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提訴(2004.2.20)
講演レジュメ2004.2.20集会
中国「残留孤児」訴訟の歴史的背景 青 木 康 嘉
<悲劇の大地ーその1>ー大主上房開拓団の逃避行ー
94名の女性が,子どもを背に負い,手荷物を持って,出発して約200キロ地点の
万竜開拓団跡に到着した。
8月16日の朝だった。無人の開拓団跡で残された食料を食べ,8時に出発した。
突然約50名ぐらいの土匪(武装グループ)に襲撃される。5名が死亡した。
再び万竜開拓団に戻り,翌朝違う方向から出発した。ここで,ソ連軍の攻撃を受ける。
団長以下約18名が射殺された。一団の最後尾に妊婦がいた。その女性の出産が
突然始まった。近づいてきたソ連兵は,そばにいた義弟を射殺した後,妊婦に布などの
入ったバックを手渡して去っていった。そして,草むらで出産した。
ソ連軍の襲撃後,約60名の女性と子どもだけが大茄子訓練所(岡山県の満蒙開拓
青少年義勇軍村上中隊の残留組と藤森中隊がいたところである)へ移された。
8月17日の夜入れ墨をし,腕に日本人から奪った時計をはめているソ連兵は,
誰彼と無く女性を連れて行った。恐怖と絶望とパニックが取り巻いた。抵抗した3名が
射殺された。強姦を受けた女性が精神異常となった。残った母親は,自分の子の首を絞めた。
16名の子どもがそこで死亡した。その後,母親10名は,井戸に飛びこみ自決した。
その場いた女性の証言がある。
「8月18日夜,井戸も一杯になったので,私は子の首をしめ,窓に紐をかけ首をつりました。
しかし,ソ連兵に発見され紐を切られ死ねませんでした。内地の土を踏みたい 気持ちもあり,
女性3名と子ども2名で19日夜逃げました。途中,3歳の女の子は母 親が連れて行けなく
なり,母親が絞首しました。もう一人の7歳の女の子は足が痛くて歩けなくなったので,
中国人へ預けました。」
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