■心身二元の二重螺旋運動 その4■at PHILO
■心身二元の二重螺旋運動 その4■ - 暇つぶし2ch2:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/01 20:12:01
■なぜGoogleは2ちゃんねるを買収しないのか

数式→言語→シミュレーション

近代化におけるテクノロジーの方法論として、現象を単純な法則に還元し、さらには近似的な数式
で数学、方程式による基礎がある。古典物理学で特徴的なこのような傾向は、20世紀に限界に突
き当たる。

還元が困難な曖昧なものは、言語によって表現することになる。言語においても、論理実証主義な
どのように、還元主義化は進んだが、本質的には挫折し、言葉における表現は、曖昧故に有用な記
述方法であるともいえる。

次にコンピューターの発展による繰り返し計算の高速化、低コスト化によって、より複雑な現象を、
計算によってシミュレートできるようになった。たとえば進化などの言語でしか記述できなかった複雑
な現象も、ある簡易的なモデルにおいては、計算することが可能になっている。

3:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/01 20:12:37
功利主義→構造主義(記号消費)→システム論(マーケティング)

このような大きな潮流は、社会に様々な影響を与えているだろう。たとえば消費について考えると、
貧しければ、衣食住というようにほしいものは明確である。そこでは人間は経済学的に、功利主義
的に振るまうと考えられる。

しかし物質的に豊かな消費社会になると、このような法則にあわなくなる。価値は多様化し、欲望は
複雑になる。このような状況を示したのが、ボードリヤールのいう記号消費である。言語のように差
異として商品を消費する。多の商品との違いにこそ意味(価値)が生まれ、欲望される。その中でオ
リジナル(使用価値)不在の、コピー品だけのハイパーリアルな世界が現れるということだ。これはあ
る意味で、言語のもつ曖昧さ、シニフィアンの恣意性を元にしている。

しかし現代では必ずしも、イメージとしての商品を求めることから、進んでいる。マクドナルド化にお
いては、マクドナルドという記号を消費することよりも、マーケティングによるシミュレーションされた
効率化によって、消費者が求めるものを安く、迅速に提供する、コンビニなどのシステムが進んでい
る。そこにいけば、「とりあえず」そこそこのものが手に入るという便利さがある。

実際には、ブランド品は相変わらずよく売れ、記号消費のようなものと、「とりあえず」買うマクドナル
ド化されたものと、二極化しているといえるだろう。

4:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/01 20:13:10
シミュレーションの限界

最近は、このようなマクドナルド化につづいてグーグル化と言われる。マクドナルドによる「とりあえ
ず」なナビゲーションを、アマゾンの「あなたへのアドバイス」というように、より大量の情報を処理す
ることで、的確なナビゲーションを行おうというものである。

しかしシミュレーションの問題は、ダイナミズムを扱えないということだ。結局、シミュレーションは初
期設定内にしか変化せず、予想外の動きを予測することはできない。どんなに的確なナビゲーショ
ンが行われたも、人は自分でも予測しなかったようなものを提案してもらうことを、求めているのだ。
記号消費を求める欲望は、シミュレーションによって決してナビゲートされないようなナビゲートを求
めているといえる。

5:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/01 20:15:18
シミュレーション→コミュニケーション(Web2.0)

このような「ナビゲートされないようなナビゲート」する方法として、注目されているのが、Web2.0だろう。

たとえば今知りたい情報を提供するとき、その道のプロの感、すなわち言葉でよいかもしれないが、
多くにおいて根拠なく記号的になる。あるいはマーケティングによりシミュレーションすることも可能だ
ろう。しかしネットで起こっているのはまさにコミュニケーションによって、自律的に知りたい情報が立
ち上がる現場である。

たとえば2ちゃんねる、ブログ界隈で知りたい人々が集まり、話題が飛びかう。このようなダイナミズ
ムをサービスとして、商品化するために、適度に管理、整備された場を提供するのが、Web2.0の一
つのあり方である。

2ちゃんねるはWeb2.0か。2ちゃんねるはまったくの無法地帯ではないが、管理度は低い。サービス
としては質が悪いか、その自由度とダイナミズムが魅力である。ミクシィは管理度が高く、サービス
の質がよい。

最近、メーカーのSNSができたしているが、単なるマーケティング調査でなく、場においてコミュニ
ケーションを楽しむ中で次のブームを作っていくということだ。現に2ちゃんねるのニュースサイトの
反響は世論の一部としてマスメディアなどを経由し、社会に影響を与えている。このような社会的な
影響というダイナミズムを管理することに目的がある。

6:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/01 20:15:54
GoogleによるYouTube買収によって失われた「なにか」

話題のGoogleによるYouTube買収は、動画コミュニケーションという新たに育ちつつある場を買った
のである。そして質の悪い場を、整備し管理し治すことになるのだろう。その質の悪さの一番は著作
権の確信犯的な放置である。

しかしYouTube買収問題の本質は単に著作権問題をどう処理するかでなく、確信犯的に放置した著
作権問題によって、生まれていたダイナミズムは維持され続けるのか、ということだろう。さっそく、
人々が離れていくということが起こっている。

>>
「YouTubeの成長停滞は一時のもの」--ネットレイティングス 2006/11/01 13:47

ネットレイティングスは11月1日、YouTubeの米国での利用者数が9月に入り大幅に減少したことを発
表した。ネットレイティングスによると、YouTubeは2005年10月以降、順調に月間の利用者数を増や
してきたが、Googleによる買収が発表された9月に、初のマイナス成長となった。

URLリンク(japan.cnet.com)
<<

たとえば2ちゃんねるをグーグルが買収すると、大きな反発を買うだろう。そして2ちゃねらーは離れ
ていくのではないだろうか。ここには、「のま猫問題」の時と同じ問題がある。なにかが失われるのである。

「ケツ毛バーガー事件」がこれほど反響を呼んだのは、mixiが上場し、高額な値がついたこととも関
係するのではないだろうか。mixiが売り払われ、なにかが失われたことへの反発として、あの事件は
盛り上がったのだ。

7:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/01 20:29:41
心身二元論の二重螺旋運動

数式法則(数字)→言語→シミュレーション(数字)→コミュニケーション(言語)の流れは、数字と言
葉の相補的な追い掛け合いのようにでもある。将来、人口知能などの技術革新によりダイナミズム
が計算予測されれば、コミュニケーションのような曖昧なものに頼る必要はなくなるかもしれない。

しかしこの追いかけ合いが終わるときとは、人間が数字に完全に還元されたときであるが、人のゲノ
ムが解読さ]れても、人間そのものは還元されない。これは心身二元論的な終わりなき二重螺旋運
動なのである。

記号消費という終わりなき運動、決してシミュレーションでナビゲートされず、Web2.0から逃れ続ける
終わりなきコミュニケーション。ここにあるのは、シミュレーションによってナビゲートされる「とりあえ
ず」充足する「身体」に対して、差異化し続ける「心」である。それは「私とはだれでもない私」であると
いう欲望である。すなわちGoogleによるYouTube買収によって失われた「なにか」とは、「私とはだれ
でもない私」がGoogleによって管理されることへの反発である。

8:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/01 20:45:29
Web2.0は帰属意識によって支えられる。

しかし2ちゃんねるでも、mixiでも管理は存在する。すなわちそこにあるのは、その場への帰属意識
であり、信頼である。「私とはだれでもない私」とは他者との関係、コミュニケーションによる差異化に
よってしか、実感できない。そして差異化運動は、強い帰属意識によって生まれる。

>>
だから情報化社会の「選択のインフレーション」でまず重要な選択は、何が「重要なこと」で、何が「重
要でないこと」かの選択です。

情報化社会において、ほとんど多くのことは「重要でないこと」に分類され、社会の「マクドナルド化」
によって、ナビゲートされるままに任せて、「とりあえず」満足することを求めます。そして多くの選択
を「重要でないこと」とするのは、一部の「ゆずれない」「重要なこと」に労力を割くためです。たとえば
父親なら仕事であったり、母親なら家族であったり、子供ならばオタク的趣味であったり、自らのアイ
デンティティを支えるものです。

「なぜ映画はおもしろくないのか」 URLリンク(d.hatena.ne.jp)
<<

9:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/02 00:36:46
■なぜWeb2.0にとって信頼が重要なのか

数式→言語→シミュレーション

近代化におけるテクノロジーの方法論では、古典物理学で特徴的なように、現象を単純な法則に還
元し、近似的な数式化することに基礎がある。

しかし数式への還元が困難な曖昧なものは、言語によって表現することになる。言語においても、論
理実証主義などのように、還元主義化は進んだが、本質的に言葉における表現は、曖昧故に有用
な記述方法であるともいえる。

次にコンピューターの発展による繰り返し計算の高速化、低コスト化によって、より複雑な現象を、
計算によってシミュレートできるようになった。たとえば気象や進化などの言語でしか記述できなかっ
た複雑な現象も、ある簡易的なモデルにおいては、計算することが可能になっている。

ハードの発達と並行して、数式→言語→シミュレーションへの流れがあり、社会に様々な影響を与え
ている。

10:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/02 00:37:51
功利主義→構造主義(記号消費)→功利主義的統計学(マーケティング)

たとえば消費について考えると、貧しければ、衣食住というようにほしいものは明確である。そこで
は人間は経済学的に、功利主義的に振るまうと考えられる。しかし物質的に豊かな消費社会になる
と、このような法則にあわなくなる。価値は多様化し、欲望は複雑になる。

このような状況を示したのが、ボードリヤールのいう記号消費である。言語のように差異として商品
を消費する。多くの商品との違いにこそ意味(価値)が生まれ、欲望される。その中でオリジナル(使
用価値)不在の、コピー品だけのハイパーリアルな世界が現れるということだ。このような特性を可
能にしているのが、言語のもつ曖昧さ、シニフィアンの恣意性である。

しかし現代ではこのようなイメージとしての商品を求めることから、マクドナルド化している。マクドナ
ルドでは記号を消費することよりも、マーケティング(シミュレーション)による効率化によって、消費
者が求めるものを安く、迅速に提供する。コンビニなどそこにいけば、「とりあえず」そこそこのものが
手に入るという便利さがある。

「ゆずれない」を求めた記号消費の典型であるブランド品は相変わらずよく売れ、「とりあえず」買う
マクドナルド化も進んでいる。これらは二極化しているといえるだろう。

11:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/02 00:38:31
>>
情報化社会においては、ボクたちは様々な情報に溢れています。様々な選択を与えられ、自由度が
広がります。しかしこれは逆には、様々な選択を強いられる「選択のインフレーション」が起こります。
ひとつひとつ、選択していくことは苦痛です。だから自分に変わってナビゲートしてもらえるサービス
はとても有用です。「マクドナルド化」はボクたちがなにをすべきかを提供してくれるのです。

「とりあえず」マクドナルドへ言っておけば、「とりあえず」ファミレスへいっておけば、「とりあえず」ディ
スニーランドへいっておけば、「とりあえず」トップ10の映画に言っておけば、ある程度の商品が提供
されるだろう、ということです。

ここで重要なことは、人は情報化社会の中で、ただマスメディアにナビゲートされる「とりあえず」な受
動的存在だけではないということです。そこに満足することはできないだけでなく、「とりあえず」を支
えるのは「ゆずれない」ことの存在です。

「なぜ映画はおもしろくないのか」 URLリンク(d.hatena.ne.jp)
<<

12:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/02 00:39:15
シミュレーションの限界

最近は、このようなマクドナルド化につづいてグーグル化と言われる。マクドナルドによる「とりあえ
ず」なナビゲーションから、アマゾンでは「あわせて買いたい」、「この商品を買った人はこんな商品も
買っています」というようなナビゲーションが行われる。より大量の情報を処理することで、的確なナ
ビゲーションを行おうというものである。

しかしグーグル化によるナビゲーションは、大量の情報、シミュレーション技術の向上を目指すもの
ではない。シミュレーションは処理能力が向上しても、予想外の動きを予測することはできない。どん
なに的確なナビゲーションが行われても、人は自分でも予測しなかったようなものを提案してもらうこ
と、シミュレーションによって決してナビゲートされないようなナビゲートを求めているといえる。

このような「ナビゲートされないようなナビゲート」をする方法として、注目されているのが、Web2.0だ
ろう。

13:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/02 00:40:00
数式→言語→シミュレーション→コミュニケーション(Web2.0)

知りたい情報を入手するとき、マスメディアによってプロの言葉を聞くのもいいだろう。あるいはマー
ケティングによりシミュレーションされた結果を提供されることも可能だろう。しかしネットで起こってい
るのは、まさにコミュニケーションによって、知りたい情報が自律的に立ち上がる「現場」である。

たとえば2ちゃんねる、ブログ界隈で知りたい人々が集まり、情報が飛びかう。小さな管理によって
整備された場を提供することで、このようなダイナミズムを生み出すのが、Web2.0の一つのあり方で
ある。2ちゃんねるはWeb2.0か。2ちゃんねるはまったくの無法地帯ではないが、管理度は低い。
サービスとしては質が悪いか、その自由度とダイナミズムが魅力である。ミクシィは管理度が高く、
サービスの質がよい。

最近、車メーカーなどのSNSができたりしているが、単なるマーケティング調査でなく、場においてコ
ミュニケーションを活性化する中、次のブームを作っていくということだ。たとえば2ちゃんねるの
ニュースサイトの反響は世論の一部としてマスメディアなどを経由し、社会に影響を与えている。

ユーザーを単にナビゲートされるのでなく、ダイナミズムの一部として巻き込んでいる。そこでは「ナ
ビゲートされないようなナビゲート」、予測されないようなナビゲートが起こる可能性がある。

14:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/02 00:40:55
GoogleによるYouTube買収によって失われた「なにか」

話題のGoogleによるYouTube買収は、動画コミュニケーションという新たに育ちつつある場を買った
のである。そしてGoogleは質の悪い場を、整備し管理し治すことになるのだろう。その質の悪さの一
番は著作権の確信犯的な放置である。

しかしYouTube買収問題の本質は単に著作権問題をどう処理するかでなく、確信犯的に放置した著
作権問題によって、生まれていたダイナミズムは維持され続けるのか、ということだろう。さっそく、
人々が離れていくということが起こっている。

>>
「YouTubeの成長停滞は一時のもの」

ネットレイティングスは11月1日、YouTubeの米国での利用者数が9月に入り大幅に減少したことを発
表した。ネットレイティングスによると、YouTubeは2005年10月以降、順調に月間の利用者数を増や
してきたが、Googleによる買収が発表された9月に、初のマイナス成長となった。
URLリンク(japan.cnet.com)
<<

たとえば2ちゃんねるをGoogleが買収すると、大きな反発を買うだろう。そして2ちゃねらーは離れて
いくのではないだろうか。ここには、「のま猫問題」の時と同じ問題がある。なにかが失われるのである。

また「ケツ毛バーガー事件」がこれほど反響を呼んだのは、mixiが上場し、高額な値がついたタイミ
ングと関係するのではないだろうか。mixiが売り払われ、なにかが失われたことへの反発として、あ
の事件は盛り上がったのだ。

15:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/02 00:41:59
Web2.0は場への信頼によって支えられる

記号消費という終わりなき運動、決してシミュレーションでナビゲートされず、終わりなきコミュニケー
ションの中からすくい取ろうとするWeb2.0という試み。

これらにあるのは、シミュレーションによってナビゲートされる「とりあえず」充足する「身体」に対し
て、「ゆずれない」差異化し続ける「心」である。それは「私とはだれでもない私」であるという欲望で
ある。すなわちGoogleによるYouTube買収によって失われた「なにか」とは、「私とはだれでもない
私」がGoogleによって管理されることへの反発である。

しかし2ちゃんねるでも、mixiでも管理は存在する。問題は管理そのものでなく、その場への帰属意
識であり、信頼である。「私とはだれでもない私」とは他者との関係、コミュニケーションによる差異化
によってしか、実感できない。そして差異化運動は、強い帰属意識、場への信頼の中で生まれる。
決して、貨幣価値に還元されない信頼である。そして信頼とは受動的に与えられるものではなく、主
導的に場をともに作っている実感によって作られる。

>>
だから情報化社会の「選択のインフレーション」でまず重要な選択は、何が「重要なこと」で、何が「重
要でないこと」かの選択です。

情報化社会において、ほとんど多くのことは「重要でないこと」に分類され、社会の「マクドナルド化」
によって、ナビゲートされるままに任せて、「とりあえず」満足することを求めます。そして多くの選択
を「重要でないこと」とするのは、一部の「ゆずれない」「重要なこと」に労力を割くためです。たとえば
父親なら仕事であったり、母親なら家族であったり、子供ならばオタク的趣味であったり、自らのアイ
デンティティを支えるものです。
「なぜ映画はおもしろくないのか」 URLリンク(d.hatena.ne.jp)
<<

16:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/02 00:42:31
心身二元論の二重螺旋運動

数式法則(数字)→言語→シミュレーション(数字)→コミュニケーション(言語)の流れは、数字と言
葉の相補的な追い掛け合いのようにでもある。将来、人口知能などの技術革新によりダイナミズム
が計算予測されれば、コミュニケーションのような曖昧なものに頼る必要はなくなるかもしれない。

しかしこの追いかけ合いが終わるときとは、人間が数字に完全に還元されたときであり、人のゲノム
が解読されようが、人間そのものは還元されないだろう。これは心身二元論的な終わりなき二重螺
旋運動なのである。

17:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/02 01:05:10
Web2.0の制御性

記号消費では、マーケティングによるマスメディアの主導性があった。
懸命に差異化を生み出すように、マーケティングが行われ、
人々の欲望を満たそうとしてた。
消費がアイデンティティを支える役目をもった。

ネットのコミュニケーションの活発化において、Web2.0は
主導性は低いようにおもう。マーケティングはより受動的な位置におかれる。
Googleはまさにただ乗りであることで、ネット上の勝ち組でいられるのかもしれない。
ネットでは、積極的に、主張をしないことが重要なことである。

マクドナル化のようなシミュレーション以降、受動的に先行する傾向がある。
環境管理権力的である。

18:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/02 01:18:43
重要でないことの一極集中、重要なことの多様化、分散化

ネットにおいて、重要でないことこの一極集中こそが創発を起こし、
帰属意識を高めているということ。

たとえばはてなブログなどでは、界隈ではやりのネタへコミットすることで、
盛り上がりに参加できる。マニアックなネタでは、アクセス数、ブクマがつかない。

盛り上がりに参加することが重要になる。アイデンティティを支えることになる。



19:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/02 11:43:18
私たちの主体は下部構造の言語体系により様々な決定が行われ疎外されている。
これが構造主義だ

20:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/02 12:08:22
ソシュールが経済学からヒントをえたといわれるように、差異の体系は経済の価値体系により明確です。


21:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/02 13:35:03
ネットでは一局集中がおこりやすい。人が集まるところに人が集まる。
しかしほんとにそうだろうか。ネットがこれほど反映しているのはその裾野の広さ、ロングテールの存在によるだろう。
二極化と考えるほうがいいのではないだろうか。



22:wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU
06/11/02 20:54:19
>21
今までのマーケティングは確かにロングテールを捨てるしかなかったですね。
ソリューションで、これを拾うことができるようになった。
とすれば、二極化とは方向性が違いますね。

23:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/02 21:26:35
>>22
ロングテールはマーケティング用語になっていますが、ネットそのものがもつ傾向です。
たとえばWeb2.0もマーケティング用語のように使われますが、ネットがもつ創発性をもとにしています。

ネットには、一局集中がおこりやすい傾向。ポピュリズム的な面と
ニッチが広がるオタク的な面の二極化が起こるわけです。

ここにはともに差異化運動が関係しています。
群衆の中で、少しでも差異を見いだそうとして群れる祭り的な面と、
よりマニアであろうという差異を見いだすオタク的な面です。

どちらもネットの楽しみかたであり、だれもがこの二面性を楽しんでいるのでは、
ないでしょうか。


24:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/02 21:36:11
たとえば個人的なことをいえば、2ちゃんねるの楽しみ方は、
ニュース+板、実況板など(VIPは早すぎで意味不明で良くわらない)
流動性の高い板で毎夜行われている祭りを楽しみます。

それとともに、哲学板のような過疎板のさらにラカンスレなどのような過疎スレという
ニッチにボチボチ書き込み楽しみます。

25:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/03 09:13:21
経済学が先か、市場が先か。
たとえば企業で言えば、評価は経済学的手法で行われる。
その数値を目標に企業活動が行われ、評価が行われる。

たとえばライブドアも、その数値を良く見せる操作をすることで、
株価が上がって、資本を増やしたわけです。

経済学的数値とは、シニフィアンとして作動している。

26:考える名無しさん
06/11/03 11:48:10
青果市場に野菜や果物が集まらないと人も集まらない。

というか心身二元論に終わりが無いとか、
精神の数学的還元は不可能というと話はよくわかるが、
何故二重螺旋がむりやり絡んでくるのかが分からん。

27:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/03 11:54:57
農地に野菜や果物が集まっても、そこに経済学がないと
人も集まらない、ということ。

近代化において、心身は二元化し、二重螺旋構造的である、ということ。


28:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/03 12:11:09
先進国の豊かさは、後進国からの搾取の上に成り立っている。
世界のお金持ちトップ500の総資産>その他60億人の総資産
当然、金持ちは平和という現状維持を求める。
それは、核の独占で維持されている。
先進国が核を使わないだろうという神話は、この搾取の構造が
保たれる限りです。

そして世界が競争世界ならば、貧しい人々が豊か人々へ攻撃する
ことは当然行われることです。

29:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/03 14:33:49
■「Web2.0」的なものと「ロングレール」的なもの二極化

「Web2.0」、「CGM(Consumer Generated Media)」、「ロングテール」

>>
ネット時代の新潮流―CGMとは
URLリンク(www.itmedia.co.jp)

今、Web2.0のキーワードが注目を浴びています。その中に内包される概念としてCGM
(ConsumerGeneratedMediaの略)が存在します。簡単に訳すと消費者が生成したメディアとでも言う
べきものなのですが、一般的には消費者が作成、または見つけ出した情報を投稿(Web上にアップ)
し、発信されていくコンテンツの総称がCGMと呼ばれていることが多いと思います。

Web2.0の話とCGMの話を混同して語られている例が、よく見受けられます。しかし、Web2.0が提唱す
るブログやSNSなど「プラットフォームとしてのWeb」(以後CGMのプラットフォームと呼びます)と、そ
の中で増殖するCGMへのアプローチは、まったく異なる次元の話です。
<<

ネットでは一局集中がおこりやすい。人が集まるところに人が集まります。またそれとは別の傾向が
あります。ネットがこれほど反映しているのはその対象の裾野の広さです。

たとえば「Web2.0」、あるいは「CGM(Consumer Generated Media)」はマーケティング用語ですが、そ
の根底はネットがもつ創発性をもとにしています。ネットには、一局集中がおこりやすい傾向。ポピュ
リズム的な面あります。また「ロングテール」というマーケティング用語も、ネットそのものがもつニッ
チが広がるオタク的な面です。

30:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/03 14:35:12
「Web2.0的なもの」と「ロングレール的なもの」の二極化

ここにはともに差異化運動が関係しています。群衆の中で、少しでも差異を見いだそうとして群れる
祭り的な面と、よりマニアであろうという差異を見いだすオタク的な面です。どちらもネットの楽しみか
たであり、だれもがこの二面性を楽しんでいるのでは、ないでしょうか。

たとえば個人的なことをいえば、2ちゃんねるの楽しみ方は、ニュース+板、実況板など(VIPは早す
ぎで意味不明で良くわらない)流動性の高い板で毎夜行われている祭りを楽しみます。それととも
に、哲学板のような過疎板のさらにラカンスレなどのような過疎スレというニッチにボチボチ書き込み
楽しみます。

「ロングテール」はほんとうに儲かるのか、という話がありますが、それは本質的な問題ではありま
せん。いかに儲けるのか、儲かるかとは別に、ネットでは、「Web2.0」的なものと「ロングレール」的が
二極化しています。

>>
だから情報化社会の「選択のインフレーション」でまず重要な選択は、何が「重要なこと」で、何が「重
要でないこと」かの選択です。

情報化社会において、ほとんど多くのことは「重要でないこと」に分類され、社会の「マクドナルド化」
によって、ナビゲートされるままに任せて、「とりあえず」満足することを求めます。そして多くの選択
を「重要でないこと」とするのは、一部の「ゆずれない」「重要なこと」に労力を割くためです。たとえば
父親なら仕事であったり、母親なら家族であったり、子供ならばオタク的趣味であったり、自らのアイ
デンティティを支えるものです。

「なぜ映画はおもしろくないのか」 URLリンク(d.hatena.ne.jp)
<<

31:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/03 14:41:22
Web2.0の受動性

記号消費では、マーケティングによるマスメディアの主導性があった。懸命に差異化を生み出すよう
に、マーケティングが行われ、人々の欲望を満たそうとしてた。消費がアイデンティティを支える役目
をもった。

ネットのコミュニケーションの活発化において、Web2.0は主導性は低いようにおもう。マーケティング
はより受動的な位置におかれる。Googleはまさにただ乗りであることで、ネット上の勝ち組でいられ
るのかもしれない。ネットでは、積極的に、主張をしないことが重要なことである。

32:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/03 22:08:32
■なぜGoogleはただ乗りなのか

「Web2.0」、「CGM」、「ロングテール」

>>
ネット時代の新潮流―CGMとは
URLリンク(www.itmedia.co.jp)

今、Web2.0のキーワードが注目を浴びています。その中に内包される概念としてCGM
(ConsumerGeneratedMediaの略)が存在します。簡単に訳すと消費者が生成したメディアとでも言う
べきものなのですが、一般的には消費者が作成、または見つけ出した情報を投稿(Web上にアップ)
し、発信されていくコンテンツの総称がCGMと呼ばれていることが多いと思います。

Web2.0の話とCGMの話を混同して語られている例が、よく見受けられます。しかし、Web2.0が提唱す
るブログやSNSなど「プラットフォームとしてのWeb」(以後CGMのプラットフォームと呼びます)と、そ
の中で増殖するCGMへのアプローチは、まったく異なる次元の話です。
<<

ネットには、一極集中なポピュリズム的な面があり、人が集まるところに人が集まります。たとえば
「Web2.0」、あるいは「CGM(ConsumerGeneratedMedia)」はマーケティング用語ですが、その根底に
はネットがもつこのような創発的な動力をもとにしています。

またそれとは別の傾向があります。ネットはニッチな興味を持つ人々が出会うことができます。そし
てこのようなニッチが広がるオタク的な面がネットの裾野の広さを支えています。そしてネットそのも
のがもつこのような動力をマーケティングへと応用したものが、「ロングテール」です。

33:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/03 22:09:48
「Web2.0的なもの」と「ロングテール的なもの」の二極化

たとえば個人的なことをいえば、2ちゃんねるの楽しみ方は、ニュース+板、実況板など流動性の高
い板で毎夜行われている祭りを楽しみます。それとともに、哲学板のような過疎板のさらにラカンス
レなどのような過疎スレというニッチにボチボチ書き込み楽しみます。

ここにはともに差異化運動が関係しているように思います。群衆の中で、少しでも差異を見いだそう
として、群れる祭り的な面と、よりマニアックであろうという差異を見いだすオタク的な面です。どちら
もネットの楽しみかたであり、だれもがこの二面性を楽しんでいるのでは、ないでしょうか。

たとえば「Web2.0」は成功するのか、「ロングテール」はほんとうに儲かるのか、という話があります
が、それは本質的な問題ではありません。ネットでは、「Web2.0的なもの」と「ロングレール的もの」が
二極化して起こっており、いかに儲けるのか、儲かるかは、そこからいかに利益を上げるか、知恵を
絞れ、ということです。

34:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/03 22:11:16
消費への依存度の低下

かつてのマーケティングと結びついた差異化運動といえば、ボードリヤールがいうような「記号消費」
です。ブランド品のような他者と少し違うものを消費することによって、自己のアイデンティティを見い
だす。ここでは、広告などマーケティングによるマスメディアに主導権があり、たとえば最近の販売店
の「テーマパーク化」のように、人々の消費への欲望をかき立て、ブームとしての動力を起こすよう
に、能動的に知恵が絞られました。

しかしネットのコミュニケーションの活発化において、「Web2.0」、「ロングテール」では、すでに動力が
あります。逆に売り込みの積極性が見えたとき、ネットの創発性の波は引いてしまいます。

さらには、もはや消費は、楽しみの選択の一つでしかありません。受動的に与えられる商品より、
ケータイの爆発的普及のように、他者とのコミュニケーションを楽しむ時代です。たとえば2ちゃんね
るなどネットそのものが、テーマパークです。消費へ依存していた欲望は、その依存度が減少してい
るということです。これは、消費資本主義そのものの変革を意味するかもしれません。

35:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/03 22:11:49
「Googleはただ乗りだ」

ネットの動力をいかに活用するか、という受動的なマーケティングシステム、気がつくと購入してい
る、あるいは知らないうちに購入している、ことが重要です。最近なにか、仕掛ける側としての能動
的な面が語られることが多いGoogleですが、「Googleはただ乗りだ」といわれるようなネット上の能動
的な変化に乗っかる受動性の徹底に本質があるのではないでしょうか。

その意味では、群衆によって突然創発的に発生した「YouTube」という動力に「ただ乗り」しようという
試みはGoogle的だったとも言えます。しかし「ただ乗り」にしては、はでに大金を払い、能動的にふる
まいすぎたことで群衆にそっぽを向かれる心配が残りますが。

36:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/04 00:06:05
先進国の豊かさは、後進国からの搾取の上に成り立っている。
世界のお金持ちトップ500の総資産>その他60億人の総資産
当然、金持ちは平和という現状維持を求める。それは、核の独占で維持されている。
先進国が核を使わないだろうという神話は、この搾取の構造が保たれる限りです。
そして世界が競争世界ならば、貧しい人々が豊か人々へ攻撃することは当然行われることです。

だから北朝鮮の核保有を擁護するつもりはありません。ボクもまた先進国で豊かさを
享受している身として、核兵器と打ち込まれたり、戦争とか、革命とか、されても
困るわけです。この平和が続いてほしいと思います。

37:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/06 00:41:32
ネットには素人エロ画像が溢れています。カップルで取ったものが流れてものが多いでしょうが、
他の中高生が好奇心のように自分取りを流したようなもの、あるいはそれでお金をもらっている
のでしょうが、多いですね。援交の簡単なものような感じでしょうか。

若気の至りというか、大人になるとこういうのは後悔することになるのでしょう。
大人になると保守化する。
こういうのは、社会の中に位置を見いだしていくことに関係するのでしょうね。
若いときは、居場所が固定しない流動性の中にいて、
外部という広い所へ向けて、裸をさらすが、
回りが見てくると、それが固定されついて回る。

世界は小さいので、一度のミスは一生言われ続けますね。


38:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/06 18:23:54
ディズニーはウェブ1、渋谷はウェブ2。
人を楽しませるアプリケーションを提供するディズニー
人が楽しむ場を提供する渋谷
ネットは楽しむ場がつくられやすい。移動にコストがかからない。匿名で参加しやすい、いることはすでにコミュニケーションをのぞむ積極的な主体であるなど
コミュニケーションが活性化する創発的な場である。
作られたものより変化するダイナミズムを楽しみ場である。
データベース的場、ロングテール的なものと、コミュニケーション的場、ウェブ2の二極化

39:考える名無しさん
06/11/07 20:50:39
いやっほ~~~~~~~ぅ~~~~~~~~~


40:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/08 10:43:22
「グーグル、アマゾン化する社会」にはなぜ2ちゃんねるがでてこないのか

41:考える名無しさん
06/11/08 10:50:05
なにこれ?
ぴかぁ~?

42:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/08 10:51:59
グーグルやアマゾンへの一極集中といいつつ、二極ある?というベタにボケつつ、
集まるところにあつまりやすいと、ヤフー、2ちゃんねるなどでも起こっていることだろう。
グーグルのすばらしさは収益に反映されている。勝ち組ということだ。
勝ち組、負け組ははじめから経済学的価値基準が導入されている。はじめからネオリベ的世界なのである。

43:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/08 10:56:09
2ちゃんねるは非営利サイト(ひろゆきはそこそこもうけているが)なので、話にはでてこないし、ウェブ2に入らない。
この排除される経済学的なものの外部とはなんだろうか


44:考える名無しさん
06/11/08 10:59:55
>>43
>2ちゃんねるは非営利サイト(ひろゆきはそこそこもうけているが)なので、話にはでてこないし、ウェブ2に入らない。

ネタなのか、本気でWeb2.0が何なのか理解していないのかはっきりしろよ。

45:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/08 11:14:13
僕たちは通信費、ブロバイダー費、パソコン、ソフト費を払い、ネットに接続するが
ネット上での様々なサービスはただて享受している。
これらサービスはだれかが作ったものである、対価なく提供されるものもあるが、多くは対価をうける。
グーグルのほとんどの収益が広告であるように、ネットから金を徴収する方法は
広告料であり、テレビと同じように間接的に僕らはお金を支払っていることになる。
ウェブ2は簡単にいえば、より広告費を回収する方法ということになり、グーグル、アマゾンなどがそれで大成功を収めたために
市場で話題になっているということだ。

46:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/08 11:18:42
このために僕達はより良質なサービスが見掛け上ただて手に入り、より適切な商品紹介がえられる。
経済学の外部にあるネットの特性、一極集中と分散化の二極化した力動を活用し、活性化する。

47:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/08 11:27:34
ベタにいえば現在、日本にある五兆円の広告費の取り合い、まだネットは五%で、伸びる。
2ちゃんねるとミクシィは比較されるが、ミクシィは営利のために質のよいサービスを提供するよう管理が行われている。
会員制は形骸化しているが、管理されていることのPRになっている。

48:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/08 11:51:54
しかしミクシィと2ちゃんるを単に管理の違いで比較できない。中身がかなりちがう。
様々な問題を起こしつつ、匿名であることは多くの意義を生んでいる。

49:考える名無しさん
06/11/08 12:10:58
一元的にも考えられないかーーーヤフー検索:c点による時空論ーー

50:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/08 12:11:26
お金の力とはまさにわかりやすさにあるだろう。
中身は多様で様々であるが、そこに関連する金額により、セカイに意味付けされる。
言語化されないものは存在しないとすれば、価格化されないものは存在しない。
言語化されてもその意味は特定さるずコミュニケーションが宙吊りされる中でより的確に意味を与える。
そこにからむ価格はいくらか?千円?十万?一千万?百億?一兆?
たしかにこの数字の意味はコンテクストに依存する。一万円の意味は子供には大問題だ。
それでもある重要度をつまえるリアリティをもちえている。
たとえばあなたがなんかの損害を与えた被害額が一万なのか、一千万なのか、百億なのか
それは感覚的に他者との関係も意味する。命は価格化できないが、一人への損害に百億はないだろうし、
百億の損害は感覚的にある程度の他者へ損害をあたえるだろう。
会社運営なら百億の投資はかなりの労働者の生活に関係するだろう。

51:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/08 13:12:07
■「グーグル、アマゾン化する社会」にはなぜ2ちゃんねるがでてこないのか。

五兆円の広告費の取り合い

僕たちは通信費、ブロバイダー費、パソコン、ソフト費を払い、ネットに接続するが、ネット上での様々
なサービスはただて享受している。これらサービスはだれかが作ったものである、対価なく提供され
るものもあるが、多くは対価をうける。

グーグルのほとんどの収益が広告であるように、ネットから金を徴収する方法は、広告料であり、テ
レビと同じように間接的に僕らはお金を支払っていることになる。Web2.0は簡単にいえば、より広告
費を回収する方法ということになり、グーグル、アマゾンなどがそれで大成功を収めたために市場で
話題になっているということだ。

ベタにいえば現在、日本にある五兆円の広告費の取り合い、まだネットは五%で、伸びる。2ちゃん
ねるとミクシィは比較されるが、ミクシィは営利のために質のよいサービスを提供するよう管理が行
われている。会員制は形骸化しているが、管理されていることのPRになっている。

このために僕達はより良質なサービスが見掛け上ただて手に入り、より適切な商品紹介がえられ
る。経済学の外部にあるネットの特性、一極集中と分散化の二極化した力動を活用し、活性化する。

52:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/08 13:14:31
経済学的なものの外

ただグーグルやアマゾンへの一極集中といいつつ、二極ある?というベタにボケつつ、集まるところ
にあつまりやすいと、ヤフー、2ちゃんねるなどでも起こっていることは必ずしもこのような経済学的
なものに還元されない。

グーグルのすばらしさはあくまで収益に反映されている。勝ち組ということだ。勝ち組、負け組ははじ
めから経済学的価値基準が導入されている。はじめからネオリベ的世界なのである。2ちゃんねる
は非営利サイト(ひろゆきはそこそこもうけているが)なので、話にはでてこないし、Web2.0に入らな
い。この排除される経済学的なものの外部とはなんだろうか

ミクシィと2ちゃんるを単に管理の違いで比較できない。中身がかなりちがう。様々な問題を起こしつ
つ、匿名であることは多くの意義を生んでいる。

53:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/08 13:15:12
■なぜお金にはリアリティがあるのだろうか

お金の力とはまさにわかりやすさにあるだろう。中身は多様で様々であるが、そこに関連する金額
により、セカイに意味付けされる。

言語化されないものは存在しないとすれば、価格化されないものは存在しない。言語化されてもそ
の意味は特定さるずコミュニケーションが宙吊りされる中でより的確に意味を与える。そこにからむ
価格はいくらか?千円?十万?一千万?百億?一兆?

たしかにこの数字の意味はコンテクストに依存する。一万円の意味は子供には大問題だ。それでも
ある重要度をつまえるリアリティをもちえている。

たとえばあなたがなんかの損害を与えた被害額が一万なのか、一千万なのか、百億なのか。それ
は感覚的に他者との関係も意味する。命は価格化できないが、一人への損害に百億はないだろう
し、百億の損害は感覚的にある程度の他者へ損害をあたえるだろう。会社運営なら百億の投資は
かなりの労働者の生活に関係するだろう。そしてそれだけあなたへの責任は大きくなり、リアリティ
を持つのである。

54:考える名無しさん
06/11/08 14:38:22
ぴかぁ~の認識でWeb2.0を語っていいものかどうか聞いてみたところ、
釣りと思われてしまったよ。典型的な誤認識のようだ。

633 :nobodyさん :2006/11/08(水) 11:39:49 ID:TFJZHqlJ
内容は漠然としていますが、専門の方々の意見を聞きたくてここに来ました。
ある高尚な思想家が、Web2.0とは、より広告費を回収する方法であると言ってます。
また、その人は、2ちゃんねるは非営利であることが理由でWeb2.0には入らないと言っております。

この人の言っていることは正しいのでしょうか?勘違いとかしてないでしょうか?


634 :nobodyさん :2006/11/08(水) 12:33:47 ID:???
>>633
正しくありません。
その愚かな思想家が何者であるのか私は知らないが、そんな事を言う奴は窓から投げ捨ててしまえ。


635 :nobodyさん :2006/11/08(水) 12:34:20 ID:???
釣り方が下手すぎるぞバカ。

55:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/08 14:49:20
しかし最近の株式市場などのマネーゲームな面において、このよなお金に対する責任は
失われつつあります。
それもまたたとえば岩井の貨幣論や柄谷によって指摘されているように、お金本来が
もつ虚構性であり、この虚構性というお金の本質が、リアリティを持ち得ることが、
お金の不思議と言うことです。

マネーゲームであろうが、そこに出た負債は社会的な責任によって返済しなければ
なりません。マネーゲームのお金は、僕らが普段1000円のスペシャルランチは
贅沢だから、700円のAランチにしようという、お金となんら変わりません。

56:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/08 15:51:51
■なぜお金にはリアリティがあるのだろうか

「How much?」ほど的確なコミュニケーションはあるだろうか

お金の力とは「意味(価値)」のわかりやすさにあるだろう。ある対象はお金による価値化されること
で、セカイに意味付けされる。

たとえばあるカバンがあり、そこには製造面、デザイナーの思い入れ、カバンマニアによる解説など
などあっても、1万円と価値化されることで、還元され、様々な意味への理解とは関係なく、誰もが1
万円という意味(価値)を理解する。誰にでも、どこでもというこのわかりやすさこそが、お金の力で
ある。

ある対象が言語化されてもつ意味(価値)は、質的なものであり、人それぞれ、コンテクストによって
曖昧である。それに比べて、「How much?」ほどセカイの中で早くて、的確なコミュニケーションはあ
るだろうか。

57:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/08 15:52:30
「お金として価値化されないものは存在しない。」

言語論では、「言語化されないものは存在しない」といわれる。言語化されなければ、他者にコミュニ
ケーションすることができず、社会に流通されない。意味があるものは何らかの名付けが行われて
いるということだ。とすれば、同様に「お金として価値化されないものは存在しない。」と言えないだろうか。

しかしセカイにはお金に換えられないものはいくらでもある。思い出の品は値段がつけられない。し
かしこれはその対象に思い入れがある人の価値であり、一般的には中古品市場でお金として価値
化され、社会的に流通していく。

あるいは人の命は決してお金に換えられない。これはその人に思い入れがある人だけではない。倫
理として人の命はお金に換えることはできない。難病の高額な医療費で命が助からないなどの話が
あるとしてもである。

すなわち人間の心に関係する部分はお金に換算することは倫理的にできない。それは人間の尊厳
に関わるからだ。だから対象の言語による意味付けに比べて、お金による価値化には限界がある。
だからといってお金の力が弱まるわけではない。いわばお金の力が強力すぎるための制限である
といえる。

58:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/08 15:53:06
金額の意味

お金によって価値化された金額そのものにもまた「意味」が発生する。たとえば1万円の意味(価値)
は大人にはたいしたことはないが、子供には大問題だ。お金は量化され、コミュニケーションにおけ
る的確さ、高速化の力をもつが、その金額はあるコンテクストで意味を発生される。

たとえばあなたがなんかの損害を与えた被害額が1万円なのか、1千万円なのか、百億円なのか。
それは感覚的に他者との関係も意味する。命は価格化できないが、1人への損害に百億円はない
だろうから、(アメリカの裁判では異なるが)百億の損害は感覚的にある程度の人数の他者へ損害
をあたえるだろう。会社運営なら百億の投資はかなりの労働者の生活に関係するだろう。

そのようにお金はあなた責任という意味を負荷し、そこにお金のリアリティが生まれるのである。

59:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/08 15:53:58
お金の虚構性によって支えられるお金の力

しかし最近の株式市場などのマネーゲームな面において、このよなお金に対する責任、そしてリアリ
ティは失われつつある。たとえば岩井の「貨幣論」(ASIN:4480084118)や柄谷によって指摘されてい
るように、お金がお金であるのはお金という位置にあるからだ。すなわちマネーゲームのようなリア
リティの喪失はお金が本来がもつ虚構性である。逆に、この虚構性というお金の本質が、リアリティ
を持ち得ることが、お金の不思議と言うことだ。

しかしお金の持つ虚構性こそが、様々な質的な意味を切り離され、コミュニケション上における的確
さ、迅速さというお金の力を支えているのだろう。

お金のリアリティは、コミュニケション上における的確さ、迅速さというお金の力を元にしている。この
お金の力によって、お金という価値が共有の価値、すなわち社会性として、より広く、そしてグローバ
ルにセカイに広がる。そしてお金を持つ者はそのお金を持つ者としてセカイの一員としての責任を
持った者として意味づけされる。これによってお金のリアリティはうまれるのだ。


60:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/10 14:45:18
マルクスが考えるお金の力とはその非対象な位置にある。
お金はさまざまな商品と交換可能だが、ある商品はその商品を必要としているものを探さなければならない。
これがマルクスの考えるお金の位置であり、力だ。

そして岩井がいうのは、まさにこのような位置にいるからお金であるというラディカルである。
マルクスのいう労働価値とは切り離されているというお金の虚構性である。


61:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/10 14:52:35
このような虚構性は物質と切り離された数字のもつ力により可能になる。
数字の力、質を量に変換する還元力、それにより達成される高速で的確なコミュニケーション。
様々な質を数字に還元し高速で的確なコミュニケーション網に流通させる。


62:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/10 15:17:13
たとえばすべての商品に価格がつき、相対化され、コミュニケーション網が構築されても
そこにお金がなければ交換は促進されない。
価格体系はお金を介した繰り返される交換の中でバランスされる。


63:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/10 15:51:09
昨日やっていたサントリーのウイスキーブレンダーの話はすごかったですね。
0.1%のブレンドの味を見分ける。
まるで精密機械のようです。しかしプロとはあのようなものなのでしょう。

64:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/10 15:58:17
毎日、昼食はうどんで体調を一定に保つ。先鋭化された機械であるとともに、強い自信、信念を感じました。
単なる機械でなく、組織の大切な役目、責任を背負い、そこに強いアイデンティティを見いだしているのでしょう。
ある意味でひとつの最高のエクスタシーの在り方でしょう。

65:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/10 16:06:43
産業革命で労働がギルド的職人から合理化、標準化されることで、代替容易なものになりました。
いまの下流の代表仕事、コンビニなどは工場ラインより代替可能性があがっています。
工場ライン仕事も最近は中国でも技術熟練が要求され、賃金もかわります。
代替可能性としてのマニュアル化された労働機械化と社内でも唯一、世界的にも限られた代替不可能な精密機械化、
この対比はおもしろいですね。


66:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/10 16:11:52
あのような意味で仕事は楽しいのでしょう。あれほどの強烈なまなざしを感じることが他にあるでしょうか。
宇宙戦艦ヤマトのまなざしです。

67:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/11 21:51:16
「無垢」としての「仕事」の消失。「無垢」の多様化、分散化。

>>
仕事以外にあれほどの強烈な「まなざし」を感じることが他にあるでしょうか。マルクスにおいても労
働が特別であったように、人は社会的な動物であるとともに、労働する動物であると言えます。その
意味は動物のように自然に対して労働しなければ、日々の糧もえられず生存できないという意味と
ともに、もっとも社会的な快楽(「まなざしの快楽」)という人間的充実をえる方法が仕事だからではな
いでしょうか。
<<

>>
ボクは「未決定の発見論的・創造的なフィールド」を「無垢」と呼んでいますが、正確には「無垢」は物
理的に未決定というだけでなく、他者に強く欲望されている必要があると思っています。他者がそれ
を求めていることで、そこに「発見すべき、創造すべき未決定フィールド」が現れる。価値多様な時代
では人々の欲望は分散し、うつろいやすく、このような「無垢」の強度は低下していると思います。
<<

68:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/12 02:10:44
■続 プロフェッショナル」はなぜカッコいいのか? 

プロフェッショナルへのあこがれと違和感

自分でもおもしろいのは、この番組を見て観じたブレンダーの方への入り交じった複雑な気持ちです
ね。プロフェッショナルとして強い誇りをもてるかっこよさ、うらやましさに対して、会社の一部の機能
(精密機械)となることへの違和感という二面性です。そしてこの誇りは、精密機械であることを元に
しています。

なぜ一部になることに不快を感じるのかは、情報化社会では立ち止まることのの怖さがあるのでは
ないでしょうか。情報化社会ではボクたちはとても俯瞰した視線を手にれました。いまセカイでなに
が起こっているのか、たえず一つ上からのアイロニカルな情報を見ることができます。いわば、高い
塔に棲むことができたと言えます。いつも上から全体を俯瞰し、国民層評論家化し、語ります。

ある対象にこだわることは、高い塔からある一部に降りることを意味します。これは恐怖です。あの
見上げた所から、みなが見下げてなにかを言っているはずです。あるいはもはや忘れ去られている
かもしれません。

69:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/12 02:11:40
「社会の底が抜けている」

これは宮台の「社会の底が抜けている」ことにも繋がるのかもしれません。

>>
「社会(象徴界)」は本来「底が抜けている。」他者とのコミュニケーションの同一性は自明ではない。
ラカンによる、乳幼児期の幼児的全能感=母子の想像的関係から、「父親の審級」による去勢に
よって、「象徴界」を獲得する。すなわち自分の思い通りに行かない他者とコミュニケーションしなけ
れば、何事の達成できない、ことをしる。しかし現代は、「父親の審級」による去勢が行われず、幼児
的全能感から抜け出せず、高い「プライド」、低い「自己信頼」によって、「脱社会的な存在」となる。

宮台真司 「サイファ 覚醒せよ!」
<<

ここでいう去勢とは、社会関係への帰属であり、それは社会の一部として自らの居場所を見いだす
ことでもあります。現代の「幼児的全能感」を支えるのは、全体を俯瞰するような情報の提供です。
それはまた価値の多様化を意味し、社会(親)そのものが「可能性」という言葉のもとに、子供を去勢
することをためらいます。

70:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/12 02:13:33
局部に閉じこもるオタクと社会の一部でありつつ局部に向かうプロフェッショナル

現代の「オタク化」は一見、このような傾向とは別のようです。地に足につけず、俯瞰し評論する客観
的な姿勢では、いつまでも自らを見いだすことができません。その反動によって、現代人は誰もがど
こかオタク化し、ある局所へ没入しています。

このようなオタク化とプロフェッショナルは、ある局所的な一部に対して、深い知識を身につけ、クリ
エイティブに掘り下げている傾向において、とても似ています。しかし大きく異なるのは、オタクとは
自らの興味のある一部に没入することで、その世界に籠もり、全能感を保持します。プロフェッショ
ナルはある一部に没入するとしても、それは仕事として、あくまで社会の一部としてです。

このような状況を映画「交渉人 真下正義」では描かれていましたが、ボクは以前、「「プロフェッショ
ナル」はなぜカッコいいのか?」URLリンク(d.hatena.ne.jp)で書きました。「真下」はオタ
ク傾向であっても、自らの独善的趣向に閉じこもりつつも、社会との一部としてあることも維持するこ
とでプロフェッショナルでもあったということです。

>>
また今回の「交渉人 真下正義」の場合も、鉄道マンたちであり、線引き屋であり、木島刑事であり、
頑固な「プロフェッショナル」がキーになります。「真下」は、オタク犯人に、名指しされ挑戦されること
から、鉄道マンたちから「お前達の遊びに振り回されたく」いわれます。しかし事件が進むうちに、頑
固な「プロフェッショナル」たちが、「真下」を仲間として認めていくのは、彼はオタクなどではなく、「プ
ロフェッショナル」であったことを認められるからです。

「「プロフェッショナル」はなぜカッコいいのか?」 URLリンク(d.hatena.ne.jp)
<<

71:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/12 18:48:58
PS3が発売されたが、最近よく言われるのは、認知の取り合いである。
以前ならば、人が持っている限られたお金をいかに使わせるかの、
取り合いであったものが、様々なものの価格が下がり、
テレビ、ネット、ケータイ、ゲームなど、いまや人の認知量であり、
娯楽時間でありなにを使わせるかの取り合いである。

72:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/12 19:09:26
これが時間でなく、認知限界の問題であるのは、効率化において現れるだろう。
限られ能力でより多くを楽しむこと、楽しませてくれることの、競争であるということだ。

たとえば最近、いじめ問題が様々なマスメディアで取り上げられているが、
少し前は飲酒運転問題だった。ここに見られる傾向は、それぞれ単発的に
提供するのでなく、各マスメディアが連動して、一つの大きな物語として
語り続けることで、まるで連続ドラマをみているように楽しむことができる。
より少ない認知で、情報を享受することができる仕組みである。


たとえばTVドラマ「24」は時間を忘れてみてしまうが、物語がそれぞれ異なる、
映画12本(約24時間)を見るのは、とても付かれるのではないだろうか。
それぞれで設定の読み込みなどが必要とされ、認知能力を使うからである。


このような物語を楽しむ傾向は、ブログでも顕著である。
かつてのホームページと、ブログの違いは、それぞれの間のコミュニケーション
であり、連動性である。
ブログ界隈で流行っている物語に連動し、参加することで、物語の一部となる。
これは、まさにWeb2.0に繋がる。

そしてネットの一極集中化が起こりやすいことに繋がる。
みなが物語を作る楽しみにおいて、みなが集まるところへ向かう。
それが一つのネットの娯楽性である。
たとえば検索するという単発の行為においても、YahooやGoogleなどで
行うことは、そこに物語への参加が見いだせるのではないだろうか。

73:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/12 19:12:56
すなわちWeb2.0とは参加型「物語消費」である。

>>
大塚によれば、オタク系文化においては、ここの作品はもはやその「大きな物語」の入口の機能を果た
しているにすぎない。消費者が真に評価し、買うのはいまや設定や世界観なのだ。とはいえ実際には、
設定や世界観をそのまま作品として売ることは難しい。したがって現実には、実際の商品は「大きな物
語」でるにもかかわらず、その断片である「小さな物語」が見せかけの作品として売られる、という二重
戦略が有効になる。大塚はこの状況を「物語消費」と名付けた。

「動物化するポストモダン」 東浩紀 P50-53 (ASIN:4061495755)
<<



74:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/12 19:22:35
■認知現会社会

認知能力のシェア争い

PS3が発売されたが、最近よく言われるのは、認知の取り合いである。以前ならば、人が持ってい
る限られたお金をいかに使わせるかの、取り合いであったものが、様々なものの価格が下がり、テ
レビ、ネット、ケータイ、ゲームなど、いまや人の認知量であり、娯楽時間でありなにを使わせるかの
取り合いである。

これが時間でなく、認知限界の問題であるのは、効率化において現れるだろう。限られ能力でより多
くを楽しむこと、楽しませてくれることの、競争であるということだ。

たとえば最近、いじめ問題が様々なマスメディアで取り上げられているが、少し前は飲酒運転問題
だった。ここに見られる傾向は、それぞれ単発的に提供するのでなく、各マスメディアが連動して、一
つの大きな物語として語り続けることで、まるで連続ドラマをみているように楽しむことができる。より
少ない認知で、情報を享受することができる仕組みである。

たとえばTVドラマ「24」は時間を忘れてみてしまうが、物語がそれぞれ異なる、映画12本(約24時
間)を見るのは、とても付かれるのではないだろうか。それぞれで設定の読み込みなどが必要とさ
れ、認知能力を使うからである。

75:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/12 19:23:16
Web2.0とは参加型「物語消費」

このような物語を楽しむ傾向は、ブログでも顕著である。かつてのホームページと、ブログの違い
は、それぞれの間のコミュニケーションであり、連動性である。ブログ界隈で流行っている物語に連
動し、参加することで、物語の一部となる。これは、まさにWeb2.0に繋がる。

そしてネットの一極集中化が起こりやすいことに繋がる。みなが物語を作る楽しみにおいて、みなが
集まるところへ向かう。それが一つのネットの娯楽性である。たとえば検索するという単発の行為に
おいても、YahooやGoogleなどで行うことは、そこに物語への参加が見いだせるのではないだろうか。

すなわちWeb2.0とは参加型「物語消費」である。

>>
大塚によれば、オタク系文化においては、ここの作品はもはやその「大きな物語」の入口の機能を果
たしているにすぎない。消費者が真に評価し、買うのはいまや設定や世界観なのだ。とはいえ実際
には、設定や世界観をそのまま作品として売ることは難しい。したがって現実には、実際の商品は
「大きな物語」でるにもかかわらず、その断片である「小さな物語」が見せかけの作品として売られ
る、という二重戦略が有効になる。大塚はこの状況を「物語消費」と名付けた。

「動物化するポストモダン」 東浩紀 P50-53 (ASIN:4061495755)
<<

76:考える名無しさん
06/11/12 19:38:55
動物化とは何ですか?


77:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/13 11:40:23
萌えときもかわいいの違いはなにか?

78:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/13 12:00:05
オヤジやグロテスクな人形をかわいぃといいはじめたのは最近だ。
かわいいが多様化している。これはなにを意味するのか。


79:考える名無しさん
06/11/13 12:03:32
        ,, ―- 、_
      /        '' - ,,
    /             '' - ,,
   /                 ヽ
  i           / /ヽ    !
  ,i          ./ / ''―、   !
  i     ,、 n て'' ノノ    ヾ   !
  i    ノノノ ノ ノ ''´      !  /
      j   ' ´    ノ (    ヽ |
 >-,,  /  ,,=━・!' ,ノ━== ! ノ
 !・  ヽ | ’ニ( ●)iii、 :::::i( ●)ii=i )
 \(てi iヽ   ^' ~     -'  /}
  `i_   、 \        i_    l_j
   `┐ i    /(,,, ,n 〉   /\\   もう物売るっていうレベルじゃねぇぞ!
  ̄ ̄へ    ! '   T''    l |  \  
   |  ! i    ン=ェェi) i ソ )
   |  i´\! ,, -ェ`、_ン ノノ 〈
   |  |  \\,, `―''´//  |
   |  つ   !、_'''''''''''''  /   7

80:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/13 12:08:59
たとえば斎藤はオタクアニメにみられる戦闘美少女をファルスであるといった。
二次元にでもリアルを感じることができるセクシャリティの力をもとにファルスは作動する。
きもかわいいにも同様にセクシャリティが隠されている。
神経質なほどに清潔になりすぎた社会において、グロテクスなものは排除されるが、それ故に引き付けられる力をもつ。
コギャルのメイクや、ルーズソックスなどにも表れる動物的なグロテスクさ。
これらの引き付けられてしまうセクシャリティをかわいいと呼ぶことで許容する。


81:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/13 12:35:51
空気を読みのは、価値の多様化とともに主体の個別化が起こっている。高いフライド。
その中でコミュニケーションのストレスがあがり、その補完として癒し、かわいいが重要になっている。
ある対象へのかわいいという共有により、コミュニケーションを成立される。
かわいい犬の散歩はいろんなひとがよってくる

82:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/13 12:40:22
このようなストレスは機械化される身体ととりのこされる心の分離に生まれる。
たとえば電車にのることだけでも、身体を電車にのせ、荷物として客体することで高速で長距離はこばれる。機械化である。

83:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/13 12:50:32
社会が機械化される中で身体はとりこまれ、場からきりはなされ、様々な場にはり付けられる。
ここでおこるのは心の自立である。切り離されないもの明確化


84:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/13 13:09:21
■なぜ「かわいい」が氾濫しているのか

身体の機械化によるストレスと心の補完としての「かわいい」の浮上

現代におけるストレスは機械化される身体ととりのこされる心の分離に生まれる。たとえば電車にの
ることだけでも、身体を電車にのせ、荷物として客体することで高速で長距離はこばれる。機械化で
ある。社会が機械化される中で身体はとりこまれ、場からきりはなされ、様々な場にはり付けられ
る。ここでおこるのは心の自立である。切り離されないもの明確化。

空気を読みのは、価値の多様化とともに主体の個別化が起こっている。高いフライド。その中でコ
ミュニケーションのストレスがあがり、その補完として癒し、「かわいい」が重要になっている。ある対
象への「かわいい」という共有により、コミュニケーションを成立される。たとえばかわいい犬の散歩
はいろんなひとがよってくる

85:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/13 13:10:01
「かわいい」のセクシュアリティ

萌えや、きもかわいい、エロかわいいなど多様化、氾濫する「かわいい」の強度とはなにか。 オヤジ
やグロテスクな人形をかわいぃといいはじめたのは最近だ。

たとえば斎藤はオタクアニメにみられる戦闘美少女をファルスであるといった。二次元にでもリアル
を感じることができるセクシャリティの力をもとにファルスは作動する。きもかわいいにも同様にセク
シャリティが隠されている。神経質なほどに清潔になりすぎた社会において、グロテクスなものは排
除されるが、それ故に引き付けられる力をもつ。コギャルのメイクや、ルーズソックスなどにも表れる
動物的なグロテスクさ。これらの引き付けられてしまうセクシャリティをかわいいと呼ぶことで許容する。

86:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/13 15:57:47
たとえば三次元的な肉感的リアルなエロから、二次元的オタク的エロへの移行のポイントは萌え、すなわちかわいいの強度にある。
様々な対象がかわいいへと変換されたセカイとは、身体が合理化により乖離された心のセカイである。
肉感的なリアルな身体でない、セクシャリティとしてのかわいい

87:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/15 08:34:40
■合理化とストレス

合理化による「客体化」

たとえば電車にのり移動するとき、身体は狭い空間に詰め込まれて、高速で長距離でこばれる。こ
こでは身体は客体化されている。車による移動は、車を運転するというコントロールする主体である
が、思っている以上に客体的ではないだろうか。目的地が決まれば、運転者であるか、ないかに大
きな意味はない。地図上の決められ経路をとおって、身体は狭い空間の詰め込まれて、運ばれる。

たとえば食事をすることも、街に食堂があり、メニューがありメニューに添った材料が用意されてでて
くる。そこに選択はある点で主体的であるが、だれでもある程度同じような工程を経るということで客
体的である。

ここで言う客体性とは、近代の特徴である「合理化」である。そして合理化を支えているが近代の「技
術」である。社会システムは合理化され、効率が向上し、コストが下がり、物質的な豊かな社会が達
成される。

合理化から離れると急激に不確実性が増すと共に、コストが上がるために、人々は合理化された
過程を自ずと選択している、すなわち知らずに「客体化」されているである。

88:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/15 08:35:15
心身二元論的な「心」の自立とストレス

ここでおこるもうひとつのことは、心の自立ではないだろうか。かつて土着的な人々は場に固定され
て生きることで、場と一体化していた。それが合理化された社会では、身体は客体化、部品化してい
る。それは単に歯車に組み込まれるということでなく、次々と様々な場に貼り付けられる。そして切り
離され、貼り付けられるものとして自分の「身体」が明確化する。

そしてこれを補完するのが物質的な豊かさである。かつての土着のように場に、そして場の他者に
依存することなく、生存することが可能になる。そして「身体」」の自立は、身体を客観視する心身二
元論的な「心」を生む。それが近代に生まれて「自立した主体」である。

そしてこのような心身二元論的な「心」の発生は、合理化によって、より自律的、高いプライドを確立
していく。これは、そもそもにおいて、場に貼り付けら他者と向き合うというストレスが強いられること
を意味する。

89:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/15 08:35:54
「合理化の徹底」によるストレス低減

技術による合理化によって身体は客体化するとともに心の主体的自立がおこる。そして他者のコ
ミュニケーションにおいてはストレスが発生する。

たとえば最近の「マクドナルド化」は、このような他者を回避するストレス低減の方法である。身体が
様々な場へ貼りつけられても、マクドナルド、コンビニ、あるいはファミレスへいくことで、すでに馴染
んだサービスを受けられ、海外でいきなり店に入ってもストレスを感じなくてすむ。ここでおもしろい
のは、合理化によって生まれたストレスが、「合理化の徹底」によって補完されていることである。

合理化の徹底は世界中どこへいっても、同じ場を提供することへ向かっているのかもしれない。たと
えば身体がトルコに運ばれようと、日本と同じようなマクドナルド化された様々なサービスが提供さ
れれば、ストレスを感じることは低減されるだろう。国際的なホテルのチェーン店はそのように作られ
ている。そして「トルコらしさ」は観光商品としてパッケージされ、マクドナルド化され提供される。

このようなことをグローバリズムと呼ぶのだろう。だからグローバリズムは、資本主義という社会シス
テムの合理化、すなわち市場経済の導入を前提に行われる。そしてグローバリズムによって、失わ
れるものが明確になる。どことも異なり、外来者を排他するような土着的な場そのものである。

90:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/15 08:36:47
人は「合理化の徹底」に充足しない

では合理化の徹底において、人は充足するのか。トルコにいって日本と同じサービスがえられるホ
テルに籠もることで充足するか。あるいは観光商品とした観光地をめぐるだけで充足するか。

そうはいかないだろう。そもそも合理化において、「なぜ合理化するのか」、「なぜ技術を向上させる
のか」という問いが隠されている。かつては生存のためであり、豊かさのためである、と答えられた
かもしれないが、現代ではそれらが達成されても、さらに進められるある種の強迫性が現れている。
そのことそのものが表しているがの、「人は合理化の徹底に充足しない」ということだろう。

合理化の徹底でストレスを回避する、一方でスリルを求めている。すなわち合理化から離れると急
激に不確実性が増すと共に、コストが上がるために、多くにおいて、人々は自ずと合理化を選択し
「客体化」されることに充足しながら、合理化の外部を求めている。

合理化の徹底は確実に進んでいるために、多くは合理化に充足しながら、合理化の外部、すなわち
非効率で、非確実でなものへの一点突破を試みるといういう二極化が起こっている。

91:考える名無しさん
06/11/15 09:13:32
ナミヘイさんに質問。
何のためにそんなことしてるのですか??

92:考える名無しさん
06/11/15 10:06:46
なるほどなあ。
新学年のクラス替えでブスばかりのクラスになっても、何週間かする
とブスもカワイく見えてくる。そのうちブスと付き合う男子が出てくる。
だから「カワイイ」と日常で盛んに言うのは、心理学で言う適応だと
思う。
女子の方が、そのような適応に優れている。女子はカワイイを連呼する。
子供を育てるために、汚い子供でも「カワイイ」と思い込まなければ
いけない性だから。
男子の方は「カワイイ」はあまり使わず「カッコイイ」という言葉を
良く使う。特にアニメオタクの男子は、女性の理想像が究極まで行って
しまって現実に適応できなくなっている。女子の言う「カワイイ」は
現実適応であり、男子の言う「カワイイ」はイデア的なものを求める
ものだ。男子と女子では、「カワイイ」の方向が違う。
おそらく昔は、男子が「カッコイイ」のイデアを求め「カワイイ女」を
現実に見ようとしていたのだろう。
映像メディアが発達していったお陰で、現在の男子はカワイイのイデアを
アニメゲームの世界に追い求め、女子は現実適応のためにカワイイを
連呼する。なるほど。そうか。

93:考える名無しさん
06/11/15 11:03:19
URLリンク(ishinoue3.servebbs.com)
URLリンク(ishinoue3.servebbs.com)

94:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/15 13:21:06
合理化とはよりやすく生産し、大量に売ることで設ける。
やすく購入するこてで生活を豊かにするという資本主義システムである。
豊かな時代において、付加価値を求め、単なる安物だけを求めるわけではないとしても
合理的に付加価値品を開発し、生産される。合理的とは単なる安物でなく、利潤追求のための合理性である。

95:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/15 20:41:31
■なぜ合理化はジレンマを生むのか

合理化による「客体化」

たとえば電車にのって移動するとき、身体は狭い空間に詰め込まれて、高速で長距離はこばれる。
ここでは身体は客体化されている。車による移動の場合、車を運転するという主体的であるが、目
的地が決まれば、運転者であるか、ないかに大きな意味はない。地図上の決められ経路をとおっ
て、身体は狭い空間の詰め込まれて、運ばれる。

たとえば食事をすることも、街に食堂があり、メニューがありメニューに添った材料が用意されてでて
くる。そこに選択があり主体的ではあるが、結局、だれでもある程度同じような工程を経て食事にいたる。

ここで言う客体化の例は、近代の特徴である「合理化」によるものだ。合理化とは、生産者がより安く
生産し、大量に売ることで儲ける。そして消費者は安く購入することで生活を豊かにするという、資
本主義システムである。豊かな時代において、付加価値を求め、単なる安物だけを求めるわけでは
ないとしても、合理的に消費者が求める付加価値品を開発し、生産すると言うことであり、合理化と
は利潤追求のための効率化である。

社会システムは合理化され、効率が向上し、コストが下がり、物質的に豊かな社会が達成される。さ
らに合理化は土着的な場から離脱によって、「自由」という快楽をえることができる。そして「合理化」
から離れると急激にコストが上がり、不確実性が増すために、人々はこのような合理化された過程
を気がつかないうちに選択し、「客体化」されているである。

96:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/15 20:42:06
心身二元論的な「心」の自立とストレスの発生

かつて土着的な人々は「場」に固定されて生きることで、「場」と一体化していた。それが合理化され
た社会では、身体は客体化している。それは単に歯車に組み込まれるということでなく、次々と様々
な「場」に貼り付けられる。このときに切り離される部分と残る部分が明確化する。さらに物質的な豊
かさは、かつての土着のように「場」に、そして「場」の他者に依存することなく、生存することが可能
になる。

そして「場」から切り離される部分としての「身体」、そしてその身体を客観視する心身二元論的な
「心」を生む。それが近代的な「自立した主体」である。しかしこのような自立は、その始めから、身体
が様々な「場」に貼り付けらことで、たえず「場」とのストレスが生まれる。

たとえば電話では、移動するのは身体でなく、「場」が移動してくる。ここで「場」とは他者であること
がわかる。「場」とのストレスとは「見知らぬ他者」とのコミュニケーションである。

97:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/15 20:42:47
「合理化の徹底」によるストレス低減

たとえば最近の「マクドナルド化」は、このような他者を回避するストレス低減の方法である。身体が
様々な「場」へ貼りつけられても、マクドナルド、コンビニ、あるいはファミレスへいくことで、すでに馴
染んだサービスを受けられ、海外でいきなり店に入ってもストレスを感じなくてすむ。

ここでおもしろいのは、合理化によって生まれたストレスが、「合理化の徹底」によって補完されると
いう「合理化の循環」が起こっていることである。

合理化の徹底は世界中どこへいっても、同じ「場」を提供することへ向かっているのかもしれない。た
とえば身体がトルコに運ばれようと、日本と同じようなマクドナルド化された様々なサービスが提供さ
れれば、ストレスを感じることは低減されるだろう。国際的なホテルのチェーン店はそのように作られ
ている。そして「トルコらしさ」は観光商品としてパッケージされ、マクドナルド化され提供される。

このようなことをグローバリズムと呼ぶのだろう。あるいは流行りの言葉でいえば、「フラット化する世
界」である。そしてグローバリズムによって、失われるものが明確になる。どことも異なり、外来者を
排他するような土着的な「場」そのものである。

98:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/15 20:43:47
「社会の底が抜けている」

では人はこのような「合理化の徹底」において充足するのか。このような状況は、宮台の言う「社会
の底が抜けている」や、スティグレールの「象徴の貧困」に繋がるだろう。

「象徴的貧困」とは「象徴」の合理化であり、このような「合理化の徹底」によって、帰属する「場」(社
会)から離脱し、「脱社会的な存在」になる、あるいは失われた帰属する「場」を求めて、極端な「アク
ティング・アウト(決行)」が起こる。これはひきこもり、ニート、フリーターの問題でなく、現代人の多く
が共通にもつストレスである。

99:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/15 20:44:33
合理的に「場」を提供するWeb2.0

このようなストレスを回避する場として、最近のネット、ケータイが急激に広まった。このようなネット
コミュニケーションの有用性は、「場」への帰属、離脱を容易にコントロールすることが可能になるこ
とである。

場を求めて帰属し、そこにストレスを感じれば離脱する。2ちゃんねるなどの匿名性に対して、mixiは
顕名性に近いことが売りである。ボクなどは、2ちゃんねるに比べて、mixiへのレスは他者への配慮
としてのストレスを感じる。そして多くの人がこのストレスに繋がっている実感を持つのだろう。

しかしネットそのものは生産者が作りあげ提供した場でなく、創発的に広がり、場が形成される面が
高い。そのために、コントロールが難しく、合理化が困難な無法地帯と思われていた。その中でネッ
トの合理化に成功したのが、アマゾン、GoogleなどのWeb2.0である。

Web2.0とは、いかに合理的に「情報」を提供するかではなく、合理的に「場」を提供し、運営するかで
ある。「情報」は提供すると終了するが、「出会い」はそこから情報交換が行われ、ユーザー間で「情
報」が発展されていく。人々が知りたい情報を提供するかということだけでなく、帰属する「場」を求め
ることで生まれるネットの創発性をいかにうまく合理的に活用するかである。

100:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/15 20:45:14
「合理化」のジレンマ

ここでも合理化によって生まれたストレスが、「合理化の徹底」によって補完されるという「合理化の
循環」が継続されている。資本主義が継続されるかぎりこれは当たり前のことかもしれない。資本主
義において不十分とは次の合理化のためのニーズである。

合理化によって、土着的な「場」から切り離されることで自立してた心身二元論的な「心」は、土着的
な「場」への強い帰属によってしか満たされない。だからネットでは「場」への帰属、離脱を容易にコ
ントロールすることが可能になるということは、いつまでも継続した強い帰属する「場」を提供しないこ
とを意味する。「合理化の循環」はこのようなジレンマを動力にして作動しつづけるのだろう。

101:考える名無しさん
06/11/16 01:52:36
       ┌──¬         ≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪
       》ミ三三彡《         ≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫
       .〔≡≡≡≡〕          ≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦
       .Eニニニニ∃
       ノ::::::::::::::::::::::::ヽ
     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
     | __Π_lニl ┌‐‐┐|            このスレ読んで
     | l_l-l |  // ̄| ||             ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     |  ノ/lニ/ l二__||
     | unko no chikara.|         反吐が出そうなあなたに!
     |       ┌┐ |          ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     |   の l二   ̄l|
     |       ノ / ̄| ||
     |       /_/ ∠_||       ≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧
     | ウンコ エキス ドリンク|      ≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫
     | ケツミリン50㎜配合 |      ≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪
      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

102:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/16 16:17:14
ドラマ「14歳の母」のうすら寒さはなんだろう。
ドラマは基本的に障害がありそれを乗り越えることが描かれる。
特徴的なのが恋愛ドラマだ。男女が障害を乗り越え結ばれることを基本にして、問題はどのような障害シチュエーションにするか。
障害は時代背景を反映する。家柄、身分が重視される時代は、ロミジュリや駈け落ちものなど
現代の価値多様化時代では障害が少なくなり、王道はある愛の詩など病気ものである。
韓国ドラマは障害のデパートである。冬ソナでは事故死、取り合い、親、病気とつぎつぎ障害が表れる。
韓国ドラマがおばさんに受けた理由はこのような障害が彼女達にはリアリティがあるからだ。
彼女達の若い頃はまだ親、友情など社会的な拘束が働いていた。最近ではそんなのお互い好きならいいじゃん!でおわってしまう。
その意味でも日本では障害設定がむずかしく、セカチュウのように、不治の病に回帰してしまうし、
太陽の詩など病名だけがかわっていく。

103:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/16 16:32:25
その中でもボクがおもしろいなと思ったのは、「神様もう少しだけ」だ。
深田恭子演じる女子高生は一夜の援交の過ちでエイズに感染してしまう。あと生きられるのは10年程度。
そんななか金城武演じる挫折しかけの人気音楽プロデューサーと恋に落ちていく。
エイズという現代病、すぐに死なない、セックスできない純愛、現代的障害である。視聴率も高かったがあるリアリティを勝ちえたのだろう。

それで「14歳の母」である。これはかならずしもラブストーリーではないのかもしれないが、障害設定どらまである。
障害設定ドラマは実にわかりやすい。もし恋人が不治の病だったら。もし恋人が高い身分だったら。もし恋人が魔女だったら
そしてもし恋人が14歳で妊娠したら、である。

104:考える名無しさん
06/11/16 16:47:17
その内容はドラマ板だな。
ちなみに「たったひとつの恋」もヒロインがまたも白血病だぞ。

同じ局で視聴率は昨今の事情と比べると逆転してる。でも今週は14歳も下がったけどね。

曲は視聴率を取り、話題に上れば御の字なんだから、おまえががたがた騒ごうが結果は出てる。
タイヨウのうたは視聴率こそ取れなかったが、沢尻の歌のダウンロードの多さが話題になった。
その沢尻のもうひとつの障害もののは後半上げて視聴率とった。ついでに沢尻はその前にも
赤坂で聾唖の役どころだ。これはドラマの筋と関係なかったし視聴率も取れてない。

くだらねードラマばかり見てんなら、ERを見ろ。日本のドラマはこんなもんだ。

105:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/16 16:55:50
このようなドラマで問題になるのが障害をおもしろおかしく描くためのデフォルメが、
実際そのような障害にある人々の悩みと乖離し、見せ物的になることである。
たとえばいま放送されているドラマ「ボクの生きる道」では草薙剛が自閉症を演じているが、このようなよりデリケートな部分にむかっている。
ブスの瞳に恋しているの障害はブス
その意味でいまどき14歳で妊娠はそれほどめずらしくはないだろう。
障害は普通なら中絶して終わりが、生む決意をすることだ。
ドラマでは生む決意によりうまれるまわりの苦悩、倫理がヒューマンドラマ的になんらかのメッセージをもって描かれる。
命を大切に、セックスに責任をもてなど
しかし生む必要性がいまひとつ説得力をもち見えてこない。ただくじけず生むことが美学といっているだけのようだ。
そもそもこれは単なる障害設定であり、美談で情緒的に色づけしているだけではないか。
昨日まで小学生役の子役が子供を生むという障害設定のショッキングが売りがあることは否めないし、実際おもしろい。
それにしてはけなげで美しすぎる。それはあまりにうすら寒いのだ。

106:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/16 17:04:11
志田未来の天才的なかわいらしさ、はかなげさ(あえて演技とは言わない)なら、14歳の殺人、でもはかなく美しくなるのではないか
それはあまりにうすら寒い

107:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/16 17:09:08
14歳で子供を生むことがよいとかわるいとかでなく、
あの状況で子供を生むことを美しくみせることにどのような倫理が描かれているというのだろうか

それがまったくみえず美しいことがうすら寒いのだ。

108:考える名無しさん
06/11/16 17:25:13
ドラマを楽しめる人が羨ましいよ。どこが面白いのか分からない。
日本のドラマのほとんどがロリコン向けに作られてる。それとジャニオタ
向け。あとは現実離れしたサスペンスドラマとNHKのオバサン向けドラマ。
もう悲惨。
ドラマって「こういう時はこういう発言や行動をするんですよ」
というメッセージを大衆に与えてて、バカが真似するから害があると
思う。社会学徒はドラマ番組の身体化を研究して欲しいよ。

109:考える名無しさん
06/11/16 17:29:39
志田は笑うとブスだ。シリアスな顔はきれいだな確かに。
で、ERは見たことあんのか?
ドラマをここでぐだぐだ言う前に見ろ。
障害克服ドラマとしても十二分にいけてるぞ。
前クール支持された阿部ちゃんのは結婚できない障害
マイボスは頭が悪い障害
今クールのコトーは孤島での医療行為という障害
のだめは整理整頓できない障害か?

こじつけて面白いかばか

110:考える名無しさん
06/11/16 17:32:28
>>108
ドラマはいろいろ面白い
でも面白くない奴は面白がる必要もなかろう
ドラマがチープでいやだというんならとにかくERをみろ
一話みただけでも映画一本分の価値が見出せるよ

111:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/16 18:04:05
結婚できない男は、もはや結婚に価値を失った現代の独身という障害です。障害としてはよわいが、あんなにおもしろいのは、機微を丁寧に描けたからでしょ。
最近は障害のインフレで恋愛ドラマ受難です。だからこそオバサンはベタな障害のカンリュウにむかった。
セカチューはなぜ受けたのか。一周したということでしょうか

流行は職業もの、特に医者ものが近年流行りです。最近、いじめ問題などで死ぬ死ぬと騒いでいますが、逆にいうと死はまだリアリティがあるということです。
だから死を身近に描ける医者ものはつよい。コトーも小さな島で死にかかわる人がですぎです。あれではコトーに近づくとなんらかの病気になるという疫病神のようです。

112:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/16 18:09:42
職業ものではもう一つは、シチュエーションコメディですね。ナースのお仕事、ヤンクミ、富豪デカ。マイボスもその系譜ですが、
もしヤクザが高校生だったら、奥様が魔女だったらの、これは基本はアニメです。

113:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/16 19:53:02
近代において乖離した心と身の二元論において、その中心は科学で還元された身体に対する体系化である。
これは生物学的な意味でなく、経済学の領域である。合理化、効率的な機械化され管理されるための体系化である。
そして排除された心は、あいまいに、ニーチェによりディオニソス的と呼ばれたように反動的に語られた。
それを体系化しえたのが、言語の体系を示した構造主義である。

114:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/16 22:05:01
■なぜドラマ「14歳の母」はうすら寒さのか

恋愛ドラマにおける障害設定のリアリティ

ドラマは基本的に障害がありそれを乗り越えることが描かれる。特徴的なのが恋愛ドラマだ。男女
が障害を乗り越え結ばれることを基本にして、問題はどのような障害設定にするか。障害は時代背
景を反映する。

たとえば家柄、身分が重視される時代は、ロミジュリや駈け落ちものなどが語られた。しかし現代の
価値多様化時代では、もはや社会的拘束にリアリティはない。その意味で最近は障害設定のインフ
レーションが起こり、恋愛ドラマ受難の時代と言える。だからこそオバサンはベタな障害設定の韓流
にむかったのだ。

韓国ドラマは障害のデパートである。冬ソナでは事故死、取り合い、親、病気とつぎつぎ障害が表れ
る。韓国ドラマがおばさんに受けた理由はこのような障害が彼女達にはリアリティがあるからだ。彼
女達の若い頃はまだ親、友情など社会的な拘束が働いていた。最近ではそんなのお互い好きなら
いいじゃん!でおわってしまう。

115:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/16 22:05:47
不治の病という現代のリアリティ

現代の王道は「ある愛の詩」など病気ものだろう。最近でも「世界の中心で愛を叫ぶ」のような不治
の病ものは強い。「タイヨウのうた」など、様々な病名を買えて繰り返される。

その中でもボクがおもしろいなと思ったのは、「神様もう少しだけ」だ。深田恭子演じる女子高生は一
夜の援交の過ちでエイズに感染してしまう。あと生きられるのは10年程度。そんななか金城武演じる
挫折しかけの人気音楽プロデューサーと恋に落ちていく。エイズという現代病、すぐに死なない、
セックスできない純愛、現代的障害である。視聴率も高かったがあるリアリティを勝ちえたのだろう。

116:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/16 22:09:40
「14歳の母」のけなげな美しさ

それで「14歳の母」である。これはかならずしもラブストーリーではないのかもしれないが、障害設定
ドラマである。いまどき14歳で妊娠はそれほどめずらしくはないだろう。このドラマの障害設定は普
通なら中絶して終わりであるのに、生む決意をすることだ。

ドラマでは生む決意によりうまれるまわりの苦悩、倫理がヒューマンドラマ的になんらかのメッセージ
をもって描かれる。命を大切に、セックスに責任をもてなど。しかし中絶せずに生む理由がいまひと
つ説得力をもって見えてこない。

昨日まで小学生役の子役が子供を生むという障害設定のショッキングが売りがあることは否めない
し、実際おもしろい。そもそもこれは単なる障害設定であり、それを志田未来の天才的なかわいらし
さ、はかなげさ(あえて演技とは言わない)で情緒的に色づけしているだけではないか。

14歳で子供を生むことがよいとかわるいとかでなく、あの状況で子供を生むことを美しくみせること
にどのような倫理が描かれているというのだろうか。それがまったくみえず美しいことがうすら寒いのだ。

117:考える名無しさん
06/11/17 02:03:41
山越えたな

118:考える名無しさん
06/11/17 02:34:06
個人所有の日記スレッドは下げること。

119:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/17 10:17:55
障害設定ドラマでありなから、また不治の病と同じ構造をもつ。
死を担保にして生きることを美しく描く。死を担保にしているから生きることを美しく描ける。
しかしこの問題を病と同じ構造で描くことはよいのだろうか。この問題で安易に生の礼賛につなげてよいのだろうか


120:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/17 10:22:45
いじめ問題の自殺の反響と便乗。死にはリアリティがある。もはや死しかリアリティがない。
死を担保にしてしかコミュニケーションが成立しない社会にむかっている。あるいはそれさえもリアリティを失いつつあるのかもしれない。

121:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/17 10:33:44
死のリアリティは近代の発明である。なぜなら死とは主体の死であるからだ。
死んだらすべて終わるという死だ。
近代化の中で主体の自立がおこり、現代は肥大している言われる。それが終わることの恐怖。だから死はリアリティをもつ。
そして死を担保にしてしかコミュニケーションが不可能な社会へむかっている。肥大する中身はわからないが、肥大していることは共通である。

122:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/17 10:49:46
しかし安易な死の担保はまた死のコミュニケーションが困難になっていることの裏返しかもしれない。
ここには死の二面性を考える必要がある。心の死と身体の死である。


123:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/17 12:17:40
たとえば北朝鮮の地方では飢てしんだ子供の死体が道端にころがっているのが一般化している。
このような死体はいわば動物の死体である。コミュニティから阻害され、心あるものとしての強度が低下し、ただ身体として扱われる。
心はコミュニティ内の繋がりで保障される。しかし近代のコミュニティは豊かさ
の広がりとともに希薄に広がり、他者からの依存、コミュニティからの逸脱が心を肥大させる。

死の重要性ははある意味で大きくなるが、またある意味で小さくなる。
すなわち心の問題の位置である。

124:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/17 19:35:26
現代はコミュニティの拘束力が低下している中で代替可能性が浮上し、死の尊厳は低下する。
しかしいじめ問題の自殺はなぜあれほど反響をよんだのか
ボクたちは画面の向こうのコチェビの死に心痛める。それを放置する北朝鮮の人々を非難する。
マザーテレサが来日したとき、街の浮浪者に手を差し伸べ、日本人はがくせんとした。
なぜボクたちは画面の向けうのコチェビに同情し、隣の浮浪者には無関心なのだろうか。

人は日常になれてしまうのだ。いじめの自殺は非日常としてボクたちの前にあらわれた。
そして重要なことはコミュニティを立ち上げることだ。コミュニティに支えられた死の価値は代替不可能性により保障される。
コチェビの死がコミュニテイを立ち上げ、彼らをボクたちの一部であると認識しているのだ。
現代のコミュニティは、かつての土着的に固定されたものではなく、そのつど浮上する。
階級社会から民主主義において、人間は平等になった。優生学は最近まで信じられていたのが、遺伝子的に動物的な差異により平等は保障される。
それが最大のボクたちのコミュニティであるがあまりに希薄だ。死でさえ情動的な産物となる。

125:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/17 19:47:47
このようなリアリティと情動の関係はさまざまなところで表れるが、最近ではネットで顕著である。
ネットはさらに匿名で代替可能な場であり、流動性の高い場では、祭りによりコミュニティはつくらる。

126:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/17 19:52:38
リアリティは波のようにあらわれ波のようにさる。
少し前、連日、飲酒運転の話題が取り上げられたきっかけは子供の死だった。
それもすっかり消え、いまはいじめである。これも悲惨な自殺からはじまり、そして飽きられていくだろう。
それが認知限界社会である。

127:考える名無しさん
06/11/17 19:56:13
       ┌──¬         ≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪
       》ミ三三彡《         ≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫
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     |   の l二   ̄l|
     |       ノ / ̄| ||
     |       /_/ ∠_||       ≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧
     | ウンコ エキス ドリンク|      ≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫
     | ケツミリン50㎜配合 |      ≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪
      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


128:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/18 09:59:14
■なぜドラマ「14才の母」はうすら寒いのか  

恋愛ドラマのリアリティ

ドラマは基本的に障害がありそれを乗り越えることが描かれる。特徴的なのが恋愛ドラマだ。男女
が障害を乗り越え結ばれることを基本にする。問題は障害をどのような設定にするか。このような障
害設定は時代背景を反映する。

たとえば「ロミオとジュリエット」では、障害は家柄であり、駆け落ちものでは身分である。かつてはそ
のような社会的な秩序(拘束)がリアリティをもっていた。

韓国ドラマは障害のデパートである。韓国ではいまでも日本では失われつつある家族関係、家柄な
どの社会的な秩序(拘束)が重要視されているために、恋愛ドラマでも重要な障害として描かれる。
オバサンたちが韓流を好むのは、彼女達が若い頃にも日本でもまだこのような社会的秩序(拘束)
が働いていたためだ。

最近の若い人たちではそのような社会的秩序(拘束)は、お互い好きなら良いじゃん!と、リアリティ
を持ちえない。

129:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/18 10:00:21
「不治の病」ドラマという王道

現代の価値多様化時代では、障害そのものが見いだしにくくなっており、様々に試行錯誤され、障
害のインフレーション状態にあるといえる。たとえば最近では「ブスの瞳に恋している」での障害はブ
スであった。「結婚できない男」では、結婚に価値がなくなった時代という障害をいかに乗りこえるか
である。

その中で現代の恋愛ドラマの障害設定の王道はなんといっても「不治の病」だろう。「ある愛の詩」以
来、最近でも「世界の中心で愛を叫ぶ」や「タイヨウのうた」など、様々に病名を変えて繰り返されて
いる。

その中でも良くできていると思ったのが、「神様もう少しだけ」だ。深田恭子演じる女子高生は一夜の
援交の過ちでエイズに感染してしまう。そんな中、恋人に死なれて挫折しかけの人気音楽プロ
デューサーと恋に落ちていく。援交というセックスの氾濫と対比して、エイズのためにキスをするのも
命がけという究極の純愛である。

130:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/18 10:00:56
「死」のリアリティ

これと同じ理由で最近流行っているのが医療ドラマである。「Dr.コトー診療所」、「ブラックジャックに
よろしく」、「白い巨塔」、「救命病棟24時」、「ナースのお仕事」など。死を身近に描ける点で医療もの
にはリアリティがある。

最近、いじめによる自殺が社会問題になっている。文科相あていじめ自殺予告が送付され、連日
ニュースで放映されて、衝撃を生んでいる。あるいは北朝鮮の地方にはコッチェビ(浮浪児)が、
人々が普通に生活している道ばたで餓死し放置されている。このような場面がワイドショーなどで放
映され、ボクたちは画面の向こうのコチェビの死に心痛める。

これらの例も、価値が多様化し、共有することが難しい時代においても、死は人々の心へ衝撃を与
える力、リアリティを持ち続けているといえるだろう。

131:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/18 10:01:45
死の尊厳はコミュニティへの帰属により生まれる

死の尊厳において重要なことは、その死とコミュニティの関係である。コミュニティに帰属し、その人
が唯一の代替不可能な存在となることで、その人の死は尊いものになる。だからかつて人々が土着
的なコミュニティに帰属していたとき、死はそのコミュニティの一部の死として尊厳を持っていた。現
代なら、ニュースでみた「どこかの誰か」の死とは異なり、自分の家族というコミュニティの一員は代
替できない存在でありその死は尊い。

だからといって「どこかの誰か」だから死に価値がないわけではない。「どこかの誰か」であっても、
「人類」という同じコミュニティの一員であり、倫理的にその死は尊ばれる。

これは人類史でみれば、当たり前のことではない。つい最近まで「人は環境か、生まれか」と真剣に
議論されてきた。生まれながらに価値ある人種と価値が低い人種が存在した。近代以降、階級社会
から民主主義に向かい人間の基本的人権は認められた。そのとき「人類」という最大のコミュニティ
が出現したのだ。コチェビの死に心痛めるとき、このような「人類」というコミュニティが作動している。

そしてこの平等と最大のコミュニティの出現、すなわちリベラリズムは、資本主義社会を作動するた
めに必要であり、現代のグローバリズムの基礎となっている。

132:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/18 10:02:29
なぜコチェビの死に心を痛めて隣の浮浪者の死に無関心なのか

たとえばマザーテレサが来日したとき、街の浮浪者に手を差し伸べた。これに日本人は違和感を覚
えた。ボクたちは、マザーテレサがアフリカの痩せこけた子供を抱く姿をテレビで見ている。日本の
浮浪者はそのような対象だったのか。

そして疑問が湧いてくる。なぜボクたちは画面の向けうのコチェビに同情し、隣の浮浪者には無関心
なのだろうか。

簡単に言えば、人は日常になれてしまうということだろう。コッチェビを放置する北朝鮮人も、浮浪者
を放置する日本人も、そのような日常になれてしまう。そしてボクたちがコッチェビを見て心を痛める
のはそれがボクたちにとっての非日常として現前化するからである。

しかし自分の家族が苦しむことになれることはないだろう。「人類」であれ、「日本人」であれ、大きな
コミュニティへの帰属は弱いものである。コッチェビに心を痛め人は、次の瞬間にはチャンネルを替
えて、お笑い番組にゲラゲラ笑っているだろう。

133:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/18 10:03:15
情動をフックにして浮上するリアリティ

価値多様の時代、多発する少年犯罪などで、死への尊厳は低下していると言われるとき、それは社
会というコミュニティへの帰属意識の低下が考えられる。現代のコミュニティは、かつての土着的に
固定されたものではなく、流動化しており、「不治の病」ドラマやいじめによる自殺やコッチェビのみ
すぼらしさなどによって想起される情動をフックにそのつど浮上する。

現代では、リアリティは波のようにあらわれ波のように去っていく。少し前、飲酒運転によって子供が
死が人々の悲しみを生み、連日、飲酒運転の話題が取り上げられていた。それもすっかり消え、い
まはいじめによる悲惨な自殺から、いじめ問題が連日放送されている。そしてそれもまた飽きられて
いくだろう。

このようなリアリティと情動の関係はさまざまなところで表れるが、最近ではネットで顕著である。ネッ
トはさらに流動性の高い場であり、祭りにより瞬間的なコミュニティはつくられ、リアリティを共有す
る。このような瞬間的な情動によってしか、密接なコミュニケーションが成立しない世界である。

134:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/18 10:04:09
妊娠という「病い」の「14才の母」

ドラマ「14才の母」が話題である。純真な女子中学生が好きな男子中学生との一夜のセックスから
妊娠してしまう。これはかならずしもラブストーリーではない。ここで設定されている障害は14才の
妊娠である。

しかしいまどき14歳で妊娠はそれほどめずらしくはない。このドラマの障害設定は普通考えると中絶
して終わりであるのに、生む決意をすることだ。中絶するか、生むか、すなわち生と死である。

ここには、「不治の病」ドラマと同じ構造がある。(胎児の)死への苦悩を乗りこえて、懸命に生きる。
死を担保にしているからなおさら生きることが感動的で美しい。

このような死を担保にした障害設定によって情動のリアリティを生むことは、エンターテイメントとして
常套手段である。そして障害設定がインフレーションする中、妊娠という「病い」が考えだされた。し
かし中絶せずに生む理由がいまひとつ説得力をもたないまま、妊娠を「病い」と同じ構造によって感
動的に描くことはどうなのだろうか。

14才で子供を生むことが良いか悪いかでなく、あの状況で子供を生むことが、ただ美しく感動的であ
ることがうすら寒いのだ。

135:考える名無しさん
06/11/18 21:23:24
お前も「不治の病」なんだな

136:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/19 17:14:56
■コミュニティはなぜ必要なのか その2 知識としての他者

自由な社会とはお金ですべてが買える社会

資本主義の快楽とはなにかといえば、「自由」ということでしょう。

>>
科学技術の発展は、このような「大きな負債」を軽減してきました。様々な天災、飢饉、疫病など人類
に未曾有の破壊をもたらすものに対して、防衛力を発達させてきたのです。それが、贈与の連鎖とし
ての地域コミュニティの絆を弱めました。そして他者への依存を弱め、「自分の好きなように生きる」
ということを可能にしました。

また貨幣交換による資本主義社会そのものが、このような贈与関係の希薄によって可能になってい
るといえるでしょう。貨幣交換においても、紙幣という紙きれに価値があるというルールを共有する
内部が必要とされますが、このような内部は贈与によって支えられるコミュニティに比べれば、繋が
りとしては希薄です。

「なぜコミュニティは必要なのか その1」
<<

137:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/19 17:15:40
科学技術、そして資本主義社会の発展において、他者への依存が低減され、個人の自立と自由が
可能になってきました。近代化における宗教革命、市民革命は、従来の他者との拘束関係から個人
の自由度を高める震動であると言えます。そして貨幣交換による市場経済はそれら補完し続けてき
ました。自由な社会の一つの究極は、お金ですべてが買える社会にあるでしょう。

>>
だから一人で生きて行かなければならない。そのためのは「お金」だけが頼りになるのです。そして
なんでもお金で買えるように社会システムの構築が進んでいます。お金があればなんでもできる、と
いうのは、システム化された社会です。お金で買えるものによって、システムとして世界を網羅している。

「なぜコミュニティは必要なのか その1」
<<

138:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/19 17:16:36
回帰し続ける純粋略奪と闘争としての労働

しかし自然との闘争は決して終わりません。天からの「純粋略奪」は回帰しつづけます。産業革命以
来の急激な成長は、ある種の高揚感とともにがむしゃらに進みました。しかし高揚感から冷めてくる
と、様々な問題が見えてきたのが、現代ではないでしょうか。たとえば環境問題は、人は結局、自然
を乗り越えていなかった。「自然にやさしく」はウソです。自然を乗り越えたつもりが、なにも乗り越え
ていなかったという、無力を隠すためのものです。環境問題は回帰する天からの「純粋略奪」です。

そして天からの「純粋略奪」は、「例外状態」を生みます。大災害など極限状態においてお金はどれ
ほどの力になるでしょうか。必死でいきるなかで、お金はただの紙切れに戻ります。貨幣交換を認め
る内部の「例外状態」が生まれるのです。そして貨幣交換の繋がりが脆いものであることが暴露され
ます。

マルクスは、コミュニティの基本は、労働があると考えました。自然との闘争、すなわち労働におい
て、他者を必要とし、始めて本当のコミュニティの必要性が現れる。そして労働によって外部を内部
へ回収し、贈与しあうことで、天からの「純粋略奪」を乗り切る。そこに現れるのがコミュニティです。

139:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/19 17:17:40
卑近な他者から知識としての他者へ

しかし科学技術の発展、高度情報化社会において、生存ために他者への依存を弱めたという意味
は、他者が時間的、空間的に卑近な者である必要はなくなってきたということです。現前の他者より
も、時間的には離れている他者=過去の他者や空間的に離れた他者によって、より有用な情報、知
識をえることができます。すなわち「知識というの他者」です。

現前の他者は、かわらない他者です。助けあい、贈与返礼によって交換を行います。「知識の他者」
は、必要なときにより有用な情報をもつ他者と繋がるという特定されことがない他者です。そして知
識を得るためにはコストがかかります。

このような意味で他者を捉えると、ネットの必然性が見えてきます。ネットはローコストで「知識の他
者」と繋がることを可能にします。

140:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/19 17:43:44
他者はただ生存を助け合うものではない。欲望は他者の欲望への欲望である。

141:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/19 17:56:01
資本主義は人々を卑近な他者から分断し、知識の他者化する。
そして知識な他者との距離は貨幣交換いよって繋がり、
そしてその差異に資本が生まれる。

しかしそれをネットでつなぐときに、大きな変化が起こる。

142:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/19 18:31:09
マーケティングは人々の要求をつかむことではない。
差異を利用し、そこに欲望を演出する。

ネットでつなぐとき、差異は埋まる。必要なときに、必要な知識を与える。
間をつなぐ、貨幣交換は必要がなくなる。
しかし現在のネットでは必要な知識を得ることができるだろうか。

たとえば他者の役割とはなにか。
他者へ求められるものが、
簡単な所では体系化された「知識」を聞くこと。
これはすでに体系化している時点で、
ネットでなくても、百科事典などで調べられる。

かつて村社会では老人が重要視された。
長老こそが知識だったから。

だからこそ、現代において他者に求められるのは、
より曖昧なものである。相談するということがある。
漠然として不安、あるいは問いになる前のものである。

ネットの検索は、いわばこの百科事典である。
なにを知りたいかわかり、それに関するキーワードによって
検索する。百科事典がより広く、安価にネット上に映っただけと
言える。

ネットの機能が、検索によるデーターベース機能であるとともに
コミュニケーション機能であるのは、問いになる前の不安に
対応している。

143:第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
06/11/19 23:31:13
「卑近な他者」から「知識の他者」へ

近代では、人々を「卑近な他者」から分断し、「知識の他者」を提供する。そして知識な他者との距離
は貨幣交換いよって繋がり、そしてその差異から資本主義は資本を生む。

たとえば他者の役割とはなにか。他者へ求められるものが、簡単な所では体系化された「知識」を聞
くこと。これはすでに体系化された学問であり、百科事典に象徴されるような知識である。かつて村
社会では老人が重要視された。長老こそが知識だったからだ。もはや老人に聞くよりも、本や専門
家などの「知識の他者」に聞く方が的確である。

さらに現代ならば、ネットの検索に対応するだろう。求める答えは広大なネット上のどこかにある。そ
れを、いかに迅速に提供するかが課題である。それも限りなく低コストである。


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