03/05/12 23:58
>>253
デヴシルメを行っていた頃のオスマン朝バルカン農村の徴税単位は
青年既婚男子とその扶養家族からなる戸を単位としてたことから考えると、
デヴシルメによる未婚男子の徴収(一人っ子は除外)というシステムは
キリスト教徒農村からの余剰人口吸い上げという面があったのではないでしょうか。
この地方ではユダヤ教徒もアルメニア正教徒もほとんど都市民ですから、
あんまり関係なかったのではないかと。全くの憶測ですが。
>>254
デヴシルメ制が確立されたとされるムラト1世~バヤズィト1世の時代は
東アナトリア・南コーカサスにはティムール朝の勢力が及んでいましたから
アルメニア人居住地帯はまるごとどころかほとんど確保されていないし、
バヤズィトの遠征には没落時のアンカラの戦いに至るまで
(1389年のコソヴォの戦い以来オスマンの臣下になった)セルビア君侯ら
多くのキリスト教徒軍が参戦してることを考えると
キリスト教徒警戒論には少々無理があると思います。
ちなみにデヴシルメが大々的に行われ対外戦争が盛んだった16世紀ですら
バルカン地方には多くのキリスト教徒スィパーヒー(騎士)がいました。
支配階層・軍隊からのキリスト教徒の締め出しが強まるのは
むしろデヴシルメ制度が衰退した17世紀以降の現象であるようです。