06/07/15 21:58:23
実存と文章について興味深いことは、
文章で実存(イマココ)を説明しようとすると「そのときその場所で」と説明せざるを得ないということだと思っています。
(これを理解せずに概念的に解された実存(一般的ないまここ=そのときその場所で)を論ずると思弁的になって躓く)
そして、実存伝達とはそれを避けるために三人称的な話し方をする、ということでしょうか。
文章内で一人称や二人称を使うと、実存についてのニュアンスが蒸発してしまう(実存と文章と対照性の関係)。
そこで、第三者が、第三者について語るということでしょうか?
ラカン的な去勢の図式(あんまり理解できてないけど)を私は念頭に置いているのですが。
読者―(同一化しようとする)→イエス(母あるいはシーニュ?)―(読者の見ていないものを表現する)→罪ある女(ファルス?)
>>707
内容の同一性にこだわる契約(≪同じ≫契約、通常の意味における契約)の思想家に対置して、
(あるいはクロノス、簡単に言うと「今は流れ行く」)
空虚な形式の同一性に賭ける契約(≪等しい≫契約?)の思想家という意味でしょうか?
(あるいはアイオーン、簡単に言うと「今だけが在る」)
だとすると、ノマドという言葉は後者を指しているはずですから、
それ(>>707)ドゥルーズの意見だといえると思うのですが。
ニーチェもドゥルーズもキルケゴールも学びかけ(ていうか独学だよチクショウ)なのでいいかげんなことを書いているかもしれません。
間違っていたら、お手数ですが訂正ください。