06/09/14 02:09:57
>>368
> ここにはイエスの「主体」=決断はないから、贖罪ドグマは、隣人愛ドグマとは別個に議論できるっていうやつ。
田川建三か・・これかい?w
「イエス・キリストの教えに従って生きる」などという言い方を、キリスト教徒はよくする。
ところが、パウロは書簡の中でイエスの生前の言動には一言も触れていない。
パウロ書簡はおそらくすべて福音書よりも先に書かれたので、パウロはイエス言行録の
存在を知らなかった可能性もあるが、むしろかれは生前のイエスへの関心をきっぱりと
否定している。一方、福音書には贖罪論が、主題としてはでてこない。イエス自身が
それを口にしないのは当然だが、不思議なことに受難物語にさえ、贖罪信仰の影響は
ほとんどみられないのである。福音書編纂の目的は贖罪論の宣伝普及とは全く別の
ところにあり、また受難物語そのものも贖罪信仰とは無関係に伝承されていたのだ。
新約聖書には実は、このように明確に異なる二種類の思想的産物が同居しているのである。
イエス信仰と贖罪信仰は、内容的に無関係なのだ。これは、よく考えてみれば重大なこと
ではないか。イエスがわれわれの罪の身代りであることと、われわれの人生の導き手で
あることとの間には、必然的関係がない?!
いや、実際は関係がないどころではない。パウロ書簡と福音書の成立は原始キリスト教内
における厳しい思想的相克を反映しているのだ。倫理主義の桎梏を断ち切ることに救いを
見出したパウロにとっては、十字架上のイエスの死とその後の復活こそが唯一の信仰の
対象であり、生前のイエスについて語ることは「イエスの教え」を絶対化する教条的倫理主義
に陥る危険を孕むがゆえに、厳に戒めなければならない。それに対して、イエスを主人公に
した物語を著すという行為は、十字架贖罪論に包摂されえないイエスという人間の生の現実
に救いの根拠を求めることを意味する。両者の立場は根本的に相容れないのだ。
ここにキリスト教の本質的自己矛盾がある。信ずるべきは人間イエスか、それとも十字架の
キリストか―この抜き差しならない難問に、キリスト教は答えをだす必要があった。