06/09/12 16:58:35
「神こそすべて」「真理は神」「イエスの贖罪は善」・・・
このようにキリスト教に支配されたものは、その絶対的信仰により
物事を自分で考え、改善してゆく能力=考える力が欠落します。
キリスト教・神は絶対であり、それさえ信じていれば賢い人間である、
救われるなどとした誤謬が、不勉強さを増長させる要因なのかも知れません。
アイザック・アシモフが小説「アイ、ロボット」で書いたロボットの三原則は、
(1)ロボットは人間に危害を加えてはならない
(2)ロボットは(1)に反しない限り人間から与えられた命令に服従しなければならない
(3)ロボットは(1)及び(2)に反するおそれのない限り自己を守らなければならない
でありますが、
キリスト教に精神を支配されたキリスト教信者=非人間的ロボットの三原則は、
(1)人間は神を懐疑してはならない
(2)人間は(1)に反しない限り神から与えられた命令に絶対的服従をしなければならない
(3)人間は(1)及び(2)に反するおそれのない限り、自己の生もしくは他者の生を害してもかまわない
なのであります。
人間として神を懐疑する行為、つまり自由な思考すら悪とし、
人間を思考停止状態に陥れ、非人間的ロボットを量産する疫病が、
キリスト教そのものなのなのです。
ニーチェはその疫病から人間を救い、治療する人類の医者といえましょう。
242:考える名無しさん
06/09/12 16:58:59
>>239
>という言のみで、その○○についてなんら具体性のある論はない。
貴方がそう思うのなら、勝手にそう思っていればいいでしょう。
>あえて言うと、君はキリスト教・ニーチェ・哲学・宗教のみならず議論の仕方すら知らない。
ということにしたいのですね
>荒れるから感情論のみなら人生相談板か宗教板にでも逝ってくれ。
ということにしたいのですね
>要するに、3年ROMれ!ということなんですよ。
キミがそうすれば?
まあ、キミがどうしようと、私は私で、キミが間違っているところを訂正するまでです。
それについてどう判断するかは、読み手が決めればいいと思います。
243:考える名無しさん
06/09/12 17:02:05
>>241
>このようにキリスト教に支配されたものは、その絶対的信仰により
>物事を自分で考え、改善してゆく能力=考える力が欠落します。
そういうことはありません。
>キリスト教・神は絶対であり、
ここは否定できませんが、
>それさえ信じていれば賢い人間である、
そういうことはありません。
>救われるなどとした誤謬が、不勉強さを増長させる要因なのかも知れません。
なので、全く無関係です。
244:考える名無しさん
06/09/12 17:04:01
>>241
>人間として神を懐疑する行為、つまり自由な思考すら悪とし、
していません。
>人間を思考停止状態に陥れ、非人間的ロボットを量産する疫病が、
>キリスト教そのものなのなのです。
貴方の妄想ですね。
245:一言居士
06/09/12 17:11:34
気をつけねばならないのは、ニーチェの言動を宗教化してしまうこと。つまり反キリスト教を「信仰」してしまうことである。
246:考える名無しさん
06/09/12 17:19:20
>>242
君の方法論を真似するよ。いかに馬鹿な行為であるかわかるだろう。
> 貴方がそう思うのなら、勝手にそう思っていればいいでしょう。
なんで?
> >あえて言うと、君はキリスト教・ニーチェ・哲学・宗教のみならず議論の仕方すら知らない。
> ということにしたいのですね
ということにしたいのですね
> >荒れるから感情論のみなら人生相談板か宗教板にでも逝ってくれ。
> ということにしたいのですね
ということにしたいのですね
> >要するに、3年ROMれ!ということなんですよ。
> キミがそうすれば?
君がいけよ。
> まあ、キミがどうしようと、私は私で、キミが間違っているところを訂正するまでです。
> それについてどう判断するかは、読み手が決めればいいと思います。
なんで?それは君の妄想だよ。
・・・馬鹿さ加減がわかったかい?w もう書かないでいいよ。
247:一言居士
06/09/12 17:28:13
クリスチャン(カトリック)vsニーチェ信奉者の論戦。平行線の議論w
248:考える名無しさん
06/09/12 17:31:54
>>246
>なんで?
どう思うかは人の自由。法によって内心の自由が保証されている。
>ということにしたいのですね
日本語として文章がつながっていないと思います。
>君がいけよ。
キミが行けよ。言いだしっぺはキミだから。
249: ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
06/09/12 17:35:21
彡川三三三ミ _
川川 ::::::⌒ ⌒ヽ /  ̄  ̄ \
川川::::::::ー◎-◎-) /、 ヽ
.川(6|:::::::: ( 。。)) |・ |―-、 |
, ―-、川;;;::∴ ノ 3 ノ q -´ 二 ヽ | 何言ってんだこのキモオタ
| -⊂) \_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ ノ_ ー | |
| ̄ ̄|/ (_ ∧ / 、 \ \. ̄` | /
ヽ ` ,.|  ̄ | | O===== |
`- ´ | | _| / |
| (t ) / / |
250:考える名無しさん
06/09/12 17:41:52
>>248
あ~あ。予想通り荒れてしまったな。飽きるまで付き合うか。
> どう思うかは人の自由。法によって内心の自由が保証されている。
ということにしたいのですね。
> 日本語として文章がつながっていないと思います。
ということにしたいのですね。
> キミが行けよ。言いだしっぺはキミだから。
なんで? はやく消えろよww
251:考える名無しさん
06/09/12 17:44:55
>>247
まあ、キリスト教の現状を把握した上で、ニーチェの論を検証するのならいいのですけどね。
対象が、ニーチェではなくキリスト教になっているのが既におかしいと思います。
252:考える名無しさん
06/09/12 18:19:56
>>247
> クリスチャン(カトリック)vsニーチェ信奉者の論戦。
ここはニーチェの「アンチクリスト」についての論を議論する場所であって
彼の論を信仰しているのでなく、その論と私の考えを照らし合わせて
主張しているだけ。
そもそも哲学は、神の存在性や、神=真理という立場を懐疑・批判・否定
する立場でしょうが。
ニーチェの永劫回帰・ルサンチマン・力への意志・超人思想などを信仰せず
とも自ずとキリスト教に対する批判は出てくるわけ。
> 平行線の議論w
どこかの馬鹿のせいで議論にすらなっていない・・
>>251
> まあ、キリスト教の現状を把握した上で、ニーチェの論を検証するのならいいのですけどね。
それは哲学の現状をしらない君の妄想だよ。
そう思うのは勝手だが、現状は全然違うよ。
> 対象が、ニーチェではなくキリスト教になっているのが既におかしいと思います。
ということにしたいのですね。
で?この方法論が荒れるだけの馬鹿の論だということがわかったかい?
わかったらまともな反論を書いてみろよ。それができないなら3年ROMれ。
253:考える名無しさん
06/09/12 18:46:08
>>252
>ここはニーチェの「アンチクリスト」についての論を議論する場所であって
これは同意。
>彼の論を信仰しているのでなく、その論と私の考えを照らし合わせて主張しているだけ。
ここはキミの意見を主張するところではないだろ。
彼の論についてのキミの意見なら別だが、キミがキリスト教に言及するのはおかしい。
>そもそも哲学は、神の存在性や、神=真理という立場を懐疑・批判・否定
>する立場でしょうが。
哲学は、神に関しては、肯定も否定も関係ないと思います。
哲学とはそういうものだとするのなら、脳内以外のソースを出してください。
>どこかの馬鹿のせいで議論にすらなっていない・・
キミが馬鹿だから、自分の間違いがわかんないんだろうね。
>> まあ、キリスト教の現状を把握した上で、ニーチェの論を検証するのならいいのですけどね。
>それは哲学の現状をしらない君の妄想だよ。
>そう思うのは勝手だが、現状は全然違うよ。
意味不明。「ニーチェの論を検証するのならいい」についての反論になっていません。
>> 対象が、ニーチェではなくキリスト教になっているのが既におかしいと思います。
>ということにしたいのですね。
いいえ。私の「思い」です。したいのではなく事実です。
254:考える名無しさん
06/09/12 18:55:44
>>252
>そもそも哲学は、神の存在性や、神=真理という立場を懐疑・批判・否定
>する立場でしょうが。
そんなことはないだろ。神=真理という定義なら、否定するのは無理。
神をどういう定義しているの?
255:考える名無しさん
06/09/12 18:56:33
>>253
> ここはキミの意見を主張するところではないだろ。
> 彼の論についてのキミの意見なら別だが、キミがキ
> リスト教に言及するのはおかしい。
ということにしたいのですね。んじゃ誰の意見を主張をする場なんだね。
君の意見を書く便所の落書きなのかね。本物の馬鹿か?
> 哲学は、神に関しては、肯定も否定も関係ないと思います。
> 哲学とはそういうものだとするのなら、脳内以外のソースを出してください。
これは間違い。きちんと「懐疑」と書いてある。
哲学の意味から勉強しなおしましょう。
> キミが馬鹿だから、自分の間違いがわかんないんだろうね。
ということにしたいのですね。
君が小学程度の間違いばかりするから私の論を誤解しているだけ。
> 意味不明。「ニーチェの論を検証するのならいい」についての反論になっていません。
これも間違い。それは君の妄想であって一般論ではない。
> いいえ。私の「思い」です。したいのではなく事実です。
ということにしたいのですねw
くだらなさすぎて、へそで茶を沸かしますなww
256:考える名無しさん
06/09/12 18:57:23
>>254
不可知論からやり直しては?
257:考える名無しさん
06/09/12 19:31:38
> そういう切り替えしは、小学生でも言うことができる馬鹿の論なのだよ。
> あえて言うと、君はキリスト教・ニーチェ・哲学・宗教のみならず議論の仕方すら知らない。
> 荒れるから感情論のみなら人生相談板か宗教板にでも逝ってくれ。
> 要するに、3年ROMれ!ということなんですよ。
この言及につきるな。実にくだらない。
「あえて言うと、君はキリスト教・ニーチェ・哲学・宗教のみならず議論の仕方すら知らない」
ここは図星なのだろう。知識がないのだから謙虚にROMっていたまえ。
煽りには過剰反応するが、一言もまともな論を書けないことは揺るがない事実なんだよ。
それを否定するなら、君のキリスト教の知識とやらを書いてみたまえ。
それとも何も書けずにただ否定するだけの馬鹿か?
258:考える名無しさん
06/09/12 19:49:53
>>241(自己レス)
> 「神こそすべて」「真理は神」「イエスの贖罪は善」・・・
> このようにキリスト教に支配されたものは、その絶対的信仰により
> 物事を自分で考え、改善してゆく能力=考える力が欠落します。
> キリスト教・神は絶対であり、それさえ信じていれば賢い人間である、
> 救われるなどとした誤謬が、不勉強さを増長させる要因なのかも知れません。
>
> アイザック・アシモフが小説「アイ、ロボット」で書いたロボットの三原則は、
> (1)ロボットは人間に危害を加えてはならない
> (2)ロボットは(1)に反しない限り人間から与えられた命令に服従しなければならない
> (3)ロボットは(1)及び(2)に反するおそれのない限り自己を守らなければならない
> でありますが、
> キリスト教に精神を支配されたキリスト教信者=非人間的ロボットの三原則は、
> (1)人間は神を懐疑してはならない
> (2)人間は(1)に反しない限り神から与えられた命令に絶対的服従をしなければならない
> (3)人間は(1)及び(2)に反するおそれのない限り、自己の生もしくは他者の生を害してもかまわない
> なのであります。
> 人間として神を懐疑する行為、つまり自由な思考すら悪とし、
> 人間を思考停止状態に陥れ、非人間的ロボットを量産する疫病が、
> キリスト教そのものなのです。
> ニーチェはその疫病から人間を救い、治療する人類の医者といえましょう。
しかし、キリスト教に毒された思考停止人間はまともな議論すらできない。
よって、論による治癒は困難なのかもしれない。
259:考える名無しさん
06/09/12 21:36:31
>>255
>これは間違い。きちんと「懐疑」と書いてある。
懐疑も関係ありません。
そもそも貴方の神の定義が何かによるわけで、
定義も無しに懐疑も糞もないでしょう。
260:考える名無しさん
06/09/12 21:38:18
>>257
>それとも何も書けずにただ否定するだけの馬鹿か?
間違いを指摘しただけですが、何が不適切に否定されましたか?
大抵、馬鹿とか言い出す方が馬鹿だと思います。
261:一言居士
06/09/12 21:40:04
>>260
間違いを指摘するだけで、自分の意見を述べないのを否定というのです。
262:考える名無しさん
06/09/12 21:40:29
>>258
>しかし、キリスト教に毒された思考停止人間はまともな議論すらできない。
私が仮にそういう人間だとしても、その少ないサンプルで断定するのであれば、
論理的な思考能力が欠如しているのだと思います。
必要条件と十分条件の違いがわかっていないと思われます。
263:考える名無しさん
06/09/12 21:42:07
>>261
自分の意見があるかは関係ないでしょうし、適切な否定なら問題ありません。
1+2=4が間違いであり、3だとするのに、自分の意見も糞もありません。
264:考える名無しさん
06/09/12 21:47:25
>>235
>イエスの贖罪がキリスト教的利他心の象徴だといっているだろう。
誰が?
>イエスの贖罪なくしてキリスト教的利他をどう語るのかね。
イエスがどうであれ、
キリスト教的利他はマザーテレサの行動のように語る事ができる。
265:考える名無しさん
06/09/12 21:49:06
>>236
>そのボランティア精神の動機付けとなっているのがキリスト教徒の場合は、イエスの贖罪である
いいえ、違います。
貴方がキリスト教徒なら誤解していますし、そうでないなら現実のキリスト教を知らないのでしょう。
>それを否定するならば、そもそも君はキリスト教徒ではなく、
キリスト教徒かどうかは貴方が決めることではありません。
>とする自爆テロを同じ思想である。
全然違います。
キリスト教では自殺は許されません。また殺人も許されません。
266:一言居士
06/09/12 21:50:01
>>263
1+2=4が間違い(相手の意見)なら1+2=3と正解(自分の意見)を示すのはいけないことでしょうか?
267:考える名無しさん
06/09/12 22:02:33
>>266
まっとうなことです。
しかし、今相手にしてる者に対しては無駄なことです。
それと蛇足ですが、>>261で「間違いを指摘する」と言ったら
それが間違いだと認めるハメになります。
「間違いだと指摘する」と表現した方がベターかと。
ごくごくつまらないことですが、
我々が相手にしているのは喜んでそのようなところに付込むものです。
268:考える名無しさん
06/09/12 22:13:42
>>266
>1+2=4が間違い(相手の意見)なら1+2=3と正解(自分の意見)を示すのはいけないことでしょうか?
良いことだと思いますが、
その正解は、自分の意見(ありふれているので)と言うほどのものだとは思いませんでした。
まあ、そういう形になるように気をつけます。
269:考える名無しさん
06/09/12 22:14:32
>>267
>しかし、今相手にしてる者に対しては無駄なことです。
無駄だと思うのなら黙っているのがよろしい。
270:考える名無しさん
06/09/12 22:30:53
まず話す相手に、その話題の知識があるかどうかを確認することが
議論をする上で最も重要な条件である。
否定論者の君。君がかつての共産党のような
「自民党の主張はなんでかんでも無条件に反対する」
とした馬鹿ではないなら、まず君の論を書いてみたまえ。
馬鹿を相手にする暇は生憎持ち合わせていないのでね。
「1+2=4」が「キリスト教は邪教」で、
「1+2=3」が「キリスト教は正教」というのなら
その正しさについて、キリスト教が邪教ではないとする論を
キリスト教擁護側の立場から書いてみせよ。(たぶんできないんだろうけどね)
これをしない場合、君はキリスト教の知識すらなく、
ただの否定論者であり、単なる荒らしだと認定せざるをえないね。
271:考える名無しさん
06/09/12 22:40:06
>>270
何か勘違いしていらっしゃるようですが、
私はキリスト教が正教だと主張するつもりはありません。
貴方が邪教とするまでの筋道に間違いがあると申し上げているだけです。
なお、無条件に反対しているわけではなく、正しいところには同意をしています。
272:考える名無しさん
06/09/12 22:44:50
>>270
>ただの否定論者であり、単なる荒らしだと認定せざるをえないね。
まあ、キミが心の中で勝手に認定するのは自由ですが、
ただの否定論者ではないと申し上げておきます。
某ヨハネ氏を私が移動させたように、問題のあるキリスト教徒には私も批判的です。
273:考える名無しさん
06/09/12 22:44:52
>>262
> >しかし、キリスト教に毒された思考停止人間はまともな議論すらできない。
>
> 私が仮にそういう人間だとしても、その少ないサンプルで断定するのであれば、
んじゃ君の意見はキリスト教者の中ではマイノリティーの異端者=カルトなのだね。
君の意見=一般的キリスト教者でないとすれば、
> しかし、キリスト教に毒された思考停止人間はまともな議論すらできない。
ここの部分を訂正しなければならないが。
君はキリスト教徒一般なのかカルトなのか。
その答えは君自身がよく解っていると思うがね。
274:考える名無しさん
06/09/12 22:54:31
>>271-272
そのくだらない弁は聞き飽きた。
でなに?その間違いの根拠をきちんと書けと言っているだろう。
単に「それは間違い」「ということにしたい」「それは君の妄想」「現場ではそうではい」
と書き綴ってなんの意味があるのだね。
どのような論に対してもその子供染みた否定をできるのだよ。
そういう否定の仕方は馬鹿でもできる。と再三いっているだろう?
A「1+1は2である」
B[ということにしたいですね。それは間違いで君の妄想で数学の現場ではそうではない。それが常識だよ」
君がAならBのこの弁に対してどうするのかね。
A「だからなに?間違いだという根拠を具体的に述べよ」
となるだろう。君はその具体性に欠けているのだよ。
わかったかい?
275:考える名無しさん
06/09/12 23:16:47
>>269
>>267の書き込みは一言居士さんに対してのものです。
一言居士さんに対しては無駄ではないと思ったから書いたまでです。
私もあなたの言う通り無駄なことは嫌いですから。
誰もあなたに対して言ってないってことですよ。
そのくらいは理解できますよね。
理解できると思うから書かせてもらいました。以上
276:一言居士
06/09/12 23:26:39
>>275
確かに彼らのうちの誰かが言った「キリスト教の自己犠牲精神は自爆テロと同質」というのは、論理の飛躍ですな。批判になってない。
だから、論理性に欠ける人間に何か言っても無駄なのかもしれません。
277:考える名無しさん
06/09/12 23:37:02
昔々、ヨゼフとマリアという、それはそれは仲のよい男女がいました。
2人は結婚していませんでしたが、それなりに幸せな毎日を送っていました。
ある日、マリアは自分が妊娠していることに気づきました。父親はヨゼフ。
さぁ、大変! ここは戒律の厳しい宗教が支配する地。
結婚していないのに子供ができた、つまり性交渉を持ったことが知れたら、
どんな目にあわされるか、わかりません。
今結婚しても、子供が生まれた日から逆算されると、ヤッたのが婚前であることは
すぐにバレてしまいます。
大ピンチのヨゼフとマリア。苦し紛れにひねくり出したのが
「処女懐妊、神様から授かった子である」
といういい加減な代物。これで周囲が納得するとはとても思えなかったのですが、
意外や意外、つらい毎日に耐える民衆には大うけ。
神様と同格に祭り上げられてしまったばかりか、高名な3人の僧侶も遠くから
わざわざ祝福にやってくるという始末。
予想以上に騒ぎが大きくなってしまい、引っ込みがつかなくなったヨゼフとマリア。
こうなったら、産まれてくる子をホントの神様のような聖人として育てるしかない。
というわけで、その子は産まれたときから聖人としての英才教育を受け、
やがて世界中に信者を持つ宗教が創始されることになったのです。
278:考える名無しさん
06/09/12 23:40:58
>>273
>> 私が仮にそういう人間だとしても、
>んじゃ君の意見は
「仮に」と書いているように、仮定の話です。
279:考える名無しさん
06/09/12 23:44:31
>>274
>でなに?その間違いの根拠をきちんと書けと言っているだろう。
それは主張する側がまずすること。
その主張に根拠がないから否定されるわけ。
>A「1+1は2である」
>B[ということにしたいですね。それは間違いで君の妄想で数学の現場ではそうではない。それが常識だよ」
そう答えるのが正しい場合もあるし、そうでない場合もある。
それは場合によりけり。
例えば、定義が違う場合、それは間違いを指摘するしかできない。
「1+1は2である」に対して、「1+1は2でない」というのでも十分な場合がある。
280:考える名無しさん
06/09/12 23:44:51
ニーチェの最も恐れていたことは、
このような非人間的ロボットの非宗教者に対する復讐心なのかもしれない。
キリスト教に汚染された奴隷機械は、神という一元論でしか物事を思慮でき
なくなり、汚染されていない者との知的力関係において、弱者=被支配者側になら
ざるをえない。その弱者の持つルサンチマンは、根拠のない否定や復讐心に
繋がるのである。
キリスト教を破壊するべきか、その疫病に感染した教徒を治療すべきか。
その教徒の病状が軽度の風邪=キリスト教をある程度知っているくらいなら、
薬(論)により治癒できるのだが、末期ガン患者=思考・生活・行動規程の全てが
キリスト教に侵されている場合は手遅れなのである。
残念ながらその末期ガン患者に対しては余命を宣告せず、
ただ見守るほか救済手段は無いのである。
281:考える名無しさん
06/09/12 23:48:57
>>277
仮にそうだとしても別に良いのではないでしょうか。
一体何が問題なのでしょう。
282:考える名無しさん
06/09/12 23:54:44
>>280
>非宗教者に対する復讐心なのかもしれない。
普通の信徒にはそんな感情はありません。
>汚染されていない者との知的力関係において、弱者=被支配者側になら
>ざるをえない。
全くハズレですね。米国の科学者の多くもキリスト教徒です。
ユダヤ教にいたっては、アインシュタインをはじめ、天才が数多くいますね。
>その弱者の持つルサンチマンは、根拠のない否定や復讐心に繋がるのである。
キリスト教徒は既に弱者ではありません。
>ただ見守るほか救済手段は無いのである。
そう思うなら放置すればいいでしょう。
どんなくだらない趣味であっても、本人の価値観は尊重されるべきです。
283:考える名無しさん
06/09/13 00:20:37
一部、病理のように噛み付く狂犬がいるようですな。
凄まじいルサンチマンを持つこの検体をどのように処置すべきか。
キリスト教は精神まで食い荒らしてしまう・・ということを実証するため
にこの狂った犬は書き込んでいる・・としか思えませんね。
狂犬へのエサは慎重に・・。
284:考える名無しさん
06/09/13 00:27:06
>>283
>一部、病理のように噛み付く狂犬がいるようですな。
穏やかな書き込みではありませんね。
そう思いたいのでしょうかねぇ。
>凄まじいルサンチマンを持つこの検体をどのように処置すべきか。
私は持っていませんけどね。気の毒には思っています。
285:FSS
06/09/13 00:32:10
レスの進み具合が早いねw
>>214
>その問いはナンセンスであり不可知であって、
>ある者の行為が利他か利己かの答えは自身しか知ることができず、
>他者がそれを判断することは不可能。
人が己の行為を選択する際、自分の価値観に基づいて最善と思う選択をしますよね?
ならば、どのような行為であれ自己の最大利益を図るものだと言えなくもない・・・
というのは変な論理でしょうか?
286:考える名無しさん
06/09/13 00:33:56
>>284
で、聖書に銘記している最期の審判なるイベントはいったいいつ実施されるの?
287:考える名無しさん
06/09/13 00:40:04
>>276
> 「キリスト教の自己犠牲精神は自爆テロと同質」というのは、論理の飛躍ですな。批判になってない。
どこが論理の飛躍か指摘してもらえないでしょうか。
私の論は次の通りです。
「キリスト者はイエスの贖罪=殉職を美化肯定している」
まず、キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪であるか
について、私は根源は贖罪であると主張します。なぜならイエスの贖罪=
神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと
こそがイエスをキリスト=メシア=救世主であることを裏付けるからです。
この贖罪がなければ、イエスの神性や人類愛を説明できず、
キリスト教徒は贖罪とイエス自身の行為を美化肯定しているのも事実なのであり、
これを否定する者は非キリスト者であるわけです。
この贖罪意識を善とするキリスト集団が・・過去の例であれば十字軍が、
現代の例であれば米軍が・・異教であるイスラム教とその信徒を粛清することや、
その戦いで死ぬことを「善」と位置づけ、美化し肯定しているわけです。
「自爆テロリストはインファデルに対する殉職を美化肯定している」
一方、イスラム教徒はその教義コーランにより、インファデル(非信仰者)を
粛清する過程で殉職することは誇り高い名誉であり運命である考えています。
キリスト教の例と同様に、
聖戦=ジハードによって、異教であるキリスト教とその信徒を粛清することや、
その戦いで死ぬことを「善」と位置づけ、美化し肯定しているわけです。
以上が、キリスト教の贖罪精神が自爆テロと同質である所以なのです。
288:考える名無しさん
06/09/13 00:46:37
>>286
>で、聖書に銘記している最期の審判なるイベントはいったいいつ実施されるの?
知りません。
太陽が赤色巨星化して、人間を含む地球上の全生命がいつ滅ぶかもわからないです。
289:考える名無しさん
06/09/13 00:55:57
>>287
>「キリスト者はイエスの贖罪=殉職を美化肯定している」
まあ、これはいいでしょう。
>キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪であるかについて、
>私は根源は贖罪であると主張します。
キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪とは無関係です。
理由は、イエスが生きている間でもそれは望まれているからです。
>神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと
>こそがイエスをキリスト=メシア=救世主であることを裏付けるからです。
ここは正しいですが、キリスト教的利他心の根源にはつながりません。理由は前述の通りです。
>この贖罪がなければ、イエスの神性や人類愛を説明できず、
贖罪とは無関係です。イエスが生きていても同じですから。
>キリスト教徒は贖罪とイエス自身の行為を美化肯定しているのも事実なのであり、
ここは、間違いではないでしょう。
>過去の例であれば十字軍が、
>現代の例であれば米軍が・・異教であるイスラム教とその信徒を粛清することや、
>その戦いで死ぬことを「善」と位置づけ、美化し肯定しているわけです。
全くの誤解です。十字軍については教皇が過ちを認めています。
イスラム教徒を粛清することは、カトリックは望んでいませんし、そのような行為は肯定も美化もしていません。
少なくとも第二バチカン公会議以降、現代では他宗教を尊重しています。
290:考える名無しさん
06/09/13 00:58:57
>>287
>「自爆テロリストはインファデルに対する殉職を美化肯定している」
>一方、イスラム教徒はその教義コーランにより、インファデル(非信仰者)を
>粛清する過程で殉職することは誇り高い名誉であり運命である考えています。
そのようなことはデマでは聞いたことがありますが、
知り合いからはコーランにそのような記述はないと聞いております。
WEB上のもので結構ですので、コーランのどこに書いてあるのかご説明ください。
291:考える名無しさん
06/09/13 01:06:34
どちらにしろ世の中が一色に染まるのが一番怖い。
292:考える名無しさん
06/09/13 01:07:09
どちらにしろ世の中が一色に染まるのが一番怖い。
293:考える名無しさん
06/09/13 01:07:55
>>285
> 人が己の行為を選択する際、自分の価値観に基づいて最善と思う選択をしますよね?
> ならば、どのような行為であれ自己の最大利益を図るものだと言えなくもない・・・
> というのは変な論理でしょうか?
いえ、別に変な論ではなく正論だと思います。
私が言いたかったことは、
いくらそのような正論を振りかざしたとしても、
「私は利他的動機によりそれをした。君は私の価値観を把握しているのか」
と言われれば反論のしようがなく、
自身のある物事に対する価値観や感じ方・クオリアを他者が規程・把握することは不可能
ということです。
同様に、
「私は神の存在を感じているから、神は存在している」
と言われれば、
「君がそう思うことは否定できないが肯定もできない。
君のいう神の存在性は私にとっては不可知です」
というしかありませんね。
294:考える名無しさん
06/09/13 01:13:42
>>289,290
私は>>276の「一言居士」さんに答えているのあり、
何度いってもわからない狂犬に答えるのは実りが
無く疲れるので無視します。
君が根拠のある(自己脳内、知人友人がソースではない)論を
展開できるくらい賢くなったらレスするね。
295:考える名無しさん
06/09/13 01:16:50
>>294
>無く疲れるので無視します。
どうぞご自由に。
他の読者のために間違いを修正しているだけです。貴方の存在などどうでもいいです。
296:考える名無しさん
06/09/13 01:20:07
>>294
そういうお前は本当にコーラン読んだことあるのか?
297:考える名無しさん
06/09/13 01:26:50
>>294
いい加減な反論のときは煽り、まともな反論がきたら答えに窮しんだろ。w
一言居士に指摘されたのかどうか知らんが、>>289,290はまともだぞ。
298:考える名無しさん
06/09/13 01:28:27
>>296
コーラン上下巻-岩波文庫を図書館で斜め読みしたくらいだがなにか?
299:考える名無しさん
06/09/13 01:34:10
>>297
どこがまともな反論か述べてみて?w
悪いがこんな相手には付き合ってられん。
>>289について
> キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪とは無関係です。
> 理由は、イエスが生きている間でもそれは望まれているからです。
まずこれの根拠を提示していない。
> ここは正しいですが、キリスト教的利他心の根源にはつながりません。理由は前述の通りです。
前述の根拠が不明。
> 贖罪とは無関係です。イエスが生きていても同じですから。
意味不明。イエスが生きていても同じなどとありえないことを述べている。
> 全くの誤解です。十字軍については教皇が過ちを認めています。
> イスラム教徒を粛清することは、カトリックは望んでいませんし、そのような行為は肯定も美化もしていません。
> 少なくとも第二バチカン公会議以降、現代では他宗教を尊重しています。
過去の十字軍、現代の米軍のことを述べているのに、
反論が現代カトリックの教皇の弁になっている。
>>290
ソースが知り合い。
コーランでググればジハードについてすぐわかるのにしない。
300:考える名無しさん
06/09/13 01:36:38
>>295
さらに狂犬性の指摘。
> 他の読者のために間違いを修正しているだけです。貴方の存在などどうでもいいです。
といいながらこいつは、まともな根拠のある批判をしめさない否定論者。
さらに、自らはなにも論を提出しない。
こんな相手とはまともに議論ができない。以上。
301:考える名無しさん
06/09/13 02:40:43
ニーチェの言うキリスト教の病理は狂犬病なのかもしれない・・w
302:みい
06/09/13 03:22:02
>>295さん
他の読者のためにも、貴方が正しいという前提をまず疑ってみたらどうでしょう。
間違いを修正しているとおっしゃっていますが、それをする権利があるのは
貴方が正しいという前提が認められなければなりません。
貴方の考えで間違っていると判断してもそれを他の人がわからなければ
意味がありません。まず、>>299さんの指摘するキリスト教利他と贖罪が
無関係だという理由について解説していただけないでしょうか。
303:考える名無しさん
06/09/13 09:04:49
>>302
>キリスト教利他と贖罪が無関係だという理由について解説していただけないでしょうか。
そのような関係は聖書に書いてありません。
304:油ハム
06/09/13 09:21:34
>>287
> キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪であるか
> について、私は根源は贖罪であると主張します。
キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪とは関係がないと思います。
要理にも聖書にも、贖罪を根源とする利他心を述べる記述はなく、
キリスト教の教えにもそういったものはありません。
もし、聖書や要理、その他キリスト教の教えにそういった記述(贖罪との関連性)があれば、
ご教示いただけないでしょうか。
イエスが教えを広めた当初から利他性は重んじているので、
贖罪と結びつける必要はないと思います。
> この贖罪がなければ、イエスの神性や人類愛を説明できず、
何故でしょうか?
> この贖罪意識を善とするキリスト集団が・・過去の例であれば十字軍が、
> 現代の例であれば米軍が・・異教であるイスラム教とその信徒を粛清することや、
> その戦いで死ぬことを「善」と位置づけ、美化し肯定しているわけです。
それは違いますね。
>>289のとおり、十字軍については教皇が既に過ちを認めています。
イスラム教徒を粛清することは、カトリックは望んでいませんし、
そのような行為は肯定も美化もしていません。
少なくとも第二バチカン公会議以降、現代では他宗教を尊重しています。
これは私の考えではなく、カトリックの教皇の発言が根拠です。
305:考える名無しさん
06/09/13 09:24:27
>>298
で、どこにその記述があったの?
306:考える名無しさん
06/09/13 09:29:04
>コーランでググればジハードについてすぐわかるのにしない。
ググったぐらいで、キミのいうコーランの記述があるなら、リンクを一つでいいから書けよ。
ないことを証明するのは不可能だ。
>一方、イスラム教徒はその教義コーランにより、インファデル(非信仰者)を
>粛清する過程で殉職することは誇り高い名誉であり運命である考えています。
コーランのどこに、
「非信仰者を粛清する過程で殉職することは誇り高い名誉」
ということを書いた記述があるのか引用してくれ。
307:考える名無しさん
06/09/13 09:31:35
>>299
>> 全くの誤解です。十字軍については教皇が過ちを認めています。
>> イスラム教徒を粛清することは、カトリックは望んでいませんし、そのような行為は肯定も美化もしていません。
>> 少なくとも第二バチカン公会議以降、現代では他宗教を尊重しています。
>過去の十字軍、現代の米軍のことを述べているのに、
>反論が現代カトリックの教皇の弁になっている。
ええ、そうです。
過去の十字軍、現代の米軍のことに対して、
現代のカトリックの立場がそうだということです。
308:考える名無しさん
06/09/13 11:39:58
宗教板の「イスラーム」スレでサロメおたぁというクリスチャンが
「コーランではサルーキ(犬の品種)は犬とは別物とされている。
サルーキと犬との遺伝子的な違いを言ってみろww」みたいなことを
ムスリムコテに言っていたが、後になってサルーキがコーランに登場
しないことが明らかになって少し弱気になりつつも強情に「訳でそうなってる
だけで原文ではたぶん書いてある」なんて垂れていたのが哀れだった。
コーランにサルーキが載っているというサイトが一つだけあるのを見たことがあるが、
サロメおたぁはそれを見て「これはイスラム叩きに使える!」と確信しちゃったのかもしれない。
と、いうわけで証拠として出すならコーランからの引用が望ましい。
309:考える名無しさん
06/09/13 13:48:41
マジで馬鹿しかいないみたいだね。
聖書・コーランなどの原典に書いてなければ
「イエスやモハンマドはうんこしないよ。なぜなら聖書・コーランにかいてないから」
「当然、聖書に書いてないからキリスト教徒もイスラム教徒もうんこしないよ」
という、「原理主義者」ばかりなのかここはww
原典と教義すらわからない池沼か?
原典に書いてあること意外の行為をその教徒がしないとする
根拠を説明せよww
っていうか、聖書には2chに書き込むことを善とする記述はないから
もう書き込むなよ狂犬。
馬鹿通り越して知能に障害があるようだね。
310:考える名無しさん
06/09/13 13:50:50
>302
要するに>>295はただの詭弁者なのだよ。相手にしないほうがいい。
>>263で
>自分の意見があるかは関係ないでしょうし、適切な否定なら問題ありません。
>1+2=4が間違いであり、3だとするのに、自分の意見も糞もありません。
と言っていながら、
>>279で
>例えば、定義が違う場合、それは間違いを指摘するしかできない。
>「1+1は2である」に対して、「1+1は2でない」というのでも十分な場合がある。
と言っているし(その定義についての言及は皆無)、
>>262で
仮に私が思考停止人間だとしても、それは少ないサンプルだから
私の論でキリスト教一般を非難するのはおかしい。
といいながら、自らをキリスト教一般であると言っているし。
更に、>>278でそれは仮定だから云々と言っているが、
仮定であってもなくとも、自身はキリスト一般である=少ないサンプルではない
と主張しているしね。
極め付けが「馬鹿っていうやつが馬鹿」というやつは自認する馬鹿
であることすら気づかないし、知り合いのソースは信憑性がないと
耳にタコができるほど言っているのにそれを覚えてもいない。
自己矛盾満載&それに気づかないアホウなのであり、
結局、三歩あるいたら自分の言っていることを忘れるニワトリだったのだよ。
これほどの低能を哲学板でみることはマレだから希少種カモね。
可哀相に論理の初歩からやり直したほうがよさそうだね。
311:油ハム
06/09/13 14:10:34
>>309
> 原典と教義すらわからない池沼か
カトリックの場合、教義は要理にあります。
カトリックの場合は、聖書にも要理にもないなら、それは教義にはならないと思います。
312:考える名無しさん
06/09/13 14:12:07
コーランの記述は以下の通り。
おまえは「聖書にないことを教徒がしない」と言う弁について答えられるのかな?w
馬鹿だから無理だろうけどね。
www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Mid_e/pdf/2003_07_hosaka.pdf
「汝ら,信仰ある者どもよ,アッラーを,神にふさわしい畏敬の念をもって畏れ奉れ。
どのようなことがあろうとも必ず,死ぬ時には立派な帰依者として死ねよ。」(コーラン3:102)
「人間どもよ,汝らの主を畏れまつれ。汝らをただひとりの者から創り出し,その
一部から配偶者を創り出し,この両人から無数の男と女とを(地上に)播き散らし給
うたお方にましますぞ。アッラーを畏れまつれ。汝らお互い同士で頼みごとする時に,
いつもその御名を引き合いに出し奉るお方ではないか。また母の胎をも。
アッラーは汝らを絶えず厳重に監視し給う。」(コーラン4:1)
「これ,信徒の者,お前たちアッラーを懼れ,常にまともなことばかり言うように
せよ。そうすればお前たちの行為の(曲がったところ)は直して下さるし,犯した罪
も赦して下さろう。とにかくアッラーと使徒の言いつけをよく守る人は,大成功に疑
いない。」(コーラン33:70?71)
讃えあれアッラー。預言者シュアイブのお言葉を伝え給うた。
「わしは,ただ及ばずながら世の中を正しくしたいと願っておるだけのこと。
が,このわしの願いがかなうもかなわぬもアッラーの御心次第。
すべてをおまかせ申し,改悛の心をもってお縋り申しておる。」(コーラン11:88)
讃えあれアッラー。次のように仰せになられた。
「汝らは今まで人類のために生れ出た集団の中で最上のもの。汝らは義しいことを
勧め,いけないことを止めさせようとし,アッラーを信仰する。」(コーラン3:110)
アッラーの僕であり,アッラーの使徒である[ムハンマド]にアッラーの祝福と祈りがあらんことを。
彼いわく。「違反を犯したものを見て,それをやめさせることができなければ,アッラーからの罰は免れぬ。
313:考える名無しさん
06/09/13 14:12:24
>>310
馬鹿の相手はどうでもいいから、こっちの方を答えてくれ。
>コーランでググればジハードについてすぐわかるのにしない。
ググったぐらいで、キミのいうコーランの記述があるなら、リンクを一つでいいから書けよ。
ないことを証明するのは不可能だ。
>一方、イスラム教徒はその教義コーランにより、インファデル(非信仰者)を
>粛清する過程で殉職することは誇り高い名誉であり運命である考えています。
コーランのどこに、
「非信仰者を粛清する過程で殉職することは誇り高い名誉」
ということを書いた記述があるのか引用してくれ。
314:考える名無しさん
06/09/13 14:14:03
>>312
>コーランの記述は以下の通り。
非信仰者を粛清などどこにも書かれていませんが?
315:考える名無しさん
06/09/13 14:19:06
>>309
馬鹿はお前だろ。
法律に2chに書き込んでいいと記述されていないから、お前は書き込むな
って言っているようなもの。論理的にお前の書いていることはおかしい。
馬鹿通り越して知能に障害があるのはお前だと思う。
316:考える名無しさん
06/09/13 14:27:11
>>314
www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Mid_e/pdf/2003_07_hosaka.pdf
をきちんと読んだか?
そのコーランについての解釈がのってるからまず読め馬鹿。
読まずにすぐ噛み付くから狂犬で池沼なんだよww
>>315
原典に書いてあること意外の行為をその教徒がしないとする
根拠を説明せよ池沼がww
317:考える名無しさん
06/09/13 14:28:59
あ~馬鹿をイジって苛めるのは最高の気分。
狂犬君の特徴。
・詭弁者
・論理性欠如
・3歩あるいたら自分の言っていることを忘れるニワトリ
・何にでも狂ったように噛み付く狂犬
・一般教徒といいながら原理主義者
・聞いてばかりで自分の質問にはこたえない
・批判に根拠が皆無、ソースが知人友人カトリック教皇の他宗教無干渉のみ
異常から分析すると、狂犬君は
・虚栄心が強い。
・負けず嫌い。(勝てる論はもたずスレを荒らすだけ)
・粘着質
・学力が低い。偏差値20程度の未熟者。池沼。
318:考える名無しさん
06/09/13 14:30:29
皆様、右の頬を打たれたなら、左の頬も出しませう。
319:考える名無しさん
06/09/13 14:36:24
>>317
それが力への意志なのです。
ニーチェの言いたかったことは、このような詭弁者キリスト教徒を
人間の知的能力で粉砕し、その快楽を得ることなのかもね。
320:考える名無しさん
06/09/13 14:58:52
凄い闇鍋状態だなぁ。もう誰が誰なのかとてもわかりにくい。
321:考える名無しさん
06/09/13 14:59:18
>>315
日本国憲法第21条で「表現の自由」が日本国民には保証されている。
よって、2chなどの情報媒体に書き込むことは許される。
しかし、聖書に2chへの書き込みを許可する記述はない。
よって、「原典に書いてあること以外の行為をその教徒がしない」
という立場ならば、2chに書き込むこと自体が論理矛盾。
矛盾がないとするなら、聖書のどこに2chへの書き込みを良しと
する記述があるのか提示せよ。
322:考える名無しさん
06/09/13 15:08:31
原理主義者は危険な存在である。
池沼・馬鹿・ニワトリ・狂犬と罵り追い出したほうが
社会全体の平和に繋がる。
よって>>317の記述と論旨を肯定します。
323:考える名無しさん
06/09/13 16:04:01
>>316
だからそれはコーランじゃないだろ。コーランの勝手な解釈なんていくらでもある。
俺が聞いているのは、コーランのどこにかいてあるのかということ。
324:考える名無しさん
06/09/13 16:05:10
>>316
>原典に書いてあること意外の行為をその教徒がしないとする
そんなことは誰も主張していないだろ。
325:油ハム
06/09/13 16:07:30
>>287
> キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪であるか
> について、私は根源は贖罪であると主張します。
キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪とは関係がないと思います。
要理にも聖書にも、贖罪を根源とする利他心を述べる記述はなく、
キリスト教の教えにもそういったものはありません。
もし、聖書や要理、その他キリスト教の教えにそういった記述(贖罪との関連性)があれば、
ご教示いただけないでしょうか。
イエスが教えを広めた当初から利他性は重んじているので、
贖罪と結びつける必要はないと思います。
> この贖罪がなければ、イエスの神性や人類愛を説明できず、
何故でしょうか?
> この贖罪意識を善とするキリスト集団が・・過去の例であれば十字軍が、
> 現代の例であれば米軍が・・異教であるイスラム教とその信徒を粛清することや、
> その戦いで死ぬことを「善」と位置づけ、美化し肯定しているわけです。
それは違いますね。
>>289のとおり、十字軍については教皇が既に過ちを認めています。
イスラム教徒を粛清することは、カトリックは望んでいませんし、
そのような行為は肯定も美化もしていません。
少なくとも第二バチカン公会議以降、現代では他宗教を尊重しています。
これは私の考えではなく、カトリックの教皇の発言が根拠です。
326:考える名無しさん
06/09/13 16:09:00
>>317
ニーチェにも議論にも関係ないカキコだな。おい。
馬鹿だと思う相手に必死すぎる。www
327:考える名無しさん
06/09/13 16:35:39
>>325
ノンクリなんで、よくわからないのですけど
>キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪とは関係がないと思います。
ここでいう利他心を隣人愛と言い換えれば、キリスト教的隣人愛とキリスト教的救済論は無関係ということですか?
328:狂犬予防対策本部
06/09/13 16:52:44
>>323
>>312 読め池沼ww
>>324
贖罪とキリスト教利他は無関係だと理由は「聖書に書いてないから」
なんだろ?w
また自分の言っていることを忘れたよコイツww
おい、小学生より知能が低いぞキミ~ww
>>325
それに関する聖書の記述の提示をよろしくw
>>326
ニーチェに「ニ」の字もしらんお前がいうなww
キリスト教の「キ」の字もしらんお前が語るなよww
哲学の「て」の時もしらんお前は早くここから出て逝けよww
馬鹿すぎてハラ痛いww 必死杉ww
おとなしく両頬を打たれまくっていろよマゾがww
おまえその知能のない文体と、連投規制で書き込む時間が決まっているから
名無しでも狂犬君だということが丸解りなんだよカスがw
もうちょっと頭使えよゴミくずめw
いつまでワサワサ沸くんだよゴキブリやろうがww
329:考える名無しさん
06/09/13 16:53:33
・・荒らしにレスを流されたので一旦まとめます。狂犬は放置の方向で。
******************************************************
■「キリスト教の自己犠牲精神は自爆テロと同質」である。
「キリスト者はイエスの贖罪=殉職を美化肯定している」
まず、キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪であるか
について、私は根源は贖罪であると主張します。なぜならイエスの贖罪=
神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと
こそがイエスをキリスト=メシア=救世主であることを裏付けるからです。
この贖罪がなければ、イエスの神性や人類愛を説明できず、
キリスト教徒は贖罪とイエス自身の行為を美化肯定しているのも事実なのであり、
これを否定する者は非キリスト者であるわけです。
この贖罪意識を善とするキリスト集団が・・過去の例であれば十字軍が、
現代の例であれば米軍が・・異教であるイスラム教とその信徒を粛清することや、
その戦いで死ぬことを「善」と位置づけ、美化し肯定しているわけです。
「自爆テロリストはインファデルに対する殉職を美化肯定している」
一方、イスラム教徒はその教義コーランにより、インファデル(非信仰者)を
粛清する過程で殉職することは誇り高い名誉であり運命である考えています。
キリスト教の例と同様に、
聖戦=ジハードによって、異教であるキリスト教とその信徒を粛清することや、
その戦いで死ぬことを「善」と位置づけ、美化し肯定しているわけです。
330:考える名無しさん
06/09/13 16:54:12
■「キリスト教的利他は病理」である
まずナザレのイエスがエルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制を批判する。
これを知ったユダヤ教指導者は、イエスを異端者(=現代でいうカルト)とみなし
イエスを死刑の権限を持つローマ帝国へ反逆者として渡し、
公開処刑(磔刑)を行う。これは新約聖書四福音書にあるお話。
イエスが全人類の身代わり(利他心)として贖罪したのか、
イエスのユダヤ教批判(利己心)vsユダヤ教保守派の反感(利己心)
という宗教対立の基本的構図(既存宗教者とその批判者による対立)
によって死に至ったのか。
キリスト教的解釈は前者であり、イエスは利他肯定の象徴である。
自己の生命すらその利他心・神への絶対信仰によって投げ出すことを美化
するキリスト教的利他心は、現代のイスラム原理主義者が引き起こす
自爆テロと同列の危険思想であり、そのような利他心の肯定・誤謬を
人間に教えるキリスト教は邪教であり病理だ!というわけなんです。
利他の完全肯定こそキリスト教そのものであり、そのテロリズムまがいの
思想を破壊すべしとするニーチェの思想はカルトではなく、
むしろ人間の生命や意志を尊重し、肯定するものである。
331:考える名無しさん
06/09/13 16:55:32
■「キリスト教信者は神に支配された非人間的ロボット」である
「神こそすべて」「真理は神」「イエスの贖罪は善」・・・
このようにキリスト教に支配されたものは、その絶対的信仰により
物事を自分で考え、改善してゆく能力=考える力が欠落します。
キリスト教・神は絶対であり、それさえ信じていれば賢い人間である、
救われるなどとした誤謬が、不勉強さを増長させる要因なのかも知れません。
アイザック・アシモフが小説「アイ、ロボット」で書いたロボットの三原則は、
(1)ロボットは人間に危害を加えてはならない
(2)ロボットは(1)に反しない限り人間から与えられた命令に服従しなければならない
(3)ロボットは(1)及び(2)に反するおそれのない限り自己を守らなければならない
でありますが、
キリスト教に精神を支配されたキリスト教信者=非人間的ロボットの三原則は、
(1)人間は神を懐疑してはならない
(2)人間は(1)に反しない限り神から与えられた命令に絶対的服従をしなければならない
(3)人間は(1)及び(2)に反するおそれのない限り、自己の生もしくは他者の生を害してもかまわない
なのであります。
人間として神を懐疑する行為、つまり自由な思考すら悪とし、
人間を思考停止状態に陥れ、非人間的ロボットを量産する疫病が、
キリスト教そのものなのなのです。
ニーチェはその疫病から人間を救い、治療する人類の医者といえましょう。
332:考える名無しさん
06/09/13 16:56:14
■「キリスト教信者のルサンチマンとその病理の対処法」について
ニーチェの最も恐れていたことは、
このような非人間的ロボットの非宗教者に対する復讐心なのかもしれない。
キリスト教に汚染された奴隷機械は、神という一元論でしか物事を思慮でき
なくなり、汚染されていない者との知的力関係において、弱者=被支配者側になら
ざるをえない。その弱者の持つルサンチマンは、根拠のない否定や復讐心に
繋がるのである。
キリスト教を破壊するべきか、その疫病に感染した教徒を治療すべきか。
その教徒の病状が軽度の風邪=キリスト教をある程度知っているくらいなら、
薬(論)により治癒できるのだが、末期ガン患者=思考・生活・行動規程の全てが
キリスト教に侵されている場合は手遅れなのである。
残念ながらその末期ガン患者に対しては余命を宣告せず、
ただ見守るほか救済手段は無いのである。
更に病状が悪化した異常者=原理主義者に関しては、救済ではなく、
その危険思想から我が身を守ることを第一に考え、隔離粛清するほか
手段はないのである。
333:考える名無しさん
06/09/13 17:01:24
>>329
それは、めちゃくちゃだなあ。神への贖罪はイエスの一回性においてなされている(身代)というのが
キリスト教的特徴なのに、そんな話から攻め込んでも、キリスト教の「害」を論証することになりえないのに。
334:考える名無しさん
06/09/13 17:06:38
>>328
狂犬にはかかわらないほうがいいでしょう。
Webの情報でいいからコーランの引用を書けといいながら
その提示をコーランではないと主張するのですkら。
そもそも聖書の解釈についても何が正しいのかを規程できる
はずがありませんし、聖書の訳者によって、キリスト教の各派に
よって見解もわかれるわけです。
ある原典について解釈が違う・・というのはまさに詭弁なのであり
ではどの解釈が正しいのか・・という疑問も出てくるわけです。
カトリックは当然、カトリック的解釈が正しいと主張し、
プロテスタントも同様に、プロテスタントの解釈が正しいと宣言するでしょう。
よって、狂犬のいう正しさは、狂犬自身の正しさに過ぎず、
その間違いだと指摘する姿勢は、偏見そのものなのです。
「否定の根拠の提示をしない」これに尽きるのではないでしょうか。
コーランの提示をされた方は、狂犬さんよりは
議論の仕方を心得ていると認めざるを得ませんね。
335:考える名無しさん
06/09/13 17:31:59
ラリホーだな
336:一言居士
06/09/13 17:45:04
キリスト教徒はなぜこんなにも「キリスト教」の教義が分裂しているかを考えてはどうか?
昔はローマカトリック教会とギリシャ正教会の2大教会だったが、1054年に相互を破門(近年、両者がそれらを取り消す)した歴史。
宗教改革で、ローマ教会の権威に従わない、個人と神が向き合うプロテスタントの信仰形式。それにより各教派が興るようにした。現代も続くその潮流。
十字軍を聖戦とした11世紀のローマカトリック教会と現在の十字軍の過ちを認めたローマカトリック。
結論:キリスト教-神の教えといえども各人の心を反映する。主観を全く交えないキリスト教の教義そのものなど無い。
キリスト教は存在しない。個々のクリスチャンがいるのみである。
337:油ハム
06/09/13 17:56:51
>>327
> >キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪とは関係がないと思います。
>
> ここでいう利他心を隣人愛と言い換えれば、
どうして言い換えるのでしょうか?
同じものなら置き換えてもいいでしょうが、異なるものを置き換えてしまったら、
論理的に正しい結論は出てこないと思います。
338:油ハム
06/09/13 18:00:43
他人と一緒にされているので、仕切りなおします。
>>329
> キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪であるか
> について、私は根源は贖罪であると主張します。
キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪とは関係がないと思います。
要理にも聖書にも、贖罪を根源とする利他心を述べる記述はなく、
キリスト教の教えにもそういったものはありません。
もし、聖書や要理、その他キリスト教の教えにそういった記述(贖罪との関連性)があれば、
ご教示いただけないでしょうか。
イエスが教えを広めた当初から利他性は重んじているので、
贖罪と結びつける必要はないと思います。
> この贖罪がなければ、イエスの神性や人類愛を説明できず、
何故でしょうか?
> この贖罪意識を善とするキリスト集団が・・過去の例であれば十字軍が、
> 現代の例であれば米軍が・・異教であるイスラム教とその信徒を粛清することや、
> その戦いで死ぬことを「善」と位置づけ、美化し肯定しているわけです。
それは違いますね。
>>289のとおり、十字軍については教皇が既に過ちを認めています。
イスラム教徒を粛清することは、カトリックは望んでいませんし、
そのような行為は肯定も美化もしていません。
少なくとも第二バチカン公会議以降、現代では他宗教を尊重しています。
これは私の考えではなく、カトリックの教皇の発言が根拠です。
339:考える名無しさん
06/09/13 18:19:34
>>337
じゃあ言い換えなくていいよ。
「利他心」なんていうのはそれこそ聖書にないから置き換えてあげただけ。
340:考える名無しさん
06/09/13 18:22:15
>>338
> キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪とは関係がないと思います。
> 要理にも聖書にも、贖罪を根源とする利他心を述べる記述はなく、
> キリスト教の教えにもそういったものはありません。
> もし、聖書や要理、その他キリスト教の教えにそういった記述(贖罪との関連性)があれば、
> ご教示いただけないでしょうか。
私は贖罪に関しては新約聖書四福音書を引用しています。
その贖罪精神が人類愛・隣人愛の教えに繋がっているということは
否定できないと言っています。
それが無関係だとすればキリスト教の教える人類愛・隣人愛は
聖書のどの記述から生まれてくる概念でしょうか?
私にはまずそれがわからないので、聖書のどこに
贖罪以外で、人類愛・隣人愛を述べる記述があるのかを
ご教示いただけないでしょうか。
また聖書やコーランなどに書かれてあることのみを、
根拠・行動規範とする態度は、原理主義と同じ思想であることは理解できますか?
341:油ハム
06/09/13 18:35:55
>>330
> 自己の生命すらその利他心・神への絶対信仰によって投げ出すことを美化
> するキリスト教的利他心は、現代のイスラム原理主義者が引き起こす
> 自爆テロと同列の危険思想であり、そのような利他心の肯定・誤謬を
> 人間に教えるキリスト教は邪教であり病理だ!というわけなんです。
利他心から自爆テロには繋がらないでしょう。キリスト教では自殺、殺人を禁じていますから、
少なくとも教義を守っているなら、自爆テロは行わないはずです。
もっとも、教義を守っていない信者はいるでしょうが、それは日本において犯罪者がいるのと同じです。
> むしろ人間の生命や意志を尊重し、肯定するものである。
これはキリスト教でも同じです。
他人の生命や意志を尊重し、肯定する立場です。
342:考える名無しさん
06/09/13 18:42:34
>>338 犬の匂いがプンプンするな・・
> >>289のとおり、十字軍については教皇が既に過ちを認めています。
> イスラム教徒を粛清することは、カトリックは望んでいませんし、
> そのような行為は肯定も美化もしていません。
> 少なくとも第二バチカン公会議以降、現代では他宗教を尊重しています。
> これは私の考えではなく、カトリックの教皇の発言が根拠です。
私はカトリックではないので教皇の発言について知りません。
まず、教皇の発言を簡便に述べることが具体性に繋がります。
書き方はこうです、
○○年にカトリックの教皇△△が「××」といっており、
それは、過去の十字軍の過ちを認めたものです。
過ちを認めた上で、「××」と発言しており、他宗教には干渉
しないと宣言しています。
わかりましたか?
次に、カトリック教皇の意向と現場のカトリック教徒の意向は
イコールで結べないと再三言っています。
代表者の意向=その組織の全体民意ではないと何度も私は書いています。
何度言えばわかりますか?
次に、現代の米軍はプロテスタントが58%でカトリック21%なのであり、
その少数派のカトリックの弁を大多数でしめる米軍のプロテスタント
に適応させることはできません。彼らもまた異教徒との戦いを聖戦
だと位置づけているわけです。
わかりましたか?
343:油ハム
06/09/13 19:04:09
>>340
キリスト教の教える隣人愛は、イエスの教えに由来するものです。
イエスが教えを広めている間、誰もイエスの贖罪を知らなかったので、
その教えは贖罪に依存するものではないのです。
マルコによる福音書12章28-31節
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
カトリックでは、聖書に書かれてあることをのみを根拠・行動規範にするわけではありません。
もちろん聖書は重要ですが、基本的には要理によります。
また、聖書やコーランなどに書かれてあることのみを
根拠・行動規範とする態度を原理主義呼ぶものだと思います。
344:油ハム
06/09/13 19:10:02
>>342
> カトリック教皇の意向と現場のカトリック教徒の意向は
> イコールで結べないと再三言っています。
教皇の意向に従うのがカトリックなので、
そうでないのならプロテスタントになります。
> その少数派のカトリックの弁を大多数でしめる米軍のプロテスタントに適応させることはできません。
プロテスタントという宗派はありません。カトリックは宗派の中では一番多いです。
プロテスタントはカトリック以外の小さな宗派を合わせたものです。
345:考える名無しさん
06/09/13 19:23:41
>>343
> マルコによる福音書12章28-31節
> 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
> イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
> 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
> 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
ようやくまともな根拠が出てきましたな。
これは生前にイエスが「神への愛」と「隣人愛」について述べたものです。
ここからは原理主義から離れます。
この聖書にある記述(神への愛と隣人愛)をキリスト教徒が疑わない理由はなんですか?
私はその理由は贖罪であると主張します。なぜならイエスの贖罪=
神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと
こそがイエスをキリスト=メシア=救世主であることを裏付けるからです。
言いっぱなしでもし贖罪がなければだれもイエスを救世主だとは思わず、
隣人愛は口だけ。自分の身のほうが大事なんだな・・ということになってしまいます。
イエスの神への愛・隣人愛を実践したのが自身の贖罪であり、
その行為がなければイエスはメシアにはならず、
口だけの嘘つきになってしまったでしょう。
つまり、イエスの贖罪行為こそが隣人愛・利他心を裏付ける決定的な根拠といえるのです。
346:考える名無しさん
06/09/13 19:27:10
>>344
> > その少数派のカトリックの弁を大多数でしめる米軍のプロテスタントに適応させることはできません。
カトリック以外のキリスト教宗派を総じてプロテスタントというのです。
いずれにせよ、カトリックの意向=プロテスタントの意向でもなく
カトリック教皇の意向=カトリック信者・プロテスタント信者全体の意向でもない。
ということはわかりますよね?
347:一言居士
06/09/13 19:34:58
>>341
自分の生命や意志はどうなのですか?
348:油ハム
06/09/13 21:14:30
>>345
> この聖書にある記述(神への愛と隣人愛)をキリスト教徒が疑わない理由はなんですか?
聖書にある記述を疑わないというのは理解しかねます。
そういう方もいらっしゃるでしょうが、疑う人も少なくはありません。
そもそも、法律でも、学問でも、道徳でも、疑う人もいれば疑わない人もいるものだと思います。
> 言いっぱなしでもし贖罪がなければだれもイエスを救世主だとは思わず、
> 隣人愛は口だけ。自分の身のほうが大事なんだな・・ということになってしまいます。
「贖罪」というのは生前の教えには存在していないので、
これは後付けによる解釈だと私は思います。聖書の記述では、隣人愛は口だけではなく、
生前に実行して(洗足など)いたので、自分の身のほうが大事ということにはならないでしょう。
349:考える名無しさん
06/09/13 22:00:36
>>348
いずれにせよ、贖罪はそのイエスの神への愛・隣人愛を語る上で
外すことができない重要な要素であることは、キリスト教徒ならよくわかるでしょう。
それがわからないというならお聞きします。
無関係であるとするその贖罪は一体何のために行われたのでしょうか。
私は一般的なキリスト教徒ならば、
贖罪と隣人愛が無関係とする論は異端であると考えますが。
350:考える名無しさん
06/09/13 22:08:15
贖罪は、
神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと
であり、
イエスが人類への愛や神への愛を全うする為に自身を命を犠牲にした
と私は解釈していますが。
この点について、神への愛・隣人愛は無関係だという論は
初耳なので参考までにその理由を聞かせてもらえますか。
351:考える名無しさん
06/09/13 22:13:27
>>349
>無関係であるとするその贖罪は一体何のために行われたのでしょうか。
これはイエスのみぞ知るところでしょうね。
一体何のために伝承として残ってるのか?吹聴して回るのか?
というのをあなたは問いたいのではないでしょうか。
それとイエスの磔刑による贖罪は、キリスト教徒にとって
普段は忘れ去られている(しかし無意識に刷り込まれている)
"切り札"みたいなものだと思います。
352:考える名無しさん
06/09/13 22:36:06
>>351
いえ私が聞きたいのは贖罪に対する解釈です。
贖罪論という名がつくほど、贖罪に関する解釈は多々存在しているのは
知っていますが、贖罪と隣人愛を無関係とする立場からみた贖罪観について
尋ねています。
贖罪の一般解釈は>>350でも書いてあるように、
神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと
であり、 イエスの贖罪行為の意味は、
イエスが人類への愛や神への愛を全うする為に自身を命を犠牲にした
と私は解釈していますが。
この点について、神への愛・隣人愛は無関係だという論は
初耳なので参考までにその贖罪の理由や解釈を聞かせてもらえますか。
353:油ハム
06/09/13 22:41:20
>>346
「プロテスタントはカトリック以外の小さな宗派を合わせたものです。」
という部分には同意なさっているわけですね。
ただ、プロテスタントの意向というのは、方向性が定まっていないので実質存在しませんし、
カトリックの意向とは違うからこそ、プロテスタントなのです。
354:考える名無しさん
06/09/13 22:42:20
むしろ関係があるという論拠を語ったほうがいいんじゃないの?
>神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだことであり、
これで贖罪は論理的には済んでるんですよ(救済論)。
償うため=>他者への愛を示すというような功利主義的な説明が出来ないのだよ。
これが他の宗教との(たとえばユダヤでもイスラームでもいいけど)一番大きな違いだって言うのは
哲学板的に常識だと思うんだけどなあ。
355:油ハム
06/09/13 22:50:31
>>349
> いずれにせよ、贖罪はそのイエスの神への愛・隣人愛を語る上で
神への愛と、隣人愛は違うので、一緒に扱わないほうがいいと私個人は思いますし、
贖罪は「神への愛」ならまだしも、隣人愛とは別だと思います。
あくまで贖罪がある前、生前の教えの一つですから。
> その贖罪は一体何のために行われたのでしょうか。
人間が犯した罪をリセットするためです。つまり贖罪によって、それまでの人間罪は許されました。
もちろん、その贖罪はイエスの隣人愛の一つであるという見方もできますが、
隣人愛が、その贖罪に依存しているわけではないと考えます。
356:油ハム
06/09/13 22:55:37
>>350
> 神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと
おっしゃる通りです。
> イエスが人類への愛や神への愛を全うする為に自身を命を犠牲にした
> と私は解釈していますが。
そこまでの理解は正しいと思います。
> この点について、神への愛・隣人愛は無関係だという論は
「神への愛」は無関係とは申し上げておりません。
「隣人愛」は無関係という言い方は不適切だったかもしれませんが、
隣人愛が「贖罪」に依存しているわけではないということを理解していただければと思います。
357:考える名無しさん
06/09/13 22:59:33
>>353
> カトリックの意向とは違うからこそ、プロテスタントなのです。
わかってるんじゃん。それが正解って最初からいってるでしょ。
○ カトリックの意向=プロテスタントの意向ではない
次はこれ
カトリック教皇の意向=カトリック信者・プロテスタント信者全体の意向でもない。
>>354 お、また犬に成り下がったのかねww
> むしろ関係があるという論拠を語ったほうがいいんじゃないの?
過去レス参照。
贖罪=イエスの利己的動機ではなく、利他的動機によってなされた。
とこちらは主張している。キミは
贖罪=イエスの利他的動機ではない=利己的動機かもしれない
といっているのかね。それを聞いたら一般キリスト教徒が黙ってませんよとw
> 哲学板的に常識だと思うんだけどなあ。
解釈の問題は哲学では重要なことなんだよw
ある命題における定義が違う者同士では議論にならない。
よって、「贖罪は隣人愛と無関係か」という命題があった場合、
まず「贖罪」の定義・解釈について明らかにしなければならない。
私の解釈は、「神への罪から救うためにキリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと」
であり、「イエスが人類への愛や神への愛を全うする為に自身を命を犠牲にした」である。
次にキミの解釈はなんだねと聞いている。わかったかい?
358:油ハム
06/09/13 23:00:10
>>354
> これで贖罪は論理的には済んでるんですよ(救済論)。
仰るとおり、贖罪はもう終わっており、信徒がすることではないです。
信徒がするべきことは、隣人愛の方で贖罪ではないのです。
359:考える名無しさん
06/09/13 23:03:01
>>357
>>>354 お、また犬に成り下がったのかねww
それ別の人。キミに狂犬と呼ばれている俺じゃないよ。念のため。
360:考える名無しさん
06/09/13 23:07:41
>>355
> 神への愛と、隣人愛は違うので、一緒に扱わないほうがいいと私個人は思いますし、
> 贖罪は「神への愛」ならまだしも、隣人愛とは別だと思います。
ええと、「全人類に代わって死ぬこと」が、人類に対する愛=隣人愛
と私は解釈しますし、この論理性に不整合はないと思いますが。
> 隣人愛が、その贖罪に依存しているわけではないと考えます。
> 贖罪はイエスの隣人愛の一つであるという見方もできます
ならば無関係という部分を訂正しなくてはいけませんね。
相関性が高いか低いかという議論はナンセンスでありますが
無関係ではないのならそもそもの反論の意味がよくわかりませんね。
とにかく反発したいということでなければ、そもそもの文
> キリスト教的利他心の根源はイエスの贖罪であるか
> について、私は根源は贖罪であると主張します。
について、根源は贖罪であるともいえるわけです。
361:考える名無しさん
06/09/13 23:25:52
>>357
イエスの贖罪は、神による神の「身代」=犠牲の子羊だっていうのが普通なわけだが。
一般キリスト教徒が黙ろうが黙るまいが普通に考えられていること。
そこに「利己」とか「利他」とかいう話を入れてはいけないのだよ。
362:考える名無しさん
06/09/13 23:33:58
>>361
そもそもキリスト教は利他的である。
という議論から始まったから、利己や利他について
言及するのがむしろ本題なのだよ。
で、私はキリスト教は利他的だという立場から、
その象徴であるイエスの贖罪も利他的だと言っているわけ。
簡単にいうと、
誰かの罪を償うために自身の命を犠牲すれば
その行為は、イエスでなくとも利他的と言わざるをえないのだよ。
その利他心の裏づけ・動機付けとして、イエスの場合は神への愛や隣人愛
によってなされたと言っているわけ。
で、キミはそうではない、贖罪はそのような利他心とは関係ないと言い出したわけ。
ここまではわかるかな?
363:油ハム
06/09/13 23:36:14
>>360
> ええと、「全人類に代わって死ぬこと」が、人類に対する愛=隣人愛
「全人類が死ぬ」のを代わって死ぬわけではなく、全人類の罪を背負って死ぬことです。
これを人間がするべきということではないですし、人間にはできないこととされている(あくまで
キリスト教の教義の中での話です)ので、イエスが教えた隣人愛とは別に考えたほうがいいと思います。
364:考える名無しさん
06/09/13 23:40:21
>>362
>>361もキミに狂犬と呼ばれている俺じゃないよ。念のため。
365:油ハム
06/09/13 23:45:15
>>362
> で、私はキリスト教は利他的だという立場から、
> その象徴であるイエスの贖罪も利他的だと言っているわけ。
これは同意です。
> 誰かの罪を償うために自身の命を犠牲すれば
> その行為は、イエスでなくとも利他的と言わざるをえないのだよ。
利他的ではありますが、隣人愛とは違うと思います。
教義では、その身を犠牲にしようとも、愛がなければ無意味となっています。
366:考える名無しさん
06/09/13 23:51:32
>>363
だから、全人類の罪を背負って死ぬことは
全人類に対して愛情を持ってたからでしょ。
隣人を愛せずして、人類の為に自身の命を捧げることはできないでしょうが。
普通に考えればわかると思うが、
「ある人間AがBの罪を自ら背負って死んだ」
この人間の動機について考えれば、その人間Aは、
1)Bに無関心だった
2)Bに憎悪していた
3)Bに愛情をもっていた
答えはどれでしょう。
贖罪ではAはイエス。Bは全人類。
答えは3)の愛情をもっていた。
キリスト教ではその人間への愛を隣人愛と言う。
わかったかい?
367:考える名無しさん
06/09/13 23:54:56
他のクリスチャンにも聞きたいね。
全人類の罪を背負って死ぬことについて、
1)イエスは全人類を愛していたから罪を背負った
2)イエスは全人類を愛していなかったから罪を背負った
答えはどれだい?w
馬鹿馬鹿しくてやってられんなやっぱり。
368:考える名無しさん
06/09/14 00:02:10
そこで田川建三のパウロ解釈ですよ。
神様の怒りをおさめるために、神の子を、神が自ら神に生き血を捧げた、っていうやつ。
ここにはイエスの「主体」=決断はないから、贖罪ドグマは、隣人愛ドグマとは別個に議論できるっていうやつ。
納得するけどね俺は。
369:油ハム
06/09/14 00:02:47
>>366
> だから、全人類の罪を背負って死ぬことは
> 全人類に対して愛情を持ってたからでしょ。
「イエスの場合」は全人類に対して愛情を持っており、かつ贖罪したということです。
「全人類の罪を背負って死ぬ」ことが、必ずしも全人類に対して愛情を持っていたことにはなりません。
AならばBであっても、BならばAではないのです。これはわかりますよね。
> 隣人を愛せずして、人類の為に自身の命を捧げることはできないでしょうが。
できると思います。愛とは別の感情によっても可能だと思います。
> 普通に考えればわかると思うが、
> 「ある人間AがBの罪を自ら背負って死んだ」
> この人間の動機について考えれば、その人間Aは、
> 1)Bに無関心だった
> 2)Bに憎悪していた
> 3)Bに愛情をもっていた
> 答えはどれでしょう。
Aがイエス以外なら、答えはいろいろあると思います。
> 贖罪ではAはイエス。Bは全人類。
> 答えは3)の愛情をもっていた。
> キリスト教ではその人間への愛を隣人愛と言う。
イエスは隣人愛と、贖罪を持ち合わせていたと言うことです。
ただし、この贖罪は人間には不可能だとされていますので、
信徒ができる隣人愛とは別になります。
ただ、どちらもイエスが行った、という程度の関係性はあると思います。
370:いんちきクリスチャン
06/09/14 00:19:34
私は、贖罪と隣人愛は明らかに関係あると思うけどな。
「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」(ヨハネ15:13)
371:考える名無しさん
06/09/14 00:20:45
そもそも、イエス自身の口からは、「隣人愛」ということばが発せられたことは殆どないわけだが。
372:考える名無しさん
06/09/14 00:24:19
>>368
> ここにはイエスの「主体」=決断はないから、贖罪ドグマは、隣人愛ドグマとは別個に議論できるっていうやつ。
イエスに主体性がなく決断力もないなら
聖書に書かれているイエスの言動そのものが・・
つまりキリスト教そのものが崩壊しますねw
>>369
> 「イエスの場合」は全人類に対して愛情を持っており、かつ贖罪したということです。
> 「全人類の罪を背負って死ぬ」ことが、必ずしも全人類に対して愛情を持っていたことにはなりません。
> 「イエスの場合」は全人類に対して愛情を持っており、かつ贖罪したということです。
この言及で言えば、AとBはなんだね。まずこれを定義すべきなのでは?
私はA=原因、B=結果を定めて、
人類愛(原因)によって贖罪(結果)をしたと言っている。
>> 隣人を愛せずして、人類の為に自身の命を捧げることはできないでしょうが。
> できると思います。愛とは別の感情によっても可能だと思います。
例えばなに?自殺?それは人類(自己を含む)への愛ですよ。
> イエスは隣人愛と、贖罪を持ち合わせていたと言うことです。
その通り。でその隣人愛の最大イベントが贖罪なのです。
贖罪以上の隣人愛はないと言っても過言ではないでしょう。
どうしても、贖罪と隣人愛を分けたいみたいだね。
>>367の問いに答えてみて。
373:いんちきクリスチャン
06/09/14 00:30:49
私は、贖罪と隣人愛は全く関係ないと思うよ。
「人は自分のためだけに命を捨てるべきである。これよりも大きな神の意志はない」(ヘブライ9:22)
だって知り合いがそういんだから絶対ただしいよ!
374:油ハム
06/09/14 00:36:17
>>372
> 人類愛(原因)によって贖罪(結果)をしたと言っている。
動機と行動ですね。イエスの場合、その程度の関連性はあると思います。
ただイエスという限定を外すと、人類愛と贖罪は繋がらないということ、
また、人類愛のあり方は贖罪だけではないこと、贖罪すれば人類愛があるわけではないこと
に気をつける必要があります。その点が理解されているようであれば、
関連性があるといっても誤解は生じないと思います。
> 例えばなに?自殺?それは人類(自己を含む)への愛ですよ。
申し訳ありませんが、仰っていることの意味がわかりません。
> どうしても、贖罪と隣人愛を分けたいみたいだね。
信徒ができるのは、隣人愛の方だけですから、一緒になると違和感を感じます。
イエスキリストに限定すれば、動機と行動と言う意味での関連性があるとは思いますが、
どいういう関連性があるかの説明がないと誤解を招くような気がします。
375:狂犬予防対策本部
06/09/14 00:37:02
>>370,373
自演乙ww
>>367
> 1)イエスは全人類を愛していたから罪を背負った
> 2)イエスは全人類を愛していなかったから罪を背負った
> 答えはどれだい?w
これ2だと答える馬鹿はいないよね。
なんでこんな簡単なことでもめてるの?w
> 馬鹿馬鹿しくてやってられんなやっぱり。
同感。また狂犬のわけのわからん噛み付きかもねw
376:考える名無しさん
06/09/14 00:43:51
>>372
>つまりキリスト教そのものが崩壊しますねw
現代聖書学の教義理解は多様で、それを受ける「教会」側もタフだから全然崩壊しません。
377:考える名無しさん
06/09/14 00:51:19
>>374
> 動機と行動ですね。イエスの場合、その程度の関連性はあると思います。
ほう、
> AならばBであっても、BならばAではないのです
動機=A、行動=Bだと。
隣人愛(動機)ならば贖罪(行動)であっても、
贖罪(行動)ならば、隣人愛(動機)ではないと言いたいのかな?
であるなら、隣人愛(動機)ならば贖罪(行動)は正しいという論は
認めているわけね。それで結構。
> ただイエスという限定を外すと、人類愛と贖罪は繋がらないということ、
「イエスと、イエスをキリストだと崇めるキリスト教徒」という限定を外すと
は繋がらないということ。なら理解可能ですね。
イエスの行動は彼ら一般教徒の規範でもあるわけです。
> 申し訳ありませんが、仰っていることの意味がわかりません。
隣人を愛せずして、人類の為に自身の命を捧げることができる。
愛とは別の感情によっても可能。とキミは言っているね。
それは一体なんだ?と聞いている。
> 信徒ができるのは、隣人愛の方だけですから、一緒になると違和感を感じます。
まず>>367の問いに答えてみて。
で、一般教徒に同じ問い(イエスのどのような動機で贖罪したのか?)を
尋ねられたらキミはなんと答えるのだね?
378:考える名無しさん
06/09/14 00:58:24
あ~眠くて日本語がおかしい・・。もっとこう目が覚めるような反論はないのかね・・
>>377
> 「イエスと、イエスをキリストだと崇めるキリスト教徒」という限定を外すと
> は繋がらないということ。なら理解可能ですね。
→「イエスと、イエスをキリストだと崇めるキリスト教徒」という限定を外すと
人類愛と贖罪は繋がらないということ。なら理解可能ですね。
> で、一般教徒に同じ問い(イエスのどのような動機で贖罪したのか?)を
→で、一般教徒に同じ問い(イエスがどのような動機で贖罪したのか?)を
379:考える名無しさん
06/09/14 01:06:19
>>377
神の子イエスの行動のうち<贖罪>は、一般教徒の規範じゃないんだよ?
なんかあなたズッーっとずれてるなあ
380:考える名無しさん
06/09/14 01:18:12
>>379
> なんかあなたズッーっとずれてるなあ
ズラではないよ。
規範という言葉が誤解を生んだのかもしれない。
イエスの言動をその教徒は美化肯定している。と訂正します。
キリスト教徒はイエスの隣人愛も贖罪も美化し、
肯定しているのです。
まあ正論だと釣れないのであえてずらしている面もありますがねw
381:油ハム
06/09/14 01:19:57
>>377
イエスの行動においては、贖罪と隣人愛は関連はあると思います。
ただ、信徒の教義としては、関係性が見当たらないと思います。
> イエスの行動は彼ら一般教徒の規範でもあるわけです。
奇跡を起こすことや、贖罪することが規範ではないので、
「行動の一部」が規範になります。
> それは一体なんだ?と聞いている。
個人の心情はさまざまなので限定することはできないですが、
死への願望など、いろいろあると思います。
> まず>>367の問いに答えてみて。
・イエスは、人間を愛しておられた。
・イエスは、人間の、神に対する罪を背負った。
この2点は間違いないと思います。
382:考える名無しさん
06/09/14 01:41:26
要するに整理すると、
a)イエスの場合は贖罪と隣人愛の関連性は認める。
b)しかし一般教徒の場合にはそのような関連性はなく、
c)隣人愛は美化も肯定もする が
d)贖罪は美化も肯定もしていない し
e)そのような行為は行わない
という回答でよろしいかな?
今まではa)を認知してもらうために議論していたわけで
今後もうa)の結論をひっくり返すなよ。と。
次に、d)贖罪は美化も肯定もしていない。e)そのような行為は行わない。
について、私は>>329 において、
> 贖罪意識を善とするキリスト集団が・・過去の例であれば十字軍が、
> 現代の例であれば米軍が・・異教であるイスラム教とその信徒を粛清することや、
> その戦いで死ぬことを「善」と位置づけ、美化し肯定しているわけです。
と述べており、キミが「カトリックの教皇の発言」を提示して反論したわけだが、
その反論の具体性について、>>342にて反論している。と。
んで、
・カトリックの意向=プロテスタントの意向ではない・・・これはおk
・カトリック教皇の意向=カトリック信者・プロテスタント信者全体の意向でもない。
ということはわかりますよね?
383:368
06/09/14 01:42:24
大体、話の枠はカトリックな人の油ハム氏の>>381の答えで見えてきたんじゃないの。
で、油ハムさんに一つ質問いいかな?
>>343のマルコの「隣人愛」の部分だけど、ルカだと、イエスじゃなくて質問者のユダヤ律法者に対して、
イエスがさらに反問して(「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」)、
それにつられて、律法者のほうが答えるかたちをとってるんだよね(10章25-37)。
ここらへんの福音書テキストのズレに着目して、田川はルカのテキストを採用し、
「隣人愛」というのは、ユダヤ教的伝統であって、当時そういう紋切型の発想に辟易してたイエスは
(ほら、あなたポピュラーな話だから知ってるでしょ)という感じの軽い嫌味風の反問を
繰り出した(つまり「イエスは愛の説教者ではない」)、
なんて言ってるんだけど(田川、『イエスという男』)、こういうイエス解釈はどう思いますか?
384:油ハム
06/09/14 02:05:09
>>382
> a)イエスの場合は贖罪と隣人愛の関連性は認める。
どういう点で関連性があるのかが不明だと誤解(教義に関連性があるように誤解される可能性)を
招きそうです。関連性について適切な説明があれば良いと思います。
b)については合意されていると思います。
c),d),e)の主語は何でしょうか?
> ・カトリックの意向=プロテスタントの意向ではない・・・これはおk
> ・カトリック教皇の意向=カトリック信者・プロテスタント信者全体の意向でもない。
意向についてまとめるとこうなります。
・カトリック教皇の意向=カトリック信者の意向≠プロテスタントの各宗派の信者の意向
・プロテスタントの宗派Aの信者の意向≠プロテスタントの宗派Bの信者の意向
385:考える名無しさん
06/09/14 02:09:57
>>368
> ここにはイエスの「主体」=決断はないから、贖罪ドグマは、隣人愛ドグマとは別個に議論できるっていうやつ。
田川建三か・・これかい?w
「イエス・キリストの教えに従って生きる」などという言い方を、キリスト教徒はよくする。
ところが、パウロは書簡の中でイエスの生前の言動には一言も触れていない。
パウロ書簡はおそらくすべて福音書よりも先に書かれたので、パウロはイエス言行録の
存在を知らなかった可能性もあるが、むしろかれは生前のイエスへの関心をきっぱりと
否定している。一方、福音書には贖罪論が、主題としてはでてこない。イエス自身が
それを口にしないのは当然だが、不思議なことに受難物語にさえ、贖罪信仰の影響は
ほとんどみられないのである。福音書編纂の目的は贖罪論の宣伝普及とは全く別の
ところにあり、また受難物語そのものも贖罪信仰とは無関係に伝承されていたのだ。
新約聖書には実は、このように明確に異なる二種類の思想的産物が同居しているのである。
イエス信仰と贖罪信仰は、内容的に無関係なのだ。これは、よく考えてみれば重大なこと
ではないか。イエスがわれわれの罪の身代りであることと、われわれの人生の導き手で
あることとの間には、必然的関係がない?!
いや、実際は関係がないどころではない。パウロ書簡と福音書の成立は原始キリスト教内
における厳しい思想的相克を反映しているのだ。倫理主義の桎梏を断ち切ることに救いを
見出したパウロにとっては、十字架上のイエスの死とその後の復活こそが唯一の信仰の
対象であり、生前のイエスについて語ることは「イエスの教え」を絶対化する教条的倫理主義
に陥る危険を孕むがゆえに、厳に戒めなければならない。それに対して、イエスを主人公に
した物語を著すという行為は、十字架贖罪論に包摂されえないイエスという人間の生の現実
に救いの根拠を求めることを意味する。両者の立場は根本的に相容れないのだ。
ここにキリスト教の本質的自己矛盾がある。信ずるべきは人間イエスか、それとも十字架の
キリストか―この抜き差しならない難問に、キリスト教は答えをだす必要があった。
386:考える名無しさん
06/09/14 02:21:19
>>384
> どういう点で関連性があるのかが不明だと誤解(教義に関連性があるように誤解される可能性)を
> 招きそうです。関連性について適切な説明があれば良いと思います。
せっかく>>368さんが田川建三さんの面白い論を提出しているのだから
そちらに議論を移しても構わないが(この話題はつまらんw)
キリスト信仰と贖罪論についての関連性は>>385にて。
> b)については合意されていると思います。
いえ、していませんが。
> c),d),e)の主語は何でしょうか?
主語はキリスト教信者です。
> ・カトリック教皇の意向=カトリック信者の意向≠プロテスタントの各宗派の信者の意向
カトリック教皇の意向=カトリック信者の意向について、
まず、教皇の発言について知らないので提示していただけませんか。
次に、代表者の意向=その組織全体の意向ではないと何度も言っていますが。
(根拠は過去レス参照)
387:油ハム
06/09/14 02:23:32
>>383
私個人は、嫌味ではなく、気がつかせるために話したのだと思います。
イエスは「ユダヤ教」を否定していたわけではないと思います。
マタイによる福音書5章17節
わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。
廃止するためではなく、完成するためである。
388:油ハム
06/09/14 02:33:00
>>386
> > b)については合意されていると思います。
> いえ、していませんが。
了解しました。
> まず、教皇の発言について知らないので提示していただけませんか。
膨大な量があるのでとりあえず、これぐらいでよろしいでしょうか。
URLリンク(www.cbcj.catholic.jp)
> 次に、代表者の意向=その組織全体の意向ではないと何度も言っていますが。
一般的な組織の場合、その図式が成立します。
しかし、教皇の意向と同じでない集団は、カトリックにはなりません。
プロテスタントということになります。
・教皇の意向=ある組織の意向→カトリック
・教皇の意向≠ある組織の意向→プロテスタント
ということです。
389:考える名無しさん
06/09/14 02:37:31
キリスト信仰と贖罪論の融合についてでもいいのだが・・
ニーチェからどんどん離れてゆくというジレンマが・・w
寝よ・・
390:一言居士
06/09/14 11:13:26
油ハムさん、キリスト教は利己心、自己愛などについてどう捉えているのか教えていただけますか?
391:考える名無しさん
06/09/14 13:00:16
>>388
> 膨大な量があるのでとりあえず、これぐらいでよろしいでしょうか。
> URLリンク(www.cbcj.catholic.jp)
悪いが、まずどの教皇の発言なのだね。次にいつの年代の発言かな?
多数いる教皇の膨大に有る発言から「他宗教無干渉」のみを探すのはそれを知らないものに
とっては極めて困難だろう。知っているなら乗せるのは簡単なはずだと思うが。
あと現教皇ベネディクト十六世はイエスの復活=奇跡を述べておるぞw
> 奇跡を起こすことや、贖罪することが規範ではないので、「行動の一部」が規範になります。
これに矛盾するんじゃないのかね。
URLリンク(www.cbcj.catholic.jp)
教皇ベネディクト十六世の2006年4月16日の復活祭メッセージ(ローマと全世界へ)
「あのかたは、ここにはおられない。復活なさったのだ」(Non est hic, sed resurrexit!)。
このルカによる福音書24章6節からとられたことばは、復活祭メッセージ本文にも引用されています。
あのかたは、ここにはおられない。復活なさったのだ(Non est hic, sed resurrexit)」(ルカ24・6)。
この朝以来、このことばは、喜びを告げ知らせるために、全世界にあらためてこだまし続けています。
この喜びは、世々に変わることがありません。同時にこの喜びは、限りのない、常に新しいこだまを響かせています。
392:考える名無しさん
06/09/14 13:02:00
教皇の発言はほとんど聖書の引用だな。
URLリンク(www.cbcj.catholic.jp) 「教皇ヨハネ・パウロ二世の遺言」
1978年10月16日という日に枢機卿たちのコンクラーベがヨハネ・パウロ二世を選んだとき、ポーランドの
大司教であるステファン・ウィスチンスキ枢機卿がわたしにこう言った。
「新しい教皇の課題は、教会を第三千年期に導くことであろう」。
「勝利に至るなら、その勝利はマリアによる勝利である」。
URLリンク(www.cbcj.catholic.jp)
教皇ベネディクト十六世=現教皇 2005年12月25日の降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)
「人よ、目覚めなさい。神はあなたのために人となったからである」(Expergiscere, homo: quia pro te Deus factus est homo!)。
「わたしは・・・・大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2・10-11)。
「実際、人間の秘義は肉となられたみことばの秘義においてでなければ、ほんとうに明らかにはならない」(『現代世界憲章』22)。
393:考える名無しさん
06/09/14 13:14:57
ここで考慮しなければならないのは、
教皇の発言=カトリック信者全体の意向ならば、
まず現教皇はイエスの復活=イエスの奇跡を肯定している。
よってカトリック信者もその奇跡を肯定しているのである。
次の落としどころは教皇の贖罪に関する発言だな・・
教皇が贖罪に関して否定的しない=肯定する場合、
キミの論理だと、カトリック信者全体の意向は贖罪を肯定するわけだね。
面倒だけど探してみるかw
394:考える名無しさん
06/09/14 13:22:36
>>393
訂正
> 教皇が贖罪に関して否定的しない=肯定する場合、
教皇が贖罪に関して否定しない、もしくは肯定する場合、
395:考える名無しさん
06/09/14 13:28:30
キリスト教は贖罪によって解体され
カトリックは教皇の発言によって解体されるw
396:油ハム
06/09/14 13:35:15
>>391
> 悪いが、まずどの教皇の発言なのだね。次にいつの年代の発言かな?
どのような発言をお探しですか?
> 多数いる教皇の膨大に有る発言から「他宗教無干渉」のみを探すのはそれを知らないものに
> とっては極めて困難だろう。知っているなら乗せるのは簡単なはずだと思うが。
知っていても困難です。ヨハネパウロ2世ということは知っていますが、
そこから先探す苦労は、貴方でも私でも同じです。
その発言があるかどうかによって、貴方の意見が変わるなら探す価値がありますが、
変わらないなら徒労に終わってしまうでしょう。
> あと現教皇ベネディクト十六世はイエスの復活=奇跡を述べておるぞw
別に問題はないと思います。
> > 奇跡を起こすことや、贖罪することが規範ではないので、「行動の一部」が規範になります。
これは、「信徒が」奇跡を起こすことや贖罪をするようにするための規範ではないと
いう意味で申し上げました。
397:考える名無しさん
06/09/14 13:37:42
>>393
前代のヨハネ=パウロ2世なんか進化論を肯定してたけど
398:油ハム
06/09/14 13:42:12
>>393
> 教皇の発言=カトリック信者全体の意向ならば、
ということを特に条件づけなくても、
> まず現教皇はイエスの復活=イエスの奇跡を肯定している。
> よってカトリック信者もその奇跡を肯定しているのである。
こちらの通りです。イエスの復活を信じているのはカトリックの特徴です。
また、贖罪に限らず、肯定否定に限らず、
キリスト教徒の中で、教皇の意向と同じ意向を持つ者が、カトリック信者になります。
これはどちらかというと定義に近いです。
399:考える名無しさん
06/09/14 14:27:44
>>397
> 前代のヨハネ=パウロ2世なんか進化論を肯定してたけど
これね。根拠の提示とはこういうことを意味します。
URLリンク(www.christiananswers.net)
1996年10月23日、ローマ教皇ヨハネ・パウロI2世は、
「新たな知識により、進化論を単なる仮説以上のものとして認識するにいたった」
と公式に教皇庁科学アカデミーに対して述べました。
教皇は、神様のみが人間の魂を造ることができることを支持するならば、
創造と進化は矛盾なく、両立すると語ったのです。
教皇の発表は、イエスや使徒の教え、そしてローマ・カトリックに非常に
重要な意味を持つ教会の伝統にさえも矛盾するものです。
この教えによれば、アダムが文字どおりエデンの園で、文字どおりに堕落したために、
この世に死と苦しみがもたらされることになったのです。
だからこそ、キリストが受肉し、われわれの罪のために死ななければならなかったのです=贖罪。
進化は、その死、すなわち「最後の敵」(コリント一15:26)が、
実際に神の「非常によかった」創造(創世記1:31)の一部であると見なしているのです。
400:考える名無しさん
06/09/14 14:41:17
>>399
リンク先見ると、興味深い点があるな。
教皇は本当に進化が仮説以上のものであると言ったのでしょうか?
実は、一般メディアが教皇の声明を間違えて解釈した可能性があるのです。
ほとんどのローマ・カトリックの学校で、進化が教えられています。
ですから、教皇には全般に進化を受け入れる向きがあるのです。
ことにローマ・カトリック教会は、聖書を最終権威と見なしていません。
ローマ・カトリック教会は、テモテ第二3:15-17に反して、
生きるための指針として聖書は十分ではないと明確に言っています。