08/08/24 23:35:27 lwUhb3Fv
>>これって他人の空似かな!!この紋様は朝鮮半島からは出て来ません。
日本の銅鐸のルーツ? ベトナム・雲南地方の銅鼓、貯貝器の模様(P35,38)
逆S字、のこぎり形、流水形、舳先の立ち上がった太陽の舟、頭に鳥羽を付けた
人物、等々器形は全く違うが模様はうりふたつ逆S字は「隼人の盾」の模様と同じ。
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)
淀江町角田遺跡
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
珍敷塚古墳
URLリンク(blog.livedoor.jp)
隼人の盾
URLリンク(www.kazuart.com)
172:出土地不明
08/08/24 23:36:39 lwUhb3Fv
日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土 [02/09]
URLリンク(sawyer.exblog.jp)
日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に
発展したというのが定説だが、朝鮮の鐸は遊牧系の鐸で日本の鐸とは
宗教感、使用目的がまるで違う。
張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると
指摘し模様の表現方法も類似している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、
発掘結果をめぐる今後の議論が注目される。
173:出土地不明
08/08/24 23:39:35 lwUhb3Fv
>170,171
瓜二つの紋様は決して鳥がくわえて、飛んで来たのじゃ無いからね。
174:出土地不明
08/08/24 23:51:14 Gw+ahHcu
>銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の鐸がこのほど出土
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性がある
青磁どころか灰陶もなけりゃ印文陶もないし、弥生土器の器形に鐸もない。
だいたい鼎の一つくらい伝えろや、このスットボケ南京博物院が(嘲笑)
175:出土地不明
08/08/24 23:52:44 Gw+ahHcu
>>171
だったら何で銅鼓、貯貝器という器種自体が真っ先に伝わらんのだ。
激アホだろおまえ。
つか、長江江南広鼻ブラックの台湾ウホウホ類人猿だろおまえw
176:出土地不明
08/08/25 00:07:49 WiMjSZIh
137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。
弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。
177:出土地不明
08/08/25 00:15:32 sr2voa6c
>>174>>175
じゃ瓜二つの紋様は鳥がくわえて飛んで来たのかね??答えてみろ。
178:出土地不明
08/08/25 00:25:46 WiMjSZIh
逆S字なんか世界中に見られるだろがアホ。
そういう事は雷文、トウテツ文、龍文、鳳凰文の一つくらい
伝えてから言えよ詐欺師。
179:出土地不明
08/08/25 00:26:55 WiMjSZIh
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)
180:出土地不明
08/08/25 00:39:35 3M49n4Uu
>>178
一部を取り上げて否定しても駄目だぞ、全体的に一致点が多すぎるだろ
これらは偶然の一致か?鋸歯紋、鋸歯紋の内部の斜線、流水紋、波紋、
窓枠様の構成等々、頭に羽の羽人像、太陽、船先の鳥(イビス神)
これらは誰が伝えたって言うんだよ。答えてみろ!
>>179 馬鹿の一つ覚えみたいに同じ文章コピペすな。
181:出土地不明
08/08/25 02:31:09 H/Wr7mCv
>これは同じ水軍人物像だよ!!
熊本・チブサン古墳「冠を被った人物像」
URLリンク(www.pref.kumamoto.jp)
呉越時代・臨し出土「水軍戦闘図」
URLリンク(img.blogs.yahoo.co.jp)
182:出土地不明
08/08/25 02:44:04 S19+KQLm
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
183:出土地不明
08/08/25 02:58:44 R4EwDNsj
日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土 [02/09]
URLリンク(sawyer.exblog.jp)
日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に
発展したというのが定説だが、朝鮮の鐸は遊牧系の鐸で日本の鐸とは
宗教感、使用目的がまるで違う。
張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると
指摘し模様の表現方法も類似している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、
発掘結果をめぐる今後の議論が注目される。
184:出土地不明
08/08/25 03:06:12 R4EwDNsj
>>これって他人の空似かな!!この紋様は朝鮮半島からは出て来ません。
日本の銅鐸のルーツ? ベトナム・雲南地方の銅鼓、貯貝器の模様(P35,38)
逆S字、のこぎり形、流水形、舳先の立ち上がった太陽の舟、頭に鳥羽を付けた
人物、等々器形は全く違うが模様はうりふたつ逆S字は「隼人の盾」の模様と同じ。
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)
淀江町角田遺跡
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
珍敷塚古墳
URLリンク(blog.livedoor.jp)
隼人の盾
URLリンク(www.kazuart.com)
185:出土地不明
08/08/25 03:13:47 S19+KQLm
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
186:出土地不明
08/08/25 03:53:59 S19+KQLm
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
187:月光仮面
08/08/25 08:45:47 u+CsINZX
URLリンク(www.um.u-tokyo.ac.jp)
121-鐸、青銅、中国、赤峰市付近収集、前九-七世紀(西周-春秋時代)、長さ一・八cm、文学部考古学
研究室列品室
122-鐸、青銅、中国、赤峰市付近収集、前九-七世紀(西周-春秋時代)、長さ二・〇cm、文学部考古学
研究室列品室
赤峰市付近を中心として内蒙古東部に分布する夏家店上層文化の鐸である。夏家店上層文化は、初期
遊牧民文化のなかでも早い時期の文化で、スキトーシベリア動物意匠も既に見出される。(高浜)
URLリンク(www.um.u-tokyo.ac.jp)
この頃フィンランドのA・M・タールグレンは、叢書Eurasia Septentrionalis Antiqua(古代北方ユーラシア)
を創刊してユーラシア北方文化の研究に努めている(一九二六・三八年)。また南シベリアの青銅器時代
の考古学的編年も、S・A・テプロウホフによってこの時期に基本的に確立された。北方ユーラシア草原
地帯の東端に所在する中国北方において遊牧民の残した青銅器の研究も、ようやくその糸口が開かれ、
多くの研究が出始めた。
中国北方で中原とは異なる銅器が出土することは以前から既に知られており、欧米の学者の関心を引
いていた。例えば『金石索』(一八二一年刊)には中国北方系の動物闘争紋帯飾板が著録されており、
ミンズはそれをシベリアの影響と考えている[4]。また、P・ライネッケは一八九七年に、スキタイやシベリア
の民族と古代中国との関連を指摘した[5]。
グレゴリー・ボロフカは一九二八年に『スキタイの芸術』を著して[6]、シベリア芸術の影響がモンゴリアに
まで及んでいることを指摘している。M・ロストフツェフも一九二九年に『南ロシアと中国の動物意匠』を著
して、同様なことを述べた[7]。ハルピンで研究を進めていたトルマチェフも「マンチュリアにおける
スキタイ・シベリア文化の痕跡」と題する論文を書き[8](一九二九年)、幾つかの資料を紹介して、
スキタイ文化などと類似した文化が中国東北地方に見られることを指摘した。スウェーデンのJ・G・
アンダーソンは、ストックホルムの東アジア博物館の紀要に「草原を通る道」(一九二九年)を発表して
[9]、黒海沿岸のスキタイ文化、東ロシアのアナニノ文化、南シベリアのクルガン(タガール)文化などと
並ぶスキタイ系遊牧民文化の中心の一つが中国北方にあったことを明らかにし、「草原の道」が
きわめて古くから機能していたことを述べた。このような著作のなかで、いわゆるオルドス青銅器が少し
ずつ紹介されている。
江上波夫の内蒙古における調査とオルドス青銅器研究
高浜 秀 東京国立博物館学芸部
中国の北には、内蒙古を中心として草原地帯が広がっている。この草原地帯はシベリアを通って
ハンガリーにまで及ぶユーラシア北方草原地帯の東端であり、ここには中原の農耕文化とは異なり牧畜
に基礎を置いた文化が栄えた。青銅器時代から初期鉄器時代にかけてこの地域の遊牧民が残した
青銅器も、ユーラシア北方草原地帯の青銅器と関連が深い。綏遠青銅器、オルドス青銅器あるいは
北方系青銅器などと呼ばれているが、日本においてこの種の青銅器の研究に先鞭をつけたのは、
江上波夫である。
URLリンク(www.um.u-tokyo.ac.jp)
188:月光仮面
08/08/25 09:01:58 u+CsINZX
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)
右から:
3900年前 中国陶寺(レプリカ) 高さ2.6cm
3700年前 中国二里頭(レプリカ) 高さ8.4cm *
3500年前 中国殷墟 高さ9.1cm *
2400年前 韓国扶余合松里(レプリカ) 高さ15.9cm
2400年前 出土地不明(レプリカ) 高さ22.3cm
銅鈴から銅鐸へ
中国では、銅鈴は3900年前(龍山文化末)に純銅製品が現れ、3700年前(夏代、二里頭文化)から青銅
製品が普及する。世界最古の青銅鈴は高さ8cmほどの小型品で、人の腰につけて使っていた。3500年
前(殷代)には、人のほか、犬・馬の頸や馬車に銅鈴をつける。朝鮮半島には前6世紀ごろ銅鈴が伝来
する。司祭者が身体に着け、神懸かりの状態になるのを助けていたようである。前4世紀ごろ海を渡った
銅鈴は、近畿地方で高さが20cmをこす大型品に変わった。そして、鈕にも身にも文様を施した。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)
* 現在カザフスタン、ウラルの調査によりこの当時のアンドローノヴォ文化圏のウラル方面と東側の二本
の安陽とカラスク、セイマトゥルビノ文化を結ぶシルクロードのようなホライゾンが想定されている。
189:月光仮面
08/08/25 09:12:58 u+CsINZX
>>187-188
銅鐸は朝鮮半島、日本列島の無紋・弥生文化の開始が殷・商の崩壊時期と一致し、その当時に
ユーラシア北方草原地帯の文化と長江文化の南北の二本の流れが内モンゴル、中国東北で
合流し、朝鮮半島を南下したことを物語るようでもある。
190:月光仮面
08/08/25 09:21:36 u+CsINZX
「吉田教授は、大国主とアドニスの物語を比較しながら、両者の死と再生をめぐる事件の類似性を
指摘し、騎馬民族であるスキタイ人によってギリシャ神話が日本にもたらされたのでないかと推測。」
URLリンク(www.nippon-bunmei.jp)
「ポリツェ族に最も似た
装備が出土するのは朝鮮半島とスキタイである。これはポリツェ族が沿海州、日本、北朝鮮との密接な
触を保ち、その地に浸透したことを裏付ける。」 >>166
191:出土地不明
08/08/25 09:50:29 7UlyWfL5
北方式高床倉庫が日本に伝わってなどいない、サギはやめましょう。
北方式高床倉庫が日本に伝わってなどいない、サギはやめましょう。
北方式高床倉庫が日本に伝わってなどいない、サギはやめましょう。
北方式高床倉庫が日本に伝わってなどいない、サギはやめましょう。
192:月光仮面
08/08/25 11:17:03 u+CsINZX
URLリンク(history.novosibdom.ru)
第12図 最古の葉状鎧。同じ幅の二枚の骨プレートを縫い合わせた帯からなる。鎧にはいくつかの仕立て
方があり、胸元で重ねることによって防御層を二重にする「中空」型とか、又別に、胸当てと背中当てを
分離してベルトでしっかり結ぶ式のもあり、肩ベルト縫い付け方は鎧の全体縫いつけ方法と同じ。
URLリンク(history.novosibdom.ru)
第14図 端っこに穴の開いた骨プレート
セイマ・トゥルビノ族「鋳物工-戦闘員」の胸部と背中を防御したもの。こんなに長いプレートは非常に不便
であり、体躯の動作を制限し、見ての通りこれも折れている。
西シベリア、オムスク州イルティシュ河沿岸ロストフカ墓地出土、前2000年紀中葉のもの。
こうした武具からセイマ・トゥルビノ青銅器文化とポリツェ文化に関連があり、それが朝日遺跡、袋状鉄斧
につながっており、
URLリンク(www.maibun.com)
そしてこの朝日遺跡の遺物の中に縄文、鏡、銅鐸、スキタイ巴形楯飾と、まさに弥生文化の縮図、縄文
から弥生にかけての日本古代史の縮図を見る。
URLリンク(www.maibun.com)
193:出土地不明
08/08/25 12:54:56 M1uKpCnJ
>>これって他人の空似かな!!この紋様は朝鮮半島からは出て来ません。
日本の銅鐸のルーツ? ベトナム・雲南地方の銅鼓、貯貝器の模様(P35,38)
逆S字、のこぎり形、流水形、舳先の立ち上がった太陽の舟、頭に鳥羽を付けた
人物、等々器形は全く違うが模様はうりふたつ逆S字は「隼人の盾」の模様と同じ。
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)
淀江町角田遺跡
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
珍敷塚古墳
URLリンク(blog.livedoor.jp)
隼人の盾
URLリンク(www.kazuart.com)
194:出土地不明
08/08/25 12:56:12 M1uKpCnJ
日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土 [02/09]
URLリンク(sawyer.exblog.jp)
日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に
発展したというのが定説だが、朝鮮の鐸は遊牧系の鐸で日本の鐸とは
宗教感、使用目的がまるで違う。
張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると
指摘し模様の表現方法も類似している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、
発掘結果をめぐる今後の議論が注目される。
195:出土地不明
08/08/25 12:57:39 M1uKpCnJ
>これは同じ水軍人物像だよ!! 待てよチブサン古墳って起源前か!!
熊本・チブサン古墳「冠を被った人物像」
URLリンク(www.pref.kumamoto.jp)
呉越時代・臨し出土「水軍戦闘図」
URLリンク(img.blogs.yahoo.co.jp)
196:月光仮面
08/08/25 13:01:45 u+CsINZX
URLリンク(history.novosibdom.ru)
セイマ・トゥルビノ青銅器文化の青銅器加工技術においては裁断工程等で
鍛造に似た所作の工程が入っており、これが鉄器時代に入ったポリツェ鍛造技術とか、大和の鍛冶に
発展するのであろう。ワイはこうした鉄斧を朝日遺跡同様、アムール中流のポリツェから輸入していたよ
であるが、ポリツェもアムール沿海州、最終的には日本、に向かって移動していたようである。
197:出土地不明
08/08/25 13:35:16 /tllx//b
月光仮面>>195の人物絵どう思うかね。
198:月光仮面
08/08/25 14:34:34 u+CsINZX
>>184
「この器物は,その文様から農耕祭祀にかかわる儀器であると推測されているが,人物の特有の表現
(図27)は,石寨山型銅鼓等に施されている人物表現(図28・29・30)と酷似している。この防牌形銅器は,
朝鮮では異形青銅器と分類される一連の器物の一つである。これらの異形青銅器は,紀元前4世紀から
紀元前3世紀頃,忠清道に分布し,突然現れて短期間で消えていったとされている。これらの諸点は,
これらの青銅器が朝鮮半島本来のものではなく,外から入ってきた要素であること,またその製作には
そうした要素の関与があったことを暗示しているように思える。」
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)
この頃忠清道には対岸の山東半島から徐福の百工が到来している筈で、日本には垂仁天皇のときに
不老不死の薬を求めて旅立ったタジマモリの話が入っている。当時の倭国王はとてもそんな余裕はなか
った筈なんだが。これは後に辰韓に入って古い秦語を話したとされる秦系の人々ではなかろうか。
199:月光仮面
08/08/25 14:50:07 u+CsINZX
>>197
ユーラシアノマドであって、ラー神話↓
「毎日昼は昼舟で天を,夜は夜舟で天の女神ヌートの胎内または地下の冥界を航行し,翌朝再び
東天に復活するとされ,新王国時代の王墓の壁面には《アムドゥアト(冥界にあるもの)の書》をはじめ
太陽神の冥界の旅の案内書が挿絵つきで描かれた。一般民衆も好んで墓壁画にラーの舟を取り上げ,
これに同乗して復活することを願った。」の知識のあったものの手によるもの。
200:月光仮面
08/08/25 14:53:42 u+CsINZX
ちなみに、オシリス神話
「「オシリスは大地の神ゲブと天の女神ヌートの子で,エジプト王として善政をしくが,弟である邪神セトに
ねたまれて殺され,ばらばらにされて投げ捨てられる。しかし妹で妻であるイシスの手で身体をつなぎ合わ
され,ミイラとされて復活し,神々の法廷でセトを断罪,長子ホルスをエジプト王とし,自らは永生を得て
冥界の王となる。この神話に基づいて,ホルスの化身である王は,死んでオシリスとなり,永生を得,次の
王がホルスとして即位するとされた。したがって最初は王のみがオシリスとなるとされたが,第1中間期
以降は必要な準備さえ整えればだれでもオシリスとなれるとの信仰が広まる(葬祭の民主化)。」
これは東北地方にオシラサマ/とくにオセンダク神話として残されている。
201:月光仮面
08/08/25 14:58:53 u+CsINZX
URLリンク(www41.tok2.com)
オシラサマには馬とか、蚕とか、エジプト以降にそのユーラシアモバイル牧畜民の文化履歴が
重なっており、秦氏の運命と似ている。
202:出土地不明
08/08/25 15:12:38 7UlyWfL5
>>200
>これは東北地方にオシラサマ/とくにオセンダク神話として残されている。
ごめん、どこに共通点があるのかさっぱりなんですが?
203:月光仮面
08/08/25 15:22:50 u+CsINZX
白い布、水天宮の腹帯も同じだが、これをプレゼントするのはタタール・モンゴル・チベットの風習にも
残るが、お地蔵さんに布を巻くというのがミイラ作りと同じで、米州にも伝わっているようだ。蚕というの
は自ら糸を出して自分の体を巻く。これは神様だ。おそらくエジプトに北方民族の子育て習慣をミイラ
作りの際に伝授したのは、バシコルト学者の言うようにハビル系移動遊牧民だろう。ピラミッドの原型の
サッカラだって日本の方形周溝墓と同じく東アジア起源の可能性があると思う。
204:月光仮面
08/08/25 15:26:38 u+CsINZX
エジプトみたいな暑いところで人間をぐるぐる巻きにすると生き返るなんて発想は基地外か、神か
であったのが、偶然にもミイラ作りに有効であったのと違うかな。本来寒帯地方の発想だ。
205:出土地不明
08/08/25 15:32:34 xSWy59MK
はい、はい、↑妄想も其れ位にしておきなwww
206:出土地不明
08/08/25 15:44:30 7UlyWfL5
白い布・ミイラは無理があると思う。
私が昔見たおしらは布がなかったし。
白い布の意味するものは馬頭の白い虫(蚕)だし。
207:月光仮面
08/08/25 16:29:45 u+CsINZX
馬頭観音に般若心経唱えているんだが。最近お経が脳裏に全部映っていなかった、
208:月光仮面
08/08/25 16:49:27 u+CsINZX
最近NHKで間宮林蔵が韃靼海峡を渡り、清国沿海州黒水下流越境する直前、樺太西岸で目撃
したイズメッコ、これはゆりかごを縄で巻いたような形だが、実用されているのを目撃したとされるが、
同じようなのが、アルタイから出土するゆりかご棺という幼児用の棺に見られる。これは再生を祈った
ものではないかと考えられ、北海道に残るとされる黒水靺鞨の猿石のような遺跡とか、アイヌに残る
YAP+とかが、エジプト思想を持つ民族の移動の痕跡ではないかと考えたんだけど。
209:出土地不明
08/08/25 17:00:47 7UlyWfL5
少なくとも、再生の意味合いを含んだ
オシラサマ伝説を私は知らない。
そもそも家蚕の発生は中国北部。
210:出土地不明
08/08/25 17:00:49 GE+WuFl/
137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。
弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。
211:出土地不明
08/08/25 17:08:39 7UlyWfL5
三内丸山巨大高床建築の頃、
アムールあたりでは未だに貯蔵穴だったらしいねw
212:月光仮面
08/08/25 17:55:57 u+CsINZX
>>209 伝承は蚕が中国限定なんだから再生伝承がそれに付随するのはおかしい。そして、オシラサマ
には再生伝承はない。では、その起源はなんなんだ。こう自問して、それはオシリス神話と違うかなと
考えてみた。例えば、コトシロというのはスキタイ神話でアポロンのこと。アジダカというのイラン語で
火を噴く火龍。すると、アジスキタカヒコネ、コトシロというのはどうもアチャラくさい。こうしたレベルのこと。
これからまた一寝入りするので。またあしたね。
213:出土地不明
08/08/25 18:00:49 7UlyWfL5
馬に嫁ぐ、って話の関連は中国・日本にあるし
遠野物語では天竺の話として伝わっている。
そこらに関連してたらまだあるかも?と思うけど。
お疲れ様でした。
214:出土地不明
08/08/25 18:44:58 6enirYX6
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
215:月光仮面
08/08/26 08:25:53 7VtZPKzz
>>198
「吉野ケ里銅鐸も含めて、九州の銅鐸関連資料は主に集落遺跡の内部や、集落からそれほど遠くない
周辺部で見つかっています。また福岡県原田(はるだ)遺跡出土小銅鐸のように、副葬品として墓から
見つかる例もあります。これは、近畿の銅鐸や、九州の銅矛・銅戈などの武器形祭器が、人里離れた
山の斜面などで発見されるのとは異なっています。」
URLリンク(museum.city.fukuoka.jp)
吉野ヶ里で始めて銅鐸を祀ったものは新参渡来人であったため、在来縄文人を含めた周辺在来
文化の中に在って行動範囲の制限を受け、絶えず包囲、襲撃の危険に曝されていたということも
考えられる。そうして銅鐸文化人は九州ではその文化を発展させることは出来ず、一方、出雲方面に
上陸したものが新天地の近畿・東海で勢力を拡大することができたとも考えられる。ただ、銅鐸文化は
二里頭・安陽の文化を受け継ぐ古い殷人の子孫が、衛満・前漢武帝の圧力を受け朝鮮半島から日本に
移住するということと関連することも考えられる。秋田五社堂は武帝の鬼伝承を伝え、同様伝承は
豊前求菩提山とか、西都原にも残る。ただ西都原を考えると後漢光武帝としても早すぎるかなとも
思われるが。
216:出土地不明
08/08/26 13:25:51 sv8e65ai
137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。
弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。
217:出土地不明
08/08/26 18:01:56 /IIrALmY
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)
218:出土地不明
08/08/26 19:33:55 Jrb1J3r6
庭板の「セックスレスが原因での外注を語るスレ」から出来たスレだよ
SEXレスの奥様・旦那様が、不倫相手を自分達の都合の言いように外注と呼ぶ
最初は「外注の是非を問うスレ」だったのだが、最近開き直り「外注を語るスレ」へ
出会い系・チャット・近場での不倫の成功談や失敗談を語る
なかなかうまくいかない話が多い
そうだ!2ちゃんで探せばいいじゃないかとなる
普通に立てると削除対象もろ引っかかるので、ちゃんねる互換の外部板で
google→「アレ系の避難所」で検索→検索トップに出るページを開く
→スレッド検索で「レス鬼が同士を探すスレ」を検索→その後は地獄か天国へw
219:出土地不明
08/08/27 11:59:13 M2JJmHor
>>これって他人の空似かな!!この紋様は朝鮮半島からは出て来ません。
日本の銅鐸のルーツ? ベトナム・雲南地方の銅鼓、貯貝器の模様(P35,38)
逆S字、のこぎり形、流水形、舳先の立ち上がった太陽の舟、頭に鳥羽を付けた
人物、等々器形は全く違うが模様はうりふたつ逆S字は「隼人の盾」の模様と同じ。
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)
淀江町角田遺跡
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
珍敷塚古墳
URLリンク(blog.livedoor.jp)
隼人の盾
URLリンク(www.kazuart.com)
220:出土地不明
08/08/27 12:01:24 M2JJmHor
>これは同じ水軍人物像だよ!! 待てよチブサン古墳って起源前か!!
熊本・チブサン古墳「冠を被った人物像」
URLリンク(www.pref.kumamoto.jp)
呉越時代・臨し出土「水軍戦闘図」
URLリンク(img.blogs.yahoo.co.jp)
221:出土地不明
08/08/27 12:03:17 M2JJmHor
日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土 [02/09]
URLリンク(sawyer.exblog.jp)
日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に
発展したというのが定説だが、朝鮮の鐸は遊牧系の鐸で日本の鐸とは
宗教感、使用目的がまるで違う。
張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると
指摘し模様の表現方法も類似している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、
発掘結果をめぐる今後の議論が注目される。
222:出土地不明
08/08/27 12:05:05 M2JJmHor
O2a/O2b系統は長江文明の担い手だと考えられている。O2b系統が移動を開始したのは
6000年前頃(鳥浜貝塚)からである。長江文明の衰退に伴い、O2aおよび一部のO2bは
南下し、百越と呼ばれた。残りのO2bは北上又は東進し、山東省、朝鮮半島、日本列島
に達した。長江文明の稲作、豆類、エゴマ、ヒョウタン、漆器、を持ち込んだと考えられる。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
223:出土地不明
08/08/27 12:06:15 M2JJmHor
「越」あるいは「百越」と呼ばれ,多くの部. 族からなっていた。「百越」の諸族は
BC五〇〇〇年ころ長江下流域に住んでいましたが、漢族の発展とともに故郷を
追われ中国華南から南西部へ、やがて中原の. 漢民族の殷・周に吸収されたり
あるいは. 追われたりした.「越」の一部はボートピ. ープルになり海を渡り,
日本列島に渡来. して,越前・越中・越後という北陸の米作 ...
URLリンク(toshichan.be.fukui-nct.ac.jp)
224:出土地不明
08/08/27 13:06:11 OXcJvaU/
●越族 えつぞく
中国の長江中下流以南に広く分布していた民族。粤(えつ)とも書かれる。地域によって,於越(于越),
甌越(越東海,東甌),ビンエツ※注1※(東越),揚越,山越,南越,西甌(甌),駱越(駱)などが
あり,総称して百越(百粤)と呼ばれた。於越は春秋戦国時代に浙江省北半部を本拠に越という国を
建てた。甌越は浙江省南部の甌江流域により,ビンエツ※注1※は福建省ビンコウ※注2※流域を中心
とした。揚越は揚州にいた越で,西甌,駱越は広西壮族自治区,あるいは北ヴェトナムにまでひろがって
いたとみられている。秦代末期の混乱に乗じて,趙佗(ちょうた)が番禺(ばんぐう,広東省広州市)を
都に南越(南粤)国を建て,5代97年のあいだつづいたが,漢の武帝の前111年(元鼎6),漢に滅ぼされた。
越族の習俗については,入墨・断髪などが知られ,文化については,新石器時代から春秋戦国時代まで
盛んにつくられた幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている。
URLリンク(www.tabiken.com)
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
225:出土地不明
08/08/27 13:07:24 OXcJvaU/
●越式鼎
江南名物「越式鼎」(エツシキテイ)。中原の漢式鼎よりも足が長い。
陶製と青銅製がある。
越式鼎
URLリンク(www.npm.gov.tw)
226:出土地不明
08/08/27 13:30:01 OXcJvaU/
弥生時代に印文土器、越式鼎なんて一切伝わっていない。
●印文土器
URLリンク(www.kobijutsuizumi.com)
●越式鼎
URLリンク(www.npm.gov.tw)
227:出土地不明
08/08/27 15:28:09 Stw/ExIL
北方土器人莫迦発言・こぴぺ集
2008/03/27(木) 11:40:23 ID:LP9cUClG
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
URLリンク(www.hibari.ed.jp)
↑合気道同好会のページwwww
考古学でもなんでもないwwww
131 :出土地不明:2008/06/28(土) 16:28:56 ID:yMagu+UA
宮本長二郎・東京国立文化財研究所国際文化財保存修復協力センター長(建築学)の話。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。ただし、日本の高床建物は
祭祀(さいし)目的とみられ、住居など実用目的だった中国とは異なる。
URLリンク(inoues.net)
日本の高床建物は祭祀(さいし)目的とみられ、住居など実用目的だった中国とは異なる。
日本の高床建物は祭祀(さいし)目的とみられ、住居など実用目的だった中国とは異なる。
↑「縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。」 はまるで無視wwww
129 名前:出土地不明 投稿日:2008/06/17(火) 09:39:00 ID:sjbvkpO+
※エスキモーの高床式倉庫
URLリンク(www.kcc.zaq.ne.jp)
140 :出土地不明:2008/06/25(水) 20:40:59 ID:xq8YluWo
ナナイ人の高床式食糧倉庫
URLリンク(www.toya-kohei.jp)
138 :出土地不明:2008/06/23(月) 21:14:30 ID:vzIhdsGB
高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?
●ブリアートの高床式の食物倉庫
URLリンク(www.geocities.jp)
ウランウデ
URLリンク(www.geocities.jp)
最近までエヴェンキは狩猟、トナカイ飼育、採集、漁労をしていた。
高床式の食物倉庫にいたっては“現在使われている原物”wwww
真新しい高床倉庫w
考古学ですらないwwww
228:出土地不明
08/08/27 15:42:29 6LkEXyrG
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
229:出土地不明
08/08/27 15:46:23 Stw/ExIL
北方土器人莫迦発言・こぴぺ集
2008/03/27(木) 11:40:23 ID:LP9cUClG
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
URLリンク(www.hibari.ed.jp)
↑合気道同好会のページwwww
考古学でもなんでもないwwww
131 :出土地不明:2008/06/28(土) 16:28:56 ID:yMagu+UA
宮本長二郎・東京国立文化財研究所国際文化財保存修復協力センター長(建築学)の話。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。ただし、日本の高床建物は
祭祀(さいし)目的とみられ、住居など実用目的だった中国とは異なる。
URLリンク(inoues.net)
日本の高床建物は祭祀(さいし)目的とみられ、住居など実用目的だった中国とは異なる。
日本の高床建物は祭祀(さいし)目的とみられ、住居など実用目的だった中国とは異なる。
↑「縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。」 はまるで無視wwww
129 名前:出土地不明 投稿日:2008/06/17(火) 09:39:00 ID:sjbvkpO+
※エスキモーの高床式倉庫
URLリンク(www.kcc.zaq.ne.jp)
140 :出土地不明:2008/06/25(水) 20:40:59 ID:xq8YluWo
ナナイ人の高床式食糧倉庫
URLリンク(www.toya-kohei.jp)
138 :出土地不明:2008/06/23(月) 21:14:30 ID:vzIhdsGB
高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?
●ブリアートの高床式の食物倉庫
URLリンク(www.geocities.jp)
ウランウデ
URLリンク(www.geocities.jp)
最近までエヴェンキは狩猟、トナカイ飼育、採集、漁労をしていた。
高床式の食物倉庫にいたっては“現在使われている原物”wwww
真新しい高床倉庫w
考古学ですらないwwww
230:出土地不明
08/08/27 17:32:19 JNvjrtvZ
>>224~>>226
弥生時代の幾何印文青銅器(銅鐸)は無数に有るぞ。!!!!!
弥生時代の幾何印文青銅器(銅鐸)は無数に有るぞ。!!!!!
231:出土地不明
08/08/27 17:34:20 JNvjrtvZ
>224~226
じゃ銅鐸の幾何印文は誰が伝えたんだ、鳥がくわえて来たんか。
232:出土地不明
08/08/27 17:36:56 JNvjrtvZ
>>これって他人の空似かな!!この紋様は朝鮮半島からは出て来ません。
日本の銅鐸のルーツ? ベトナム・雲南地方の銅鼓、貯貝器の模様(P35,38)
逆S字、のこぎり形、流水形、舳先の立ち上がった太陽の舟、頭に鳥羽を付けた
人物、等々器形は全く違うが模様はうりふたつ逆S字は「隼人の盾」の模様と同じ。
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)
淀江町角田遺跡
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
珍敷塚古墳
URLリンク(blog.livedoor.jp)
隼人の盾
URLリンク(www.kazuart.com)
233:出土地不明
08/08/27 17:38:39 JNvjrtvZ
>これは同じ水軍人物像だよ!! 待てよチブサン古墳って起源前か!!
熊本・チブサン古墳「冠を被った人物像」
URLリンク(www.pref.kumamoto.jp)
呉越時代・臨し出土「水軍戦闘図」
URLリンク(img.blogs.yahoo.co.jp)
234:出土地不明
08/08/27 17:41:15 Uw3MgB42
日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土 [02/09]
URLリンク(sawyer.exblog.jp)
日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に
発展したというのが定説だが、朝鮮の鐸は遊牧系の鐸で日本の鐸とは
宗教感、使用目的がまるで違う。
張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると
指摘し模様の表現方法も類似している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、
発掘結果をめぐる今後の議論が注目される。
235:出土地不明
08/08/27 17:43:01 Uw3MgB42
O2a/O2b系統は長江文明の担い手だと考えられている。O2b系統が移動を開始したのは
6000年前頃(鳥浜貝塚)からである。長江文明の衰退に伴い、O2aおよび一部のO2bは
南下し、百越と呼ばれた。残りのO2bは北上又は東進し、山東省、朝鮮半島、日本列島
に達した。長江文明の稲作、豆類、エゴマ、ヒョウタン、漆器、を持ち込んだと考えられる。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
236:出土地不明
08/08/27 17:45:03 Uw3MgB42
弥生時代の幾何印文青銅器(銅鐸)は無数に有るぞ。!!!!!
弥生時代の幾何印文青銅器(銅鐸)は無数に有るぞ。!!!!!
じゃ銅鐸の幾何印文は誰が伝えたんだ、鳥がくわえて来たんか。
じゃ銅鐸の幾何印文は誰が伝えたんだ、鳥がくわえて来たんか。
237:出土地不明
08/08/27 18:49:41 2utxtGXk
●越族 えつぞく
中国の長江中下流以南に広く分布していた民族。粤(えつ)とも書かれる。地域によって,於越(于越),
甌越(越東海,東甌),ビンエツ※注1※(東越),揚越,山越,南越,西甌(甌),駱越(駱)などが
あり,総称して百越(百粤)と呼ばれた。於越は春秋戦国時代に浙江省北半部を本拠に越という国を
建てた。甌越は浙江省南部の甌江流域により,ビンエツ※注1※は福建省ビンコウ※注2※流域を中心
とした。揚越は揚州にいた越で,西甌,駱越は広西壮族自治区,あるいは北ヴェトナムにまでひろがって
いたとみられている。秦代末期の混乱に乗じて,趙佗(ちょうた)が番禺(ばんぐう,広東省広州市)を
都に南越(南粤)国を建て,5代97年のあいだつづいたが,漢の武帝の前111年(元鼎6),漢に滅ぼされた。
越族の習俗については,入墨・断髪などが知られ,文化については,新石器時代から春秋戦国時代まで
盛んにつくられた幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている。
URLリンク(www.tabiken.com)
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
238:出土地不明
08/08/27 18:50:44 2utxtGXk
●越式鼎
江南名物「越式鼎」(エツシキテイ)。中原の漢式鼎よりも足が長い。
陶製と青銅製がある。
越式鼎
URLリンク(www.npm.gov.tw)
239:出土地不明
08/08/27 18:51:58 2utxtGXk
弥生時代に越の代表的な文物である印文土器、越式鼎が一切伝わっていない。
●印文土器
URLリンク(www.kobijutsuizumi.com)
●越式鼎
URLリンク(www.npm.gov.tw)
240:出土地不明
08/08/27 21:57:00 2K7H+dzP
弥生時代の幾何印文青銅器(銅鐸)は無数に有るぞ。!!!!!
弥生時代の幾何印文青銅器(銅鐸)は無数に有るぞ。!!!!!
じゃ銅鐸の幾何印文は誰が伝えたんだ、鳥がくわえて来たんか。
じゃ銅鐸の幾何印文は誰が伝えたんだ、鳥がくわえて来たんか。
241:出土地不明
08/08/27 23:09:05 ePMqorup
>>239
なるほど半島も初期の住人は江南ですね。
URLリンク(www.geocities.co.jp)
>櫛目紋土器
>紀元前4500~3500年頃、韓半島の新石器時代を代表する土器で、点と線の幾何学模様が施されている。
>点と線の幾何学模様が施されている。
>点と線の幾何学模様が施されている。
>点と線の幾何学模様が施されている。
242:出土地不明
08/08/27 23:41:12 LZimola3
ほほうw
で、その幾何学模様はスタンプ方式で施されているのか?w
まれに櫛の歯による波状文をとる場合もあるが、主にスタンプ方式で
雷文・方格文・条痕文・S字文などを器全体に深々と押印した
土器が印文土器だぞw
243:出土地不明
08/08/27 23:48:10 LZimola3
●印文土器 いんもんどき
アジア 中華人民共和国 AD
中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・
灰・灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているもの
がある。印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,
出土地域が広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。
URLリンク(www.tabiken.com)
244:出土地不明
08/08/28 01:59:40 7krfFrPV
>これは同じ水軍人物像だよ!! 待てよチブサン古墳って起源前か!!
熊本・チブサン古墳「冠を被った人物像」
URLリンク(www.pref.kumamoto.jp)
呉越時代・臨し出土「水軍戦闘図」(アクセス変更の様なのでコチラヘ)
URLリンク(img.blogs.yahoo.co.jp)
245:出土地不明
08/08/28 02:13:03 qVeZdRO2
冠をかぶるくらいの上位層が来たなら鼎と金石文くらい残るだろが馬鹿w
それに臨しは華北だぜカスw
246:出土地不明
08/08/28 02:22:49 NdYlK/kI
土器人ちゃん腹に円く、白く描いてるのは小型の銅鏡じゃないか。?
247:月光仮面
08/08/28 12:36:35 E7ugO7ch
>>198
末房論文を今一度見てみよう。
「弥生時代の青銅器鋳造現場の性格を詳細に研究した結果によると,弥生中期前半までは日本での青銅
器の鋳造は朝鮮半島からの渡来人によって行われていたことが指摘されている。それは工人の生活跡か
ら出土した土器から導き出されている。そうすると弥生時代の銅鐸の文様の源流について南からの工人
達は,朝鮮半島で土着化し,その後渡来したことも考えられる。その場合は朝鮮半島にも痕跡がある筈で
ある。ここで朝鮮無文土器時代の有名な防牌形銅器に触れておきたい。この器物は,その文様から農耕
祭祀にかかわる儀器であると推測されているが,人物の特有の表現(図27)は,石寨山型銅鼓等に施され
ている人物表現(図28・29・ 30)と酷似している。この防牌形銅器は,朝鮮では異形青銅器と分類される一
連の器物の一つである。これらの異形青銅器は,紀元前4世紀から紀元前3世紀頃,忠清道に分布し,
突然現れて短期間で消えていったとされている。これらの諸点は,これらの青銅器が朝鮮半島本来のも
のではなく,外から入ってきた要素であること,またその製作にはそうした要素の関与があったことを暗示
しているように思える。」
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)
248:月光仮面
08/08/28 13:04:22 E7ugO7ch
>>215
銅鐸民族は冶金・探鉱民族として吉野ヶ里→出雲→近畿→東海→三河→信州→関東・東北、また、使命
である朱を求める民族としては中央構造帯沿いに東遷、神社仏閣時代に入ってはその更に外延部に
主として修験道の寺社仏閣を築いた。忠清道に新たに入った若者は金剛山周辺に山岳宗教を始め、
洛東江上流から新羅に展開する。日本では最も初期には近畿・東海銅鐸圏に入るが、寺沢薫が王権誕生
で仮説として述べている銅鐸から特殊器台・円形埴輪、首長霊崇拝への大変貌はモモソヒメ・キビツヒコ
という魏志倭人伝の時代をもたらしたのであろう。ここに鬼道宗教改革があり、古墳時代が始まるのであろう。
249:出土地不明
08/08/28 15:11:34 NNzWLgYf
6Cだと呉越時代と1000年以上も違うだろうがヴォケw
結局、冠も朝鮮経由で伝わっただけ。
チブサン古墳(国指定史跡)
熊本県山鹿市にある全国的に有名な装飾古墳で、全長45m(後円部径24m、前方部幅15.7m)
の前方後円墳です。近くにはオブサン古墳、鍋田横穴群、弁慶が穴などが点在しています。
古墳時代6世紀頃に造られたもの。石棺の正面の石板装飾の絵柄が女性の乳房に似ている
ところから「乳の神様」として現在も信仰が続いています。羨道をくぐり抜け、玄室へ入って見ませんか。
URLリンク(www.dandl.co.jp)
250:月光仮面
08/08/28 17:16:45 E7ugO7ch
>>248
URLリンク(www.yu-ji.com)
神武開戦直前の神武軍は薄緑・銅矛、ニギハヤヒ・長髄彦は大阪湾銅戈(青・破線)、高霊・卑弥呼は
まだ赤破線・平形銅剣圏内にあり、神武軍が攻撃開始した後賭期をおかず孝霊軍が侵入するってことか。
251:月光仮面
08/08/28 17:49:27 E7ugO7ch
長野・柳沢遺跡で「九州型」「大阪湾型」銅戈が同時出土
URLリンク(www.asahi.com)
[長野県の下高井郡木島平村の根塚遺跡、これから大問題になるだろう遺跡の資料を載せました(図19)。]
URLリンク(www.wako.ac.jp)
URLリンク(www.wako.ac.jp)
建御名方
URLリンク(www.wako.ac.jp)
諏訪に落ち延びる出雲軍そこに長髄彦軍の祭器がある・・・ニギハヤヒと出雲の関係が出土したのだ。
やはり神武はいたようだ。
252:【流】俳人【民族】
08/08/28 17:56:38 SCc4GcMA
此処で一句
「日本人、何処から現れ、何処へ行く」
失礼司まつる。(´Д`)
253:出土地不明
08/08/28 23:36:30 +48pxMkl
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)
254:出土地不明
08/08/30 06:56:10 PM5fVf9G
137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。
弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。
255:月光仮面
08/08/30 07:18:48 vEmk2BQ0
>>248 「銅剣、銅矛、銅鐸は全部鏡に統一、首長の墓は中央指定の規格によるものとする」といった布告
を中央アジア、南西アジア、バルカン等で出した場合、蜂の巣をつついたようなテロ、戦争、虐殺が起
こり、考古学的にバーミヤン石窟爆破のような顕著な痕跡が残ったことであろう。弥生日本には恐るべき
コンセンサス作りの機能が存在したと考えなければおかしい。卑弥呼の衆を惑わす鬼道とはこうした革命
的発想転換とそれを支えた均質的基盤の存在を意味する。このことは大和纒向の首都建設に各地から
搬入された土器の種類が全土的であることからも裏付けられる。高天原クリルタイは実際に存在した。そ
れは出雲大社で毎年11月に神々が集まる集会所がいまだに残されていることから、出雲に存在し、大和
国魂となる「首長霊」の最初の具体的創造は出雲の表である吉備の楯築古墳で全国の首長の参加のもと
に行われたが、記紀には残されていない。つまり、ここにも倭国乱は発生したのであろう。
256:月光仮面
08/08/30 07:30:49 vEmk2BQ0
天孫と地祇、邪馬台国と狗奴国、大和と出雲の対立は高天原クリルタイが歴史的な発祥の地、出雲を
離れ、大和に移動する、つまり、京都の朝廷に対し、関東の幕府が実権を握るのと同様の意味があった。
魏の国使はまさに米国独立戦争のワシントン陣営に到着したのだ。檄を飛ばし、黄ドウという錦の御旗を
与え、銅鏡と言う資産的援助を行ったのであろう。
257:月光仮面
08/08/30 07:38:34 vEmk2BQ0
魏志倭人伝では投馬国を倭国第二の戸数を有する地域とするもその所在を明らかにせず、また、狗奴国
との関係も明らかではない。ここに畿内邪馬台国がまだ誕生したばかりであり、出雲にあった高天原
クリルタイが機能している状態の倭国があるのであろう。記紀は神代といえども銅鐸時代の後であり、
中央政府の語り部が存在しないために一部の大王は欠史であり、地方に立地したことを物語る。
258:月光仮面
08/08/30 07:52:55 vEmk2BQ0
>>251
垂仁は崇神の出雲神宝検校をいさめる。
URLリンク(www.k4.dion.ne.jp)
出雲支配者の名誉ある諏訪への撤退は上記出雲高天原クリルタイの終末であろう。
参考↓
URLリンク(shrine.s25.xrea.com)
出雲国造神賀詞はこうした環境下に成立したものであろう。
259:月光仮面
08/08/30 10:58:02 vEmk2BQ0
>>132 刻目突帯文土器
前2000年紀初頭のアルタイにあり、四隅突出型墳丘墓と類似した板石正方形の囲いの中で砂岩箱式
石棺墓に埋葬する文化。その後トゥルクメニスタン方面に進出、その三つ目神像はインダス文明ヒンドゥー
文化にも入ったようである。
URLリンク(www.nhkm.ru)
他方、アムール中流ポリツェ・邑婁文化は沿海州経由日本に向かう。その袋状鉄斧
URLリンク(www.bgpu.ru)
口縁に刻目を残す壺はホケノ山の二重口縁壺を想起さすものがある。五穀、豆、豚肉(食料・衣服)、
羊、馬を飼い、弓道は「俵トウタ」、「那須与一」クラスで、毒矢を使い、人間なら目を射抜く。
豚革、魚の皮を着ていて、深い穴居生活。スキタイ的な全員戦闘員社会。墓の上に小さな家を作り
豚を殺して祀る。崇神の「猪贄」がこれだろう。ヨナバリの猪飼の丘と言うのがある。こういうのは大阪、
沖縄にも在り、三輪神社のような拝観所も沖縄にあり、アマテラスのように乙女が隠れる話もある。
アルタイにはオークネフ文化とは別にコンタン節とか佐渡のツブラサシのような男根崇拝儀礼もある。
260:月光仮面
08/08/30 11:06:37 vEmk2BQ0
これはアムール中流ポリツェ邑婁刻目口縁壺(用途不明)、あの世の観念はあると見られる。
URLリンク(www.bgpu.ru)
これはホケノ山出土二重口縁壺、あの世の生活用か。
URLリンク(www2.begin.or.jp)
261:出土地不明
08/08/30 11:53:44 5SjV3pjZ
>二重口縁壺
そこからヤマト王権の成立に話を持っていく感じ?
262:月光仮面
08/08/30 14:03:38 vEmk2BQ0
↑ URLリンク(www.asahi-net.or.jp)
朝日遺跡弥生中期V期にはポリツェと似たのがあるし、朝日遺跡の鉄斧はポリツェから輸入ないしは
持ち込んだものだろう。逆に、ホケノ山の土器にはこうしたものもあるが、特殊器台などと同様に
吉備における土師集団の宗教改革の結果、何らかの意味を持って創造されたユニークなものがある。
しかし、ホケノ山の葬儀は全国的規模であったことが推定され、大和王権成立と関係することは否定でき
ない。ちなみに江原道中島の沃沮的文化はポリツェ鉄器を輸入しているという。
263:月光仮面
08/08/30 14:11:26 vEmk2BQ0
沃沮の農業形態は現代の北朝鮮にそのままの形で残っている。
URLリンク(www.fegi.ru)
オンドルを使用するといい、ポリツェとは明らかに違う。現在の延辺自治区辺りが発祥の地らしい。
264:月光仮面
08/08/30 14:29:58 vEmk2BQ0
後漢書六夷伝韓伝。馬韓の西、海上の島に州胡国がある。その人々は背が小さく、頭髪を剃り、韋衣
(革の衣)を身に着けるが、上だけで下は無い。牛・豕(豚)を飼う事を好む。船に乗って往来し、韓の国内
で売買を行う。
「家畜生理科学者の田辺部雄一氏は、「犬から探る古代日本」の中で現在の日本犬といわれる犬は弥生
時代に渡ってきた朝鮮半島からの犬と縄文人に飼育された犬が交雑されてできたとし、人と共に渡来した
こと示唆しています。最近では韓国済州島いる珍島犬と秋田犬のDNAが一致していたことが判明してい
ます。」
URLリンク(www.somnet.co.jp)
楽浪海中の倭人とは邑婁じんであったのかな。
265:月光仮面
08/08/30 15:08:58 vEmk2BQ0
>>261
『古事記』により崇神天皇の没年を干支で戊寅、これを258年、仲哀壬戌、これを362年没としてその間に
天皇を埋めていけば非常に正しい年代となる。初代天皇は崇神で間違いないのでは。
266:出土地不明
08/08/30 16:28:36 NQoBcly3
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
267:月光仮面
08/08/30 16:39:12 vEmk2BQ0
URLリンク(ja.wikipedia.org)
でなくて
URLリンク(www2u.biglobe.ne.jp)
でなくっちゃね。
URLリンク(www2u.biglobe.ne.jp)
二里頭・安陽は吉備・纒向と非常に近い。青銅器箱式石棺墓、鉄器箱式石棺墓の違いで
極めてよく似たドラマのあったことが最近の鹿石図案・カラスク文化の研究でわかっている。
燕、現在の北京近辺が大和と殷の共通点だ。
268:月光仮面
08/08/30 17:04:29 vEmk2BQ0
「神武紀元が紀元前660年に設定されていることをもって、ただちに古事記や日本書紀の記述の荒唐無稽
さを言い立てることが、それほど当たり前のことではなくなってしまう。列島社会に紀元前7世紀に何ら
かの国家形成に向けての動きがあってもおかしなことではなくなってくる。」
国民一人一人が裁判官に立ち記紀の宝暦等の不都合一つで証拠能力無しとして記紀の証拠書類への
採用を全面的に却下するかどうか。漏れは原田常次さんの捜査員気取りの本が大好きだった。今、
プロファイリングが捜査の花形になっているが、単なる年代の表現一つで証拠採用却下のご時世には
この世にいたくない。
269:出土地不明
08/08/30 19:13:27 Bbm4oOuW
>>266
それ定義の間違い、
現代では水田稲作が弥生時代の定義だから弥生式土器の有無は関係ない。
270:出土地不明
08/08/30 19:15:53 ttogVTeb
137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。
弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。
271:出土地不明
08/08/30 19:43:22 Bbm4oOuW
>>270
定義の違い・・・
272:出土地不明
08/08/30 23:14:12 KXKOaRwP
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)
273:出土地不明
08/08/31 16:06:45 mgn84e8F
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
274:月光仮面
08/08/31 16:09:47 /o+h/AkC
>>268
「列島社会に紀元前7世紀に何らかの国家形成に向けての動きがあってもおかしなことではなくなって
くる。」
王権誕生、寺澤薫P177 図 青銅のマツリの第二段階(前一世紀後半-1世紀全般)
東日本にある有角石器の分布図参照
有角石器というのは↓
URLリンク(www.sati.archaeology.nsc.ru)
「考古学者の多くは、意外にも有角石器と金属器の関係を指摘しています。つまり、有角石器のいくつか
に金属製の剣を思わせる縦の稜線かみられること、刃の部分が突起部分の近くにまで及んでいること
などから、金属製や石製の剣(金属製の剣の模倣)を模倣した形で、有角石器が出現したと考えられて
いるのです。」
これはパジリク文化だが↓
URLリンク(history.novosibdom.ru)
URLリンク(history.novosibdom.ru)
URLリンク(history.novosibdom.ru)
どうもこれくさい。
また、「とみびこ」のような男性が、初瀬川のような谷を守ったのではないかとされる
URLリンク(history.novosibdom.ru)
「何らかの国家形成に向けての動き」これはスキタイ文化が辺境の守りについていたことを物語る
のではなかろうか。
275:月光仮面
08/08/31 16:12:54 /o+h/AkC
失礼、日本のはこれだ↓
「考古学者の多くは、意外にも有角石器と金属器の関係を指摘しています。つまり、有角石器のいくつか
に金属製の剣を思わせる縦の稜線かみられること、刃の部分が突起部分の近くにまで及んでいることな
どから、金属製や石製の剣(金属製の剣の模倣)を模倣した形で、有角石器が出現したと考えられている
のです。」
URLリンク(www.city.ichikawa.chiba.jp)
276:月光仮面
08/08/31 16:22:53 /o+h/AkC
崇神・猪贄のファミリーが上毛野、下毛野だというので、エフタルも邪馬台国時代に渡来したのでは
なんて考えていたんだが、もう少し繰り上げる必要がある。特に御物石器はセイマ・トゥルビノ青銅器文化
にも出てくるので今後検討の要あり。
277:月光仮面
08/08/31 16:29:10 /o+h/AkC
倭人伝では入れ墨をするのは呉の太白と漢籍中心の見方だが、刺青するのは白人とか、色白の
北方民族だ。
278:月光仮面
08/08/31 18:10:22 /o+h/AkC
パジリクのチャグチャグ馬コ
URLリンク(history.novosibdom.ru)
日本のチャグチャグ馬コ
URLリンク(takizawa-kankou.jp)
279:月光仮面
08/08/31 18:18:21 /o+h/AkC
蘇我馬子、聖徳太子の身元が見えてきたようだ。立件できるかな(w
280:出土地不明
08/08/31 18:27:27 ST9Zd6ui
アイヌや沖縄の人以外は、日本人は朝鮮や満州や漢族の地から来たんでしょ?
朝鮮や中国はモンゴル人と混血してるけど日本人はしていない。
そうでしょ?素直に考えて。
281:出土地不明
08/08/31 18:43:32 BCKqLOCZ
満州や漢族の地からなんて全く来ていないが。
来た証拠があるのは一貫して沿海州のみ。
この北方の渡来人の生殖率が高いために3000年かけて
日本人は北方的な要素を帯びた人種になった。
古墳時代の朝鮮帰化人は日本人口がすでに500万人くらいの時に
1万人ほどやって来ただけで日本人に人種的な影響はほとんど与えていない。
282:出土地不明
08/08/31 18:59:22 BCKqLOCZ
137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。
弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。
283:出土地不明
08/08/31 19:02:43 ST9Zd6ui
>>281
その沿海州の人は現在の中国人や満州人の中にも、遺伝的に影響を与えてますよね?
もしかしたら朝鮮にも与えている可能性もあるんじゃないですか?
と言う事は、混ざり方の違いだけで元は同じ系統じゃないんですか?
284:出土地不明
08/08/31 21:51:26 H6jB/71N
137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。
弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。
このコピペって弥生時代に
水田稲作があった事を知らない奴を馬鹿にしてるという事で良いの?
古代史詳しくないから何でコピペされてるかわからん。
285:XYZ ◆PH4Mje0jPU
08/09/01 01:40:52 WNYi6wQV
>>281
>280さんではないですが、もしあなたの言うように「一貫して沿海州のみ」
ということであれば、Y染色体でいうところのFR-O2bやO2cに属する人々も
皆沿海州方面から来た、ということなのでしょうか?
基本的にその「北方的な要素を帯びた人種」とは、Y染色体でいえば
彼らのことですよね?
え!? 彼らの起源はそれほど局地に集中するもの…??
286:出土地不明
08/09/01 02:08:10 a29u8uLQ
もちろん彼らもO2bを持ってきたであろうが、
O2bは前にも述べたように、拡散具合からして、地続き時代の
終焉までにはすでに入ってきていた可能性が高いと俺は見るね。
ただO2cはNとともに彼らが持ち込んだものではないかと見ている。
彼らの起源は実際はもっともっと北だろうね。
南下して沿海州に定着して何百年か何千年かの時を経て、
沿海州から船で朝鮮半島東岸沿いを水行してくる最中に水田稲作を
知って九州北部に上陸し最古の水田遺跡とともに当時の沿海州と同じ
口縁部に刻目のある土器、刻目突帯文土器を残したのである。
287:出土地不明
08/09/01 02:09:43 a29u8uLQ
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
288:出土地不明
08/09/01 11:45:49 JYjcKUAN
>>278
それは北方土器人の
>65
>132
に対する
>137
のオマージュ(w)を
阿呆が貼って遊んでいるだけなのでスルー推奨。
>>278
チャグチャグ馬っこの始まりは江戸時代でなかった?
289:出土地不明
08/09/01 11:47:13 JYjcKUAN
リンクまつがいw
×
>>278
それは北方土器人の
○
>>284
それは北方土器人の
290:出土地不明
08/09/01 13:10:06 H75VndHs
137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。
弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。
291:月光仮面
08/09/01 14:00:38 0cRiYXV6
バイカル湖南部に「グラスコフ文化」、前18-13世紀、玉勝間、マゲワッパ、お椀、イズメッコ、笈、複合弓、
大身(おおみ)の槍(黒田節のような奴)、和服、、青銅小刀、青銅釣り針等が特徴で、環境の寒冷高湿化.
により、どうも、バイカルを離れて半島に移住している。殷の崩壊で匈奴化したカラスク人とか、西方から
スキタイ文化を持ち込んでくる勢力に押されたようだ。スキタイ文化はアンドローノヴォ文化圏経由丁霊
がこれを受けたともされる。ケレクスル文化となる。カラスクは鹿石、匈奴化が進んで石板(スラブ)墓
文化となる。
292:月光仮面
08/09/01 14:08:14 0cRiYXV6
ただ、玉勝間、マゲワッパ、お椀、イズメッコ、笈、複合弓、 大身(おおみ)の槍(黒田節のような奴)、和服、
青銅小刀、青銅釣り針・・・どちらかと言うと朝鮮半島よりも裏日本に来たような感じがあり、朝鮮半島には
少ないYAP+かもしれない。YAP+についてはいろいろ調べてもO共々どうも中央アジア方面が起源のようだ。
URLリンク(www.geocities.com)
URLリンク(www.genekotech.com)
URLリンク(library.ibp.ac.cn)
URLリンク(www.eva.mpg.de)
URLリンク(vetinari.sitesled.com)
293:月光仮面
08/09/01 14:19:39 0cRiYXV6
アルタイ地方ではコーカソイド/アファナシエヴォ文化、モンゴロイド/オークネフ文化、コーカソイド/
アンドローノボ文化というように、コーカソイドとモンゴロイドの文化が順繰りに現れる。そして「グラスコフ
文化」時代には、バイカルにグラスコフ文化、アルタイにオークネフ文化、ウラル・東欧にセイマ・トゥルビノ
文化とジンギスカン時代のようにモンゴロイドの世界帝国が出現したかの観がある。このころエジプトには
モンゴロイドのヒクソスが、ヒッタイトにもタタール的風貌の人種が跳梁する。
294:月光仮面
08/09/01 14:42:34 0cRiYXV6
「YDNAが物語る韓国人二重起源」
URLリンク(www.geocities.com)
これによれば無紋・弥生期日韓共通YDNAは、
O-SRY+465 O-47z
韓国 13.8% 5.6%
日本 6.5% 19.4%
O-SRY+465よりO-47zが派生したとされている。この分岐は原郷で存在したとされるが、原郷は「河南省、
山西省南部黄河流域」、韓の故地を想定しているようだ。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
しかし、いまや、司馬遷が『史記』の中で、匈奴を夏王朝王家の子孫としているのはそれを非漢族全般と
見れば正しく、上記の日韓共通のO-SRY+465 O-47z がバイカル湖に北進したとも考えられる。
295:月光仮面
08/09/01 16:26:57 0cRiYXV6
阿波、安房、纒向に渡来する大麻彦、麻、鳳、五穀、鳥見彦(河内物部も同じ)、馬の首きり、素麺これら
一切はスキタイの慣習。阿波、纒向には楽浪画文帯神獣鏡を持参。
正始八年(247年)、王宮に詣でて朝貢、不耐ワイ王は再び詔を拝する。(王の)居所は百姓らと雑居で
ある。四季ごとに郡に詣でて朝謁する。二郡(楽浪・帯方)に軍征が起れば賦調として使役を供し、これ
を遇するに臣民の如し。
中国の史書の「梁書諸夷伝」・倭に「正始中(二四〇~二四八)、卑弥呼没す」とある。
フタイは魏の臣民の如くなり、軍征が起れば賦調として使役を供するも、他の三韓は魏に敵視されている。
こうした中でフタイ関係以外に誰が訪日できようか。このころ天日矛が訪日し、近江を一周、出石に入る。
笹山通れば笹ばかり、石山通れば石ばかり、猪豆食うてホーイ、ホイ、ホイ♪これは阿波踊りであるが
踊り方は沖縄とか中央アジアに似ており、「蜂須賀公」が阿波に残したはずの郡上八幡の春駒とは全く
似ていない。先にイスラエル大使がタバナクルとの類似に感心した美馬市「白人神社」は狛人ではないよう
なのでモンゴルで言うホワイトシャーマン、翁、奪衣婆の相方ではなかろうか。さて、天日矛は近江において
製鉄のデモを行っているが、阿波でもその遺跡が発見されたという。展示即売会なのかな。
296:出土地不明
08/09/01 22:39:59 fKDj7h0R
月光仮面のおじいちゃん面白いなぁw
ところでお馬さんのDNA分布や変遷を調べてる
論文とか何処かにないですかね。
今のところ参考書は
崎谷満著「DNAが解き明かす日本人の系譜」
でやっております。
『DNAでたどる日本人10万年の旅』
だとだいぶデータも増えて内容も更新されてるのかなぁ。
297:出土地不明
08/09/02 00:52:43 /zcJw5RV
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)
298:月光仮面
08/09/02 09:07:14 w7RjyiLq
>>296
URLリンク(img438.imageshack.us)
これを念頭に入れ、後は関連ウェブ↓の更新に追随する。
URLリンク(isogg.org)
URLリンク(en.wikipedia.org)(Y-DNA)
URLリンク(en.wikipedia.org)(Y-DNA)
URLリンク(en.wikipedia.org)(Y-DNA)
こんなところかな。指紋同様法医学的、個人情報的側面もあり、そんなに透明性の期待される
分野でもないとは思うが。
299:出土地不明
08/09/02 13:35:52 Mr0iViZu
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
300:月光仮面
08/09/02 16:39:21 w7RjyiLq
>>296
たまには動画も↓
URLリンク(jp.youtube.com)
URLリンク(jp.youtube.com)
URLリンク(jp.youtube.com)
URLリンク(jp.youtube.com)
とっかかりは↓
URLリンク(en.wikipedia.org)
301:月光仮面
08/09/03 07:27:50 Nh1PmprN
>>295
ハツクニシロス男王を目指す崇神(いにえ)が卑弥呼の死に際し、魏からの銅鏡取得との関係も
あり、この元首崩御の内外への公表につき透明性を欠いたことが次期元首の資質を共立倭国
内において問われることなったのが倭国乱の真因で、卑弥呼がもとより狗奴国と不仲であったと
いうのは崇神が勝手にスポークスマンとなって発表したのだろう。
302:月光仮面
08/09/03 09:15:03 Nh1PmprN
そして同8年(247)弓遵から引き継いだ太守・王斤頁は、倭の使者から邪馬台国と狗奴国との交戦の報告
を受け、自ら上洛して官の決裁を仰ぐが、魏朝から邪馬台国へ援軍が送られることはなく、魏の少帝の
詔書と黄幢を携えた塞曹掾史(外交官、軍使、軍司令副官など諸説あり)の張政が派遣されるに留まった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
この張政はおそらく記紀の天日矛の活動に含まれている。天日矛は張政を総司令官とするが、その実体は
>>295
正始八年(247年)、王宮に詣でて朝貢、不耐ワイ王は再び詔を拝する。(王の)居所は百姓らと雑居で
ある。四季ごとに郡に詣でて朝謁する。二郡(楽浪・帯方)に軍征が起れば賦調として使役を供し、これ
を遇するに臣民の如し。
つまり、この年不耐ワイ王は張政に従って倭国に入ったのだ。
303:月光仮面
08/09/03 09:55:41 Nh1PmprN
垂仁は狗奴国の乱の平定後の天日矛には出石或いは淡路を提供すると申し出て、天日矛は自分の
好きなところに行くといって近江に向かう。垂仁は陸の孤島、海の孤島に封じ込めようとしたのであり、
天日矛は出石より淡路経由阿波、安房と僻地を遍歴する。外人部隊の末路である。しかし、入国
当時は連合国、解放軍のような歓迎を受けたのであろう。祇園祭りなどにその記憶が残っているようだ。
304:月光仮面
08/09/03 10:03:47 Nh1PmprN
「阿部氏・中臣氏の本拠地であったこの桜井の地には、現在も多くの古墳が存在しており、先の赤坂天王
山古墳や越塚古墳等、倭国の標準的な石室墳に混じりこの地域に限定して見られる特殊な石室墳も多く
分布しています。その代表が煉瓦のような榛原石で構築された磚槨墳で、花山塚古墳群、舞谷古墳群、
そして六角形の玄室を持つ忍坂古墳群と、その数は数基に止まらず、この地域を代表とする石室形態の
一つとなっています。これらの古墳を築いた勢力は百済系の渡来系氏族であると考えられていますが、
最近赤坂天王山古墳の近くに所在するカタハラ1号墳で穹窿式の横穴式石室が確認されました。」
URLリンク(homepage2.nifty.com)
これは楽浪郡にあるもの。
305:月光仮面
08/09/03 10:10:33 Nh1PmprN
「伊勢遺跡(いせいせき)―新たに弥生後期の大型掘立柱建物2棟と方形竪穴住居跡2棟;これまで発見
された計8棟が径約210mの円周状に配置;竪穴住居跡では床を焼き固め,壁に磚を使用(青銅器工房か)
2001年12月8日(土)14:00/滋賀県守山市~守山市教育委員会(8/Dec/2001) 」
URLリンク(www.ops.dti.ne.jp)
URLリンク(www.gensetsu.com)
壁に磚を使用(青銅器工房か) ・・・楽浪の技術、そして近江八幡に鏡神社、これは天日矛が張政の
指示に基づいて用意したものだろう。ただ円周状に配置するのはアルカイム遺跡の伝統がスキタイ
文化圏で踏襲された結果であろう。中国には客家と言う漢族文化があるが、その起源はカラスク
青銅器文化である可能性もある。彼らの住居も円周状に配置され、鉱山関係者が多いとされる。
306:月光仮面
08/09/03 10:18:27 Nh1PmprN
>>301
「朕は卑弥呼を死ぬまで介護し、死んだ後も岩戸開き儀式で箸墓に祀ったのであるぞ」という
崇神の言葉が響いてくるような気もする。神功皇后と応神天皇の関係だったんだろうが、一切は
崇神の実績とされている。
307:月光仮面
08/09/03 10:29:36 Nh1PmprN
>>305
アルカイム遺跡では円周状の青銅工房住居を毎年焼き払ったとされる。これが伊勢神宮式年遷宮の
起こりとも考えられる。
308:月光仮面
08/09/03 10:44:23 Nh1PmprN
物部布津命・・・不耐ワイ王がフツとなるは、邪馬台国が大和国となるに同じ。
勝部は滑部であり、秦に滅ぼされた滑国の遺民。
松明祭 - 通称「勝部の火祭り」。800年の歴史を持つ滋賀県の三大火祭りの一つ。毎年1月第2土曜日に
行われる。県選択無形民族文化財。 滑・エフタル・ソグド人のもつ拝火教に由来するもの。アナクロ
であるが兄滑・弟猾というのもある。
旧社格は郷社で、旧物部郷の総社。祭神は、主祭神の物部布津命・火明命・宇麻志間知命と、相殿神の
住吉神・猿田彦神を合わせて祀る。大化5年(649年)に物部宿禰広国が物部郷勝部村の現在地に祖神を
祀り、物部大明神と称したのが起源とされる。江戸時代初期に当地一帯に守山宿が設けられ、宿場町とと
もに隆盛した。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
309:月光仮面
08/09/03 11:01:07 Nh1PmprN
天日矛が何故近江に入るのかを考えると、そこに狗奴国があるからと言うのではなく、徐福の三神山
(三上山)、バイカル湖・アンガラ川/琵琶湖・瀬田川といったランドマーク(東洋広しといえどここしか
ない)にあったのではないかとも思われる。
310:月光仮面
08/09/03 11:58:15 Nh1PmprN
>>291
「埋葬形式 グラスコフ式埋葬は新しい方式であり、これ以前の方角に従い、屈脚姿勢としたものとは
異なり、死者は頭を川下にして埋葬され、死者がもたらす危険から生存者を防御するように遺品は意図的
に破壊された。バイカル湖東南部におけるグラスコフ時代の終わりはトゥーヴァ及びモンゴル北西部から
の民族移動によるものであり、到来した民族は特徴的なフェンス付の石積墳(ヘレクスル/ケレクスル)を
持ち込み、これは後に中央アジア全域に石板(スラブ)墳の形成をもたらし、この文化圏はユーラシアの
巨大なノマド世界の東部の一翼をになうこととなり、前一千年紀初頭にスキタイ・シベリア世界という輝かし
い文明を創出した。このトゥーヴァ及びモンゴル北西部からの到来民族はコーカソイドであった。」
URLリンク(en.wikipedia.org)
311:月光仮面
08/09/03 11:59:58 Nh1PmprN
参考
「埋葬遺跡は伝統的文化においてあの世への旅立ちに関係する場所だけでなく、そこは再生の場所
(大地のへそ)であり、毎年儀式を行う場所でもあり(正月から始まって生活サイクルの一切の儀式、
つまり、共同体全員の誕生日、婚礼、共同葬儀と法要などが含まれ)、それらが方形あるいは矩形の
形をとることは、「石板墓」を残した民族が大地崇拝儀式を行うものの、天の崇拝は行っていなかったと
思われる。この関係で、「戎」は「野において贄の供献を行う」民族であるとされることが想起される。これ
は石板墓文化人による先住民の鹿石(鹿メンヒル)の頭頂部に籠められた聖なる太陽/火の属性破壊を
象徴するように、鹿石(鹿メンヒル)を上部からさかさまに地中に埋めることによって、鹿石(鹿メンヒル)を
再利用するということにも現れている。アルタイ語族形成地域における西部と東部の慣習への分裂は
突厥可汗諸国でも見られる。」スクルィンニコヴァ(ブリャート学会)
312:月光仮面
08/09/03 12:08:27 Nh1PmprN
畿内を中心に方形周溝墓が広まり、また、後には前方後方墳が近畿・東海に広がることは中国東北部で
グラスコフから石板墓に入ったものが日本に到来し、その後を追うようにケレクスルが円墳となって西都原
方面に登場、これらが吉備で習合して前方後円墳が成立したものと考えられる。倭国は「和をもって尊し」
としたのか。
313:月光仮面
08/09/03 12:31:07 Nh1PmprN
訳語訂正
stitched birch bark boat 白樺玉勝間
dishes of birch bark and wood 白樺樹皮マゲワッパと白樺製食器
portable cradles イズメッコ
a sawhorse-like contraption for carrying load on the back
(ヤギとも言っているので)カルイ、 カリイ
composite bow 複合弓
short strong spear with a massive long tip 大身の短い槍
three-component divaricating dress that allows to dry by the fire without having to completely undress.
ジンベエ(3ピース前開き衣類で一部着衣のまま炉辺で乾燥できる)
copper knives 銅ナイフ
bronze fishing hooks 青銅釣り針
ceramics土器
314:月光仮面
08/09/03 12:33:31 Nh1PmprN
stitched birch bark boat 白樺玉勝間舟(防水性能の高い舟)
315:月光仮面
08/09/03 15:45:25 Nh1PmprN
>>311-312
極めて強烈な長方形・正方形優先は狗奴国
URLリンク(higashinomiya.com)
URLリンク(higashinomiya.com)
東海地方に存在する。もし、卑弥呼の前方後円墳の円形部分にすら拒絶反応を示すのだとすれば
それはブリャートモンゴルにおける対立をそのまま引きずっていることになる。
「先住民の鹿石(鹿メンヒル)の頭頂部に籠められた聖なる太陽/火の属性破壊を象徴するように、
鹿石(鹿メンヒル)を上部からさかさまに地中に埋める」という考え、また、御日射はブリャートモンゴル
にもあるが、これもこの東西対立から来るものかもしれない。
316:月光仮面
08/09/03 16:24:41 Nh1PmprN
天日矛・不耐ワイ王部隊がバイカル湖の南岸にも似た湖南で巨大な銅鐸を目にした時、それが
はるかに昔の長江下流を彼らが持って北上した無地の銅鈴から日本人となった彼らの同胞が
作り上げたものだと気付いた時、彼らは神の姿を見たような想いであったであろう。外人部隊として
これを破壊し、三角縁神獣鏡の偽ブランドを量産するのが新使命だ言われた時の気持ちは複雑
であっただろうと思う。信楽焼でも焼いた方がいいと思ったかも。
317:出土地不明
08/09/03 16:29:55 l8R5pRal
おい、馬鹿www 相変わらず凄い妄想だなww
其れとも寝言か?
318:月光仮面
08/09/03 16:35:53 Nh1PmprN
朝青龍,、「やくさんに感謝しないとね」と上機嫌だった。 関取のやくさんはこまるがのー。
319:出土地不明
08/09/03 23:25:35 I+eg4y6a
見よ!
これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。
(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)
鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)
320:出土地不明
08/09/04 05:16:51 +M816uuI
>>298
>>300
おっちゃんありがと。
色々知りたいことあったんだけど
たぶんお馬さんのDNAと借用語調べていけば早そうなんですよね。
321:月光仮面
08/09/04 08:32:06 Dly8vdB6
>>309
初回張政ミッションはツヌガアラシト、この際のコミットメントを実行する形で、大和朝廷の合意の
下で渡来したのが天日矛。しかし、播磨あたりでも政情は不穏になっていたということか。
322:月光仮面
08/09/04 08:50:38 Dly8vdB6
URLリンク(www.hyogo-c.ed.jp)
URLリンク(www.hyogo-c.ed.jp)
これは天日矛が入った出石から出土したもの。張政訪日の日本史に対する重要性を
強調しているように見える。
323:出土地不明
08/09/04 13:00:37 dbvnQyA5
「地下の弥生博物館」といわれる青谷上寺遺跡から出土した木製盾から緑色顔料「緑土」が確認されたと鳥取県埋蔵文化財センターから発表がありました。
今まで東アジア最古とされてきたのは高句麗・徳興里古墳とされておりましたがそれよりもさらに200~300年前とのことです。
やはり日本人は周→呉→日本列島だったのですね。
324:出土地不明
08/09/04 13:37:31 3psUWYIS
弥生時代の顔料はこれまで朱の赤、漆の黒が知られていたが、大陸の顔料が伝来する以前の日本独自の色彩を知る貴重な史料となりそうだ。
2008/09/03 21:06 【共同通信】
大陸の顔料が伝来する以前の日本独自の色彩を知る貴重な史料となりそうだ。
日本独自の色彩を知る貴重な史料
325:月光仮面
08/09/04 16:21:53 Dly8vdB6
>>310
前2千年紀の南シベリアは東にグラスコフ文化、西にアンドローノボ文化があり、グラスコフ文化は現在の
エベンキ、エベン、ユカギルの祖で、アムール上流域、満州北部、長城/オルドス以北のモンゴル住民の
文化に極めて近く、新石器、初期青銅器狩猟漁労文化に関連し、部族言語は相互に関連を持っていた。
グラスコフ文化は後に匈奴の祖先と合流、交じり合う。前18世紀にはアンドローノボ文化が南シベリア・ミヌ
シンスク盆地を占領し、エニセイ川流域でグラスコフ文化人と対峙する。ところが、前2千年紀、南シベリア
には土着白人である丁霊がサヤン・アルタイ山地、ミヌシンスク盆地、トクーヴァに住んでおり、グラスコフ
文化、アンドローノボ文化共にこの地方では脇役を演じた。グラスコフ文化期、グラスコフ文化とアンドロー
ノボ文化の2つの文化が南シベリア丁霊人に重なった。グラスコフ期の次に来るのはカラスク期であり、
これは匈奴の到来によって始まる。
326:月光仮面
08/09/04 16:23:08 Dly8vdB6
前12世紀の匈奴は匈奴帝国を築いていたことが考古学的に立証された。当時の匈奴は河北からバイ
カル湖までを占領し、既に中国を攻撃していた。中国の史書は彼らの民族的特徴を「彼らは家を持たず、
土地を耕さず、天幕に住み、・・・年長者を敬い、時に応じては集会してことを決める」と記述している。彼ら
は砂漠を通過して到来し、孤立していたグラスコフ及びアンドローノボ文化の両方の住民に対して支配権
を確立する。匈奴の移動を引き起こしたのは気候の変化による。前12世紀匈奴の移動遊牧牧畜は高度に
発達し、役畜の牽引力も増加し、牧草地を求め北方に移住した。馬には荷が過ぎおぼつかぬため、牛に
引かせた有蓋四輪車の「舟」で「砂の海」を渡る匈奴の先祖達を描いた岩面陰刻が残されている。前2千
年期末の気候変化は植生の分布に変化をもたらし、前1千年紀中葉まで続く気候の寒冷湿潤化が始ま
り、ゴビ砂漠の境界は変わった。「寒帯密林の海」は南進し、森林草原は濃い茂みに変わり、シベリア
住民の生活基盤を破壊したが、南方遊牧民には利するものであった。前3世紀、匈奴は既にゴビ砂漠から
シベリア寒帯密林に至る草原全域の主権者と化した。
327:月光仮面
08/09/04 16:31:57 Dly8vdB6
エニセイ・アバカン川河岸においてはグラスコフ人の丸太小屋の隣に遊牧民の円形テントが出現した。
文化の融合と共に人種の混合もあり、カラスク期の埋葬地からは細面北方華人型モンゴロイドと南方系
短頭コーカソイドが一緒に出土する。
-----------------------------------------------------------------------------------
こういう風に続いているんだが、例の秦氏と言うのもこうした下地の中で生まれた部分もあるかも。
328:出土地不明
08/09/04 19:37:55 6UAP4694
137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。
弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。
329:出土地不明
08/09/04 20:18:23 Cvfg26dl
>>324
共同通信は何を言ってるんだろ?
弥生時代は日本に渡来してきた弥生人の時代なのに日本独自って・・・。
縄文時代の話なら日本独自ってのも理解できるが。
それとも弥生人が発明した顔料って根拠でもあるのかな?
330:出土地不明
08/09/04 22:08:04 EmRdL9r7
絶対どっかでヒマラヤ系の血が入ってると思う。
レプチャ人と日本人の類似はただ事ではない。
…彼等が沖縄を経由して日本に行く際に手に入れた陸稲を持ってきたとか。
331:出土地不明
08/09/04 23:08:56 I5f96dBt
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
332:月光仮面
08/09/05 11:07:16 dzu4DngI
>>316
白石太一郎 「銅鈴から銅鐸へ
中国では、銅鈴は3900年前(龍山文化末)に純銅製品が現れ、3700年前(夏代、二里頭文化)から青銅
製品が普及する。世界最古の青銅鈴は高さ8cmほどの小型品で、人の腰につけて使っていた。3500年
前(殷代)には、人のほか、犬・馬の頸や馬車に銅鈴をつける。朝鮮半島には前6世紀ごろ銅鈴が伝来
する。司祭者が身体に着け、神懸かりの状態になるのを助けていたようである。前4世紀ごろ海を渡った
銅鈴は、近畿地方で高さが20cmをこす大型品に変わった。そして、鈕にも身にも文様を施した。」
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)
333:月光仮面
08/09/05 11:11:30 dzu4DngI
↑右から三番目、殷の銅鐸はオルドスに移る↓
121-鐸、青銅、中国、赤峰市付近収集、前九-七世紀(西周-春秋時代)、長さ一・八cm、文学部考古学
研究室列品室
122-鐸、青銅、中国、赤峰市付近収集、前九-七世紀(西周-春秋時代)、長さ二・〇cm、文学部考古学
研究室列品室
赤峰市付近を中心として内蒙古東部に分布する夏家店上層文化の鐸である。夏家店上層文化は、初期
遊牧民文化のなかでも早い時期の文化で、スキトーシベリア動物意匠も既に見出される。(高浜)
URLリンク(www.um.u-tokyo.ac.jp)
URLリンク(www.um.u-tokyo.ac.jp)
334:月光仮面
08/09/05 11:16:58 dzu4DngI
「朝鮮では遼寧式銅剣を祖型として前3世紀ころに細形銅剣を製作しはじめた。」
「1987年に全羅北道益山郡王宮面平章里の丘陵上から細形銅剣2点・細形銅戈1点・中細形銅矛1点と
幡ち文鏡1面がいっしょに見つかりました。地元の発見者によってすでに掘り返されていましたが、全栄
来さんが調査し、土坑墓からの出土であったとみて『馬韓百済文化研究』第10輯(1987年)にその結果を
報告をしています。
高倉さんの批判があったあと、岡村さんに教示を求めたところ、平章里の幡ち文鏡はⅠ式に属し、戦国末
から前漢代までさかのぼるとのことです。すなわち、平章里遺跡の年代は前3世紀後半を上限とする時期
と考えてよいことになります。
弥生中期中頃を北部九州の土器型式におきかえると須玖Ⅱ式(古)に相当します。須玖Ⅰ式は炭素年代
では、前300年~前200年頃という結果がでています。そして、典型的な前漢鏡を副葬する中期後半~末
の須玖Ⅱ式(新)の年代は、長崎県原の辻遺跡の6点の炭素年代を測定した結果では前200年~前40年
という測定結果がでています。」
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)
335:月光仮面
08/09/05 11:22:03 dzu4DngI
朝鮮小銅鐸随伴出土青銅器には細形銅剣、多鈕粗文鏡、防牌型銅器、無文土器時代である。
URLリンク(www.geocities.jp)
URLリンク(www.geocities.jp)
「ここで朝鮮無文土器時代の有名な防牌形銅器に触れておきたい。この器物は,その文様から農耕祭祀
にかかわる儀器であると推測されているが,人物の特有の表現(図27)は,石寨山型銅鼓等に施されて
いる人物表現(図28・29・30)と酷似している。この防牌形銅器は,朝鮮では異形青銅器と分類される一連
の器物の一つである。これらの異形青銅器は,紀元前4世
紀から紀元前3世紀頃,忠清道に分布し,突然現れて短期間で消えていったとされている。これらの
諸点は,これらの青銅器が朝鮮半島本来のものではなく,外から入ってきた要素であること,またその
製作にはそうした要素の関与があったことを暗示しているように思える。」
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)
336:月光仮面
08/09/05 11:31:04 dzu4DngI
「徐福時代」、殷、オルドスの銅鐸は忠清道において銅鈴型に退化し、東奈良、湖南において急速に
発展する。これは吉野ヶ里に入ったものが
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)
でいわれる中国南方の出自であったことを意味し、銅鐸が近畿に入った後でオルドス(パジリクミイラ
の鬘に似ている)要素を加味したのではないかと思わせる。
337:出土地不明
08/09/05 11:57:04 1tp9LteW
ユダヤ人→小池栄子、井上陽水
シュメール人→小島よしお、小倉優子
スキタイ人→堂本剛、志田未来
ドラヴィダ人→相川七瀬、西川貴教
高麗人→仲間由紀恵、知念ゆうり
フビライ人→MEGUMI、笑福亭釣瓶
倭人→石原よしずみ、石原さとみ
アイヌ人→北野武、倖田來未
エジプト人→志村けん、熊田曜子
338:出土地不明
08/09/05 12:07:02 ggAN590i
>皆さん三足土器は東北,九州地方を中心に、数多く出土してるよ土器人に騙されないでね。
北方沿海州だの九州から出てこないだのとワメキ騒ぐので要注意!!!
1. PDF] 縄文土器は、多種多様で彫り刻む文様が組み合わさり、世界的にみても ...
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漆塗り皿形土器〔大洞式土器〕/. 青森県重宝. 024. /注口形土器〔大洞式土器〕
/風韻堂コレクション. /鬲状三足土器〔大洞式土器〕. /漆塗り壺形土器〔大洞式土器〕
/重要文化財. /漆塗り壺形土器〔大洞式土器〕/重要文化財 ...
1. [PDF] 青森県虚空蔵遺跡出土土器の共同研究
ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
六ヶ所村富ノ沢遺跡と、相次いで縄文晩期の大洞式に伴って三足土器が発見されることになる。
いずれも青森県埋蔵文化財センターの正式調査による出土であり、ことに今津例はポジの雲形文
’. とネガの工字文からなる大洞C2式ないしは聖山式特有の文様を ...
339:出土地不明
08/09/05 12:08:21 ggAN590i
1. [PDF] 岩手県川目遺跡調査概報 草間俊一 ...
ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
にほ縄文式晩期の大洞式のものが多く,第1区にほ晩期のものが僅か混入する程度で,
後期のもの .... この類の土器では図版第2図の2の如き三足土器が. 損土している.
この土器の文様ほ,胴部全体を縦に六つに区劃し,その区劃は2条の沈腺によって ...
1. [PDF] 青森県虚空蔵遺跡出土土器の共同研究ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
九州の一部で発見される三足土器について、賀川光夫氏はそれらが黒陶類似の黒色土器.
と共伴することに注目し、大陸との交渉を肯定的にとらえた(賀川 1961)。この説を
支持した. のは、梅原末治氏で、瑛状耳飾りや大分県秋葉遺跡の有足土器をもとに、 ...
dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/8557/1/80466_42.pdf
340:出土地不明
08/09/05 12:10:28 ggAN590i
一九七〇年、大分県の国東半島にある重藤遺跡から鉄製の剣が木炭とともに出土した。
これをC14年代測定法で分析したところ「紀元前六九五年プラスマイナス四〇年」
という結果が出た。しかし考古学界はこれをほとんど黙殺。「鉄は弥生時代」との通説
と合わなかったからだ。
縄文式とも弥生式とも異なっていて、中国大陸最古の王朝「殷(いん)」のものと
よく似たトウテツ紋様の土器片が数多く出土している。
伊木力遺跡からは、瀬戸内海沿岸特有の船元 Ⅱ 式土器が出土した。 それによって、
そこの住民が瀬戸内海沿岸まで交易に出かけたありさまが伝わってくる。
大分県豊後大野市「秋葉遺跡」で、中国の青銅器そっくりによく似た三足土器が出土し ...