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「正始六年、樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東ワイ屬句麗、興師伐之、不耐侯等舉邑降。 其八年、
詣闕朝貢、詔更拜不耐ワイ王。居處雜在民間、四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調、供給役使、遇之如民。
正始六年(245年)、楽浪郡太守劉茂と帯方郡太守弓遵は領東で高句麗に従属していたワイを討伐し
た。不耐侯らは邑(国)を挙げて降伏した。 正始八年(247年)、王宮に詣でて朝貢、不耐ワイ王は再び詔
を拝する。(王の)居所は百姓らと雑居である。四季ごとに郡に詣でて朝謁する。二郡(楽浪・帯方)に軍征
が起れば賦調として使役を供し、これを遇するに臣民の如し。 」この結果高句麗から独立、魏の傭兵の
立場を活用九州北部の行政機関に入り込み、九州南部に隼人として入植。大和葛城には本国同様金剛山
周辺に橋頭堡を築き邪馬台国を支えたのであろう。