06/09/15 01:53:23
ヨハネの福音書の冒頭はきわめて興味深い.
初めにロゴスありきとして、不連続的差異論=プラトニック・シナジー理論DDPS理論から見ると
ロゴスはメディア界・差異共振シナジー相である.そしてこれが光である.しかしこの光は
イデア・シナジーである.だから不可視の光である.闇である光である.現象界の光ではないのである.
つまり浄土教の阿弥陀如来の光と等価と見ていいだろう.原光・プロトライトである.
そしてこの光が肉体化したのが、イエス・キリストであるがしかしこれはおかしいと思うのである.
すべては光から生成したのであるから誰でも光を体現しているはずである.
イエス・キリストだけに限定されるものではないのである.
凡人や悪人にさえ光は潜在しているのである.そう悪魔にさえ光は潜在しているだろう.
思うに光の顕在をなんらかの精神修練によって実現した人物がイエス・キリストであったろう.
これはイエス・キリストが唯独りということはありえないのである.これはまたD.H.ロレンスの懐疑であったのであるが.
光の顕在的体現は多くのいわゆる神秘家に生起したと考えられるのである.
やはりこの点がドグマティックに考えられるのである.
光の独占である.これは不合理である.ここには光の連続・同一性自我化があると思うのである.
デカルトのコギトに近いと思う.そうキリスト教は光,ロゴス,コスモスの理(ダルマ)を
連続・同一性自我化していると思う.だからやはりポスト・キリスト教としてキリスト教の
脱連続・同一性化=不連続的差異化が必要である.またヨハネの福音書は父とロゴスとを混同している向きがあると思う.
だから父とはイデア界である.そしてロゴスはメディア界である.
そして子(複数)とは現象界である.そして聖霊もメディア界である.聖母マリア,聖母子もメディア界である.
これらが非常に混乱しているように思えるのである.カオス状態にあるように思えるのである.
古代の叡智がキリスト教によってカオス状態にされてしまったように思えるのである.
狂乱のキリスト教ではないだろうか.狂気の精神異常の精神分裂症のキリスト教ではないだろうか.
日本語でおk