オスマン朝at WHIS
オスマン朝 - 暇つぶし2ch2:世界@名無史さん
01/12/11 14:16
オ○マン○

伏せてみた.

3:世界@名無史さん
01/12/11 14:19
テリー・ギリアム『法螺吹き男爵の冒険』萌え~

4:世界@名無史さん
01/12/11 14:22
押すマンチョ

伏せてな~い.

5:世界@名無史さん
01/12/11 14:26
>>2 伏せるんじゃねぇ!
>>4 見せるんじゃねぇ!

6:三村
01/12/11 14:27
ボケとツッコミしかいないのかよ。

7:世界@名無史さん
01/12/11 16:14
そのうちまともな輩もやってくるだろう。
オレはそのときまで待つとしよう。

8:   
01/12/11 17:00
それでオスマンってどういう意味よ?

9:世界@名無史さん
01/12/11 17:08
広大な領土が欧米列強に侵食されていく近代の歴史に
悲哀感を感じる

現在のトルコの領土ってオスマン朝の最盛期の何分の一なんだろう?

10:世界@名無史さん
01/12/11 18:01
>>9
おいらも同感。
オスマン朝好きには悲しいよ。
十分の一・・・そこまでいくかなあ?

11:世界@名無史さん
01/12/11 19:28
俗にいうキョプリュリュ時代とは
どんな時代のことなのでしょうか?
ご説明おねがいします。

12:世界@名無史さん
01/12/11 20:00
>>11じゃないけど、マイクロソフトのエンカルタ百科事典では
「トルコ」の項にこう書いてありました。

 >…ムラト4世の後継者はふたたび以前の腐敗を帝国内にもちこんだ。
 >ベネツィアとの戦いでダーダネルス海峡が攻撃をうけたため、
 >それをみかねた宰相によるキョプリュリュ朝が誕生。彼らは
 >ムラト4世の方法で古い機関を改革した。オスマン帝国は勢力を
 >回復し、キョプリュリュ朝最後の宰相カラ・ムスタファ・パシャは、
 >1683年にウィーン占領をこころみた。しかし、はげしい抵抗に
 >あってオスマン軍は完全に崩壊し、カルロビツ条約(1699)で、
 >東ヨーロッパの領土をオーストリア、ベネツィア、ポーランド、
 >ロシアに割譲することになる。

「キョプリュリュ朝」とあるけど、この表現は適切なんでしょうか。
宰相が帝位を簒奪して、スルタンになったということ?

13:【^▽^】縄文太郎ジョーカー@吾妻
01/12/11 20:01
ティムールよ、ブルサも攻略せよ!

14:世界@名無史さん
01/12/11 20:44
>>8
安楽いすの足載せの事

15:世界@名無史さん
01/12/11 20:56
皇帝の代替わりの時は、地方にいた皇子たちが
イスタンブールへ赴いて、一番最初に入城できた者が
帝位を継いだんだっけ?で、ほかの皇子たちは殺されてしまう。
代々兄弟殺しの繰り返しで、この風習がなくなったのはかなり後期になってからとか。

歴代皇帝はみんな「朕亡き後にこの子たちは殺し合うのだな」とか思ってたんだろうか?

16:世界@名無史さん
01/12/11 21:02
>キョプリュリュ朝

おかしいと思う。

17:世界@名無史さん
01/12/11 21:48
>>13
ティムールはアンカラの戦いの後に
実際に孫のムハンマド・スルタンを派遣して
ブルサを攻略しているよ。

18:【^▽^】縄文太郎ジョーカー@吾妻
01/12/11 21:53
>17
そうだったのですか、ありがとうございます。
オスマン王朝滅亡のチャンスに、ビザンティン帝国は
何をやっていたんだ。

19:世界@名無史さん
01/12/11 23:23
>>18
15世紀初頭のビザンツ帝国にはもはやそのような力はなかったんじゃないかなあ。
領土もコンスタンティノープルを残すのみだったし・・・。

20:世界@名無史さん
01/12/11 23:35
>>8
オスマンはオスマン朝の始祖の名で、第三代正統カリフ・ウスマーンに由来するムスリム人名です。
ただし、オスマン1世自身の本来の個人名は
アタマン、トマンのようなトルコ語のもので、
アラビア語に書き移されるときにムスリムらしいオスマンに改められたという説が有力です。

>>11-12
キョプリュリュ時代は、キョプリュリュ家出身の大宰相
(キョプリュリュ・メフメト・パシャ、
その子キョプリュリュ・ファーズル・アフメト・パシャ、
メフメトの娘婿カラ・ムスタファ・パシャの3人)
が相次いで就任して国政を主導した17世紀後半のおよそ35年間を指す言葉です。
キョプリュリュ朝という語は初耳ですが、英語でKopururidとでも言うのでしょうかね?
この時代にオスマン朝はある程度の国勢を回復し、
クレタ島征服、トランシルヴァニア併合、ポドリア・右岸ウクライナ占領を果たして
オスマン朝の最大版図を達成することにも成功しますが、
結局第二次ウィーン包囲に失敗、それに始まる戦争にも敗れて
オスマン朝衰退の始まりであるカルロヴィッツ条約を招きました。
キョプリュリュ家自身は没落せずに中央政府の有力家門として残り、
オスマン朝の滅亡まで多くの高級官僚を輩出しました。

21:世界@名無史さん
01/12/12 01:53
>>20
詳しい解説有難うございます。
やっぱり「キョプリュリュ朝」は変ですよね。
王家が交代したわけでもないのに、なんだって
こんなこと書くんだろ。

22:12
01/12/12 02:16
20=12です。

23:12
01/12/12 02:17
↑間違えました。21=12です。須磨蘇。

24:シャー・イスマーイール
01/12/12 13:38
誰かサファヴィー朝について語りたい人はおらんか?

25:世界@名無史さん
01/12/12 13:40
>>24
スレ違いです。オスマン朝とサファヴィー朝の関係について論じる
のであれば構いませんがね。そういうことは『イスラーム史総合掲示板』へ

26:25
01/12/12 13:43
失礼。『イスラーム史総合スレ』の誤りです。
でもイスラーム史だけで独立した掲示板も欲しいですね。

27:11
01/12/12 16:05
>>20
私のくだらない質問に答えて下さりありがとうございます。
またこのような質問レスをあげた時にはよろしくお願いします。

28:世界@名無史さん
01/12/12 21:28
歴代のオスマン朝のライバル国家を挙げてみよう。
まずはおいらから
サファヴィー朝

29:世界@名無史さん
01/12/12 21:46
英語だとオットーマン。萌え。

30:世界@名無史さん
01/12/13 00:59
600年王朝マンセー

31:世界@名無史さん
01/12/13 01:12
オスマン朝はアンカラの戦いでティムールに敗れて領土も故地ブルサ
周辺だけになったと聞きますが、そこからどのような経過を経て復活し
約50年後にビザンツ帝国を攻め落とすに至ったのでしょうか?その経緯
について教えて下さい。

32:【^▽^】縄文太郎ジョーカー
01/12/13 01:48
>31
いえ、ブルサなど西アナトリアの他、
ペロポネソス半島・マケドニア(ギリシア北部)・
トラキアも占領し続けていました。

33:世界@名無史さん
01/12/13 01:51
>>31
ブルサしか残らなかったわけではありません。
アンカラの戦い(1402年)直後
(このあたり本によって記述が錯綜していて私も混乱しているのですが、どうも)
ブルサ近郊の西アナトリアを領したのはバヤズィトの諸子のうちイサ皇子で、
エディルネ(アドリアノープル)を中心とするバルカン領には
アンカラから無事撤退しほぼ無傷で中央軍を維持していたスレイマン、
アマスィヤを中心とする北アナトリアには同じく無傷のメフメトが
それぞれ自らの基盤を固めて、後継者争いを起こしていました。
しばらくのちにはバヤズィトとともにティムールの捕虜になっていた
ムサ皇子が帰還してこれに加わっています。
要するに、分裂したってことですな。
バヤズィト晩年の征服地には再独立されてしまったようです。

イサはスレイマン・メフメト・ムサ連合に敗れて早々に脱落、
スレイマンは酒乱で自滅しメフメトの支援を受けたムサがエディルネを継承、
最後にアナトリアを押さえたメフメトとバルカンのムサが決戦して、
1413年にメフメトがオスマン朝の再統一を果たしました。
このメフメトの息子ムラト1世(メフメト2世の父)が英主で、
彼の時代にバヤズィトが失ったものをほとんど取り戻したようです。

34:31
01/12/13 01:59
>>32>>33
ご回答いただきありがとうございます。
おかげですっきりしました。

35:世界@名無史さん
01/12/13 02:55
>28
やっぱハプスブルグ朝でしょう。
誕生も滅亡も同時期だし。

36:世界@名無史さん
01/12/13 10:17
オスマン朝のスルタンて結構大酒飲みが多かったというのは
ホントですか?
あと、ハーレム内で育ったせいで人格的に異常な者が多かったとか。

37:世界@名無史さん
01/12/13 12:39
>>36
「酩酊者」と仇名されたスルタンがいたような気がする。

38:世界@名無史さん
01/12/14 02:24
>>36
ハーレムというか、「兄弟殺し」が廃れたのち(17世紀~)は
新たな帝位争奪予防策としてスルタンの兄弟たちは
「鳥かご」と呼ばれる座敷牢みたいな部屋に幽閉されたそうです。
なので、しばしば兄弟や叔父、甥、従兄弟を継いで即位した後期のスルタンは
異常人格者とまでは言わずとも、酒好き・狩猟好きが多かったと言われています。
政治に熱心だと、逆にうざったいというので廃位されてしまうくらい。

>>37
「酩酊者」といえばスレイマン1世の息子セリム2世ですね。

39:それるけど
01/12/14 04:39
ニューヨークのハーレムって
どうしてハーレムなのさ?

40:世界@名無史さん
01/12/14 07:51
>39
それはオランダ語の「ハールレム」の英語読み。

41:世界@名無史さん
01/12/14 08:13
>>40
そのハールレムって何だよ?
いやなこたえ方するなよ。

42:40じゃないが
01/12/14 13:24
>41
17世紀に入植したオランダ人の故郷の都市の名前(Haarlem)が
ニューヨークの(Harlem)の語源だよ。ちなみに後宮は、Harem。
スレの趣旨から離れた質問なのに答えてくれた人(40)に対し、
とげとげしい言い方するはやめとけ。

43:世界@名無史さん
01/12/14 13:53
なるほど。NYの地名と後宮とを混同するのはニポーン人だけってことやね。

44:41
01/12/14 20:39
>>42
ありがとう。
>>40>>42氏を見習うように

45:世界@名無史さん
01/12/14 21:49
質問です。
このスレにはオスマン語を理解できる方も大勢いらっしゃると
思うのですが、
アラビア文字で書かれたオスマン語の何かよい文法書をご存知
のかたはいらっしゃいませんか?
誰か教えてくれませんか?

46:世界@名無史さん
01/12/14 22:30
自転車小僧出番だぞ

47:オスマン語初学者
01/12/14 23:25
>>45
オスマン語やってる人って大勢いるのかな(汗)

文法書は…私は知らないです。
目下現代トルコ語とアラビア語とペルシア語のなけなしの知識と
レッドハウスの辞書でなんとか格闘しているところなので…。
お役に立てなくてすいません。

語学板のトルコ語スレはどうですか?
スレリンク(gogaku板)l50

48:世界@名無史さん
01/12/15 00:34
文法書は英語のやつがあるよ。最近日本語で文法書出たらしいけど
あんまりらしい。
結局>>47の言うようにやるしかないでしょう
ペルシア語の辞書は以外に使えるよ。発音は違うけど

49:世界@名無史さん
01/12/15 01:22
>>33
メフメト1世の後継者はムラト2世では?
ムラト1世はバヤジッド1世の父親のはずです。

50:33
01/12/15 02:16
>>49
すんません、御訂正の通りです…。

51:世界@名無史さん
01/12/16 18:06
age

52:クレアラシル
01/12/16 21:13
不正規兵部隊アクンジュの構成を教えてください。
やはり征服された地方のキリスト教徒なんだろうか?

53:
01/12/16 22:19
押すマンチョ ダメなら 引くマンチョ。

54:世界@名無史さん
01/12/16 23:41
オルハンの功績について教えておくれ。

55:世界@名無史さん
01/12/17 00:11
>>52
アクンジュは主にアナトリアのトルコ系遊牧民(ユルック)です。
征服地のキリスト教徒も入っていたかもしれませんが、
正規の報酬はなく、代わりに敵地での略奪が認められていたそうですから
性質的にはまったく遊牧民という気配がしますね。
正規騎兵であるスィパーヒーの初期の登録台帳には
明らかにキリスト教徒と見られる人名が混じっているそうです。
征服地の騎士がそちらに取り込まれた可能性もあるでしょう。

>>54
やはり、ビザンツの内紛に積極的に介入しガリポリを獲たこと、でしょう。
そしてオスマン朝の実質的な建国者として、国家組織を整備したこと。
かつてはイェニチェリの創設もオルハンの功績とされてきたのですが、
最近の説ではどうやら次のムラト1世の時代だったということです。

56:世界@名無史さん
01/12/18 00:12
>>45
オスマン語の文法書ならJ.NemethのTurukish Grammar
最近勝田茂氏が日本語訳版を作ったらしいが。
辞書ならRedhouseのTurkish and English Lexiconがいいよ。

57:クレアラシル
01/12/18 00:22
>>55
詳しいですね。
どうもありがとう。

58:世界@名無史さん
01/12/18 00:57
私はビザンティン帝国好きなのでオスマントルコは嫌いです。
しかし、トルコには親日派が多いと聴き、複雑な心境です。

59:世界@名無史さん
01/12/18 02:23
私は>>58氏とは違いビザンティン帝国史好きですがオスマントルコ帝国史も好きです。
しかし、塩野七生女史はあまり好きではありません。
オスマントルコは異教徒(ユダヤ教徒等)に寛容だったところがビザンティンよりいいですね。

60:世界@名無史さん
01/12/18 22:28
オスマンもビサンツも最高!

61:世界@名無史さん
01/12/19 00:26
アンカラの戦い前後を詳しく知りたいなー
イエニチェリもティムールの騎馬軍団にはサパーリ
だったのかな。あと急速に復興した理由ってなに?

62:世界@名無史さん
01/12/19 00:32
>59
塩野女史の本の
「征服王マホメット一世がイタリア人画家ベリーニの前で実際に人間の
首を切ってみせた」
という話はヨタ話だと、
ギボンの『ローマ帝国衰亡史」の註に書いてあった。
おそらく西欧人がトルコ人への偏見からつくりだした
話だろう。

63:世界@名無史さん
01/12/19 00:48
>>61
アンカラの戦いの経緯はここが詳しいですよ。
URLリンク(plaza4.mbn.or.jp)
バヤズィトの時代はまだイェニチェリも数が少なく、
主力というよりは親衛隊だったみたい。

たった10年で再統一したというのもあるけど、
けっきょくオスマン朝の他にロクな勢力がいなかったからでしょう。
ビアンツもなーんにもしなかった(できなかった?)し。

64:世界@名無史さん
01/12/19 00:56
パレオロゴス朝の頃のローマ帝国に復興の目はなかったでしょうね。

65:世界@名無史さん
01/12/19 01:39
>>63
URLリンク(plaza4.mbn.or.jp)
このサイトは「戦術の世界史」のアンカラの戦いについて書かれたページですね。
>61氏が知りたいのはその前後ではないのか?

66:世界@名無史さん
01/12/19 22:50
チューリップ時代についてご説明下さい。

67:63
01/12/20 00:06
>>65
ああ、そうか…。
すいません。>61

バヤズィト1世はアナトリアに割拠していた小君候国を制圧し、
ヨーロッパ方面ではニコポリスの戦いで十字軍を撃破(1396年)、
コンスタンチノープルを断続的に包囲して圧迫していた。
ティムールのほうはすでにイラク・クルディスタンを占領しており、
インド遠征(1398-1399年)から帰還後、
グルジアに再進出して西方を伺っていた(1400年)。
はじめティムールはマムルーク朝と事を構えるため、
オスマン朝領のシヴァスを攻撃するに留め
コンスタンチノープル攻撃を「聖戦」とたたえて兵を退いた。
ティムールはダマスカスとアレッポを落し(1401年)
マムルーク朝を屈服させると
再び兵をアナトリアに向けアンカラの街を包囲、
バヤズィトはコンスタンチノープルの包囲を解いて
アンカラ救援に向い、こうしてアンカラの戦いが起きた(1402年)。
この戦いで、バヤズィト1世と末子ムサが捕虜になり、
離脱した長子スレイマンはヨーロッパ側の領土に逃走。
アナトリアのオスマン領の多くは元の君候に返還され再建
(コニヤのカラマン君候国、キュタヒヤのゲリミヤン君候国など)、
わずかに西アナトリアのブルサ周辺がイサ(バヤズィトの子)に、
北アナトリアのアマスィヤ周辺がメフメト(同上)に残された。
1403年に虜囚のバヤズィトが死に、ティムールが中央アジアに引き上げると
バヤズィトの息子たちの間で後継者争いが起こった。
1404年にメフメトがイサを破りアナトリアを制覇するが、
バルカン側のキリスト教徒を味方に付けたスレイマンに脅かされた。
対抗してメフメトはティムールの元から解放されてきた弟ムサを助け、
バルカンでムサはワラキア公やセルビア公の支援を受けて
スレイマンの根拠地エディルネ(アドリアノープル)を制圧(1410年)。
バルカン側のムサとアナトリア側のメフメトの間で決戦となり、
1413年にメフメト(1世)が勝利してオスマン朝の再統一が果たされた。

オスマン史概説書の語るところによると、こんな経緯。
ビザンツ側の対応についてはギボンの『ローマ帝国衰亡史』が詳しいです。

68:世界@名無史さん
01/12/20 07:16
>>63>>65>>67
詳しい解説ありがとう。アンカラ後のオスマンはやはり相当混迷してたんだねえ。
この機に成果を残せなかったビザンツは国家として寿命だったのか。最後のチャンス
だったのにね。

69:世界@名無史さん
01/12/21 11:59
救出あげ

70:世界@名無史さん
01/12/21 19:15
プレヴェザの海戦の経緯について教えて!

71:63
01/12/21 23:47
質問スレ化してない…?

>>66
平凡社の『イスラム事典』等で当該項目を調べられればよろしいかと。
なんでしたら引き写しましょうか?

>>70
簡単な経緯なら「戦術の世界史」にありました。
URLリンク(plaza4.mbn.or.jp)

72:世界@名無史さん
01/12/22 00:09
>>71
別に構わないでしょう。オスマン朝についてもっと知りたがっている人が
質問して71さんのような博識の方がお答えになる。
まあオスマン朝について語れる人がやや少ないのは残念ですが・・・。
何としてもこのスレは守らねば・・・。

73:世界@名無史さん
01/12/24 00:06
エウリヤ・チェレビについて語れるものはおらんか?

74:世界@名無史さん
01/12/24 23:57
age

75:世界@名無史さん
01/12/25 00:25
お隣に有ったキプチャク汗国も結構な大国で、ビザンチンやロシアにも影響を
与えてたと思うんだけど。
他の中央アジアの帝国と違って、全然取り上げられないのは何でなんだろ。
単純にオスマンの属国だったのかな?

76:世界@名無史さん
01/12/25 10:14
イル・ハーン国もたしかモンゴル帝国由来・・・
ここのガザン・ハーンはシーア派に帰依した。
モンゴル帝国のあとはティムール帝国で、その後
クリム・ハーン国
アストラハン・ハーン国
カザン・ハーン国
シベリア・ハーン国
ヒヴァ・ハーン国
ブハラ・ハーン国
などの小王朝が並立していた。

77:71
01/12/26 01:04
>>72
是非質問以外のネタください(w

>>73
エウリヤ・チェレビーというと17世紀の旅行家・著述家ですよね。
彼の旅行記は当時のオスマン朝領各地の貴重な情報なんですが、
記述に誇張が多いそうです。

>>75
キプチャク・ハン国はオスマン朝の属国ではないですよ。
ただ、キプチャク・ハン国の継承国家のひとつ
クリム(クリミア)・ハン国が15世紀から18世紀までオスマン朝の保護国でした。

>>76
ガザン・ハーンはスンナ派だったと思いますが…。
サファヴィー朝のイスマーイル1世と混同してませんか?

78:世界@名無史さん
01/12/27 00:36
キターブ・バフリエ

79:世界@名無史さん
02/01/01 12:52
age

80:世界@名無史さん
02/01/01 21:29
みんなの好きなオスマン朝のスルタンは?
僕はメフメト2世かな。
ビサンツファンには申し訳ないが・・・。

81:世界@名無史さん
02/01/01 22:29
スレイマンしかいないでしょう

82:世界@名無史さん
02/01/01 23:43
赤いスルタン萌え~

83:世界@名無史さん
02/01/04 21:17
文春文庫からでてる「チューリップ・
バブル」オランダの話かと思いきや
オスマン朝の話が三分の一くらいしめ
てました。面白いエピソードもかかれてる。
イギリスの人の書いた本なので、真実
かどうかはわからないけどチューリップ
時代の話ものってたYO!

84:世界@名無史さん
02/01/05 04:23
オスマンってヨーロッパ方面ばかり見て、アジア、アフリカの領土っておざなりだったよねー。
アラビア海からポルトガル船締め出す位やって欲しかった。
あと、アラブ人もきっちり抑圧しとけって。
そこが原因で今だ中東は混迷状態じゃねーか。

85:世界@名無史さん
02/01/05 09:36
オスマンに中東問題の責任はない!
エゲレスがいけない

86:84
02/01/05 17:02
>>85
ああ、もちろん責任なんてないよ。
でも、中東や北アフリカはオスマン内なのに、半独立政権の温床だったから。
エジプトのムハンマド・アリーやワッハーブ派に対して、きちんと対処してたら、列強も迂闊に果てを出せなかったのでは?と言いたいのだ。
もちろん、無理な話だろうが、、、

87:世界@名無史さん
02/01/05 18:12
>>86
オスマン時代にパレスチナ地区のユダヤ人を迫害してきたことが、
今日の火種のひとつじゃないか?

88:世界@名無史さん
02/01/06 23:40
>>87
そうなんですか?
オスマン帝国は寛容で
スペインを追われたユダヤ人が大量に流入したりと、
マイノリティにとって良い国だったようにしばしば言われますが、
実際のところどうだったんでしょ。

89:nasu
02/01/07 01:46
ottomann

90:世界@名無史さん
02/01/07 10:33
私も、オスマンは宗教に非常に
寛容だったから、ユダヤ人も暮らしやすかった
って聞いたよ。

91:世界@名無史さん
02/01/09 01:41
オスマン朝の過去スレッド

】】】】】】オスマン・トルコ【【【【【【 (50)
URLリンク(mentai.2ch.net)
>オスマン・トルコ< (41)
URLリンク(mentai.2ch.net)

92:世界@名無史さん
02/01/09 03:57
>>91に追加
オスマン帝国
URLリンク(mentai.2ch.net)

93:世界@名無史さん
02/01/09 05:52
>>91-92に追加
トルコのスレイマン国王について(51)
URLリンク(mentai.2ch.net)

94:世界@名無史さん
02/01/10 23:14
スルタン・ジェムについて詳しく記した本はないか?

95:名無し
02/01/13 02:28
鈴木薫氏ってどう?
法学部出身なのに歴史学にも詳しいの?

96:世界@名無史さん
02/01/14 01:44
オスマントルコは尚武の国だから、キリスト教徒とかユダヤに寛容なんでしょ?
しかもそれが技術者ならなお歓迎。

なんかアブラムシ飼うアリの帝国みたい

97:雷怒
02/01/15 14:15
>>95
十数年前に教えを受けました。
東大法学部の政治学科だったのではないでしょうか。(確か舛添洋一も)
それで現在は東洋文化研究所の教授でしたっけ?

98:世界@名無史さん
02/01/17 13:40
オスマン朝研究の第一人者って誰よ?

99:世界@名無史さん
02/01/17 14:38
>>90
ヨーロッパで迫害されまくって逃げ込んできたユダヤ人を、受け入れたから
感謝されたという話

100:世界@名無史さん
02/01/17 15:30
>>94
ないと思います。
文学ならあるかもしれませんが。

>>95
「薫」じゃなくて「董」です。
詳しいもなにもほとんど史学の論文しか書いてないと思います。
法学部出身どころか法学博士なんですが…。

>>96
オスマン宮廷では文学が盛んでしたよ。
ディーワーン詩、年代記、政治論など。
技術者や職人も異教徒ばかりではなかったようです。
建築家ミマール・スィナンは改宗ギリシア人だったかな。

>>98
日本の研究者ですか?
政治史なら鈴木董教授、社会史なら明治の永田雄三教授でしょうか。

101:世界@名無史さん
02/01/17 15:33
♂マンコルト

102:世界@名無史さん
02/01/17 17:02
♀マントコル

103:世界@名無史さん
02/01/18 12:42
やはりオスマン朝研究は東大系が強いのですか?
京大系は何が強いの?

104:世界@名無史さん
02/01/19 13:06
>>103
中央アジア史(ティムール朝とか)

105:高校生
02/01/23 17:48
私はオスマン朝に興味があり、大学ではオスマン朝を研究したいと思うのですが
大学はどこがいいでしょうか?
このスレを読む限りでは東大がいいみたいですが私では学力的に少し難しいと
思います。
ちなみに私は関西在住です。
国公立、私立全国どこでも構いません。
誰かアドバイスをお願いします。

106:名無し
02/01/23 19:08
筑波大学に小松香織さんがいる(今は知らん)。

107:世界@名無史さん
02/01/23 19:22
カラ・ムスタファのウィーン包囲戦についての解説キボーヌ


108:世界@名無史さん
02/01/24 12:30
>>105
大学院進学志望ですか?
それによっても変わってくると思いますが、
できるものなら東大を狙ったほうがよいと思います。
(特に地方の大学では)残念ながら
史料や文献に圧倒的にアクセスしにくくなりますから。

>>106
小松香織さん(トルコ近代史・海軍史)は今も筑波の専任講師です。

109:世界@名無史さん
02/01/26 21:02
どこか、オスマン朝ファン(大学の学術論文でもいいけど、そういうのじゃなく)
のサイトご存知ないですかね?

ヴァンデの反乱だってあるんだ。オスマンくらいアルと思うが

110:世界@名無史さん
02/01/27 00:10
>>109
ここくらいしか知らないですねぇ。
URLリンク(homepage2.nifty.com)

111:105
02/01/29 23:22
>>106>>108
レス遅れて申し訳ありません。
それと私の質問に答えていただきどうもありがとうございます。

そうですか、やっぱり東大がいいですか・・・
実は私は現在高2で今年から受験生です。
東大は難しそうですが一生懸命頑張ってみようと思います。
できれば大学院にも進学したいですね。
史学科の大学院は大変と聞いていますが・・・

でも歴史資料って各大学に保管されているものなんですよね?
関東なら東大ですけど、関西はやっぱり京大が有名なんですか?
他にも資料が充実している施設にはどんなものがあるんですか?
オスマン朝だけでなくイスラム史全般についてお聞きしたいです。
何度も質問して申し訳ありません。

112:108
02/01/30 00:41
>>111
オスマン史研究者が教官として在籍する大学であれば、私の知る限り、
東大、筑波、東京外語大、明治、立命館、関西大、桃山学院などがありますが、
院まで視野に入れるのであれば、しっかりとした史学の講座がある大学で、
しかもトルコ語やアラビア語・ペルシア語が勉強できるところが良いでしょう。
東大はベストというだけであって、絶対ではありません。
さしあたり思い付く限りでは、京大と慶応。
それから、神大や九大でもできるかもしれません。

そういえば、105さんは関西在住ということですが、
東大系のイスラム研究者多数参加の公開講演会が今度の週末に竜谷大学であります。
行ってみると雰囲気が掴めるかもしれません。
URLリンク(www.l.u-tokyo.ac.jp)

>でも歴史資料って各大学に保管されているものなんですよね?
研究者が個人的に所蔵しているものにお世話になることもあると思いますよ。

>他にも資料が充実している施設にはどんなものがあるんですか?
国会図書館の分館として、東洋文庫があります。
URLリンク(www.toyo-bunko.or.jp)
関西だと、(イスラムなら)京大の羽田記念館かな。
URLリンク(www.bun.kyoto-u.ac.jp)

113:クレアラシル
02/01/30 00:48
ユダヤにもキリストにも寛容だったって、
商業のhattenに利用して税収で儲けたって見方もできる?
どうだろ。

114:YP
02/01/30 01:01
今更こんな事を書き込んでなんだけど、あそこまで色んなフォーマットが入
り乱れて600年も運営出来たのは凄いと思う。

来年度、早稲田二部聴講生の東洋史ではオスマン帝国の扱いってどれくらい
なのかな? 2/1にならなきゃ判らないみたいだけど。

115:世界@名無史さん
02/01/30 01:37
>>113
異教徒に対する寛容はもともとイスラム世界共通の現象ですけどね。
結局、オスマン朝の場合はビザンツやバルカン諸国の故地を基盤に成立したため
イスラム国家であるにも関わらず、住民のほとんどが異教徒だったという点が
特異であるというだけのこと。
もちろん、商人としてアルメニア人、ギリシア人、ユダヤ人が活躍したのも確かです。

>>114
早稲田二文にはオスマン史を扱う講義はないかも…
(そもそも文学部にイスラム史の教官がいないはずです)。
でもそのぶん内陸アジア史は期待できると思いますけど。

>>107
資料手元にないし、後日…。
でも第二次ウィーン包囲は専用スレなかったっけ?

116:YP
02/01/30 01:42
>>115
ゲゲゲゲゲゲ・・マジっすか・・ 
勉強したい大本命だっただけに萎えるなぁ・・
(無知な俺が悪いんですけどね)

117:クレアラシル
02/01/30 02:45
>>115
確かにそんな背景で非寛容な政策ならすぐ滅びそうだなー。
王族もいろんな民族の血が混じってるし。

領土内に対しては寛容だったと思うけど、
領土外にはやっぱり暴虐だったイメージはある。
キリスト教圏はどっちでも異教徒には非寛容的な気はする。
漠然としたものだけど。

118:世界@名無史さん
02/01/30 02:58
ハプスブルグやら他の王朝の子孫は聞くけれど。
オスマンの子孫はなにしてるの?


119:クレアラシル
02/01/30 03:38
>>116
手元の本を見たらカラ・ムスタファは野心家で残忍で精力絶倫だったらしい。
あんま関係ないけど(笑

120:世界@名無史さん
02/01/30 06:15
>>117
青年トルコ->ケマル以降の極端な民族政策(アルメニア人大虐殺・ギリシャ人交換・
クルド人弾圧)というのがあるので、逆方向のバイアスをかけて見てしまう傾向
があるのかもしれません。


121:115
02/01/30 23:42
>>116
早稲田の文学部のHP見たら講義要項掲載されてましたけど。
いちおう「イスラム史」って枠はあって、
2001年度はお茶女の三浦徹教授が担当で
イスラム社会史を講義してたみたいですね。

>>117
オスマン朝ってキリスト教徒の外国に対するときは、
和平時はカピチュレーションを与えて優遇してますが、
戦争のときは略奪専門の不正規騎兵を投入したり。
実状としては、オスマン朝に限らずですが、
異教徒と見たら即弾圧、みたいな狂信者は
そうそういなかったんじゃないかと思いますけど。

>>118
1924年のカリフ制廃止のときに
50年期限の国外追放処分を受けたようです。
現在は1974年以降に帰国してイスタンブールで暮らしている者、
追放先の外国で定住した者などいろいろ。
現オスマン家当主はニューヨーク在住とか。

122:クレアラシル
02/01/31 15:25
>>120-121
ふむ。
現代の原理主義や民族主義を見てるからイメージとしてね。
ちなみにもっと色眼鏡で見てしまうのがティムールやモンゴルなんだけどさ・・・。

レコンキスタのイベリア半島でアラブ人がオスマンのキリスト教徒みたいに
優遇されたという話を聞かないし、
回復後にほどなくしてユダヤ人追放に働きかけているという例もあるので、
やはりオスマンは異教徒には寛容なんだろうな。

戦争で略奪云々は仕方ないが。

123:世界@名無史さん
02/01/31 21:05
「イスラム世界は異教徒に寛容」って本当なの?



124:YP
02/02/04 01:12
>>121 さん
2002年度、早稲田ニ文開講科目のイスラム関連講議は
『イスラム史 :三浦徹』 
『イスラム教概論 :野元晋』
この二つですね。この両氏について御存知ですか? 
(って別スレの話になってしまいますが、流れ上許容して下さい)
まあ、二つとも6時限目の講議では会社帰りにはちょいキツイので、
7時限目にある『モンゴル史 :永井匠』に落ち着きそうです。
あとは、適当にモグリで受講しやす。

125:121
02/02/04 18:28
>>123
手放しで「寛容」とは言えないかも。
イスラム国家のもとには、
近代的な意味での信仰の自由があったわけではありませんから。
あくまで、イスラムにとって許容可能な他宗教の信徒に
信仰の自由と一定の自治を認めるだけ。
それも狂信的な支配者が出れば脅かされる運命。
(たとえば、ムガル朝のアウラングゼーブ帝)
結局イスラム教が「寛容」だったのではなく
イスラム世界に多宗教が「共存」できるシステムがあった、
ということなのかもしれません。

>>124
三浦先生はイスラム都市研究者、
野元先生はイスラム思想史の研究者です。
政治史は期待できないかもしれませんね。

126:YP
02/02/07 01:28
>>125 さん
あ、どもども! レスありがとうございました!
(お礼遅れて失礼しました)

以前、大島直政著「遠くて近い国トルコ」(中央新書)を読んだのですが、
面白かったです。
オスマン朝の通史もざっと書いてあるし、熱っぽいトルコ人の細部描写も多々
有りで、読み易く名著だと思います。
で、奥付の著者経歴見てビックシ! 25~6才頃に書いた本・・
俺より若くして書いた本じゃーん!!
それもトルコ自体、今よりずっと遠い国であったろう60年代。
で、7年前に他界されてる・・・・・。

めちゃんこせつなくなった・・

QUEENにハマって直ぐにフレディ・マーキュリーが死んだ時の感覚になん
か似てる。
そういや、フレディもトルコ系ナイスガイの顔してますよね。
確か、チュニジアだかアルジェリアだかの生まれだったような記憶が・・

127:世界@名無史さん
02/02/09 16:10
ageage

128:世界@名無史さん
02/02/09 16:59
ageられたので貼っておこう。

「なんでトルコ人の日本びいきは継続しているの?」
スレリンク(kokusai板)

382の毒電波を楽しむスレ。


129:世界@名無史さん
02/02/09 17:19
>>126
大島直政さん亡くなったんだ。
漏れもこの本読んだよ。   合掌

それからフレディーのボーカルは最高でしたね! 合掌

130:雷怒
02/02/09 19:00
>>126
フレディーは確かマダガスカル出身のペルシア(イラン)系と
聞いたような。

131:世界@名無史さん
02/02/09 19:44
>YPさん >129さん
大島直政さんのケマル・パシャ伝(新潮選書)はお読みになられましたか?
あの熱さと冷静さが入り交じった文体で、読み終わると誰もがケマルを
好きになるとゆう、日本人の書いた伝記の最高傑作と思われる逸品です。
残念ながら現在、絶版ですが図書館か古書店で見かけられたら、ぜひ御一読を。

―私も 合掌


132:世界@名無史さん
02/02/12 00:19
故・大島直政さんというと、私には『エクスプレス トルコ語』の序文で
「トルコ語は日本語の方言だと思って勉強すればよろしい」って
暴論を書いてたというところで印象強い方なんですが…(w

>>126
『遠くて近い国トルコ』は
著者のトルコに対する愛着がひしひしと感じられる本ですよね。
今となってはトルコ贔屓の日本人はそんなに珍しくなくなりましたが、
何といっても60年代…。

>>131
大島さんには『複合民族国家キプロスの悲劇』(新潮選書)という本もあります。
こちらも絶版だったと思いますが、
キプロス紛争を扱った(おそらく)唯一の単行本です。
少々トルコ寄りの感は否めませんが(ギリシア人側にも目配りはしています)。

『ケマル・パシャ伝』は日本人のケマル好きにかなり影響を与えてるんだろうなあ。
名著ですが、やはりトルコ人の視点に偏りすぎ、
トルコ共和国の公式歴史観に肩入れしすぎという面がありますね。

133:世界@名無史さん
02/02/24 17:45
救出上げ



134:YP
02/02/28 00:23
ギリシアは他力で独立しても先人頼りの観光業しか出来ないじゃんか?
まったくいい迷惑。 あげ

135:      
02/02/28 00:24
トルコと連合してロシアを倒そう!


136:駄レス野郎
02/03/04 17:12
各時代のオスマン朝の強さについて論じてみよ。
例えば1500年ごろは世界第何位の強さだったかとか。

137:世界@名無史さん
02/03/04 22:21
強さってどうやって算出するんだ…。

138:世界@名無史さん
02/03/20 16:31
オスマン朝最強!

139:世界@名無史さん
02/03/26 15:53
あげ

140:世界@名無史さん
02/03/26 17:35
>138
そう。最強なりよ。

141:世界@名無史さん
02/03/26 17:40
いまさら言うのもなんだが、
>>41,>>44
こいつ何様のつもりだ?

142:世界@名無史さん
02/03/26 19:36
シルクロードシリーズ読んだんですけど、
アフメト3世の息子の誰かに「揺れ動いていたオスマン朝を安定させ後世に名君として評価される統治をした」スルタンはいたのでしょうか?

143:世界@名無史さん
02/03/27 02:25
アブデュルハミト1世のことかな。在位は長くないが、
キュチュク・カイナルジャ条約を結び先代の始めた無謀な露土戦争を終結、
西欧人の軍事顧問を招いて軍事改革に先鞭をつけたスルタン。
本格的な軍事改革は孫の代のマフムート3世の仕事(イェニチェリ廃止)ですが…。

ところで、シルクロードシリーズってなんですか?

144:世界@名無史さん
02/03/27 13:15
>143
お答えいただきありがとうございました。

『シルクロードシリーズ』というのは、神坂智子氏が描かれた少女漫画です。
10人の(不老の)天人とシルクロードの関係が縦軸の物語で、
ローランの少女ミイラやソグド人の国の滅亡、蚕の繭を髪に隠して持ち出した姫やはては北京原人にまつわるエピソードを織り成したものです。

145:世界@名無史さん
02/05/03 21:19
保全上げ

146:世界@名無史さん
02/05/03 21:58
>>144
野郎ですけど、神坂智子は好きだったな。
T.Eロレンスとか
小春びよりとかはるかなるシルクロードシリーズなんかよかったねー
ソグディアナを知ったのはあれが最初だったわ・・・・。



147:世界@名無史さん
02/05/13 22:18
ageaaaaaaaaaa

148:世界@名無史さん
02/05/14 00:57
>>146
またあのあたりの旅行記出してるよ

149:世界@名無史さん
02/05/29 22:27
age

150:C級グルメ
02/05/30 00:13
この前トルコ料理を初めて食った。
トマトの使い方がイタリア料理みたいに感じた。

アラベスクつうのは「アラビヤ風」と言うより「トルコ風」なんじゃネエか?
等と思った。


151:世界@名無史さん
02/05/30 00:56
>この前トルコ料理を初めて食った。
>トマトの使い方がイタリア料理みたいに感じた。

そのセンスは正しいと思う。

トルコ料理には、ピザの原型って言われているものもあるよ。
タイトルコ貿易の入口だったイタリアの料理には、トルコ料理の影響が
入っているはず。


152:トマトは
02/05/30 06:27
中南米原産だべ

153:トルコは
02/05/30 06:28
アラブ文化の影響強いんだよ

154:ピザは
02/06/02 05:44
やはりナンあたりが源だろ

155:ピザは
02/06/02 05:45
インドーアラブートルコーイタリアかな。
シチリア経由もあるかな。

156:世界@名無史さん
02/06/16 12:37
age

157:世界@名無史さん
02/06/19 08:55
なんで西欧と張り合っていけなかったんだ・・・。
謎謎謎。

158:世界@名無史さん
02/06/19 09:24
一般的に説明されるオスマン朝停滞の原因は、
インド洋貿易の利益を西洋諸国に奪われたこと、
オスマン朝の内的な経済・軍事の発展が
近代西欧の飛躍的な発展に対してあまりにも小さかったことと、
大国であることに安住して改革の気風が小さかったこと、
などなど…。

159:世界@名無史さん
02/06/23 00:29
戦勝祝いage

160:世界@名無史さん
02/06/23 00:41
全身が末期癌に冒され,死の床にある石田トメ吉(96才)
最後の力を振り絞って,人工呼吸器を外し,
『死ぬ前に寿司が食いたい』と訴えた

『固形物なんか食べれるわけない』と大反対する医師団を無視して
曾孫娘のさやかが
『おじいちゃん,ポテチ食べる?』
と無理矢理ポテトチップス一枚食べさせた

さやかの愛の力が奇跡を起こし,
ポテチが気管に詰まって,トメ吉即死



161:世界@名無史さん
02/07/04 14:12
オスマン最強

162:YP
02/07/07 01:21
今、レンタルビデオ屋で借りた『ラスト・ハーレム』という映画を
観てます。 
が、ハーレム内部もいいのですが、俺は都市の外観が観たいのだ。
う~む、あまり世界史観点で期待出来る観る映画じゃないが、ヒロ
インは超ベッピン。

163:世界@名無史さん
02/07/24 02:51
>>162
私もそれ映画館で見ましたよ。
落日のオスマン帝国を描いたっていうから期待してたんですけど、
たいした盛り上がりもなく、正直つまんなかったっす。

でも、たしかにヒロイン役はかなりきれい。
しかも脱ぎ脱ぎしてたし。
URLリンク(www.lancome.com)
URLリンク(www.lancome.com)

164:世界@名無史さん
02/08/17 05:27
唐揚げ

165:世界@名無史さん
02/09/05 12:42
帝位継承者以外の王子たちは、皆殺されてました。
後になると、殺すのだけはやめて、トプカプ宮殿の一室「王子たちの間」という部屋に
生涯幽閉されました。
よって、オスマン帝国には貴族らしきものは無かったのです。

166:世界@名無史さん
02/09/05 13:15
URLリンク(www.ethnologue.com)

167:世界@名無史さん
02/09/16 03:21
同時代の明やスペインより遙かに上だし後代のイギリス以上だろう(米、墺、露、清は論外)。
前時代の漢、唐、ビザンティン、アッバース朝より上な訳で辛うじて比肩し得るとしたらローマ位の物だと思う。


168:世界@名無史さん
02/09/16 03:39
>>167
故意にモンゴルを落している罠

169:世界@名無史さん
02/09/16 03:48
アレクサンダーの帝国っていうのもある罠。

170:世界@名無史さん
02/09/16 16:58
歴史りんく
URLリンク(www.rekisi.nu)

171:世界@名無史さん
02/09/18 03:30
>>167
ティムールは?

172:世界@名無史さん
02/09/18 10:08
>>167
清は論外か?全盛期の清はオスマンにも引けを取らないと思うが。
ティムールは若くて怖いもの知らずで血気盛んな頃のオスマン帝国の鼻っ柱をポキッと折ったボスキャラ。

173:世界@名無史さん
02/10/06 11:26
あげ

174:世界@名無史さん
02/10/06 12:03
前近代においては,国力=人口だと思うので,
統一された中国(便宜的な言い方です,茶々入れないでね.)
には,勝てないでしょう.

軍事力だけとかそういうならば別ですが.

個人的には,前近代においては,ローマ以外
統一された中国に比肩し得る国はないと思います.

175:世界@名無史さん
02/10/23 22:04
スンニ派の全てのイスラム国家は、
オスマン帝国を宗主国として認めていたの?
モロッコやムガールやアチェやブハラ・・・

176:世界@名無史さん
02/10/25 19:47
モロッコは1578年に一時的に認めてたりするが、
ムガール帝国とか中央アジアとか旧モンゴル系はどうなんだろ。
オスマンに勝ったティムールの系統だったりするからなあ。


177:世界@名無史さん
02/10/25 22:15
ブハラやヒヴァはオスマン朝をカリフと認めることもあったようですよ。

178:世界@名無史さん
02/10/26 04:07
ソープランドを昔トルコと言っていたよね
(トルコからの抗議で改名)
イスラム圏にはあーゆーものがあったの?

179:世界@名無史さん
02/10/26 04:08
URLリンク(www.hotcindi.com)

180:世界@名無史さん
02/10/26 10:57
>>178
トルコ風のあかすりサービス付のサウナ風呂にひっかけて
ああいうサービス付の風呂のことトルコって言ってたんだよ。
まあ怒る罠。

181:世界@名無史さん
02/10/26 11:30
ローマでさえ統計的には漢に一歩譲ってるからね。

182:世界@名無史さん
02/10/30 03:41
>>176
中央アジアの各ハン国はオスマン帝国を宗主とみていたらしい。
アストラハン=ハン国とカザン=ハン国がロシアに滅ぼされた時、
オスマン帝国がロシアを撃退するつもりだったらしい。
タイミング悪くこの頃スレイマン大帝は死去。

183:世界@名無史さん
02/10/31 01:27
オスマン帝国の領土の南限は?



184:世界@名無史さん
02/10/31 01:34
アラビア半島の南端

185:世界@名無史さん
02/10/31 01:41
イエメンね。

186:世界@名無史さん
02/10/31 10:14
地図だと赤道付近は小さくなるから気付かないけどオスマン帝国なにげに超巨大だったりするな。


187:世界@名無史さん
02/10/31 19:46
>>186
そうだけど、イエメンはごく短期間しか支配してないし、
エジプト以西は現地の有力者を利用した間接的統治、
ヒジャーズ・クリミア・ワラキア・モルダヴィア・トランシルヴァニア・コーカサスは
現地の君主に服属を認めさせただけの間接統治。
実は中央政府の支配が安定して及んでいた範囲はそんなに広くなかったりする。

188:世界@名無史さん
02/10/31 19:57
アンダルス(イベリア半島)を奪還する計画は無かったの?

189:世界@名無史さん
02/10/31 20:59
>>187
近代以前の帝国ってどこもそんなもんじゃないの?

190:世界@名無史さん
02/11/01 02:41
ハプスブルクやサファヴィー・ロマノフなどライバル王朝の帝国と一緒で直轄地が少ないな。
あの広さを当時の技術で全域統治するのは無謀だが。

191:世界@名無史さん
02/11/01 13:29
だから巨大化した帝国は近代に列強に地方が切り離されたり租借されたりという自体が起こったんだよな。
実はその土地の政権の宗主が移っただけという。

192:世界@名無史さん
02/11/01 21:19
>>188
そんな話はついぞ聞きませんね。なかったんじゃないかな。

193:世界@名無史さん
02/11/02 02:20
>>191
バルカン半島の宗主
トルコ→オーストリア→(フランス・イタリア)→ドイツ→ソ連(→アメリカ?)

194:世界@名無史さん
02/11/04 01:48
>>188
よく知らんけどセリム2世がキプロスを取ったのは進出方向をドイツ方面から地中海方面に転換する政策を採ったかららしい(その所為でレパントの海戦が起きたのは有名だが)。
そのきっかけはイベリアのイスラム教徒の反乱と関係があるとかどっかで読んだ。

195:世界@名無史さん
02/11/24 02:39
age


196:世界@名無史さん
02/12/11 14:23
age

197:世界@名無史さん
02/12/14 14:24
イエニチェリの事を知りたいのですが
どんな本がオススメでしょうか?
教えてください

198:ll
02/12/14 14:26
URLリンク(digikei.kir.jp)

199:世界@名無史さん
02/12/14 20:15
○ムーク朝がイベリアに食指を示さなかった事の方が気になる。

200:世界@名無史さん
02/12/15 05:11
>>197
鈴木菫先生の『オスマン帝国 イスラム世界の柔らかい専制』(講談社現代新書)の
第七章「人材吸収・養成のシステム」が比較的詳しい記述でしょうか。
もっともこの本にあげられた情報もやや詳しいというくらいで、
オスマン朝史に関する概説書ならたいてい取り上げている程度とあまりかわらないかも。
歴史の概説書ではありませんが、軍事史的な取り上げは
メンアットアームズの『オスマン帝国の軍隊』(新紀元社)。
それから『戦略戦術兵器事典3 ヨーロッパ近代編』(学研)に
「知られざる軍事先進国オスマン帝国の実力」という6ページほどの記事を
先述の鈴木先生が寄稿しています。
洋書では私は読んだことがないので内容の保証はできませんが、
『オスマン帝国の軍隊』の著者 David Nicolle と
主にイスラム建築史の本を書いているらしい Godfrey Goodwin という人がそれぞれ
同名の The Jannisaries という本を書いているようです(Amazonで買えます)。

>>199
マムルークはわりと近いキプロス王国には干渉していたようですし、
イベリアは遠いからじゃないですかね。

201:v
02/12/15 05:47
URLリンク(yahooo.s2.x-beat.com)

202:世界@名無史さん
02/12/15 06:19
>>188
遅レスで申し訳ないが、オスマン帝国がイベリア半島から撤退したのは、たしか宰相が代わったから、
地中海からペルシャ方面への政策の転換があって云々ってのを聞いたことがある。

近世のオスマン帝国なら、フェエルナン=ブローデルの『地中海』でしょ。

203:世界@名無史さん
02/12/16 19:46
イベリア半島がオスマン『帝国の領土だったこと無いのに
「撤退」とはこれいかに?

204:世界@名無史さん
02/12/16 20:46
>>203
失礼しました。「イベリア半島」ではなく「地中海方面」です


205:世界@名無史さん
02/12/17 21:02
正直ビザンティンヲタにとってこの国と西欧どっちが憎いと思っているのかな?


206:世界@名無史さん
02/12/19 17:18
>>200
ご親切に、ありがとうございます
『オスマン帝国 イスラム世界の柔らかい専制』と
『オスマン帝国の軍隊』買いました

207:世界@名無史さん
03/01/02 22:11
 でもイベリアは、イスラム勢力圏でしょ?。
スパニッシュだって、イスラム系民族との混血だし。
ま、民族ではなく、この場合は「宗教」か。

208:世界@名無史さん
03/01/02 23:31
イベリア半島にはイスラムの技術があったから大航海が出来たという説があるね。

209:山崎渉
03/01/11 13:13
(^^)

210:世界@名無史さん
03/01/13 09:05
>>205
でもコンスタンツ総主教はオスマン下でもきっちり保護されてるし....
オーストリア領の正教会も保護されたんだっけ。
正直漏れも疑問だ。

211:世界@名無史さん
03/01/23 17:43
現代でカリフにふさわしいのはビンラディンだけ。

212:世界@名無史さん
03/01/23 17:58
たまにあがったかと思えば…

213:世界@名無史さん
03/01/23 18:16
>>205
オスマン帝国。
俺がイスラム教嫌いだってのもあるけどね。

214:世界@名無史さん
03/01/31 20:58
去年、山川から小松香織女史のオスマン海軍に関する本が出てたけど、
誰か読んだ?
内容はどんなもんかねぇ?

215:世界@名無史さん
03/02/10 20:29
持ってる人もいるかもだけど、
『オスマン語文法読本』というのがでたらしい。
URLリンク(bookweb.kinokuniya.co.jp)

最近の大学書林は何か凄いな・・・
ペルシア語辞典、さすがに8万も出せんけど(汗

216:世界@名無史さん
03/02/13 06:09
オスマン朝の末裔は今何してるの?

217:世界@名無史さん
03/02/21 15:51
>>216

 知り合いの在米トルコ人は、当主は「オスマノウル」姓を名乗りニューヨークでピザの宅配をやっているとか言っていた。
でも、この知り合い自体が胡散臭い奴なのでこいつの言っている事を100%信じる気にはなれないが。。。

218:世界@名無史さん
03/02/28 10:10
>>215
女房を質に入れてでも買え。
大学書林が黒字経営してくれないと、
我輩が心待ちにしているボスニア語対訳教材(CD付き希望)が出ない。
イヴォ・アンドリッチ希望。

219:世界@名無史さん
03/03/05 23:33
オスマン朝の文化ですが、結構ペルシア文化の影響受けてましたよね?
サファヴィー朝とは敵対していたけれど。

220:世界@名無史さん
03/03/06 23:49
サントリー美術館の大トルコ展に行く人いる??

221:世界@名無史さん
03/03/07 23:47
ナポレオン戦争でオスマントルコがどんな行動をとっていたか知りたいです。
詳しい方、いらっしゃいませんか?

222:世界@名無史さん
03/03/08 00:54
>>221
まず、ナポレオンのエジプト遠征のときには、フランスとオスマン帝国は
友好関係にありました。
当時のエジプトは、当時のエジプトは、一応オスマン帝国の版図に入っていた
ものの、実際の統治権はエジプト在住のマムルークに握られていて、ナポレオンは、
マムルウク族に簒奪されているトルコの統治権を回復し、エジプトを解放するための
ためという名目で出兵しました。



223:221の続き
03/03/08 01:01
その後、ロシアはナポレオンのエジプト遠征の報が伝わると、自国の
勢力圏内にあるコンスタンチノープルが脅かされると考え、オスマン帝国に
共同防衛を申し入れました。
ナポレオン側からの親書を受け取っていたオスマン帝国のセリム三世は、
慎重に事態を見守っていましたが、八月一日アブゥキール海戦での
フランス艦隊全滅の報を聞くなり、ロシアの提案を受諾しました。
九月九日、オスマン帝国は、秘密同盟に後押しされてフランスに宣戦を
布告します。



224:世界@名無史さん
03/03/08 01:08
眠いのでミスっちゃいました。
上は「222の続き」の間違いです。
スマソ。

225:221
03/03/08 01:23
222さん、有り難うございます!
トルコは、もうおもいっきりナポレオン戦争に関わっていたのですね。
勉強になりますm(__)m

226:世界@名無史さん
03/03/08 02:02
まだあります

1809~1812 第三次露土戦争

戦争と平和にもちょろっと出てきます
私もそういう戦争があったとしか知りません
URLリンク(www.napoleonseries.org)
上記サイトに経過が載っています

227:世界@名無史さん
03/03/08 12:33
1768~1774 第一次露土戦争
1787~1792 第二次露土戦争

>>221
ところで、ナポレオンとムハンマド・アリーは同時代人なのね。
ムハンマド・アリーは、1798年のアブーキール湾海戦の際、アルバニア人部隊
の一部を地上で指揮していた。

228:オスマンコ馬鹿は、これを読め
03/03/08 19:37
推奨サイト:コンスタンティノープルはギリシャの領土です。

URLリンク(www.geocities.com)




229:世界@名無史さん
03/03/08 21:26
フランスとオスマン帝国は、ハプスブルク家を共通の敵とする理由により、
フランソワ1世(1515-1547)の時代以来、おおむね友好関係にあった。

230:山崎渉
03/03/13 13:11
(^^)

231:世界@名無史さん
03/03/15 01:20
age

232:世界@名無史さん
03/03/25 17:40
【情勢】米海兵隊のオスマン少将が到着、北部に戦線拡大の兆し

1 :んじゃそれで。φ ★ :03/03/25 10:25 ID:???
イラク・サラハディン(CNN) イラク戦争で英米などの軍や地元勢力との調整などを担当する
米海兵隊のオスマン少将が24日、イラク北部入りした。この動きは、イラク北部での戦線が
拡大する兆しと受け止められている。
URLリンク(www.cnn.co.jp)





233:世界@名無史さん
03/03/25 21:22
age

234:
03/03/31 00:48
世界史の教科書だと大体、現在のサウジの領土がオスマントルコの領土から
外れているんだけど、何処が支配していたの?

235:世界@名無史さん
03/03/31 02:18
>>234
メッカのあるヒジャーズはメッカ大公領でオスマンの宗主権(それ以前はエジプトの王朝の宗主権下)。
ペルシャ湾岸地区は部族地域。その中から現在のカタール、バーレーン、クウェートの王家が出てくる。
中央部は長い間統一権力から見放された群小の町邑国家。
その閉塞感から生まれたワッハーブ派がリヤド候国と結び付いたのが現在のサウジの起こり。
ヒジャーズとイエメンの間のアシールは独立していた時期もあったと思うが詳しくは知らん。

236:世界@名無史さん
03/03/31 03:35
あのー、イラク問題っていうのは、オスマントルコの分割が原因なんですか

237:
03/03/31 09:34
>>235
つまり、アラビア半島中央部は小規模な部族社会が続いていて、オスマン帝国も
あえて支配下には治めなかったってことかな?

238:世界@名無史さん
03/03/31 10:54
ヒジャーズ以外はわざわざ支配するほどの価値があったとは思えない。

>>236
それだけではないが、大きな要因。

239:世界@名無史さん
03/03/31 20:44
16世紀のオスマン朝はヒジャーズのほかにも
イエメンとエチオピア沿岸部(エルトリアというべきか)を
おさえようとしてますから、
対アラビア半島政策は紅海貿易ルートの保護を目的としていたようですね。
イラクはというとイラン方面の防衛線として重要だから押さえているという感じ。

240:世界@名無史さん
03/04/01 04:27
>>239
ペルシャ湾岸は貿易ルートとして重要。
ハサー地方(UAEの手前)辺りにまで影響力は延ばしていた。

241:世界@名無史さん
03/04/02 19:02
全般的に勉強できるホームページをキボン

242:世界@名無史さん
03/04/02 19:37
>>241
まずはここで気合いを入れろw
URLリンク(www.osmanli700.gen.tr)

243:世界@名無史さん
03/04/02 20:27
>>241
日本語では存在ないですね。多分。

>>242
そこの上層のURLリンク(www.osmanli700.gen.tr)
全般的に勉強できるホームページといえるんじゃないでしょうか?
トルコ人の作ったところらしいが英語版もありますし。

244:世界@名無史さん
03/04/04 02:31
>>242
>>243
無理です。

245:山崎渉
03/04/17 09:48
(^^)

246:山崎渉
03/04/20 04:51
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)

247:世界@名無史さん
03/05/07 00:00
コソヴォの戦が、1389年、1448年の60年も隔たって2度も戦われたのはどうして?

248:世界@名無史さん
03/05/07 01:24
>>247
単に同じセルビアのコソヴォ平原で戦われただけで別々の戦争ですが。
1389年はコソヴォでオスマン朝がセルビアを破った戦い。
1448年はセルビアに侵入したハンガリー軍をオスマン朝がコソヴォで撃退した戦い。

コソヴォが二度決戦の部隊になった原因は
ここがセルビア攻防の戦略的要衝だからでしょう。
672年の壬申の乱と1600年の関が原の戦いが
ともに関が原で決戦が行われたのと同じ理由で。

249:世界@名無史さん
03/05/07 02:00
>>248
壬申の乱の決戦は大津京手前の瀬田橋
不破の関は大海人皇子の本陣ではないか

同じ場所と言うとタンネンベルクとか川中島とかもありますね

250:パシッチ ◆mWYugocC.c
03/05/08 10:22
>>247-248
二度じゃなくて三度です。
1915年、第一次大戦に参戦したブルガリアが、セルビア軍を破った戦い。
どれも東側が勝ってるんですよね。

251:世界@名無史さん
03/05/10 15:06
>>248
>ここがセルビア攻防の戦略的要衝...
から、どうしてセルビア人は退散して、アルバニア人に土地を譲ったのですか。

252:248
03/05/10 19:58
>>251
通説によると…17世紀末のオーストリア・オスマン戦争の際
一時はベオグラードを占領したオーストリア軍の更なる南進を期待して
ペーチ(現在はコソヴォ州西部の小都市)にいたセルビア総主教が
このあたりのセルビア人を焚きつけてオーストリア側に参戦。
ところが結局ベオグラードはオスマン側に奪還されてしまい、
コソヴォのセルビア人は大挙してオーストリア領に入って
セルビア北部ヴォイヴォディナの国境緩衝地帯に移住し、
さらに18世紀前半には20年ほどベオグラードがオーストリア領に入った時期もあり、
北への移住がますます進んで代わりに南からアルバニア人が入ってきたそうです。
ペーチ総主教座は18世紀後半に廃止されているので、
そのころにはセルビア人がほとんどいなかったのではないでしょうか。

>>249
壬申の乱勘違いしてました。
恥ずかしいのでsage

253:世界@名無史さん
03/05/11 23:26
どうしてイェニチェリやデウシルメ制で集められる人は
キリスト教徒であって、ユダヤ教徒やアルメニア人は
免除?あるいは除外?されたのですか?
教科書にはそう書かれているけれど理由がわからない。

254:世界@名無史さん
03/05/12 00:47
>>253
ユダヤ教徒やアルメニア人の土地はまるごと確保しているので不要。
ところが、キリスト教徒は、背後のロシアやオーストリアやベネツィアと結びついて
反乱を起こす可能性がある。
一種の人質として有力者の師弟を徴発してきているから、離反の可能性の高いところ
からは重く、可能性の低いところからは軽く、集めることになっているのでは?


255:世界@名無史さん
03/05/12 23:58
>>253
デヴシルメを行っていた頃のオスマン朝バルカン農村の徴税単位は
青年既婚男子とその扶養家族からなる戸を単位としてたことから考えると、
デヴシルメによる未婚男子の徴収(一人っ子は除外)というシステムは
キリスト教徒農村からの余剰人口吸い上げという面があったのではないでしょうか。
この地方ではユダヤ教徒もアルメニア正教徒もほとんど都市民ですから、
あんまり関係なかったのではないかと。全くの憶測ですが。

>>254
デヴシルメ制が確立されたとされるムラト1世~バヤズィト1世の時代は
東アナトリア・南コーカサスにはティムール朝の勢力が及んでいましたから
アルメニア人居住地帯はまるごとどころかほとんど確保されていないし、
バヤズィトの遠征には没落時のアンカラの戦いに至るまで
(1389年のコソヴォの戦い以来オスマンの臣下になった)セルビア君侯ら
多くのキリスト教徒軍が参戦してることを考えると
キリスト教徒警戒論には少々無理があると思います。
ちなみにデヴシルメが大々的に行われ対外戦争が盛んだった16世紀ですら
バルカン地方には多くのキリスト教徒スィパーヒー(騎士)がいました。
支配階層・軍隊からのキリスト教徒の締め出しが強まるのは
むしろデヴシルメ制度が衰退した17世紀以降の現象であるようです。

256:世界@名無史さん
03/05/13 15:43
うわぁ、ありがとうございます。
確かに、農村からですものね
ユダヤ教徒は都市民だわ、うん。
イェニチェリに入っても弱そうな感じはするんだ。

面白い制度だなって思ってるんです
詳しい本ってありますかね?
「デウシルメ制があった」くらいのことしか書かれてない本しか
いまだに読んだことのない未熟者からの質問です。

257:世界@名無史さん
03/05/13 16:57
中世にはキリスト教徒は野蛮で無教養だったから
強健だというだけのことじゃないの?
日本でも防人は関東から徴発したじゃん

258:255
03/05/18 00:17
>>256
デヴシルメを含む制度史を重視する概説書として
鈴木菫『オスマン帝国』(講談社現代新書)
林佳世子『オスマン帝国の時代』(山川出版社・世界史リブレット)
の二冊をあげられますが、近年の概説書ではいずれも
デヴシルメについてはせいぜい数ページしか記述がありませんねぇ。
オスマン朝の制度を解説した和書は
日本におけるオスマン史の開拓者である三橋冨治男先生の
『オスマン=トルコ史論』(吉川弘文館)が未だに唯一と言ってよい状況で、
この本では一章を割いて説明していますが、
ただ40年近く前のものなのでカナ表記が最近の慣例と異なったり
今となっては全く通用しない旧説がそのままであったりする難があります。

259:山崎渉
03/05/21 22:14
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―

260:山崎渉
03/05/28 15:47
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎―◎                      山崎渉

261:世界@名無史さん
03/06/02 02:30
>デヴシルメ
オスマン帝国の権力とエリート / 鈴木董
概説では無いけど徴用された少年たちがどんなコースを歩んで
イェニチェリや官僚になるのかが良く分かる。
イスラム世界の奴隷制についても説明されてたはず。

三橋冨治男さんのデヴシルメについての論文がある。
ハゲは不合格とか面白いことが書いてある。
「ユダヤ人は信用できないから徴用しない」
と書いてあった気がする。まあ昔の論文だから・・・
「オリエント」の古い号に載ってたと思う。

マムルーク / 佐藤次高
デヴシルメとは関係ないけど参考になる。

262:世界@名無史さん
03/06/05 10:43
>三橋冨治男さんのデヴシルメについての論文
『史学雑誌』 72巻7号(1963年)の
「オスマン・トルコのデウシルメについて」じゃないでしょうか。

263:世界@名無史さん
03/06/23 19:46
第一次大戦末期、崩壊寸前の混乱が群雄伝って感じで面白いですね。
ケマルがとにかくかっこいい。
政治も前線の戦闘指揮もできるなんて中国の英雄や戦国武将ですか?って感じ。
歴史書を読んでいても血沸き肉躍ります。
ケマルを主人公にした小説、漫画ってありませんか?
上手く描ければ、ケマルっていいネタだと思う。
北方謙三でも小説書いてくれないかな?いや、もうマジで。

264:世界@名無史さん
03/07/03 00:10
>>255
>バヤズィトの...没落時のアンカラの戦い...
陽の出の勢いだったバヤズィトのティムールへの敗因は何だったのですか。

265:世界@名無史さん
03/07/11 15:06
スルタン、(;´Д`)ハァハァ

266:山崎 渉
03/07/15 12:39

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄

267:なまえをいれてください
03/07/17 19:12
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。

268:世界@名無史さん
03/07/19 14:15
モハーチの戦いってオスマン関係?

269:世界@名無史さん
03/07/19 16:40
今夜9時、NHKスペシャル「押すマンコ、引くマンコ」みましょう。

270:世界@名無史さん
03/08/12 14:02
>>268
>1526年、ハンガリー王国と交戦し、トランシルバニア方面を獲得した戦です。

271:月と星より ◆jaxQ5494pE
03/10/08 04:52
はじめまして。
スレイマン大帝の話で申し訳ありませんが、
1520年に26歳で即位してから、
その年のガザリのシリアの反乱、
21年の第一次ヨーロッパ遠征とベオグラード攻略、
22年のロードス島攻略、
24年のアメフト=パシャのエジプトの反乱、
26年の第二次ヨーロッパ遠征とモハッチの戦い、
27年のカラマンの反乱、
・・・と毎年のように戦が続いていますが、
戦費はどのように工面していたのでしょう?
やっぱり、地中海交易?
簡単にで結構ですので、教えて頂けますと嬉しいのですが。

272:月と星より ◆jaxQ5494pE
03/10/10 02:21
う~ん、もう人がいないのかな?
致し方ないですね。

ついでですからつづきを・・・。
29年に第三次ヨーロッパ遠征で第一次ヴィーン包囲が行われますが、
二人のハンガリー王の問題とも絡み合って、事態はトルコ側の有利に動いていきます。
こんな感じでいいのかな?

273:世界@名無史さん
03/10/13 18:41
age

274:世界@名無史さん
03/10/13 19:43
>>271
Halil Inalcikの本でも読めば?

275:電撃王・バヤジッド
03/10/13 19:45
ティムール氏ね。

276:びっこのティムール
03/10/13 19:48
>>275
無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァ!!!

277:世界@名無史さん
03/10/13 21:30
セムも昔は多神教を奉じていたというのに。
すべてはユダ公の責任。

278:世界@名無史さん
03/10/14 01:03
>>271
sageで書かれると誰も気付かないです。ageられると変な書き込みが増えるけど。

思いつきなのでInalcikの本でも読めば違うことが書いてあるでしょうが、
地方の検地が行き届いて徴税機構がしっかりしており、
中央のほうは常備軍と官僚機構がまだ小規模で
宮廷と中央政府の経費が少なく、
地方から吸い上げた富をほとんど戦争に使えたため、
バヤジト2世の時代の消極政策時代に蓄えた富と
セリム1世の時代に獲得したエジプトの富とを
ほとんど戦争につぎ込むことができたためではないでしょうか。
ティマール制の機能しているうちは
騎兵は自分の経費で戦争に参加するので
中央政府の軍費は少なくて済むということもあるかもしれません。
スレイマンの時代に無茶をしすぎたせいか、
16世紀の後半に入ると常備軍の拡大やらティマール制の崩壊やらが始まります。

279:世界@名無史さん
03/10/14 22:22
ところでティマールの語源てなんなの?ティムール?

280:世界@名無史さん
03/10/14 22:24
手マムール朝VSオスマムコ朝対決か・。・・・
ゴクリ¥・・・



281:電撃王・バヤジッド
03/10/14 22:47
>>279
ティムールはなあ、AD1402年(だったかな?)のアンカラの戦いでおいらの手勢のモンゴル騎兵を寝返らせたばかりか、
ウチの領内の井戸という井戸にウンコを投げ込んで水攻めにしたいじめっ子なんだぞー。
おいら、それが原因で憤死しちゃったんだぞー。
ティマールてのはなー、イスラムの封建制であるイクター制の進化形ってきいたことがある。

282:世界@名無史さん
03/10/14 22:51
明入りした信長軍は大船団&征西軍を率い、ムガル朝を滅ぼし、
♂マンコ朝と激突しようとしていた!!!!!


283:将軍様
03/10/14 23:25
本宮漫画の見すぎニダ。

284:天地夢之助
03/10/14 23:28
ヌルハチは舎弟だ。


285:月と星より ◆jaxQ5494pE
03/10/15 05:38
>>278
①徴税機構・・・『ハラージュ』や『ジズヤ』のことですね。
②バヤズィトⅡの消極政策時代に蓄えた富・・・なるほど。(笑)
③セリム1世の時代に獲得したエジプトの富・・・これってメッカ・メディナの統治も関係あります?
④ティマール制・・・土地恩給と軍事奉仕の制度ですね。

了解しました。
返答ありがとうございます。

ついでにつづきを・・・
32年の第四次ヨーロッパ遠征。ギュンヌ包囲とスティリアでの戦闘。
前回のヴィーン包囲は9月下旬に行ったため時は逸していたようですが、
今回は満を持しての遠征となりました。
でも、時間がかかり過ぎて結果的には失敗とのこと。
同年、ジェノヴァのアンドレア=モレアのモレア侵攻。
コロン・パトラスを失っています。
33年にスレイマンⅠ大帝はハプスブルク家とサポヤイ=ヤーノシュの間を調停し、
東方のサファビー朝ペルシアに対する戦争の準備を進めますが、
他方、バルバロッサを登用して地中海方面でハプスブルク家に対抗していきます。
こんな感じでいいのかな?

286:パシッチ ◆mWYugocC.c
03/10/15 23:03
「月と星より」さんがsageたがるのは、日本史板の北条スレで、スレが上がるたびに荒れた経験を持つからである。
……多分。

287:278
03/10/16 02:46
じゃあsageで細々と。

>>285
オスマン朝ではハラージュといえば人頭税のことですけどね。
>これってメッカ・メディナの統治も関係あります?
そちらではシャリーフ(いわゆるメッカ太守)が自主的にやっていたはずで、
オスマン朝側が援助を施すことはあっても上納を取り立てることはなかったと思います。
>ティマール制・・・土地恩給と軍事奉仕の制度ですね。
これは、違います。
ティマール制でシパーヒーに与えられるのは、
ある土地を耕作する農民から取り立てられるべき税の徴税権と
その税収入の全額であって、土地の支配権は恩給されていません。
オスマン朝の建前では土地は国家の財産(税は国家への地代支払い)で、
ティマール制やそれに代わるイルティザーム(徴税請負制)は、
ある税源を政府で調査(土地なら検地)していくら取れるか確定させ、
その税源から税金を取る権利を軍役と引き換えに与えたり
前払い金と引き換えに請け負わせたり、というやり方です。

288:月と星より ◆jaxQ5494pE
03/10/17 03:45
>>286
この板に来て、まだ日が浅いというのに、もうバレているし・・・。

>>287
ご指摘、サンクス~♪
政治面がいま少し疎いので間違えが多々ですね。

ついでにつづきを・・・。
33年~34年にペルシア遠征が起きます。
34年7月にダブリーズを占領。さらに12月にバクダートを占領。
35年4月~36年1月にも再度遠征が起きます。
でも、この二つの東方遠征は成功だったのでしょうか?
36年3月、大宰相イブラヒム=パシャ、死去。

289:パシッチ ◆mWYugocC.c
03/10/17 22:23
それはね、私がその北条スレに名無しで参加してたからなんですよ。
オスマン朝下のバルカンの状況について詳しい本はないもんかなー。

290:世界@名無史さん
03/10/18 01:21
>>289
柴宜弘編『バルカン史』(山川出版)が一番よいと思います。
この本のオスマン時代の筆者による近代バルカン史の学術著が最近出ましたね。

291:世界@名無史さん
03/10/18 01:34
>>278
バヤズィト2世の治世は弟のスルタン・ジェムの問題もあって、ヨーロッパ戦線は膠着したが、
バヤズィト2世は度々、北シリアの領有をめぐってマムルーク朝に対して遠征を行っているので、
決して対外消極策を採ったわけではないと思うけど。
マムルーク朝スルターンのカーイト・バーイは対オスマン朝をはじめとする北シリアへの16回もの
出兵で約700万ディーナールもの戦費の支出を強いられたくらいだから、オスマン朝側の支出も
相当なものだったのでは。

>>279
ティマールの語源はペルシア語で「世話」の意味の「ティーマール」で、テュルク語で
「鉄」を意味する「テミュル」のペルシア語読みの「ティ(ー)ムール」とは関係ない。


292:世界@名無史さん
03/10/18 01:36
>>285
ウマイヤ朝やアッバース朝じゃないんで「ハラージュ」や「ジズヤ」ではなく、
ティマール制施行地の場合の税制は・・・
 チフト税(土地税)・・・・・土地の保有に対する税で、年額三十三銀貨の地域が多い。
               非ムスリムの場合にはイスペンチェ税の名で呼ばれた。
 ウシュル(十分の一税)・・・字義的には十分の一だが実際の税率は生産物によって異なり、
                三分の一や五分の一などと高く、現物納であることが多い。  
・・・の二本立てだったと本に書いてあるけど。


293:世界@名無史さん
03/10/18 01:37
>>288
「ダブリーズ」じゃなくて「タブリーズ」でしょ。
スレイマンの東方遠征に対してサファヴィー朝は、チャルディラーンの敗戦に懲りていて、
圧倒的な火力を有するオスマン朝との大規模な会戦は避けてたんじゃないの?
サファヴィー朝のシャー、タフマースブはアゼルバイジャンとイラクは最初から放棄して、
焦土作戦とゲリラ戦術に徹していたくらいだから。
オスマン朝にすれば、兵站線の確保に気をつけるだけでタブリーズやバグダードの占領は
容易だったのでは。

>>289
オスマン朝支配下のバルカン半島については恒文社からユーゴスラヴィア史、ボスニア・
ヘルツェゴヴィナ史、ルーマニア史、ハンガリー史などの翻訳が出てたと思う。
「バルカン史」というくくりならば、山川出版社の新版世界各国史18・バルカン史やワシントン大学
出版局から出てるPeter F. SugarのSoutheastern Europe Under Ottoman Rule,1354-1804があるよ。


294:293
03/10/18 01:42
山川の『バルカン史』のついては290の人に言われちゃってたな。
ageちゃったよ。


295:月と星より ◆jaxQ5494pE
03/10/19 04:01
>>289
そうだったのですか。世の中、意外と狭いものですね。

>>292
返答ありがとうございます。
内政関係の事情を整理します!

>>293
ぐはっ!何かやらかしちゃっていますし・・・。
35年のペルシア遠征の方では、
トルコ軍も天候にも恵まれていたにもかわらず、
行軍に時間を費やしていますから、
必要以上の重装備で遠征していたのでしょうね。
でも、これって会戦を想定した重装備ですから何となく笑えます。

296:パシッチ ◆mWYugocC.c
03/10/19 09:09
>>290,293
有り難うございます。『バルカン史』は読んでみたんですが、物足りなくて。
『ドリナの橋』を読んで、結局のところどういうふうに統治してたのかな、という疑問が湧いたんですが、
『バルカン史』にはそこら辺の具体的な話がないんですよね。
やっぱ
>Peter F. SugarのSoutheastern Europe Under Ottoman Rule,1354-1804
これか、これ読むしかないのか。
シュガーって確か刀水の『東欧のナショナリズム』書いた人ですね。
読みにくかった覚えがあるんだよなあ……

>>295
まあそんなわけなんで、まったり行きましょう。ここであったのも何かの縁。

297:世界@名無史さん
03/10/24 18:15
スレイマン大帝の例の王の中の王、パディシャーの口上に出て来る
「タタールとキプチャクとブタ」のタタールはクリミアのことだろうが
キプチャクってどこのこと?
キプチャク平原にまで支配権が何か及んでたとか?
ブタはハンガリーのことでいいの?


298:世界@名無史さん
03/10/24 21:38
>>297
>キプチャクってどこのこと?
多分ノガイでしょう。当時は黒海北岸からカスピ海北岸あたりまでにいたはず。
>ブタはハンガリーのことでいいの?
そうです。ハンガリーはブダ州という行政単位にされていました。

299:世界@名無史さん
03/10/25 10:56
あの口上にヒジャーズが入ってないのはなんででしょう?


300:298
03/10/25 17:35
「メッカ・メディナ両聖都の守護者」も入ってませんでした? なんででしょ…。

301:世界@名無史さん
03/10/25 22:33

URLリンク(www.infoseek.livedoor.com)
URLリンク(www.geocities.co.jp)
URLリンク(www.geocities.co.jp)
URLリンク(www.geocities.co.jp)
URLリンク(www.geocities.co.jp)
URLリンク(www.geocities.co.jp)

トルコ屈指の美男子ハァハァ(´Д`;)


302:世界@名無史さん
03/10/27 16:18
クリミア帰属問題って、トルコは何言う権利もないんですかね?
そうなると泥沼ですが。

303:世界@名無史さん
03/10/27 21:31
>>302
現在は政府に接近してウクライナ帰属に賛成しているクリミア・タタールが
独立国家を主張したらトルコ政府が支援するかもしれないですが、
権利回復運動だけで精一杯のタタールが危険な独立運動に踏み切る可能性はまずないような。

304:世界@名無史さん
03/10/27 22:27
クリミアって国はあってもおかしくない気がするけど、
いつの間にか闇に葬られてますな。

ウクライナってのはドニエプル河のあっちのことなのに。


305:世界@名無史さん
03/10/28 11:52
16世紀頃タタール人支配層はオスマン朝よりロシアを選んだって話があるけど
本当なんだろうか?

306:名無しタタールさん
03/10/28 13:56
>305
まあ、オスマンにはt.A.T.u.いないしね。

307:世界@名無史さん
03/10/28 17:54
>>306
かわりにタルカンがいる。

308:世界@名無史さん
03/10/28 18:45
イルハンもクリミアから引き上げて来た事だし、
クリミアは少なくともトルコ寄りだと思うけどな。

309:世界@名無史さん
03/10/29 01:47
帝王の時代直後のハサーラッシュに何度苦しめられたことか…

310:世界@名無史さん
03/10/29 21:05
すんごい詳しい方が居られるようなのでお伺いしたいのですが…。
イエニ・チェリをぶっ潰したマフムート2世のママンがジョゼフィーヌ(旦那はフランスのチビでデブでハゲな人)の従姉妹と聞いたことがあるのですが、信憑性はあるのでしょうか?
それとも吹かし?
桐生操か塩野ななみだったかの本に書いてあったのを呼んだことがあるんすよ。

311:世界@名無史さん
03/10/30 00:03
>310

何年はなれてるか知ってる?

312:GGG
03/10/30 00:06
ニュース速報キタ━━━(゚∀゚)━━━ !!!!!

24時現在、38人死亡、150人異常が重軽傷!新宿駅前騒然!!
【ヤクザ】抗争!!全面戦争の恐れも!マシンガン連射!!【手榴弾】
URLリンク(www.amezor.to)

313:世界@名無史さん
03/10/30 03:52
>>310
ヨーロッパではかなり有名な話だけど、
18世紀の末にジョゼフィーヌの従姉妹が乗った船が大西洋で消息を断ったこと、
当時大西洋ではアルジェリア海賊が猛威をふるっていたこと、
アルジェリアの海賊は捕まえた女から美人を選んでイスタンブルに送っていたらしいこと、
マフムート2世の母后はキリスト教徒だったらしいこと、
それくらいしか確かな事実はないはず。
19世紀の末くらいにイギリスあたりの作家が言い出した与太が一人歩きしたらしいです。

314:世界@名無史さん
03/10/30 18:17
>>311
マフムート2世(在位1808~39)の義理の親父がルイ16世のペンパルだったらしいのでナポレオンと同時代の人物です。

>>313
可能性はないとはいえないけど、信憑性はかなり低いんですね。
ありがとうございます。今夜からぐっすり眠れそうです。

315:世界@名無史さん
03/10/30 23:30
ルイ16世のお友達セリム3世はマフムト2世の義理の親父ではなく従兄弟です。
ちなみに息子が即位する以前の皇子の母が国政に参与できる可能性はまずゼロです。

そのへんは確実に与太w

316:世界@名無史さん
03/10/31 02:30
トルコはなんで、弱くなってしまったのでしょうか。17世紀頃までは
ヨーロッパよりも科学が進んでたらしいのに。

317:世界@名無史さん
03/10/31 04:10
>>316
あまりにシステムが完成され過ぎて保守しすぎ
気付くと身動き出来なくなっていたのです。

318:世界@名無史さん
03/10/31 23:28
>>315
セリム3世とマフムート2世は親子ほど年は離れているけど義理の兄弟でしたね。ご指摘ありがとうございます。

>>316
原因はいろいろあると思います。
1…科学技術は遅れ、昔ながらの制度に縛られていたとしても、18世紀前半までは動員できる兵隊さんが多いので何とかなっちゃった。そのため改革は後送りに……。
(1639年、ヴェネティアよりクレタ島を奪う。1710年、ピョートルの軍隊を蹴散らす。)
2…お馬鹿な皇帝を量産。
(お家騒動を防ぐため、目をつぶされたり喉をつぶされた奴隷に囲まれるという素敵な環境で、皇子達をそれぞれ一つ部屋に監禁していた。こんなんじゃまともな統治者が生まれるわけありませんよね。ちなみにオスマン3世は50年間幽閉されていたそうです。)

ほかにも多くの原因がありますが、前にレスされた方がいろいろ分析されてます。

319:世界@名無史さん
03/10/31 23:49
レス、どうもありがとうございます。皇族幽閉の制度はどうにかならなかった
んでしょうか?オスマン帝国は18世紀頃までは強い国だったわけですから、
改革すれば西欧列強に入れたのではと思います。列強に入れず、逆に侵略の
対象となってしまったのがとても残念です。

320:世界@名無史さん
03/11/01 00:36
反乱が多発する国はいづれ衰退するでしょ。

321:世界@名無史さん
03/11/01 03:47
>>319
オスマン帝国にもロシアばりに何回か改革の試みがありました。
結構どれもイイ線行ってるのに失敗する。
調べると面白いよ。




322:世界@名無史さん
03/11/09 03:26
青年トルコ党がカリフ制廃止せずに傀儡として残しておけば
原理主義はなかったか

323:世界@名無史さん
03/11/10 11:29
>>322
は?

324:世界@名無史さん
03/11/10 12:34
近代化OKの宗教勅令のようなものを全ムスリムに指令させる

325:世界@名無史さん
03/11/10 19:29
オスマン帝国は確かに18世紀には衰退が始まってたが、

18世紀前半は改革路線もあったりロシアも撃退したりして
実は列強も全然手が出せていない。
18世紀後半になってボロが出て来て、目に見えて列強に敗北してくのは19世紀に入ってから。



326:世界@名無史さん
03/11/10 20:33
20世紀になると大清帝国同様西欧列強の草刈場に・・・(涙

327:世界@名無史さん
03/11/13 07:40
言われるほど情けなくもないと思う、特に清国は。
どちらも老大国らしく意外としたたかに立ち回っているのでは?

328:世界@名無史さん
03/11/13 22:17
まあ宮廷はボロボロだったからね。
でもバルカン戦争あたりまでは老体ながら超大国だったんじゃない?
清もボロボロになってくのはアヘン戦争あたりからだよね。

清もオスマン帝国も18世紀はイメージよりぜんぜん強靱では?

329:月と星より ◆jaxQ5494pE
03/11/16 22:20
>>328
オスマン朝トルコ帝国の場合・・・
エジプト&スエズを押さえたイギリスと、
南下政策により黒海を押さえたロシアの対立という背景も大きいですよね。
結果的にはドイツと手を組んで共に滅びてしまいましたが・・・。

清王朝の場合・・・
私的には『同治中興』とかで頑張っていたような気がしますので、
ボロボロは日清戦争あたりからかな・・・?(あまり詳しくはないので。)

330:世界@名無史さん
03/11/17 00:20
オスマン帝国はバルカン半島に当地の重心おいていた?
アラブ人地域は、統治力最盛期であっても在地豪族同士の内戦が続発していた。

331:世界@名無史さん
03/11/24 12:02
>>330
どこの地域からの税収が一番多かったんでしょう?
また、最末期、アジアで反乱が起きると
「オスマン家はヨーロッパへ帰れ!」と言われ、
ヴァルカンで反乱が起きると
「トルコ人をアジアへ追い返せ!」なんて言われてた。
アジアでもヨーロッパでもない「オスマン帝国人」と言う概念は両方共に理解してもらえませんでしたとさ。

>>329
歴史的に同盟国であったフランス(対ハプスブルグ家で)やスウェーデン(対ロシアで)との友情をもっと強く築いていたら、後の衰退も幾分緩和されたかな?素人考えですけど。
ナポレオン戦争後のウィーン会議で完全シカトされ、現在にいたるもヨーロッパファミリーの一員になれなかったのがとんでもなくマイナスだったと思うっす。

332:世界@名無史さん
03/11/24 12:07
>>331
ヴァルカンって・・・
バルカンは「Balkan」であって、決して「Valkan」ではないんだがな。



333:世界@名無史さん
03/11/24 12:38
ヴェートーベンと書いてみたい年頃なんだよ

334:世界史@名無史さん
03/11/25 18:54
ロクセラーナに関心を持っている者ですが、彼女については本によって記述が矛盾している部分があります。

没年が1561年と1558年。
最近出た著書では1558年に統一されていますが七十年代以前に出版された本では併記されていたり、どちらかだけが載っています。
理由をご存知の方教えて下さい。

ジハンギルの生母がロクセラーナではなくムスタファの生母マヒデヴランと記述している本がある。
ジハンギルの生母はロクセラーナなのですか。マヒデヴランなのですか?

偽王子ムスタファ事件の詳しい経緯をご存知の方教えて下さい。

ロクセラーナが後継者に望んだのは本によってはセリムだったりパヤジットだったりします。
どちらの説が有力なのですか。有力な根拠も教えてくれるとありがたいです。

日本史では北政所ねねは人望厚い良妻。という風なイメージが定着していますがトルコでは
ロクセラーナはどのようなイメージをもたれているのでしょうか。

色々と質問しまくり恐縮ですが、親切な方お教えください。




335:世界@名無史さん
03/11/28 15:28
>>331
スウェーデンとは北方戦争はじめ地味にいろいろやってますね。
北欧と黒海貿易の関係とも実はつながりがありそうです。

336:世界@名無史さん
03/11/28 20:28
チャーチルに欧州の病人と揶揄された土耳古。
夷スラム帝国は前世紀の遺物にすぎない。
1世紀たった今もテロでシナゴーグ爆破する
土耳古はDQNの居場所。


337:世界@名無史さん
03/11/28 21:24
ビザンツもオスマンもようわからん。

338:世界@名無史さん
03/11/28 23:07
どっちかてゆーとトルコは被害者だろ。
シナゴーグの事件は。

339:世界@名無史さん
03/11/28 23:25
>>336はあちこちでウザい電波を発散してるDQN。
相手して得はない。

340:世界@名無史さん
03/12/08 22:53
講談社現代新書の「オスマン帝国」以外に、
初心者向けの本があったら教えてください。

341:カラジチ ◆mWYugocC.c
03/12/08 23:17
>>340
ちょっと高い上になかなか置いていないけど、
クセジュの『トルコ史』は結構詳しいです。

342:世界@名無史さん
03/12/09 01:44
クセジュは古いのが難かな。あとはこんなもん。

永田雄三・羽田正『成熟のイスラーム社会』(中央公論社・世界の歴史)
永田雄三(編)『西アジア史2 イラン・トルコ』(山川出版社・新版世界各国史)
林佳世子『オスマン帝国の時代』(山川出版社・世界史リブレット)

343:世界@名無史さん
03/12/09 01:49
>>341
お返事ありがとうございます。
クセジュにそんな本があったんですね。
今度さがしてみます。


344:340, 343
03/12/09 01:54
>>342
あ、書き込んだら>>342が現れた…。
色々な本を教えてくれてありがとうございます。
とりあえず手に入るものから読んでみます。


345:世界@名無史さん
03/12/10 01:28
オスマンの近代化が、単なる西洋化と言えるかどうかについて今検証してるのですが、
何か良い資料を知っている方がいましたら教えていただきたいのですが。
また、意見も聞きたいと思ってるのですが。

346:世界@名無史さん
03/12/10 19:14
>>345
オスマン語の史料のことですか?

347:世界@名無史さん
03/12/10 23:25
>346さん
出来れば日本語か英語の文献、もしくは本が知りたいのです。

348:世界@名無史さん
03/12/18 06:50
近代史全体の通史なら、
日本語だと新井政美『トルコ近代史』(みすず書房)
英語だとErik J. Zurcher, Turkey: a Modern History (I.B.Tauris)
が定番でしょうけど、もう知ってるかな。

349:月と星より ◆jaxQ5494pE
03/12/22 00:59
いい感じで沈んできましたので久しぶりに。

だいぶ前に聞いたことなのですが、
1538年、1551年、1552年、1553年と、
計4回のインド洋遠征が行われたようです。
でも、詳しく書かれた本に廻りあったことがありません。

そんな本はあるのでしょうか?

350:世界@名無史さん
03/12/23 20:25
古い本なので参考程度に。
日本におけるオスマン研究の先駆者、三橋冨治男先生の
『オスマン帝国の栄光とスレイマン大帝』に2~3ページほど載ってます。
同じ著者の『オスマントルコ史論』にもあったかもしれません。
手元にないので確認できませんが。

351:月と星より ◆jaxQ5494pE
03/12/25 04:53
>>350
古い本ですね。
図書館に行けば・・・?
はっ!もう、今年中には行けません。(がーん!)

でも、ヨーロッパ方面、ペルシア方面、アフリカ方面(地中海)はよく載っているのに、
アラビア方面(イエメン、マスカット)ってほとんど載ってないのは何故でしょう?
やはり、重要視されていないのかでしょうか。

352:月と星より ◆jaxQ5494pE
03/12/25 04:55
あっ、書き忘れました。

>>350
Thanks!

353:世界@名無史さん
03/12/26 01:34
よく知らないのですが、あまり史料がないのかもしれません。
イエメン州、エチオピア州は存続期間短いですし。

そういえばあのピーリー・レイスはインド洋遠征で失態をやらかして処刑されたとか。

354:世界@名無史さん
03/12/26 10:06
>>353
オスマン朝のイエメン遠征についての史料なら、最近、アラビア語史料の英訳や仏訳が出てるやん。

URLリンク(www.amazon.co.jp)
URLリンク(www.amazon.com)

355:353
03/12/27 13:57
>>354
お恥ずかしや。

356:世界@名無史さん
03/12/27 14:01
しかもageてしまった。

鬱だ…

357:世界@名無史さん
04/01/01 21:14
バヤズィト1世の伝記ってあります?
スレイマンやメフメトのは邦訳でも見たことが
あるんですが・・・。
洋書でも、伝記というのはまだ出てないんでしょうか?
宿敵のティムールなら洋書でも伝記はあるんですけどね・・・。

358:世界@名無史さん
04/01/03 11:49
دولت عاليه عثمانيه

359:世界@名無史さん
04/01/05 19:28
バヤズィット1世の頃はまだ、現存するオスマン語の史料も少ないだろうからなあ。

360:世界史@名無史さん
04/01/09 12:41
1月七日に放送されたNHKハイビジョン番組
トルコ・トプカプ宮殿の光と影 スルタンとハレムの女たち
見た人詳細報告してください。

361:世界@名無史さん
04/01/10 05:57
>>359
史料全然ないっす。

>>357
webcatで検索してみると、
The foundation of the Ottoman Empire : a history of the Osmanlis up to
the death of Bayezid I, 1300-1403
っつう本くらいしか見当たりませんね。
なにぶんバヤズィトと同時代のオスマン年代記は現存しないので、
伝記で単独の著書というのは難しいんじゃないでしょうか。

>>358
たぶんスペルちゃいます。
دولت عليه عثمانيه

362:世界@名無史さん
04/01/11 04:22
>>360
見たよ。
ハレムの女性たちがいかに自由を束縛されていたか、
またオスマン朝の王子たちが皇位継承までは幽閉の身であり、
血なまぐさい権力闘争がいかに行われていたか・・・等々。
主に皇位継承の際の兄弟殺しに重点を置いていた感じがする。
まあ、見た後は気分が暗くなってオスマン朝が嫌いになるよ・・・。

363:世界@名無史さん
04/01/18 08:09
メフメト2世の肖像画、2種類見たことがあるけど、
いずれも花の匂いをかいでいました。
何か粋人的なエピソードでもある人なんですか?

364:世界@名無史さん
04/01/19 21:08
>>363
山田篤美『ムガル美術の旅』朝日新聞社 1997年 では、「片手に花を持つポーズは15世紀のイタリアでは人物像を
描く時によく使われる手法」であったことから、メフメト2世がヴェネツィアやナポリのイタリア人画家をイスタンブルに
招いて、トルコ人画家に肖像画の描き方を習わせていた時に、このポーズがイタリアのルネサンス絵画からオスマン絵画に
取り入れられたものである、としています。


365:世界@名無史さん
04/01/24 00:05
>>364
ご教示ありがとうございます。
講談社現代新書の「オスマン帝国」という本を買い、少し読みましたが、
この本ではメフメット2世という人物を、西欧の文化に関心を持ったほとんど唯一の
オスマン朝君主、と紹介していました。
ついでに、この本には「ヴェネツィアのベッリーニによるメフメット2世像」とキャプションの
付いた肖像画が載っています。こんな西洋人作の肖像が残っているスルタンは、
やはりこのメフメット2世だけということになるんでしょうかね。


366:世界@名無史さん
04/01/26 01:08
「オスマンvs.ヨーロッパ―〈トルコの脅威〉とは何だったのか」(講談社選書メチエ)
新井 政美 (著)
URLリンク(www.amazon.co.jp)

読んだ人いる?

367:世界@名無史さん
04/01/28 08:42
午前10時台に鈴木董先生がNHKラジオ第一に出演されるみたいだな。

368:世界@名無史さん
04/01/28 10:22
本当だ鈴木先生が喋ってる!

369:世界@名無史さん
04/01/28 10:55
面白かったなー

370:世界@名無史さん
04/02/01 16:54
>>363
バラの花の香りは王者を示す定型表現です。

371:世界@名無史さん
04/02/19 22:40
親西欧のスルタンって言ったらアフメト3世は?

372:世界@名無史さん
04/02/19 22:41
オス マンコチョー大

373:世界@名無史さん
04/02/19 22:54
スレイマン1世って、神聖ローマ皇帝カール5世だか相手に
「自身こそローマ帝国の継承者」と
競争心もやしたって本当ですか?

だって、イスラムでしょ?


374:世界@名無史さん
04/02/19 22:56
ローマだって最初からキリスト教国だったわけじゃないし。

375:世界@名無史さん
04/02/21 17:19
374がイイ事言った。

まあ、当時はどっちかっていうとビザンチンが正統なローマ帝国で
(何しろ1000年続いた)それを継承したのがスルタンだったからな。
旧イスラム植民地のスペイン王がローマ皇帝を名乗るのはちゃんちゃら可笑しかったのでしょう。


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch