キリスト教は邪教です! PART 8at PHILO
キリスト教は邪教です! PART 8 - 暇つぶし2ch308:考える名無しさん
06/09/13 11:39:58
宗教板の「イスラーム」スレでサロメおたぁというクリスチャンが
「コーランではサルーキ(犬の品種)は犬とは別物とされている。
サルーキと犬との遺伝子的な違いを言ってみろww」みたいなことを
ムスリムコテに言っていたが、後になってサルーキがコーランに登場
しないことが明らかになって少し弱気になりつつも強情に「訳でそうなってる
だけで原文ではたぶん書いてある」なんて垂れていたのが哀れだった。
コーランにサルーキが載っているというサイトが一つだけあるのを見たことがあるが、
サロメおたぁはそれを見て「これはイスラム叩きに使える!」と確信しちゃったのかもしれない。

と、いうわけで証拠として出すならコーランからの引用が望ましい。

309:考える名無しさん
06/09/13 13:48:41
マジで馬鹿しかいないみたいだね。

聖書・コーランなどの原典に書いてなければ
「イエスやモハンマドはうんこしないよ。なぜなら聖書・コーランにかいてないから」
「当然、聖書に書いてないからキリスト教徒もイスラム教徒もうんこしないよ」
という、「原理主義者」ばかりなのかここはww
原典と教義すらわからない池沼か?

原典に書いてあること意外の行為をその教徒がしないとする
根拠を説明せよww

っていうか、聖書には2chに書き込むことを善とする記述はないから
もう書き込むなよ狂犬。
馬鹿通り越して知能に障害があるようだね。

310:考える名無しさん
06/09/13 13:50:50
>302
要するに>>295はただの詭弁者なのだよ。相手にしないほうがいい。

>>263
>自分の意見があるかは関係ないでしょうし、適切な否定なら問題ありません。
>1+2=4が間違いであり、3だとするのに、自分の意見も糞もありません。
と言っていながら、
>>279
>例えば、定義が違う場合、それは間違いを指摘するしかできない。
>「1+1は2である」に対して、「1+1は2でない」というのでも十分な場合がある。
と言っているし(その定義についての言及は皆無)、

>>262
仮に私が思考停止人間だとしても、それは少ないサンプルだから
私の論でキリスト教一般を非難するのはおかしい。
といいながら、自らをキリスト教一般であると言っているし。
更に、>>278でそれは仮定だから云々と言っているが、
仮定であってもなくとも、自身はキリスト一般である=少ないサンプルではない
と主張しているしね。
極め付けが「馬鹿っていうやつが馬鹿」というやつは自認する馬鹿
であることすら気づかないし、知り合いのソースは信憑性がないと
耳にタコができるほど言っているのにそれを覚えてもいない。
自己矛盾満載&それに気づかないアホウなのであり、
結局、三歩あるいたら自分の言っていることを忘れるニワトリだったのだよ。
これほどの低能を哲学板でみることはマレだから希少種カモね。
可哀相に論理の初歩からやり直したほうがよさそうだね。

311:油ハム
06/09/13 14:10:34
>>309
> 原典と教義すらわからない池沼か

カトリックの場合、教義は要理にあります。
カトリックの場合は、聖書にも要理にもないなら、それは教義にはならないと思います。

312:考える名無しさん
06/09/13 14:12:07
コーランの記述は以下の通り。
おまえは「聖書にないことを教徒がしない」と言う弁について答えられるのかな?w 
馬鹿だから無理だろうけどね。

www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Mid_e/pdf/2003_07_hosaka.pdf
「汝ら,信仰ある者どもよ,アッラーを,神にふさわしい畏敬の念をもって畏れ奉れ。
どのようなことがあろうとも必ず,死ぬ時には立派な帰依者として死ねよ。」(コーラン3:102)

「人間どもよ,汝らの主を畏れまつれ。汝らをただひとりの者から創り出し,その
一部から配偶者を創り出し,この両人から無数の男と女とを(地上に)播き散らし給
うたお方にましますぞ。アッラーを畏れまつれ。汝らお互い同士で頼みごとする時に,
いつもその御名を引き合いに出し奉るお方ではないか。また母の胎をも。
アッラーは汝らを絶えず厳重に監視し給う。」(コーラン4:1)

「これ,信徒の者,お前たちアッラーを懼れ,常にまともなことばかり言うように
せよ。そうすればお前たちの行為の(曲がったところ)は直して下さるし,犯した罪
も赦して下さろう。とにかくアッラーと使徒の言いつけをよく守る人は,大成功に疑
いない。」(コーラン33:70?71)

讃えあれアッラー。預言者シュアイブのお言葉を伝え給うた。
「わしは,ただ及ばずながら世の中を正しくしたいと願っておるだけのこと。
が,このわしの願いがかなうもかなわぬもアッラーの御心次第。
すべてをおまかせ申し,改悛の心をもってお縋り申しておる。」(コーラン11:88)

讃えあれアッラー。次のように仰せになられた。
「汝らは今まで人類のために生れ出た集団の中で最上のもの。汝らは義しいことを
勧め,いけないことを止めさせようとし,アッラーを信仰する。」(コーラン3:110)

アッラーの僕であり,アッラーの使徒である[ムハンマド]にアッラーの祝福と祈りがあらんことを。
彼いわく。「違反を犯したものを見て,それをやめさせることができなければ,アッラーからの罰は免れぬ。

313:考える名無しさん
06/09/13 14:12:24
>>310
馬鹿の相手はどうでもいいから、こっちの方を答えてくれ。

>コーランでググればジハードについてすぐわかるのにしない。

ググったぐらいで、キミのいうコーランの記述があるなら、リンクを一つでいいから書けよ。
ないことを証明するのは不可能だ。

>一方、イスラム教徒はその教義コーランにより、インファデル(非信仰者)を
>粛清する過程で殉職することは誇り高い名誉であり運命である考えています。

コーランのどこに、
「非信仰者を粛清する過程で殉職することは誇り高い名誉」
ということを書いた記述があるのか引用してくれ。


314:考える名無しさん
06/09/13 14:14:03
>>312
>コーランの記述は以下の通り。

非信仰者を粛清などどこにも書かれていませんが?

315:考える名無しさん
06/09/13 14:19:06
>>309
馬鹿はお前だろ。
法律に2chに書き込んでいいと記述されていないから、お前は書き込むな
って言っているようなもの。論理的にお前の書いていることはおかしい。
馬鹿通り越して知能に障害があるのはお前だと思う。

316:考える名無しさん
06/09/13 14:27:11
>>314
www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Mid_e/pdf/2003_07_hosaka.pdf
をきちんと読んだか?
そのコーランについての解釈がのってるからまず読め馬鹿。
読まずにすぐ噛み付くから狂犬で池沼なんだよww

>>315
原典に書いてあること意外の行為をその教徒がしないとする
根拠を説明せよ池沼がww

317:考える名無しさん
06/09/13 14:28:59
あ~馬鹿をイジって苛めるのは最高の気分。

狂犬君の特徴。
・詭弁者
・論理性欠如
・3歩あるいたら自分の言っていることを忘れるニワトリ
・何にでも狂ったように噛み付く狂犬
・一般教徒といいながら原理主義者
・聞いてばかりで自分の質問にはこたえない
・批判に根拠が皆無、ソースが知人友人カトリック教皇の他宗教無干渉のみ

異常から分析すると、狂犬君は
・虚栄心が強い。
・負けず嫌い。(勝てる論はもたずスレを荒らすだけ)
・粘着質
・学力が低い。偏差値20程度の未熟者。池沼。

318:考える名無しさん
06/09/13 14:30:29
皆様、右の頬を打たれたなら、左の頬も出しませう。

319:考える名無しさん
06/09/13 14:36:24
>>317
それが力への意志なのです。
ニーチェの言いたかったことは、このような詭弁者キリスト教徒を
人間の知的能力で粉砕し、その快楽を得ることなのかもね。

320:考える名無しさん
06/09/13 14:58:52
凄い闇鍋状態だなぁ。もう誰が誰なのかとてもわかりにくい。

321:考える名無しさん
06/09/13 14:59:18
>>315

日本国憲法第21条で「表現の自由」が日本国民には保証されている。
よって、2chなどの情報媒体に書き込むことは許される。
しかし、聖書に2chへの書き込みを許可する記述はない。
よって、「原典に書いてあること以外の行為をその教徒がしない」
という立場ならば、2chに書き込むこと自体が論理矛盾。
矛盾がないとするなら、聖書のどこに2chへの書き込みを良しと
する記述があるのか提示せよ。

322:考える名無しさん
06/09/13 15:08:31
原理主義者は危険な存在である。
池沼・馬鹿・ニワトリ・狂犬と罵り追い出したほうが
社会全体の平和に繋がる。
よって>>317の記述と論旨を肯定します。

323:考える名無しさん
06/09/13 16:04:01
>>316
だからそれはコーランじゃないだろ。コーランの勝手な解釈なんていくらでもある。
俺が聞いているのは、コーランのどこにかいてあるのかということ。

324:考える名無しさん
06/09/13 16:05:10
>>316
>原典に書いてあること意外の行為をその教徒がしないとする

そんなことは誰も主張していないだろ。

325:油ハム
06/09/13 16:07:30
>>287
> キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪であるか
> について、私は根源は贖罪であると主張します。

キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪とは関係がないと思います。
要理にも聖書にも、贖罪を根源とする利他心を述べる記述はなく、
キリスト教の教えにもそういったものはありません。
もし、聖書や要理、その他キリスト教の教えにそういった記述(贖罪との関連性)があれば、
ご教示いただけないでしょうか。

イエスが教えを広めた当初から利他性は重んじているので、
贖罪と結びつける必要はないと思います。

> この贖罪がなければ、イエスの神性や人類愛を説明できず、

何故でしょうか?

> この贖罪意識を善とするキリスト集団が・・過去の例であれば十字軍が、
> 現代の例であれば米軍が・・異教であるイスラム教とその信徒を粛清することや、
> その戦いで死ぬことを「善」と位置づけ、美化し肯定しているわけです。

それは違いますね。
>>289のとおり、十字軍については教皇が既に過ちを認めています。
イスラム教徒を粛清することは、カトリックは望んでいませんし、
そのような行為は肯定も美化もしていません。
少なくとも第二バチカン公会議以降、現代では他宗教を尊重しています。
これは私の考えではなく、カトリックの教皇の発言が根拠です。


326:考える名無しさん
06/09/13 16:09:00
>>317
ニーチェにも議論にも関係ないカキコだな。おい。
馬鹿だと思う相手に必死すぎる。www

327:考える名無しさん
06/09/13 16:35:39
>>325
ノンクリなんで、よくわからないのですけど

>キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪とは関係がないと思います。

ここでいう利他心を隣人愛と言い換えれば、キリスト教的隣人愛とキリスト教的救済論は無関係ということですか?

328:狂犬予防対策本部
06/09/13 16:52:44
>>323
>>312 読め池沼ww

>>324
贖罪とキリスト教利他は無関係だと理由は「聖書に書いてないから」
なんだろ?w
また自分の言っていることを忘れたよコイツww
おい、小学生より知能が低いぞキミ~ww

>>325
それに関する聖書の記述の提示をよろしくw

>>326
ニーチェに「ニ」の字もしらんお前がいうなww
キリスト教の「キ」の字もしらんお前が語るなよww
哲学の「て」の時もしらんお前は早くここから出て逝けよww

馬鹿すぎてハラ痛いww 必死杉ww
おとなしく両頬を打たれまくっていろよマゾがww

おまえその知能のない文体と、連投規制で書き込む時間が決まっているから
名無しでも狂犬君だということが丸解りなんだよカスがw
もうちょっと頭使えよゴミくずめw
いつまでワサワサ沸くんだよゴキブリやろうがww

329:考える名無しさん
06/09/13 16:53:33
・・荒らしにレスを流されたので一旦まとめます。狂犬は放置の方向で。

******************************************************
■「キリスト教の自己犠牲精神は自爆テロと同質」である。

「キリスト者はイエスの贖罪=殉職を美化肯定している」
まず、キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪であるか
について、私は根源は贖罪であると主張します。なぜならイエスの贖罪=
神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと
こそがイエスをキリスト=メシア=救世主であることを裏付けるからです。
この贖罪がなければ、イエスの神性や人類愛を説明できず、
キリスト教徒は贖罪とイエス自身の行為を美化肯定しているのも事実なのであり、
これを否定する者は非キリスト者であるわけです。
この贖罪意識を善とするキリスト集団が・・過去の例であれば十字軍が、
現代の例であれば米軍が・・異教であるイスラム教とその信徒を粛清することや、
その戦いで死ぬことを「善」と位置づけ、美化し肯定しているわけです。

「自爆テロリストはインファデルに対する殉職を美化肯定している」
一方、イスラム教徒はその教義コーランにより、インファデル(非信仰者)を
粛清する過程で殉職することは誇り高い名誉であり運命である考えています。
キリスト教の例と同様に、
聖戦=ジハードによって、異教であるキリスト教とその信徒を粛清することや、
その戦いで死ぬことを「善」と位置づけ、美化し肯定しているわけです。

330:考える名無しさん
06/09/13 16:54:12
■「キリスト教的利他は病理」である
まずナザレのイエスがエルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制を批判する。
これを知ったユダヤ教指導者は、イエスを異端者(=現代でいうカルト)とみなし
イエスを死刑の権限を持つローマ帝国へ反逆者として渡し、
公開処刑(磔刑)を行う。これは新約聖書四福音書にあるお話。

イエスが全人類の身代わり(利他心)として贖罪したのか、
イエスのユダヤ教批判(利己心)vsユダヤ教保守派の反感(利己心)
という宗教対立の基本的構図(既存宗教者とその批判者による対立)
によって死に至ったのか。

キリスト教的解釈は前者であり、イエスは利他肯定の象徴である。
自己の生命すらその利他心・神への絶対信仰によって投げ出すことを美化
するキリスト教的利他心は、現代のイスラム原理主義者が引き起こす
自爆テロと同列の危険思想であり、そのような利他心の肯定・誤謬を
人間に教えるキリスト教は邪教であり病理だ!というわけなんです。

利他の完全肯定こそキリスト教そのものであり、そのテロリズムまがいの
思想を破壊すべしとするニーチェの思想はカルトではなく、
むしろ人間の生命や意志を尊重し、肯定するものである。

331:考える名無しさん
06/09/13 16:55:32
■「キリスト教信者は神に支配された非人間的ロボット」である

「神こそすべて」「真理は神」「イエスの贖罪は善」・・・
このようにキリスト教に支配されたものは、その絶対的信仰により
物事を自分で考え、改善してゆく能力=考える力が欠落します。
キリスト教・神は絶対であり、それさえ信じていれば賢い人間である、
救われるなどとした誤謬が、不勉強さを増長させる要因なのかも知れません。

アイザック・アシモフが小説「アイ、ロボット」で書いたロボットの三原則は、
(1)ロボットは人間に危害を加えてはならない
(2)ロボットは(1)に反しない限り人間から与えられた命令に服従しなければならない
(3)ロボットは(1)及び(2)に反するおそれのない限り自己を守らなければならない
でありますが、

キリスト教に精神を支配されたキリスト教信者=非人間的ロボットの三原則は、
(1)人間は神を懐疑してはならない
(2)人間は(1)に反しない限り神から与えられた命令に絶対的服従をしなければならない
(3)人間は(1)及び(2)に反するおそれのない限り、自己の生もしくは他者の生を害してもかまわない
なのであります。

人間として神を懐疑する行為、つまり自由な思考すら悪とし、
人間を思考停止状態に陥れ、非人間的ロボットを量産する疫病が、
キリスト教そのものなのなのです。
ニーチェはその疫病から人間を救い、治療する人類の医者といえましょう。

332:考える名無しさん
06/09/13 16:56:14
■「キリスト教信者のルサンチマンとその病理の対処法」について

ニーチェの最も恐れていたことは、
このような非人間的ロボットの非宗教者に対する復讐心なのかもしれない。
キリスト教に汚染された奴隷機械は、神という一元論でしか物事を思慮でき
なくなり、汚染されていない者との知的力関係において、弱者=被支配者側になら
ざるをえない。その弱者の持つルサンチマンは、根拠のない否定や復讐心に
繋がるのである。

キリスト教を破壊するべきか、その疫病に感染した教徒を治療すべきか。
その教徒の病状が軽度の風邪=キリスト教をある程度知っているくらいなら、
薬(論)により治癒できるのだが、末期ガン患者=思考・生活・行動規程の全てが
キリスト教に侵されている場合は手遅れなのである。
残念ながらその末期ガン患者に対しては余命を宣告せず、
ただ見守るほか救済手段は無いのである。
更に病状が悪化した異常者=原理主義者に関しては、救済ではなく、
その危険思想から我が身を守ることを第一に考え、隔離粛清するほか
手段はないのである。


333:考える名無しさん
06/09/13 17:01:24
>>329
それは、めちゃくちゃだなあ。神への贖罪はイエスの一回性においてなされている(身代)というのが
キリスト教的特徴なのに、そんな話から攻め込んでも、キリスト教の「害」を論証することになりえないのに。

334:考える名無しさん
06/09/13 17:06:38
>>328
狂犬にはかかわらないほうがいいでしょう。
Webの情報でいいからコーランの引用を書けといいながら
その提示をコーランではないと主張するのですkら。
そもそも聖書の解釈についても何が正しいのかを規程できる
はずがありませんし、聖書の訳者によって、キリスト教の各派に
よって見解もわかれるわけです。
ある原典について解釈が違う・・というのはまさに詭弁なのであり
ではどの解釈が正しいのか・・という疑問も出てくるわけです。
カトリックは当然、カトリック的解釈が正しいと主張し、
プロテスタントも同様に、プロテスタントの解釈が正しいと宣言するでしょう。
よって、狂犬のいう正しさは、狂犬自身の正しさに過ぎず、
その間違いだと指摘する姿勢は、偏見そのものなのです。
「否定の根拠の提示をしない」これに尽きるのではないでしょうか。
コーランの提示をされた方は、狂犬さんよりは
議論の仕方を心得ていると認めざるを得ませんね。


335:考える名無しさん
06/09/13 17:31:59
ラリホーだな

336:一言居士
06/09/13 17:45:04
キリスト教徒はなぜこんなにも「キリスト教」の教義が分裂しているかを考えてはどうか?

昔はローマカトリック教会とギリシャ正教会の2大教会だったが、1054年に相互を破門(近年、両者がそれらを取り消す)した歴史。
宗教改革で、ローマ教会の権威に従わない、個人と神が向き合うプロテスタントの信仰形式。それにより各教派が興るようにした。現代も続くその潮流。
十字軍を聖戦とした11世紀のローマカトリック教会と現在の十字軍の過ちを認めたローマカトリック。

結論:キリスト教-神の教えといえども各人の心を反映する。主観を全く交えないキリスト教の教義そのものなど無い。
   キリスト教は存在しない。個々のクリスチャンがいるのみである。

337:油ハム
06/09/13 17:56:51
>>327
> >キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪とは関係がないと思います。
>
> ここでいう利他心を隣人愛と言い換えれば、

どうして言い換えるのでしょうか?
同じものなら置き換えてもいいでしょうが、異なるものを置き換えてしまったら、
論理的に正しい結論は出てこないと思います。

338:油ハム
06/09/13 18:00:43
他人と一緒にされているので、仕切りなおします。

>>329
> キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪であるか
> について、私は根源は贖罪であると主張します。

キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪とは関係がないと思います。
要理にも聖書にも、贖罪を根源とする利他心を述べる記述はなく、
キリスト教の教えにもそういったものはありません。
もし、聖書や要理、その他キリスト教の教えにそういった記述(贖罪との関連性)があれば、
ご教示いただけないでしょうか。

イエスが教えを広めた当初から利他性は重んじているので、
贖罪と結びつける必要はないと思います。

> この贖罪がなければ、イエスの神性や人類愛を説明できず、

何故でしょうか?

> この贖罪意識を善とするキリスト集団が・・過去の例であれば十字軍が、
> 現代の例であれば米軍が・・異教であるイスラム教とその信徒を粛清することや、
> その戦いで死ぬことを「善」と位置づけ、美化し肯定しているわけです。

それは違いますね。
>>289のとおり、十字軍については教皇が既に過ちを認めています。
イスラム教徒を粛清することは、カトリックは望んでいませんし、
そのような行為は肯定も美化もしていません。
少なくとも第二バチカン公会議以降、現代では他宗教を尊重しています。
これは私の考えではなく、カトリックの教皇の発言が根拠です。


339:考える名無しさん
06/09/13 18:19:34
>>337
じゃあ言い換えなくていいよ。
「利他心」なんていうのはそれこそ聖書にないから置き換えてあげただけ。

340:考える名無しさん
06/09/13 18:22:15
>>338

> キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪とは関係がないと思います。
> 要理にも聖書にも、贖罪を根源とする利他心を述べる記述はなく、
> キリスト教の教えにもそういったものはありません。
> もし、聖書や要理、その他キリスト教の教えにそういった記述(贖罪との関連性)があれば、
> ご教示いただけないでしょうか。

私は贖罪に関しては新約聖書四福音書を引用しています。
その贖罪精神が人類愛・隣人愛の教えに繋がっているということは
否定できないと言っています。
それが無関係だとすればキリスト教の教える人類愛・隣人愛は
聖書のどの記述から生まれてくる概念でしょうか?
私にはまずそれがわからないので、聖書のどこに
贖罪以外で、人類愛・隣人愛を述べる記述があるのかを
ご教示いただけないでしょうか。

また聖書やコーランなどに書かれてあることのみを、
根拠・行動規範とする態度は、原理主義と同じ思想であることは理解できますか?

341:油ハム
06/09/13 18:35:55
>>330
> 自己の生命すらその利他心・神への絶対信仰によって投げ出すことを美化
> するキリスト教的利他心は、現代のイスラム原理主義者が引き起こす
> 自爆テロと同列の危険思想であり、そのような利他心の肯定・誤謬を
> 人間に教えるキリスト教は邪教であり病理だ!というわけなんです。

利他心から自爆テロには繋がらないでしょう。キリスト教では自殺、殺人を禁じていますから、
少なくとも教義を守っているなら、自爆テロは行わないはずです。
もっとも、教義を守っていない信者はいるでしょうが、それは日本において犯罪者がいるのと同じです。

> むしろ人間の生命や意志を尊重し、肯定するものである。

これはキリスト教でも同じです。
他人の生命や意志を尊重し、肯定する立場です。

342:考える名無しさん
06/09/13 18:42:34
>>338 犬の匂いがプンプンするな・・

> >>289のとおり、十字軍については教皇が既に過ちを認めています。
> イスラム教徒を粛清することは、カトリックは望んでいませんし、
> そのような行為は肯定も美化もしていません。
> 少なくとも第二バチカン公会議以降、現代では他宗教を尊重しています。
> これは私の考えではなく、カトリックの教皇の発言が根拠です。

私はカトリックではないので教皇の発言について知りません。
まず、教皇の発言を簡便に述べることが具体性に繋がります。

書き方はこうです、

○○年にカトリックの教皇△△が「××」といっており、
それは、過去の十字軍の過ちを認めたものです。
過ちを認めた上で、「××」と発言しており、他宗教には干渉
しないと宣言しています。

わかりましたか?

次に、カトリック教皇の意向と現場のカトリック教徒の意向は
イコールで結べないと再三言っています。
代表者の意向=その組織の全体民意ではないと何度も私は書いています。
何度言えばわかりますか?

次に、現代の米軍はプロテスタントが58%でカトリック21%なのであり、
その少数派のカトリックの弁を大多数でしめる米軍のプロテスタント
に適応させることはできません。彼らもまた異教徒との戦いを聖戦
だと位置づけているわけです。
わかりましたか?

343:油ハム
06/09/13 19:04:09
>>340
キリスト教の教える隣人愛は、イエスの教えに由来するものです。
イエスが教えを広めている間、誰もイエスの贖罪を知らなかったので、
その教えは贖罪に依存するものではないのです。

マルコによる福音書12章28-31節
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」


カトリックでは、聖書に書かれてあることをのみを根拠・行動規範にするわけではありません。
もちろん聖書は重要ですが、基本的には要理によります。

また、聖書やコーランなどに書かれてあることのみを
根拠・行動規範とする態度を原理主義呼ぶものだと思います。


344:油ハム
06/09/13 19:10:02
>>342
> カトリック教皇の意向と現場のカトリック教徒の意向は
> イコールで結べないと再三言っています。

教皇の意向に従うのがカトリックなので、
そうでないのならプロテスタントになります。

> その少数派のカトリックの弁を大多数でしめる米軍のプロテスタントに適応させることはできません。

プロテスタントという宗派はありません。カトリックは宗派の中では一番多いです。
プロテスタントはカトリック以外の小さな宗派を合わせたものです。


345:考える名無しさん
06/09/13 19:23:41
>>343

> マルコによる福音書12章28-31節
> 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
> イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
> 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
> 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

ようやくまともな根拠が出てきましたな。
これは生前にイエスが「神への愛」と「隣人愛」について述べたものです。

ここからは原理主義から離れます。
この聖書にある記述(神への愛と隣人愛)をキリスト教徒が疑わない理由はなんですか?
私はその理由は贖罪であると主張します。なぜならイエスの贖罪=
神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと
こそがイエスをキリスト=メシア=救世主であることを裏付けるからです。

言いっぱなしでもし贖罪がなければだれもイエスを救世主だとは思わず、
隣人愛は口だけ。自分の身のほうが大事なんだな・・ということになってしまいます。
イエスの神への愛・隣人愛を実践したのが自身の贖罪であり、
その行為がなければイエスはメシアにはならず、
口だけの嘘つきになってしまったでしょう。
つまり、イエスの贖罪行為こそが隣人愛・利他心を裏付ける決定的な根拠といえるのです。

346:考える名無しさん
06/09/13 19:27:10
>>344

> > その少数派のカトリックの弁を大多数でしめる米軍のプロテスタントに適応させることはできません。

カトリック以外のキリスト教宗派を総じてプロテスタントというのです。
いずれにせよ、カトリックの意向=プロテスタントの意向でもなく
カトリック教皇の意向=カトリック信者・プロテスタント信者全体の意向でもない。
ということはわかりますよね?

347:一言居士
06/09/13 19:34:58
>>341
自分の生命や意志はどうなのですか?

348:油ハム
06/09/13 21:14:30
>>345
> この聖書にある記述(神への愛と隣人愛)をキリスト教徒が疑わない理由はなんですか?

聖書にある記述を疑わないというのは理解しかねます。
そういう方もいらっしゃるでしょうが、疑う人も少なくはありません。
そもそも、法律でも、学問でも、道徳でも、疑う人もいれば疑わない人もいるものだと思います。

> 言いっぱなしでもし贖罪がなければだれもイエスを救世主だとは思わず、
> 隣人愛は口だけ。自分の身のほうが大事なんだな・・ということになってしまいます。

「贖罪」というのは生前の教えには存在していないので、
これは後付けによる解釈だと私は思います。聖書の記述では、隣人愛は口だけではなく、
生前に実行して(洗足など)いたので、自分の身のほうが大事ということにはならないでしょう。

349:考える名無しさん
06/09/13 22:00:36
>>348
いずれにせよ、贖罪はそのイエスの神への愛・隣人愛を語る上で
外すことができない重要な要素であることは、キリスト教徒ならよくわかるでしょう。

それがわからないというならお聞きします。
無関係であるとするその贖罪は一体何のために行われたのでしょうか。
私は一般的なキリスト教徒ならば、
贖罪と隣人愛が無関係とする論は異端であると考えますが。

350:考える名無しさん
06/09/13 22:08:15
贖罪は、
神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと
であり、
イエスが人類への愛や神への愛を全うする為に自身を命を犠牲にした
と私は解釈していますが。
この点について、神への愛・隣人愛は無関係だという論は
初耳なので参考までにその理由を聞かせてもらえますか。

351:考える名無しさん
06/09/13 22:13:27
>>349
>無関係であるとするその贖罪は一体何のために行われたのでしょうか。

これはイエスのみぞ知るところでしょうね。

一体何のために伝承として残ってるのか?吹聴して回るのか?
というのをあなたは問いたいのではないでしょうか。

それとイエスの磔刑による贖罪は、キリスト教徒にとって
普段は忘れ去られている(しかし無意識に刷り込まれている)
"切り札"みたいなものだと思います。

352:考える名無しさん
06/09/13 22:36:06
>>351
いえ私が聞きたいのは贖罪に対する解釈です。
贖罪論という名がつくほど、贖罪に関する解釈は多々存在しているのは
知っていますが、贖罪と隣人愛を無関係とする立場からみた贖罪観について
尋ねています。

贖罪の一般解釈は>>350でも書いてあるように、
神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと
であり、 イエスの贖罪行為の意味は、
イエスが人類への愛や神への愛を全うする為に自身を命を犠牲にした
と私は解釈していますが。
この点について、神への愛・隣人愛は無関係だという論は
初耳なので参考までにその贖罪の理由や解釈を聞かせてもらえますか。

353:油ハム
06/09/13 22:41:20
>>346
「プロテスタントはカトリック以外の小さな宗派を合わせたものです。」
という部分には同意なさっているわけですね。

ただ、プロテスタントの意向というのは、方向性が定まっていないので実質存在しませんし、
カトリックの意向とは違うからこそ、プロテスタントなのです。

354:考える名無しさん
06/09/13 22:42:20
むしろ関係があるという論拠を語ったほうがいいんじゃないの?

>神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだことであり、

これで贖罪は論理的には済んでるんですよ(救済論)。
償うため=>他者への愛を示すというような功利主義的な説明が出来ないのだよ。
これが他の宗教との(たとえばユダヤでもイスラームでもいいけど)一番大きな違いだって言うのは
哲学板的に常識だと思うんだけどなあ。

355:油ハム
06/09/13 22:50:31
>>349
> いずれにせよ、贖罪はそのイエスの神への愛・隣人愛を語る上で

神への愛と、隣人愛は違うので、一緒に扱わないほうがいいと私個人は思いますし、
贖罪は「神への愛」ならまだしも、隣人愛とは別だと思います。
あくまで贖罪がある前、生前の教えの一つですから。

> その贖罪は一体何のために行われたのでしょうか。

人間が犯した罪をリセットするためです。つまり贖罪によって、それまでの人間罪は許されました。
もちろん、その贖罪はイエスの隣人愛の一つであるという見方もできますが、
隣人愛が、その贖罪に依存しているわけではないと考えます。

356:油ハム
06/09/13 22:55:37
>>350
> 神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと

おっしゃる通りです。

> イエスが人類への愛や神への愛を全うする為に自身を命を犠牲にした
> と私は解釈していますが。

そこまでの理解は正しいと思います。

> この点について、神への愛・隣人愛は無関係だという論は

「神への愛」は無関係とは申し上げておりません。
「隣人愛」は無関係という言い方は不適切だったかもしれませんが、
隣人愛が「贖罪」に依存しているわけではないということを理解していただければと思います。

357:考える名無しさん
06/09/13 22:59:33
>>353

> カトリックの意向とは違うからこそ、プロテスタントなのです。

わかってるんじゃん。それが正解って最初からいってるでしょ。

○ カトリックの意向=プロテスタントの意向ではない

次はこれ
カトリック教皇の意向=カトリック信者・プロテスタント信者全体の意向でもない。

>>354 お、また犬に成り下がったのかねww

> むしろ関係があるという論拠を語ったほうがいいんじゃないの?

過去レス参照。
贖罪=イエスの利己的動機ではなく、利他的動機によってなされた。
とこちらは主張している。キミは
贖罪=イエスの利他的動機ではない=利己的動機かもしれない
といっているのかね。それを聞いたら一般キリスト教徒が黙ってませんよとw

> 哲学板的に常識だと思うんだけどなあ。

解釈の問題は哲学では重要なことなんだよw
ある命題における定義が違う者同士では議論にならない。
よって、「贖罪は隣人愛と無関係か」という命題があった場合、
まず「贖罪」の定義・解釈について明らかにしなければならない。
私の解釈は、「神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと」
であり、「イエスが人類への愛や神への愛を全うする為に自身を命を犠牲にした」である。
次にキミの解釈はなんだねと聞いている。わかったかい?


358:油ハム
06/09/13 23:00:10
>>354
> これで贖罪は論理的には済んでるんですよ(救済論)。

仰るとおり、贖罪はもう終わっており、信徒がすることではないです。
信徒がするべきことは、隣人愛の方で贖罪ではないのです。



359:考える名無しさん
06/09/13 23:03:01
>>357
>>354 お、また犬に成り下がったのかねww

それ別の人。キミに狂犬と呼ばれている俺じゃないよ。念のため。


360:考える名無しさん
06/09/13 23:07:41
>>355

> 神への愛と、隣人愛は違うので、一緒に扱わないほうがいいと私個人は思いますし、
> 贖罪は「神への愛」ならまだしも、隣人愛とは別だと思います。

ええと、「全人類に代わって死ぬこと」が、人類に対する愛=隣人愛
と私は解釈しますし、この論理性に不整合はないと思いますが。

> 隣人愛が、その贖罪に依存しているわけではないと考えます。
> 贖罪はイエスの隣人愛の一つであるという見方もできます

ならば無関係という部分を訂正しなくてはいけませんね。
相関性が高いか低いかという議論はナンセンスでありますが
無関係ではないのならそもそもの反論の意味がよくわかりませんね。
とにかく反発したいということでなければ、そもそもの文

> キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪であるか
> について、私は根源は贖罪であると主張します。

について、根源は贖罪であるともいえるわけです。

361:考える名無しさん
06/09/13 23:25:52
>>357
イエスの贖罪は、神による神の「身代」=犠牲の子羊だっていうのが普通なわけだが。
一般キリスト教徒が黙ろうが黙るまいが普通に考えられていること。
そこに「利己」とか「利他」とかいう話を入れてはいけないのだよ。

362:考える名無しさん
06/09/13 23:33:58
>>361
そもそもキリスト教は利他的である。
という議論から始まったから、利己や利他について
言及するのがむしろ本題なのだよ。

で、私はキリスト教は利他的だという立場から、
その象徴であるイエスの贖罪も利他的だと言っているわけ。

簡単にいうと、
誰かの罪を償うために自身の命を犠牲すれば
その行為は、イエスでなくとも利他的と言わざるをえないのだよ。
その利他心の裏づけ・動機付けとして、イエスの場合は神への愛や隣人愛
によってなされたと言っているわけ。
で、キミはそうではない、贖罪はそのような利他心とは関係ないと言い出したわけ。
ここまではわかるかな?

363:油ハム
06/09/13 23:36:14
>>360
> ええと、「全人類に代わって死ぬこと」が、人類に対する愛=隣人愛

「全人類が死ぬ」のを代わって死ぬわけではなく、全人類の罪を背負って死ぬことです。
これを人間がするべきということではないですし、人間にはできないこととされている(あくまで
キリスト教の教義の中での話です)ので、イエスが教えた隣人愛とは別に考えたほうがいいと思います。

364:考える名無しさん
06/09/13 23:40:21
>>362
>>361もキミに狂犬と呼ばれている俺じゃないよ。念のため。


365:油ハム
06/09/13 23:45:15
>>362
> で、私はキリスト教は利他的だという立場から、
> その象徴であるイエスの贖罪も利他的だと言っているわけ。

これは同意です。

> 誰かの罪を償うために自身の命を犠牲すれば
> その行為は、イエスでなくとも利他的と言わざるをえないのだよ。

利他的ではありますが、隣人愛とは違うと思います。
教義では、その身を犠牲にしようとも、愛がなければ無意味となっています。

366:考える名無しさん
06/09/13 23:51:32
>>363
だから、全人類の罪を背負って死ぬことは
全人類に対して愛情を持ってたからでしょ。
隣人を愛せずして、人類の為に自身の命を捧げることはできないでしょうが。

普通に考えればわかると思うが、
「ある人間AがBの罪を自ら背負って死んだ」
この人間の動機について考えれば、その人間Aは、
1)Bに無関心だった
2)Bに憎悪していた
3)Bに愛情をもっていた
答えはどれでしょう。

贖罪ではAはイエス。Bは全人類。
答えは3)の愛情をもっていた。
キリスト教ではその人間への愛を隣人愛と言う。
わかったかい?

367:考える名無しさん
06/09/13 23:54:56
他のクリスチャンにも聞きたいね。

全人類の罪を背負って死ぬことについて、
1)イエスは全人類を愛していたから罪を背負った
2)イエスは全人類を愛していなかったから罪を背負った
答えはどれだい?w

馬鹿馬鹿しくてやってられんなやっぱり。

368:考える名無しさん
06/09/14 00:02:10
そこで田川建三のパウロ解釈ですよ。
神様の怒りをおさめるために、神の子を、神が自ら神に生き血を捧げた、っていうやつ。
ここにはイエスの「主体」=決断はないから、贖罪ドグマは、隣人愛ドグマとは別個に議論できるっていうやつ。
納得するけどね俺は。

369:油ハム
06/09/14 00:02:47
>>366
> だから、全人類の罪を背負って死ぬことは
> 全人類に対して愛情を持ってたからでしょ。

「イエスの場合」は全人類に対して愛情を持っており、かつ贖罪したということです。
「全人類の罪を背負って死ぬ」ことが、必ずしも全人類に対して愛情を持っていたことにはなりません。
AならばBであっても、BならばAではないのです。これはわかりますよね。

> 隣人を愛せずして、人類の為に自身の命を捧げることはできないでしょうが。

できると思います。愛とは別の感情によっても可能だと思います。

> 普通に考えればわかると思うが、
> 「ある人間AがBの罪を自ら背負って死んだ」
> この人間の動機について考えれば、その人間Aは、
> 1)Bに無関心だった
> 2)Bに憎悪していた
> 3)Bに愛情をもっていた
> 答えはどれでしょう。

Aがイエス以外なら、答えはいろいろあると思います。

> 贖罪ではAはイエス。Bは全人類。
> 答えは3)の愛情をもっていた。
> キリスト教ではその人間への愛を隣人愛と言う。

イエスは隣人愛と、贖罪を持ち合わせていたと言うことです。
ただし、この贖罪は人間には不可能だとされていますので、
信徒ができる隣人愛とは別になります。

ただ、どちらもイエスが行った、という程度の関係性はあると思います。

370:いんちきクリスチャン
06/09/14 00:19:34
私は、贖罪と隣人愛は明らかに関係あると思うけどな。
「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」(ヨハネ15:13)

371:考える名無しさん
06/09/14 00:20:45
そもそも、イエス自身の口からは、「隣人愛」ということばが発せられたことは殆どないわけだが。

372:考える名無しさん
06/09/14 00:24:19
>>368

> ここにはイエスの「主体」=決断はないから、贖罪ドグマは、隣人愛ドグマとは別個に議論できるっていうやつ。

イエスに主体性がなく決断力もないなら
聖書に書かれているイエスの言動そのものが・・
つまりキリスト教そのものが崩壊しますねw

>>369

> 「イエスの場合」は全人類に対して愛情を持っており、かつ贖罪したということです。
> 「全人類の罪を背負って死ぬ」ことが、必ずしも全人類に対して愛情を持っていたことにはなりません。

> 「イエスの場合」は全人類に対して愛情を持っており、かつ贖罪したということです。

この言及で言えば、AとBはなんだね。まずこれを定義すべきなのでは?
私はA=原因、B=結果を定めて、
人類愛(原因)によって贖罪(結果)をしたと言っている。

>> 隣人を愛せずして、人類の為に自身の命を捧げることはできないでしょうが。
> できると思います。愛とは別の感情によっても可能だと思います。

例えばなに?自殺?それは人類(自己を含む)への愛ですよ。

> イエスは隣人愛と、贖罪を持ち合わせていたと言うことです。

その通り。でその隣人愛の最大イベントが贖罪なのです。
贖罪以上の隣人愛はないと言っても過言ではないでしょう。
どうしても、贖罪と隣人愛を分けたいみたいだね。
>>367の問いに答えてみて。

373:いんちきクリスチャン
06/09/14 00:30:49
私は、贖罪と隣人愛は全く関係ないと思うよ。
「人は自分のためだけに命を捨てるべきである。これよりも大きな神の意志はない」(ヘブライ9:22)
だって知り合いがそういんだから絶対ただしいよ!

374:油ハム
06/09/14 00:36:17
>>372
> 人類愛(原因)によって贖罪(結果)をしたと言っている。

動機と行動ですね。イエスの場合、その程度の関連性はあると思います。
ただイエスという限定を外すと、人類愛と贖罪は繋がらないということ、
また、人類愛のあり方は贖罪だけではないこと、贖罪すれば人類愛があるわけではないこと
に気をつける必要があります。その点が理解されているようであれば、
関連性があるといっても誤解は生じないと思います。

> 例えばなに?自殺?それは人類(自己を含む)への愛ですよ。

申し訳ありませんが、仰っていることの意味がわかりません。

> どうしても、贖罪と隣人愛を分けたいみたいだね。

信徒ができるのは、隣人愛の方だけですから、一緒になると違和感を感じます。
イエスキリストに限定すれば、動機と行動と言う意味での関連性があるとは思いますが、
どいういう関連性があるかの説明がないと誤解を招くような気がします。

375:狂犬予防対策本部
06/09/14 00:37:02
>>370,373
自演乙ww

>>367

> 1)イエスは全人類を愛していたから罪を背負った
> 2)イエスは全人類を愛していなかったから罪を背負った
> 答えはどれだい?w

これ2だと答える馬鹿はいないよね。
なんでこんな簡単なことでもめてるの?w

> 馬鹿馬鹿しくてやってられんなやっぱり。

同感。また狂犬のわけのわからん噛み付きかもねw

376:考える名無しさん
06/09/14 00:43:51
>>372
>つまりキリスト教そのものが崩壊しますねw

現代聖書学の教義理解は多様で、それを受ける「教会」側もタフだから全然崩壊しません。

377:考える名無しさん
06/09/14 00:51:19
>>374

> 動機と行動ですね。イエスの場合、その程度の関連性はあると思います。

ほう、
> AならばBであっても、BならばAではないのです
動機=A、行動=Bだと。
隣人愛(動機)ならば贖罪(行動)であっても、
贖罪(行動)ならば、隣人愛(動機)ではないと言いたいのかな?
であるなら、隣人愛(動機)ならば贖罪(行動)は正しいという論は
認めているわけね。それで結構。

> ただイエスという限定を外すと、人類愛と贖罪は繋がらないということ、

「イエスと、イエスをキリストだと崇めるキリスト教徒」という限定を外すと
は繋がらないということ。なら理解可能ですね。
イエスの行動は彼ら一般教徒の規範でもあるわけです。

> 申し訳ありませんが、仰っていることの意味がわかりません。

隣人を愛せずして、人類の為に自身の命を捧げることができる。
愛とは別の感情によっても可能。とキミは言っているね。
それは一体なんだ?と聞いている。

> 信徒ができるのは、隣人愛の方だけですから、一緒になると違和感を感じます。

まず>>367の問いに答えてみて。
で、一般教徒に同じ問い(イエスのどのような動機で贖罪したのか?)を
尋ねられたらキミはなんと答えるのだね?

378:考える名無しさん
06/09/14 00:58:24
あ~眠くて日本語がおかしい・・。もっとこう目が覚めるような反論はないのかね・・

>>377

> 「イエスと、イエスをキリストだと崇めるキリスト教徒」という限定を外すと
> は繋がらないということ。なら理解可能ですね。
→「イエスと、イエスをキリストだと崇めるキリスト教徒」という限定を外すと
 人類愛と贖罪は繋がらないということ。なら理解可能ですね。

> で、一般教徒に同じ問い(イエスのどのような動機で贖罪したのか?)を
→で、一般教徒に同じ問い(イエスがどのような動機で贖罪したのか?)を

379:考える名無しさん
06/09/14 01:06:19
>>377
神の子イエスの行動のうち<贖罪>は、一般教徒の規範じゃないんだよ?
なんかあなたズッーっとずれてるなあ

380:考える名無しさん
06/09/14 01:18:12
>>379

> なんかあなたズッーっとずれてるなあ

ズラではないよ。
規範という言葉が誤解を生んだのかもしれない。
イエスの言動をその教徒は美化肯定している。と訂正します。
キリスト教徒はイエスの隣人愛も贖罪も美化し、
肯定しているのです。
まあ正論だと釣れないのであえてずらしている面もありますがねw

381:油ハム
06/09/14 01:19:57
>>377
イエスの行動においては、贖罪と隣人愛は関連はあると思います。
ただ、信徒の教義としては、関係性が見当たらないと思います。

> イエスの行動は彼ら一般教徒の規範でもあるわけです。

奇跡を起こすことや、贖罪することが規範ではないので、
「行動の一部」が規範になります。

> それは一体なんだ?と聞いている。

個人の心情はさまざまなので限定することはできないですが、
死への願望など、いろいろあると思います。

> まず>>367の問いに答えてみて。

・イエスは、人間を愛しておられた。
・イエスは、人間の、神に対する罪を背負った。

この2点は間違いないと思います。


382:考える名無しさん
06/09/14 01:41:26
要するに整理すると、
a)イエスの場合は贖罪と隣人愛の関連性は認める。
b)しかし一般教徒の場合にはそのような関連性はなく、
c)隣人愛は美化も肯定もする が
d)贖罪は美化も肯定もしていない し
e)そのような行為は行わない
という回答でよろしいかな?

今まではa)を認知してもらうために議論していたわけで
今後もうa)の結論をひっくり返すなよ。と。

次に、d)贖罪は美化も肯定もしていない。e)そのような行為は行わない。
について、私は>>329 において、
> 贖罪意識を善とするキリスト集団が・・過去の例であれば十字軍が、
> 現代の例であれば米軍が・・異教であるイスラム教とその信徒を粛清することや、
> その戦いで死ぬことを「善」と位置づけ、美化し肯定しているわけです。
と述べており、キミが「カトリックの教皇の発言」を提示して反論したわけだが、
その反論の具体性について、>>342にて反論している。と。
んで、
・カトリックの意向=プロテスタントの意向ではない・・・これはおk
・カトリック教皇の意向=カトリック信者・プロテスタント信者全体の意向でもない。
ということはわかりますよね?

383:368
06/09/14 01:42:24
大体、話の枠はカトリックな人の油ハム氏の>>381の答えで見えてきたんじゃないの。

で、油ハムさんに一つ質問いいかな?
>>343のマルコの「隣人愛」の部分だけど、ルカだと、イエスじゃなくて質問者のユダヤ律法者に対して、
イエスがさらに反問して(「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」)、
それにつられて、律法者のほうが答えるかたちをとってるんだよね(10章25-37)。

ここらへんの福音書テキストのズレに着目して、田川はルカのテキストを採用し、
「隣人愛」というのは、ユダヤ教的伝統であって、当時そういう紋切型の発想に辟易してたイエスは
(ほら、あなたポピュラーな話だから知ってるでしょ)という感じの軽い嫌味風の反問を
繰り出した(つまり「イエスは愛の説教者ではない」)、
なんて言ってるんだけど(田川、『イエスという男』)、こういうイエス解釈はどう思いますか?

384:油ハム
06/09/14 02:05:09
>>382
> a)イエスの場合は贖罪と隣人愛の関連性は認める。

どういう点で関連性があるのかが不明だと誤解(教義に関連性があるように誤解される可能性)を
招きそうです。関連性について適切な説明があれば良いと思います。

b)については合意されていると思います。
c),d),e)の主語は何でしょうか?

> ・カトリックの意向=プロテスタントの意向ではない・・・これはおk
> ・カトリック教皇の意向=カトリック信者・プロテスタント信者全体の意向でもない。

意向についてまとめるとこうなります。

・カトリック教皇の意向=カトリック信者の意向≠プロテスタントの各宗派の信者の意向
・プロテスタントの宗派Aの信者の意向≠プロテスタントの宗派Bの信者の意向

385:考える名無しさん
06/09/14 02:09:57
>>368

> ここにはイエスの「主体」=決断はないから、贖罪ドグマは、隣人愛ドグマとは別個に議論できるっていうやつ。

田川建三か・・これかい?w

「イエス・キリストの教えに従って生きる」などという言い方を、キリスト教徒はよくする。
ところが、パウロは書簡の中でイエスの生前の言動には一言も触れていない。
パウロ書簡はおそらくすべて福音書よりも先に書かれたので、パウロはイエス言行録の
存在を知らなかった可能性もあるが、むしろかれは生前のイエスへの関心をきっぱりと
否定している。一方、福音書には贖罪論が、主題としてはでてこない。イエス自身が
それを口にしないのは当然だが、不思議なことに受難物語にさえ、贖罪信仰の影響は
ほとんどみられないのである。福音書編纂の目的は贖罪論の宣伝普及とは全く別の
ところにあり、また受難物語そのものも贖罪信仰とは無関係に伝承されていたのだ。
新約聖書には実は、このように明確に異なる二種類の思想的産物が同居しているのである。
イエス信仰と贖罪信仰は、内容的に無関係なのだ。これは、よく考えてみれば重大なこと
ではないか。イエスがわれわれの罪の身代りであることと、われわれの人生の導き手で
あることとの間には、必然的関係がない?!
いや、実際は関係がないどころではない。パウロ書簡と福音書の成立は原始キリスト教内
における厳しい思想的相克を反映しているのだ。倫理主義の桎梏を断ち切ることに救いを
見出したパウロにとっては、十字架上のイエスの死とその後の復活こそが唯一の信仰の
対象であり、生前のイエスについて語ることは「イエスの教え」を絶対化する教条的倫理主義
に陥る危険を孕むがゆえに、厳に戒めなければならない。それに対して、イエスを主人公に
した物語を著すという行為は、十字架贖罪論に包摂されえないイエスという人間の生の現実
に救いの根拠を求めることを意味する。両者の立場は根本的に相容れないのだ。
ここにキリスト教の本質的自己矛盾がある。信ずるべきは人間イエスか、それとも十字架の
キリストか―この抜き差しならない難問に、キリスト教は答えをだす必要があった。

386:考える名無しさん
06/09/14 02:21:19
>>384

> どういう点で関連性があるのかが不明だと誤解(教義に関連性があるように誤解される可能性)を
> 招きそうです。関連性について適切な説明があれば良いと思います。

せっかく>>368さんが田川建三さんの面白い論を提出しているのだから
そちらに議論を移しても構わないが(この話題はつまらんw)
キリスト信仰と贖罪論についての関連性は>>385にて。

> b)については合意されていると思います。

いえ、していませんが。

> c),d),e)の主語は何でしょうか?

主語はキリスト教信者です。

> ・カトリック教皇の意向=カトリック信者の意向≠プロテスタントの各宗派の信者の意向

カトリック教皇の意向=カトリック信者の意向について、

まず、教皇の発言について知らないので提示していただけませんか。
次に、代表者の意向=その組織全体の意向ではないと何度も言っていますが。
(根拠は過去レス参照)

387:油ハム
06/09/14 02:23:32
>>383
私個人は、嫌味ではなく、気がつかせるために話したのだと思います。
イエスは「ユダヤ教」を否定していたわけではないと思います。

マタイによる福音書5章17節
わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。
廃止するためではなく、完成するためである。

388:油ハム
06/09/14 02:33:00
>>386
> > b)については合意されていると思います。
> いえ、していませんが。

了解しました。

> まず、教皇の発言について知らないので提示していただけませんか。

膨大な量があるのでとりあえず、これぐらいでよろしいでしょうか。
URLリンク(www.cbcj.catholic.jp)

> 次に、代表者の意向=その組織全体の意向ではないと何度も言っていますが。

一般的な組織の場合、その図式が成立します。
しかし、教皇の意向と同じでない集団は、カトリックにはなりません。
プロテスタントということになります。
・教皇の意向=ある組織の意向→カトリック
・教皇の意向≠ある組織の意向→プロテスタント
ということです。

389:考える名無しさん
06/09/14 02:37:31
キリスト信仰と贖罪論の融合についてでもいいのだが・・
ニーチェからどんどん離れてゆくというジレンマが・・w
寝よ・・

390:一言居士
06/09/14 11:13:26
油ハムさん、キリスト教は利己心、自己愛などについてどう捉えているのか教えていただけますか?

391:考える名無しさん
06/09/14 13:00:16
>>388
> 膨大な量があるのでとりあえず、これぐらいでよろしいでしょうか。
> URLリンク(www.cbcj.catholic.jp)

悪いが、まずどの教皇の発言なのだね。次にいつの年代の発言かな?
多数いる教皇の膨大に有る発言から「他宗教無干渉」のみを探すのはそれを知らないものに
とっては極めて困難だろう。知っているなら乗せるのは簡単なはずだと思うが。
あと現教皇ベネディクト十六世はイエスの復活=奇跡を述べておるぞw

> 奇跡を起こすことや、贖罪することが規範ではないので、「行動の一部」が規範になります。

これに矛盾するんじゃないのかね。

URLリンク(www.cbcj.catholic.jp)
教皇ベネディクト十六世の2006年4月16日の復活祭メッセージ(ローマと全世界へ)  
「あのかたは、ここにはおられない。復活なさったのだ」(Non est hic, sed resurrexit!)。
このルカによる福音書24章6節からとられたことばは、復活祭メッセージ本文にも引用されています。
あのかたは、ここにはおられない。復活なさったのだ(Non est hic, sed resurrexit)」(ルカ24・6)。
この朝以来、このことばは、喜びを告げ知らせるために、全世界にあらためてこだまし続けています。
この喜びは、世々に変わることがありません。同時にこの喜びは、限りのない、常に新しいこだまを響かせています。

392:考える名無しさん
06/09/14 13:02:00
教皇の発言はほとんど聖書の引用だな。

URLリンク(www.cbcj.catholic.jp) 「教皇ヨハネ・パウロ二世の遺言」
1978年10月16日という日に枢機卿たちのコンクラーベがヨハネ・パウロ二世を選んだとき、ポーランドの
大司教であるステファン・ウィスチンスキ枢機卿がわたしにこう言った。
「新しい教皇の課題は、教会を第三千年期に導くことであろう」。
「勝利に至るなら、その勝利はマリアによる勝利である」。

URLリンク(www.cbcj.catholic.jp)
教皇ベネディクト十六世=現教皇 2005年12月25日の降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)
「人よ、目覚めなさい。神はあなたのために人となったからである」(Expergiscere, homo: quia pro te Deus factus est homo!)。
「わたしは・・・・大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2・10-11)。
「実際、人間の秘義は肉となられたみことばの秘義においてでなければ、ほんとうに明らかにはならない」(『現代世界憲章』22)。

393:考える名無しさん
06/09/14 13:14:57
ここで考慮しなければならないのは、
教皇の発言=カトリック信者全体の意向ならば、
まず現教皇はイエスの復活=イエスの奇跡を肯定している。
よってカトリック信者もその奇跡を肯定しているのである。

次の落としどころは教皇の贖罪に関する発言だな・・
教皇が贖罪に関して否定的しない=肯定する場合、
キミの論理だと、カトリック信者全体の意向は贖罪を肯定するわけだね。
面倒だけど探してみるかw

394:考える名無しさん
06/09/14 13:22:36
>>393
訂正

> 教皇が贖罪に関して否定的しない=肯定する場合、
教皇が贖罪に関して否定しない、もしくは肯定する場合、

395:考える名無しさん
06/09/14 13:28:30
キリスト教は贖罪によって解体され
カトリックは教皇の発言によって解体されるw

396:油ハム
06/09/14 13:35:15
>>391
> 悪いが、まずどの教皇の発言なのだね。次にいつの年代の発言かな?

どのような発言をお探しですか?

> 多数いる教皇の膨大に有る発言から「他宗教無干渉」のみを探すのはそれを知らないものに
> とっては極めて困難だろう。知っているなら乗せるのは簡単なはずだと思うが。

知っていても困難です。ヨハネパウロ2世ということは知っていますが、
そこから先探す苦労は、貴方でも私でも同じです。
その発言があるかどうかによって、貴方の意見が変わるなら探す価値がありますが、
変わらないなら徒労に終わってしまうでしょう。

> あと現教皇ベネディクト十六世はイエスの復活=奇跡を述べておるぞw

別に問題はないと思います。

> > 奇跡を起こすことや、贖罪することが規範ではないので、「行動の一部」が規範になります。

これは、「信徒が」奇跡を起こすことや贖罪をするようにするための規範ではないと
いう意味で申し上げました。



397:考える名無しさん
06/09/14 13:37:42
>>393
前代のヨハネ=パウロ2世なんか進化論を肯定してたけど

398:油ハム
06/09/14 13:42:12
>>393
> 教皇の発言=カトリック信者全体の意向ならば、

ということを特に条件づけなくても、

> まず現教皇はイエスの復活=イエスの奇跡を肯定している。
> よってカトリック信者もその奇跡を肯定しているのである。

こちらの通りです。イエスの復活を信じているのはカトリックの特徴です。

また、贖罪に限らず、肯定否定に限らず、
キリスト教徒の中で、教皇の意向と同じ意向を持つ者が、カトリック信者になります。
これはどちらかというと定義に近いです。

399:考える名無しさん
06/09/14 14:27:44
>>397

> 前代のヨハネ=パウロ2世なんか進化論を肯定してたけど

これね。根拠の提示とはこういうことを意味します。
URLリンク(www.christiananswers.net)
1996年10月23日、ローマ教皇ヨハネ・パウロI2世は、
「新たな知識により、進化論を単なる仮説以上のものとして認識するにいたった」
と公式に教皇庁科学アカデミーに対して述べました。
教皇は、神様のみが人間の魂を造ることができることを支持するならば、
創造と進化は矛盾なく、両立すると語ったのです。

教皇の発表は、イエスや使徒の教え、そしてローマ・カトリックに非常に
重要な意味を持つ教会の伝統にさえも矛盾するものです。
この教えによれば、アダムが文字どおりエデンの園で、文字どおりに堕落したために、
この世に死と苦しみがもたらされることになったのです。
だからこそ、キリストが受肉し、われわれの罪のために死ななければならなかったのです=贖罪。
進化は、その死、すなわち「最後の敵」(コリント一15:26)が、
実際に神の「非常によかった」創造(創世記1:31)の一部であると見なしているのです。

400:考える名無しさん
06/09/14 14:41:17
>>399
リンク先見ると、興味深い点があるな。

教皇は本当に進化が仮説以上のものであると言ったのでしょうか?
実は、一般メディアが教皇の声明を間違えて解釈した可能性があるのです。

ほとんどのローマ・カトリックの学校で、進化が教えられています。
ですから、教皇には全般に進化を受け入れる向きがあるのです。
ことにローマ・カトリック教会は、聖書を最終権威と見なしていません。

ローマ・カトリック教会は、テモテ第二3:15-17に反して、
生きるための指針として聖書は十分ではないと明確に言っています。

401:考える名無しさん
06/09/14 15:03:25
>>396

> どのような発言をお探しですか?

キミが書いた、
> 十字軍については教皇が既に過ちを認めています。
> イスラム教徒を粛清することは、カトリックは望んでいませんし、
> そのような行為は肯定も美化もしていません。
> 少なくとも第二バチカン公会議以降、現代では他宗教を尊重しています。
> これは私の考えではなく、カトリックの教皇の発言が根拠です。

この「十字軍」と「他宗教の尊重」についての発言とその根拠ですね。

> その発言があるかどうかによって、貴方の意見が変わるなら探す価値がありますが、
> 変わらないなら徒労に終わってしまうでしょう。

私の意見はまず反論の根拠を明確に知ることです。
根拠の無い反論であれば、残念ながら
「それはキミの私見であって、カトリック全体の意向ではないかもしれない」
と言わざるをえないでしょう。
つまり、根拠がわからなければまともな反論はできないのです。
カトリックであり、そのカトリック教皇の発言の提示者である君が「探すのは困難」であるなら、
非カトリックであり、非提示者である私にとっては、それはさらに困難なのです。

> これは、「信徒が」奇跡を起こすことや贖罪をするようにするための規範ではないと
> いう意味で申し上げました。

私は規範という言葉を使用したことを>>380にて訂正しています。
それは肯定・美化という意味で言っています。
キリスト教信者は、イエスの奇跡や贖罪を美化し肯定しているのです。

402:考える名無しさん
06/09/14 15:52:53
>>400
>生きるための指針として聖書は十分ではないと明確に言っています。

なんかすごいなカトリック

403:考える名無しさん
06/09/14 16:01:08
>>402

> >生きるための指針として聖書は十分ではないと明確に言っています。
>
> なんかすごいなカトリック

要するに、カトリックでは、聖書よりも教皇の権威の方が上位だと
いいたいのでしょう。
であるなら、その絶対的権威である教皇の発言=カトリック全体の意向を、
その信徒が覚えるのは当然の義務である、と言えますね。
教皇の、十字軍に関する発言や他宗教の尊重に関する発言を
カトリック信徒が提示できないということのほうが問題なのかもしれません。

404:油ハム
06/09/14 16:30:00
>>401
> この「十字軍」と「他宗教の尊重」についての発言とその根拠ですね。

発言内容をソースレベルで知りたいということですね。

> 「それはキミの私見であって、カトリック全体の意向ではないかもしれない」
> と言わざるをえないでしょう。

仰るとおりです。
ただ、仮にカトリック全体の意向と貴方が認める内容であったとしても、
貴方が、主張する内容を変えないのであれば、そこは論点ではなく、
結局無駄な労力になると思います。

> カトリックであり、

そのようなことは申し上げておりませんので、決め付けはやめてください。

> そのカトリック教皇の発言の提示者である君が「探すのは困難」であるなら、
> 非カトリックであり、非提示者である私にとっては、それはさらに困難なのです。

いえ、ネット上のソースということなら、どちらもほぼ同じように困難だと思います。
多くの教徒がネット上での情報を見ているわけではありません。サイトも知らない人が多いです。
意味のある労力なら、数日かけて探せると思いますが、すぐにレスができるわけではないので、
その点は、ご理解いただきたいと思います。

> キリスト教信者は、イエスの奇跡や贖罪を美化し肯定しているのです。

それ自体は別に否定も肯定もしていないので、論点ではないと思います。

405:油ハム
06/09/14 16:35:19
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>>404
> > キリスト教信者は、イエスの奇跡や贖罪を美化し肯定しているのです。
>
>それ自体は別に否定も肯定もしていないので、論点ではないと思います。

これは、貴方の主張を私が否定も肯定もしていない、と言う意味です。
キリスト教徒がと言う意味ではないので、念のため。

ところで貴方の仰る「肯定」というのは、
善悪という意味での肯定でしょうか?
それともそういう事象が存在したという意味での肯定でしょうか?
またはそれ以外の何かでしょうか。

406:考える名無しさん
06/09/14 19:13:09
>>404

> ただ、仮にカトリック全体の意向と貴方が認める内容であったとしても、
> 貴方が、主張する内容を変えないのであれば、そこは論点ではなく、
> 結局無駄な労力になると思います。

私の論を変えるか否かは、反論の根拠がわからなければ予想不可能なんですよ。
その仮説(教皇の十字軍・他宗教尊重の発言)が正しいとした場合、
結論は○○である。としても構わないんですが、
その結論は仮説が正しいという前提がなければ成立しないんです。
ここはわかりますよね?
私が尋ねているのは、君の提示した仮説の根拠です。
時間がかかっても構わないので、仮説の論拠を明示してください。

それと、無駄な労力であることはこちらも同じです。
コーランやパレスチナ問題・アイルランド問題の詳細について
自分では既に解っている内容を、それがわからないとする者に対して
わざわざ明示しているわけです。

> そのようなことは申し上げておりませんので、決め付けはやめてください。
カトリックではないと。別にそれでも構いませんが。

> > キリスト教信者は、イエスの奇跡や贖罪を美化し肯定しているのです。
>
> それ自体は別に否定も肯定もしていないので、論点ではないと思います。

>>382に書いた通り、この論点は、

> d)贖罪は美化も肯定もしていない し
> e)そのような行為は行わない

に繋がるわけです。

407:考える名無しさん
06/09/14 19:19:41
>>405

> ところで貴方の仰る「肯定」というのは、
> 善悪という意味での肯定でしょうか?
> それともそういう事象が存在したという意味での肯定でしょうか?
> またはそれ以外の何かでしょうか。

肯定の意味は辞書の定義とおりで構いませんが、
肯定=「その通りで間違いではない。正しい事・行動であると認めること」ですね。

408:油ハム
06/09/14 19:25:35
>>407
辞書の意味はわかっていますが、
文脈上「肯定」は少なくとも2通りの意味があるということはわかりますよね?
「事実」の肯定の場合と、「正当性」の肯定の場合です。

409:考える名無しさん
06/09/14 19:39:33
>>408
> >>407
> 辞書の意味はわかっていますが、
> 文脈上「肯定」は少なくとも2通りの意味があるということはわかりますよね?
> 「事実」の肯定の場合と、「正当性」の肯定の場合です。

肯定の意味を知りたいのですか?
肯定しているとする対象について知りたいのですか?

前者ならば>>407です。
後者ならば、

> キリスト教信者は、イエスの贖罪を美化し肯定しているのです。

の文であれば、肯定の対象は「イエスの贖罪」です。
解り易くすると、
キリスト教信者は、イエスの贖罪を
その通りで間違いではない。正しい事・行動であると認めている=肯定している
のです。

善悪の基準ならば「善」。
事象の存在性ならば「イエスの贖罪はあった」。
正当性ならば「イエスの贖罪行為は不当行為ではなく正当行為」。
ですね。

410:油ハム
06/09/14 19:43:27
>>406
> 私の論を変えるか否かは、反論の根拠がわからなければ予想不可能なんですよ。
了解しました。教皇の発言が問題になるのはどうしてですか?単なる興味本位なのか、何かの根拠になっているのか、それ以外の何かでしょうか。

> その仮説(教皇の十字軍・他宗教尊重の発言)が正しいとした場合、 結論は○○である。としても構わないんですが、
構わないなら、他宗教尊重の発言があった場合の結論を教えていただきたいと思います。

> その結論は仮説が正しいという前提がなければ成立しないんです。
> ここはわかりますよね?
もちろんわかります。ただ、他宗教尊重の発言が正しくても、何も変わらないか、
それが何の意味もなさないなら、調べるのは無駄だと思います。それでも意味があるというのなら、その意味を教えて欲しいです。

> 私が尋ねているのは、君の提示した仮説の根拠です。
仮説ではないです。貴方が求めているのはソースではないのですか?私は仮説を立てた覚えはないですし、せいぜい出せるのは発言のソースぐらいです。

> 時間がかかっても構わないので、
ええ、調べるのに時間がかかることはご理解いただきたいと思います。

> 自分では既に解っている内容を、それがわからないとする者に対して
> わざわざ明示しているわけです。
これは私も同じで、すでにいくつか明示してきています。

> 別にそれでも構いませんが。
貴方が構わないかどうかではなく、私がやめてくださいと申し上げているのですが、わかりませんか?

> > d)贖罪は美化も肯定もしていない し
> > e)そのような行為は行わない
> に繋がるわけです。
繋がるかもしれませんが、私は論点にはしていません。従って、

> キリスト教信者は、イエスの奇跡や贖罪を美化し肯定しているのです。
私はそのことを、別に否定も肯定もしていないので、論点ではないと思います。

411:油ハム
06/09/14 19:50:51
>>409
後者です。私が聞いているのは、

貴方が「肯定」していると主張される対象は、

・「イエスの贖罪」の事実 (善悪を問わない)
か、
・「イエスの贖罪」が正しい行動 (現実か神話かは問わない)
か、
その両方なのかということです。

また、美化と仰られていますが、それはどうしてそう思われたのでしょうか。

412:考える名無しさん
06/09/14 20:01:12
>>410

> 教皇の発言が問題になるのはどうしてですか?単なる興味本位なのか、何かの根拠になっているのか、それ以外の何かでしょうか。

教皇の発言が問題にならない=無関係ならば、君の反論の意図が全く不明になります。
教皇の発言を反論の主軸にしているのは君自身なんですよ。
その主軸にある教皇発言の根拠を尋ねているのです。
このことはわかりますよね?

> > その仮説(教皇の十字軍・他宗教尊重の発言)が正しいとした場合、 結論は○○である。としても構わないんですが、
> 構わないなら、他宗教尊重の発言があった場合の結論を教えていただきたいと思います。
>
> それが何の意味もなさないなら、調べるのは無駄だと思います。それでも意味があるというのなら、その意味を教えて欲しいです。

根拠を提出することが無意味で無駄ならば、
「君の発言は間違いである。理由は教皇(などの権威)が発言しているから」
という言及が全ての論に対する反論として正論になってしまいますな。

こういう暴論の例を出しましょうか。
「カトリックは人殺しを許可している。他宗教を殲滅せよと主張する。
理由は教皇がそう発言しているからだ」
根拠の提示がなければ、この暴論も成立してしまうんですよ。

> せいぜい出せるのは発言のソースぐらいです。

発言のソースで構いません。

> 私は論点にはしていません

であるなら君の論点を明示すべきなのでは。
まあそれでも、私は自身の論点に着目しますがね。

413:考える名無しさん
06/09/14 20:08:14
追記。

「カトリックは人殺しを許可している。他宗教を殲滅せよと主張する。
理由は教皇がそう発言しているからだ」
根拠の提示がなければ、この暴論も成立してしまうんですよ。

こういう暴論に対し、教皇の「殺戮を肯定する」とした発言のソース
を求めることは、無意味でも無駄でもなく、論点の相違でもなく
「議論する上で最低限のマナー」
だということもわかりますよね?

414:368
06/09/14 21:46:46
なんか、飽いてきた。
油ハムは、議論の流れを忖度せずに、あれこれ一対一で質問・レスしすぎ。
自分のキリスト教護教が問題にされてるんだから、一度議論を自分なりにまとめてみて
長文でいいから、自分の論を積極的に展開すべきだ。言葉がですますだからって、中身が丁寧だとは限らんのよ?
あと、攻め入ってるほうも、細かな質問反論弁証で釣ろうとせずに、メタな整理を油ハムに要求すべき。
面白くないや。

415:油ハム
06/09/14 22:00:58
>>412
> > 教皇の発言が問題になるのはどうしてですか?単なる興味本位なのか、何かの根拠になっているのか、それ以外の何かでしょうか。
> 教皇の発言が問題にならない=無関係ならば、君の反論の意図が全く不明になります。

これは私の根拠のほうではなく、貴方の根拠と関連性があるかどうかを聞いているのです。
私は反論を主張したいわけではなく、このスレに情報の提供をしているにすぎません。
なので、意図と言われてもそれ以上のものがあるわけでもないです。

> 根拠を提出することが無意味で無駄ならば、

私は、無駄かどうかを断定しているわけではなく、意味を求めています。
論点になっていないことに労力を費やす必要はないと考えていますので、
論点であるということがわかれば、モチベーションもあがります。

> 発言のソースで構いません。

ソースでいいということで、了解しました。出るとしても数日後になるでしょうが、
それまで、この論点は保留と言うことでお願いします。

> まあそれでも、私は自身の論点に着目しますがね。

それはご自分の論も、問題点とする=懐疑されているということでしょうか。
それは良いことだと思います。

ところで、貴方は相手を「君」と呼んでいますが、貴方は人を呼ぶとき、
「貴方」と呼ぶより「君」と呼ぶほうが良いと考えているのでしょうか。
そうであれば、私も貴方に合わせ、「君」と呼ぶことにしたいと思います。

416:油ハム
06/09/14 22:11:03
>>413
> 「カトリックは人殺しを許可している。他宗教を殲滅せよと主張する。
> 理由は教皇がそう発言しているからだ」
> 根拠の提示がなければ、この暴論も成立してしまうんですよ。

私は成立するわけではないと思います。
根拠の提示がなければ、その論の説得力がなくなるだけでしょう。
根拠がないことによって、正しいとか間違いが決まるわけではなく、
単にわからないに留まると思います。

417:油ハム
06/09/14 22:27:41
>>414
> 自分のキリスト教護教が問題にされてるんだから、

別に私はキリスト教の肩を持つつもりはありません。
議論を通して双方に新たな知見が得られればと思っている次第です。

418:考える名無しさん
06/09/14 22:30:16
>>414
では面白くなるように反論もしくはまとめてみては。
私も根拠の提示の必要性を何度も語るのは、いい加減うんざりしている。
なんで議論のマナーまで説教しなければならないのか・・とね。
君が油ハムに質問すれば彼の感情論=客観性・具体性のなさや、
遁走・論点ずらしについてうんざりするでしょう。

419:考える名無しさん
06/09/14 22:41:39
>>417
君のいう論点とやらをまず定義してみては?
それがわからないと全て「論点ずらし」になってしまうからね。

> ところで、貴方は相手を「君」と呼んでいますが、貴方は人を呼ぶとき、
> 「貴方」と呼ぶより「君」と呼ぶほうが良いと考えているのでしょうか。
> そうであれば、私も貴方に合わせ、「君」と呼ぶことにしたいと思います。

人称などど何故どうでもよいことに噛み付くのかね。好きに呼べばよいのだよ。
君の論点はそんな小さいことなのかね。

420:368
06/09/14 22:53:01
>>418
乗りかかった船なんだから、自分でやってみてよ。発言量的にみても。
その上なら、あれこれ議論がかみ合うように参加したいけど。
でなきゃ、ニーチェの話に戻そう(ってもともとあるのかっていう話もあるけどw)ぜ。

421:油ハム
06/09/14 22:53:43
>>419
私は何かを主張しているわけではなく、
私が知っていることを提供しているに過ぎません。

> > ところで、貴方は相手を「君」と呼んでいますが、貴方は人を呼ぶとき、
> > 「貴方」と呼ぶより「君」と呼ぶほうが良いと考えているのでしょうか。
> > そうであれば、私も貴方に合わせ、「君」と呼ぶことにしたいと思います。
> 人称などど何故どうでもよいことに噛み付くのかね。好きに呼べばよいのだよ。
> 君の論点はそんな小さいことなのかね。

論点ではありませんが、ちょっとしたマナーです。
以前「君」と呼んだら逆切れされた方がいらっしゃったので、
できることなら、相手の呼び方に合わせておきたいと思っております。

422:考える名無しさん
06/09/14 23:00:48
>>417

>別に私はキリスト教の肩を持つつもりはありません。

もしそうなら、矛盾がおおいあれこれの聖書テキストの断片的引用をもって(わたし的には>>383への>>387のレスとか)
レス・反証した気になってるっていう態度はやめましょうね。
聖書テキストの内的矛盾を承認していないということ自体が、19Cならいざ知らず、
現代的には硬直的な護教論者だとみられても仕方ないというぐらいは、わかってますよね?

423:油ハム
06/09/14 23:17:37
>>422
別に情報提供をやめる必要はないと思います。
聖書の引用にしても、聖書に書いてあることを真実だと主張しているわけではなく、
キリスト教徒の立場とはどういうものかということを私が知っている範囲で説明しているに過ぎません。
またレスをするのは自由ですし、レス=反論、反証ということでもありません。


> > 別にそれでも構いませんが。
> 貴方が構わないかどうかではなく、私がやめてくださいと申し上げているのですが、わかりませんか?

ところで、上記のことは、わかっていただけましたか?

424:考える名無しさん
06/09/14 23:18:42
>420
君はよくわかっているなw
ニーチェの話までもっていくためには、私の論理展開上では、
1)イエスの贖罪はキリスト教利他心の象徴
2)キリスト教の贖罪精神を美化肯定する態度はイスラム自爆テロのそれと同質
3)ニーチェはこのようなイエスや神を絶対視し絶対服従させるキリスト教は危険思想であり
 病理だと説く。必要なのはキリスト教のような奴隷道徳的ルサンチマンではなく、力への意志である。
という流れを想定しており、現段階では1)で留まっているわけなんです。

>>421
> 私は何かを主張しているわけではなく、
> 私が知っていることを提供しているに過ぎません。

であるなら>>382

a)イエスの場合は贖罪と隣人愛の関連性は認める。
b)しかし一般教徒の場合にはそのような関連性はなく、
c)キリスト教信者は隣人愛は美化も肯定もする が
d)キリスト教信者は贖罪は美化も肯定もしていない し
e)キリスト教信者はそのような行為は行わない

を論点だと認めるのかね。
これを論点としないとするなら、君のいう論点を提出しろ。と言っている。

> 論点ではありませんが、ちょっとしたマナーです。
> 以前「君」と呼んだら逆切れされた方がいらっしゃったので、
> できることなら、相手の呼び方に合わせておきたいと思っております。

「君」は一般的な日本語の会話上で用いられる二人称単数なのだから
その基本単語に切れる者は、日本語を知らない。もしくは頭がおかしい。
とでも解釈して放置するのが適切であると思いますが。

425:368
06/09/14 23:29:57
>>423
>聖書の引用にしても、聖書に書いてあることを真実だと主張しているわけではなく、
>キリスト教徒の立場とはどういうものかということを私が知っている範囲



>>387
>私個人は、嫌味ではなく、気がつかせるために話したのだと思います。
^^^^^^^^^
とりあえずこの部分について弁明してみてください。

ところで>>414のメタな議論の仕方提案は却下ですか?

426:油ハム
06/09/14 23:31:36
>>424
それは論点ではなく、まとめとしての私の質問ではないのですか?

> a)イエスの場合は贖罪と隣人愛の関連性は認める。

関連性という言葉でまとめるのは、誤解を招く恐れがあります。
まとめるなら、

a)イエスの場合は贖罪という行動の動機として、隣人愛がある可能性がある。
b)一般教徒の場合は隣人愛が望まれており、贖罪という行動を取る必要がなく、
信徒の行動として意味のある関係性は見当たらない。
c),d)については肯定も否定もしません。保留です。
e)信徒はイエスのような贖罪は行わない。

上記について君の方に反論があれば、そこが論点になります。
私の意見に対して反論がないのであれば、論点はなくなります。

> とでも解釈して放置するのが適切であると思いますが。

まあ、そうですが、相手がどうであれ、
そうならないようにはしたいと思っています。

427:油ハム
06/09/14 23:35:29
>>425
単純にそこは私の思ったことを書いているだけです。
そのために「私個人は」「思います」となっております。


428:考える名無しさん
06/09/14 23:37:54
しばらく368氏に席を譲ってみますねw
・・寝よ

429:368
06/09/15 00:33:52
いや別に俺は、贖罪論が利他論(あるいは隣人愛論)につながるって思ってないし・・・
その点油ハム氏と一緒の認識だからなあ、振られても困る。

430:考える名無しさん
06/09/15 00:42:57
「君」は一般的に斜め上からの二人称だな。
どうでもいい話しだがw

431:考える名無しさん
06/09/15 01:02:29
>>430
小学国語からやり直せw 「貴方」=「君」

日本語の二人称
URLリンク(ja.wikipedia.org)

[普通]
あなた、君、そちら、お宅、相手の名前・愛称

[敬意]
相手の地位・役職(総理・大臣・社長・専務・部長・課長)
血縁関係(お父さん(パパ)・お母さん(ママ)・お爺ちゃん・お婆ちゃん・おじさん・おばさん・等)
陛下・殿下・閣下・猊下、先生、先輩

[敬意を払う場合(同輩)]
貴官、貴職、貴兄

[敬意(目下に対して)]
卿、貴兄、貴君

[親しい場合(目上の人に使うのは失礼とされる)]
お前、あんた、じぶん(自分)

[敵対的]
てめぇ、貴様、我(われ)・わ、

[古風・高貴]
汝、そち、そなた、その方(-ほう)、貴君(同輩)、貴殿(目上、改まった場合)
貴公(目下)、貴様、主(ぬし)うぬ

432:狂犬予防対策本部
06/09/15 01:41:27
油はむ

おまえは過去レスで自身をカトリック一般教徒と宣言していた狂犬と同一人物だなw
・その文体
・書き込み時間
・カトリック教皇の発言をつかった反論
・根拠をしめさない
・くだらない煽りにはすぐ反応する
・立場をころころ変える
・論点ずらし
・自身の論を書かない
という類似点w まちがいないww
お前は立場に窮したからコテをつけ別人を装う嘘つきなのだよww

たぶん同一人物ではないといってくるだろうがあえていう、その嘘はわれわれではなく、おまえ自身をあざむいているんだよ!w
懺悔せよ~懺悔せよ~w

433:メタメタ論者
06/09/15 01:53:23
ヨハネの福音書の冒頭はきわめて興味深い.
初めにロゴスありきとして、不連続的差異論=プラトニック・シナジー理論DDPS理論から見ると
ロゴスはメディア界・差異共振シナジー相である.そしてこれが光である.しかしこの光は
イデア・シナジーである.だから不可視の光である.闇である光である.現象界の光ではないのである.
つまり浄土教の阿弥陀如来の光と等価と見ていいだろう.原光・プロトライトである.
そしてこの光が肉体化したのが、イエス・キリストであるがしかしこれはおかしいと思うのである.
すべては光から生成したのであるから誰でも光を体現しているはずである.
イエス・キリストだけに限定されるものではないのである.
凡人や悪人にさえ光は潜在しているのである.そう悪魔にさえ光は潜在しているだろう.
思うに光の顕在をなんらかの精神修練によって実現した人物がイエス・キリストであったろう.
これはイエス・キリストが唯独りということはありえないのである.これはまたD.H.ロレンスの懐疑であったのであるが.
光の顕在的体現は多くのいわゆる神秘家に生起したと考えられるのである.
やはりこの点がドグマティックに考えられるのである.
光の独占である.これは不合理である.ここには光の連続・同一性自我化があると思うのである.
デカルトのコギトに近いと思う.そうキリスト教は光,ロゴス,コスモスの理(ダルマ)を
連続・同一性自我化していると思う.だからやはりポスト・キリスト教としてキリスト教の
脱連続・同一性化=不連続的差異化が必要である.またヨハネの福音書は父とロゴスとを混同している向きがあると思う.
だから父とはイデア界である.そしてロゴスはメディア界である.
そして子(複数)とは現象界である.そして聖霊もメディア界である.聖母マリア,聖母子もメディア界である.
これらが非常に混乱しているように思えるのである.カオス状態にあるように思えるのである.
古代の叡智がキリスト教によってカオス状態にされてしまったように思えるのである.
狂乱のキリスト教ではないだろうか.狂気の精神異常の精神分裂症のキリスト教ではないだろうか.
日本語でおk

434:光の刄 幻魔の夢の丘
06/09/15 01:59:51
おまえのような笑い方には何かがある。自分でわかってると思うが予想はどうだ

435:元プロテスタント信者
06/09/15 02:11:30
>>1
新約聖書は、福音書までは興味深いが、正直、使徒伝は読むに耐えませんでした。『人間革命』を彷彿させるレベルの低さでした。

教会で教わったが、聖書を記述する際、記述者に聖霊が宿り、自動書記状態になり、その文章はすなわち神自身の言葉であるという。
…百歩譲ってそうだとしても、パウロの書簡を読むと分かると思いますが、自分の思いで物言ってますよね。
膨大な量のパウロの書簡が、キリストの教えと行いの記録を圧倒し、教義はパウロの発明であり、よって『キリスト教』は『パウロ教』であります。

使徒は、死んだイエスを神に祭り上げた。それからイエスの教えが一人歩きし始めたようです。
ドストエフスキー著『カラマーゾフ~』の〈大審問官〉の通り、キリスト教会はキリストに再登場されると困ることでしょう。死人に口なしということか…。


私は勉強不足なので、もし誤った記述あったりや、まだまだ哲学に疎いことを許してちょんまげ。

436:臨済禅 真宗本願寺派
06/09/15 02:22:52
それにしてもそんなにレベル低くはないでしょう。今のところ隔たっていてあまり読んだことはありませんが法華の思想史家ではないでしょうか?法華経奥深いですね。

437:考える名無しさん
06/09/15 02:34:59
失礼しました宗教者ですね。ところで日蓮宗自戒しないんですか?

438:考える名無しさん
06/09/15 02:40:45
>>433
久々に無駄に衒学的であり「知の欺瞞」と称されるポストモダニズムの
狂気の片鱗を垣間見ましたw ハライテ-w

439:考える名無しさん
06/09/15 09:37:42
>>431
不都合な部分を削って掲載スンナ。

あなた 最も無難な二人称である。
君(きみ) 主に男性が同等または目下の相手に使う。
                 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
しかも
あなた
URLリンク(ja.wikipedia.org)
二人称の人物を呼ぶときに使う語。君よりも、敬意を示す語。

ま、wikepediaなんかそもそもソースにもなんにもならんが。中学卒業するまで2ちゃんすんなよ。

440:考える名無しさん
06/09/15 14:11:28
>>439

> 君(きみ) 主に男性が同等または目下の相手に使う。

「または」の意味がわからないのか?w
日本語と論理の初歩からやり直せ低能w

「きみ・君」は、元は君主、主人に対しする敬称
「貴方」は、元は遠称の指示代名詞

現代の日本語の慣習では「君」も「あなた」も同列なんだよw
中学で習わなかったか?ww
はやくスレ違いに気づけ池沼がww

441:考える名無しさん
06/09/15 14:15:37
>>438
おらには言わんとしていることが大体わかったよ。

442:考える名無しさん
06/09/15 14:18:30
「君が代」も知らないキムチ脳のクズばかりなのかここはww

443:BONNIE PINK
06/09/15 14:31:02
君の胸で泣かない 君に胸焦がさない
I'm looking for a perfect sky I'm looking for a perfect sky

あたしの歌詞の「君」は目下の相手に使うものだから
「あなた」に直せっていうの?
そんな基地外さんは「Heaven's Kitchen」でも聴いてなさい!w

444:考える名無しさん
06/09/15 15:15:53
現代慣習では、目下も含むだろ

445:424
06/09/15 16:37:00
>>424

ずいぶんと荒れているようで・・

> 「君」は一般的な日本語の会話上で用いられる二人称単数なのだから
> その基本単語に切れる者は、日本語を知らない。もしくは頭がおかしい。
> とでも解釈して放置するのが適切であると思いますが。

「君あなた論争」については、この言及につきますな。
どちらでも構わないし、どうでもいいです。はっきり言うとスレ違いです。

>>429
368氏

> いや別に俺は、贖罪論が利他論(あるいは隣人愛論)につながるって思ってないし・・・
> その点油ハム氏と一緒の認識だからなあ、振られても困る。

いえ、ここは私と油ハム氏だけのスレではないので
自身が望まれているように、メタな議論・まとめ等をされてみてはいかがでしょうか。
私は油ハム氏の「教皇発言のソース」の提示を待っているわけです。
ソースの提出がなされれば、改めて>>426の論点に対する議論をしたいと思います。

446:424
06/09/15 16:40:00
>>433
私はポストモダンについての知識はありませんが、

たしかに、ヨハネの福音書の冒頭は、

1 初めに,言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
2 この方は,初めに神とともにおられた。
3 全てのものは,この方によって造られた。造られたもので,この方によらずにできたものは一つもない。
4 この方に命があった。この命は人の光であった。
5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

となっており、すなわちこれは
ロゴス(言葉・万物を統一する法則・真理)=神が在りきという演繹法であって、
光=プラトン的イデア(界)であり、そのイデア的観念の実在化・享受者がイエスであるが、
その光は全人類に顕在するのであって、イエスのみがその体現者とするのは光の独占である。
というのはなんとなく解ります。
ただ、その光の独占が、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」の「私」に近いという言説に
ついては良くわかりませんが、後半の、

> そして子(複数)とは現象界である.そして聖霊もメディア界である.聖母マリア,聖母子もメディア界である.
> これらが非常に混乱しているように思えるのである.カオス状態にあるように思えるのである.
> 古代の叡智がキリスト教によってカオス状態にされてしまったように思えるのである.
> 狂乱のキリスト教ではないだろうか.狂気の精神異常の精神分裂症のキリスト教ではないだろうか.

こちらは同意します。

447:油ハム
06/09/15 17:21:02
>>433
> すべては光から生成したのであるから誰でも光を体現しているはずである.
> イエス・キリストだけに限定されるものではないのである

これは解釈の仕方によると思います。
例えば、光=イエス・キリスト=人間の善の心とすると、
すべての人にそれは宿っているという見方もできます。

エフェソの使徒への手紙4章6節
> すべてのものの父である神は唯一であって、
> すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、
> すべてのものの内におられます。

カトリックでは聖体拝領で、それをキリストの体と言います。

> だから父とはイデア界である.そしてロゴスはメディア界である.
> そして子(複数)とは現象界である.そして聖霊もメディア界である.聖母マリア,聖母子もメディア界である.
> これらが非常に混乱しているように思えるのである.カオス状態にあるように思えるのである.
> 古代の叡智がキリスト教によってカオス状態にされてしまったように思えるのである.

というよりも、キリスト教またはイエスの思想自体を、
ユダヤ教グノーシス主義と見ることもできます。
その考えだと、映画マトリックスのネオがキリストに相当します。
ユダヤ教徒から見ると、スターウォーズのベイダーがキリストに相当します。

448:メタメタ論者
06/09/15 17:51:17
>>446
大筋は,その解釈で正しい.

> ただ、その光の独占が、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」の「私」に近いという言説に
> ついては良くわかりませんが

本来,メディア界の光=差異共振シナジーを体現する人間が神人であり,
それは唯一ではありえないのであるが,それをキリスト教では唯一とすることである.
換言すると,古代の叡智の連続・同一性自我化がここには生じていることであり,
デカルトのコギトとの近似たる所以である.
叡智の捩じ曲げ,歪曲とも言えよう.しかしこれは近代的自我主義とパラレルな事象である.

449:メタメタ論者
06/09/15 18:05:03
不連続的差異論では,差異のゼロ度共振によって,対極性・即非の論理性をもつメディア界が形成されると考えている.
この,謂わば,太極界を科学的にどう見るのかが問題である.差異=イデアのゼロ度共振は,極性的連結を構成するだろう.
このイデア・シナジー極性体をどう見るのかという問題である.解釈の差異はイデア・シナジー極性体により吸収されるのである.
ここは,原時空間である.虚時空間と言ってもいいだろう.
ここから,差異が無化して,同一性が支配する現象界が発現するのである.
問題は,差異共振=イデア・シナジーの様相と同一性現象界との関係をどう見るのかということである.
ゼロ度が,イデア・シナジー=イデア結合を生む.これは,無限速度であると思われる.
ここは,超時空間である.そして,差異がゼロ度から無となったとき,同一性が発生して,
差異共振=イデア・シナジー=イデア結合は,いわば,固体化するだろう.
即ち,同一性体が差異共振にとって換わるのだ.
しかし,より精緻に言えば,差異共振性と同一性との間で,一種闘争があると思われるのである.
なぜなら,無化とは,極限化,一種のフィクションであるからだ.
即ち,ゼロ度化の極限としての無化であり,単に極限値に過ぎないのである.
この極限としての無化としての同一性が,光であると思われるのである.
つまり,光は,ゼロ度差異共振=イデア・シナジー=イデア結合の極限的フィクションである.
換言すると,マーヤー,幻象・幻像である.おそらく,ゼロ→無化の終点(エンテレケイア・終局態)として,光/視覚があるのだろう.
つまり,連続・同一性的差異=微分(極限値=フィクション)の積分化としての光/視覚でなのである.

450:油ハム
06/09/15 18:10:49
>>448
> 本来,メディア界の光=差異共振シナジーを体現する人間が神人であり
> それは唯一ではありえないのであるが

全体で唯一とする解釈は可能だと思います。
実際、宇宙全体を巨大な一個の状態ベクトルとみなす事ができます。

451:考える名無しさん
06/09/15 18:13:27
>>448-449
「語りえぬものには沈黙しなければならない」
ヴィトゲンシュタインw

452:メタメタ論者
06/09/15 18:15:07
>>447,450,451
>>449

453:考える名無しさん
06/09/15 18:21:40
>>452
構造主義スレにでもいけよ衒学者めw

454:メタメタ論者
06/09/15 18:23:36
>>453
お呼び出ないと.ではお暇します.

455:考える名無しさん
06/09/15 19:19:06
URLリンク(www7.ocn.ne.jp)

第1 結局は、どこまでも個人の倫理的責任はとらない。責任を
   すべて押し付けている。
   「しかし、だからといって、」が何につながるのか、意味不明だが、
   他で良いことをすればなにをしてもOKとでもいうつもりか?
第2 弱いものや貧しいものを救うのは善だ。ニーチェの限界かもしれん。
   しかし、「誰でもが心の深層に秘めているような、他人にいえない欲望、惨
   めで病的な思い、過去の過ちについての負い目と悔恨、そういった罪とし
   か名付けようのない心の一隅をおいて他にないというのが、贖罪思想が指
   示している事態である。」こんなものを、そのまま放置する奴が是認される
   べきだろうか。
   悪いことをしたら、自分で責任を負って、きちんと謝罪して、罪を償うのが当然。
第3 「被害者の代わりに証言し続けていく感受性と能動性・・・」
   どこまでも、自分の責任を認めない。罪を負わない。改めない。

こいつは、キリスト教では、罪を問われるのか?

広島市安芸区で下校途中の小学1年生の女児が殺害された事件で、
殺人と死体遺棄の容疑で逮捕されたフアン・カルロス・ピサロ・
ヤギ容疑者が「悪魔が自分の中に入ってきて自分を動かした」などと
容疑を認める供述を始めたことが分かった。



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