06/09/15 16:40:00
>>433
私はポストモダンについての知識はありませんが、
たしかに、ヨハネの福音書の冒頭は、
1 初めに,言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
2 この方は,初めに神とともにおられた。
3 全てのものは,この方によって造られた。造られたもので,この方によらずにできたものは一つもない。
4 この方に命があった。この命は人の光であった。
5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
となっており、すなわちこれは
ロゴス(言葉・万物を統一する法則・真理)=神が在りきという演繹法であって、
光=プラトン的イデア(界)であり、そのイデア的観念の実在化・享受者がイエスであるが、
その光は全人類に顕在するのであって、イエスのみがその体現者とするのは光の独占である。
というのはなんとなく解ります。
ただ、その光の独占が、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」の「私」に近いという言説に
ついては良くわかりませんが、後半の、
> そして子(複数)とは現象界である.そして聖霊もメディア界である.聖母マリア,聖母子もメディア界である.
> これらが非常に混乱しているように思えるのである.カオス状態にあるように思えるのである.
> 古代の叡智がキリスト教によってカオス状態にされてしまったように思えるのである.
> 狂乱のキリスト教ではないだろうか.狂気の精神異常の精神分裂症のキリスト教ではないだろうか.
こちらは同意します。