82:月光仮面
08/08/14 07:54:33 eM8OntLN
>>78 sadabe HPでは
『三国志魏書』穢伝
正始六年(245年)、楽浪郡太守劉茂と帯方郡太守弓遵は領東で高句麗に従属していた?を討伐した。
不耐侯らは邑(国)を挙げて降伏した。
正始八年(247年)、王宮に詣でて朝貢、不耐?王は再び詔を拝する。(王の)居所は百姓らと雑居である。
四季ごとに郡に詣でて朝謁する。二郡(楽浪・帯方)に軍征が起れば賦調として使役を供し、これを遇する
に臣民の如し。
[この時点で魏の兵力化した結果として神武、天日矛、オオアサヒコ/天日鷲等として日本各地に製鉄技術
を主とする授産、入植活動を展開したのであろう。]
『春秋時代』(紀元前770年-同476年)
「穢王の印璽を持つ扶余族について「体形は大柄で勇猛だが、謹厳実直で略奪をしない」と『三国志魏書』
扶余国伝を記しており、この誠実で勇敢な性質が、移住した地域に接する他の民族や部族にも好まれ、
定住農耕を伸展させていったと思われる。
また、南シベリア地方のタガール文化(紀元前700年-前200年)が、オルドス(内蒙古自治区の南部)
地方で中国青銅器文化と融合して誕生したオルドス文化(遼寧式青銅器文化)を発展させた原動力とも
なったと推察する。 」以上sadabe HP参照。
穢、沃沮については民族は異なるものの同一集団。穢は夫与とはほぼ同一。邑婁は海人族的であり、
戦闘的で、ミシハセというのは夷貊のことではないか、つまり、邑婁ではなかったかと思う。
穢はほとんど日本にしか残らないYDNA YAP+であったのではないか。
83:月光仮面
08/08/14 08:11:43 eM8OntLN
↑シ歳と言うのが文字化けし?となっている。
ついでであるが、どうもこの民族は漢族によって文字によるイジメ、差別を受けている。おそらくは
言語的にツングース・アルタイ系であり、後のチュルクと共通する、つまり、五胡のようなものであり、
周・燕との間に深い歴史的わだかまりをもっているようで、日本に入っても漢族よりのグループからの
イジメ・差別は存在したはず。雄略天皇の記紀における扱われ方もその一例だ。しかし、邪馬台国、
河内王朝、継体王朝はこの穢系の築いたものに他ならない。阿波の白人神社の白は狛である証拠に
貞光の名産は三輪同様に素麺である。發瀬川、沸流川、徐珂川は大和につけられた穢族の地名で、
中津川は洛東江と同じであろう。
84:月光仮面
08/08/14 08:21:53 eM8OntLN
朝鮮には古朝鮮と言う実体は現存するが、漢文化の受け入れが優秀すぎて帯方郡、楽浪郡と一体化し、
かろうじて一部が松菊里の故地、馬韓に存在する形となっている。これが辰韓に残されていた古朝鮮
勢力を中心に現在の朝鮮が形成されたのであろう。しかし、漢族と決定的に異なるのは四声の声調が
取得できなかったことで、この点に日本人との共通点がある。頭隠して尻隠さずである。
85:月光仮面
08/08/14 08:36:01 eM8OntLN
ホケノヤマ、鳴門萩原古墳に楽浪の画文帯神獣鏡が出土するのは「正始八年(247年)、王宮に詣でて
朝貢、不耐穢王は再び詔を拝する。(王の)居所は百姓らと雑居である。 四季ごとに郡に詣でて朝謁する。
二郡(楽浪・帯方)に軍征が起れば賦調として使役を供し、これを遇するに臣民の如し。 」こうした動きと
関連する、つまり、二郡の命を受けて倭に出征したのではなかろうか。ホケノヤマの編年はもっと古いって?
その辺のご意見を伺いたい。
86:月光仮面
08/08/14 14:41:35 eM8OntLN
>>83
当時の中華社会の偏見を語るものとして
「東夷伝論
論に曰く。昔、箕子は命運の衰えた殷を離れ、朝鮮の地に難を避けた。初め、その国の習俗向上を耳にす
る事は無かったが、八条の適法を施すに及んで人々に禁を知らしめ、遂に邑には妄りに人の物を盗む事
が無くなり、夜に門を閉ざす事が無くなった。愚かで知識に乏しい俗を変え、柔軟で普遍性のある法に従
わせ、実践する事数百年から千年に渉った。故に東夷は総じて柔謹(温柔で慎み深い事)を風とし、三方
の者と異なっている。苟も政化の及ぶ所には、道義が存在する。仲尼は自国の現状に憤りを懐き、九夷に
住む方が良いと考えた。ある者が九夷の卑しさを問題視すると、仲尼は「君子がそこに住むなら、何を卑し
いとする事があろうか。」と言った。これは理にかなっており、事実その通りであった。九夷はその後、遂に
通接して交易を行い、次第に上国と交わるようになった。しかし、燕人の衛満がその風を乱し、これを境に
(九夷は衛満らに)従い、人の心も変わってしまった。老子は「法令が整えば整う程、盗賊が多くなる。」と
言った。箕子が条文を簡略化し、信義を用いた事などは、聖賢の立法の根本を得ていたと言えよう。」
孔子は筏に乗って九夷の国に脱出したいと言っていた。
87:月光仮面
08/08/15 08:08:37 2tViPYSH
「賤ヶ岳七本槍 この戦いで秀吉の武勲者として、史上に名をとどめた「賤ヶ岳の七本槍」とよばれる七人
衆がいた。大岩山にとどまっていた佐久間盛政の部隊が退却を開始したのを知り、秀吉の旗下七人衆
が、どっと斬りこみ一番槍の功をたてたのである。福島正則を隊長として、加藤清正、加藤嘉明、脇坂
安治、片桐且元、平野長泰、糟野武則の若武者たちであった。」
URLリンク(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp)
その起源は「作矛長三丈、或數人共持之、能歩戰。樂浪檀弓出其地。其海出班魚皮、土地饒文豹、又出
果下馬、漢桓時獻之。 矛は長さ三丈に作り、あるいは数人でこれを共同で持ち、歩兵戦で巧みに使う。
楽浪檀弓は、その地から産出される。その海は斑な魚皮を産出、土地には鮮やかな文様の豹が多くいる。
また果下(馬高三尺)の馬を産出し、漢の桓帝の時に、これを献納した。
三国志魏書』高句麗伝
「矛は長さ三丈に作り、あるいは数人でこれを共同で持ち、歩兵戦で巧みに使う。楽浪檀弓はその地から
産出される」
粛慎の朝貢での献納品は「?矢(こし)、石?(せきど)、弓」とされている。それほど有名な粛慎の名品だ
が、後には「?の檀弓、高句麗の貊弓」が知られるようになる。ここにいう三国志魏書にいう「楽浪の檀弓」
とは?の名品に他ならない。粛慎の系統だからこそ、弓矢の製作技術が優れていたのではないだろうか。」
これをもたらしたのは天日矛、それを保存してきたのが葵祭、祇園祭、今につなげたのが徳川の大名行
列だ。この粛慎淵源は殷とウクライナ、ユーラシア西南を結ぶ下図の展開を見せるセイマトゥルビノ文化。
URLリンク(users.hartwick.edu)
88:月光仮面
08/08/15 08:09:15 2tViPYSH
ユーラシア草原に後期青銅期をもたらした最早期であり、最も華麗な大陸横断関係を表現するセイマ
トゥルビノ文化はアルタイ山麓からウクライナまでユーラシア森林草原を急速に横断し拡大した。
URLリンク(users.hartwick.edu)
これらの短剣、ビン、青銅及び銀製槍先ソケット各一点及び2点の完全ソケット付槍先は2000-1700 cal
BC年代と編年されるセイマトゥルビノ文化最西端出土地点、ウクライナドニエストル河沿岸に発見された
ボロディノ考古学宝庫のほんの一部に過ぎない。
URLリンク(users.hartwick.edu)
その他のセイマトゥルビノ文化出土品画像
URLリンク(history.novosibdom.ru)
URLリンク(history.novosibdom.ru)
URLリンク(history.novosibdom.ru)
URLリンク(history.novosibdom.ru)
URLリンク(history.novosibdom.ru)
URLリンク(history.novosibdom.ru)
URLリンク(history.novosibdom.ru)
URLリンク(history.novosibdom.ru)
それはこのように密集方陣として使用されたと見られている。世界最古の軍隊の誕生だ。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
89:月光仮面
08/08/15 08:19:42 2tViPYSH
他方秦氏はこうした東胡方面とは異なり、馬の飼育にかかわり、甘粛、新疆、カザフスタン、イラン、
シリア、エジプト、アナトリア方面に展開していたようであり、セイマトゥルビノ文化と並行してアンドローノ
ヴォ文化圏東部を縦断するカラスク文化と関係するところがあるのではなかろうかとおもわれるが、
これが半島中央部で楽浪と玄菟といった形で接触する、それが「チュンド」文化であり、そこから生じる
穢、これがコマ/狛として古墳初期の瀬戸内・近畿に入ってくると見ている。
90:月光仮面
08/08/15 08:30:22 2tViPYSH
>>70
「「『契丹古伝』 燕国の衛満は、漢の武帝に「殷(箕氏朝鮮)は胡や秦の縁者を抱えており、これを滅して
後患を絶つべきだ」と言上。武帝が彼に兵を与えたので、殷王(箕準)は辰(辰国)に逃れ、殷は滅亡した。
衛満は殷を奪い、前漢は郡県を広げて徐珂(?)を阻んだ。」・・・衛満と武帝が簡単に合意に達する中華
コンセンサスの背後には殷を敵視し連衡する中華世界の基本理念があり、これこそが穢人蔑視の淵源
で中華の劣等感に他ならない。この世界最古の軍事文化のもとで産声を挙げたのが邪馬台国で、その
軍事的側面を強調しているのが神武記であろう。
91:月光仮面
08/08/15 08:46:44 2tViPYSH
国破れて山河在あり
城春しろはるにして草木深そうもくふかし
時に感じては花にも涙を濺そそぎ
別れを恨うらんでは鳥にも心を驚おどろかす
烽火三月ほうかさんげつに連なり
家書万金かしょばんきんに抵あたる
白頭掻はくとうかけば更に短かく
渾すべて簪しんに勝たえざらんと欲ほっす
URLリンク(bun.dokidoki.ne.jp)
92:出土地不明
08/08/15 10:37:07 u7TA0L5+
ここは、基地外の妄想、捏造を書くチラシの裏スレかよww
93:月光仮面
08/08/15 11:36:02 2tViPYSH
ヒクソスから帰還した渡来人
スレリンク(min板)menu345-346
すれ違いの危険を回避、内側↑に車線変更。
94:月光仮面
08/08/15 16:18:21 2tViPYSH
YDNA D2の渡来は古墳時代前後に多かったが、 URLリンク(img438.imageshack.us) 他にもM122 20.1%と言うのがこの図の下のほうにある。これは三内丸山よりは遅れるであろうが縄文時代に
稲作文化を持って渡来した長江下流域の民族で、中国筋では後の半島経由弥生人に押されて圧倒された
のではないかとしている。しかし、こうした先着グループがかなり幅を利かせており、戦闘能力に抜きんじた
D2系だけでは簡単に政治は動かせなかったのではなかろうか。こうした古い渡来人はアイヌとも違うが
縄文人として存在していたはずである。
95:月光仮面
08/08/15 16:31:44 2tViPYSH
神武は「天神の子亦多(さわ)にあり」と言うが、
URLリンク(www3.point.ne.jp)
アルタイ系の天神思想を持つD2は沖縄から本州各地に同一の神話とか地名をばらまいているようである。
と言うことは邪馬台国、狗奴国といった対立構造も普遍的に存在した可能性がある。そして、沖縄・九州
西岸の国々が独自に対中外交を展開していた可能性も否定できない。何があってもおかしくはないので
あるから邪馬台国ドコソコ議論はいい加減にしておけばいいのと違うだろうか。徳島に卑弥呼がいたって
なんちゃらおかしゅうはないのだ。えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、よいよいよい。
96:出土地不明
08/08/15 22:41:29 fQXjg47h
東北 関東甲信 東海 北陸 近畿 山陰 山陽 四国 九州
くらいに分けて地域ごとに議論せよ
97:XYZ ◆PH4Mje0jPU
08/08/15 23:16:55 Wd7LThEm
↑沖縄・北海道はもう必要なしですか…? ^^;
98:月光仮面
08/08/16 07:20:39 BF3s3Kkx
五輪銀メダルのアブドゥロ(<エフタル)・タングリエフ(<タングリ=天神
「トルストフによると,アム・ダリヤ両岸,シル・ダリヤ南デルタにおいて,原始期,古代期,中世期の遺跡,
文化が確認された。原始期は新石器(前4~前3千年紀)から青銅器時代(前2~前1千年紀)までで,とくに
アム・ダリヤ右岸におけるジャンバスカラやヤッケパルサーンなどの遺跡で代表される。」)
この青銅器時代(前2~前1千年紀)にエジプト・小アジア・コーカサスにフルリ人として活躍したもので、
アマルナ時代にフルリ、ハビル、シャスなどエジプトからレバント(パレスチナ)・シリア方面に広がり、
ヒクソス、フルリ人は銀メダルのタングリーエフ選手のような形質で、カラスク文化に属し、その一部が
殷及び後の秦となるのであろう。ハビルの方はコーカサスからボルガ方面に展開、バシキールとして
モンゴロイド形質を留めたものと見られる。これは御物石器を伴ってボルガからドニエストルに急速展開
を見せたセイマトゥルビノ文化、その末裔の粛慎と関係しているのであろう。
99:月光仮面
08/08/16 07:49:11 BF3s3Kkx
夏家店上層期の黒海北岸からはスキタイ遺物が出土するが、これらは
URLリンク(annals.xlegio.ru)
URLリンク(annals.xlegio.ru)
「独鈷石(とっこいし)」として「縄文後期~晩期、さらには弥生時代の前期・中期の境頃まで、主に岐阜・
福島県などの東日本」と直結しており、
URLリンク(f1.aaa.livedoor.jp)
URLリンク(f1.aaa.livedoor.jp)
更には、筒型銅器(スキタイの矢立)、角杯(敦賀を中心に出土、ケルト、ゲルマンと関連する)、巴形
銅器(ゲルマンの楯飾)等と関連する夏家店上層期のスキタイ文化の影響を受けたポリツェ・邑婁文化が
越前から木曾・阿武隈等の山岳地帯に流れたことを意味している。源氏等関東武士の淵源はスキタイに
あるとみて間違いない。
100:月光仮面
08/08/16 07:57:50 BF3s3Kkx
であるから、スキタイ・関東武士団とフルリ人の子孫である秦氏は一時的に数千キロも隔離されていた
ものが、安陽、半島、列島で再会する。YDNA D2に見られるハプロタイプの多様化はこのような環境に
よって発生したものと見る。配牌時に役満ができるように神が列島に遺伝子を積み込んだとする考えは
うますぎるのである(w
101:月光仮面
08/08/16 08:05:44 BF3s3Kkx
神武が大和盆地の地形を国見してすばらしいとしたその価値観は安陽を、二里頭を発見したユーラシア
モバイル牧畜民の発想であり、それは遠くウラルのアルカイム、シンタシュタ、トゥルクメニアのゴヌル・
デぺに遺跡を築いた時と同じ発想である。旅路の果てに青い山脈を発見したようなものなのだ。
102:月光仮面
08/08/16 08:24:40 BF3s3Kkx
秦氏とはシナイ銅山を経営しながら、車の売り込み、技術革新、経営戦略に徹した世界最初の
多国籍企業経営者であり、太公望を初めとして各国の政治顧問となったもの。オシホというのは
オシポ、ヨセフと同一に意味であり、ホヒというのはヒクソスファラオ、アポーピス(フイフイもか?)に
通じる。砂漠の民シャスはフルリ、ハビルに感化されてヨセフ、モーセの話を作り上げたのであろう。
カミオカンデに近い高山の匠の技は下っては三河の国を拠点とし、いまやその車を知らぬものはない。
これらは秦氏であるとか、稲葉城の斉藤道三のような人物の先天的能力によるものと見て間違いある
まい。
103:月光仮面
08/08/16 08:35:45 BF3s3Kkx
バシコルスタンのヨセフ的英雄、アミン・ベクはダイスを振ってエジプトファラオから国土を得た。
しかし、殷の悪王は神を相手にダイスを振って後指を指される。御日射は旱魃予防の呪いであるが
ブリャート・東海・東日本の慣習であり、殷では血で満たした皮袋を矢で射る悪逆無道の帝とされるが
これらはユーラシアモバイル牧畜民が殷の王権にあったことを物語り、秦氏が一時はエジプトに
続いて殷の政権をも握っていたことを意味する。
104:出土地不明
08/08/16 18:19:24 1uvRuz2m
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)
105:出土地不明
08/08/16 19:41:45 tp4KvCts
『日本の歴史学会は「ミマニアン・ドキュメンツ」(任那日本府-公文書群)を研究せよ』
■『三国史記』編纂の資料として使われた『ミマニアン・ドキュメンツ』(M資料)
高麗時代前期(1145年)に編纂された朝鮮最古の歴史書・『三国史記』は興味深い書物である。
この書は、半島側の資料として、『古記』、『海東古記』、『三韓古記』、『本国古記』、『新羅古記』、
金大問『高僧伝』、『花郎世記』などを第一次史料として引用したとされているが、
かつて半島南部を統治していた任那日本府(シラキ日本府)によって記録され、伝承されきた古文書、
いわゆる『任那日本府-公文書群』(ミマニアン・ドキュメンツ)も、資料として使われているようだ。
シラキ(弁韓)を建国した稲飯命とその子孫に関する記録を、『朴氏』(日子氏[ボコ氏])の歴史として
記録しているのだ。
捏造・創作も多く見受けられるが、白村江戦争後にワイ族によって焚書されたと思われていた
『任那日本府-公文書群』が、1145年まで残っていたという事実は驚きである。
おそらく、日本書紀にその名が記されている『百済本記』、『百済記』、『百済新撰』なども、
『三国史記』編纂の際の資料として使われた『任那日本府-公文書群』の一部であろう。
ミマニアン・ドキュメンツは『三国史記』が完成すると同時に焚書されており、現存しない。
しかし、『三国史記』の内容を、日本側の古文書や伝説・神話と照らし合わせながら分析することで、
ミマニアン・ドキュメンツの内容を、あるていど復元することは可能である。
聖書学者が、さまざまな古文書や考古学資料を基にして、新約聖書-福音書の資料となった
『Q資料』の内容を解明しているように、日本の歴史学者も『古事記』、『日本書紀』、『新撰姓氏録』、
『風土記』、『三国史記』などの内容を調べることで、『M資料』の内容を解明できるであろう。
106:出土地不明
08/08/17 21:25:54 KExhxPc1
日本人と朝鮮人は、ルーツが違うよ
どう見ても
107:出土地不明
08/08/17 23:54:02 v6otPd88
石家河文化の遺跡
陶器類(深腹罐、圏足盤、鼓腹罐、大口罐、鼎、釜、瓶、杯、平底鉢、竹節豆、甑、器座、擂鉢など)
URLリンク(www.tscc.tohoku-gakuin.ac.jp)
深腹罐、圏足盤、鼓腹罐、大口罐、鼎、釜、瓶、杯、平底鉢、竹節豆、甑、器座、擂鉢
深腹罐、圏足盤、鼓腹罐、大口罐、鼎、釜、瓶、杯、平底鉢、竹節豆、甑、器座、擂鉢
深腹罐、圏足盤、鼓腹罐、大口罐、鼎、釜、瓶、杯、平底鉢、竹節豆、甑、器座、擂鉢
深腹罐、圏足盤、鼓腹罐、大口罐、鼎、釜、瓶、杯、平底鉢、竹節豆、甑、器座、擂鉢
108:出土地不明
08/08/18 00:01:26 jbIBOBNw
良渚文化(約紀元前3100年~前2200年)
陶器は、鼎・高杯・鉢・蓋などで、鉢から脂肪等を検出され、スープを作っていたと想像されます。
URLリンク(abc0120.net)
鼎・高杯・鉢・蓋
鼎・高杯・鉢・蓋
鼎・高杯・鉢・蓋
鼎・高杯・鉢・蓋
109:出土地不明
08/08/18 00:04:04 jbIBOBNw
崧澤文化(B.C.3900~B.C.3200)
上海市青浦県の東4㎞、太湖地区から発見され、面積は15万㎡です。
URLリンク(kohkosai.web.infoseek.co.jp)
崧沢遺跡
約5000年前の崧沢文化期早期(中層)では、狩猟具は少なくなり、ろ過に用いたと
思われる器(図30)や、煮炊き用と思われる鼎、こしき、釜、缶、豆、杯、鉢など
(図31)が発見されているという。
URLリンク(freett.com)
鼎、こしき、釜、缶、豆、杯、鉢
鼎、こしき、釜、缶、豆、杯、鉢
鼎、こしき、釜、缶、豆、杯、鉢
鼎、こしき、釜、缶、豆、杯、鉢
110:出土地不明
08/08/18 00:06:45 jbIBOBNw
馬家浜文化(B.C.5000~B.C.4000)
揚子江下流、太湖の周辺の、後の良渚文化と同一の地域に分布しています。
土器は紅陶が主で、縄紋がなくなり、鼎が出現しました。
URLリンク(kohkosai.web.infoseek.co.jp)
鼎が出現しました
鼎が出現しました
鼎が出現しました
鼎が出現しました
111:月光仮面
08/08/18 08:42:30 TdsZfYug
「エフタルは山岳民族か、或いは、草原民族か」 1967 L.N. Gumilyov
結局、最後に問題が残る。5-6世紀にかくも広大な広がりを見せたエフタルはどこに消えたのであろ
うか?中央アジアのエフタルはチュルクの影響下に入り、インドのエフタルはラージプート
に参入、山岳に残ったものは現在アフガンと自称している。567年のチュルクのポグロムにより、彼らは
民族として存在しなくなった。 L.N. Gumilyov
URLリンク(www.gunmaibun.org)
「中央アジアの芸術」
この時代の特徴的なのは鍔広帽。若干の研究者は、こうした帽子を5 - 6世紀に中央アジア農耕民を
征圧した遊牧民エフタルに関係するものとしている。
M. Dyyakonov
URLリンク(chikatsu.mediajoy.com)
千葉県千葉市/人形塚古墳(古墳時代 約1,400年前)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
「毛野における古墳の変化 大塚初重
観音山古墳の副葬品の中に銅製水瓶(すいびょう)がある。日本の古墳では唯一の出土例であるが、
中国北斉(ほくせい)の鮮卑族(せんぴぞく)の貴人・庫狄回洛墓(こてきかいらくぼ)出土例との比較
から、北斉から百済(くだら)へ百済から大和王権へ、さらに大和王権から毛野の観音山古墳被葬者
へという歴史的な脈絡を辿(たど)れるのかもしれない。実はこの古墳の副葬品の中には、直径二三・
三㌢の獣帯鏡が含まれているが、一九七一年に偶然に発見された韓国忠清南道公州市の武寧王陵
(ぶねいおうりょう)から出土した獣帯鏡と同笵鏡(どうはんきょう)であることを確認している。
すなわち観音山古墳の豊富な副葬品の中には、中国(北斉)と韓国(百済)、百済と倭(わ)の大和
王権とを結ぶ古代東アジアの歴史的な関係の糸が結び合っているように思われる。さらに大和王権と
毛野の首長との間にも緊密な政治的関係があったことは間違いない。観音山古墳の出土遺物の中には
五□(ふり)の銀装刀子(とうす)や金銀で飾った頭椎大刀(かぶつちのたち)や銀象嵌(ぎんぞうがん)の
竜文をもつ捩(ねじ)り環頭大刀(かんとうたち)をはじめ、奈良県藤ノ木古墳出土の馬具とも共通する
特徴を示す馬具が出土していて、観音山古墳が東国でも超一級の内容を持つ古墳であることがわかる。」
112:月光仮面
08/08/18 08:45:28 TdsZfYug
「「エフタルは山岳民族か、或いは、草原民族か」 1967 L.N. Gumilyov
婚姻制度について言及されていることが特に重要。エフタルは一妻多夫制で、兄弟で妻を共有した。こうし
た婚姻制度はチベットで定着しているが、それも、定住性チベット人の間だけであって、BC3世紀にアムド
で遊牧をしていて4世紀に鮮卑に滅ぼされる羌族にはない。チベット族がブラフマプートラ河に沿って移動
しながらパミール山系の峡谷に到着するのは晩く、5世紀を早回るものではなく、かれらは一妻多夫制を
原住民から取り入れたのであり、その逆ではない。現地人との密接な交流、混血を保つ1000年間の
共存はそれなりの結果を残したようである。エフタルの一妻多夫制とそれの広がりについては衣服と言う
民族誌学的資料も取り入れる必要がある。
中国の史家は一様に女性が一本の角をつけた毛皮の帽子を被り、その角には夫の数だけの枝がある
としている。同様の帽子はカフィルスtンの女性と、まさにエフタルの主要な集合が居住していたと推定
されるインド北西の地域において見られるということは極めて重要である。インドでは古来よりこうした帽子
は知られておらず、クシャン朝の例えばフヴィシュカ王の硬貨において見られるが、これはとりもなおさず、
パミール、ヒンズークシの山国起源のこととなり、これはエフタルがこの地で形成された民族であることを
裏付けるものである。」
URLリンク(www.gesanmedo.or.jp) ←白馬チベット族
113:月光仮面
08/08/18 08:55:56 TdsZfYug
エフタル キダラ キオン 百済 祇園 毛野 白い匈奴 狛人 つるめそ ルーペルカリア 狼僧
角隠し 花魁のかんざし 吉原・新宿の熊手 7枝刀 印欧諸族の浮気される亭主 ギデオン
一妻多夫 鵜坂神社 祇園・・・この辺がキーポイントとなろうか。
114:月光仮面
08/08/18 12:36:06 TdsZfYug
「大国エフタルの歴史的運命は驚くほど中世スイスの運命に似ている。どちらも好戦的山岳民が隣接君
主国の一時的凋落と国難に乗じて併合の機会を得ており、方やオーストリアとブルグンドに、方やペル
シャとインドに対して輝かしい勝利を収めた大国であるが、両方共、占領地の確保と成功を固めることに
は成功していない。そして、その後スイス傭兵はフランス王の親衛隊として耀き、エフタル戦士は崩壊した
グプタ王朝敗残兵の討伐を助けラージプートの戦列の中で拡大を見た。」1967 L.N. Gumilyov
115:月光仮面
08/08/18 14:42:50 TdsZfYug
「クシャン帝国を形成したが、その民族名は民衆の記憶に残らなかった民族とは異なり、エフタルはトカラ
同様地元の民族であるとする現地の慣習がある。私の知人のアリフベク・ヒイシャロフ、44才、シュグナン
族、はイスマイル僧に学んだ人物であるが、若い時に読んだ原稿について言及した。その一つで出版され
たものを見つけtのだがTa'rikh Nama-i-Haratといった。その中でヘラトの基礎作りについての伝承があり、
あるときフシャングの子タフムラシなるものがカンダハル近辺に住んでいた同民族を抑圧したという。この
ときにその民族5,000人はカブールの方に出て行き、そこに住み着いたのであるが、気候が合わず、
グールの国に移動したが、そこからさらにアウベと言うところに移動し、そこで紛争を起こし、戦争を始める
にいたり、彼らの一部はクシャン・オルヴィアン、すなわち、高クシャンと言う場所に出て行ったとされる。
このとき留まった方の指導者はHAYATLE(日本語読みにすれば隼人/疾風と読める)であった。出て行っ
たものと残ったものとの戦いの話は省略する。大事なことはそれではなく、HAYATLEという言葉に
「Haytal」及び「Heptal」という民族名を認めないわけにはならないことである。」1967 L.N. Gumilyov
隼人とは鷹匠か。
116:月光仮面
08/08/18 15:05:08 TdsZfYug
「エフタルの社会制度についてはこのプロコピイが述べているが、「彼らの生活は他のウンヌとはにてお
らず、彼らのように畜生同然ではなく、一人の帝王の統治下に属し、行き届いた市民社会を形成し、
同族内、及び異民族との間においてはローマ人はおろかどの国にも劣らぬ公正を遵守している。」北史
は加えて「王権は相続されることなく、身内で最も能力のあるものがこれを受け継ぐ。刑罰は極度に厳し
い。盗みの場合は量刑はなく斬首、盗品の賠償は10倍。」「都は帝王の宮殿あるのみ」「10里(5km)四方
の贅沢な城である。」1967 L.N. Gumilyov ・・・秦の法家の源流か。
117:月光仮面
08/08/18 15:11:05 TdsZfYug
ところがエフタルは群馬県に出現するのだ。!!!
URLリンク(www.gunmaibun.org)
「器台・足を別個体とする大形の全身像である。「鷹匠(たかしょう)埴輪」と呼ばれているが、すでにこの
時代、「鷹匠」として専業職化していたかどうかは明らかではない。手首に手甲(てっこう)をはめ、腰に
大刀と鞆(とも)をつり下げ、頭に鍔広帽(つばひろぼう)を被っている姿は、狩猟装備をした貴人を思わ
せる。「鷹を使う盛装の男子」とする方が妥当かもしれない。涼しげな目、小さく締まった口元、鼻筋が
通り、端正で気品に満ちた顔立ちをもつ。
髪は左・右に分けて「下げ美豆良(みずら)」に結い、三重に巻いた飾りひもでとめ胸元にたらす。装飾
品は、美豆良の下に耳環がのぞき、胸元には大玉の首飾りが見られる。腕は両方とも前方にのばし、
左上腕には内側を向いた鷹を止めている。尾羽の付け根には儀礼を目的とした鈴を付けており、これも
一つの権威の象徴と考えられる。鞆の後ろに下げられた半楕(だ)円球の袋は、鷹の餌袋かと思われる。
鷹を使う男子の埴輪は数例知られるに過ぎず、しかも群馬県に多い。中でもこれは最も全高が高い。」
聖徳太子も美豆良だからエフタルだ。
118:月光仮面
08/08/18 15:17:05 TdsZfYug
こうした関東の警備兵は杖刀人と呼ばれたようである。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
119:月光仮面
08/08/18 15:24:42 TdsZfYug
天智、天武、額田王から現代に到るまで日本人は一夫/婦-多妻/夫制度と一夫一妻制度を昼と
夜で使い分けている。特に永田町、神楽坂等で多いようである(w これは祇園から来るのではなかろ
うか。エフタルの遺産であろう。
120:月光仮面
08/08/18 16:12:56 TdsZfYug
スレリンク(min板)menu23-24
ヒッタイト、ミディアナイトの神殿売春の風習にはかのモーセの苦労したらしい。歴史的に
そうとうすれた民族である中近東系のイスラエルですら大問題となった神殿売春慣習とは
国際的に見て極めて異常なものであったようである。山上憶良のようなグッド・パパと言うのが
やはり国際的には良識人なんだろう。ミノさんみたいにあちこち梯子するのはエフタル的なのかな。
いずれにせよユダヤ教が生まれる前のこうしたいきさつは始めにヒクソスありきの感が否めないの
である。
121:出土地不明
08/08/18 16:39:14 czG4VijP
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)
122:月光仮面
08/08/18 17:17:08 TdsZfYug
カラスク文化 (ロシアwiki)
カラスク文化-南シベリア・カザフスタン青銅期(前2000年紀末-前1000年紀始)考古学的文化。
ノボシビリスク州カラスク川に由来。アラル海からエニセイ上流に広がる。アンドローノヴォ文化の影響下
で発展。後、タガール文化と交替する。
生業 経済は主に農業牧畜。中国との貿易を維持する。住居は主に竪穴住居。
文化
死者は箱式石棺墓に埋葬し、盛土で覆う。
出土品は短剣、ナイフ、水掻型ペンダント URLリンク(im8-tub.yandex.net)
ネックレス、バックル、ボタン
出土埋葬遺跡は2000箇所以上。
カラスク時代は騎乗の始まる時代。
人類学的特徴
モンゴロイド遊牧民であるが、Gumilyov説では多くの地元丁霊との混血を受けていると。
言語はケト語と近縁。
中国北部が原郷。別の説ではカラスク人は南の中央アジア出自で、理由はその墓にパミールフェルガナ
系白人
URLリンク(upload.wikimedia.org)
頭骨があるからとする。B. O. Dolgikh, A. P. Dulzon, N. L. Chlenova, E. A. Novgorodova, M. D. Khlobystin
等はカラスク人をケト人の祖先としている。
123:月光仮面
08/08/18 17:19:52 TdsZfYug
秦氏がイラン人であったり、ユダヤ人であったりする理由はこうした白人系とベッドを共にしてきたという
ことで、それが秦氏の秘密結社的側面の一つではなかろうか。
124:出土地不明
08/08/18 20:30:52 KmtZ47nv
韓国人は今でも、狩猟民族としての性質を残しているようだ。やたらと興奮して動物を殺し、
その血を公の場で撒き散らして自分たちの感情をアピールする。
こういった行動は、文明人というよりも、古代の原始的狩猟民の行動ですね(w
YOUTUBE◆雉を殺して反日をアピールする韓国人たち
URLリンク(jp.youtube.com)
■ワイ族-朝鮮・韓国人の先祖である狩猟民族
古代カラ半島東北部に居住していた北方アジア系=狩猟民族。もともとはシベリアの山岳部や森林地帯に
住んでいたツングース系民族の一派であり、現在の朝鮮民族の直系の先祖。
ワイ族は、古代の半島南部に住んでいた倭人系民族のシラキ人、ミマナ人、クタラ人などと敵対関係にあり、
倭人系民族と領土紛争を繰り返していた。
ワイ族は3世紀初頭から、まずシラキを侵略し、シラキ領北部にケリン(鶏林)を建てた。
3世紀後半にはシラキ南部にまで軍事侵攻し、4世紀前半にはカラ半島東南部を完全に乗っ取った。
ケリンの軍事的圧迫を受けたシラキは、3世紀後半には領土が西方に移動し、国号をミマナに改めた。
その後、ケリンは、国号を『新羅(シンラ)』に変えた。
新羅(ケリン)は、半島東南部を拠点にして、西側に隣接する日本領=ミマナ(馬韓)に対して
侵略を何度も仕掛け、6世紀前半に、ついにミマナを滅ぼし、新羅に併合した。
7世紀の『白村江戦争』では日本と百済を相手に戦争し、百済を滅ぼして、半島の南北地域の大部分を
支配下においた。
125:月光仮面
08/08/19 11:22:16 t6ZkdYrR
L.N. Gumilyovに依れば北史に「エフタル国には多くの黄金の仏教寺院、仏塔があった」との記述がある
と。」また、エフタル国「[エフタル]王は四十歩四方の大きな毛織のテントに居り、まわりはフェルトを壁面
として張りめぐらしている。王は錦衣をつけ、四つの金の鳳凰をかたどった<牀>脚をつけた金の椅子
<金牀>に坐っていた。」といった情報もある。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)
渡来人研究会
URLリンク(www.asahi-net.or.jp)
ここでは推古、斎明朝における都貨羅人と舎衛人の豊富な記述があるが、渡来ルートについては
URLリンク(dsr.nii.ac.jp)
こうしたルートが考えられる。
126:月光仮面
08/08/19 11:23:20 t6ZkdYrR
が、「一方、吐谷渾は中国の華南地方とも交易の媒介をおこなっていた。南朝側の記録には、吐谷渾は
「河南国」(河南=兆水の西、甘粛省臨夏県の地方)の名で登場するが、その役割はやはり西域諸国との
中継者・案内者だったようである。『梁書』の滑国(エフタル)に関する記述には「其言語待河南人訳、
然後通」とあり、吐谷渾人がエフタルと中国の間の通訳をしていたこと、『南斉書』内内(ぜいぜい)虜伝には
「内内常由河南道而抵益州」とあり、内内(柔然、蠕蠕)が四川盆地に向かう場合は常時、吐谷渾領の
青海ルートを経由していたことが記されている。」
URLリンク(dsr.nii.ac.jp)
といった情報や隋書流求国伝において「隋の煬帝は、海に入り異民族を求めさせた。命を受けたものは
流求国に到ったが、言葉が通じず、一人をさらって帰った。翌年、再び使者を派遣して、流求を服属させ
ようとしたが、流求はこれに従わなかったので、その国の(麻)布製のよろいを奪って帰った。ちょうど
その時、倭国の使者(遣隋使)が来ていて、これを『夷邪久(イヤキウ)国の人が使うものである。』と
語った。
煬帝は兵を義安郡(広東省潮安県)から派遣し、これを攻撃させた。高華嶼に至り、また東行二日で
クヘキ嶼に至り、更に一日で流求に至る。南方諸国の人を従軍させていたが、その中で崑崙人が流求の
言葉を非常に良く理解した。」
URLリンク(orange.zero.jp)
ということはエフタルが本土のみならず琉球にも到来していたことを意味し、隼人の起源がエフタルでは
ないかとの観を深める。
127:月光仮面
08/08/19 12:02:25 t6ZkdYrR
毛野氏は崇神天皇の長子である豊城入彦命の子孫を称する。豊城入彦の孫の彦狭嶋王が東山道15国
の都督となったこと、その孫の荒田別、巫別が百済に派遣されたこと、上毛野田道が蝦夷を征討したこと
などが『日本書紀』に見えるが伝説と見られている。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
近江毛野
「継体21年(527年)、新羅によって奪われた南加羅・喙己呑などの諸国を奪還すべく任那への赴任を命じ
られる。しかし、その途中に筑紫国造の磐井が新羅と組んで毛野の進軍を妨害しようとしたため、渡海で
きなかった。このとき、磐井は毛野に対して「かつて同じ飯を食った仲間がなぜ命令するか」(昔は吾が伴と
して、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき)と詰問したとされるが、近江の豪族・毛野と筑紫の豪族・
磐井との間に、それ以前に交流があったかどうかは不明である。」
URLリンク(ja.wikipedia.org)
毛野氏、近江毛野氏、磐井、隼人などはエフタルであろう。また、斎明天皇の外人饗応には異常なものが
ある。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
斎明天皇の属する継体蘇我王朝の系図
URLリンク(upload.wikimedia.org)
これ自体エフタルの系図ではなかろうか。
128:月光仮面
08/08/19 13:04:29 t6ZkdYrR
しかし、C.E. Bosworth"はペルシャ語地名をKhwar"「太陽」と"-razm"「地」から成るもので、「日出る国」を
意味するとしている。もっと正確に言うと、このイラン語成分はkhwar/kharが「低地」、zam/zemは「土、
陸地」である。Khwarezmというのは(最西端のカスピ海を除いた)中央アジアにおいてアラル海南岸アム
ダリア三角州にある。khwar/khar/khor/horといった各種変形語はペルシャ湾において干潟、沼沢地、
潮汐湾を意味している(例:Khor Musa, Khor Abdallah, Hor al-Azim, Hor al-Himar, etc.)。
URLリンク(en.wikipedia.org)
「元々小国だった日本が倭国を併合した」
URLリンク(ja.wikipedia.org)
神武は日本(干潟、日の隅の本、熊本・日向)と言う小国の王(エフタル・隼人・聖徳太子のペルシャ語で
はこうなる)であったが、倭国を併合したということだ。
129:月光仮面
08/08/19 15:55:12 t6ZkdYrR
↑しかし、景行-仲哀、磐井、隼人の反乱や征伐の歴史は神武東遷とか日本国王説がありえるはずはない
ことを示し、考古学的に青銅器・古墳の分布からも日本の建国は畿内が中心であったことは歴然として
いる。B.C.627年秦がエフタルの滑国を討って、これを滅ぼしたコウ山の戦いと言うのがあり、秦氏とエフ
タルの関係も複雑である。有明湾の夕日であるとか、高千穂の峯であるとかは、歴史の動きとは関係が
ないだろうが、アラル海の夕日も同様に太陽崇拝の古い記憶によるものかもしれない。
130:月光仮面
08/08/19 16:10:03 t6ZkdYrR
他方、道昭「653年(白雉4)入唐(につとう)学問僧として遣唐使にしたがい唐にわたる。玄奘(げんじよう)を
師として業をうけた。玄奘からとくに愛され,同房に住み,禅を習い,悟るところが多かった。661年(斉明7)
帰朝にあたり,玄奘所持の舎利・経論を授けられている。」・・・パミール経由インドを旅した玄奘から同室で
現地事情などを聞いており、当然ながら斎明天皇などはエフタルの原郷がアラル海の三角州にあった
程度のことは聞いており、渡来するトカラ、舎衛(インド)人もそうした情報を裏付けたことであろう。
こうした当時としては「超現代的」情報が建国神話体系に組み込まれていったのかもしれない。
131:出土地不明
08/08/19 23:12:58 KuawGMEu
ちょっと電波出しすぎじゃないの?w
132:出土地不明
08/08/20 03:56:55 8g/HaPiZ
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで中国土器はない。その影響土器もない。
中国金属器もない。朝鮮半島も楽浪開始頃まで中国土器はない。
弥生人が支那から朝鮮半島を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは中国土器か朝鮮無文土器のはず。
しかし、彼らが最古の水田遺構と同時に伝えたのは中国土器でも朝鮮無文土器でもなく、
口縁部に刻目を持つ当時の沿海州中南部あたりが故郷と見られる土器。
輸入したと見られる朝鮮無文土器は少量見られ、その影響を受けた弥生土器も見られるが、
朝鮮無文土器そのものを生産していた集落遺跡がない。
弥生人は沿海州中南部の沿岸部にいた口縁部に刻目のある土器文化を持った
海洋的性格の強い北方蒙古人種。
沿海州から船で朝鮮半島東岸を抜けてくる最中に水田稲作を知って
九州北部に上陸し最古の水田遺跡とともに刻目突帯文土器を残したのである。
133:月光仮面
08/08/20 08:02:17 9roUPocI
ちょっとね、んだ、んだ(w
邪馬台国/大和朝廷は魏/隋が馬韓・辰韓/琉球を侵略する緊張した、開戦直前の国際環境下に
全体戦争の軍事偵察任務を帯びた魏/隋使節団を受け入れるに当たり、開戦の際の敵水軍を長門で
迎え撃つシナリオを最悪と認識、又、出雲の危険分子との接触も回避した上、敵水軍を有明海の泥沼で
殲滅し、最悪でも阿蘇周辺、背振山系周辺の山岳ゲリラ戦で討ち取る作戦で使節団を受け入れ、これに
基本的に本隊を有明海方面に誘導すべく意図的に情報提供をした。このことは遠賀川河口での倭人伝
の戸数等差が克明なことが本来の偵察使命を物語り、逆に倭国側はそこで潮待ち、シーレーンの軍事
警戒レベルを引き上げ、船団は沖合いの対馬海流に乗って周防方面に向かい、出雲を迂回して隠岐島
から丹波・・・投馬に向かう。
134:月光仮面
08/08/20 08:07:23 9roUPocI
こうなると、帰路は四国北岸から宇佐経由遠賀川を下るのがいいかもね。斎明天皇のパーティーは北方
からの侵攻防止と、近隣諸国の軍事情報取得と同盟関係の強化を狙ったものと考えれば納得が行く。
135:月光仮面
08/08/20 09:18:50 9roUPocI
>>125-126
千光寺 玉の岩
『往古この岩上に如意宝珠あり、夜ごとに異光遥かに海上を照らす、しかるに異国人来たりてこの山に
登り、寺僧に向かって、我に金あり、汝これを与えるにより、この大石を我に与えよと、寺僧それに答え、
売ることはできぬがこの大石を買いて何にするかとあやしむに、異国人は、この僧が岩上に宝石のある
を知らぬことを確かめ、心中欣び、ひそかにこの大石に登り美玉を奪い去りたり』
URLリンク(www.senkouji.jp)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
カイラス山(かいらすさん)(チベット文字:Gang Rinpoche, ワイリー方式:Gangs Rin-po-che; 蔵文?音:
カン・リンポチェ)はチベット高原西部(ンガリ)に位置する独立峰。中国名は岡仁波其峰(、ヒンディー語名
はカイラーシャー・パルヴァタ。標高6656mの未踏峰(信仰の山であるため、登頂許可は下りない。
ただし、修行僧でもあり、吟遊詩人でもあるミラレパが山頂に達したという伝説がある)。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
エフタル勢力圏↓から考えればこの異国人がエフタルでない方がおかしい。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
136:月光仮面
08/08/20 10:19:10 9roUPocI
「推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)『古事記』
では戊子年3月15日)は、第33代の天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日) - 推古天皇36年
3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。初の女帝である。 額田部皇女(ぬかたべのひめ
みこ)。 彼女が最初の天皇号を名乗ったと言う説と、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有る。
推古が最初なら、厳密な意味での日本の初代天皇は女性である。 『古事記』ではこの天皇までを記して
いる。」「推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力のバランスをとり、豪族の反感を買わぬ
ように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対し
ても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がなかった。ずっと後のことではあるが、推古天皇32年
(624年)、馬子が葛城県(馬子の本居(ウブスナ)とされる)の支配権を望んだ時、女帝は、「あなたは私の
叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世の人には私が愚かな女だと
いわれ、一方であなたも、不忠だと謗られよう」と言って、この要求を拒絶したという。」日本の政治家は
この初代天皇に恥じない心構えを持ってもらいたい。
137:出土地不明
08/08/20 12:22:17 BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。
弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。
しかし、彼らが最古の水田遺構と同時に伝えたのは貯蔵穴ではなく、
中国南部が起源である高床建築。
支那から朝鮮半島を抜けてくる最中に口縁部に刻目のある土器文化を知って
九州北部に上陸し最古の水田遺跡とともに刻目突帯文土器を残したのである。
138:出土地不明
08/08/20 16:11:39 KpQshhcW
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)
139:出土地不明
08/08/20 23:57:31 j9NnwBwS
>>137
>弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
>彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。
大間違い、
移住先の文化と難民の文化の取捨選択だから特定の文化が伝わるべきという発想は
勝手な妄想。
140:出土地不明
08/08/21 01:29:18 T1h0NxdQ
北方式高床式倉庫とともに貯蔵穴も伝わっていたような?
141:出土地不明
08/08/21 10:52:05 /MrKuDo3
>>139
>132
>>140
>北方式高床式倉庫
いつの時代のどの遺跡の話?
142:出土地不明
08/08/21 12:07:14 sbfqRGHD
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
143:出土地不明
08/08/21 12:48:09 /MrKuDo3
北方のどの遺跡から来たのかを聞いているんだが?
144:出土地不明
08/08/21 12:50:52 /MrKuDo3
というか貯蔵穴なんて
縄文前期のものすら発見されてるんだがw
145:出土地不明
08/08/21 16:19:01 W3fCOcmQ
137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。
弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。
146:全然顔が違うじゃん?
08/08/21 18:07:18 FvE7fLUE
日本人の二重瞼発生率はアイヌ97%・沖縄84%北海道73%・信越70%・京都67%・奈良58%(日本の全地域中最低)
韓国は42%
URLリンク(k_matsunaga.at.infoseek.co.jp)
各国の平均顔、左から中国・韓国・タイ
URLリンク(photo-media.hanmail.net)
・目が一番小さい、顎の横幅が大きいことが韓国人の特徴
・韓国人は世界一目が小さい
・韓国人は東洋人の中でも目が細くて顔が平ら
・南方(旧)モンゴロイドは北方(新)モンゴロイドより目が大きく二重瞼が多い
・新モンゴロイド発生地は極寒なため平らな顔、小さな目、一重瞼、低い鼻が有利だった
URLリンク(media.daum.net)
韓国人:Big wide face+square on bottom、small eyes、small nose
URLリンク(photoimg.enjoyjapan.naver.com)
147:出土地不明
08/08/21 18:47:42 W3fCOcmQ
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
148:月光仮面
08/08/22 11:20:56 HLbPPBF0
>>67 >>73 >>74 ロシア科学アカデミーシベリア支部考古学民族学研究所古代金属考古学部学位論文
に言及されるBhundo文化、これは江原道中島を中心とする中島文化と解釈される。
「東ワイは前150年から紀元400年頃まで朝鮮半島北東部を占めていた。(位置は下記[Dongokjeo(東
沃沮) Dongye(東ワイ) Ye (ワイ)Lelang (楽浪)Daifang(帯方) Baekje(伯濟)])。これは現代の北朝鮮
咸鏡南道、江原道、韓国の江原道。」
URLリンク(upload.wikimedia.org)
その中心は元山市不耐ワイ城、日本神話のフツノミタマ、フツ主、ホトタタライスキヨリヒメ、倭迹迹日百
襲姫のホト(ワイ刀)参照。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
149:月光仮面
08/08/22 11:26:19 HLbPPBF0
「正始六年、樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東ワイ屬句麗、興師伐之、不耐侯等舉邑降。 其八年、
詣闕朝貢、詔更拜不耐ワイ王。居處雜在民間、四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調、供給役使、遇之如民。
正始六年(245年)、楽浪郡太守劉茂と帯方郡太守弓遵は領東で高句麗に従属していたワイを討伐し
た。不耐侯らは邑(国)を挙げて降伏した。 正始八年(247年)、王宮に詣でて朝貢、不耐ワイ王は再び詔
を拝する。(王の)居所は百姓らと雑居である。四季ごとに郡に詣でて朝謁する。二郡(楽浪・帯方)に軍征
が起れば賦調として使役を供し、これを遇するに臣民の如し。 」この結果高句麗から独立、魏の傭兵の
立場を活用九州北部の行政機関に入り込み、九州南部に隼人として入植。大和葛城には本国同様金剛山
周辺に橋頭堡を築き邪馬台国を支えたのであろう。
150:出土地不明
08/08/22 11:51:45 jwO1HRQe
>>149
書いてないことは書くな。
お前の妄想はどうでも良い。
151:出土地不明
08/08/22 12:19:44 YBJ1oxnq
>北方式高床式倉庫
は北方のどの遺跡から来たの?
日本の高床式建築より古いアムールの教えてエロい人。
152:出土地不明
08/08/22 12:57:54 QZkRaoQM
137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。
弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。
153:出土地不明
08/08/22 13:27:09 YBJ1oxnq
宮本長二郎・東京国立文化財研究所国際文化財保存修復協力センター長(建築学)の話。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。ただし、日本の高床建物は
祭祀(さいし)目的とみられ、住居など実用目的だった中国とは異なる。
URLリンク(inoues.net)
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。
154:月光仮面
08/08/22 15:26:49 HLbPPBF0
>>148 スマソ。Chundo/中島だ。漏れもヨンサマに似ているとよく言われるが、あまり、冬のソナタを
見ていなかった。やはり漏れとも関係あったんだな。しかし、いつも寝る前にやってたようだったな。
155:出土地不明
08/08/22 18:57:55 FlbPcf/g
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
156:出土地不明
08/08/23 11:08:35 Egt9oA3R
日本最古の貯蔵穴発見例は縄文前期。
157:出土地不明
08/08/23 11:26:15 Egt9oA3R
>北方式高床式倉庫
は北方のどの遺跡から来たの?
教えてアムールw
158:月光仮面
08/08/23 15:03:44 wZqyz9ns
>>148-149
この金剛山周辺の中島文化、明確に墳墓としての箱式石棺墓は確認されておらず、沃沮である可能性が
高いものの、ワイも一部に含有したもの。沃沮は沿海州において既にオンドルを使用し、その鉄製短剣も
遼寧銅剣のように柄の分離するタイプ。葛城では役の行者と韓国人が待遇をめぐって争う話があるが
どう見ても現在の在日にそっくりだ。おそらく江原道中島文化の沃沮はその後大伽耶、新羅を経て朝鮮人
となるのであろう。しかし、支配階級の武人であったワイとか、養蚕技術者等については日本側がスカウト
可能性はあろう。又、難民のような連中が入ってきたこともありえる。さもないと景行-仲哀があれほど
筑紫、熊襲征伐にてこずる必要性の根拠がない。
159:出土地不明
08/08/23 15:21:14 EUJeF4n3
137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。
弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。
160:月光仮面
08/08/24 10:55:14 JYIfnJkg
建興元年(313)遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると、ひとり朝鮮半島南半に孤立した
帯方郡は雪崩をうって瓦解。その民や財貨、技術、文化は、近接する馬韓・弁韓・辰韓によって広く吸収
され、次の時代の百済・伽耶・新羅という新しい国々を育む豊かな土壌となった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
こうなると >>149 不耐侯らは倭国に亡命しないことには高句麗によって処刑される。「平壌市貞柏里3号
古墳から出土した楽浪Ⅴ期の鏡・画文帯同向式神獣鏡と同型式の鏡」をもった集団は阿波鳴門から、
安房、毛野へと入る。これが国譲り神話のフツ主だとすれば、狗奴国とは出雲をも含んでいたことになる。
161:月光仮面
08/08/24 11:55:43 JYIfnJkg
後漢書六夷伝ワイ(Ye)
「麻の栽培・養蚕・綿布の製造を知っている。星宿(星座)の観察に明るく、その年の収穫の多寡を予知
する。毎年、十月に天を祭り、昼夜に渡って酒を飲んで歌い踊り、これを舞天と呼んでいる。また虎を祀っ
て神としている。邑落に互いに侵犯する者があれば、直ちに双方を罰し、生口(奴隷)・牛馬を取り立て、
これを責禍と呼んでいる。人を殺した者は死を以て償う。略奪・窃盗は少ない。徒歩の戦闘に優れ、長さ
三丈の矛を作り、時には数人でともにこれを持つ。楽浪の檀弓はその地に産す。また文豹(斑模様の豹)
が多く、果下馬がおり、海には班魚を産し、使者は来貢の際に皆これを献じた。]
これはロシア研究者のエフタルの定義と合致している。もし、ロシア学者が認めているHAYATLEとか
HAYTALという部族称号が正しいのならば、これは磯城県主ハエ(延)に通じる。これは邪馬台国建国
当時の高霊帝と関係が深い。出雲日御碕伝承ではこのころ月支国ヒコハニの来襲があったという。
エフタルは月支国の一員として大夏で活躍している。馬韓目支国とは月支国が冒頓単于に分断され
その一部が残存したものであろう。
162:月光仮面
08/08/24 12:04:19 JYIfnJkg
「『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり
くしたま にぎはやひ の みこと)といいアメノオシホミミの子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)
と同一の神であるとしている。『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、
天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照の系)とし両者を別とする。」
URLリンク(ja.wikipedia.org)
武人Ye族は物部の祖であるl
163:出土地不明
08/08/24 12:53:13 qKI7u7Ig
神武天皇は、やはり紀元前の天皇だね。
第06代天皇=孝安天皇
(在位:AD25年~75年2月27日=50年)
第07代天皇=孝霊天皇
(在位:AD76年~113年=37年)
第08代天皇=孝元天皇
(在位:114年~142年10月14日=28年)
第09代天皇=開化天皇
(在位:142年~172年4月9日=30年)
第10代天皇=崇神天皇
(在位:173年~207年1月9日=34年)
第11代天皇=推仁天皇
(在位:207年~256年7月14日=49年)
第12代天皇=景行天皇
(在位:257年~286年12月24日=29年)
第13代天皇=成務天皇
(在位:287年~316年7月30日=29年)
第14代天皇=仲哀天皇
(在位:318年~322年3月8日=4年)
応神天皇の母=神功皇后(じんぐう皇后)
(在位:323年~357年4月17日=34年)
(空位・・・・・1年)
第15代天皇=応神天皇(おうじん天皇)
(在位:358年1月1日~378年2月15日=20年)
(空位・・・・・3年)
第16代天皇=仁徳天皇(にんとく天皇)
(在位:381年1月3日~424年1月16日=43年)
第17代天皇=履中天皇(りちゅう天皇)
(在位:425年2月1日~428年3月15日=2年半)
(空位・・・・・1年)
第18代天皇=反正天皇(はんぜい天皇)
(在位:429年1月2日~431年1月23日=2年)
(空位・・・・・2年)
第19代天皇=允恭天皇(いんぎょう天皇)
(在位:433年12月~454年1月14日=20年半)
第20代天皇=安康天皇(あんこう天皇)
(在位:454年12月14日~456年8月9日=1年半)
<生没年 ?年生~456年没>
164:月光仮面
08/08/24 13:22:26 JYIfnJkg
>>161 養蚕だけはびっくりするが、沿海州・黒龍江省(スイフンヘ)でオンドルを使用しており、江原道に
入るとシベリアおろしも、赤城おろし程度になるのであろう。日本が養蚕業招致に務めたクレというのは
句麗/高霊であり、阿蘇の火抱き女伝承を考えると、先ずは温暖な肥後あたりで生産を始めたのであろう。
165:出土地不明
08/08/24 14:54:31 qKI7u7Ig
新羅(ケリン)は、やはり原始的な国だったな。
建国王=キム・アルジの誕生伝説の中に、ケリンがシラキを侵略した証拠がある。
なぜ、新羅の役人たちは、全員が倭人だったのか?
ケリン族は漢字の読み書きができなかったから、征服後も倭人の役人を
そのまま使うしかなかったわけだ。
新羅の古い記録には捏造が多いが、それでも、所々に日本語の証跡が見える。
貴族階級を意味する『真骨』の読み方は、「ジンピョ」ではなく、「マホネ」だろう。
マホネは日本語だよね?
166:月光仮面
08/08/24 16:08:21 JYIfnJkg
>>113
ロシアにおけるポリツェ文化の弓に対する軍事的評価から
「ポリツェ(邑婁)族の軍事制度はスキタイと同様、全民族が軍隊、つまり、成人男子は全員戦闘員。氏族
社会構造と軍事組織構造は一致しており、族長は指揮官であった。軍隊の内容はまだ不明。居住地から
は少々馬の骨も出土するが、騎馬隊はなく、歩兵が主力。主要兵器は弓矢。接近戦では小刀、短剣を
使用。初期鉄器時代、金属鎧には出番はなく、弓兵、槍兵の支障にならない軽い革・骨の甲冑が使用さ
れた。重い金属製甲冑が当地に全面的に登場するのははるか後の西暦紀元の頃。ポリツェ族に最も似た
装備が出土するのは朝鮮半島とスキタイである。これはポリツェ族が沿海州、日本、北朝鮮との密接な
触を保ち、その地に浸透したことを裏付ける。」同じくポリツェ族の末裔である女真武人の復元図。
URLリンク(www.vzmakh.ru)
167:月光仮面
08/08/24 16:13:29 JYIfnJkg
神武天皇が弓を持つのはおそらくこの世界最古で最強の複合弓を発明したポリツェ族の誇りを
表すものであろう。しかしながら、仏教による殺生の禁忌、鉄砲による軍事革命により、世紀産業の
裾野を担った民族は祇園の「つるめそ」にまで落とされてしまった。
168:月光仮面
08/08/24 16:17:03 JYIfnJkg
ようするに物部などのYeランクと神武はメジャーと高校野球程度の差があるのだ。エフタルは皇族に
は上がったもののその出自は傭兵なのだ。
169:出土地不明
08/08/24 17:29:28 dwkVzMki
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
170:出土地不明
08/08/24 17:49:16 dwkVzMki
>>166
ポリツェ文化人は弥生開始よりも数百年あとに登場する集団で
口縁部に刻目のある土器文化を持っていなかったから弥生人ではない。
弥生人はポリツェ文化よりも数百年以上前に沿海州南部あたりにあった
口縁部に刻目のある土器文化を持ったシニガイ文化人である。
171:出土地不明
08/08/24 23:35:27 lwUhb3Fv
>>これって他人の空似かな!!この紋様は朝鮮半島からは出て来ません。
日本の銅鐸のルーツ? ベトナム・雲南地方の銅鼓、貯貝器の模様(P35,38)
逆S字、のこぎり形、流水形、舳先の立ち上がった太陽の舟、頭に鳥羽を付けた
人物、等々器形は全く違うが模様はうりふたつ逆S字は「隼人の盾」の模様と同じ。
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)
淀江町角田遺跡
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
珍敷塚古墳
URLリンク(blog.livedoor.jp)
隼人の盾
URLリンク(www.kazuart.com)
172:出土地不明
08/08/24 23:36:39 lwUhb3Fv
日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土 [02/09]
URLリンク(sawyer.exblog.jp)
日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に
発展したというのが定説だが、朝鮮の鐸は遊牧系の鐸で日本の鐸とは
宗教感、使用目的がまるで違う。
張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると
指摘し模様の表現方法も類似している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、
発掘結果をめぐる今後の議論が注目される。
173:出土地不明
08/08/24 23:39:35 lwUhb3Fv
>170,171
瓜二つの紋様は決して鳥がくわえて、飛んで来たのじゃ無いからね。
174:出土地不明
08/08/24 23:51:14 Gw+ahHcu
>銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の鐸がこのほど出土
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性がある
青磁どころか灰陶もなけりゃ印文陶もないし、弥生土器の器形に鐸もない。
だいたい鼎の一つくらい伝えろや、このスットボケ南京博物院が(嘲笑)
175:出土地不明
08/08/24 23:52:44 Gw+ahHcu
>>171
だったら何で銅鼓、貯貝器という器種自体が真っ先に伝わらんのだ。
激アホだろおまえ。
つか、長江江南広鼻ブラックの台湾ウホウホ類人猿だろおまえw
176:出土地不明
08/08/25 00:07:49 WiMjSZIh
137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。
弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。
177:出土地不明
08/08/25 00:15:32 sr2voa6c
>>174>>175
じゃ瓜二つの紋様は鳥がくわえて飛んで来たのかね??答えてみろ。
178:出土地不明
08/08/25 00:25:46 WiMjSZIh
逆S字なんか世界中に見られるだろがアホ。
そういう事は雷文、トウテツ文、龍文、鳳凰文の一つくらい
伝えてから言えよ詐欺師。
179:出土地不明
08/08/25 00:26:55 WiMjSZIh
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)
180:出土地不明
08/08/25 00:39:35 3M49n4Uu
>>178
一部を取り上げて否定しても駄目だぞ、全体的に一致点が多すぎるだろ
これらは偶然の一致か?鋸歯紋、鋸歯紋の内部の斜線、流水紋、波紋、
窓枠様の構成等々、頭に羽の羽人像、太陽、船先の鳥(イビス神)
これらは誰が伝えたって言うんだよ。答えてみろ!
>>179 馬鹿の一つ覚えみたいに同じ文章コピペすな。
181:出土地不明
08/08/25 02:31:09 H/Wr7mCv
>これは同じ水軍人物像だよ!!
熊本・チブサン古墳「冠を被った人物像」
URLリンク(www.pref.kumamoto.jp)
呉越時代・臨し出土「水軍戦闘図」
URLリンク(img.blogs.yahoo.co.jp)
182:出土地不明
08/08/25 02:44:04 S19+KQLm
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
183:出土地不明
08/08/25 02:58:44 R4EwDNsj
日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土 [02/09]
URLリンク(sawyer.exblog.jp)
日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に
発展したというのが定説だが、朝鮮の鐸は遊牧系の鐸で日本の鐸とは
宗教感、使用目的がまるで違う。
張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると
指摘し模様の表現方法も類似している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、
発掘結果をめぐる今後の議論が注目される。
184:出土地不明
08/08/25 03:06:12 R4EwDNsj
>>これって他人の空似かな!!この紋様は朝鮮半島からは出て来ません。
日本の銅鐸のルーツ? ベトナム・雲南地方の銅鼓、貯貝器の模様(P35,38)
逆S字、のこぎり形、流水形、舳先の立ち上がった太陽の舟、頭に鳥羽を付けた
人物、等々器形は全く違うが模様はうりふたつ逆S字は「隼人の盾」の模様と同じ。
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)
淀江町角田遺跡
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
珍敷塚古墳
URLリンク(blog.livedoor.jp)
隼人の盾
URLリンク(www.kazuart.com)
185:出土地不明
08/08/25 03:13:47 S19+KQLm
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
186:出土地不明
08/08/25 03:53:59 S19+KQLm
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
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