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が、「一方、吐谷渾は中国の華南地方とも交易の媒介をおこなっていた。南朝側の記録には、吐谷渾は
「河南国」(河南=兆水の西、甘粛省臨夏県の地方)の名で登場するが、その役割はやはり西域諸国との
中継者・案内者だったようである。『梁書』の滑国(エフタル)に関する記述には「其言語待河南人訳、
然後通」とあり、吐谷渾人がエフタルと中国の間の通訳をしていたこと、『南斉書』内内(ぜいぜい)虜伝には
「内内常由河南道而抵益州」とあり、内内(柔然、蠕蠕)が四川盆地に向かう場合は常時、吐谷渾領の
青海ルートを経由していたことが記されている。」
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といった情報や隋書流求国伝において「隋の煬帝は、海に入り異民族を求めさせた。命を受けたものは
流求国に到ったが、言葉が通じず、一人をさらって帰った。翌年、再び使者を派遣して、流求を服属させ
ようとしたが、流求はこれに従わなかったので、その国の(麻)布製のよろいを奪って帰った。ちょうど
その時、倭国の使者(遣隋使)が来ていて、これを『夷邪久(イヤキウ)国の人が使うものである。』と
語った。
煬帝は兵を義安郡(広東省潮安県)から派遣し、これを攻撃させた。高華嶼に至り、また東行二日で
クヘキ嶼に至り、更に一日で流求に至る。南方諸国の人を従軍させていたが、その中で崑崙人が流求の
言葉を非常に良く理解した。」
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ということはエフタルが本土のみならず琉球にも到来していたことを意味し、隼人の起源がエフタルでは
ないかとの観を深める。