06/09/13 19:23:41
>>343
> マルコによる福音書12章28-31節
> 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
> イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
> 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
> 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
ようやくまともな根拠が出てきましたな。
これは生前にイエスが「神への愛」と「隣人愛」について述べたものです。
ここからは原理主義から離れます。
この聖書にある記述(神への愛と隣人愛)をキリスト教徒が疑わない理由はなんですか?
私はその理由は贖罪であると主張します。なぜならイエスの贖罪=
神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと
こそがイエスをキリスト=メシア=救世主であることを裏付けるからです。
言いっぱなしでもし贖罪がなければだれもイエスを救世主だとは思わず、
隣人愛は口だけ。自分の身のほうが大事なんだな・・ということになってしまいます。
イエスの神への愛・隣人愛を実践したのが自身の贖罪であり、
その行為がなければイエスはメシアにはならず、
口だけの嘘つきになってしまったでしょう。
つまり、イエスの贖罪行為こそが隣人愛・利他心を裏付ける決定的な根拠といえるのです。