日本人どこから来たんだ?4at ARCHEOLOGY
日本人どこから来たんだ?4 - 暇つぶし2ch100:月光仮面
08/08/16 07:57:50 BF3s3Kkx
であるから、スキタイ・関東武士団とフルリ人の子孫である秦氏は一時的に数千キロも隔離されていた
ものが、安陽、半島、列島で再会する。YDNA D2に見られるハプロタイプの多様化はこのような環境に
よって発生したものと見る。配牌時に役満ができるように神が列島に遺伝子を積み込んだとする考えは
うますぎるのである(w

101:月光仮面
08/08/16 08:05:44 BF3s3Kkx
神武が大和盆地の地形を国見してすばらしいとしたその価値観は安陽を、二里頭を発見したユーラシア
モバイル牧畜民の発想であり、それは遠くウラルのアルカイム、シンタシュタ、トゥルクメニアのゴヌル・
デぺに遺跡を築いた時と同じ発想である。旅路の果てに青い山脈を発見したようなものなのだ。

102:月光仮面
08/08/16 08:24:40 BF3s3Kkx
秦氏とはシナイ銅山を経営しながら、車の売り込み、技術革新、経営戦略に徹した世界最初の
多国籍企業経営者であり、太公望を初めとして各国の政治顧問となったもの。オシホというのは
オシポ、ヨセフと同一に意味であり、ホヒというのはヒクソスファラオ、アポーピス(フイフイもか?)に
通じる。砂漠の民シャスはフルリ、ハビルに感化されてヨセフ、モーセの話を作り上げたのであろう。
カミオカンデに近い高山の匠の技は下っては三河の国を拠点とし、いまやその車を知らぬものはない。
これらは秦氏であるとか、稲葉城の斉藤道三のような人物の先天的能力によるものと見て間違いある
まい。

103:月光仮面
08/08/16 08:35:45 BF3s3Kkx
バシコルスタンのヨセフ的英雄、アミン・ベクはダイスを振ってエジプトファラオから国土を得た。
しかし、殷の悪王は神を相手にダイスを振って後指を指される。御日射は旱魃予防の呪いであるが
ブリャート・東海・東日本の慣習であり、殷では血で満たした皮袋を矢で射る悪逆無道の帝とされるが
これらはユーラシアモバイル牧畜民が殷の王権にあったことを物語り、秦氏が一時はエジプトに
続いて殷の政権をも握っていたことを意味する。

104:出土地不明
08/08/16 18:19:24 1uvRuz2m
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)

105:出土地不明
08/08/16 19:41:45 tp4KvCts
                             
『日本の歴史学会は「ミマニアン・ドキュメンツ」(任那日本府-公文書群)を研究せよ』

                                 
■『三国史記』編纂の資料として使われた『ミマニアン・ドキュメンツ』(M資料)
                                                                 
 高麗時代前期(1145年)に編纂された朝鮮最古の歴史書・『三国史記』は興味深い書物である。
この書は、半島側の資料として、『古記』、『海東古記』、『三韓古記』、『本国古記』、『新羅古記』、
金大問『高僧伝』、『花郎世記』などを第一次史料として引用したとされているが、
かつて半島南部を統治していた任那日本府(シラキ日本府)によって記録され、伝承されきた古文書、
いわゆる『任那日本府-公文書群』(ミマニアン・ドキュメンツ)も、資料として使われているようだ。
 シラキ(弁韓)を建国した稲飯命とその子孫に関する記録を、『朴氏』(日子氏[ボコ氏])の歴史として
記録しているのだ。
 捏造・創作も多く見受けられるが、白村江戦争後にワイ族によって焚書されたと思われていた
『任那日本府-公文書群』が、1145年まで残っていたという事実は驚きである。
 おそらく、日本書紀にその名が記されている『百済本記』、『百済記』、『百済新撰』なども、
『三国史記』編纂の際の資料として使われた『任那日本府-公文書群』の一部であろう。
 ミマニアン・ドキュメンツは『三国史記』が完成すると同時に焚書されており、現存しない。
しかし、『三国史記』の内容を、日本側の古文書や伝説・神話と照らし合わせながら分析することで、
ミマニアン・ドキュメンツの内容を、あるていど復元することは可能である。
 聖書学者が、さまざまな古文書や考古学資料を基にして、新約聖書-福音書の資料となった
『Q資料』の内容を解明しているように、日本の歴史学者も『古事記』、『日本書紀』、『新撰姓氏録』、
『風土記』、『三国史記』などの内容を調べることで、『M資料』の内容を解明できるであろう。



106:出土地不明
08/08/17 21:25:54 KExhxPc1
日本人と朝鮮人は、ルーツが違うよ
どう見ても

107:出土地不明
08/08/17 23:54:02 v6otPd88
石家河文化の遺跡

陶器類(深腹罐、圏足盤、鼓腹罐、大口罐、鼎、釜、瓶、杯、平底鉢、竹節豆、甑、器座、擂鉢など)
URLリンク(www.tscc.tohoku-gakuin.ac.jp)
深腹罐、圏足盤、鼓腹罐、大口罐、鼎、釜、瓶、杯、平底鉢、竹節豆、甑、器座、擂鉢
深腹罐、圏足盤、鼓腹罐、大口罐、鼎、釜、瓶、杯、平底鉢、竹節豆、甑、器座、擂鉢
深腹罐、圏足盤、鼓腹罐、大口罐、鼎、釜、瓶、杯、平底鉢、竹節豆、甑、器座、擂鉢
深腹罐、圏足盤、鼓腹罐、大口罐、鼎、釜、瓶、杯、平底鉢、竹節豆、甑、器座、擂鉢

108:出土地不明
08/08/18 00:01:26 jbIBOBNw
良渚文化(約紀元前3100年~前2200年)

陶器は、鼎・高杯・鉢・蓋などで、鉢から脂肪等を検出され、スープを作っていたと想像されます。
URLリンク(abc0120.net)
鼎・高杯・鉢・蓋
鼎・高杯・鉢・蓋
鼎・高杯・鉢・蓋
鼎・高杯・鉢・蓋

109:出土地不明
08/08/18 00:04:04 jbIBOBNw
崧澤文化(B.C.3900~B.C.3200)

上海市青浦県の東4㎞、太湖地区から発見され、面積は15万㎡です。
URLリンク(kohkosai.web.infoseek.co.jp)

崧沢遺跡

約5000年前の崧沢文化期早期(中層)では、狩猟具は少なくなり、ろ過に用いたと
思われる器(図30)や、煮炊き用と思われる鼎、こしき、釜、缶、豆、杯、鉢など
(図31)が発見されているという。
URLリンク(freett.com)
鼎、こしき、釜、缶、豆、杯、鉢
鼎、こしき、釜、缶、豆、杯、鉢
鼎、こしき、釜、缶、豆、杯、鉢
鼎、こしき、釜、缶、豆、杯、鉢

110:出土地不明
08/08/18 00:06:45 jbIBOBNw
馬家浜文化(B.C.5000~B.C.4000)

揚子江下流、太湖の周辺の、後の良渚文化と同一の地域に分布しています。
土器は紅陶が主で、縄紋がなくなり、鼎が出現しました。
URLリンク(kohkosai.web.infoseek.co.jp)
鼎が出現しました
鼎が出現しました
鼎が出現しました
鼎が出現しました

111:月光仮面
08/08/18 08:42:30 TdsZfYug
「エフタルは山岳民族か、或いは、草原民族か」 1967 L.N. Gumilyov
結局、最後に問題が残る。5-6世紀にかくも広大な広がりを見せたエフタルはどこに消えたのであろ
うか?中央アジアのエフタルはチュルクの影響下に入り、インドのエフタルはラージプート
に参入、山岳に残ったものは現在アフガンと自称している。567年のチュルクのポグロムにより、彼らは
民族として存在しなくなった。 L.N. Gumilyov
URLリンク(www.gunmaibun.org)
「中央アジアの芸術」
この時代の特徴的なのは鍔広帽。若干の研究者は、こうした帽子を5 - 6世紀に中央アジア農耕民を
征圧した遊牧民エフタルに関係するものとしている。  
M. Dyyakonov
URLリンク(chikatsu.mediajoy.com)
千葉県千葉市/人形塚古墳(古墳時代 約1,400年前)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
「毛野における古墳の変化 大塚初重
観音山古墳の副葬品の中に銅製水瓶(すいびょう)がある。日本の古墳では唯一の出土例であるが、
中国北斉(ほくせい)の鮮卑族(せんぴぞく)の貴人・庫狄回洛墓(こてきかいらくぼ)出土例との比較
から、北斉から百済(くだら)へ百済から大和王権へ、さらに大和王権から毛野の観音山古墳被葬者
へという歴史的な脈絡を辿(たど)れるのかもしれない。実はこの古墳の副葬品の中には、直径二三・
三㌢の獣帯鏡が含まれているが、一九七一年に偶然に発見された韓国忠清南道公州市の武寧王陵
(ぶねいおうりょう)から出土した獣帯鏡と同笵鏡(どうはんきょう)であることを確認している。
 すなわち観音山古墳の豊富な副葬品の中には、中国(北斉)と韓国(百済)、百済と倭(わ)の大和
王権とを結ぶ古代東アジアの歴史的な関係の糸が結び合っているように思われる。さらに大和王権と
毛野の首長との間にも緊密な政治的関係があったことは間違いない。観音山古墳の出土遺物の中には
五□(ふり)の銀装刀子(とうす)や金銀で飾った頭椎大刀(かぶつちのたち)や銀象嵌(ぎんぞうがん)の
竜文をもつ捩(ねじ)り環頭大刀(かんとうたち)をはじめ、奈良県藤ノ木古墳出土の馬具とも共通する
特徴を示す馬具が出土していて、観音山古墳が東国でも超一級の内容を持つ古墳であることがわかる。」

112:月光仮面
08/08/18 08:45:28 TdsZfYug
「「エフタルは山岳民族か、或いは、草原民族か」 1967 L.N. Gumilyov
婚姻制度について言及されていることが特に重要。エフタルは一妻多夫制で、兄弟で妻を共有した。こうし
た婚姻制度はチベットで定着しているが、それも、定住性チベット人の間だけであって、BC3世紀にアムド
で遊牧をしていて4世紀に鮮卑に滅ぼされる羌族にはない。チベット族がブラフマプートラ河に沿って移動
しながらパミール山系の峡谷に到着するのは晩く、5世紀を早回るものではなく、かれらは一妻多夫制を
原住民から取り入れたのであり、その逆ではない。現地人との密接な交流、混血を保つ1000年間の
共存はそれなりの結果を残したようである。エフタルの一妻多夫制とそれの広がりについては衣服と言う
民族誌学的資料も取り入れる必要がある。
中国の史家は一様に女性が一本の角をつけた毛皮の帽子を被り、その角には夫の数だけの枝がある
としている。同様の帽子はカフィルスtンの女性と、まさにエフタルの主要な集合が居住していたと推定
されるインド北西の地域において見られるということは極めて重要である。インドでは古来よりこうした帽子
は知られておらず、クシャン朝の例えばフヴィシュカ王の硬貨において見られるが、これはとりもなおさず、
パミール、ヒンズークシの山国起源のこととなり、これはエフタルがこの地で形成された民族であることを
裏付けるものである。」
URLリンク(www.gesanmedo.or.jp) ←白馬チベット族

113:月光仮面
08/08/18 08:55:56 TdsZfYug
エフタル キダラ キオン 百済 祇園 毛野 白い匈奴 狛人 つるめそ ルーペルカリア 狼僧
角隠し 花魁のかんざし 吉原・新宿の熊手 7枝刀 印欧諸族の浮気される亭主 ギデオン
一妻多夫 鵜坂神社 祇園・・・この辺がキーポイントとなろうか。

114:月光仮面
08/08/18 12:36:06 TdsZfYug
「大国エフタルの歴史的運命は驚くほど中世スイスの運命に似ている。どちらも好戦的山岳民が隣接君
主国の一時的凋落と国難に乗じて併合の機会を得ており、方やオーストリアとブルグンドに、方やペル
シャとインドに対して輝かしい勝利を収めた大国であるが、両方共、占領地の確保と成功を固めることに
は成功していない。そして、その後スイス傭兵はフランス王の親衛隊として耀き、エフタル戦士は崩壊した
グプタ王朝敗残兵の討伐を助けラージプートの戦列の中で拡大を見た。」1967 L.N. Gumilyov


115:月光仮面
08/08/18 14:42:50 TdsZfYug
「クシャン帝国を形成したが、その民族名は民衆の記憶に残らなかった民族とは異なり、エフタルはトカラ
同様地元の民族であるとする現地の慣習がある。私の知人のアリフベク・ヒイシャロフ、44才、シュグナン
族、はイスマイル僧に学んだ人物であるが、若い時に読んだ原稿について言及した。その一つで出版され
たものを見つけtのだがTa'rikh Nama-i-Haratといった。その中でヘラトの基礎作りについての伝承があり、
あるときフシャングの子タフムラシなるものがカンダハル近辺に住んでいた同民族を抑圧したという。この
ときにその民族5,000人はカブールの方に出て行き、そこに住み着いたのであるが、気候が合わず、
グールの国に移動したが、そこからさらにアウベと言うところに移動し、そこで紛争を起こし、戦争を始める
にいたり、彼らの一部はクシャン・オルヴィアン、すなわち、高クシャンと言う場所に出て行ったとされる。
このとき留まった方の指導者はHAYATLE(日本語読みにすれば隼人/疾風と読める)であった。出て行っ
たものと残ったものとの戦いの話は省略する。大事なことはそれではなく、HAYATLEという言葉に
「Haytal」及び「Heptal」という民族名を認めないわけにはならないことである。」1967 L.N. Gumilyov
隼人とは鷹匠か。



116:月光仮面
08/08/18 15:05:08 TdsZfYug
「エフタルの社会制度についてはこのプロコピイが述べているが、「彼らの生活は他のウンヌとはにてお
らず、彼らのように畜生同然ではなく、一人の帝王の統治下に属し、行き届いた市民社会を形成し、
同族内、及び異民族との間においてはローマ人はおろかどの国にも劣らぬ公正を遵守している。」北史
は加えて「王権は相続されることなく、身内で最も能力のあるものがこれを受け継ぐ。刑罰は極度に厳し
い。盗みの場合は量刑はなく斬首、盗品の賠償は10倍。」「都は帝王の宮殿あるのみ」「10里(5km)四方
の贅沢な城である。」1967 L.N. Gumilyov ・・・秦の法家の源流か。

117:月光仮面
08/08/18 15:11:05 TdsZfYug
ところがエフタルは群馬県に出現するのだ。!!!
URLリンク(www.gunmaibun.org)
「器台・足を別個体とする大形の全身像である。「鷹匠(たかしょう)埴輪」と呼ばれているが、すでにこの
時代、「鷹匠」として専業職化していたかどうかは明らかではない。手首に手甲(てっこう)をはめ、腰に
大刀と鞆(とも)をつり下げ、頭に鍔広帽(つばひろぼう)を被っている姿は、狩猟装備をした貴人を思わ
せる。「鷹を使う盛装の男子」とする方が妥当かもしれない。涼しげな目、小さく締まった口元、鼻筋が
通り、端正で気品に満ちた顔立ちをもつ。
 髪は左・右に分けて「下げ美豆良(みずら)」に結い、三重に巻いた飾りひもでとめ胸元にたらす。装飾
品は、美豆良の下に耳環がのぞき、胸元には大玉の首飾りが見られる。腕は両方とも前方にのばし、
左上腕には内側を向いた鷹を止めている。尾羽の付け根には儀礼を目的とした鈴を付けており、これも
一つの権威の象徴と考えられる。鞆の後ろに下げられた半楕(だ)円球の袋は、鷹の餌袋かと思われる。
鷹を使う男子の埴輪は数例知られるに過ぎず、しかも群馬県に多い。中でもこれは最も全高が高い。」
聖徳太子も美豆良だからエフタルだ。

118:月光仮面
08/08/18 15:17:05 TdsZfYug
こうした関東の警備兵は杖刀人と呼ばれたようである。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

119:月光仮面
08/08/18 15:24:42 TdsZfYug
天智、天武、額田王から現代に到るまで日本人は一夫/婦-多妻/夫制度と一夫一妻制度を昼と
夜で使い分けている。特に永田町、神楽坂等で多いようである(w これは祇園から来るのではなかろ
うか。エフタルの遺産であろう。

120:月光仮面
08/08/18 16:12:56 TdsZfYug
スレリンク(min板)menu23-24
ヒッタイト、ミディアナイトの神殿売春の風習にはかのモーセの苦労したらしい。歴史的に
そうとうすれた民族である中近東系のイスラエルですら大問題となった神殿売春慣習とは
国際的に見て極めて異常なものであったようである。山上憶良のようなグッド・パパと言うのが
やはり国際的には良識人なんだろう。ミノさんみたいにあちこち梯子するのはエフタル的なのかな。
いずれにせよユダヤ教が生まれる前のこうしたいきさつは始めにヒクソスありきの感が否めないの
である。

121:出土地不明
08/08/18 16:39:14 czG4VijP
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)

122:月光仮面
08/08/18 17:17:08 TdsZfYug
カラスク文化 (ロシアwiki)
カラスク文化-南シベリア・カザフスタン青銅期(前2000年紀末-前1000年紀始)考古学的文化。
ノボシビリスク州カラスク川に由来。アラル海からエニセイ上流に広がる。アンドローノヴォ文化の影響下
で発展。後、タガール文化と交替する。
生業 経済は主に農業牧畜。中国との貿易を維持する。住居は主に竪穴住居。
文化
死者は箱式石棺墓に埋葬し、盛土で覆う。
出土品は短剣、ナイフ、水掻型ペンダント URLリンク(im8-tub.yandex.net)
ネックレス、バックル、ボタン
出土埋葬遺跡は2000箇所以上。
カラスク時代は騎乗の始まる時代。
人類学的特徴
モンゴロイド遊牧民であるが、Gumilyov説では多くの地元丁霊との混血を受けていると。
言語はケト語と近縁。
中国北部が原郷。別の説ではカラスク人は南の中央アジア出自で、理由はその墓にパミールフェルガナ
系白人
URLリンク(upload.wikimedia.org)
頭骨があるからとする。B. O. Dolgikh, A. P. Dulzon, N. L. Chlenova, E. A. Novgorodova, M. D. Khlobystin
等はカラスク人をケト人の祖先としている。

123:月光仮面
08/08/18 17:19:52 TdsZfYug
秦氏がイラン人であったり、ユダヤ人であったりする理由はこうした白人系とベッドを共にしてきたという
ことで、それが秦氏の秘密結社的側面の一つではなかろうか。

124:出土地不明
08/08/18 20:30:52 KmtZ47nv
                           
 韓国人は今でも、狩猟民族としての性質を残しているようだ。やたらと興奮して動物を殺し、
その血を公の場で撒き散らして自分たちの感情をアピールする。
 こういった行動は、文明人というよりも、古代の原始的狩猟民の行動ですね(w
                           
YOUTUBE◆雉を殺して反日をアピールする韓国人たち
URLリンク(jp.youtube.com)
                     
■ワイ族-朝鮮・韓国人の先祖である狩猟民族

 古代カラ半島東北部に居住していた北方アジア系=狩猟民族。もともとはシベリアの山岳部や森林地帯に
住んでいたツングース系民族の一派であり、現在の朝鮮民族の直系の先祖。
 ワイ族は、古代の半島南部に住んでいた倭人系民族のシラキ人、ミマナ人、クタラ人などと敵対関係にあり、
倭人系民族と領土紛争を繰り返していた。
 ワイ族は3世紀初頭から、まずシラキを侵略し、シラキ領北部にケリン(鶏林)を建てた。
3世紀後半にはシラキ南部にまで軍事侵攻し、4世紀前半にはカラ半島東南部を完全に乗っ取った。
 ケリンの軍事的圧迫を受けたシラキは、3世紀後半には領土が西方に移動し、国号をミマナに改めた。
その後、ケリンは、国号を『新羅(シンラ)』に変えた。
 新羅(ケリン)は、半島東南部を拠点にして、西側に隣接する日本領=ミマナ(馬韓)に対して
侵略を何度も仕掛け、6世紀前半に、ついにミマナを滅ぼし、新羅に併合した。
 7世紀の『白村江戦争』では日本と百済を相手に戦争し、百済を滅ぼして、半島の南北地域の大部分を
支配下においた。
                       


125:月光仮面
08/08/19 11:22:16 t6ZkdYrR
L.N. Gumilyovに依れば北史に「エフタル国には多くの黄金の仏教寺院、仏塔があった」との記述がある
と。」また、エフタル国「[エフタル]王は四十歩四方の大きな毛織のテントに居り、まわりはフェルトを壁面
として張りめぐらしている。王は錦衣をつけ、四つの金の鳳凰をかたどった<牀>脚をつけた金の椅子
<金牀>に坐っていた。」といった情報もある。
URLリンク(www.lcv.ne.jp)
渡来人研究会
URLリンク(www.asahi-net.or.jp)
ここでは推古、斎明朝における都貨羅人と舎衛人の豊富な記述があるが、渡来ルートについては
URLリンク(dsr.nii.ac.jp)
こうしたルートが考えられる。

126:月光仮面
08/08/19 11:23:20 t6ZkdYrR
が、「一方、吐谷渾は中国の華南地方とも交易の媒介をおこなっていた。南朝側の記録には、吐谷渾は
「河南国」(河南=兆水の西、甘粛省臨夏県の地方)の名で登場するが、その役割はやはり西域諸国との
中継者・案内者だったようである。『梁書』の滑国(エフタル)に関する記述には「其言語待河南人訳、
然後通」とあり、吐谷渾人がエフタルと中国の間の通訳をしていたこと、『南斉書』内内(ぜいぜい)虜伝には
「内内常由河南道而抵益州」とあり、内内(柔然、蠕蠕)が四川盆地に向かう場合は常時、吐谷渾領の
青海ルートを経由していたことが記されている。」
URLリンク(dsr.nii.ac.jp)
といった情報や隋書流求国伝において「隋の煬帝は、海に入り異民族を求めさせた。命を受けたものは
流求国に到ったが、言葉が通じず、一人をさらって帰った。翌年、再び使者を派遣して、流求を服属させ
ようとしたが、流求はこれに従わなかったので、その国の(麻)布製のよろいを奪って帰った。ちょうど
その時、倭国の使者(遣隋使)が来ていて、これを『夷邪久(イヤキウ)国の人が使うものである。』と
語った。
 煬帝は兵を義安郡(広東省潮安県)から派遣し、これを攻撃させた。高華嶼に至り、また東行二日で
クヘキ嶼に至り、更に一日で流求に至る。南方諸国の人を従軍させていたが、その中で崑崙人が流求の
言葉を非常に良く理解した。」
URLリンク(orange.zero.jp)
ということはエフタルが本土のみならず琉球にも到来していたことを意味し、隼人の起源がエフタルでは
ないかとの観を深める。


127:月光仮面
08/08/19 12:02:25 t6ZkdYrR
毛野氏は崇神天皇の長子である豊城入彦命の子孫を称する。豊城入彦の孫の彦狭嶋王が東山道15国
の都督となったこと、その孫の荒田別、巫別が百済に派遣されたこと、上毛野田道が蝦夷を征討したこと
などが『日本書紀』に見えるが伝説と見られている。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
近江毛野
「継体21年(527年)、新羅によって奪われた南加羅・喙己呑などの諸国を奪還すべく任那への赴任を命じ
られる。しかし、その途中に筑紫国造の磐井が新羅と組んで毛野の進軍を妨害しようとしたため、渡海で
きなかった。このとき、磐井は毛野に対して「かつて同じ飯を食った仲間がなぜ命令するか」(昔は吾が伴と
して、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき)と詰問したとされるが、近江の豪族・毛野と筑紫の豪族・
磐井との間に、それ以前に交流があったかどうかは不明である。」
URLリンク(ja.wikipedia.org)
毛野氏、近江毛野氏、磐井、隼人などはエフタルであろう。また、斎明天皇の外人饗応には異常なものが
ある。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
斎明天皇の属する継体蘇我王朝の系図
URLリンク(upload.wikimedia.org)
これ自体エフタルの系図ではなかろうか。

128:月光仮面
08/08/19 13:04:29 t6ZkdYrR
しかし、C.E. Bosworth"はペルシャ語地名をKhwar"「太陽」と"-razm"「地」から成るもので、「日出る国」を
意味するとしている。もっと正確に言うと、このイラン語成分はkhwar/kharが「低地」、zam/zemは「土、
陸地」である。Khwarezmというのは(最西端のカスピ海を除いた)中央アジアにおいてアラル海南岸アム
ダリア三角州にある。khwar/khar/khor/horといった各種変形語はペルシャ湾において干潟、沼沢地、
潮汐湾を意味している(例:Khor Musa, Khor Abdallah, Hor al-Azim, Hor al-Himar, etc.)。
URLリンク(en.wikipedia.org)
「元々小国だった日本が倭国を併合した」
URLリンク(ja.wikipedia.org)
神武は日本(干潟、日の隅の本、熊本・日向)と言う小国の王(エフタル・隼人・聖徳太子のペルシャ語で
はこうなる)であったが、倭国を併合したということだ。

129:月光仮面
08/08/19 15:55:12 t6ZkdYrR
↑しかし、景行-仲哀、磐井、隼人の反乱や征伐の歴史は神武東遷とか日本国王説がありえるはずはない
ことを示し、考古学的に青銅器・古墳の分布からも日本の建国は畿内が中心であったことは歴然として
いる。B.C.627年秦がエフタルの滑国を討って、これを滅ぼしたコウ山の戦いと言うのがあり、秦氏とエフ
タルの関係も複雑である。有明湾の夕日であるとか、高千穂の峯であるとかは、歴史の動きとは関係が
ないだろうが、アラル海の夕日も同様に太陽崇拝の古い記憶によるものかもしれない。

130:月光仮面
08/08/19 16:10:03 t6ZkdYrR
他方、道昭「653年(白雉4)入唐(につとう)学問僧として遣唐使にしたがい唐にわたる。玄奘(げんじよう)を
師として業をうけた。玄奘からとくに愛され,同房に住み,禅を習い,悟るところが多かった。661年(斉明7)
帰朝にあたり,玄奘所持の舎利・経論を授けられている。」・・・パミール経由インドを旅した玄奘から同室で
現地事情などを聞いており、当然ながら斎明天皇などはエフタルの原郷がアラル海の三角州にあった
程度のことは聞いており、渡来するトカラ、舎衛(インド)人もそうした情報を裏付けたことであろう。
こうした当時としては「超現代的」情報が建国神話体系に組み込まれていったのかもしれない。

131:出土地不明
08/08/19 23:12:58 KuawGMEu
ちょっと電波出しすぎじゃないの?w

132:出土地不明
08/08/20 03:56:55 8g/HaPiZ
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで中国土器はない。その影響土器もない。
中国金属器もない。朝鮮半島も楽浪開始頃まで中国土器はない。

弥生人が支那から朝鮮半島を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは中国土器か朝鮮無文土器のはず。

しかし、彼らが最古の水田遺構と同時に伝えたのは中国土器でも朝鮮無文土器でもなく、
口縁部に刻目を持つ当時の沿海州中南部あたりが故郷と見られる土器。

輸入したと見られる朝鮮無文土器は少量見られ、その影響を受けた弥生土器も見られるが、
朝鮮無文土器そのものを生産していた集落遺跡がない。

弥生人は沿海州中南部の沿岸部にいた口縁部に刻目のある土器文化を持った
海洋的性格の強い北方蒙古人種。

沿海州から船で朝鮮半島東岸を抜けてくる最中に水田稲作を知って
九州北部に上陸し最古の水田遺跡とともに刻目突帯文土器を残したのである。

133:月光仮面
08/08/20 08:02:17 9roUPocI
ちょっとね、んだ、んだ(w
邪馬台国/大和朝廷は魏/隋が馬韓・辰韓/琉球を侵略する緊張した、開戦直前の国際環境下に
全体戦争の軍事偵察任務を帯びた魏/隋使節団を受け入れるに当たり、開戦の際の敵水軍を長門で
迎え撃つシナリオを最悪と認識、又、出雲の危険分子との接触も回避した上、敵水軍を有明海の泥沼で
殲滅し、最悪でも阿蘇周辺、背振山系周辺の山岳ゲリラ戦で討ち取る作戦で使節団を受け入れ、これに
基本的に本隊を有明海方面に誘導すべく意図的に情報提供をした。このことは遠賀川河口での倭人伝
の戸数等差が克明なことが本来の偵察使命を物語り、逆に倭国側はそこで潮待ち、シーレーンの軍事
警戒レベルを引き上げ、船団は沖合いの対馬海流に乗って周防方面に向かい、出雲を迂回して隠岐島
から丹波・・・投馬に向かう。

134:月光仮面
08/08/20 08:07:23 9roUPocI
こうなると、帰路は四国北岸から宇佐経由遠賀川を下るのがいいかもね。斎明天皇のパーティーは北方
からの侵攻防止と、近隣諸国の軍事情報取得と同盟関係の強化を狙ったものと考えれば納得が行く。

135:月光仮面
08/08/20 09:18:50 9roUPocI
>>125-126
千光寺 玉の岩
『往古この岩上に如意宝珠あり、夜ごとに異光遥かに海上を照らす、しかるに異国人来たりてこの山に
登り、寺僧に向かって、我に金あり、汝これを与えるにより、この大石を我に与えよと、寺僧それに答え、
売ることはできぬがこの大石を買いて何にするかとあやしむに、異国人は、この僧が岩上に宝石のある
を知らぬことを確かめ、心中欣び、ひそかにこの大石に登り美玉を奪い去りたり』
URLリンク(www.senkouji.jp)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
カイラス山(かいらすさん)(チベット文字:Gang Rinpoche, ワイリー方式:Gangs Rin-po-che; 蔵文?音:
カン・リンポチェ)はチベット高原西部(ンガリ)に位置する独立峰。中国名は岡仁波其峰(、ヒンディー語名
はカイラーシャー・パルヴァタ。標高6656mの未踏峰(信仰の山であるため、登頂許可は下りない。
ただし、修行僧でもあり、吟遊詩人でもあるミラレパが山頂に達したという伝説がある)。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
エフタル勢力圏↓から考えればこの異国人がエフタルでない方がおかしい。
URLリンク(upload.wikimedia.org)


136:月光仮面
08/08/20 10:19:10 9roUPocI
「推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)『古事記』
では戊子年3月15日)は、第33代の天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日) - 推古天皇36年
3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。初の女帝である。 額田部皇女(ぬかたべのひめ
みこ)。 彼女が最初の天皇号を名乗ったと言う説と、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有る。
推古が最初なら、厳密な意味での日本の初代天皇は女性である。 『古事記』ではこの天皇までを記して
いる。」「推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力のバランスをとり、豪族の反感を買わぬ
ように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対し
ても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がなかった。ずっと後のことではあるが、推古天皇32年
(624年)、馬子が葛城県(馬子の本居(ウブスナ)とされる)の支配権を望んだ時、女帝は、「あなたは私の
叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世の人には私が愚かな女だと
いわれ、一方であなたも、不忠だと謗られよう」と言って、この要求を拒絶したという。」日本の政治家は
この初代天皇に恥じない心構えを持ってもらいたい。





137:出土地不明
08/08/20 12:22:17 BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。

弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。

しかし、彼らが最古の水田遺構と同時に伝えたのは貯蔵穴ではなく、
中国南部が起源である高床建築。

支那から朝鮮半島を抜けてくる最中に口縁部に刻目のある土器文化を知って
九州北部に上陸し最古の水田遺跡とともに刻目突帯文土器を残したのである。

138:出土地不明
08/08/20 16:11:39 KpQshhcW
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)

139:出土地不明
08/08/20 23:57:31 j9NnwBwS
>>137
>弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
>彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。

大間違い、
移住先の文化と難民の文化の取捨選択だから特定の文化が伝わるべきという発想は
勝手な妄想。

140:出土地不明
08/08/21 01:29:18 T1h0NxdQ
北方式高床式倉庫とともに貯蔵穴も伝わっていたような?

141:出土地不明
08/08/21 10:52:05 /MrKuDo3
>>139
>132

>>140
>北方式高床式倉庫
いつの時代のどの遺跡の話?

142:出土地不明
08/08/21 12:07:14 sbfqRGHD






水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)







143:出土地不明
08/08/21 12:48:09 /MrKuDo3

北方のどの遺跡から来たのかを聞いているんだが?

144:出土地不明
08/08/21 12:50:52 /MrKuDo3

というか貯蔵穴なんて
縄文前期のものすら発見されてるんだがw

145:出土地不明
08/08/21 16:19:01 W3fCOcmQ



137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。

弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。




146:全然顔が違うじゃん?
08/08/21 18:07:18 FvE7fLUE
日本人の二重瞼発生率はアイヌ97%・沖縄84%北海道73%・信越70%・京都67%・奈良58%(日本の全地域中最低)
韓国は42%
URLリンク(k_matsunaga.at.infoseek.co.jp)

各国の平均顔、左から中国・韓国・タイ
URLリンク(photo-media.hanmail.net)

・目が一番小さい、顎の横幅が大きいことが韓国人の特徴
・韓国人は世界一目が小さい
・韓国人は東洋人の中でも目が細くて顔が平ら
・南方(旧)モンゴロイドは北方(新)モンゴロイドより目が大きく二重瞼が多い
・新モンゴロイド発生地は極寒なため平らな顔、小さな目、一重瞼、低い鼻が有利だった
URLリンク(media.daum.net)

韓国人:Big wide face+square on bottom、small eyes、small nose
URLリンク(photoimg.enjoyjapan.naver.com)

147:出土地不明
08/08/21 18:47:42 W3fCOcmQ






水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)







148:月光仮面
08/08/22 11:20:56 HLbPPBF0
>>67 >>73 >>74 ロシア科学アカデミーシベリア支部考古学民族学研究所古代金属考古学部学位論文
に言及されるBhundo文化、これは江原道中島を中心とする中島文化と解釈される。
「東ワイは前150年から紀元400年頃まで朝鮮半島北東部を占めていた。(位置は下記[Dongokjeo(東
沃沮) Dongye(東ワイ) Ye (ワイ)Lelang (楽浪)Daifang(帯方) Baekje(伯濟)])。これは現代の北朝鮮
咸鏡南道、江原道、韓国の江原道。」
URLリンク(upload.wikimedia.org)
その中心は元山市不耐ワイ城、日本神話のフツノミタマ、フツ主、ホトタタライスキヨリヒメ、倭迹迹日百
襲姫のホト(ワイ刀)参照。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

149:月光仮面
08/08/22 11:26:19 HLbPPBF0
「正始六年、樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東ワイ屬句麗、興師伐之、不耐侯等舉邑降。 其八年、
詣闕朝貢、詔更拜不耐ワイ王。居處雜在民間、四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調、供給役使、遇之如民。
 正始六年(245年)、楽浪郡太守劉茂と帯方郡太守弓遵は領東で高句麗に従属していたワイを討伐し
た。不耐侯らは邑(国)を挙げて降伏した。 正始八年(247年)、王宮に詣でて朝貢、不耐ワイ王は再び詔
を拝する。(王の)居所は百姓らと雑居である。四季ごとに郡に詣でて朝謁する。二郡(楽浪・帯方)に軍征
が起れば賦調として使役を供し、これを遇するに臣民の如し。 」この結果高句麗から独立、魏の傭兵の
立場を活用九州北部の行政機関に入り込み、九州南部に隼人として入植。大和葛城には本国同様金剛山
周辺に橋頭堡を築き邪馬台国を支えたのであろう。

150:出土地不明
08/08/22 11:51:45 jwO1HRQe
>>149
書いてないことは書くな。
お前の妄想はどうでも良い。

151:出土地不明
08/08/22 12:19:44 YBJ1oxnq
>北方式高床式倉庫
は北方のどの遺跡から来たの?

日本の高床式建築より古いアムールの教えてエロい人。

152:出土地不明
08/08/22 12:57:54 QZkRaoQM





137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。

弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。






153:出土地不明
08/08/22 13:27:09 YBJ1oxnq
宮本長二郎・東京国立文化財研究所国際文化財保存修復協力センター長(建築学)の話。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。ただし、日本の高床建物は
祭祀(さいし)目的とみられ、住居など実用目的だった中国とは異なる。
URLリンク(inoues.net)

縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。
縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。

154:月光仮面
08/08/22 15:26:49 HLbPPBF0
>>148 スマソ。Chundo/中島だ。漏れもヨンサマに似ているとよく言われるが、あまり、冬のソナタを
見ていなかった。やはり漏れとも関係あったんだな。しかし、いつも寝る前にやってたようだったな。

155:出土地不明
08/08/22 18:57:55 FlbPcf/g






水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)







156:出土地不明
08/08/23 11:08:35 Egt9oA3R

日本最古の貯蔵穴発見例は縄文前期。

157:出土地不明
08/08/23 11:26:15 Egt9oA3R
>北方式高床式倉庫
は北方のどの遺跡から来たの?
教えてアムールw

158:月光仮面
08/08/23 15:03:44 wZqyz9ns
>>148-149
この金剛山周辺の中島文化、明確に墳墓としての箱式石棺墓は確認されておらず、沃沮である可能性が
高いものの、ワイも一部に含有したもの。沃沮は沿海州において既にオンドルを使用し、その鉄製短剣も
遼寧銅剣のように柄の分離するタイプ。葛城では役の行者と韓国人が待遇をめぐって争う話があるが
どう見ても現在の在日にそっくりだ。おそらく江原道中島文化の沃沮はその後大伽耶、新羅を経て朝鮮人
となるのであろう。しかし、支配階級の武人であったワイとか、養蚕技術者等については日本側がスカウト
可能性はあろう。又、難民のような連中が入ってきたこともありえる。さもないと景行-仲哀があれほど
筑紫、熊襲征伐にてこずる必要性の根拠がない。

159:出土地不明
08/08/23 15:21:14 EUJeF4n3





137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。

弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。






160:月光仮面
08/08/24 10:55:14 JYIfnJkg
建興元年(313)遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると、ひとり朝鮮半島南半に孤立した
帯方郡は雪崩をうって瓦解。その民や財貨、技術、文化は、近接する馬韓・弁韓・辰韓によって広く吸収
され、次の時代の百済・伽耶・新羅という新しい国々を育む豊かな土壌となった。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
こうなると >>149 不耐侯らは倭国に亡命しないことには高句麗によって処刑される。「平壌市貞柏里3号
古墳から出土した楽浪Ⅴ期の鏡・画文帯同向式神獣鏡と同型式の鏡」をもった集団は阿波鳴門から、
安房、毛野へと入る。これが国譲り神話のフツ主だとすれば、狗奴国とは出雲をも含んでいたことになる。

161:月光仮面
08/08/24 11:55:43 JYIfnJkg
後漢書六夷伝ワイ(Ye)
「麻の栽培・養蚕・綿布の製造を知っている。星宿(星座)の観察に明るく、その年の収穫の多寡を予知
する。毎年、十月に天を祭り、昼夜に渡って酒を飲んで歌い踊り、これを舞天と呼んでいる。また虎を祀っ
て神としている。邑落に互いに侵犯する者があれば、直ちに双方を罰し、生口(奴隷)・牛馬を取り立て、
これを責禍と呼んでいる。人を殺した者は死を以て償う。略奪・窃盗は少ない。徒歩の戦闘に優れ、長さ
三丈の矛を作り、時には数人でともにこれを持つ。楽浪の檀弓はその地に産す。また文豹(斑模様の豹)
が多く、果下馬がおり、海には班魚を産し、使者は来貢の際に皆これを献じた。]
これはロシア研究者のエフタルの定義と合致している。もし、ロシア学者が認めているHAYATLEとか
HAYTALという部族称号が正しいのならば、これは磯城県主ハエ(延)に通じる。これは邪馬台国建国
当時の高霊帝と関係が深い。出雲日御碕伝承ではこのころ月支国ヒコハニの来襲があったという。
エフタルは月支国の一員として大夏で活躍している。馬韓目支国とは月支国が冒頓単于に分断され
その一部が残存したものであろう。

162:月光仮面
08/08/24 12:04:19 JYIfnJkg
「『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり
くしたま にぎはやひ の みこと)といいアメノオシホミミの子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)
と同一の神であるとしている。『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、
天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照の系)とし両者を別とする。」
URLリンク(ja.wikipedia.org)
武人Ye族は物部の祖であるl

163:出土地不明
08/08/24 12:53:13 qKI7u7Ig
神武天皇は、やはり紀元前の天皇だね。

                             
第06代天皇=孝安天皇
(在位:AD25年~75年2月27日=50年)
                   
第07代天皇=孝霊天皇
(在位:AD76年~113年=37年)

第08代天皇=孝元天皇
(在位:114年~142年10月14日=28年)

第09代天皇=開化天皇
(在位:142年~172年4月9日=30年)

第10代天皇=崇神天皇
(在位:173年~207年1月9日=34年)

第11代天皇=推仁天皇
(在位:207年~256年7月14日=49年)

第12代天皇=景行天皇
(在位:257年~286年12月24日=29年)

第13代天皇=成務天皇
(在位:287年~316年7月30日=29年)

第14代天皇=仲哀天皇
(在位:318年~322年3月8日=4年)

応神天皇の母=神功皇后(じんぐう皇后)
(在位:323年~357年4月17日=34年)
                  (空位・・・・・1年)
第15代天皇=応神天皇(おうじん天皇)
(在位:358年1月1日~378年2月15日=20年)
                  (空位・・・・・3年) 
第16代天皇=仁徳天皇(にんとく天皇)
(在位:381年1月3日~424年1月16日=43年)

第17代天皇=履中天皇(りちゅう天皇)
(在位:425年2月1日~428年3月15日=2年半)
                  (空位・・・・・1年)
第18代天皇=反正天皇(はんぜい天皇)
(在位:429年1月2日~431年1月23日=2年)
                   (空位・・・・・2年)
第19代天皇=允恭天皇(いんぎょう天皇)
(在位:433年12月~454年1月14日=20年半)

第20代天皇=安康天皇(あんこう天皇)
(在位:454年12月14日~456年8月9日=1年半)
<生没年 ?年生~456年没>


164:月光仮面
08/08/24 13:22:26 JYIfnJkg
>>161 養蚕だけはびっくりするが、沿海州・黒龍江省(スイフンヘ)でオンドルを使用しており、江原道に
入るとシベリアおろしも、赤城おろし程度になるのであろう。日本が養蚕業招致に務めたクレというのは
句麗/高霊であり、阿蘇の火抱き女伝承を考えると、先ずは温暖な肥後あたりで生産を始めたのであろう。

165:出土地不明
08/08/24 14:54:31 qKI7u7Ig
新羅(ケリン)は、やはり原始的な国だったな。
建国王=キム・アルジの誕生伝説の中に、ケリンがシラキを侵略した証拠がある。
なぜ、新羅の役人たちは、全員が倭人だったのか?
ケリン族は漢字の読み書きができなかったから、征服後も倭人の役人を
そのまま使うしかなかったわけだ。

新羅の古い記録には捏造が多いが、それでも、所々に日本語の証跡が見える。
貴族階級を意味する『真骨』の読み方は、「ジンピョ」ではなく、「マホネ」だろう。
マホネは日本語だよね?



166:月光仮面
08/08/24 16:08:21 JYIfnJkg
>>113
ロシアにおけるポリツェ文化の弓に対する軍事的評価から
「ポリツェ(邑婁)族の軍事制度はスキタイと同様、全民族が軍隊、つまり、成人男子は全員戦闘員。氏族
社会構造と軍事組織構造は一致しており、族長は指揮官であった。軍隊の内容はまだ不明。居住地から
は少々馬の骨も出土するが、騎馬隊はなく、歩兵が主力。主要兵器は弓矢。接近戦では小刀、短剣を
使用。初期鉄器時代、金属鎧には出番はなく、弓兵、槍兵の支障にならない軽い革・骨の甲冑が使用さ
れた。重い金属製甲冑が当地に全面的に登場するのははるか後の西暦紀元の頃。ポリツェ族に最も似た
装備が出土するのは朝鮮半島とスキタイである。これはポリツェ族が沿海州、日本、北朝鮮との密接な
触を保ち、その地に浸透したことを裏付ける。」同じくポリツェ族の末裔である女真武人の復元図。
URLリンク(www.vzmakh.ru)

167:月光仮面
08/08/24 16:13:29 JYIfnJkg
神武天皇が弓を持つのはおそらくこの世界最古で最強の複合弓を発明したポリツェ族の誇りを
表すものであろう。しかしながら、仏教による殺生の禁忌、鉄砲による軍事革命により、世紀産業の
裾野を担った民族は祇園の「つるめそ」にまで落とされてしまった。

168:月光仮面
08/08/24 16:17:03 JYIfnJkg
ようするに物部などのYeランクと神武はメジャーと高校野球程度の差があるのだ。エフタルは皇族に
は上がったもののその出自は傭兵なのだ。

169:出土地不明
08/08/24 17:29:28 dwkVzMki






水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)







170:出土地不明
08/08/24 17:49:16 dwkVzMki
>>166
ポリツェ文化人は弥生開始よりも数百年あとに登場する集団で
口縁部に刻目のある土器文化を持っていなかったから弥生人ではない。

弥生人はポリツェ文化よりも数百年以上前に沿海州南部あたりにあった
口縁部に刻目のある土器文化を持ったシニガイ文化人である。

171:出土地不明
08/08/24 23:35:27 lwUhb3Fv
>>これって他人の空似かな!!この紋様は朝鮮半島からは出て来ません。

日本の銅鐸のルーツ? ベトナム・雲南地方の銅鼓、貯貝器の模様(P35,38)
逆S字、のこぎり形、流水形、舳先の立ち上がった太陽の舟、頭に鳥羽を付けた
人物、等々器形は全く違うが模様はうりふたつ逆S字は「隼人の盾」の模様と同じ。
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)

淀江町角田遺跡
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
珍敷塚古墳
URLリンク(blog.livedoor.jp)
隼人の盾
URLリンク(www.kazuart.com)


172:出土地不明
08/08/24 23:36:39 lwUhb3Fv
日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土 [02/09]

URLリンク(sawyer.exblog.jp)

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に
発展したというのが定説だが、朝鮮の鐸は遊牧系の鐸で日本の鐸とは
宗教感、使用目的がまるで違う。
張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると
指摘し模様の表現方法も類似している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、
発掘結果をめぐる今後の議論が注目される。


173:出土地不明
08/08/24 23:39:35 lwUhb3Fv
>170,171

瓜二つの紋様は決して鳥がくわえて、飛んで来たのじゃ無いからね。

174:出土地不明
08/08/24 23:51:14 Gw+ahHcu
>銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の鐸がこのほど出土
>張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性がある




青磁どころか灰陶もなけりゃ印文陶もないし、弥生土器の器形に鐸もない。
だいたい鼎の一つくらい伝えろや、このスットボケ南京博物院が(嘲笑)





175:出土地不明
08/08/24 23:52:44 Gw+ahHcu
>>171
だったら何で銅鼓、貯貝器という器種自体が真っ先に伝わらんのだ。

激アホだろおまえ。

つか、長江江南広鼻ブラックの台湾ウホウホ類人猿だろおまえw

176:出土地不明
08/08/25 00:07:49 WiMjSZIh





137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。

弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。






177:出土地不明
08/08/25 00:15:32 sr2voa6c
>>174>>175

じゃ瓜二つの紋様は鳥がくわえて飛んで来たのかね??答えてみろ。


178:出土地不明
08/08/25 00:25:46 WiMjSZIh
逆S字なんか世界中に見られるだろがアホ。

そういう事は雷文、トウテツ文、龍文、鳳凰文の一つくらい
伝えてから言えよ詐欺師。


179:出土地不明
08/08/25 00:26:55 WiMjSZIh
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)

180:出土地不明
08/08/25 00:39:35 3M49n4Uu
>>178
一部を取り上げて否定しても駄目だぞ、全体的に一致点が多すぎるだろ
これらは偶然の一致か?鋸歯紋、鋸歯紋の内部の斜線、流水紋、波紋、
窓枠様の構成等々、頭に羽の羽人像、太陽、船先の鳥(イビス神)
これらは誰が伝えたって言うんだよ。答えてみろ!

>>179  馬鹿の一つ覚えみたいに同じ文章コピペすな。

181:出土地不明
08/08/25 02:31:09 H/Wr7mCv
>これは同じ水軍人物像だよ!!

熊本・チブサン古墳「冠を被った人物像」
URLリンク(www.pref.kumamoto.jp)

呉越時代・臨し出土「水軍戦闘図」
URLリンク(img.blogs.yahoo.co.jp)





182:出土地不明
08/08/25 02:44:04 S19+KQLm
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。
日本には中国土器も中国青銅器も一切伝わってはいない。

183:出土地不明
08/08/25 02:58:44 R4EwDNsj
日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土 [02/09]

URLリンク(sawyer.exblog.jp)

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に
発展したというのが定説だが、朝鮮の鐸は遊牧系の鐸で日本の鐸とは
宗教感、使用目的がまるで違う。
張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると
指摘し模様の表現方法も類似している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、
発掘結果をめぐる今後の議論が注目される。


184:出土地不明
08/08/25 03:06:12 R4EwDNsj
>>これって他人の空似かな!!この紋様は朝鮮半島からは出て来ません。

日本の銅鐸のルーツ? ベトナム・雲南地方の銅鼓、貯貝器の模様(P35,38)
逆S字、のこぎり形、流水形、舳先の立ち上がった太陽の舟、頭に鳥羽を付けた
人物、等々器形は全く違うが模様はうりふたつ逆S字は「隼人の盾」の模様と同じ。
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)

淀江町角田遺跡
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
珍敷塚古墳
URLリンク(blog.livedoor.jp)
隼人の盾
URLリンク(www.kazuart.com)


185:出土地不明
08/08/25 03:13:47 S19+KQLm
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。サギはやめましょう。

186:出土地不明
08/08/25 03:53:59 S19+KQLm
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。
弥生土器には青磁も鐸という器種もない。弥生青銅器には銅鼓も貯貝器という器種もない。サギはやめましょう。

187:月光仮面
08/08/25 08:45:47 u+CsINZX
URLリンク(www.um.u-tokyo.ac.jp)
121-鐸、青銅、中国、赤峰市付近収集、前九-七世紀(西周-春秋時代)、長さ一・八cm、文学部考古学
研究室列品室
122-鐸、青銅、中国、赤峰市付近収集、前九-七世紀(西周-春秋時代)、長さ二・〇cm、文学部考古学
研究室列品室
赤峰市付近を中心として内蒙古東部に分布する夏家店上層文化の鐸である。夏家店上層文化は、初期
遊牧民文化のなかでも早い時期の文化で、スキトーシベリア動物意匠も既に見出される。(高浜)
URLリンク(www.um.u-tokyo.ac.jp)
この頃フィンランドのA・M・タールグレンは、叢書Eurasia Septentrionalis Antiqua(古代北方ユーラシア)
を創刊してユーラシア北方文化の研究に努めている(一九二六・三八年)。また南シベリアの青銅器時代
の考古学的編年も、S・A・テプロウホフによってこの時期に基本的に確立された。北方ユーラシア草原
地帯の東端に所在する中国北方において遊牧民の残した青銅器の研究も、ようやくその糸口が開かれ、
多くの研究が出始めた。
 中国北方で中原とは異なる銅器が出土することは以前から既に知られており、欧米の学者の関心を引
いていた。例えば『金石索』(一八二一年刊)には中国北方系の動物闘争紋帯飾板が著録されており、
ミンズはそれをシベリアの影響と考えている[4]。また、P・ライネッケは一八九七年に、スキタイやシベリア
の民族と古代中国との関連を指摘した[5]。
 グレゴリー・ボロフカは一九二八年に『スキタイの芸術』を著して[6]、シベリア芸術の影響がモンゴリアに
まで及んでいることを指摘している。M・ロストフツェフも一九二九年に『南ロシアと中国の動物意匠』を著
して、同様なことを述べた[7]。ハルピンで研究を進めていたトルマチェフも「マンチュリアにおける
スキタイ・シベリア文化の痕跡」と題する論文を書き[8](一九二九年)、幾つかの資料を紹介して、
スキタイ文化などと類似した文化が中国東北地方に見られることを指摘した。スウェーデンのJ・G・
アンダーソンは、ストックホルムの東アジア博物館の紀要に「草原を通る道」(一九二九年)を発表して
[9]、黒海沿岸のスキタイ文化、東ロシアのアナニノ文化、南シベリアのクルガン(タガール)文化などと
並ぶスキタイ系遊牧民文化の中心の一つが中国北方にあったことを明らかにし、「草原の道」が
きわめて古くから機能していたことを述べた。このような著作のなかで、いわゆるオルドス青銅器が少し
ずつ紹介されている。
江上波夫の内蒙古における調査とオルドス青銅器研究
高浜 秀 東京国立博物館学芸部
 中国の北には、内蒙古を中心として草原地帯が広がっている。この草原地帯はシベリアを通って
ハンガリーにまで及ぶユーラシア北方草原地帯の東端であり、ここには中原の農耕文化とは異なり牧畜
に基礎を置いた文化が栄えた。青銅器時代から初期鉄器時代にかけてこの地域の遊牧民が残した
青銅器も、ユーラシア北方草原地帯の青銅器と関連が深い。綏遠青銅器、オルドス青銅器あるいは
北方系青銅器などと呼ばれているが、日本においてこの種の青銅器の研究に先鞭をつけたのは、
江上波夫である。
URLリンク(www.um.u-tokyo.ac.jp)

188:月光仮面
08/08/25 09:01:58 u+CsINZX
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)
右から:
3900年前 中国陶寺(レプリカ) 高さ2.6cm
3700年前 中国二里頭(レプリカ) 高さ8.4cm *
3500年前 中国殷墟 高さ9.1cm *
2400年前 韓国扶余合松里(レプリカ) 高さ15.9cm
2400年前 出土地不明(レプリカ) 高さ22.3cm
銅鈴から銅鐸へ
中国では、銅鈴は3900年前(龍山文化末)に純銅製品が現れ、3700年前(夏代、二里頭文化)から青銅
製品が普及する。世界最古の青銅鈴は高さ8cmほどの小型品で、人の腰につけて使っていた。3500年
前(殷代)には、人のほか、犬・馬の頸や馬車に銅鈴をつける。朝鮮半島には前6世紀ごろ銅鈴が伝来
する。司祭者が身体に着け、神懸かりの状態になるのを助けていたようである。前4世紀ごろ海を渡った
銅鈴は、近畿地方で高さが20cmをこす大型品に変わった。そして、鈕にも身にも文様を施した。
URLリンク(www.rekihaku.ac.jp)
* 現在カザフスタン、ウラルの調査によりこの当時のアンドローノヴォ文化圏のウラル方面と東側の二本
の安陽とカラスク、セイマトゥルビノ文化を結ぶシルクロードのようなホライゾンが想定されている。

189:月光仮面
08/08/25 09:12:58 u+CsINZX
>>187-188
銅鐸は朝鮮半島、日本列島の無紋・弥生文化の開始が殷・商の崩壊時期と一致し、その当時に
ユーラシア北方草原地帯の文化と長江文化の南北の二本の流れが内モンゴル、中国東北で
合流し、朝鮮半島を南下したことを物語るようでもある。

190:月光仮面
08/08/25 09:21:36 u+CsINZX
「吉田教授は、大国主とアドニスの物語を比較しながら、両者の死と再生をめぐる事件の類似性を
指摘し、騎馬民族であるスキタイ人によってギリシャ神話が日本にもたらされたのでないかと推測。」
URLリンク(www.nippon-bunmei.jp)
「ポリツェ族に最も似た
装備が出土するのは朝鮮半島とスキタイである。これはポリツェ族が沿海州、日本、北朝鮮との密接な
触を保ち、その地に浸透したことを裏付ける。」 >>166


191:出土地不明
08/08/25 09:50:29 7UlyWfL5
北方式高床倉庫が日本に伝わってなどいない、サギはやめましょう。
北方式高床倉庫が日本に伝わってなどいない、サギはやめましょう。
北方式高床倉庫が日本に伝わってなどいない、サギはやめましょう。
北方式高床倉庫が日本に伝わってなどいない、サギはやめましょう。

192:月光仮面
08/08/25 11:17:03 u+CsINZX
URLリンク(history.novosibdom.ru)
第12図 最古の葉状鎧。同じ幅の二枚の骨プレートを縫い合わせた帯からなる。鎧にはいくつかの仕立て
方があり、胸元で重ねることによって防御層を二重にする「中空」型とか、又別に、胸当てと背中当てを
分離してベルトでしっかり結ぶ式のもあり、肩ベルト縫い付け方は鎧の全体縫いつけ方法と同じ。
URLリンク(history.novosibdom.ru)
第14図 端っこに穴の開いた骨プレート
セイマ・トゥルビノ族「鋳物工-戦闘員」の胸部と背中を防御したもの。こんなに長いプレートは非常に不便
であり、体躯の動作を制限し、見ての通りこれも折れている。
西シベリア、オムスク州イルティシュ河沿岸ロストフカ墓地出土、前2000年紀中葉のもの。
こうした武具からセイマ・トゥルビノ青銅器文化とポリツェ文化に関連があり、それが朝日遺跡、袋状鉄斧
につながっており、
URLリンク(www.maibun.com)
そしてこの朝日遺跡の遺物の中に縄文、鏡、銅鐸、スキタイ巴形楯飾と、まさに弥生文化の縮図、縄文
から弥生にかけての日本古代史の縮図を見る。
URLリンク(www.maibun.com)


193:出土地不明
08/08/25 12:54:56 M1uKpCnJ

>>これって他人の空似かな!!この紋様は朝鮮半島からは出て来ません。

日本の銅鐸のルーツ? ベトナム・雲南地方の銅鼓、貯貝器の模様(P35,38)
逆S字、のこぎり形、流水形、舳先の立ち上がった太陽の舟、頭に鳥羽を付けた
人物、等々器形は全く違うが模様はうりふたつ逆S字は「隼人の盾」の模様と同じ。
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)

淀江町角田遺跡
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
珍敷塚古墳
URLリンク(blog.livedoor.jp)
隼人の盾
URLリンク(www.kazuart.com)


194:出土地不明
08/08/25 12:56:12 M1uKpCnJ
日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土 [02/09]

URLリンク(sawyer.exblog.jp)

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に
発展したというのが定説だが、朝鮮の鐸は遊牧系の鐸で日本の鐸とは
宗教感、使用目的がまるで違う。
張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると
指摘し模様の表現方法も類似している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、
発掘結果をめぐる今後の議論が注目される。



195:出土地不明
08/08/25 12:57:39 M1uKpCnJ
>これは同じ水軍人物像だよ!! 待てよチブサン古墳って起源前か!!

熊本・チブサン古墳「冠を被った人物像」
URLリンク(www.pref.kumamoto.jp)

呉越時代・臨し出土「水軍戦闘図」
URLリンク(img.blogs.yahoo.co.jp)


196:月光仮面
08/08/25 13:01:45 u+CsINZX
URLリンク(history.novosibdom.ru)
セイマ・トゥルビノ青銅器文化の青銅器加工技術においては裁断工程等で
鍛造に似た所作の工程が入っており、これが鉄器時代に入ったポリツェ鍛造技術とか、大和の鍛冶に
発展するのであろう。ワイはこうした鉄斧を朝日遺跡同様、アムール中流のポリツェから輸入していたよ
であるが、ポリツェもアムール沿海州、最終的には日本、に向かって移動していたようである。

197:出土地不明
08/08/25 13:35:16 /tllx//b
月光仮面>>195の人物絵どう思うかね。

198:月光仮面
08/08/25 14:34:34 u+CsINZX
>>184
「この器物は,その文様から農耕祭祀にかかわる儀器であると推測されているが,人物の特有の表現
(図27)は,石寨山型銅鼓等に施されている人物表現(図28・29・30)と酷似している。この防牌形銅器は,
朝鮮では異形青銅器と分類される一連の器物の一つである。これらの異形青銅器は,紀元前4世紀から
紀元前3世紀頃,忠清道に分布し,突然現れて短期間で消えていったとされている。これらの諸点は,
これらの青銅器が朝鮮半島本来のものではなく,外から入ってきた要素であること,またその製作には
そうした要素の関与があったことを暗示しているように思える。」
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)
この頃忠清道には対岸の山東半島から徐福の百工が到来している筈で、日本には垂仁天皇のときに
不老不死の薬を求めて旅立ったタジマモリの話が入っている。当時の倭国王はとてもそんな余裕はなか
った筈なんだが。これは後に辰韓に入って古い秦語を話したとされる秦系の人々ではなかろうか。

199:月光仮面
08/08/25 14:50:07 u+CsINZX
>>197
ユーラシアノマドであって、ラー神話↓
「毎日昼は昼舟で天を,夜は夜舟で天の女神ヌートの胎内または地下の冥界を航行し,翌朝再び
東天に復活するとされ,新王国時代の王墓の壁面には《アムドゥアト(冥界にあるもの)の書》をはじめ
太陽神の冥界の旅の案内書が挿絵つきで描かれた。一般民衆も好んで墓壁画にラーの舟を取り上げ,
これに同乗して復活することを願った。」の知識のあったものの手によるもの。

200:月光仮面
08/08/25 14:53:42 u+CsINZX
ちなみに、オシリス神話
「「オシリスは大地の神ゲブと天の女神ヌートの子で,エジプト王として善政をしくが,弟である邪神セトに
ねたまれて殺され,ばらばらにされて投げ捨てられる。しかし妹で妻であるイシスの手で身体をつなぎ合わ
され,ミイラとされて復活し,神々の法廷でセトを断罪,長子ホルスをエジプト王とし,自らは永生を得て
冥界の王となる。この神話に基づいて,ホルスの化身である王は,死んでオシリスとなり,永生を得,次の
王がホルスとして即位するとされた。したがって最初は王のみがオシリスとなるとされたが,第1中間期
以降は必要な準備さえ整えればだれでもオシリスとなれるとの信仰が広まる(葬祭の民主化)。」
これは東北地方にオシラサマ/とくにオセンダク神話として残されている。

201:月光仮面
08/08/25 14:58:53 u+CsINZX
URLリンク(www41.tok2.com)
オシラサマには馬とか、蚕とか、エジプト以降にそのユーラシアモバイル牧畜民の文化履歴が
重なっており、秦氏の運命と似ている。

202:出土地不明
08/08/25 15:12:38 7UlyWfL5
>>200
>これは東北地方にオシラサマ/とくにオセンダク神話として残されている。

ごめん、どこに共通点があるのかさっぱりなんですが?

203:月光仮面
08/08/25 15:22:50 u+CsINZX
白い布、水天宮の腹帯も同じだが、これをプレゼントするのはタタール・モンゴル・チベットの風習にも
残るが、お地蔵さんに布を巻くというのがミイラ作りと同じで、米州にも伝わっているようだ。蚕というの
は自ら糸を出して自分の体を巻く。これは神様だ。おそらくエジプトに北方民族の子育て習慣をミイラ
作りの際に伝授したのは、バシコルト学者の言うようにハビル系移動遊牧民だろう。ピラミッドの原型の
サッカラだって日本の方形周溝墓と同じく東アジア起源の可能性があると思う。

204:月光仮面
08/08/25 15:26:38 u+CsINZX
エジプトみたいな暑いところで人間をぐるぐる巻きにすると生き返るなんて発想は基地外か、神か
であったのが、偶然にもミイラ作りに有効であったのと違うかな。本来寒帯地方の発想だ。

205:出土地不明
08/08/25 15:32:34 xSWy59MK
はい、はい、↑妄想も其れ位にしておきなwww

206:出土地不明
08/08/25 15:44:30 7UlyWfL5
白い布・ミイラは無理があると思う。

私が昔見たおしらは布がなかったし。
白い布の意味するものは馬頭の白い虫(蚕)だし。

207:月光仮面
08/08/25 16:29:45 u+CsINZX
馬頭観音に般若心経唱えているんだが。最近お経が脳裏に全部映っていなかった、

208:月光仮面
08/08/25 16:49:27 u+CsINZX
最近NHKで間宮林蔵が韃靼海峡を渡り、清国沿海州黒水下流越境する直前、樺太西岸で目撃
したイズメッコ、これはゆりかごを縄で巻いたような形だが、実用されているのを目撃したとされるが、
同じようなのが、アルタイから出土するゆりかご棺という幼児用の棺に見られる。これは再生を祈った
ものではないかと考えられ、北海道に残るとされる黒水靺鞨の猿石のような遺跡とか、アイヌに残る
YAP+とかが、エジプト思想を持つ民族の移動の痕跡ではないかと考えたんだけど。

209:出土地不明
08/08/25 17:00:47 7UlyWfL5
少なくとも、再生の意味合いを含んだ
オシラサマ伝説を私は知らない。

そもそも家蚕の発生は中国北部。


210:出土地不明
08/08/25 17:00:49 GE+WuFl/





137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。

弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。






211:出土地不明
08/08/25 17:08:39 7UlyWfL5
三内丸山巨大高床建築の頃、
アムールあたりでは未だに貯蔵穴だったらしいねw

212:月光仮面
08/08/25 17:55:57 u+CsINZX
>>209 伝承は蚕が中国限定なんだから再生伝承がそれに付随するのはおかしい。そして、オシラサマ
には再生伝承はない。では、その起源はなんなんだ。こう自問して、それはオシリス神話と違うかなと
考えてみた。例えば、コトシロというのはスキタイ神話でアポロンのこと。アジダカというのイラン語で
火を噴く火龍。すると、アジスキタカヒコネ、コトシロというのはどうもアチャラくさい。こうしたレベルのこと。
これからまた一寝入りするので。またあしたね。


213:出土地不明
08/08/25 18:00:49 7UlyWfL5
馬に嫁ぐ、って話の関連は中国・日本にあるし
遠野物語では天竺の話として伝わっている。

そこらに関連してたらまだあるかも?と思うけど。
お疲れ様でした。

214:出土地不明
08/08/25 18:44:58 6enirYX6






水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)







215:月光仮面
08/08/26 08:25:53 7VtZPKzz
>>198
「吉野ケ里銅鐸も含めて、九州の銅鐸関連資料は主に集落遺跡の内部や、集落からそれほど遠くない
周辺部で見つかっています。また福岡県原田(はるだ)遺跡出土小銅鐸のように、副葬品として墓から
見つかる例もあります。これは、近畿の銅鐸や、九州の銅矛・銅戈などの武器形祭器が、人里離れた
山の斜面などで発見されるのとは異なっています。」
URLリンク(museum.city.fukuoka.jp)
吉野ヶ里で始めて銅鐸を祀ったものは新参渡来人であったため、在来縄文人を含めた周辺在来
文化の中に在って行動範囲の制限を受け、絶えず包囲、襲撃の危険に曝されていたということも
考えられる。そうして銅鐸文化人は九州ではその文化を発展させることは出来ず、一方、出雲方面に
上陸したものが新天地の近畿・東海で勢力を拡大することができたとも考えられる。ただ、銅鐸文化は
二里頭・安陽の文化を受け継ぐ古い殷人の子孫が、衛満・前漢武帝の圧力を受け朝鮮半島から日本に
移住するということと関連することも考えられる。秋田五社堂は武帝の鬼伝承を伝え、同様伝承は
豊前求菩提山とか、西都原にも残る。ただ西都原を考えると後漢光武帝としても早すぎるかなとも
思われるが。

216:出土地不明
08/08/26 13:25:51 sv8e65ai





137 名前:出土地不明 :2008/08/20(水) 12:22:17 ID:BKuFXVIB
日本には縄文時代から弥生時代に至るまで水田稲作はない。

弥生人が沿海州から船で朝鮮半島東岸を経由して流入した人々であったのなら、
彼らが伝えるのは貯蔵穴のはず。






217:出土地不明
08/08/26 18:01:56 /IIrALmY
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)

218:出土地不明
08/08/26 19:33:55 Jrb1J3r6
庭板の「セックスレスが原因での外注を語るスレ」から出来たスレだよ

SEXレスの奥様・旦那様が、不倫相手を自分達の都合の言いように外注と呼ぶ
最初は「外注の是非を問うスレ」だったのだが、最近開き直り「外注を語るスレ」へ
出会い系・チャット・近場での不倫の成功談や失敗談を語る
なかなかうまくいかない話が多い
そうだ!2ちゃんで探せばいいじゃないかとなる
普通に立てると削除対象もろ引っかかるので、ちゃんねる互換の外部板で

google→「アレ系の避難所」で検索→検索トップに出るページを開く
→スレッド検索で「レス鬼が同士を探すスレ」を検索→その後は地獄か天国へw


219:出土地不明
08/08/27 11:59:13 M2JJmHor
>>これって他人の空似かな!!この紋様は朝鮮半島からは出て来ません。

日本の銅鐸のルーツ? ベトナム・雲南地方の銅鼓、貯貝器の模様(P35,38)
逆S字、のこぎり形、流水形、舳先の立ち上がった太陽の舟、頭に鳥羽を付けた
人物、等々器形は全く違うが模様はうりふたつ逆S字は「隼人の盾」の模様と同じ。
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)

淀江町角田遺跡
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
珍敷塚古墳
URLリンク(blog.livedoor.jp)
隼人の盾
URLリンク(www.kazuart.com)



220:出土地不明
08/08/27 12:01:24 M2JJmHor

>これは同じ水軍人物像だよ!! 待てよチブサン古墳って起源前か!!

熊本・チブサン古墳「冠を被った人物像」
URLリンク(www.pref.kumamoto.jp)

呉越時代・臨し出土「水軍戦闘図」
URLリンク(img.blogs.yahoo.co.jp)


221:出土地不明
08/08/27 12:03:17 M2JJmHor

日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土 [02/09]

URLリンク(sawyer.exblog.jp)

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に
発展したというのが定説だが、朝鮮の鐸は遊牧系の鐸で日本の鐸とは
宗教感、使用目的がまるで違う。
張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると
指摘し模様の表現方法も類似している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、
発掘結果をめぐる今後の議論が注目される。



222:出土地不明
08/08/27 12:05:05 M2JJmHor

O2a/O2b系統は長江文明の担い手だと考えられている。O2b系統が移動を開始したのは
6000年前頃(鳥浜貝塚)からである。長江文明の衰退に伴い、O2aおよび一部のO2bは
南下し、百越と呼ばれた。残りのO2bは北上又は東進し、山東省、朝鮮半島、日本列島
に達した。長江文明の稲作、豆類、エゴマ、ヒョウタン、漆器、を持ち込んだと考えられる。

URLリンク(ja.wikipedia.org)



223:出土地不明
08/08/27 12:06:15 M2JJmHor

「越」あるいは「百越」と呼ばれ,多くの部. 族からなっていた。「百越」の諸族は
BC五〇〇〇年ころ長江下流域に住んでいましたが、漢族の発展とともに故郷を
追われ中国華南から南西部へ、やがて中原の. 漢民族の殷・周に吸収されたり
あるいは. 追われたりした.「越」の一部はボートピ. ープルになり海を渡り,
日本列島に渡来. して,越前・越中・越後という北陸の米作 ...

URLリンク(toshichan.be.fukui-nct.ac.jp)


224:出土地不明
08/08/27 13:06:11 OXcJvaU/
●越族 えつぞく

中国の長江中下流以南に広く分布していた民族。粤(えつ)とも書かれる。地域によって,於越(于越),
甌越(越東海,東甌),ビンエツ※注1※(東越),揚越,山越,南越,西甌(甌),駱越(駱)などが
あり,総称して百越(百粤)と呼ばれた。於越は春秋戦国時代に浙江省北半部を本拠に越という国を
建てた。甌越は浙江省南部の甌江流域により,ビンエツ※注1※は福建省ビンコウ※注2※流域を中心
とした。揚越は揚州にいた越で,西甌,駱越は広西壮族自治区,あるいは北ヴェトナムにまでひろがって
いたとみられている。秦代末期の混乱に乗じて,趙佗(ちょうた)が番禺(ばんぐう,広東省広州市)を
都に南越(南粤)国を建て,5代97年のあいだつづいたが,漢の武帝の前111年(元鼎6),漢に滅ぼされた。
越族の習俗については,入墨・断髪などが知られ,文化については,新石器時代から春秋戦国時代まで
盛んにつくられた幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている。
URLリンク(www.tabiken.com)
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている

225:出土地不明
08/08/27 13:07:24 OXcJvaU/
●越式鼎


江南名物「越式鼎」(エツシキテイ)。中原の漢式鼎よりも足が長い。
陶製と青銅製がある。



越式鼎
URLリンク(www.npm.gov.tw)






226:出土地不明
08/08/27 13:30:01 OXcJvaU/
弥生時代に印文土器、越式鼎なんて一切伝わっていない。



●印文土器
URLリンク(www.kobijutsuizumi.com)



●越式鼎
URLリンク(www.npm.gov.tw)




227:出土地不明
08/08/27 15:28:09 Stw/ExIL
北方土器人莫迦発言・こぴぺ集


 2008/03/27(木) 11:40:23 ID:LP9cUClG
 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
 URLリンク(www.hibari.ed.jp)

↑合気道同好会のページwwww
考古学でもなんでもないwwww


 131 :出土地不明:2008/06/28(土) 16:28:56 ID:yMagu+UA
 宮本長二郎・東京国立文化財研究所国際文化財保存修復協力センター長(建築学)の話。
 縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。ただし、日本の高床建物は
 祭祀(さいし)目的とみられ、住居など実用目的だった中国とは異なる。
 URLリンク(inoues.net)

 日本の高床建物は祭祀(さいし)目的とみられ、住居など実用目的だった中国とは異なる。
 日本の高床建物は祭祀(さいし)目的とみられ、住居など実用目的だった中国とは異なる。

↑「縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。」 はまるで無視wwww


 129 名前:出土地不明 投稿日:2008/06/17(火) 09:39:00 ID:sjbvkpO+
 ※エスキモーの高床式倉庫
 URLリンク(www.kcc.zaq.ne.jp)

 140 :出土地不明:2008/06/25(水) 20:40:59 ID:xq8YluWo
 ナナイ人の高床式食糧倉庫
 URLリンク(www.toya-kohei.jp)

 138 :出土地不明:2008/06/23(月) 21:14:30 ID:vzIhdsGB
 高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?
 ●ブリアートの高床式の食物倉庫
 URLリンク(www.geocities.jp)

 ウランウデ
 URLリンク(www.geocities.jp)

最近までエヴェンキは狩猟、トナカイ飼育、採集、漁労をしていた。

高床式の食物倉庫にいたっては“現在使われている原物”wwww

真新しい高床倉庫w
考古学ですらないwwww





228:出土地不明
08/08/27 15:42:29 6LkEXyrG






水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、
倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。
URLリンク(ja.wikipedia.org)







229:出土地不明
08/08/27 15:46:23 Stw/ExIL
北方土器人莫迦発言・こぴぺ集


 2008/03/27(木) 11:40:23 ID:LP9cUClG
 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
 URLリンク(www.hibari.ed.jp)

↑合気道同好会のページwwww
考古学でもなんでもないwwww


 131 :出土地不明:2008/06/28(土) 16:28:56 ID:yMagu+UA
 宮本長二郎・東京国立文化財研究所国際文化財保存修復協力センター長(建築学)の話。
 縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。ただし、日本の高床建物は
 祭祀(さいし)目的とみられ、住居など実用目的だった中国とは異なる。
 URLリンク(inoues.net)

 日本の高床建物は祭祀(さいし)目的とみられ、住居など実用目的だった中国とは異なる。
 日本の高床建物は祭祀(さいし)目的とみられ、住居など実用目的だった中国とは異なる。

↑「縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。」 はまるで無視wwww


 129 名前:出土地不明 投稿日:2008/06/17(火) 09:39:00 ID:sjbvkpO+
 ※エスキモーの高床式倉庫
 URLリンク(www.kcc.zaq.ne.jp)

 140 :出土地不明:2008/06/25(水) 20:40:59 ID:xq8YluWo
 ナナイ人の高床式食糧倉庫
 URLリンク(www.toya-kohei.jp)

 138 :出土地不明:2008/06/23(月) 21:14:30 ID:vzIhdsGB
 高床式建物はシベリアやアムールにもあるけど何か?
 ●ブリアートの高床式の食物倉庫
 URLリンク(www.geocities.jp)

 ウランウデ
 URLリンク(www.geocities.jp)

最近までエヴェンキは狩猟、トナカイ飼育、採集、漁労をしていた。

高床式の食物倉庫にいたっては“現在使われている原物”wwww

真新しい高床倉庫w
考古学ですらないwwww





230:出土地不明
08/08/27 17:32:19 JNvjrtvZ
>>224>>226

弥生時代の幾何印文青銅器(銅鐸)は無数に有るぞ。!!!!!

弥生時代の幾何印文青銅器(銅鐸)は無数に有るぞ。!!!!!



231:出土地不明
08/08/27 17:34:20 JNvjrtvZ

>224~226

じゃ銅鐸の幾何印文は誰が伝えたんだ、鳥がくわえて来たんか。


232:出土地不明
08/08/27 17:36:56 JNvjrtvZ
>>これって他人の空似かな!!この紋様は朝鮮半島からは出て来ません。

日本の銅鐸のルーツ? ベトナム・雲南地方の銅鼓、貯貝器の模様(P35,38)
逆S字、のこぎり形、流水形、舳先の立ち上がった太陽の舟、頭に鳥羽を付けた
人物、等々器形は全く違うが模様はうりふたつ逆S字は「隼人の盾」の模様と同じ。
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)

淀江町角田遺跡
URLリンク(www6.ocn.ne.jp)
珍敷塚古墳
URLリンク(blog.livedoor.jp)
隼人の盾
URLリンク(www.kazuart.com)



233:出土地不明
08/08/27 17:38:39 JNvjrtvZ

>これは同じ水軍人物像だよ!! 待てよチブサン古墳って起源前か!!

熊本・チブサン古墳「冠を被った人物像」
URLリンク(www.pref.kumamoto.jp)

呉越時代・臨し出土「水軍戦闘図」
URLリンク(img.blogs.yahoo.co.jp)


234:出土地不明
08/08/27 17:41:15 Uw3MgB42

日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土 [02/09]

URLリンク(sawyer.exblog.jp)

日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に
発展したというのが定説だが、朝鮮の鐸は遊牧系の鐸で日本の鐸とは
宗教感、使用目的がまるで違う。
張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると
指摘し模様の表現方法も類似している。
稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、
発掘結果をめぐる今後の議論が注目される。



235:出土地不明
08/08/27 17:43:01 Uw3MgB42

O2a/O2b系統は長江文明の担い手だと考えられている。O2b系統が移動を開始したのは
6000年前頃(鳥浜貝塚)からである。長江文明の衰退に伴い、O2aおよび一部のO2bは
南下し、百越と呼ばれた。残りのO2bは北上又は東進し、山東省、朝鮮半島、日本列島
に達した。長江文明の稲作、豆類、エゴマ、ヒョウタン、漆器、を持ち込んだと考えられる。

URLリンク(ja.wikipedia.org)


236:出土地不明
08/08/27 17:45:03 Uw3MgB42

弥生時代の幾何印文青銅器(銅鐸)は無数に有るぞ。!!!!!

弥生時代の幾何印文青銅器(銅鐸)は無数に有るぞ。!!!!!


じゃ銅鐸の幾何印文は誰が伝えたんだ、鳥がくわえて来たんか。

じゃ銅鐸の幾何印文は誰が伝えたんだ、鳥がくわえて来たんか。



237:出土地不明
08/08/27 18:49:41 2utxtGXk
●越族 えつぞく

中国の長江中下流以南に広く分布していた民族。粤(えつ)とも書かれる。地域によって,於越(于越),
甌越(越東海,東甌),ビンエツ※注1※(東越),揚越,山越,南越,西甌(甌),駱越(駱)などが
あり,総称して百越(百粤)と呼ばれた。於越は春秋戦国時代に浙江省北半部を本拠に越という国を
建てた。甌越は浙江省南部の甌江流域により,ビンエツ※注1※は福建省ビンコウ※注2※流域を中心
とした。揚越は揚州にいた越で,西甌,駱越は広西壮族自治区,あるいは北ヴェトナムにまでひろがって
いたとみられている。秦代末期の混乱に乗じて,趙佗(ちょうた)が番禺(ばんぐう,広東省広州市)を
都に南越(南粤)国を建て,5代97年のあいだつづいたが,漢の武帝の前111年(元鼎6),漢に滅ぼされた。
越族の習俗については,入墨・断髪などが知られ,文化については,新石器時代から春秋戦国時代まで
盛んにつくられた幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている。
URLリンク(www.tabiken.com)
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている

238:出土地不明
08/08/27 18:50:44 2utxtGXk
●越式鼎


江南名物「越式鼎」(エツシキテイ)。中原の漢式鼎よりも足が長い。
陶製と青銅製がある。



越式鼎
URLリンク(www.npm.gov.tw)






239:出土地不明
08/08/27 18:51:58 2utxtGXk
弥生時代に越の代表的な文物である印文土器、越式鼎が一切伝わっていない。



●印文土器
URLリンク(www.kobijutsuizumi.com)



●越式鼎
URLリンク(www.npm.gov.tw)




240:出土地不明
08/08/27 21:57:00 2K7H+dzP

弥生時代の幾何印文青銅器(銅鐸)は無数に有るぞ。!!!!!

弥生時代の幾何印文青銅器(銅鐸)は無数に有るぞ。!!!!!


じゃ銅鐸の幾何印文は誰が伝えたんだ、鳥がくわえて来たんか。

じゃ銅鐸の幾何印文は誰が伝えたんだ、鳥がくわえて来たんか。


241:出土地不明
08/08/27 23:09:05 ePMqorup
>>239
なるほど半島も初期の住人は江南ですね。
URLリンク(www.geocities.co.jp)
>櫛目紋土器
>紀元前4500~3500年頃、韓半島の新石器時代を代表する土器で、点と線の幾何学模様が施されている。
>点と線の幾何学模様が施されている。
>点と線の幾何学模様が施されている。
>点と線の幾何学模様が施されている。

242:出土地不明
08/08/27 23:41:12 LZimola3
ほほうw

で、その幾何学模様はスタンプ方式で施されているのか?w

まれに櫛の歯による波状文をとる場合もあるが、主にスタンプ方式で
雷文・方格文・条痕文・S字文などを器全体に深々と押印した
土器が印文土器だぞw

243:出土地不明
08/08/27 23:48:10 LZimola3

●印文土器 いんもんどき

アジア 中華人民共和国 AD 

 中国の東南没岸地帯地において新石器時代から漢代にかけて盛行した土器。
中国では印文陶と呼ばれる。焼成火度の差によって,軟陶と硬阿の二種類に
分けられるが,軟陶は前期,硬陶は後期のものになる。また,文様は型押の
印文が最も多く,20種以上の複雑な幾何学文様が器全体に施されるため,
幾何印文土器と通称される。製法には型製・手製・轆轤製のものがあるが,
轆轤製のものは少ない。器形は壺・甕の類が多い。色調は,軟陶では紅・
灰・灰白・黄白色で,硬陶ではほとんどが灰褐色で中に帯釉しているもの
がある。印文土器が最も盛行するのは春秋戦国時代においてであるが,
出土地域が広範なため,この土器の文化的位置付けはむずかしい。
URLリンク(www.tabiken.com)

244:出土地不明
08/08/28 01:59:40 7krfFrPV

>これは同じ水軍人物像だよ!! 待てよチブサン古墳って起源前か!!

熊本・チブサン古墳「冠を被った人物像」
URLリンク(www.pref.kumamoto.jp)

呉越時代・臨し出土「水軍戦闘図」(アクセス変更の様なのでコチラヘ)
URLリンク(img.blogs.yahoo.co.jp)


245:出土地不明
08/08/28 02:13:03 qVeZdRO2
冠をかぶるくらいの上位層が来たなら鼎と金石文くらい残るだろが馬鹿w

それに臨しは華北だぜカスw

246:出土地不明
08/08/28 02:22:49 NdYlK/kI

土器人ちゃん腹に円く、白く描いてるのは小型の銅鏡じゃないか。?

247:月光仮面
08/08/28 12:36:35 E7ugO7ch
>>198
末房論文を今一度見てみよう。
「弥生時代の青銅器鋳造現場の性格を詳細に研究した結果によると,弥生中期前半までは日本での青銅
器の鋳造は朝鮮半島からの渡来人によって行われていたことが指摘されている。それは工人の生活跡か
ら出土した土器から導き出されている。そうすると弥生時代の銅鐸の文様の源流について南からの工人
達は,朝鮮半島で土着化し,その後渡来したことも考えられる。その場合は朝鮮半島にも痕跡がある筈で
ある。ここで朝鮮無文土器時代の有名な防牌形銅器に触れておきたい。この器物は,その文様から農耕
祭祀にかかわる儀器であると推測されているが,人物の特有の表現(図27)は,石寨山型銅鼓等に施され
ている人物表現(図28・29・ 30)と酷似している。この防牌形銅器は,朝鮮では異形青銅器と分類される一
連の器物の一つである。これらの異形青銅器は,紀元前4世紀から紀元前3世紀頃,忠清道に分布し,
突然現れて短期間で消えていったとされている。これらの諸点は,これらの青銅器が朝鮮半島本来のも
のではなく,外から入ってきた要素であること,またその製作にはそうした要素の関与があったことを暗示
しているように思える。」
URLリンク(www.hum.u-tokai.ac.jp)

248:月光仮面
08/08/28 13:04:22 E7ugO7ch
>>215
銅鐸民族は冶金・探鉱民族として吉野ヶ里→出雲→近畿→東海→三河→信州→関東・東北、また、使命
である朱を求める民族としては中央構造帯沿いに東遷、神社仏閣時代に入ってはその更に外延部に
主として修験道の寺社仏閣を築いた。忠清道に新たに入った若者は金剛山周辺に山岳宗教を始め、
洛東江上流から新羅に展開する。日本では最も初期には近畿・東海銅鐸圏に入るが、寺沢薫が王権誕生
で仮説として述べている銅鐸から特殊器台・円形埴輪、首長霊崇拝への大変貌はモモソヒメ・キビツヒコ
という魏志倭人伝の時代をもたらしたのであろう。ここに鬼道宗教改革があり、古墳時代が始まるのであろう。


249:出土地不明
08/08/28 15:11:34 NNzWLgYf
6Cだと呉越時代と1000年以上も違うだろうがヴォケw
結局、冠も朝鮮経由で伝わっただけ。


チブサン古墳(国指定史跡)

 熊本県山鹿市にある全国的に有名な装飾古墳で、全長45m(後円部径24m、前方部幅15.7m)
の前方後円墳です。近くにはオブサン古墳、鍋田横穴群、弁慶が穴などが点在しています。
 古墳時代6世紀頃に造られたもの。石棺の正面の石板装飾の絵柄が女性の乳房に似ている
ところから「乳の神様」として現在も信仰が続いています。羨道をくぐり抜け、玄室へ入って見ませんか。
URLリンク(www.dandl.co.jp)

250:月光仮面
08/08/28 17:16:45 E7ugO7ch
>>248
URLリンク(www.yu-ji.com)
神武開戦直前の神武軍は薄緑・銅矛、ニギハヤヒ・長髄彦は大阪湾銅戈(青・破線)、高霊・卑弥呼は
まだ赤破線・平形銅剣圏内にあり、神武軍が攻撃開始した後賭期をおかず孝霊軍が侵入するってことか。


251:月光仮面
08/08/28 17:49:27 E7ugO7ch
長野・柳沢遺跡で「九州型」「大阪湾型」銅戈が同時出土
URLリンク(www.asahi.com)
[長野県の下高井郡木島平村の根塚遺跡、これから大問題になるだろう遺跡の資料を載せました(図19)。]
URLリンク(www.wako.ac.jp)
URLリンク(www.wako.ac.jp)
建御名方
URLリンク(www.wako.ac.jp)
諏訪に落ち延びる出雲軍そこに長髄彦軍の祭器がある・・・ニギハヤヒと出雲の関係が出土したのだ。
やはり神武はいたようだ。






252:【流】俳人【民族】
08/08/28 17:56:38 SCc4GcMA
此処で一句
「日本人、何処から現れ、何処へ行く」

失礼司まつる。(´Д`)

253:出土地不明
08/08/28 23:36:30 +48pxMkl
見よ!

これが稲作が伝わった当時の長江江南や華北の炊飯器である。

(色、彩文、フタ、単耳、直耳に注目!)


鬲(レキ=袋状の足を持つ三足土器)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(infoimages.nmgnews.com)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)

鼎(テイ=棒状の足を持つ三足土器)
URLリンク(www.ccnt.com.cn)
URLリンク(www.sx.xinhua.org)
URLリンク(trade.socang.com)


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