08/08/19 12:02:25 t6ZkdYrR
毛野氏は崇神天皇の長子である豊城入彦命の子孫を称する。豊城入彦の孫の彦狭嶋王が東山道15国
の都督となったこと、その孫の荒田別、巫別が百済に派遣されたこと、上毛野田道が蝦夷を征討したこと
などが『日本書紀』に見えるが伝説と見られている。
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近江毛野
「継体21年(527年)、新羅によって奪われた南加羅・喙己呑などの諸国を奪還すべく任那への赴任を命じ
られる。しかし、その途中に筑紫国造の磐井が新羅と組んで毛野の進軍を妨害しようとしたため、渡海で
きなかった。このとき、磐井は毛野に対して「かつて同じ飯を食った仲間がなぜ命令するか」(昔は吾が伴と
して、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき)と詰問したとされるが、近江の豪族・毛野と筑紫の豪族・
磐井との間に、それ以前に交流があったかどうかは不明である。」
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毛野氏、近江毛野氏、磐井、隼人などはエフタルであろう。また、斎明天皇の外人饗応には異常なものが
ある。
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斎明天皇の属する継体蘇我王朝の系図
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これ自体エフタルの系図ではなかろうか。