正攻法の正規の考古学・百鬼夜行の戦慄のデスマッチat ARCHEOLOGY
正攻法の正規の考古学・百鬼夜行の戦慄のデスマッチ - 暇つぶし2ch59:,
08/05/22 08:43:35 vm8SBrt0



全体と繋がる感覚

「アトランティスからスフィンクスへ」では、私はネアンデルタール人よりもクロマニオン人に関心を持っており、そ
の結果ネアンデルタール人のシャーマニズムの重要性を見過ごしていた。同書では、シャーマニズムこそが文明
の発展に中心的な役割を果たした、と論じた。もしもクロマニオン人の洞窟絵画が、狩人が獲物
を捕らえることを助ける儀式を示しているのなら、シャーマンは部族で最も重要な人物であり、
恐らく指導者となっていただろう。祭司王の伝統は、クロマニオン人の洞窟から、古代シュメールやエ
ジプトまで続いていたのだ。そして古代エジプトは、祭司権と王権がほとんど同一であっ
た最後の大文明だ。以後、現代人は自らを直感的な自己から分離し、不安と疑念を供給し
始めたのだ。

先の章で、「シャーマン的文化」は一種の「集合意識」を当然のものとして受け入れている、と
いうことを見た。ブラジルのアマワカ族は、全員座って、マヌエル・コルドバとオナジヴィジョンを共有した
―ボアの歌によって巨大なボアが現れ、他の蛇が現れ、鳥や動物が現れた。同じ理由で、
ジェレミーナーバイのキリシャリ族の師は、その幻覚剤を「森のTV」と呼んだ。

 誰もが、秋の空を飛ぶ鳥の群れを見たことがあるだろう。彼らは全員が同時に、一羽の
遅れもなく旋回する。また、水族館の大量の魚群が同じことをするのも見たことがあるは
ずだ。田舎の人は、鳥や魚の群れのここの成員の間に何らかの繋がりがあることを直感的
に知っている。蜂や蟻もそうだ。


60:,
08/05/22 08:45:54 vm8SBrt0

これらの生き物は、群れになると各個体ではなく集合的な存在となり、集団精神に支配さ
れる。扁形動物の身体の細胞が、各細胞よりも上位にある「集団精神」によって支配され
るように見えるのと同様だ。

 信じがたいことに現代人も今なお集団精神の支配に身をゆだねることがあるケヴィン・ケリー
の「アウト・オブ・コントロール」(1994)には、ラスヴェガスでおこなわれたコンピューター大会の話が出
てくる。そこでは5000人の人が、自分自身の姿を写す巨大スクリーンの前に集まった。さ
らに彼らは、棒を使ってスクリーン上の像を制御することができた。その棒は一端が赤、
反対側が緑になっていた。それから全員が赤組と緑組に分かれ、2人の人間のように、電子
ピンポンゲームをしたのだ。

さらに、同じ様な集団活動の練習をいくつかこなした後、画面にフライトシュミレーターが現れた。左
側の人々は飛行機の横運動を、右半分の人は上下運動を任された。5000人の人間が心を一
つにして、飛行機を無事に着陸させようというのだ。だがしばらくして、このままでは着
陸はうまくいかず、失敗に終わる、ということが明らかとなった。だがこのとき、観客全
員が―何のコミュニケーションもなしに―自発的に飛行機を宙返りさせようと決意し、それを実
現したのだった。


あの古代の能力は、明らかにまだそこにある。この文明社会では、すっかり錆付いている
けれども。我々は個人として活動することに慣れすぎている。現代の都市生活者が混雑し
た通りを歩くとき、他人と「繋がっている」感覚を感じることはほとんどない。むしろ逆
だ。だが、コンピューターの画面上で少し練習すれば、すぐに「繋がっている」感覚を回復させ
ることができるのだ。

シュワレール・ド・リュビックによれば、古代エジプト社会の特徴はこの「繋がり」の感覚だった。
彼の主張を要約すると―「エジプトの科学、エジプトの芸術、エジプトの医学、エジプトの天文
学は、エジプト人の生活の別の側面と見なされていた訳ではない。それらは同じものの諸
側面であり、広い意味での宗教だったのである。宗教は知識と同じものであった」。シュワレール
は言う、「、、、、、4000年以上、古代エジプトは宗教というものを「持っていた」わけではな
い。それはそっくりそのまま、宗教そのものだった」(神聖科学)


61:,
08/05/22 08:48:03 vm8SBrt0

「そっくりそのまま宗教そのものである社会」の意味を理解することは我々には不可能だ。
現代のユダヤ教、現代のイスラムにしたところで、社会と宗教が同じものであった当時のルーツ
からかけ離れてしまっている。古代社会では、それは日常生活のまさに本質だった。狩猟
ですら―つまり食べることですら―それに頼っていた。ネアンデルタール人にしてもクロマニオン人
にしても、宗教のない生活など想像もできなかっただろう。

我々は実際にネアンデルタール人の何を知っているのか?まず第一に、彼らは我々よりも1フィート(約
30センチ)低く、巨大な脳のために高等部が烏賊の様に出っ張っていた。(この出っ張りは、
ネアンデルタール人の小脳の大きさによる。小脳に関しては今なおほとんど何もわかっていないが、
夢に関係しているとされる―だからグーチの本のタイトルは「夢の都」なのだ)。さらに、
彼等が左利きであったことはほぼ確実だ。後期の洞窟絵画のほとんども左利きの画家によ
って書かれている。グーチはこれをことのほか重視している。生物学者が脳の研究を始めて
以来、左利きの人は右利きよりも直感的だということが判明している。

私は、ロバート・テンプルの「中国の天才たち」(1986)へのジョセフ・ニーダムの序文を読んでい
て、突然グーチのネアンデルタール人の本を思い出した。ニーダムは第一次世界大戦中、重慶に滞在
しているときに、あの膨大な「中国の科学と文明」(1954)の研究を始めた。そんなこ
とに手を付けようと考えた人が誰もいなかった理由は、極めて単純だ。「私より上の時代に
属する中国学者の友人たちは、そんな研究で何らかの成果が上がるとは考えていなかった」
―-まさにネアンデルタール人の場合と同様だ。だが逆に、「光り輝く財宝の洞窟が口を開いたの
だ!」。そして彼は、中国人は発明の才がないどころか、二項式から種痘まで、西洋がそれ
を発見する前に、ほぼすべてを発明していたことをしった。「我々の見るすべてのものは、
最初の後の『最初』だったのだ。」


62:,ミジンコ
08/05/22 08:55:30 vm8SBrt0
スレリンク(rikei板:239-240番) ニネヴェ定数


先史時代の数のカノン、、、、



ニネヴェ定数のことを調べていたとき、私はジョン・ミッチェルに手紙を書いて、彼の意見を聞いた。
「楽園の次元」(1988)の中で、ミッチェルは次のように述べていたからだ。「、、、、、、古代
人は数字を宇宙の象徴と見なし、特に固有の構造と、あらゆるタイプの形態と運動の間に
関係性を見出した。」「彼らは生きた神聖科学の宇宙に暮らしていた。それは聖なる構成の
産物であり、理性との調和において構想されている」。

ミッチェルの返信は、私の研究をこれまでで最も驚くべきステージへと持ち上げた。まず始めに、
彼の私的によれば、ニネヴェ定数は地球の歳差周期で割り切れると同時に、太陽の直径(864000
マイル)でも月の直径(2160マイル)でも割り切れる。彼は言う、「また1から10までの
数と、その積(3628800)によってもだ」。さらに言う、「結節点となる数というも
のは確かにある。たとえば24時間の秒数である86400、そして太陽の直径である
864000マイル」。





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