正攻法の正規の考古学・百鬼夜行の戦慄のデスマッチat ARCHEOLOGY
正攻法の正規の考古学・百鬼夜行の戦慄のデスマッチ - 暇つぶし2ch68:,タイガードラゴン
08/05/23 08:21:00 rDsvgyyQ

引き続き、古代文明遺跡同士の配置の全体的関連について取り上げてみましょう、、、。


             __
          ,.-''";;;;;;;;;;``'ヽ、
       /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ、
      /;;;;、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;、
      ,!;;;!゙`''~^~ァrr-'゙`'´''ラヘ;;;!
      |;;;|      ノリ     ミ;;;|
     _ゞ;! r─-- 、  ,rェ--- 、ミ;リ
      !ヘl;|. ぐ世!゙`` ,ィ '"世ン 「ヽ
     !(,ヘ!   ̄'"  |:::.`  ̄  ,ドリ
     ヾ、!      !;     ,レソ
       `|      ^'='^     ム'′
       ,rト、  ー- ─-:  /|
    _../ i| \   ===   ,イ.:ト、
    /  i| ゙、\  ;   /リ.:;!:::\、_
       ゙!  ゙、 `ー─''゙:::;:'::::|::::::::::\
        ゙、      :::/::::::|::::::
    `ヽ、  ゙、     ./  .|  ,-、、



69:,タイガードラゴン
08/05/23 08:25:29 rDsvgyyQ


ウェストは、秘教学者として知られるルネ・シュヴァレ・ド・リュビチュの著作に興味を持ってい
た。20世紀半中世の大聖堂を建築した石工たちはその英知を古代エジプトから受け継いだ
という話に興味を持ち、特にエジプトの寺院建築を詳しく研究した。

 たとえば、エジプトのルクソール神殿の方庭は真上から見るとひしゃげたように歪んでいるが、
これは決して偶然ではない。なぜなら、エジプトの石工たちはカミソリ一枚入る隙間もないほど
に巧みに石を組み合わせることができる、建築の名手だからだ。したがって、この『ゆが
みには意図的な理由があるに違いない。

 シュヴァレの代表作「人間の神殿」(1949)によれば、エジプトのルクソール神殿は、巨大な幾
何学的複合体であり、全体がひとりの人物を象徴する巨大なヒエログリフになっている。この人
物は、ちょうど神殿の南東の隅にあるラムセス2世の像と同様、片足を前に踏み出している。
先の方庭は、この人物像の中ではこの足に当たっており、ゆえにひしゃげた形で作られて
いるというのだという。

 またシュヴァレは、この神殿には「黄金分割」(ギリシャ文字φで表される)がふんだんに取り
入れられていることを見抜いた。この「黄金分割」は極めて重要な概念であり、特に古代
祭祀遺跡の位置の分析にはなくてはならないものだ。


フフリーメーソン、、、、自由な石工、、、つまり、古代のエンジニア。

URLリンク(ja.wikipedia.org)  ギルド

URLリンク(ja.wikipedia.org) 黄金比


70:,ミジンコ
08/05/23 08:40:41 rDsvgyyQ

URLリンク(ja.wikipedia.org)  文化遺産

URLリンク(ja.wikipedia.org) 世界遺産一覧

URLリンク(ja.wikipedia.org) エジプトの遺跡

URLリンク(ja.wikipedia.org)古代エジプト神話

URLリンク(ja.wikipedia.org) 古代エジプト文明


71:,
08/05/23 08:44:50 rDsvgyyQ

 「黄金分割」の実例は、自然界に無数に見出すことができる。たとえば、あなた自身の
肉体がそうだ。あなたの臍は、上半身と下半身を黄金分割する位置にある。のみならず、
小は植物の葉や花びらの配置から、巻貝の形、そして大は銀河系の渦に至るまで、自然界
のあらゆるところに黄金分割は潜んでいる。そしてまた、芸術家は古くからこの比率が人
間の目をことのほか楽しませるものであるということに気づいていた。

黄金分割を数字で表すと、0・618034、、、、と、無限に、そして反復なく続いていく
数列となる。また、これに1を加えた1・618も、やはり黄金分割の数字である。重要
な数学的概念にはもうひとつ、「フィボナッチ数列」というものがある。これは、先行する2項
の和が次の項の数となっている数列のことだ。たとえば0を基点にするなら、0、1、1、
2,3,5,8,13,21、、、、、と続いていく数列である。そして、この数列上の連続
する2数を取り、前の数で後の数を割っていくと、数列の後ろに行くほどその答えは黄金
分割の数である

0・618034、、、、、に無限に近づいていく。そしてこのフィボナッチ数列もまた、自然界の
いたるところに見つかるのだ。シュヴァレはシャルトル大聖堂のような建築物に封じ込められた大宇
宙の調和の法則の研究に打ち込んだが、彼の研究はフルカネリという錬金術師に盗まれてしまっ
た。フルカネリは1925年に大聖堂の秘密という著書を書いてこの法則を発表し、それはたち
まち世に知られるようになった。シュヴァレは、こうした調和の法則は古代エジプトよりも貼
る改善の伝承に含まれていたものと考えていた。彼が1949年に「人間の神殿」を発表
すると、それはフランス国内で大評判となり、彼はサルトルやカミユと並ぶ名声を獲得するに至った。
シュヴァレがこの伝統を古代エジプトよりも古いものと見なしていたのは、彼が、初めてスフィンク
スを見たとき、その侵食は風ではなく、水によるものであると確信したからだ。スフンクスが水
による浸食を受けているとするなら、その建造年代は通常言われている紀元前2500年
よりも遥かに古いものということになる。


72:,
08/05/23 08:52:33 rDsvgyyQ

URLリンク(ja.wikipedia.org) スフィンクス

 シュヴァレが親しんでいた秘教の伝承によれば、スフィンクスを建造したのは古代エジプト人ではな
くアトランティス人である、とされている。かれらは、最後の破局が起こる前に、エジプトに脱出し
てきたというのだ。シュヴァレは最後の著作となった「聖なる科学」の中でこの伝承を紹介し、
スフンクスの真の建造年代は紀元前1万年ごろであると主張した。

 1961年、74歳でシュヴァレは死んだ。このシュヴァレの著書に感銘を受けたジョン・アンソニー・
ウェストは、通常言われているように、古代エジプトの出現がたかだか紀元前3100年であ
る、などということはありえないと考えていた。その年代を信ずるなら、それからわずか
5世紀後にはあのダイピラミッドが造られていたことになるからだ。それはまるで、ヨーロッパ人
が何もないところからたった5世紀でシャルトル大聖堂を築いたというようなものだ。エジプトの
科学、医学、数学、天文学を学べば学ぶほど、エジプト文明の起源は古くならざるを得な
くなるのである。

 ウェストは「天空の蛇」とだいされた書物を書き、スフィンクスが水による浸食を受けたものであ
ることを証明しようとした。私は1979年7月にこの本を贈られたが、その最終章「エジ
プト―アトランティスの後継者」と題された章には、スフィンクスの写真と、水の浸食を受けたハトシェプスト神殿の
背後の崖の写真が比較対照されていた。私の目には、その両者は極めて似通っているように見えた。
後にウェストはボストン大学の地質学者ロバート・ショックを実際にスフィンクスの前まで連れて行き、
その浸水が水によるものであることを認めさせた。

ショックの見解では、この侵食の後から見て、スフィンクスの建造年代は紀元前7000年、すなわ
ち今から9000年前のことであるという。1991年10月、彼がこの見解をアメリカ地質
学会で発表すると、たちまち激しい反発が引き起こされた―。が、奇妙なことに、地質
学者の中には彼に賛同する人々も大勢いた。むしろ彼の説を頭から否定したのは、決まっ
てエジプト学の専門家たちだったのである。


73:,
08/05/23 08:55:52 rDsvgyyQ
 次にウェストは、ニューヨーク警察の法医学の専門家であるフランク・ドミンゴに依頼し、スフィンクスの顔が
通常そのモデルとされるカフラー王のミイラの顔と同一かどうかを鑑定させた。その結果、スフィンクスの
顔は、カフラー王とはまったく別人であるということが判明したのである。ウェストは、これらの
侵食結果を雑誌に発表し、私に送ってくれた。ちょうど私はアトランティスの映画を撮るというハリ
ウッドのプロデューサーに協力しているところだったので、さっそくウェストのアイデアを使わせて
もらうことにした。1993年9月、私はニューヨークでウェスト」に会った。そこで私は、ちょう
ど計画中だった、スフィンクスの謎と文明の起源をテーマにした本(アトランティスからスフィンクスへ)の話を
した。

 すると彼は、私と同じ様な研究をしている二人の人間の存在を教えてくれたのである。
そのひとりはジャーナリストのグラハム・ハンコックで、ちょうど契約の聖櫃をテーマとする「象徴と封印」
(邦訳:神の刻印)を書き上げ、次に先史時代文明をテーマとする著作に取り組んでいるとこ
ろだった。もうひとりはカナダの図書館司書ランド・フレマスで、アトランティスに関する本を書いていた
が、それはまだ出版はされていなかった。

 イングランドに戻ると、すぐさまこの二人に手紙を書いた。1週間もしないうちに、私はフレマ
スの「空が落ちるとき」と、ハンコックの「神々の指紋」のタイプの原稿を受け取った。

 ハンコックの原稿は膨大だった。古代の文明のことは語って入るが、彼はデニケンのように古代
宇宙人などを持ち出すことはない。単に先史時代の我々の祖先―アンデスのティアワナコや、メキシコ
やエジプトのピラミッドを築いた人々―は、一般に考えられているよりも遥かに高度な文明を
持っていた、と述べているだけだ。

彼はティアワナコの遺跡の研究に生涯を捧げたボリヴィアの学者アーサー・ボスナンスキーの資料を挙げている
が、それによると、ティアワナコの神殿は、一般に最古の文明が築かれたと考えられている時代
よりも9000年も前、すなわち紀元前1万5000年ごろ建てられたものだという。

 またハンコックは、ベルギーのエンジニアであるロバート・ボーヴァルによる「オリオン・ミステリー」という本を
紹介している。ボーヴァルによれば、ギザの3大ピラミッドは実に奇妙な配置のされ方をされて
いるという。最初の2つのピラミッド―クフ王の大ピラミッドと、彼の息子であるカフラー王のそ
れ―が、それぞれの対角線を結んだ一直線上に並んでいるのに対して、最も小さなメンカう
ラー王のそれだけが、この直線から外れているのだ。

URLリンク(ja.wikipedia.org) ギザ

74:,
08/05/23 08:57:08 rDsvgyyQ
何のためにあえてこのような配置がなされ、また何のために第三のピラミッドだけが非常に
小さくつくられているのか。メンカウラー王はクフ王の孫、カフラー王の息子であり、年代的には最も
後ということになるのだが、彼の王としての権力は、父や祖父にも決して引けをとらなか
ったはずなのだ。

 そこでボーヴァルは、実はこのピラミッドの配置はオリオン座の3つの配列を忠実に写し取ったも
のである、と考えたのである。古代エジプト人は地上を天の繁栄と見なし、天の銀河は地上
のナイル川である、と考えていた。そこで彼らは、この対応を示すために、聖なる星座である
オリオン座の3つ星に合わせてピラミッドを配列したのだ。おそらくこの星座は、古代エジプ
ト人にとってはオシリス神を表していたのだろう。

 だが3大ピラミッドの配列は、厳密に言えば、完璧に現在のオリオン座の3つ星に対応して
いるわけではない。ここで重要となってくるのが、春分点歳差と呼ばれる現象である。こ
の現象のために、星座の見え方は2万6千年周期で変化するのでありう。ボーヴァルの計算に
よれば、3大ピラミッドの配列は、厳密に言えば、完全に現在のオリオン座の3つ星に対応し
ているわけではない。ここで重要となってくるのが、春分点歳差と呼ばれる現象である。
この現象のために、星座の見え方は2万6000年周期で変化するのである。ボーヴァル
の計算によれば、3大ピラミッドの配列とオリオン座の3つ星が完璧に位置していたのは、紀
元前1万五千年ごろであったという。



75:,
08/05/23 08:59:43 rDsvgyyQ
>>23
 ボーヴァルは、この年代が古代エジプト人にとって極めて重要な意味を持つと考えた―事
実、それは彼等のヒエログリフに「最初の時」と記されている、エジプト史の始まりのと
きにあたっているのである。もしかしたらスフィンクスは、この「最初の時」を記念するために、
紀元前1万500年ごろに築かれたののだろうか?もしそうなら、スフィンクスの建造はショックの推
定による紀元前7000年よりもさらに古いことになる。ボーヴァルによれば、3大ピラミッドその
ものは紀元前1万500年に建てられたものではないという。女王の間の「通気孔」の角度
と星の関係からすると、大ピラミッドの建造はエジプト学者が言うとおり紀元前2500年ごろに
違いないらしい。だが彼は、この3大ピラミッドの設計がなされたのが紀元前1万500年ごろ
であったのは確実である、と言うのだ。またグラハム・ハンコックの「神々の指紋」では、石材の
素材の違いから、カフラー王のピラミッドの下半分だけは紀元前1万500年に築かれた、との説が
示されている。

 このように、ボーヴァルやハンコックが紀元前1万500年という年代をはじき出しているのに対
して、先述のようにハプグッドやランド・フレマスは、最後の地殻滑動が紀元前9600に起こったと
考えている。この900年の誤差は一体なにを意味しているのだろうか?

 フレマスはいう―ハプグッドの年代は考古学・地質学的データから得られた正確なものである
のに対して、ボーヴァルの年代は、その推定自体に誤りはないとはいえ、スフィンクスがその同じ時
に建造されていなければならないと言う必然は何もない。スフィンクスはあくまでも「最初の時」
を記念して建てられたものである。多くの記念碑と言うものがそうであるように、その建
造は、記念すべき時自体よりもかなり後のことかもしれない、と言うのだ。

 グラマム・ハンコックは、私の「アトランティス・からスフィンクスへ」と執筆に最大限の協力をしてくれた。
まだ出版される前の「神々の指紋」と、その続編である「創世の守護神」のタイプの原稿を
送ってくれ、それを自由に引用していい、とまで言ってくれたのである。

 この「神々の指紋」の成功には、ランド・フレマスも寄与していた。ハンコックは、古代エジプト・
シュメール以前の文明の存在を推定しながらも、それに疑問を持ち、精神的にも鬱屈した状態に
なっていた。そんな文明が存在していたとしたら、それはどこにあったのか、という謎が
解けなかったからである。そんな文明の担い手となるような広大な大陸が、大西洋のそこ
に沈んでいるなどと言うことはありえないからだ。


76:,白からす黒ひつじ
08/05/23 09:53:56 rDsvgyyQ

スレリンク(psycho板:403番)

スレリンク(army板:53-58番)

スレリンク(utu板:814-824番)

スレリンク(utu板:830-831番)

スレリンク(uwasa板:504-530番)

、、、、、、、、、、


スレリンク(esp板:1-73番)


77:,
08/05/23 09:56:10 rDsvgyyQ


    超能力板の掲載に関しては、何ともいえませんが、、、。

   、、、、、ぶっちゃけ、、、、?、、、、です、、、。



78:,
08/05/23 18:55:46 rDsvgyyQ



このヒントによって、ハンコックのすべての疑問は氷解したのだった。

「空が落ちるとき」には、もひとつ、非常に興味深いエピソードが紹介されている。ティティカカ湖
畔に、アイマラ族と言うインディオが暮らしている。彼等の言語であるアイマラ語は、構造が極めて論
理的であり、コンピュータによって判読可能な数学的記号で書き表すことができるという。この
特質ゆえに、アイマラ語はコンピューターによる翻訳システムに使う中間言語として理想的なものだ
ったのである。

 ボリビアの数学者ロハス・デ・グスマンによれば、これほど完璧な言語は他の言語のように「発
達」してきたものではなく、まったくゼロから「開発」されたものであるとしか考えられな
いと言う。この事実は暗に、彼等にこの言語を伝えた他者の存在を示唆しているようだ。

 事実、中南米の諸部族に広がる伝承によれば、太古、彼等の「神々」はひがしからやっ
て来たという。神々の王(ヴィラコチャ、ケツァルコアトル、コン・ティキ、ヴォタン、ククルカンなど、)
さまざまな名称で呼ばれる)は髭を蓄え、ヨーロッパ人のような顔つきで、人々に文明と倫理
基準を伝えた。そしていつの日か再び戻ってくるとの約束を残して、海に戻っていったと
言う。



79:,
08/05/23 18:57:27 rDsvgyyQ
 後年、アステカ人はスペインの侵略者たちをこの神々の再来と誤解したために、あの帝国は
あんなにも簡単に征服されてしまったのである。そして前述のアーサー・ボスナンスキー教授によれ
ば、アイマラ人は自らの言語を、この神々から与えられたと信じたと言う。様々な紆余曲
折を経て、フレマスの「空が落ちるとき」は、私の序文を添えて1995年に出版された。そして
その翌年には、私の「アトランティスからスフィンクスへ」と、ボーヴァルとハンコック
の共著「創世の守護神」が世に出た。

「創世の守護神」では、古代エジプト人が紀元前1万500年にギザ・ピラミッドの設計を
行っていながら、実際に建造するまでに8000年もの期間を待機したのは、際差運動によっ
てオリオン座が元の位置に戻ってくるのを待つという儀式的な意味合いのためである、と
言う推論がなされている。「空が落ちるとき」は、9つの言語に翻訳される大成功を収めた。

そこでフレマスはさっそく次の仕事に取り掛かった。彼は、メキシコの先史遺跡に目を付けた。

メキシコで最も重要な先史遺跡と言えば、それは間違えなくテオティワカンである。それが最盛期
を迎えたのは6000年ごろで、統治の広さは12平方マイル(約19・3平方キロ)もあり、
帝政ローマ以上に巨大な都市だった。だが、この都市は750年ごろに突如、完全に崩壊して
しまう。その原因は判明していないが、広い地域に地震に襲われた形跡が残されている。

この都市には、「月の神殿」と「太陽の神殿」を結ぶ「使者の大通り」と呼ばれる長さ2マ
イル(約3・2キロ)の通りが南北に延びている。だがこの道は、厳格に言えば15・5度
ほど、東北に傾いているのだが、その理由もまた不明である。だがフレマスは、このテオティワカン以
外にも、南米には東北東に傾いた祭祀遺跡が49もあると言うことに気づいた。

 もしかしたら、テオティワカンが最初に設計されたとき、「死者の大通り」は正確に真北を指し
ていたのではないだろうか―すなわち、ハドソン湾の旧北極を―。一見したところ、それはありえない。テオティワカンは、最大限に見積もっても、紀元前4000年より古いものではありえないとされているのだ。

 だが、そもそも宗教的遺跡と言うものは、それ以前から存在した宗教の聖地に建てられ
るという性質がある。古い宗教の遺跡があった場所そのものが神聖な土地と見なされるた
めである。ヨーロッパでも、キリスト教の教会の多くは異教の聖地の上に建てられている。


80:,
08/05/23 18:58:41 rDsvgyyQ
(テオティワカン遺跡の太陽の神殿。この都市遺構はメキシコで最も重要なメキシコで最も重要な先史遺跡
とされ、最盛期には帝政ローマ以上に巨大な都市だったと言われている。)

考古学者たちは、テオティワカンから5つの異なる都市の遺跡を発掘している。もしも文明と言う
ものが紀元前一万年以前から存在していたとするなら、テオティワカンが紀元前4000年よりもは
るかいぜんから整地とされていた土地の上に建てられた都市であったということは十分あ
りうるのである。

フレマスはテオティワカン以外にも4つの遺跡―トゥーラ、テナユカン、ソチカルコ、コパン―を調べてみたが、結
果は同じだった。いずれの遺跡もやはり、まるで何かの目印のように、旧北極を指してい
たのである。そこでもし仮に、紀元前1万年以前のテオティワカンに間ラ化の神殿があり、他の4
9の「傾いた」祭祀遺跡がすべてハドソン湾の北極に向けて設計されたものだ、と仮定してみ
よう。すると、残された遺跡の分布からして、この文明は広大な範囲に広がっていたこと
になる。前述のように、ボナンスキー教授によれば、ティアワナコは紀元前1万5000年ごろに遡り、
またハプグッドは、かつて全世界的な規模の海洋文明があったと考えていた(彼はこれを紀
元前7000年ごろと見積もっていたが、同時に彼は、アトランティスの終焉を紀元前9600年として
いる)。

もし、このような文明が存在したなら、全世界的な規模で測量が行われたとしても、不思
議はない。項考えたフレマスは、各遺跡の位置関係に注目することを思い立った。

 たとえば、ギザの大ピラミッドが驚くほど高度な数学と地理学の知識を示していると言うこ
とは、よく知られている。その4つの面が正確に東西南北の方向を向いているのみならず、
その位置は赤道からちょうど30度北にあるのだ―つまり赤道から北極までの距離のちょ
うど3分の1である。エジプト人は赤道の長さを知り、赤道から極までの距離を知っていた。


81:,
08/05/23 18:59:52 rDsvgyyQ
そしてまた、前述のように大ピラミッド事態が地球の北半分、すなわち赤道から北極までを象
徴している。これらのことは、そして大ピラミッドをあえてその位置に置いたと言うことは、
紀元前2500年のエジプト人が全世界的な規模の地理地形を持っていたことを意味する。そ
れでは、この大ピラミッドはハドソン湾にあった北極となんらかの関係を持っているのだろうか。

 ハドソン湾の北極の時代、大ピラミッドは今よりも15度南にあった。そのため、まず大ピラ
ミッドからハドソン湾の北極に向かって1本の直線を引き、さらにもう1本を現在の北極に
向かって引くと、この二本の直線の角度は28度となる。

フレマスは、この28と言う数字が、ギザにおいて極めて重要な役割を果たしていることに気が
ついた。大ピラミッドの王の間に続く大回廊には28度の会談があり、スフィンクス神殿には28本の
柱がある。さらに、大ピラミッドから見ると、夏至と冬至の日の出の位置は56度離れている
―すなわち、春秋分点と夏冬至点はそれぞれ28度ずつ離れていると言うことだ。

さらにフレマスは、スフィンクス神殿が大ピラミッドの葬祭殿から見て28度の角度を持っている事を発
見した。そしてこの角度をそのまま延長していけば、その直線は正確にハドソン湾の旧北
極に達するのである。

スフィンクスの前に並んで立つスフィンクス神殿と谷の神殿は、両者とも「巨石時代風」のスタイルを持っ
ており、ウェスト、ハンコック、ボーヴァルの一致した見解では、これは他の遺跡よりも遥かに古い。
同じことは、大ピラミッドの葬祭殿にも言えるのである。

これらの計算結果は、単なる偶然であるとは考えられない。そこでフレマスは、大西洋から遠
く離れた中東の遺跡について、さらに慎重に研究を進めた。その結果、以下のような遺跡
がハドソン湾の旧北極を指していることが判明したのである。


82:,ミジンコ
08/05/23 20:38:56 rDsvgyyQ

>>78 URLリンク(ja.wikipedia.org) チチカカ湖

>>79 URLリンク(ja.wikipedia.org)

URLリンク(ja.wikipedia.org) ハドソン湾?
、、、マズッタかな、、、、。、、、まぁいいか、、、後で修正して行こう、、、。

>>80 URLリンク(ja.wikipedia.org) トゥーラ
URLリンク(ja.wikipedia.org) ソチカルゴ
URLリンク(ja.wikipedia.org) コパン
スレリンク(rikei板:232番)


83:,ミジンコ
08/05/23 20:57:38 rDsvgyyQ
1) カルデアのウル。有名なジッグラトと、月の女神イナンナの神殿。
2) バグダッドの南にあるニップール(ここで発見されたギルガメシュ叙事詩の粘土板には、理想郷ディルムンが洪水で滅びる描写あり)。
3) シュメールの都市のウルクのジッグラトと「白き神殿」。
4) エルサレムのヘロデ王の神殿の嘆きの壁。

次にフレマスは、多くの遺跡が、彼のいう「聖なる緯度」上にあるということに気づいた。こ
れは、360の約数となる数字を持つ緯度である。たとえば30度、45度などがそうだ。
そして彼は、こうした「聖なる緯度」の上にある遺跡を、次のように40あまりも発見した
のである。これはもはや、単なる数字の遊びとして片付けられるものではない。

ハドソン湾(北緯60度/西経83度)が北極であった当時の聖なる緯度

以下にあげる遺跡はいずれも、聖なる緯度から0・5度以内(30海里)の位置にある。南
太平洋のライアテアとタヒチは、聖なる緯度に最も近い島である。

50度 ロスロリン/ローンヘッド/キルウィニング、タラ/ニューギレインジ/ノウス、ダネエヒト、ウシュマル、チチェン・イツァ
45度 コパン/キリングア、カンタベリー
30度 カルタゴ、キト
25度 コンスタンティノープル
15度 ギザ、エリコ/エルサレム、アッシュール、ナスカ、ギルガル、ヘリオポリス
12度 バビロン、平壌
10度 ウル/ウルク/エリドゥ、テーベ/ルクソール、スサ、伊勢、奈良、京都・平安京、クマシ、ナカダ、ラガシュ
5度 ビュブロス、西安、ラリバラ、エレファンティン、ライアテア、タヒチ
0度 ラサ、粟国島、モヘンジョ・ダロ、イースター島
(/で繋いだ都市は極めて近接していることを示す)

84:,↑
08/05/23 21:11:15 rDsvgyyQ

恐らく、WIKIで出ないのは沢山あると思うが、ご自由にお調べください、、、、。



85:,↑
08/05/23 21:12:33 rDsvgyyQ

フレマスの「空が落ちるとき」は、1995年1月にカナダで出版され、すぐにいくつかの言語に翻
訳される成功を収めた。グラハム・ハンコックの「神々の指紋」もまた、1995年4月に出版されれ
るになるやいなや世界的なベストセラーとなり、古代文明に対する人々の関心の高さを改
めて明らかにする結果となった。

私自身の「アトランティスからスフィンクスへ」は1996年5月に出版され、初刷りはその日のうちに売
切れてしまった。ハンコックとボーヴァルの共著「創世の守護神」は1996年に出版され、これ
もすぐさまブストセラーとなった。そしてクリストファー・ナイトとロバート・ロマスの「ヒラムの鍵」(邦訳:封印
のイエス)もまた、好調な売れ行きを示している。

 こうした機運にのって、フレマスは次の作品「未来の発見―アトランティスからの青写真」と題す
る本を計画していたが、フレマスのパートナーであるローズは小説の執筆に専念しており、また彼自
身も図書館司書の仕事に忙殺されていた。そこで彼らは計画の概要を私に送ってくれ、こ
れを本にするよう依頼してきたのである。

 この概要を読んで、私は脳天を一撃されたようなショックを感じた。もしも祭祀遺跡の配置
に関する彼の仮説が正しいなら、これはアトランティス以前の文明に関する、これまでで最強の物
的証拠となる。私は一も二もなく執筆役を引き受けた。彼は直ちに大量の資料を送りつけ
てくれた。

 そこにはハプグッドのいう有史以前の「高度科学文明」の存在を裏付ける、信じがたいよ
うな証拠がちりばめられていたのである。


86:,
08/05/23 21:20:41 rDsvgyyQ

ギザの本初子午線


1884年10月。スコットランドの王室天文学者チャールズ・ピアッツィ・スマイスは、地球上の経度の基
点となる子午線、すなわち「本初子午線」を、ギザの大ピラミッドに置こうと考えていた。奇
妙なことかもしれないが、巨大な蒸気船が世界中の海を航行していた19世紀末に至って
もなお、このような基本的なことがまだ定められていなかったのである。

 当時は多くの国が盛んに天文台を作り、それぞれ自国内に本初子午線を持ってくること
を主張していたのだ。そこで、この問題」をかいけつするためにヨーロッパ25カ国の代表が
ワシントンDCに会し、会議を開いたのである。

その会議も場で、スマイスは自国のグリニッジよりも、世界最大の遺跡であるギザの大ピラミッド
こそが本初子午線にふさわしい、と主張した。そして彼はその理由の一つとして、恐らく
古代人もギザを本初子午線として用いていたと思われる、と論じたのである。

だが、ご存知のように、多くの国はグリニッジに投票し―当然ながらフランスは棄権したが―
スマイスの論理的な主張は退けられてしまった。もしもこのとき、本初子午線の位置がギザに
決まっていたら、世界中の何百と言う聖地が、一つの巨大なパターンを構成していると言うこ
とが手に取るようにわかっていただろう。



87:,
08/05/23 21:22:40 rDsvgyyQ


 たとえば、グリニッジを起点にした場合は西経69度にあるティアワナコは、大ピラミッドを起点に
すれば西経100度となる。かつてのインカ帝国の首都であるキトは西経110度で、テオティワカン
やイースター島などの重要な遺跡も、西経120、130、140度と言った位置に見出される
のだ。

統計の場合も、カルデアのウルは正確に東経15度で、チベットの首都ラサは東経60度となる。

 さらに重要なのは、経度がこのように端数のない数字で表される聖地の多くは、この経
度がφに関係のある数字になっている。

たとえば、ティアナワコの緯度は10φ。ポリネシアの霊的センターであるライアテア(ここはギザ経180度
でもある)もまた10φである。実を言うと、私が拙著「聖なる遺跡の地図」でとりあげ
ていた数多くの遺跡が、まさにこの条件に当てはまっていたので、最初フレマスからこの話を
聞いたときには、本当に仰天したものだ。



88:,
08/05/23 21:25:44 rDsvgyyQ

URLリンク(ja.wikipedia.org) φ 幾何学

URLリンク(ja.wikipedia.org)  φ



89:,
08/06/01 09:41:19 9Af/B2Au

スレリンク(ruins板)l50 Wikipediaで世界遺産

スレリンク(geo板)l50 地理学・人類学

スレリンク(sky板)l50 天文・気象

スレリンク(min板)l50 民俗学・神話学



次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch