正攻法の正規の考古学・百鬼夜行の戦慄のデスマッチat ARCHEOLOGY
正攻法の正規の考古学・百鬼夜行の戦慄のデスマッチ - 暇つぶし2ch69:,タイガードラゴン
08/05/23 08:25:29 rDsvgyyQ


ウェストは、秘教学者として知られるルネ・シュヴァレ・ド・リュビチュの著作に興味を持ってい
た。20世紀半中世の大聖堂を建築した石工たちはその英知を古代エジプトから受け継いだ
という話に興味を持ち、特にエジプトの寺院建築を詳しく研究した。

 たとえば、エジプトのルクソール神殿の方庭は真上から見るとひしゃげたように歪んでいるが、
これは決して偶然ではない。なぜなら、エジプトの石工たちはカミソリ一枚入る隙間もないほど
に巧みに石を組み合わせることができる、建築の名手だからだ。したがって、この『ゆが
みには意図的な理由があるに違いない。

 シュヴァレの代表作「人間の神殿」(1949)によれば、エジプトのルクソール神殿は、巨大な幾
何学的複合体であり、全体がひとりの人物を象徴する巨大なヒエログリフになっている。この人
物は、ちょうど神殿の南東の隅にあるラムセス2世の像と同様、片足を前に踏み出している。
先の方庭は、この人物像の中ではこの足に当たっており、ゆえにひしゃげた形で作られて
いるというのだという。

 またシュヴァレは、この神殿には「黄金分割」(ギリシャ文字φで表される)がふんだんに取り
入れられていることを見抜いた。この「黄金分割」は極めて重要な概念であり、特に古代
祭祀遺跡の位置の分析にはなくてはならないものだ。


フフリーメーソン、、、、自由な石工、、、つまり、古代のエンジニア。

URLリンク(ja.wikipedia.org)  ギルド

URLリンク(ja.wikipedia.org) 黄金比


70:,ミジンコ
08/05/23 08:40:41 rDsvgyyQ

URLリンク(ja.wikipedia.org)  文化遺産

URLリンク(ja.wikipedia.org) 世界遺産一覧

URLリンク(ja.wikipedia.org) エジプトの遺跡

URLリンク(ja.wikipedia.org)古代エジプト神話

URLリンク(ja.wikipedia.org) 古代エジプト文明


71:,
08/05/23 08:44:50 rDsvgyyQ

 「黄金分割」の実例は、自然界に無数に見出すことができる。たとえば、あなた自身の
肉体がそうだ。あなたの臍は、上半身と下半身を黄金分割する位置にある。のみならず、
小は植物の葉や花びらの配置から、巻貝の形、そして大は銀河系の渦に至るまで、自然界
のあらゆるところに黄金分割は潜んでいる。そしてまた、芸術家は古くからこの比率が人
間の目をことのほか楽しませるものであるということに気づいていた。

黄金分割を数字で表すと、0・618034、、、、と、無限に、そして反復なく続いていく
数列となる。また、これに1を加えた1・618も、やはり黄金分割の数字である。重要
な数学的概念にはもうひとつ、「フィボナッチ数列」というものがある。これは、先行する2項
の和が次の項の数となっている数列のことだ。たとえば0を基点にするなら、0、1、1、
2,3,5,8,13,21、、、、、と続いていく数列である。そして、この数列上の連続
する2数を取り、前の数で後の数を割っていくと、数列の後ろに行くほどその答えは黄金
分割の数である

0・618034、、、、、に無限に近づいていく。そしてこのフィボナッチ数列もまた、自然界の
いたるところに見つかるのだ。シュヴァレはシャルトル大聖堂のような建築物に封じ込められた大宇
宙の調和の法則の研究に打ち込んだが、彼の研究はフルカネリという錬金術師に盗まれてしまっ
た。フルカネリは1925年に大聖堂の秘密という著書を書いてこの法則を発表し、それはたち
まち世に知られるようになった。シュヴァレは、こうした調和の法則は古代エジプトよりも貼
る改善の伝承に含まれていたものと考えていた。彼が1949年に「人間の神殿」を発表
すると、それはフランス国内で大評判となり、彼はサルトルやカミユと並ぶ名声を獲得するに至った。
シュヴァレがこの伝統を古代エジプトよりも古いものと見なしていたのは、彼が、初めてスフィンク
スを見たとき、その侵食は風ではなく、水によるものであると確信したからだ。スフンクスが水
による浸食を受けているとするなら、その建造年代は通常言われている紀元前2500年
よりも遥かに古いものということになる。


72:,
08/05/23 08:52:33 rDsvgyyQ

URLリンク(ja.wikipedia.org) スフィンクス

 シュヴァレが親しんでいた秘教の伝承によれば、スフィンクスを建造したのは古代エジプト人ではな
くアトランティス人である、とされている。かれらは、最後の破局が起こる前に、エジプトに脱出し
てきたというのだ。シュヴァレは最後の著作となった「聖なる科学」の中でこの伝承を紹介し、
スフンクスの真の建造年代は紀元前1万年ごろであると主張した。

 1961年、74歳でシュヴァレは死んだ。このシュヴァレの著書に感銘を受けたジョン・アンソニー・
ウェストは、通常言われているように、古代エジプトの出現がたかだか紀元前3100年であ
る、などということはありえないと考えていた。その年代を信ずるなら、それからわずか
5世紀後にはあのダイピラミッドが造られていたことになるからだ。それはまるで、ヨーロッパ人
が何もないところからたった5世紀でシャルトル大聖堂を築いたというようなものだ。エジプトの
科学、医学、数学、天文学を学べば学ぶほど、エジプト文明の起源は古くならざるを得な
くなるのである。

 ウェストは「天空の蛇」とだいされた書物を書き、スフィンクスが水による浸食を受けたものであ
ることを証明しようとした。私は1979年7月にこの本を贈られたが、その最終章「エジ
プト―アトランティスの後継者」と題された章には、スフィンクスの写真と、水の浸食を受けたハトシェプスト神殿の
背後の崖の写真が比較対照されていた。私の目には、その両者は極めて似通っているように見えた。
後にウェストはボストン大学の地質学者ロバート・ショックを実際にスフィンクスの前まで連れて行き、
その浸水が水によるものであることを認めさせた。

ショックの見解では、この侵食の後から見て、スフィンクスの建造年代は紀元前7000年、すなわ
ち今から9000年前のことであるという。1991年10月、彼がこの見解をアメリカ地質
学会で発表すると、たちまち激しい反発が引き起こされた―。が、奇妙なことに、地質
学者の中には彼に賛同する人々も大勢いた。むしろ彼の説を頭から否定したのは、決まっ
てエジプト学の専門家たちだったのである。


73:,
08/05/23 08:55:52 rDsvgyyQ
 次にウェストは、ニューヨーク警察の法医学の専門家であるフランク・ドミンゴに依頼し、スフィンクスの顔が
通常そのモデルとされるカフラー王のミイラの顔と同一かどうかを鑑定させた。その結果、スフィンクスの
顔は、カフラー王とはまったく別人であるということが判明したのである。ウェストは、これらの
侵食結果を雑誌に発表し、私に送ってくれた。ちょうど私はアトランティスの映画を撮るというハリ
ウッドのプロデューサーに協力しているところだったので、さっそくウェストのアイデアを使わせて
もらうことにした。1993年9月、私はニューヨークでウェスト」に会った。そこで私は、ちょう
ど計画中だった、スフィンクスの謎と文明の起源をテーマにした本(アトランティスからスフィンクスへ)の話を
した。

 すると彼は、私と同じ様な研究をしている二人の人間の存在を教えてくれたのである。
そのひとりはジャーナリストのグラハム・ハンコックで、ちょうど契約の聖櫃をテーマとする「象徴と封印」
(邦訳:神の刻印)を書き上げ、次に先史時代文明をテーマとする著作に取り組んでいるとこ
ろだった。もうひとりはカナダの図書館司書ランド・フレマスで、アトランティスに関する本を書いていた
が、それはまだ出版はされていなかった。

 イングランドに戻ると、すぐさまこの二人に手紙を書いた。1週間もしないうちに、私はフレマ
スの「空が落ちるとき」と、ハンコックの「神々の指紋」のタイプの原稿を受け取った。

 ハンコックの原稿は膨大だった。古代の文明のことは語って入るが、彼はデニケンのように古代
宇宙人などを持ち出すことはない。単に先史時代の我々の祖先―アンデスのティアワナコや、メキシコ
やエジプトのピラミッドを築いた人々―は、一般に考えられているよりも遥かに高度な文明を
持っていた、と述べているだけだ。

彼はティアワナコの遺跡の研究に生涯を捧げたボリヴィアの学者アーサー・ボスナンスキーの資料を挙げている
が、それによると、ティアワナコの神殿は、一般に最古の文明が築かれたと考えられている時代
よりも9000年も前、すなわち紀元前1万5000年ごろ建てられたものだという。

 またハンコックは、ベルギーのエンジニアであるロバート・ボーヴァルによる「オリオン・ミステリー」という本を
紹介している。ボーヴァルによれば、ギザの3大ピラミッドは実に奇妙な配置のされ方をされて
いるという。最初の2つのピラミッド―クフ王の大ピラミッドと、彼の息子であるカフラー王のそ
れ―が、それぞれの対角線を結んだ一直線上に並んでいるのに対して、最も小さなメンカう
ラー王のそれだけが、この直線から外れているのだ。

URLリンク(ja.wikipedia.org) ギザ

74:,
08/05/23 08:57:08 rDsvgyyQ
何のためにあえてこのような配置がなされ、また何のために第三のピラミッドだけが非常に
小さくつくられているのか。メンカウラー王はクフ王の孫、カフラー王の息子であり、年代的には最も
後ということになるのだが、彼の王としての権力は、父や祖父にも決して引けをとらなか
ったはずなのだ。

 そこでボーヴァルは、実はこのピラミッドの配置はオリオン座の3つの配列を忠実に写し取ったも
のである、と考えたのである。古代エジプト人は地上を天の繁栄と見なし、天の銀河は地上
のナイル川である、と考えていた。そこで彼らは、この対応を示すために、聖なる星座である
オリオン座の3つ星に合わせてピラミッドを配列したのだ。おそらくこの星座は、古代エジプ
ト人にとってはオシリス神を表していたのだろう。

 だが3大ピラミッドの配列は、厳密に言えば、完璧に現在のオリオン座の3つ星に対応して
いるわけではない。ここで重要となってくるのが、春分点歳差と呼ばれる現象である。こ
の現象のために、星座の見え方は2万6千年周期で変化するのでありう。ボーヴァルの計算に
よれば、3大ピラミッドの配列は、厳密に言えば、完全に現在のオリオン座の3つ星に対応し
ているわけではない。ここで重要となってくるのが、春分点歳差と呼ばれる現象である。
この現象のために、星座の見え方は2万6000年周期で変化するのである。ボーヴァル
の計算によれば、3大ピラミッドの配列とオリオン座の3つ星が完璧に位置していたのは、紀
元前1万五千年ごろであったという。



75:,
08/05/23 08:59:43 rDsvgyyQ
>>23
 ボーヴァルは、この年代が古代エジプト人にとって極めて重要な意味を持つと考えた―事
実、それは彼等のヒエログリフに「最初の時」と記されている、エジプト史の始まりのと
きにあたっているのである。もしかしたらスフィンクスは、この「最初の時」を記念するために、
紀元前1万500年ごろに築かれたののだろうか?もしそうなら、スフィンクスの建造はショックの推
定による紀元前7000年よりもさらに古いことになる。ボーヴァルによれば、3大ピラミッドその
ものは紀元前1万500年に建てられたものではないという。女王の間の「通気孔」の角度
と星の関係からすると、大ピラミッドの建造はエジプト学者が言うとおり紀元前2500年ごろに
違いないらしい。だが彼は、この3大ピラミッドの設計がなされたのが紀元前1万500年ごろ
であったのは確実である、と言うのだ。またグラハム・ハンコックの「神々の指紋」では、石材の
素材の違いから、カフラー王のピラミッドの下半分だけは紀元前1万500年に築かれた、との説が
示されている。

 このように、ボーヴァルやハンコックが紀元前1万500年という年代をはじき出しているのに対
して、先述のようにハプグッドやランド・フレマスは、最後の地殻滑動が紀元前9600に起こったと
考えている。この900年の誤差は一体なにを意味しているのだろうか?

 フレマスはいう―ハプグッドの年代は考古学・地質学的データから得られた正確なものである
のに対して、ボーヴァルの年代は、その推定自体に誤りはないとはいえ、スフィンクスがその同じ時
に建造されていなければならないと言う必然は何もない。スフィンクスはあくまでも「最初の時」
を記念して建てられたものである。多くの記念碑と言うものがそうであるように、その建
造は、記念すべき時自体よりもかなり後のことかもしれない、と言うのだ。

 グラマム・ハンコックは、私の「アトランティス・からスフィンクスへ」と執筆に最大限の協力をしてくれた。
まだ出版される前の「神々の指紋」と、その続編である「創世の守護神」のタイプの原稿を
送ってくれ、それを自由に引用していい、とまで言ってくれたのである。

 この「神々の指紋」の成功には、ランド・フレマスも寄与していた。ハンコックは、古代エジプト・
シュメール以前の文明の存在を推定しながらも、それに疑問を持ち、精神的にも鬱屈した状態に
なっていた。そんな文明が存在していたとしたら、それはどこにあったのか、という謎が
解けなかったからである。そんな文明の担い手となるような広大な大陸が、大西洋のそこ
に沈んでいるなどと言うことはありえないからだ。


76:,白からす黒ひつじ
08/05/23 09:53:56 rDsvgyyQ

スレリンク(psycho板:403番)

スレリンク(army板:53-58番)

スレリンク(utu板:814-824番)

スレリンク(utu板:830-831番)

スレリンク(uwasa板:504-530番)

、、、、、、、、、、


スレリンク(esp板:1-73番)


77:,
08/05/23 09:56:10 rDsvgyyQ


    超能力板の掲載に関しては、何ともいえませんが、、、。

   、、、、、ぶっちゃけ、、、、?、、、、です、、、。



78:,
08/05/23 18:55:46 rDsvgyyQ



このヒントによって、ハンコックのすべての疑問は氷解したのだった。

「空が落ちるとき」には、もひとつ、非常に興味深いエピソードが紹介されている。ティティカカ湖
畔に、アイマラ族と言うインディオが暮らしている。彼等の言語であるアイマラ語は、構造が極めて論
理的であり、コンピュータによって判読可能な数学的記号で書き表すことができるという。この
特質ゆえに、アイマラ語はコンピューターによる翻訳システムに使う中間言語として理想的なものだ
ったのである。

 ボリビアの数学者ロハス・デ・グスマンによれば、これほど完璧な言語は他の言語のように「発
達」してきたものではなく、まったくゼロから「開発」されたものであるとしか考えられな
いと言う。この事実は暗に、彼等にこの言語を伝えた他者の存在を示唆しているようだ。

 事実、中南米の諸部族に広がる伝承によれば、太古、彼等の「神々」はひがしからやっ
て来たという。神々の王(ヴィラコチャ、ケツァルコアトル、コン・ティキ、ヴォタン、ククルカンなど、)
さまざまな名称で呼ばれる)は髭を蓄え、ヨーロッパ人のような顔つきで、人々に文明と倫理
基準を伝えた。そしていつの日か再び戻ってくるとの約束を残して、海に戻っていったと
言う。



79:,
08/05/23 18:57:27 rDsvgyyQ
 後年、アステカ人はスペインの侵略者たちをこの神々の再来と誤解したために、あの帝国は
あんなにも簡単に征服されてしまったのである。そして前述のアーサー・ボスナンスキー教授によれ
ば、アイマラ人は自らの言語を、この神々から与えられたと信じたと言う。様々な紆余曲
折を経て、フレマスの「空が落ちるとき」は、私の序文を添えて1995年に出版された。そして
その翌年には、私の「アトランティスからスフィンクスへ」と、ボーヴァルとハンコック
の共著「創世の守護神」が世に出た。

「創世の守護神」では、古代エジプト人が紀元前1万500年にギザ・ピラミッドの設計を
行っていながら、実際に建造するまでに8000年もの期間を待機したのは、際差運動によっ
てオリオン座が元の位置に戻ってくるのを待つという儀式的な意味合いのためである、と
言う推論がなされている。「空が落ちるとき」は、9つの言語に翻訳される大成功を収めた。

そこでフレマスはさっそく次の仕事に取り掛かった。彼は、メキシコの先史遺跡に目を付けた。

メキシコで最も重要な先史遺跡と言えば、それは間違えなくテオティワカンである。それが最盛期
を迎えたのは6000年ごろで、統治の広さは12平方マイル(約19・3平方キロ)もあり、
帝政ローマ以上に巨大な都市だった。だが、この都市は750年ごろに突如、完全に崩壊して
しまう。その原因は判明していないが、広い地域に地震に襲われた形跡が残されている。

この都市には、「月の神殿」と「太陽の神殿」を結ぶ「使者の大通り」と呼ばれる長さ2マ
イル(約3・2キロ)の通りが南北に延びている。だがこの道は、厳格に言えば15・5度
ほど、東北に傾いているのだが、その理由もまた不明である。だがフレマスは、このテオティワカン以
外にも、南米には東北東に傾いた祭祀遺跡が49もあると言うことに気づいた。

 もしかしたら、テオティワカンが最初に設計されたとき、「死者の大通り」は正確に真北を指し
ていたのではないだろうか―すなわち、ハドソン湾の旧北極を―。一見したところ、それはありえない。テオティワカンは、最大限に見積もっても、紀元前4000年より古いものではありえないとされているのだ。

 だが、そもそも宗教的遺跡と言うものは、それ以前から存在した宗教の聖地に建てられ
るという性質がある。古い宗教の遺跡があった場所そのものが神聖な土地と見なされるた
めである。ヨーロッパでも、キリスト教の教会の多くは異教の聖地の上に建てられている。


80:,
08/05/23 18:58:41 rDsvgyyQ
(テオティワカン遺跡の太陽の神殿。この都市遺構はメキシコで最も重要なメキシコで最も重要な先史遺跡
とされ、最盛期には帝政ローマ以上に巨大な都市だったと言われている。)

考古学者たちは、テオティワカンから5つの異なる都市の遺跡を発掘している。もしも文明と言う
ものが紀元前一万年以前から存在していたとするなら、テオティワカンが紀元前4000年よりもは
るかいぜんから整地とされていた土地の上に建てられた都市であったということは十分あ
りうるのである。

フレマスはテオティワカン以外にも4つの遺跡―トゥーラ、テナユカン、ソチカルコ、コパン―を調べてみたが、結
果は同じだった。いずれの遺跡もやはり、まるで何かの目印のように、旧北極を指してい
たのである。そこでもし仮に、紀元前1万年以前のテオティワカンに間ラ化の神殿があり、他の4
9の「傾いた」祭祀遺跡がすべてハドソン湾の北極に向けて設計されたものだ、と仮定してみ
よう。すると、残された遺跡の分布からして、この文明は広大な範囲に広がっていたこと
になる。前述のように、ボナンスキー教授によれば、ティアワナコは紀元前1万5000年ごろに遡り、
またハプグッドは、かつて全世界的な規模の海洋文明があったと考えていた(彼はこれを紀
元前7000年ごろと見積もっていたが、同時に彼は、アトランティスの終焉を紀元前9600年として
いる)。

もし、このような文明が存在したなら、全世界的な規模で測量が行われたとしても、不思
議はない。項考えたフレマスは、各遺跡の位置関係に注目することを思い立った。

 たとえば、ギザの大ピラミッドが驚くほど高度な数学と地理学の知識を示していると言うこ
とは、よく知られている。その4つの面が正確に東西南北の方向を向いているのみならず、
その位置は赤道からちょうど30度北にあるのだ―つまり赤道から北極までの距離のちょ
うど3分の1である。エジプト人は赤道の長さを知り、赤道から極までの距離を知っていた。


81:,
08/05/23 18:59:52 rDsvgyyQ
そしてまた、前述のように大ピラミッド事態が地球の北半分、すなわち赤道から北極までを象
徴している。これらのことは、そして大ピラミッドをあえてその位置に置いたと言うことは、
紀元前2500年のエジプト人が全世界的な規模の地理地形を持っていたことを意味する。そ
れでは、この大ピラミッドはハドソン湾にあった北極となんらかの関係を持っているのだろうか。

 ハドソン湾の北極の時代、大ピラミッドは今よりも15度南にあった。そのため、まず大ピラ
ミッドからハドソン湾の北極に向かって1本の直線を引き、さらにもう1本を現在の北極に
向かって引くと、この二本の直線の角度は28度となる。

フレマスは、この28と言う数字が、ギザにおいて極めて重要な役割を果たしていることに気が
ついた。大ピラミッドの王の間に続く大回廊には28度の会談があり、スフィンクス神殿には28本の
柱がある。さらに、大ピラミッドから見ると、夏至と冬至の日の出の位置は56度離れている
―すなわち、春秋分点と夏冬至点はそれぞれ28度ずつ離れていると言うことだ。

さらにフレマスは、スフィンクス神殿が大ピラミッドの葬祭殿から見て28度の角度を持っている事を発
見した。そしてこの角度をそのまま延長していけば、その直線は正確にハドソン湾の旧北
極に達するのである。

スフィンクスの前に並んで立つスフィンクス神殿と谷の神殿は、両者とも「巨石時代風」のスタイルを持っ
ており、ウェスト、ハンコック、ボーヴァルの一致した見解では、これは他の遺跡よりも遥かに古い。
同じことは、大ピラミッドの葬祭殿にも言えるのである。

これらの計算結果は、単なる偶然であるとは考えられない。そこでフレマスは、大西洋から遠
く離れた中東の遺跡について、さらに慎重に研究を進めた。その結果、以下のような遺跡
がハドソン湾の旧北極を指していることが判明したのである。


82:,ミジンコ
08/05/23 20:38:56 rDsvgyyQ

>>78 URLリンク(ja.wikipedia.org) チチカカ湖

>>79 URLリンク(ja.wikipedia.org)

URLリンク(ja.wikipedia.org) ハドソン湾?
、、、マズッタかな、、、、。、、、まぁいいか、、、後で修正して行こう、、、。

>>80 URLリンク(ja.wikipedia.org) トゥーラ
URLリンク(ja.wikipedia.org) ソチカルゴ
URLリンク(ja.wikipedia.org) コパン
スレリンク(rikei板:232番)


83:,ミジンコ
08/05/23 20:57:38 rDsvgyyQ
1) カルデアのウル。有名なジッグラトと、月の女神イナンナの神殿。
2) バグダッドの南にあるニップール(ここで発見されたギルガメシュ叙事詩の粘土板には、理想郷ディルムンが洪水で滅びる描写あり)。
3) シュメールの都市のウルクのジッグラトと「白き神殿」。
4) エルサレムのヘロデ王の神殿の嘆きの壁。

次にフレマスは、多くの遺跡が、彼のいう「聖なる緯度」上にあるということに気づいた。こ
れは、360の約数となる数字を持つ緯度である。たとえば30度、45度などがそうだ。
そして彼は、こうした「聖なる緯度」の上にある遺跡を、次のように40あまりも発見した
のである。これはもはや、単なる数字の遊びとして片付けられるものではない。

ハドソン湾(北緯60度/西経83度)が北極であった当時の聖なる緯度

以下にあげる遺跡はいずれも、聖なる緯度から0・5度以内(30海里)の位置にある。南
太平洋のライアテアとタヒチは、聖なる緯度に最も近い島である。

50度 ロスロリン/ローンヘッド/キルウィニング、タラ/ニューギレインジ/ノウス、ダネエヒト、ウシュマル、チチェン・イツァ
45度 コパン/キリングア、カンタベリー
30度 カルタゴ、キト
25度 コンスタンティノープル
15度 ギザ、エリコ/エルサレム、アッシュール、ナスカ、ギルガル、ヘリオポリス
12度 バビロン、平壌
10度 ウル/ウルク/エリドゥ、テーベ/ルクソール、スサ、伊勢、奈良、京都・平安京、クマシ、ナカダ、ラガシュ
5度 ビュブロス、西安、ラリバラ、エレファンティン、ライアテア、タヒチ
0度 ラサ、粟国島、モヘンジョ・ダロ、イースター島
(/で繋いだ都市は極めて近接していることを示す)

84:,↑
08/05/23 21:11:15 rDsvgyyQ

恐らく、WIKIで出ないのは沢山あると思うが、ご自由にお調べください、、、、。



85:,↑
08/05/23 21:12:33 rDsvgyyQ

フレマスの「空が落ちるとき」は、1995年1月にカナダで出版され、すぐにいくつかの言語に翻
訳される成功を収めた。グラハム・ハンコックの「神々の指紋」もまた、1995年4月に出版されれ
るになるやいなや世界的なベストセラーとなり、古代文明に対する人々の関心の高さを改
めて明らかにする結果となった。

私自身の「アトランティスからスフィンクスへ」は1996年5月に出版され、初刷りはその日のうちに売
切れてしまった。ハンコックとボーヴァルの共著「創世の守護神」は1996年に出版され、これ
もすぐさまブストセラーとなった。そしてクリストファー・ナイトとロバート・ロマスの「ヒラムの鍵」(邦訳:封印
のイエス)もまた、好調な売れ行きを示している。

 こうした機運にのって、フレマスは次の作品「未来の発見―アトランティスからの青写真」と題す
る本を計画していたが、フレマスのパートナーであるローズは小説の執筆に専念しており、また彼自
身も図書館司書の仕事に忙殺されていた。そこで彼らは計画の概要を私に送ってくれ、こ
れを本にするよう依頼してきたのである。

 この概要を読んで、私は脳天を一撃されたようなショックを感じた。もしも祭祀遺跡の配置
に関する彼の仮説が正しいなら、これはアトランティス以前の文明に関する、これまでで最強の物
的証拠となる。私は一も二もなく執筆役を引き受けた。彼は直ちに大量の資料を送りつけ
てくれた。

 そこにはハプグッドのいう有史以前の「高度科学文明」の存在を裏付ける、信じがたいよ
うな証拠がちりばめられていたのである。


86:,
08/05/23 21:20:41 rDsvgyyQ

ギザの本初子午線


1884年10月。スコットランドの王室天文学者チャールズ・ピアッツィ・スマイスは、地球上の経度の基
点となる子午線、すなわち「本初子午線」を、ギザの大ピラミッドに置こうと考えていた。奇
妙なことかもしれないが、巨大な蒸気船が世界中の海を航行していた19世紀末に至って
もなお、このような基本的なことがまだ定められていなかったのである。

 当時は多くの国が盛んに天文台を作り、それぞれ自国内に本初子午線を持ってくること
を主張していたのだ。そこで、この問題」をかいけつするためにヨーロッパ25カ国の代表が
ワシントンDCに会し、会議を開いたのである。

その会議も場で、スマイスは自国のグリニッジよりも、世界最大の遺跡であるギザの大ピラミッド
こそが本初子午線にふさわしい、と主張した。そして彼はその理由の一つとして、恐らく
古代人もギザを本初子午線として用いていたと思われる、と論じたのである。

だが、ご存知のように、多くの国はグリニッジに投票し―当然ながらフランスは棄権したが―
スマイスの論理的な主張は退けられてしまった。もしもこのとき、本初子午線の位置がギザに
決まっていたら、世界中の何百と言う聖地が、一つの巨大なパターンを構成していると言うこ
とが手に取るようにわかっていただろう。



87:,
08/05/23 21:22:40 rDsvgyyQ


 たとえば、グリニッジを起点にした場合は西経69度にあるティアワナコは、大ピラミッドを起点に
すれば西経100度となる。かつてのインカ帝国の首都であるキトは西経110度で、テオティワカン
やイースター島などの重要な遺跡も、西経120、130、140度と言った位置に見出される
のだ。

統計の場合も、カルデアのウルは正確に東経15度で、チベットの首都ラサは東経60度となる。

 さらに重要なのは、経度がこのように端数のない数字で表される聖地の多くは、この経
度がφに関係のある数字になっている。

たとえば、ティアナワコの緯度は10φ。ポリネシアの霊的センターであるライアテア(ここはギザ経180度
でもある)もまた10φである。実を言うと、私が拙著「聖なる遺跡の地図」でとりあげ
ていた数多くの遺跡が、まさにこの条件に当てはまっていたので、最初フレマスからこの話を
聞いたときには、本当に仰天したものだ。



88:,
08/05/23 21:25:44 rDsvgyyQ

URLリンク(ja.wikipedia.org) φ 幾何学

URLリンク(ja.wikipedia.org)  φ



89:,
08/06/01 09:41:19 9Af/B2Au

スレリンク(ruins板)l50 Wikipediaで世界遺産

スレリンク(geo板)l50 地理学・人類学

スレリンク(sky板)l50 天文・気象

スレリンク(min板)l50 民俗学・神話学


90:,ミジンコ
08/06/03 18:25:27 GKr+Wrrq


スフィンクスの建造年代、、、、。
スレリンク(ruins板:37-39番) ピラミッド

スレリンク(ruins板:40-43番) スフィンクス

スレリンク(geo板:45-47番) 地球の大きさを知っていた古代人、、、

スレリンク(ruins板:44-48番) :、ピラミッドに秘められた音の秘儀、、、



91:,ミジンコ
08/06/03 19:08:40 GKr+Wrrq

スレリンク(ruins板:49-53番)  デンデラ神殿とオリシスの墓、、、、、

スレリンク(earth板)l50 地球科学

スレリンク(psycho板:383番)

スレリンク(rikei板:241番)

スレリンク(whis板)l50x


92:,二つのタイプに分かれる脳の力、、、、
08/06/03 19:12:51 GKr+Wrrq
デンデラ神殿とオリシスの墓、、、、、 のつぎ、、、、


夕方までに我々はカイロに戻り、24時間後にはコーンヲールのわが家にもどった。だがもうひとつい
い忘れたことがあった。このナイル遡航のたびの最も重要な発見の一つだー―我々の祖先が6
万年以上も前に歳差運動を知っていたということを示す驚くべき証拠である。

隣のキャビンに、南アフリカの魅力的なカップル、ウォルトン夫妻がいたー―ガースとマリーだ。私の講
義の夜、フランスの宇宙科学者モーリス・シャトランの「宇宙から来た我らの祖先」を知っていますか、
と彼等にたずねられた。知らないと答えると、その本を貸してくれた。それから数時間の
うちに、私は10万年前に高度な科学が存在したというハウグッドの主張を裏づける発見に出
くわしたことを知った。

1843年、イラク(当時はメソポタミア)のモスルの領事であったポール・エミール・ボッタというフランス人が居た。
彼がティグリス上流のユクンジクと呼ばれる塚の発掘を始めた頃、アッシリアの王アッシュールバニパル(在位紀
元前669-627)の書庫を発見した。その粘土板の中に、膨大な数の書かれたのもが
あったのだー―195955200000000(195兆552億)である。この廃墟と
化した都市の名はニネヴェであった。

その当時は、100万という観念すらほとんど用いられることはなかったので、ボッダは困
惑した。一体古代アッシリア人はこんな膨大な数字を何に使ったのだろうか?

シャトランはコンピュータを使って計算し、この数字が見た目ほど面妖なものではないというこ
とを見出した。これは60の7乗×70だったのだ。

ここでシャトランはおぼろげな記憶を思い出した。文字を発明したシュメール人は、10進法ではなく
60進法を使っていたという話だ(彼らは60秒で1分、60分で1時間という単位を発
明した)。突如、ある直感がひらめいた。この巨大な数字は、もしかして秒じゃないのか?
計算してみると、それは22億6800万日、つまり600万年以上に相当していた。


93:,
08/06/03 19:14:30 GKr+Wrrq

シュメール人はまた偉大な天文学者でもあり、すべての惑星の動きを図表化していた天王星や海
王星までもだ。シャトランは考えた、彼らは春秋分点歳差のことまで知っていたのか?地球が歳
差運動の1周期を完了する時間は2万6000年程だ。彼はニネヴェ定数をこの数で割ってみた。

すると驚いたことに、それはぴったり歳差運動の240周期―すなわち240「大年」に
当たっていたのだ。

ここで再び彼は考えた、この巨大数は天文学者やオカルティストの言う「太陽系の大定数」、すな
わち他のすべての数字―例えば惑星の軌道などー―を包含する「最大公約数」ではない
のだろうか?彼は惑星とその衛星の周期を秒に換算して計算を進め、そのすべてがニネヴェ定
数の約数であることを見出した。

これは仰天すべき発見だった。現代の科学によれば、これらの古代の天文学者が天体に興
味を持ったのは。純然たる迷信的理由のためであるはずだ。だがもしもニネヴェ定数がシャトラン
の言う通りのものであるなら、カルデアの天文学者は、太陽系に関してアイザック・ニュートンにも比
肩しうる理解を持っていたということになる。

この結果をさらに検証するために、シャトランは地球の自転周期とニネヴェ定数を比較した。だが、
小数点以下第六位に誤差があることがわかり、彼は少し失望した。それは1年当たり100
万分の1日(1・0368秒)という微々たる誤差に過ぎない。だがニネヴェ定数は極めて正
確であったので、この程度の誤差すら彼には許せないのだった。

そうこうするうちに、またしても新しい考えを思いついた。よく知られている通り、地球の自転速度は徐々に落ちてきている。今から100年後には1年の長さは12日も短くなるの
だ。ニネヴェ定数が地球の自転と完璧に合致していたとするなら、それが計算されたのは今か
ら6万4800年前ということになる。

だがそんな昔に、知的生命が存在しなかったのは確かではないか?

ところがニネヴェ定数を見る限り、人類は現在のみならず、その当時においても同様に高度な
科学を持っていたに違いないのだ。

94:,
08/06/03 19:17:54 GKr+Wrrq
では、彼らは何者だったのか?候補は選り取り緑だ。ネアンデルタール人かもしれない。そのころ
にはまだ彼らは居た。あるいは我々の同類であるクロマニオン人かもしれない。あるいはデニケンの
いう宇宙からの訪問者かもしれない。シャトランもそういう考えのようだ。だから彼の本は「宇
宙から来たわれらの祖先」と題されている。その冒頭はこうだ。

「マーキュリーやジェミニからアポロまで、アメリカが行った宇宙飛行のほとんどは、未知の宇宙船の追跡
を受けた。それらは外宇宙のほかの文明から飛来したのかもしれない、、、、そうしたことが
起こるたびに、宇宙飛行士は管制センターに報告している。彼らは完全な沈黙を強いられた」

シャトランは、サンディエゴ近郊で発見されたクロマニオン人の頭蓋骨を引き合いに出す。それは5万年か
ら6万5千年前のものとされたが、彼の引用する二人の科学者によれば、その脳容量は「最
高の知性」を示しているという。彼等によれば、その人間たちは「天文周期を観測し、こ
れを記録する能力をもっていただろう」。

シャトランは忘れているがー―あるいは知らないのかもしれないがー―ネアンデルタール人の脳容量は、
我々のものと遜色ない大きさなのだ。

だがもうひとつ考慮すべき可能性がある。あなたや私のような普通の人間でも、実に驚く

べき脳の力を秘めているということだ。私の好きな例はベンジャミン・ブライズという6歳児の
話だ。

1826年のこと、父親と散歩中だった彼は「今何時?」とたずねた。「7時50分だよ」と父は答えた。それから5分ほど歩いたところで、ベbbジャミンはいった。「だったら、僕の生き
た時間は、、、」、そして彼はひとつの数字を示したー―1億9000万秒に近い数字だった。父
親はそれをとっさに書きとめ、家に帰ってから紙で計算してみた。彼は言った。「いや、1
7万2800秒ほどまちがえてるよ」。「ううん、間違ってないよ」とベンジャミンは答えた。「お
とうさん、うるう年を一回飛ばしているよ」

95:,
08/06/03 19:19:18 GKr+Wrrq

このようなことがどうして可能なのだろうか?すばやい計算能力は、数千年という文明を
経て初めて発見したものだ。だが一方で、いかなる種類の知的洗練もない人々が、複雑な
計算を行う場合があるー―事実、彼らはしばしば、我々のほとんどよりも遥かに有能にそ
れを行うのだ。

こういったいわゆる「サヴァン症候群」のような人々がいることからして、人間の脳の力には
2つの種類があることが推測されるー―偉大な哲学者に必要な類のものと、ベンジャミン・プラ
イズのような計算の天才に必要な類のものの2つだ。後者は1種のスーパーコンピューターと見なし
てもいいかもしれない。

だがその説明ではうまくいかないこともある。たとえば、素数と呼ばれる数字は、自分以

外のほかの数字で割り切れない数を言うー―5、7、11などがこれにあたる。そして、
ある巨大数が素数かそうでないかを調べる数学的な近道は存在しない。ただ別の数でひた
すら割り続けるしかないのだ。コンピューターですら、このような遠回りをしなければならない。

ところが、数学的天才は、しばしば、巨大数を人目見るだけで、それが素数かどうかを判別
することができる。精神科医オリバー・サックスによれば、ニューヨークの精神病院に居た知的障害の
双子は、24桁の素数を指摘しあって遊んでいたという。例えるなら、この双子の精神は高
のように空中を飛びながら、すべての数字の領域を見回し、ウサギを捕まえるように素数
を狩ることができるのだ。


96:,
08/06/03 19:23:59 GKr+Wrrq

建築家のキース・クリッチロウが書いた「静止した時間」(1979・このタイトルは、マイケル・ベイジェント
のエドフでの体験を思い起こさせる)によれば、この能力こそ、バビロニア人が何千フィートも
ある直角三角形を描くことができた理由だという。たぶん、モーリス・シャトランが研究したニネヴェ
定数もまたこれによるものなのだろう。

クリッチロウはまた、古代の巨石や環状列石、そしてアレクサンダー・トム教授の作品に興味を抱いてい
た。1933年、トムはヘプリディーズ諸島(スコットランド西方)のルイス島に自分の帆走ヨットを繋留し、た
そがれ時にカラニシュの巨大環状列石を見るために上陸した。その南北軸は精確に北極星を指していたが、この環状列石が築かれた5000年前の時点では、北極星はその位置にはなか
ったはずだ。

カラニシュとそのほかの環状列石を調べたトムは、これらの環状列石のいくつかは実際には環状で
はなく、卵型だったり、あるいはD字型だったりすることに気づいた。最終的にトムは、こ
れらの不規則な形がピュタゴラスの三角形を用いて作られていることを見出した。大ピラミッドの
ことを思い出すなら、単なる偶然とは思えない。トムは、これを作った人間が極めて高度な知性
を持っていた、と結論した。実際、彼は彼らのことを「先史時代のアインシュタインたち」と
呼んでいる。

トムはまた、これらの環状列石のすべてに同じ基準尺度が用いられていることに気づき、こ
れを「巨石ヤード」と名づけた。1巨石ヤードは2・7272フィートに当たる(約83センチ)-―
実際には基準尺度はその半分だったが、トムはヤードに近づけるためにそれを二倍にした。さらに巨石フィートは、大ピラミッドに用いられたエジプトの尺度、つまり、「プレトマイオス・フィート」と
同じものであることが判明した。トムの後継者の一人である数学者B・L・ファン・デ・ヴェ
ルデンによれば、バビロニア以前にも遡る幾何学と算術の源泉が存在し、これこそがギリシア、
インド、中国、のすべての知識の源であるという。

クリッチロウによれば、文化とは必ずしも非常に複雑かつ技術的に高度なものであるとは限らな
い。何も摩天楼や大鉄橋だけが文明ではないのだ。高度な文明を持つ人々が非常な質素な
暮らしをしていることもありうる。だがそれでも、彼らの知識はニネヴェ定数を作り出すほど
に深遠なのだ。

我々は再び、あの問題に直面したーー我々の遠い祖先は、どうやって15桁もの数字を扱う
ことができたのか?それはー―もしシャトランが正しいならー―22億6800万日を秒で表した数
なのだ。


97:,
08/06/03 19:26:04 GKr+Wrrq

計算の天才たちを観察することによって少なくともその答の一端を垣間見ることはできそ
うだ。多分我々の祖先は、5歳のベンジャミン・プライズや、オリヴァー・サックスがいう知的障害を持っ
た双子のように、容易にこれらの数を計算することができるのだ。

脳の力には二つのタイプがあるという私の示唆は、ここでひとつのヒントになるだろう。高速の
計算機に必要な脳は、機械的なものだ。これに対して、偉大な哲学者に必要な能力はそれ
とは違っているー―それはかつて、「インスピレーション」と呼ばれた能力だ。「ジュピター交響曲」を
書いているときのモーツァルトに降った類のものだ。

1969年、マリョルカにいたころ、詩人のロバート・グレイウズにインスピレーション体験の話をせがんだところ、
彼の短編「大嫌いなガン先生」を読むようにいわれた。この話には、彼の学友で計算の天
才F・Fスマイリーの奇妙な能力が出てくる。

ガン先生がクラス全員に難しい数学の問題を出すと、スマイリーだけは簡単にその答を書いてしま
って、あとはただ窓の外をぼんやり眺めている。何故計算もせずに答がわかるのかと聞か
れると、スマイリーは答える、「浮かぶんです」。ガン先生は言う、「本の後ろの答を見ているの
か?」。スマイリーはいう、そんなことありません。その本の後ろの答は2つも間違っているし。
ガン先生は、「カンニングと口答のため、鞭打ちの必要あり」スマイリーを校長のもとに送る。
グレイヴズ自信も、これに似た体験をしたことがある。クリケットの観覧席の後ろのローラーに座って
いたとき、突然、「天からの啓名」を受けたのだ。


98:,タイガードラゴン
08/06/03 19:27:10 GKr+Wrrq


まるで自分が何もかも知っているような気がした。それで、よく知っている学問のあらゆ
る領域に考えを巡らせた。すると、これが単なるばかげた空想じゃないってことがわかっ
た。私はすべてを知っていたんだ。簡単に言おうー―当時の私は学校教育の3分の一にも
達していなかったし、数字が苦手で、ギリシア語文法はまったくできず、英語史もあやふやだ
ってことはよくわかっていたのに、手の中には真実の鍵があった。それを使えば、どんな
扉でも開くことができるんだ。それは宗教でも哲学でもない、無秩序な事実を横目に見て、
それを完璧に理解する方法だった」

グレイウズは言う。かれはこの洞察力を「さまざまな、びくともしないような扉の錠前に使っ
てみた。どんな扉でもカチリと音がして簡単に開いたんだ」。

翌朝、目を覚ましたときも、その洞察力は依然として有効だった。だが午前中の授業の後、
その洞察を練習長の裏に書きとめようとしたとき、「精神の速度が速すぎて、ペンが追いつ
かないんだ。そこでかいたものに×ををつけて消し始めたー―致命的なミスだったなー―
しばらくして紙をくしゃくしゃにしてた」。その後、それを敷布に書きとめようとしたとき
には「魔法は消えて、洞察力も雲散霧消した」。

このときの体験について、彼はこう書いている。「突然、赤ん坊のように直観力に目覚めた
ものだった。それは通常の思考のプロセスのすべてを省略し、問題から答へと直接跳躍するも
のだった」

私はグレイウズの言いたかったことを再現するつもりなのだ。


99:,ミジンコ
08/06/03 19:49:38 GKr+Wrrq

URLリンク(ja.wikipedia.org) メソアメリカ文明

スレリンク(geo板:35-40番)  世界最高の精密な暦

スレリンク(geo板:40-44番)  マヤの残虐な人身供儀、、、、

スレリンク(rikei板:246-252番) 占星術と太陽活動の照応

スレリンク(psycho板:404-410番) 聖都テオティオワカンの大破局


100:,ミジンコ
08/06/04 10:33:16 3b6MvOg+


スレリンク(geo板:49-51番) ペルー 月のピラミッド

スレリンク(min板:67-70番) 石棺の蓋に刻まれた視覚的暗号、、、



101:出土地不明
08/06/23 16:04:10 7aXWrBkO
反応が無いからって、他の板にコピペするのはやめような。

102:,
08/06/27 22:10:03 IuLgLq/i
101>>
意味不明


103:,ニネヴェ定数
08/07/03 20:24:50 CV57LdfX
URLリンク(ja.wikipedia.org) ボッタ
URLリンク(ja.wikipedia.org) シャンパリオン
1840年、ティグリス河畔の街モスルのフランス領事ポール・エミール・ボッタ博士は、古代都市ニネヴェが何
処にあったかという問題に興味を抱いていた。ナポレオンがエジプト遠征に大勢の学者を連れて
行き、シャンポリオンがロゼッタストーンを解読して以来、フランスでは考古学が大いに人気を博してい
たのだ。ニネヴェは古代アッシリアの首都で、一説によればモスルにあったということだが、実
際にはその位置はまったく判明していなかった。

 仕事が暇だったボッタは、夕刻になると馬を駆って河畔や砂漠を走ったり、地元のアラブ
人から古い陶器のかけらなどを買ったりするのを楽しみとしていたが、そのうち、暇に飽
かしてクユンジクという村の土塁を発掘し始めた。こうして彼は数ヶ月に渡って発掘を続けた
のだが、結局めぼしいものは何も見つからなかった。そんなこんなで情熱もさめ、そろそ
ろ考古学を諦めようかとしていた矢先のことだった。

そこから7マイルほど北にあったコルサバードという村で、彼は石板のついた壁を発掘したの
だ。そしてその石板には、動物をモチーフとした絵も書かれていたのである。―-実際には
それは誤りで、彼の発見したものは、紀元前700年ごろに統治したサルゴン二世の宮殿だっ
たのだが。そうはいっても、そのサルゴン2世の宮殿も2000もの部屋を持つ巨大なもので、
壁画には髭の男たち、馬に乗った戦士たち、羽の生えた動物たちなどが描かれていたm。

 紀元前911年から前610年までの3世紀、彼らは圧政を持ってこの地に君臨してい
た。2世紀後、ペルシアのキョロス王の傭兵達がニネヴェとニムルドの広大な遺跡を見て驚嘆したエピソード
を、ギリシアの歴史家クセノフォンが伝えている。
URLリンク(ja.wikipedia.org) コルサバート


104:,ニネヴェ定数
08/07/03 20:28:32 CV57LdfX
1842年、ボッタはヘンリー・レアードという若いイギリス人とであった。このレアードは少年時
代に、「千夜一夜物語」を読んで以来、中東に取り付かれていた男で―ふたりはときに、
一緒に阿片を吸うほどの仲となった。そしてレアードは、一目見てクユンジクの遺跡にほれ込んだ。

レアードは金こそなかったが口は達者だった。3年後にはコンスタンティノープルの大英大使から60ポ
ンドをせしめ、これを元手にニムルド土塁の発掘を開始し、そしてボッタ以上に派手なものを掘
り出した。―-巨大な有翼ライオンや雄牛の像である。

これらは、発見される端から直ちに大英博物館に送られた。こうして有名にもなり、大英
大蔵省の後ろ盾も得ることに成功したレアードは、今度はボッタが数年前に発掘を放棄してい
たクユンジクに目を向けた―そしてこれが、考古学史上、最大の発見であることに気づいた
のである。ボッタは見落としていたが、やはりここは、聖書に記された古代都市のニネヴェだっ
たのだ。こうしてレアードは自ら、アッシュールバニパル王の宮殿を掘り出したのだった。

 これを聞いたボッタもあわてて駆けつけた。こうして、レアードとボッタは発掘地に線引きをし
てお互いの領分を決め、発掘合戦が始まった。ところが1852年のある日、ボッタがいな
い間に、レアードの部下はボッタの領分の入り込み、アッシュールバニパルの図書館を発見してしまっ
たのである。

 残忍無比の暴君として知られるアッシュールバニパルはまた、文献の保存にも熱心であり、ニネヴェ
の図書館に3万枚にも及ぶ粘土板を集めていた。レアードの協定違反のおかげで、この貴重極
まりない膨大な古代の文献が大英博物館に送られることになったのである。

URLリンク(ja.wikipedia.org) 千夜一夜物語
URLリンク(ja.wikipedia.org) アッシュールバニバル

スレリンク(sky板:24-34番)

105:,ミジンコ
08/07/27 08:05:56 4zeVLeTK

   失われた古代テクノロジー



スレリンク(ruins板:75-79番) 精巧な長首瓶と砂漠のガラス、、、、


スレリンク(geo板:88-90番) 砂の海のそこに眠る緑の大地、、、、、


スレリンク(rikei板:244番) 超高温で冷たいブラウン気体

                              古代人が使っていたブラウン気体
スレリンク(ruins板:55-59番) 石像が手にするサーモジェット噴射機


スレリンク(ruins板:60-64番) ティアワナコ遺跡の建造年代



106:,異界への扉を開くシャーマンの儀礼
08/07/27 19:00:26 4zeVLeTK


スレリンク(geo板:73-76番)  異界への扉を開くシャーマンの儀礼

スレリンク(geo板:77番)    コンドルの裁き

スレリンク(geo板:78-87番)   アトランティスの神像  、、、

スレリンク(ruins板:80-82番)   鳥に変身して地上絵を見る。
                            
スレリンク(esp板:65-78番)  獲物を狩るシャーマン儀礼
                             苦行に満ちたシャーマンへの道




107:,
08/07/28 09:28:28 4iraUn5u
111kb

108:エノクの燃える山とフリーメーソンリー
08/07/28 09:40:31 4iraUn5u


スレリンク(min板:72-77番) 古代の天文学「ウリエルの機会」

スレリンク(occult板:550-551番) >>69-72 ロスロリン礼拝堂とテンプル騎士団 

スレリンク(whis板:74-77番)   ナザレの人イエスの秘密

スレリンク(psycho板:370-377番)
パウロのキリスト教、、、   迫害者から加害者への変貌


スレリンク(occult板:552-572番)
教会の虚偽を暴露する死海文書  フリーメーソンの起源

スレリンク(occult板:450-455番) フリーメーソンの系譜



109:、レンヌ=レ=シャトの魔術地形
08/07/28 09:42:53 4iraUn5u


スレリンク(occult板:595-604番) 大金持ちになったソニエール

スレリンク(occult板:623-627番)  シオンの僧院

スレリンク(occult板:588-594番)  マグダラのマリアとイエス

スレリンク(occult板:605-612番)  レンヌ=ル=シャトーの聖なる地形

スレリンク(geo板:62-67番)  聖地を貫く直線パターン、、、

スレリンク(geo板:68-72番)  絵の中に隠されていた5角星

スレリンク(occult板:457-464番) まとめ 聖なる血脈





110:、ミジンコ
08/07/28 10:00:45 4iraUn5u


スレリンク(army板:150-158番)

スレリンク(uwasa板)l50

人体実験の問題は、皆が本当に怖がっていたらしい、、、。


>>1-109  なぜ、このような迂回をしなければならなかったのが、その歴史の真実と
(アトランティスの暗号、コリンウィルソンの著作)
人体実験による恐怖の支配力の権力による情報操作の社会体制がそこにあったことを示している。

  

111:,
08/10/15 19:59:06 tuFlM8ox




















,








112:,人類の起源
08/10/15 20:17:51 tuFlM8ox













人類の起源







113:,人類の起源
08/10/15 20:51:23 tuFlM8ox





ニュールンベルグの近郊にある小さな町、アルドフは、ほとんどの百科事典や地名辞典にも載ってな
いが、ウィリアム・テルが息子の頭に向けて弓の矢をいたということで有名なスイスの同名の町のほ
うはしっかり掲載されている。だが、前者のほうがずっと重要な意味を持っている。ここ
は、近代の人間が、自分の祖先はもしかすると何百万年も前にさかのぼるのではないかと
考え始めた場所なのである。

そのきっかけを作った男、ヨハン・ヤコブ・ショイヒツァーは、そんな考えを聞いたら恐れおののいて
しまったことだろう。彼は、聖書の一字一句が真実であると信じていた敬虔なクリスチャンだっ
た。それを立証しようとする過程で、彼は古代の絶滅した生命体の科学である古生物学と
いう分野の奔流を解き放ってしまったのである。

それはどうも1705年のことだったらしい。ショイヒツァーは正確な日付を記録することは無かっ
たが、とにかく彼はランガンスという名の友人と散歩をしていた。2人の若者はどちらも学生で、
頂上に町の絞首台のある丘に登り、一息入れてまわりの景色を眺めた。ホップ畑が夕刻の陽
射しを浴びて、黄金に輝いていた。ショイヒツァーは、足元にある大きな岩に気づいた。岩そのも
のは灰色だったが、その中に、数本の脊椎がはっきりと見えていたのだ。ショイヒツァーをそれを
さしてこういった。

「ほら見ろよ。大洪水が本当に起こったという証拠がそこにあるじゃないか!この背景は
人間のものだよ。」


114:,
08/10/19 09:58:27 uJjl7FjS
ヨハン・ヤコブ・ショイヒツァー ,,,wikiでは出ない、、、。
URLリンク(ja.wikipedia.org) 古生物学

ランガンスは岩を気持ち悪そうに見つめた。

「そうだろうね。何世紀も前に首吊りになったかわいそうなやつなんだろう。ほら、そん
なものは捨ててしまえよ。」

そして彼は岩をショイヒツァーの手から払い落とした。それは丘の斜面を落ちていき、別の岩にあ
たって砕けた。ショイヒツァーは、声を上げてそのあとを追った。砕けたときの衝撃で、灰色の岩
は周囲の広い範囲に散らばってしまっていて、彼は土の中をしばらく探し回って、やっと
黒く変色した脊椎を見つけた。興奮に息を詰まらせ、彼はそれを絞首台まで持っていった。

「ほら、見てみろよ。人間の骨だ。岩の内部にあったのを見ただろう? 首吊りにあった
男の骨がどうして岩の内側に入ることができるんだい? これはノアの洪水のとき以来、何
千年もここにあったのさ。」

「でも何で黒いんだ?」

「それはこの人間が、神が息の根を止めようと考えていた罪人だからさ。ソドムの住人たちのようにね。」

友人がとめるのも聞かず、ショイヒツァーはその背骨を自分のフロックコートの広いポケットに入
れた。それは医者が着るようなコートで、彼はよく散歩に着ていったが、途中でよくふるい骨
や火打石の破片を拾い、聖書の真実を立証できるようにと集めていた変わったコレクションに加
えた。


115:,ミジンコ
08/10/19 10:23:13 uJjl7FjS
1705年、、、、化石の年代の見当がついた? 石になると言う事が解っていたと言うのか、、、。


化石と言う存在について知っていたのは、ダヴィンチであり、天体と地動説や地球が丸い事、空の青の本質の大気の存在

など、宗教を否定しない科学と芸術の探求から始まった統一的世界観の流れでメモとして記述されていたものの、

つい最近になってその解読が可能となったくらいの話である、、、。


ショイヒツァーのエピソードは、不可思議な話だ。


116:,
08/10/19 10:30:28 uJjl7FjS
ショイヒツァーは何者だ?  ダヴィンチは、科学的分析なしでも、そのトータルの思想の世界観の全体性の天才的インスピレーション
から、直感的に理解して見当をつけることができた。



それから5年後、チューリッヒにある病院の内科となり、教会の重要メンバーにもなっていたショイ
ヒツァーは、大洪水が大洪水が本当に起こったのだと立証する小冊子を書いた。内部に魚の骨
を残した岩が、陸内部で何百と見つかっていることを指摘し、それはみな洪水が収まった
ときに取り残されたものだと論じた。さらに彼は、絞首台の丘で見つけた岩石に埋め込ま
れた脊椎について述べた。それはどうやって石の中に入ったのか。

この小冊子はかなりの議論を巻き起こし、聖職者は演壇の上から聖者の真実を立証するた
めにこれを引用した。だが、科学者からは反感を買った。化石の存在はもう何世紀も知ら
れていた。アヴィセンナという博識のアラブ人が、西暦1000年ごろにこれについて書いており、
それは文字どおり冗談であると説明した。つまり、雲が顔の形になるように、生き物の形
をまねることの好きな、いたずら好きの自然が作った珍品だというのだ。その3世紀後、
運河の建設を指揮しているときによく化石を掘り出していたレオナルド・ダ・ヴィンチはは、これ
が生物の名残だと提唱したが、誰も耳を傾けなかった。そして、ショイヒツァーの脊椎については、
ただの岩であると科学者たちは断言したのだった。

だが、ショイヒツァーを何よりも怒らせたのは、ジョン・バジエという鉱物学者が出版したばかりの
本で、そこにはアルドルフの絞首台の下で発見されたのとまったく同じ脊椎の絵があった。そ
して、バジエはそれを魚の脊椎と呼んでいたのだ。ショイヒツァーはバジエを批判する小冊子を出し
たが、バジエは自分の意見を曲げなかった。実はどちらも間違っており、それは有史以前に
生息したワニの一種であり、およそ2億年前、ジュラ紀に生息していたイクティオザウルスであると科
学が確定するのは、それより1世紀もあとのことであった。

117:,
08/10/19 10:36:02 uJjl7FjS
、、、こまったな、この話、、、。ローマの病気と犯罪の影響力を利用したペテンの操作の影響はあるし、

、、、ダヴィンチが、天才的に一人で知っていたとしても、、、。混乱に拍車をかけるだけですよ、、、。

下手するとインディオの人身御供の支配的影響力の餌食になりかねない。


118:,
08/10/19 10:38:55 uJjl7FjS
ショイヒツァーは化石が洪水の犠牲者の骨であることを立証しようとすることを決意していた。彼
には多くの弟子があり、自分たちを「洪水主義者」と称していた。その16年後の1726年、
ショイヒツァーが洪水が事実だったという決定的な証拠を提示したとき、洪水主義者たちは勝ち誇
ったように感じた。これは、バーデン地方にあるオニンゲンの石灰石の石切り場から出てきた岩
で、人間らしき生物の骨であることは間違いないものが入っていて、ほぼ完璧な頭蓋骨、
背骨、それに骨盤があった。この発見についてかかれた小冊子は、またベストセラーとなった。
そしてふたたび、時がたつとショイヒツァーが誤っていたことがわかる。彼の死後、長い時間が過
ぎてから、この書記の人間と思われた生物は、トカゲの骸骨であったことが分かったのだ。

だが、それは自らの役割を果たしたのだ。ショイヒツァーの小冊子は幅広い議論を巻き起こし、彼
の見解を支持する人の数は増えていった。彼らはほとんどの場合、大司教ジェームズ・アッシャー
と意見を同じくしていた。アッシャーは、王ジェームズ一世の時代に、世界は紀元前4004年に創造
されたと計算し(聖書にある日付をすべて計算して得られた結果だった)、出土してきた骨
やそのかけらから、驚くような生き物を再現した。その中には一角獣や龍まで居たくらい
だ。だが、観察眼の鋭いものは、地層の深さによって、異なる化石が発見されていること
に気づいていた。これはどうも、時代によって生物は変化することを示唆しているようだ
った、、、、。


119:,ミジンコ
08/10/19 10:43:02 uJjl7FjS
ショイヒツァーは1733年に61歳で世を去ったが、聖書には創造に関するすべてが網羅されている
と固く信じたままだった。それは、彼の時代のキリスト教世界のほとんども同じことだっ
た。だが、18世紀初頭には、ある非凡な人物が真実をつかんでいた。その名をベノワ・ド・
マイエといい、1615年生まれのフランス人外交官だった。1715年、マイエは「Telliamed
(彼の名前を逆に読んだもの)」と題された本を出し、生命の芽は宇宙からやってきて、徐々
に海洋生物へと発達したとした。魚が陸に這い上がり、鳥や動物へと発達した。これらは、
すべて何百万年もかけておきたことであるというのだ。しかし、マイエは、自分が生きている
間はこの本を出版しないことにした。政府高官としての立場を危険に陥れないためだった。
これが世に出たのは、彼の死後11年たった1749年のことだ。しかし、それは原型の形で
多くの教養ある人々に読まれており、広く議論されていた。今では忘れ去られてしまって
いるマイエこそ、進化論の創始者として見られるべきなのだ。



、、、、、これ、、、、怖いぞ、この話、、、。

ほんまかいな !?  事実検証スレッド  [噂話]


120:,ミジンコ
08/10/19 10:46:58 uJjl7FjS
ダーウィンの進化論の論争で、宗教家がダーウィンの言うようなサルから進化したものではないと

訴えてピストルで自殺しているものを出しているほどの話ですよ、、、。


NHKのダーウィンが来たとかの特集があるが、、、、やっぱりだ、、、、。

URLリンク(www.nhk.or.jp) NHK

121:,ミジンコ
08/10/19 10:52:43 uJjl7FjS
進化論の創始者は、ダヴィンチ?、、、恐らく、化石についての理解はあったが、人間の進化についてはまだ解っていなかった。

ゲーテ?  顎間骨の発見から、人間は変容を遂げるものである事を明らかにしていた。

やはり、マイエか、、、、進化論の創始者は、、、。   ある意味、ダヴィンチもマイエも人間に進化が適用される事について知っていたに違いない。 

コリンウィルソンさん、凄いね、、、。


122:,ミジンコ
08/10/19 10:55:55 uJjl7FjS
URLリンク(ja.wikipedia.org)ヴォルテール

ヴォルテールはマイエの説を嘲笑していたが、それは化石が有史以前の生物の残骸であるというこ
とについても同じだった。彼の考えでは、山で見るかる魚の化石は、旅行者の食べ残しだ
というものだった。骨が腐らずに、なぜ岩の中に化石化したのかについては説明しなかっ
た。ヴォルテールのような懐疑的な見方には、18世紀の後半に広く見られた。

とはいうものの、変化は徐々におきていた。1780年、ドイツ陸軍の医師、フリードリッヒ・ホフマンが、
オランダのマーストリヒト近郊にある白亜石の採石場を歩いていると、白亜石の中に大きな「龍の」
頭蓋骨が見えた。彼はそれを取り除かせると、ハーレムにあるタイレー博物館に持っていったが、
それでそれはセンセーションを巻き起こした。彼と仲間の科学者たちは、それを「ザウリアン(トカゲの
一種)となづけることにした。残念なことに、ホフマンは、その採石場の所有者である、ゴダン
という名の僧侶から、この頭蓋骨を持ち去る許可を得るのを怠っていた。ゴダンはその返還
を求めて訴  を起こし、勝訴した。自分の画期的発見を奪われ、ホフマンはうつ状態となり、この世を去った。
.
どうもかなりのいやみな人間のように聞こえるゴダンは、この頭蓋骨を秘匿し、科学者に見
せることを拒否したのである。だが、1794年、フランスがオランダに侵入し、ゴダンは必死でこれ
を隠そうとしたが、彼にとっては無念なことにこの頭蓋骨は没収された。それはパリ植物園
に送られ、高名な自然科学者、ジョルジュ・キュヴィエによって研究された。

突如として、誰もが恐竜を求めてあちこち掘り返し始め、古代生物の多くが出土した。キュヴ
ィエは、絶滅した種に関する一大専門家となり、一片の骨があれば、その骨全体を再構築で
きると自慢していた。だが、これらの種は、いったいどうして地球上から消滅してしまっ
たのだろうか。先輩のビュフォン伯爵の仮説をそのまま借りたものではあるが、キュヴィエによれ
ば、その答えは、地球は洪水や地震といった大規模な天変地異に何度か襲われており、そ
れが何種もの生物を消滅させたというものだった。そして自然はまた一から出なおさなけ
ればならなかった。人間とその徒兄弟の類人猿は、前回の天災以降に起きた一番新しい想
像の段階の産物なのだ、、、、、。

123:,ミジンコ
08/10/19 10:57:47 uJjl7FjS
ヴォルテール、、、、、ヤミ系が、、、啓蒙家、、、、、。

124:白からす黒ひつじ
08/10/30 08:05:36 I+qarmzA
、、、、、ヤミ系の自由主義、、、。時とともに、その本性は、ラッセルを見ても解るように顕著なものとなった、、、。

特に、二つの革命後に、宗教によって覆い隠されてきた、ヤミ系と光系の問題点は、時の経過とともに浮き彫りになっていき、

特に、精神医療による人体実験によってその両者の実態の真相が明らかとなってきたのである、、、。


125:、
08/10/30 08:24:34 I+qarmzA
>>122  、、、、コダン、、、。



126:、
08/10/30 08:25:25 I+qarmzA





   //:/ /:/{ヘ>、:\:\:\: : :\        /  /
  .,r≦こ}彡/ メ;∧ く  ヽ: :ヽ:ヽ :ヽ ヽ :ヽ___    /  /
  i </77: :|: | :「:∧ハ   jハ: }: :ト :/} : } : :}≦, _/  /
  |: : :<7{ミ |: | :| fz三≧'' jム斗fハj :∧ :jー/´  ⌒ヽ
  | i: : : :| : 」: l:∧!  ,、    }F气/⌒¨7´    ヽ  } }
  | l: : :i |、{^ヘ{ヾ   { `¨¨¨} ,/¨7ー{   r- }_ノー'⌒)
  | | : :ハ \     ヽ__.. - '´    {  \___><_/⌒´
, イ:ノ :/    `>=¬¨7/     ヽ、ヽ、___/
 { : /     ,/{    {{   ,.ァ< ̄´}/|: :}ヽ
 Ⅵ{      {ハヽ   ヽf7f} /^ヽ, `「}-、j;ノ
  ヾ、    |i∧ ¨ア´ ̄[´∧> :}: //rー`¬、 < とりあえず、お前は、、、、
          !! ∨    <7 }>  |</^}   /
        .レ'´ {       i!   {/⌒7__,/   、、、wwwwプギャー、プギャ、プギャ



127:、
08/10/30 08:42:16 I+qarmzA
コダン、、、>>   >>126「、、プギャ、ギャギャギャ、ベルベロバーァ、、、!」 コダンは、本当の意味でかなりヤバイ位置付けにいる人ということになる、、、。
URLリンク(ja.wikipedia.org) ジョルジュ・キュビエ
やはり、神話は、大きいかもしれないね、、。

ウィリアム・スミスという若い英国人は、国内の鉱山の内部を這い回り、化石を含んでいる地層を
32種類も区別することができたと発表した。彼はそれに、石灰紀、白亜紀、デボン紀などの
名前をつけた。これらのそうはきわめてはっきりとわかれていた。デボン紀の化石が石灰 
紀の地層から見つかることは無かった。どうもこれは、地質学上の各時代は、天変地異に
よって、みな突然の終焉を迎えたことを意味しているようだった。

最も忠実な弟子の一人、エルンスト・シュロツハイムの1820年の発見のせいで、キュヴィエが短期間ではあ
ったにせよ不安に陥ったのは事実だ。チュリンギアでマンモスの骨の周辺を調査していて、シュロツハイム
は、人間のはを見つけたのだ。キュヴィエによれば、それはありえないことだった。マンモスの段
階でいうなら、前の時代の属しているはずだった。キュヴィエは、それはおそらくどこかの墓
守が、洪水以前の時代に属している地層に誰かの遺体を埋めたのだろう、と慰めるように
説明し、シュロツハイムは安心したようにため息をついたのである。彼は自分の考えを変えるには
もう年をとりすぎていたのだ。しかし、あと二つの人骨が絶滅した生物の骨の間から発見
された。ふたたび、シュロツハイムは、これは何かの間違いだと説明される。

しかし、1823年に、頭のない人間の骨がウェールズのパヴィランドにあった古代地層から発見
された。土のせいで赤い色がしみこんでいたため、パヴィランドの赤色夫人と呼ばれた(実は
男だったことが後に分かる)。これに誘発され、マキナリーという聖職者が、デボンにあるケント洞
窟で、マンモスの骨の間から古代の道具を発見する。これでキュヴィエは自分が誤っていたことを
納得すべきであった。だが、彼はただ肩をすくめ、この新発見を何かの間違いであるとし
て退けたのだった。キュヴィエは間違いなく偉大な科学者だった。しかし同時に意地悪な頑固
者でもあった。種は徐々に進化するばかりでなく、そうしたいから進化するのだと考えて
いた進化論者で、同僚の教授だったジャン・パブティスト・ラマルクの業績を、彼は台無しにしたの
である。

128:、
08/10/30 09:00:51 I+qarmzA
URLリンク(ja.wikipedia.org)(%E5%9C%B0%E8%B3%AA%E5%AD%A6%E8%80%85)ウィリアム・スミス
URLリンク(ja.wikipedia.org)ラマルク
キュビエは、肝っ玉の小さいやつだな、、、。

キュヴィエは運が良かった。1832年、つまり、地質学という科学分野が、彼の天変地異仮
説の信憑性を失墜させる直前に、この世を去ったのだった。

失墜させたのは、法廷弁護士であり、熱心な地質学の学究の徒でもあったチャールズ・ライエルだ。
地球の地殻を10年間に渡って詳しく研究した後、彼は、当時も何百万人のキリスト教徒の間
で受け入れられていたアッシャー大司教の見解は

ばかばかしいほど誤ったものであり、地球は何百万年の時代をかけて形成されたものであ
るとの結論をくっ出したのだ。この時間の枠組みで考えれば、天変地異が山を押し上げた
り、洪水で峡谷ができる必要も無かった。すべてはゆっくりとした侵食で説明することが
できたのである。彼の「地質学言論」は、科学史上、最も画期的な本の一つだった。彼は、
大洪水は確かに現実だったが、それは前回の大氷河期の終わり、およそ1万5000年前
に溶け出した光がその原因となったのだと結論を下した。地形は、何十万年という時間を
かけて氷河によってゆっくりと削りだされたものだった。そして、山で見つかった魚の化
石は、有史以前の海のそこにかつて実際にあったものなのだ。ライエルは、天変地異論者、洪
水主義者や、宗教原理主義者たちに反対されたが、その見解は徐々に広がっていった。

その後50年ほどの間に、徐々に現れてきた地球史の仮説は、おおむね次のようなものだ
った。

私たちの地球は誕生してから約45億年たっているが、最初の10億年間は赤熱した火の
玉で、それが徐々に冷却していった。続く10億年間のある時期、最初の生命が暖かい海
で誕生した。誕生も死も無い、ごく小さな細胞だ。最古の化石は、これらの単細胞生物で、
35億年前のものだ。

129:、めいちゃん
08/10/30 09:24:56 I+qarmzA
そして、キュビエは、頭の固いやろうだぜ、、、。、、、あれを石頭と言うんだよ、、、。
;;;;;;;;;__;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;_;;_;;;;、,、、 -‐'′゜´    .!;;;;;;;;;/
;;;/ ヽ;;;;;;;;;r-‐'′゜´-- 、            .!;;;;;;;;}
/  /! !;;/         ゜ヽ     ○    !;;;;;;;;!
  /  !;/   ゞ;'"゛゛ ゜i゜ヽ、´         .!;;;;;/
  ! /!;;;!    \  _ , '  i          !;;;;;/
  ) !;;;!      ゜、 _ , '       -‐‐‐/;;;/
    !;!                r ‐ 、 ./;;;;/
ヽ   !!               / _ ノ //;;;/
;;;Y  /              l  ヽ- ' /_/
;;;;!                  .!   i'
;;;;;!                 !  ./
;;;;;;! \              >' ./
;;;;;;!  \        ' 、 _ ,    ./
;;;/   \            /
/     \         /

>>128 結論をくっ出したのだ。 、、、→下したのだ、、。
溶け出した光がその、、、→溶け出した氷がその
URLリンク(ja.wikipedia.org)ライエル

130:、
08/10/30 18:20:37 I+qarmzA
わずか6億3000万年前、最初に真の生命体と呼べるものが出現する。つまり、子孫を
作ることができるため、死ぬこともできる生物だ。生命は一つの世代から次の世代へとた
いまつを手渡していく方法を発達させ、新世代はそれまであった問題に新たに対処してい
くことができるようになった。

三葉虫のような最初の無脊椎動物が海に出現するまでには、さらに4000万年待たねば
ならなかった。この5億9000万年前の時代を、私たちはカンブリア期と呼んでおり、それ
は初めて魚が現れた時代でもあった。陸地では、最初の植物も現れ始めた。

4億800万年前のデボン期には、海は危険すぎると考えた魚が陸に向かって進み始め、ひ
れが足に変わるにつれて

、両生類となった。爬虫類は、その4000万年後の石灰期に現れた。地球史上はじめて
この隆盛期は、古代人と呼ばれ、それは2億8600万年前、2畳紀とともに終わりを告
げた。

残る2つの隆盛期の一つ、中生代紀には、まず哺乳類の時代があり、続いて恐竜の時代が
あったが、2億5000万年前からわずか6500万年前まで続いた。また、ビュフォンやキュヴ
ィエの天変地異仮説は、すべて誤りであったわけではないことも現在では分かっている。ど
うも、宇宙からやって来た何か大きな物体が、6500万年前に地球に衝突したようで、
その生物の75パーセントを絶滅させたらしく、恐竜もその中に含まれる。巨大な隕石、
あるいは彗星、小隕石でさえあったかもしれないが、何であろうと、それは大気を水蒸気
で満たしてしまい、気温を上昇させて、大きな生物のほとんどを死に追いやったのである。
だが、この大異変当時は、人間が存在していた可能性は低い。
URLリンク(ja.wikipedia.org) 地球史


131:、
08/10/30 18:26:16 I+qarmzA

地球史上第3の隆盛期、新生代記と呼ばれるこの時代のはじめには、北ヨーロッパ奥深くまで
をおおう膨大な熱帯林の暖かい、湿った世界が広がっていた。肉食のティラノザウルスや、鋭い歯
を持つ巨大なコウモリなどが居ないこの世界は、比較的平和な場所で、鳥や、木々の間を飛び
ながら、虫や鳥の卵を食料としていた、リスのような、げっ歯類が生息していた。この小動
物たちは、卵ではなく、自分たちの身体から子供を生み、大事に保護したため、生存率が
高まった。

1億4400万年前に始まった白亜紀の中ごろ、おそらく木の根に住み、昆虫を食べてい
た地ネズムのような生物が進化した。地ネズミは信じられないほど獰猛な(英語で気の短い女
性を地ネズミを表すshrewと呼ぶのはこのためだ)、ちょうど小さなネズミのような生き物であ
る。心拍数は毎分800回にもなり、自分の体重の数倍の重さの食物を毎日食べる(身体
が小さいので、熱を保持することができない)。これに続いた平和な新生代紀に、これら地
ネズミたちは、木に登ってみる自信をつけ、種子や、柔らかい葉、それに新たに進化した果
物を食べた。木の上に生息するに連れて、親指と4本の指がある「手」を発達させ、
枝にぶら下がった。伸び続けるために決して減ることの無い歯を持った、従兄弟に当たる
げっし類に根絶やしにされることも多かった。しかし、アフリカ、というよりも、当時はアフリカ
と南アメリカを擁していた巨大な大陸では何とか生き延び、猿となった。猿は頭の両側で
はなく、前面に並んでいる眼を持っていたため、距離感がずっと良くなっていた。私たち
人間は、これらの木々に生息していた地ネズミの子孫なのである。



132:、
08/10/30 18:50:56 I+qarmzA
URLリンク(ja.wikipedia.org)ダーウィン
人間の思考における、この偉大な革命は、誰もが知っているように、若い自然学者チャールズ・
ダーウィンが1831年の12月、ビーグル号という船で南アメリカに出帆していたことから起こっ
たものである。

おかしなことに、この航海の主な目的というのは、南アメリカ海岸の沖合いにあるフェゴ島の肌
の黒い原住民3人を、彼らの故郷の島まで送り届けることであった。ビーグル号の船長、ロバ
ート・フィッツロイは、敬虔なキリスト教徒で、奴隷制度を支持していたが、この3人をわずかな
金で購入しており、英国で無給の召使として使うつもりだった(一人は真珠のボタン一個
で買い、思春期の娘のほうは、裸で歩き回っているのを見るに耐えられず買ったという)。
運悪く、彼が航海中に反奴隷法が議会を通過し、怒る彼の元に、3人を連れ戻すよう命令
が下ったのだった。そして、その航海になにか実質的な目的を与えるため、内務省の担当
官が、南アメリカの植物と動物を調査するために科学者を乗船させるべしと命じた。そのため
に選ばれた男は、人生の敗者と見られていた人物だった。チャールズ・ダーウィンは、22歳にし
て、医学生としても、聖職者になることにも失敗していた。そして、動物学、植物学の面
白さに目覚め、ケンブリッジ大学での彼の教授が、ビーグル号での職責に彼を推薦したのだった。

また、ダーウィンは自由党支持者であり、3人の原住民は返されるべきだという意見にまった
く同感だった。船長は生涯ずっと保守党支持者で、この若い科学者に、感傷的になりすぎ
ると諭した。人生では、最も適応したもの、最も早いものが勝つのであり、強者は生存し、
弱者は死に絶えるのだ、と。

ダーウィンはこの説がどうも気に入らなかった。だが、彼の祖父、エラスムス・ダーウィンは、「自然の
神殿」という長い詩を書き、その中で、生命は海にその起源があり、それが陸地に上がり、
四肢を発達させ、動物となったと語っていた。フィッツロイ船長は結局正しいのかもしれない。
もしかすると、競争こそが、種のゆっくりとした改善の原動力となっているのだろう
か、、、、、。

133:、
08/10/30 19:34:12 I+qarmzA
人生では、最も適応したもの、最も早いものが勝つのであり、強者は生存し、
弱者は死に絶えるのだ、と。                       >>

ヤミの優生学から来た合理主義、、、のケースが多い。

ダーウィンは人体実験にまでいたることになるヤミの優生学の実態については知ることは無かったので、

優生学が正しいか否かを判断するのに葛藤したに違いない、、、。

スレリンク(uwasa板:602番)
スレリンク(uwasa板:608番)
スレリンク(uwasa板:682-683番)


134:、
08/10/30 19:42:21 I+qarmzA
フェゴ島の3人の原住民の帰還は、彼のこの思いをさらに強めた。その内の一人、彼らが
ヨック・ミンスターと名づけた若者は、屈強で彼を支配するタイプだったが、すぐに他の野蛮人の同
胞たちの間に溶け込んでいった。彼は文明社会の週間はすぐに捨ててしまい、裸で歩き回
っていたが、これは、原住民をキリスト教に改宗させる目的で送り込まれていたマシューズという
宣教師の悩みの種となった。フィッツロイがユージアと名づけた10代の少女も同じだった。しかし、
一番やさしく若かったジェミー・ボタンは、いじめられ、殴られて、涙を流しながらビーグル号に
戻らせてくるよう乞うのだった。船長にはこれを拒むことしかできず、ビーグル号が出向し、
文明という人工的な保護の無くなったジェミー・ボタンが、これから辛い人生を送ることになる
のは明らかだった。

フェージアについても結局同じであったことが後に分かる。10年後、アザラシ狩りの男たちを満
載したある船がこの島に立ち寄ると、フュージアは、白人の男たちとの親交を再開しようとた
だちに乗船してきた。この信じられないような幸運に驚き、男たちはフュージアを繰り返し強
姦し、彼女は疲労で倒れて命を失いかけた。次にイギリス人が彼女の姿を見かけたときに
は、まるで老女のような姿になっていたという。ダーウィンはこれを知らなかったが、もし知
っていたら、自然は自由主義的な原理にのっとって作られてはいないという、彼が徐々に
確信を深めていた見解をさらに強めたことだろう。

パダゴニアの植物、動物を調査するに連れて、ダーウィンは、キュヴィエ(まだ生きていた)の天変
地異説は誤りであるという、確定的な証拠を見つけていった。メガテリア(大きなナマケモノ)やトク
ソドンのような絶滅した生き物の骨を発見したが、それと同様に「有史以前」の生き物であ
るアルマジロやアリ食いなどの動物が生き延び、繁殖しているところも目にした。また、絶滅し
たヤマの一種の歯を見つけたかと思えば、グアナコという、それと奇妙なほどに通ったヤマが
歩き回っている姿も見た。絶滅したヤマのほうが小さかった。しかし、神、あるいは自然
が、古代のヤマを絶滅させ、そのあとでわざわざそれよりもっと大きなヤマを創造するな
どという可能性はまずないだろう。グアナコは、絶滅した祖先から進化したと考えたほう
が自然ではないのか。

135:、ミジンコ
08/10/30 19:47:09 I+qarmzA
                  ,. -‐'''¨¨¨¨゛''‐- 、
                ,:'´:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.::.:.:.:.:.:゛ヽ、
              ,:':`: .:.::.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.ヽ.
             ,:':.:.: :. .:.::.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:゙.、
.             i':.:.:.:. ::. .:.::.:.:.:.:.:.:.:.:.::.:.:.:.:.:.ヾ:.:.:.:.:.:i
            |:.:.:.:.:.: i!ヾ ー‐ --- -‐‐‐-:.、;'´ヽ:.:.| __,.....,_
.            !:.:.:.:.:.:.!  ゛、    ,.=' _  ヾ ).ノ /''¨.:.:.:.:.:.:.ヾ、
             |:.:i:.:.:.::i  ・\. '´tヾ´,フ   ノ /,/:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:i
              !:.!、:.:.ヽ ,.:' ,.     ´     i. \:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:|
                ゛、ヽ、:ヾ、,:'ヾ>        ,.'   `¨ブ⌒゙'ヽ;:/
                `ー- ヽ.、 ー _,..   ,'     ,.:-‐‐---ー‐ゝ惨い事になった話しだなぁ、、
                     ,.- =‐‐‐-、'゙   , /: : : : : : : : : :.::\今は、先進国は福祉があるけど
                    ノ       ゙、 '´/: : : : :  人体実験を迂回しているから、、、。
                    i゛         ヽ/: : ,.: 無責任と言うか、薄情と言うか、、、。
.            , -‐- 、   |           ,.i;;..-'´:::
          ノ´      ヽ !     、    i'´;;..-‐''¨
.           /          /      i    ノ.'´: : ノ
.       /        /        | !  /: : : :
     ./           /.        i: :!/::,.: :
    /        ,  /.      !: :/:-‐´:
   /         /゛、./.        ノ/: :: :            
 ./        /   `/   ,.、‐-‐'''´ ヾ、: :
        /   / __,.-´、: : : : : : : : : :ー

136:、
08/10/30 20:01:20 I+qarmzA
5,6年後、英国に戻っていたダーウィンは、あるがままに置かれた自然の非常さについて考
えさせられる本に出会った。それはトーマス・マルサス牧師の「人口の原理」(邦訳、中央大学出版
部、1985ほか多数)で、歴史についてきわめて暗い見方をしていた。社会は繁栄と自
由主義へと向上していくのではない。なぜならば、繁栄は乳児の生存率の上昇へとつなが
り、それがもたらす人口の増加にやがて繁栄のほうがついていけなくなるから、というの
だ。社会は向上しているのではなく、衰退しているのだ、と。もしそれを何とかしたいの
なら、私たちは人口を抑制しなければならない、とマルサスは後に論じた。だが、もちろん自
然にはこの成長を抑制するものはいない。したがって、人口の爆発が起こり、最も弱いも
のたちが餓死することになる。

ダーウィンが気付いたのは、もし動物や鳥の親が2匹以上の子孫を残し、その子孫がまた2匹
以上の子孫を残したとしたら、数世代のうちに地球の生息可能な空間はすべて埋めつくさ
れてしまうだろう、ということだった。死というのは、地球が圧倒されてしまうのを防ぐ
地球の方策だったのだ。

彼は、犬、兎、ニワトリ、鳩等の家畜を飼い始めた。そして、その後20年以上にわたって、
世代から世代への変化を調べたのである。それは彼が考えていたよりも、ずっと多様性の
ある変化だった。これがすべてを解決してくれた。進化を説明できるメカニズムが解ったのだ。
自然は多様性を生み出す。役立つものは生き残り、役立たないものは死に絶える。彼の祖
父が考えたように、役立つものが子孫を残し、増加していくに連れて、継続した変化と改
善が起きていくのである。
ダーウィンは、この革命的な結論を発表するのを急がなかった。自分自身を良きキリスト教徒
と考えていた彼は、自分の発見が、つまるところ聖書の創世記の決定的な否定となること
を認識していたのだ。このため、少なくとも2500ページにはなろうという研究をゆっ
くりと続け、その研究にしても、自分の死後に出版されるものと半ば思い込んでいた。と
ころが、1857年、大変なことが起きる。いまひとりの動物学者であり、以前は学校長
をしていたアルフレッド・ラッセル・ウォレスから手紙が届き、そこに彼のものとほとんど同一の仮説が
書かれていたのである。ダーウィンは絶望した。ここ25年間にわたる研究が無駄になってし
まうかのように思えたのだ。ウォレスの邪魔をするのは正しくない。彼は、「地質学言論」の著
者、チャールズ・ライエル卿の助言を仰いだ。彼のアドバイスは、ウォレスの論文を発表し、同時に自
分自身の考えを要約したものを見つければよい、というものだった。そして、ダーウィンは、
長年にわたって書いてきた膨大な研究を凝縮する作業を始めた。それには13ヶ月かかり、「種の起源」と題された。
URLリンク(ja.wikipedia.org)トーマス・マルサス
URLリンク(ja.wikipedia.org)アルフレッド・ラッセル・ウォレス

137:、匿名獅子
08/10/30 20:08:20 I+qarmzA
したがって、人口の爆発が起こり、最も弱いも
のたちが餓死することになる。           >>

>>126 「マルサス牧師、さすが宗教家、、、アホw、、、。」

弱いと言う事は、どういうことなのか?如何なるものが弱いのか?弱ければ餓死するのか?
弱いの定義はいったい何か、、、?
    __//〃'´:::: ̄::¨::''‐、
     /:::;:L!{l;;;ハ::::、::::::::::::::::::::ヽ
     〃::/_- 、 ! |ハ「ヽド、::::::::::::::i
.     l::∠=ヽ_{∠_,ノ;三ゝ.j三ミ、::|  
     l〈.、=<, `ーr'==; }三ミミ :|  
.      f7ヽニ゚イ  ゙ヾ゚ニ´  }::}ニヾ::|   
.     l」   / ''''  、     }::7´ |::|
      〃 r'^ー‐--'^ー 、 ノ::{ r'/:::|        、、、、、。
      ゙{ ! 」二二二フ } ヾミT´::::::|
      ヽ、 ー-      ' ,  i.|、:::::リ
.      _r'f ー:----‐ ''´  ! ト;ヾ'、
  -‐ '7´| l |  `ー'     .//.+ l ` ー-
   +./.+ |+ヽ、      //+ +/+ + +

138:、
08/10/30 20:21:39 I+qarmzA

     ∧_∧        |
     ( ´_ゝ`)  このヤミ系の優生学の人身御供主義のインディオ系が、、||
   /⌒    ⌒ヽ     整形までして、操作に熱中しよって、、、コラッ|||
  / _イ    /⌒\    ||||
  (___つ/     \   |||||
    / /   イ\   \  /\
    |     /|   \  \∧ │ ☆
    \_/  |     \<  >/
       │  |    ☆ \∨⌒ヽ    
       /  ノ     ヾ/ ´_ゝ`)ノ
      /  /        |    / <マルサス        
    (  (__        // | |
     ヽ_ノ        U  .U


139:、
08/10/30 21:41:37 I+qarmzA
それは、1859年11月に発表されると、19世紀最大の知的議論を巻き起こした。本
自体は極めて真摯なものであり、掲げられた膨大な量の事実には圧倒されるものがあった。
だが、その結論は、有史以来、人間が信じてきたあらゆる宗教の原理に反するものであっ
た。自然の多様性は神(あるいは神々)のなせる業ではなく、一つの単純な機械的原理だ
というのだ。つまり、適者生存である。結論にある「人間の起源、そしてその歴史にも光
があてられることだろう」というわずかな一言を除き、人間のことに一切触れられていな
かったが、そのテーマに関するダーウィンの見解は、本の中にははっきりと表れていた。人間は「神
の姿に似せて作られた」のではなかった。自然の中でも、別に特別な存在でもなかったの
だ。他となんら変わらぬ動物であり、おそらくどこかの類人猿の子孫だったのである。

第一刷は一日で売り切れとなったが、本がこれだけの成功を収めたのは、おおむねトーマス・
ハクスレーという科学者のおかげだった。彼は「タイムズ」紙で書評を書き、これを偉大なる著作
と絶賛したのである。ハクスレーはその後もダーウィンのもっとも強力な代弁者となる。進化論の天
王山とも言うべき論戦は、1860年6月、オックスフォードで行われたものであろう。そこでハク
スレーは、司教サミュエル・ウィルバフォース(そのうわべだけはすべりのいい、慇懃無礼な物言い
のために、「石鹸サム」として知られていた)と、ダーウィンの理論について討論したのである。
ウィルバフォースは、進化論について皮肉に満ちた解説をした後、ハクスレーのほうを向き、あなたは
母方、父方、どちらの血筋が猿の子孫であられるのかと訊ねたのである。ハクスレーは、一人つ
ぶやいた。「主はわれに勝利を与えたり。」そして立ち上がると、ダーウィンの理論を、優しい
言葉を使って、静かに、真剣に説明した。そして最後に、自分お猿の子孫であることは恥
ずかしくないが、偉大なる叡智を、真実をぼかしてしまうのに使うような人間と同胞であ
ることには、間違いなく恥を感じると結んだのである。聴衆は彼に大きな拍手を送った。
夫人が一人、気を失って倒れた。そして、負けを悟ったウィルバフォースは、反論の機会を与えられたが、これを断ったのである。
URLリンク(ja.wikipedia.org)トマス・ハクスリー

140:、無動機単独テロ
08/10/30 21:46:11 I+qarmzA
。「主はわれに勝利を与えたり。」そして立ち上がると、ダーウィンの理論を、優しい
言葉を使って、静かに、真剣に説明した。そして最後に、自分お猿の子孫であることは恥
ずかしくないが、偉大なる叡智を、真実をぼかしてしまうのに使うような人間と同胞であ
ることには、間違いなく恥を感じると結んだのである。                     >>

ダーウィンの言うようなミッシングリンクなんて実在しないんだよ、、、、。このヤミ系が、、、。

─ =≡∧_∧ =!! イィィヤッッッッホオォォォー
─ =≡( ・∀・)  ≡         ∧_∧
─ =≡○_   ⊂)_=_  \ 从/-=≡ r(    )
─ =≡ >   __ ノ ))<   >  -= 〉#  つ
─ =≡  ( / ≡    /VV\-=≡⊂ 、< ハクスリー
─ .=≡( ノ =≡           -=  し'
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
                  |
                  |
                  | ~~~~~~~~~~~~~~~


141:無動機単独テロ
08/10/30 22:44:43 I+qarmzA
ハクスリーはインディオの人身御供のヤミ系、、、。

自然の多様性は神(あるいは神々)のなせる業ではなく、一つの単純な機械的原理だ
というのだ。つまり、適者生存である。
                                     >>
ちなみに、適者生存とは、いかなるもののことを言うのか?
、、、曰く、、、ダーウィンは無意味、、、、否、意味不明、、、、。
、、、、、かなりの巧妙なトリックと言うか、ペテンの為せる技である、、、。
バッティの引けを取らない、ローマ系、、、、。、、、ラッシュとか、、、。
、、、、そりゃ、子供も死ぬワ、、、、これじゃ、、、。
、、、、だって、この人、根拠も脈絡も無いんだもん、、、。
スレリンク(utu板:387-388番)
(表面的知的肉体的発達と人間の存在としての先天的資質は、反比例する、、、)
スレリンク(utu板)精神の病いと奇怪な現象との関係 [メンタルヘルス]

ていうか、猿から人に進化したというのは、仮に否定できなくとも、適者生存と言うのは何を言いたいのか?
悪質なペテンのトリックのサバイバルの処世術以上の、、、ていうか、、、。、、、体験において対等でない、、。
、、、そうか、、、適者生存はいいんだ、、、。、存在の、差し引き、制約、、分別、、、の働き、、、つまり、
偶然そのもののことを言っている訳だ、、、。問題は、無心論者のミッシングリンクの架空の認識にある、、。 
ダーウィンは許して良いか未知数ですよ、、。バッティやラッシュ同様の人体実験を可能とするカラクリがこの中にも見られる、、、。
、、、あれでは、私の言うような正確な適者生存の認識の意味も、かわってしまう事になるんですよ、、、
、、、それこそ、客観的な見極めの認識ではなくて、優生学の利己的権力支配の無関心で差別的な方向の力を持つ
概念そのものであるといわざるをえない、、、。それこそ、病気と犯罪の働きかけそのものですから、
ローマやインディオに傅く働きかけのものであるとも言わざるを得ない、、。
病的犯罪的でない人に対しては、傍若無人にでたらめを強いる進化の次元で迷惑な人、、、。
進化の次元で破壊性を振るうと言う事は、すなわち、人体実験と同値である、、、。
ある意味、ヤミの優生学の支配者以上に、恐ろしく凶暴な人であったと言うのは間違っては居ないでしょうね、、。
(自傷他害行為予告でない、、)   有神論者より、、、

142:白からす黒ひつじ
08/10/30 22:49:10 I+qarmzA
、、、あれでは、私の言うような正確な適者生存の認識の意味も、かわってしまう事になるんですよ、、、

つまり、、、、あれでは、私の言うような正確な適者生存の認識の意味も、そうでななくなる事になるんですよ、、、

つまり、客観的偶然ではない、、、。策略に満ちた悪質な陰謀、、、。

つまり、自己矛盾した詭弁、、、、。育つ訳無いだろ#子供が、、、。



143:ローマ・インディオ・、、、www、NHK、体験において対等でねー
08/10/30 22:59:26 I+qarmzA
>>126 「はい、ダーウィンさん、残念、、、ハズレです、、、。不可知論者としては妥当ですが、迷惑すぎましたね、、覚えてろよ#」
この見解を与えた衝撃を理解することは、私たちには不可能であろう。たしかに、マイエやエラ
スムス・ダーウィンやラマルクが既に進化論の概略を提示していたことは事実である。しかし、ダーウィン
の研究は、ただの理論ではなかった。そこには、否定しようも無い科学的事実が持つ、冷
酷な衝動があったのである。そして彼は、全世界に向かって、そこにあるすべての宗教の
教えは無意味なことだと告げているように思われたのだ。自然に神が干渉する必要は無か
った。それは、実際は巨大な機械であり、計算機が漢字を出していくように、新しい種を
生み出していたのである。

ダーウィン自身は、彼の考えに対するこの「魂の無い」解釈には反対していた。結局、機械に
はそれを作った存在がいるわけで、最初は人間の手によって動かされなければならない。
彼は、自分は単に進化のメカニズムがどう動くのかを発見したに過ぎないと感じていた。ゴミ
として捨てられるものには、もともと価値など無かったはずではないか、、、。

ある意味で彼は正しかった。が、反対していたものたちも又正しかったのだ。意図したか
否かにかかわらず、彼は人類史上、最大の知的変革をもたらしたのである。人間は、これ
まで常に、自分が宇宙の中心であり、自分は神の手で創造されたのだと、当たり前のよう
に考えてきた頭上を回る天空を眺め、何らかの神なる目的を探し、自然をくまなく見ては、
神々の意思を示すような象形文字を捜し求めてきたのである。いまや、ダーウィンは、そんな
象形文字は幻想に過ぎないと彼に告げていた。世界は目に映るそのままのものでしかない。
それは物でなりたっており、隠された意味でできているのではなかった。これから人間は、
自分ひとりで生きていかねばならないということを受け入れなければならなかったのだ。


144:ミジンコ
08/10/30 23:51:07 I+qarmzA
ダーウィンは、本人が何者であるのか、自覚無くわかっていない、、、。

あくまで、ダーウィンの言うミッシングリンクの化石は、検証されていない、、。

サルと人の中間は、存在しない、、、。

つまり、ダーウィンの仮説は架空だが、恐らく仮説と言うよりは妄想に近い種類のものと思われる、、。

病気だから仕方ない以前に病気なら止めればいいのに、、、。

そこをローマ系とインディオ系が、ダーウィンそのものをとことん利用しまくる有様ですね、、、。

精神医療従事者やヒトラーとか優生学関係の人体実験支持者が、、、。


145:,
08/10/31 10:40:38 Ufw6uEbT


スレリンク(mental板:305-307番)

スレリンク(mental板:287-288番)

>>144  私の言うような認識に精通していて、尚且つ、懐疑論者として白を切りながら陰謀を企てる事が出来る、、、。



146:,アトランティスの暗号、、、。
08/10/31 16:10:43 Ufw6uEbT



スレリンク(ruins板:92-98番)



スレリンク(army板:207-227番)




一通りは、そろった事になるのかな、、、、。


147:,
08/10/31 16:13:00 Ufw6uEbT

何でもスレッド保管スレ [電波・お花畑]
あーあ [占術理論実践]
昔の地図は古い [地理・人類学]
過去ログ [ruins]
科学関係ぶっちゃけスレ [理系全般]


148:,
08/10/31 19:52:12 Ufw6uEbT
>>143
では、ダーウィンが、光があてられるだろうと約束した「人間の起源とその歴史」とは、一体
なんだったのか? いまやほとんどの生物学者はダーウィン論者だったから、もはや曖昧で不
正確な答えではすまなかった。

実は、ダーウィンは、考古学者が、いずれは人間と類人猿との間にいた生き物の骨を発掘する
だろうと確信していた。1871年、彼はそれを「失われたつながり(ミッシングリンク)」(Missing 
Link)と名づけた。1908年、ダーウィンの死後26年たって、彼の予言は実現するかのよ
うに見えた。チャールズ・ドーソンという男が、英国のイースト・サセックスにあるピルトダウンという場所で、
古代の人間の頭蓋骨を発見したと発表したのだ。のちに彼は仲間の2人の地質学者ととも
に下顎を見つけたが、それは類人猿のような形をしており、この骸骨にぴったり合うものだった。これは「ピルトダウン人」あるいは「黎明人」と名づけられた。

だが科学者たちは困惑していた。「古代人間」の発達は基本的にその脳の発達であり、した
がって頭蓋骨の発達である。ピルトダウン人は、頭蓋骨にかなりの発達が見られた。では、な
ぜ顎が類人猿のようだったのか?

答えはこうだ。それは実際に類人猿の顎だったのだ。1953年、ドーソンの死後ずいぶんた
ってから、ピルトダウン人のフッ素化合物分析から、それが偽物だったことが解った。この頭
蓋骨はわずか5万年前のものに過ぎず、その顎骨はオランウータンか、チンパンジーのものであった。
どちらも硫化鉄と色素を使って、似て見えるよう着色してあった。現在では、ドーソンは何ら
かの理由で、ピルトダウン事件を捏造したと考えられている。
URLリンク(ja.wikipedia.org)ピルトダウン人

149:、ミジンコ
08/11/06 10:12:53 vCVBwhWV
しかし、ピルトダウン化石の捏造が明らかになった前後に

関係者らはことごとく他界しており、真相の究明は非常に困難である。>>


怖いなぁ、これ、、、、



150:、
08/11/06 10:15:17 vCVBwhWV
実は、「種の起源」が出版されてからわずか7年後の1856年、最初の原始人が発見され
たかに見えた。デュッセルドルフから数キロはなれたところに、教会の賛美歌の作曲家にちなん
で名づけられた、ネアンデルという風光明媚な峡谷(ドイツ語ではネアンデルタールになる)がある。そ
こには石灰岩の断崖があり、それを切り出していた作業員が骨を発見したのだが、それは
あまりに重く、荒削りだったため、熊の骸骨だと思ったほどだった。しかし、ヨハン・フルロット
という地域の学校長がこれを見て、人目でこれが熊などではなく、類人猿のような人間の
骨であることがわかった。湾曲して突き出た額と、顎がほとんど無い形をしていた。奇妙
なことに、この生き物の脳は、現代人より大きかった。だが、大腿骨の曲がり具合を見る
と、かがみ込んだ姿勢で歩いていたことを示唆していた。この小さめのゴリラのような生き
物が、人間最古の祖先なのだろうか。

教育を受けたもの達は、そうではないといった。彼らのほとんどはキュヴィエの弟子であり、
なかには、この頭蓋骨は1814年にロシアからナポレオンを追ってきたコサック人のものであると提
唱するものまでいた。そして、細胞病理学の創始者として高名なルドルフ・ウィルハウは、これは
痴呆者の骨だと考えていた。しばらくの間、学校長のフルロットは意気消沈していた。だが、チャ
ールズ・ライエル卿が、この「痴呆者」は、間違いなく原始人であるとの見解を発表したのであ
る。ヴィルハウは自分が誤っていたことを認めようとはしなかったが、その後25年間で成さ
れた多くの新たな発見を通じて、ネアンデルタール人が、まさに初期の人類であったことに疑いの
余地はなくなった。

すると、これこそが「失われたつながり」、あるいはダーウィンの弟子で議論好きのヘーケルがこの
んだ呼び方だと「ピテカントロプス」、猿人というもののようであった。でも本当にそうなのか?
エンジンの脳は、現代人よりもずっと小さいはずで、大きいはずはないのではなかろうか。も
しそうならば、ネアンデルタール人は、もっと最近、たとえば10万年くらい前の存在でなくては
ならない。


151:、
08/11/06 10:59:37 vCVBwhWV
URLリンク(en.wikipedia.org) プロフィール不明、、、。



152:、
08/11/06 21:05:29 vCVBwhWV
URLリンク(ja.wikipedia.org)ネアンデ\ルタール人

原始人の探求の次の一歩は、フランス人の手でなされた。それも、人間は比較的新しい創造物
であるとすると、キュヴィエの主張が正しいと信じていたパリの地質学教授たちではなく、二人
の特筆すべきアマチュアたちの手によってである。彼らは、現代人の直接の祖先であるクロマ
ニオン人を発見したのだ。

それは、1820年のある日、南仏のゲールという村に住んでいた、エドワール・ラルテというフランス
人の弁護士が、近くの農民が持ち込んできた大きな歯を見て興味をそそられたことから始
まったラルテは、キュヴィエの著書を調べ、それがマンモスの歯であることを発見した。キュヴィエによれ
ば、マンモスは人間が地球上に現れるずっと前に死に絶えていたが、ではなぜ表層近くにマンモス
の歯があったのか。ラルテは自分でも発掘をはじめ、1837年に、おそらく1500年前の
第3紀半ばのものである類人猿のような生物の頭蓋骨の破片を発見した。これはその後、
「ドリオピテカス」と名づけられたが、現代の科学者の中には、これが人類の最古の祖先である
と考える者もいる。

ラルテは、ソンムのアベヴィルに住んでいた税関吏で、劇作家でもあったブシェール・ド・クレヴェスール・ド・
ペルテの考えに影響を与えていた。彼は、人間の存在は、200万年以上前の第3紀までさ
かのぼると信じていたのである。ラルテとブシェール・ド・ペルテは、どちらも第3紀の堆積層を探
してみたが、何も発見できなかった。

だが、ブシェール・ド・ペルテは、こんどはプカルディで熱心に発掘作業をして、多くの古代の動物
の骨を見つけたが、そこで明らかに人間の手で作られた手斧、削る道具やキリなども発見し
ていた。これらを地質学の教授に見せると、それは人間の作ったものではなく、珪土が硬
化したものが道具のように見えるに過ぎないと、慰めるかのように言われただけだった。
しかし、ブシェールは、チャールズ・ライエルの訪問によって落胆から救われる。ライエルは、この手斧が
人間の手で作られたことは間違いないと判断したのだ。


153:、
08/11/06 21:40:15 vCVBwhWV
URLリンク(ja.wikipedia.org) マンモス
これは、キュヴィエ門下の者にとっては、横面を殴られたも同然だった。最も著名な近代の地
質学者が、マンモスや、剣歯トラ、あるいは洞窟熊と同時代に、「化石人」が何万年にもわたって
存在していたと断言したのである。これは、科学史上にライエルがその名を残すことになった2
つ目の偉業だった。ダーウィンに対し、人間の祖先についてはあまり騒がないほうがいいと助
言した慎重派の英国人が、いまや古代人類の科学に決定的なはずみをつけたのである。

ブシェールの問題は、彼がある種の楽天家というか、正確さにかけていたことで、そのせいで
彼はキュヴィエ派の人間の格好の餌食となっていた。彼の曖昧さは、ライエルでさえ苛立ちを覚え
るほどだったのだ。それでも、非科学的で、いつも誤った結論に飛びついてしまうこの人
物は、計り知れないほどの重要性を持つ発見をしているのである。だが、これまでのとこ
ろ、最も興奮する発見をしていたのは、彼の仲間であるラルテのほうだった。

英国の実業家、ヘンリー・クリスティーから調査資金をもらうようになったラルテは、他のことをすべて
やめて、発掘調査に専念するようになったが、まず第3紀の地層で発掘をあきらめ、次の
時代、つまり洪積世か、氷河期の調査を始めた。1860年の9月、アリエージュ県のマサーで、彼は
古代の台所のゴミの山を発見し、その中から洞窟熊の絵が描かれている牡鹿の角を発見し
た。原始人は芸術家であったようだ。これより20年前、ブルイエットという男が、2頭の牝鹿
の彫られた骨を発見したとき、教授たちはそれを子供の悪戯だとして一笑に付した。しか
し、ラルテの角はまったく発掘されていない地層からのものだったのだ。学界は、彼に対して
まっとうな扱いをせざるを得なくなったのである。

つぎにラルテは、ドルドーニュにあるヴェーゼル河の渓谷に場所を移した。かつてハーバート・ウェントが語
ったように、地質学史にとってこの渓谷は、エジプト学にとっての王家の谷と変わらないほ
ど重要なものだ。1864年、ラルテは、手斧でつけた傷があるマンモスの牙を見つけた。人間が
マンモスと同時代に存在していたという確固たる証明である。

154:、
08/11/06 22:02:06 vCVBwhWV
1868年、ラルテはヴェゼール渓谷での新たな発見のことを耳にする。レゼイジという村の近く
にある鉄道建設現場で発掘された洞窟で、クロ=マニヨンという場所にあった。ラルテは息子のルイ
を派遣してこれを調べさせた。ルイは、これが史上最大の発見であることに疑いは無いと感
じた。洞窟は、かつてこの場所に住んでいた者たちの作った物が沢山あった。だが、もっ
と重要なのは、そこに骸骨があったことだ。洞窟の奥で見つかった頭蓋骨は、その辺の教
会墓地に埋葬されているものとはほとんど変わらず、大きな脳の入る頭蓋と、現代人と同
じ突き出した顎を持っていた。

この近代人類の棲家が暴力行為の行われた場でもあったことは、不吉な意味合いがあるの
かもしれない。3人の若者、一人の女性と赤ん坊を含む、6人のクロマニオン人たちが、奇妙な
状況の下で死んでいるのだ。女性の頭蓋骨には、既に直りかけてはいたが、深い傷の痕跡
があった。どうも彼女は、赤ちゃんを産んでいるときに死を迎えたらしい。彼女や他の者
たちがどうして死んだのかは、遂に不明のままだった。クロマニオン洞穴は、人類史上初めての
推理小説の舞台を提供していた。

いつものように、教授たちは頭からこれを信じようとしなかった。彼らは、この洞穴はた
だの埋葬場であり、どちらかというと近代のものであろうというのだ。しかし、明らかに
埋葬場ではないほかの場所でもクロマニオン人の頭蓋骨が発見されるに至って、彼らの確信は揺
らぎ始めた。レ・コンバイユの洞穴の壁には、髭を生やした人間の彫り物があった。すべての証
拠は、これらの洞穴には狩猟者が住んでいたことを示していた。ヴェーゼル渓谷に生きていた
原始人は、動物を追って狩猟することで生活していたようだった。ソリュートレの村の近くでは、
急斜面の険しい岩石のふもとから、何千という野生の馬の骨が見つかった。狩人たちは、
わなに午を追い込むと、崖から追い落としたのである。


155:、ミジンコ
08/11/07 03:31:46 GnCo6O2J
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
問い合わせ: "エドワール・ラルテ" (全ページ/リンク元)

移動: ナビゲーション, 検索
ウィキペディアの検索についての詳しい情報は、Help:検索をご覧下さい。


ページ内本文とは一致しませんでした




次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch