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「明治日本の藩閥政府は、内部に反対意見もあったが、ドイツと同じ道を選んだ。
その理由の一つとして、藩閥政治家は武士として育ったため政治的自由主義や
共和主義という考え方に馴染みがなかったことが挙げられる。憲法と代議制議会が
近代国家としての体裁を繕うのに必要なことは、彼らも理解していた。しかし
政府には何としてでも解決しなくてはならない問題があった。今日もイスラム
国家の多くが似たような問題を抱えているが、明治政府は近代化を推し進めると
同時に、自分たちの権威を昔からの伝統に求めようとしたのである。その解決策が、
ドイツの政治理論を日本神話に接ぎ木することだった。日本とドイツはもともと
よく似ていて、軍による統制、君主の神聖化、民族の精髄として国土と血統の
純粋を宣伝する態度など、共通点が多かった」
「大正天皇には父である明治天皇と違って威厳というものがまったくなく、
象徴的存在としてすら重みがなかった。真偽のほどは定かではないが、あるとき
帝国議会の席上で、筒状に丸めた勅書を望遠鏡のように覗き込んだと伝えられている」
『近代日本の誕生』(イアン・ブルマ、ランダムハウス講談社)