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李三才は失意の瀬に横たわり、ゆるゆると流れる時間をただ無為にやりすごしていた。
たとえ、彼個人が営む雙鶴書院が呼び声高く、多くの若者が集ったとしても、彼の気は晴れなかった。
――政治とは、机上で行なうものではない。内なる悔恨は、今もなおくすぶり続けている。
指呼の距離にある北京城が、自分を呼ぶ声を枕に聞いては、彼は布団を跳ね上がらせるのであった。
李三才が政界を追われたのは、万暦三十九年(1604年)二月のことである。
東林党の盟友を大勢擁しての、まさかの失墜であった。
忸怩たる思い。このような思いを残したまま、何で死ねよう。
しかし、あれから政界復帰を果たせぬまま、四年の歳月が経とうとしている。
(俺は十全の力をもって、『あれ』に抗してきたであろうか?)
あれとは明朝はじまって以来の悪政と名高き礦税のことである。
しかし実際には、『あれ』とは万暦帝その人であることを、李三才は苦りの中で知っていた。
(あろうことか!俺の最大の政敵が、他ならぬ皇上であったとは!)
明朝十二代天子、万暦帝、朱翊鈞。李三才が仕え、期待し、その期待をことごとく裏切ってくれた、物言わぬ巨大な政敵。
(まったく、あれがいつか言葉を発したか。わが身とその周辺の利害に関与する内容以外で。
――いつ、あれが官吏の上奏に応じてくれたか。無視の一点張りだったではないか!)
万暦帝は決して木石ではない。むしろ、あまりに情に流されすぎ、しかもその情愛の対象が、寵姫の鄭貴妃とその息子の常洵限定ときている。
それらが一個人の欠点であれば、個性として認めてやることもできるだろう。
実際、無気力もあそこまで来れば、一つの個性と見なすべきかもしれない。
問題は、彼が一天万乗の天子である点だ。せめてそこらの百姓程度に、分別があってくれればよかったものを。