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『中国とキリスト教』ジャック・ジェルネ(法政大学出版局)
19世紀と20世紀初めのプロテスタント宣教師がキリスト教的命題を中国語に
直すときの困難さにぶつかって嘆息した。その中の一人は書いている、
「中国語はあまりにも不完全で重苦しいので、霊的な真実を運ぶ運搬車に
なれない!」また他の者は書いている、「われわれも確認したことだが、
言語自体が新しい真実を伝えるのに、もっとも不適切な手段の一つだ」
(中略)
「《ある》という概念は、アリストテレス的用語を越え、その分類の上に
広がり、すべてを包含する。ギリシア語はたんに《ある》という動詞(これは
決してどの言語にも必要なものではない)を有しているだけでなく、この動詞
からきわめて特殊な用法を作った……言語は《存在する、ある》を対象化できる
概念とさせたので、哲学的思考はそれを他のどんな概念とも同様に扱い、分析し、
位置づけることができた」
バンヴニストの分析はギリシア思想の二つの特徴を浮き彫りにしている―さらに
一般的には西洋思想―その特徴はギリシア・ラテン語の構造と密接な関係がある、
つまり一方には、無意識な言語使用から来る明白で必然的な性格を持つ範疇があり、
他方、西洋の哲学的、宗教的思想における「存在する、ある」を探求した。
そこから、バンヴニストの言い方を踏襲するなら、「哲学的にして霊的な経験の
多様性は、言語が言語であり、象徴化するというだけの理由で言語が行う分類法
に無意識に依存している」と結論できよう。